1990年09月23日(日) |
棚卸 −精神科入院− |
約1ヶ月の入院。 たまに当時付き合っていた彼が面会に来てくれた。 私が眠っているので、起さずに暫く居て帰ってしまったこともあった。 そんな日は泣きながら彼に電話していた。
入院の事は、兄にだけ話した。 祖母には絶対に言わないで欲しいと言うと、兄も十分分かってくれていて、祖母には黙ってくれていた。
医師は、「おばあさんに言わないと治らないよ。」と言う。 結局の所、祖母の期待に応えようとして頑張って頑張って自分を追い詰めて壊れてしまったからだ。 看護学校での出来事は、きっかけに過ぎなかったのだ。
私は、それだけはどうしても拒んだ。 祖母には絶対に言えない。 成績優秀で良い子な私に失望してしまう。 私が失望されるのが怖かった訳ではない。 失望してしまった祖母はどうなってしまうだろう?という不安だった。
私は、声にして思いを伝える事が出来なかった。 私は外出自由だったので、落書き帳を買って来て、とにかく心の叫びを書きなぐった。
さみしい さみしいの 私、いい子なんかじゃない 消えたい 消えたい じいちゃんの夢も叶えてあげたい けれど、私にはもうムリ 消えたい 消えたい 私だって、正看取りたい 国家試験に受かるだけの学力は十分ある でもムリなんだ 消えたい 消えたい さみしい さみしい いい大人がこんな事、甘えてるって分かってる でもさみしい こわい 消えたい 私の存在を消して
そんな事を毎日の様に書きなぐりながら、ついに看護婦さんにそれを見せた。 医師は、「やっぱりおばあさんに話さないといけないよ。」と言ってきた。
嫌がる私を余所目に、医師は祖母に連絡し、祖母に話をした。 「お前だけは真面目にやってくれてると思ったのに。」 やはり、祖母の口からはそんな言葉が出てきた。
入院生活、やはり不安で堪らなかった私は、空いているカウンセリングルームを借りて、特別に消灯時間が過ぎてもそこで勉強させてもらった。 まだ、実習に復帰するつもりでいた。 なんとか正看だけはとりたい。そう思って。
偶然にも、そこの病院に准看の学校時代の同級生の男の子が夜勤のバイトをしていた。 働きながらでなくていい昼間の正看の学校に通っていたのだ。 ほとんど話した事もなかった子だったけれど、彼には本当に救われた。
私がカウンセリングルームで勉強している時、トイレに行っている隙に、マグカップにアイスコーヒーを入れたりしてくれていた。 眠れなくて、ナースステーションのすぐ前にある喫煙所で煙草を吸っていると、ポテトチップスの袋を持っておいでおいでをする。 私は、ナースステーションに入れてもらって、「どうせ暇だから」という彼と他愛も無い話をしたりした。 全く食欲も無く、食事もほとんど食べていなかった私だったけれど、「たこやき食うか?」と彼がデリバリーしてくれたたこやきはぺロリとたいらげた。 「お前の病気は遊んだら治るって。」と、遊びに誘われた。 「俺の車は危険日と生理の日は鍵が開かないようになっているからな。」 と・・・ 私は、お言葉に甘えて、彼にドライブに連れて行ってもらった。 勿論、生理の日に・・・ 色々と女遊びが激しい子だったので、あまり良い評判は無かったけれど、彼には本当に救われた。
1990年09月22日(土) |
棚卸し −精神的疾患発病− |
正看の学校は3年。 最初の2年は普通の授業で、3年目は病院実習。
自慢ではないけれど、正看の国家試験を想定した学力テストでは学年100人中2位を取った程成績は優秀だった。
3年目の実習では、毎日レポートに追われた。 看護目標を立てて提出し、看護計画を立てて提出し、実施して提出し、評価して提出し・・・ その繰り返し。 看護学校の先生に提出するのだけれど、出来が悪ければ赤ペンで添削されて返って来るので修正して再度提出しなければいけない。 担当の先生は、実習に行く科が変わる度に変わる。 大変ではあったけれど、まずまず順調に進んでいた。
辛い実習も半年頑張ってきた頃、何科の実習だったか忘れてしまったけれど、担当の先生は厳しい先生だった。 レポートを出す度に真っ赤に添削されて返って来る。 私は、寝る間も無くレポートの修正を繰り返した。 先生に要求される様に書くと、本当に本当に小さい字で書いても、レポート用紙に納まらない程の膨大な量になる。 いくら寝ずに修正・追加して提出しても、何度も何度も真っ赤になって返ってくるレポート。 同じグループの子たちは、修正しても1回程度でOKが出ていた。 どうして私はダメなんだろう? レポートが真っ赤になって返ってくる度に絶望感に襲われた。 どんどんと追い詰められていっていたある日、いつもの様にレポートの修正をしていると、突然シャープペンシルがポトリと落ちた。 手に力が入らない。 シャープペンシルが持てない。
翌日、体調不良と実習を休んだが、他の物は持てても、どうしてもシャープペンシルが持てない。 激しい動悸に襲われる。 もう、レポートに向かうのが怖くて堪らなかった。 逃げたくて堪らなかった。 死にたくなった。 でも、父親代わりだった祖父を自殺で失った私は、家族が自殺した後、残された者がどれだけ辛く苦しい思いをするのか自分自身思い知っていた。 ましてや、これまで手の掛からない祖母の自慢の良い子な私が自殺なんてしたら・・・ それを思うと、消えたくて堪らなくなった。 誰の記憶からも私という存在を消し去ってしまいたい。 消えたい・・・消えたい・・・ それしか考えられなくなっていた。
何日実習を休んだだろう? もうどうしようもなくなり、先生に全て正直に打ち明けた。 先生からは思いもよらない言葉が返って来た。
「きゃさりんさんのレポートは、誰よりも良く出来てたの。だから、きゃさりんさんならもっと出来ると期待していたの。」
その言葉を聞いて、またうなだれた。 ほとんど寝る事も出来ず、シャープペンシルが持てなくなる程まで追い詰められて書いてきたレポート・・・ 他の皆はどんどん進んで行くのに、私だけ前に進めずに毎日毎日真っ赤になって返って来るレポートの修正に追われた。 それなのに、誰よりも良く出来ていたなんて・・・
先生の勧めで心療内科を受診すると、病名は「不安神経症」。 入院することになった。 この時私は23歳。
高校を卒業すると、実家を出て、病院の寮に入り、働きながら看護学校に通った。 朝から昼まで看護助手として仕事をして、昼から夕方まで学校に行く。 学校が終わった後は仕事も無く、待遇は良かった。 給料は手取りで月5万だったが、寮費も食費も引かれてだったので、十分生活はしていける。 けれど、食事と言っても病院食。自分で食事を買ってくる事も少なくなかった。 遊ぶお金も欲しいし、私は学校が終わった後、宴会コンパニオンとスナックでホステスを始めた。 忙しい日々だったけれど、それなりに楽しんでいた。
ある日、看護学校で、精神科の授業の時、躁鬱病について習った。 躁鬱病は、回復期に自殺企図の傾向が高いと・・・
祖父は、回復期にあったのだ・・・ もう少しで・・・ もう少し何とかしてあげられていたら・・・ 祖父は死んでいなかったかもしれない・・・
そして、鬱などの人に対して、「頑張れ」などという励ましの言葉を決して言ってはいけないと。 頑張って頑張って、それでも頑張れない状態になっているから病気になっているのだから。 頑張れない自分に対しても、本人が一番憤りを感じているのだからということだった。
私は、他の家族は、祖父に対して励ましの言葉をかけてはいなかっただろうか・・・ 思い出せない・・・ もし言っていたとしたら・・・ 祖父はどんなに辛い思いをしただろう・・・
私は、震えが止まらなくなった。 涙が出そうになった。
この事は、家族には言えなかった。 また悩ませ、苦しませると思った。
2年の准看の学校を卒業し、私は准看の資格を取った。 そして、もちろん正看の学校に進む事にした。 自分自身も資格を取ってレベルアップしたかったし、祖父もいつも言っていた。 「正看になれ。」と・・・
無事入学試験にも合格し、また働きながら3年間の正看の学校に行く事になった。 今度は、准看の資格を持っているので、准看として仕事することになる。 夜勤もあった。 朝から夕方まで仕事して、夕方から21時頃まで学校に行き、0時過ぎからまた深夜勤に入ることも珍しくない。 平日は学校があるので、準夜勤が出来ない為、土日・祝日は準夜勤が入ることが多い。 仕事も学校も無い、一日休みという日はほとんど無かった。 准看の免許を取ってからは、寮も出て、一人暮らしをするようになった。 給料は、普通に准看としての給料を貰えたので、生活に困ることはなかった。
自由を満喫しつつ、寂しさも感じ、私は猫を飼い始めた。 「猫が欲しい」と言っていたので、友人が「知り合いの家で産まれた子猫を貰ってくれない?」と言ってきて、その子を貰うことにした。 その猫が太郎。 16歳になり、今現在(2009年1月)も一緒にいる。
私は高校3年生になり、就職活動の時期を迎えた。 何になりたいでもなく、何がしたいでもなかった私は、経済的理由からも大学になど行けない。就職するためには、商業科にでも行って、事務職に就くつもりでいた。 なのに、ふと思い出す。 祖父がいつも言っていた事・・・ 「看護婦になれ。看護婦は食いっぱぐれがない。正看になれ。」 看護婦か・・・ そう思っていた時、進路指導の先生が突然私に「看護婦にならないか?」と言った。 「私も丁度考えてたところ。」 そう答えると、先生は、「看護婦なら、働きながら学校に行けるから、家庭にも負担がかからないぞ。」と言う。 私は、看護婦になることを決めた。
これから、どんな辛い日々が始まるかも知らず・・・
1990年09月19日(水) |
棚卸し −高校生時代− |
祖父の自殺は、家族の誰もに相当なショックを与えた。 祖父が自殺したことは、誰にも言えなかった。 そして、それぞれが一人で悔やむ。
「どうして・・・」 「どうして救えなかったのだろう・・・」 「どうして目を離してしまったのだろう・・・」 「どうして死んだのだろう・・・」 「どうして・・・どうして・・・」
私の高校生時代は、楽しくもあり、苦しくもある時期だった。 不良と呼ばれる友人たちと遊んだりもした。 煙草も吸った。 祖母の前では良い子に振舞う為に、勉強もした。 学年トップクラスの子たちとも仲良くした。 恋もした。 失恋もした。 「俺から別れようと言うことは絶対に無いから。」という彼氏に、「いつか嘘になる約束なんかいらない。」と言ったこともあった。 私は、捨てられるのが怖かった。 母に捨てられた記憶が呼び起こされる。 信用して裏切られるのはもう沢山だった。
ファーストキスも経験した。 処女も喪失した。 しかし、ファーストキスを経験する前に、私はレイプまがいのことをされていた。 それは高校1年生の頃。 相手は兄の後輩だった。 私が処女だと知った男は、流石に処女を奪うことはしなかったが、私の手を股間にあてがい、私の手に自分の股間を握らせ、その上から自分の手を当て、股間を擦らせた。 そして、私の手の中で男は射精した。 誰にも言えなかった。 もちろん兄にも。 妹が大事で仕方ない兄に、この事を話してしまったら、兄は男を殺してしまうかもしれない。 本気でそう思った。 私は、男性の股間を触る事が出来なくなった。 付き合った彼氏に対しても、私の手を股間に持っていかれると、恐怖で力いっぱい抵抗した。 不振がる彼氏には、相手が誰なのかは隠し、何があったのかを説明した。 それにしても、男は、誰もが自分の股間を触らせようと女の手を掴んで股間に持っていく。 その度に私は、怯えながらあの時の事を話さなければならなかった。
春が過ぎた頃、祖父は随分と調子が良くなっていた。
最も親密に付き合っていた近所の人の前だけだったけれど、他人に顔を見せるようになったのは、大きな進歩だと思っていた。 以前のように、おどけて笑わせてみたり、日常の会話をしたりするようになった。
私は、高校に居た。 授業中、担任の先生に呼ばれて廊下に出る。 「おじいさんが亡くなったそうだ。叔父さんが迎えに来るそうだから、すぐに帰る用意をしなさい。」 突然の事に、信じられなかった・・・ いや、突然ではなかった。 「嗚呼、遂にこの日が来てしまったか・・・」 それが本音だった。
でも、どうして・・・ 調子良くなってきていたのに・・・
授業中、帰り支度をして校門に向かう私を、生活指導の先生が呼び止めた。 「何やってるんだ?」 「じいちゃんが死んだので帰ります。」 「祖父が亡くなったので帰ります。だろ! それは何だ・・・」 鞄に付けていた、後輩からもらった修学旅行のお土産のキーホルダーに目を付けられた。 チェーンをあしらったキーホルダーが気に入らなかったのか、没収されてしまった。 こんな時に・・・ この先生は知らない。 私にとって、祖父が父親同然の存在であることも、祖父の死因も・・・ 私は、反抗する気力などなかった。
自宅から車で20分程の高校に、叔父が迎えに来た。 車に乗り、暫く無言の時間が過ぎた。 おもむろに叔父が口を開く。 「じいちゃん・・・なんで死んだか分かるか?」 叔父のその言葉で、確信した。 「自殺でしょ?」
その日、回復の兆しを見せる祖父に安心し、祖母が病院に出掛けた。 兄は家に居たが、兄の部屋は、家の一番奥にあり、居間の様子は伝わらない。 ほんの2時間程度の間だった・・・ 祖母が家に帰ると、祖父がいない。 慌てて車庫に行ってみると・・・ 祖父が首を吊って死んでいた。
祖母はすぐに兄を呼び、二人で祖父を降ろし、布団に寝かせたらしい。 警察にはどう説明したのかは聞かなかったが、表向きには、心筋梗塞ということにした。 発見が早かったせいか、祖父の姿は綺麗で、舌も隠せる程にしか出ていなかった。
家族は3人になった・・・ そして・・ これから、自殺で残された家族の苦しみを味わうことになる。
陽気で、いつも人を笑わせていた祖父。 兄が水泳で賞状を貰ったとき、私の高校入試の結果が一番だったとき、一番喜んでいたのは祖父だった。 兄の賞状は全て額に入れて飾り、良いことがあると、近所に自慢して歩いた。 当時の私は、それが疎ましくてたまらなかったが、祖父には全く厭味が無く、孫の自慢話を聞かされる近所の人も、喜んで話を聞いてくれていたらしかった。
何時頃からだったか、そんな明るい祖父が、ほとんど布団の中で過ごすようになっていた。 大好きだったお酒・・・それまでは、楽しいお酒だったのが、アルコール依存症にもなっていた。 家中をお酒を探して回り、「どこに隠してるんだっ!」と怒鳴ることもしばしば。 酷い痛風に侵されていた祖父の身体も心配し、一日一本だけ冷蔵庫に入れるビールを見つけては、嬉しそうに飲んでいた。
嫌がる祖父を、無理やり連れていったのは、精神病院。 若い頃から兆候はあったらしいが、娘(母)の蒸発に婿(父)の死、孫の世話・・・度重なる苦労が、祖父の病に拍車を掛けたことは間違いないだろう。
病名は「躁鬱病」 その名の通り、鬱状態と躁状態を繰り返した。
私が高校に入った頃からか・・・ 祖父から目が離せなくなった。 ふと目を離すと、ふらふらと出て行ってしまうようになったのだ。 行き先はというと、自宅の車庫なのだけれど、行ってみると、天井にロープを括りつけているのだ。 毎日、誰かが監視するようになった。
1990年09月16日(日) |
棚卸し-中学生時代- |
中学生の頃の私は、自分自身の様々な顔に、心に翻弄されていた。
疑心暗鬼という言葉が、最もしっくりくるだろうか。
「親なんていらない」という突っ張った心、冷めた心。 それとは裏腹に、「寂しい」という心。 表には出さなかったが、友人の発する、「お父さん、お母さん」という言葉に、妙に反応していたのもこの時期。 友人が話す「お父さんが・・お母さんが・・」という話を、私は「じいちゃんが・・ばあちゃんが・・」と話していることに、妙に敏感になり、寂しさを憶えた。
祖父母の前では、相変わらず良い子だった。 親の居ない家庭で、経済的にも苦しい状況を気にし、幼い頃から、おねだりをすることもなかった。 しかし、中学生になり、果敢な時期、お洒落もしたくなる年頃。 欲しいものは、万引きした。 興味本位で煙草を吸ってみたりもした。 しかし、何一つ満たされることはなく、自分自身でも分からない心に、苛立ちを憶えていたりもした。 何をすればよいのか分からない。
初めて爆発したのが、中学2年生の時。表現の仕方が分からなかったのだろう。中間テスト初日、3教科のテストを全て白紙で提出した。 担任の先生に呼び出され、「どうした?」と聞かれたが、何も答えることは出来なかった。ただ、祖父母の話をされた時、涙が溢れて止まらなかった。 その時の先生は、熱血タイプの男の先生で、比較的心を覗いてくれようとする先生だった。 「明日のテストはどうするつもりだ?」と問う先生に、「分からない」と答えると、「ここまでやったんだ。好きなようにしたら良い」と言って、話は終わった。 翌日の2教科。私は、ほんの少しだけ回答を書いた。 ○×問題に全部×を記入し、記号問題では、アイウエオと順番に書いた。
当然のことながら、それは祖父母の耳に入り、祖母はかなりなショックを受けていた様子だった。 「どうしてこんなことするの?」「お前だけは真面目にやってくれてると思ってたのに・・・」 祖母の口からは、そんな言葉ばかりが発せられる。 「何かイヤな事でもあったのか?」そう聞かれても、答えられなかった。 何があったのかなんて、自分でも分からなかったのだから。それで爆発してしまっただけなのだ。
たった一度、テストを白紙で出した時から、私の成績はガタリと落ちた。 それまで、比較的上位にいたはずの成績が、どう頑張っても元に戻らないのだ。 中学3年生になった私は、行きたかった高校のランクを一つ下げることにした。
そう、中学生の時の、最もショックだった事と言えば、友人の裏切りだった。 友人にしてみれば、裏切りだとは思ってはいなかったのだろうけれど。 その頃、仲良くしていた友人は、児童施設に入っている友人だった。 彼女は、不良と呼ばれる人たちとの付き合いが深く、学校でも要注意人物とされていた。 彼女が、施設で虐待を受けている・・・と聞かされ、親身になって相談に乗っていたつもりだったが、まだ子供の私にはどうしてあげることも出来なかった。 そして、彼女は家出を決行する。 施設を飛び出してきた彼女を、私の家に泊めた。 しかし、そう長くうちに泊めるわけにもいかず、家出が長引けば長引くほど、事態は悪い方へと進んでいく。 それに、私の家では、すぐに足がついてしまった。 彼女は、2,3日の自由を楽しみ、施設へと帰っていった。 その後、「次に家出をしたら、施設を追い出される」という状態になってしまった。 施設を追い出されてしまったら、彼女の行く場所は無い。 私は、「あと一年の辛抱だから。」と、彼女を説得したが、彼女も限界は来ていたのだろう。 「もう絶対に家出はしない。」と約束したものの、数週間後に、私の靴を履いて、私の自転車に乗って、「歯医者に行って来る」と言って彼女はまた消えた。 靴と自転車が無い私は、学校から帰ることも出来ず・・・ 「約束したもん!必ず帰ってくる!」と、遅くまで学校で待っていたが、結局帰ってくることはなかった。
それから、色々な先生からの疑いの目に晒されることになった。 「かくまっているんだろう?」「居場所を知っているんだろう?」「高校生が絡んでいたら、高校生は退学になってしまうんだぞ。」 私は、何も知らなかった。 一部の先生は、「きゃさりんは何も知らないんだから。」とかばってくれたが、私は、そのとき、自分がこんなにも信じられていなかったのだと思い知った。 あんなにも約束したのに・・・という友人への失望。 でも、何とか助けてあげたい・・・という同じ親のいない環境の友人への思い。 色々な思考が渦巻いた。 彼女が失踪してから数日後、私の所に電話が入った。 彼女から、居場所を知らせる電話だった。 帰って来いと説得もしたが、どうにもならなかった。 先生に言うべきか、隠し通すべきか悩んだ。 が、どうしてあげることが良いのか分からず、一番信用出来る先生に相談した。 「今晩は、そっとしておいてあげて。」という私の唯一の願いは、かなえられることはなかった。 しかし、先生の踏み込む直前、彼女は、その場を逃げていた為、見つかることはなかった。 そして、それからは、私の元へも連絡はなくなった。 しかし、それから毎日、先生方からの執拗な呼び出し、脅し、探り・・・ ほとほと疲れてしまった。
寂しさ、冷めた心、自暴自棄、自分自身の存在意義・・・そんなものにも振り回され続け、私は、「死」を考える事が多くなっていた。
そして、やっと見つかった彼女は、母親の元に引き取られることになり、転校していった。 私は、ただ利用されていただけなのかもしれない。 そんな思いも残った。 それでも、結果的に、母親と暮らせるようになった友人にとって、幸せになれる結果であったのなら、それで良いかとも思っていた。
しかし、高校に入って、また彼女との交流が始まった頃、彼女はシンナーに溺れていた。
中学では、全く信用を無くしてしまった私。 その頃、家では、祖父の病が出現していた。 この先が、私にとって、一番苦しい棚卸しとなることでしょう。
1990年09月15日(土) |
棚卸し -母との関わり、兄との関わり- |
父が他界してから、母は、1年か2年に1度程帰ってくるようになった。 帰ってくるといっても、一泊か二泊程度。 私たちを捨てて出て行った母親。 しかし、まだ小学生だった私にとって、母の帰省は正直嬉しかった。 母が、また遠くへと帰っていく朝、私は、泣きじゃくって母たちを困らせた。 だが、母の居なくなった家では、「お母さんなんていなくても寂しくないよ。」「お母さんなんていらない。」そんな言葉を吐いていた。 それは、ある意味自分への自己暗示であり、私たちを育ててくれている祖父母への子供なりの気遣いだった。
兄は、中学では有名な不良になっていた。 中学を卒業した兄は、高校へは進学せず、他の不良仲間と引き離す意味も含めて、遠方の母と母の内縁の夫の住む家に住むことになり、仕事を始めた。 しかし、1週間もした程でホームシックにかかり、逃げ出すように帰ってきた。 本来、心の優しい兄は、友達との絆も強く、友達と離れていることも耐えられなかったようだ。
その後、得意の水泳を生かした仕事をしながら、暴走族に所属していたようだった。 何故か私には、秘密にしていたけれど。 ますます私から兄は離れていったような気がした。 ほとんど口を利かない状態は、私が高校に入る頃まで続いた。 家族が、どんどんとバラバラになっていくような感覚を憶えた。
しかし、心は途切れてはいなかったのだ。 それに気づいたのは、随分と経ってからのこと。
私が中学でのほほんと過ごせていたのは、兄の名前があったからだった。 決して私に手出しはするな。という通達が回っていたらしい。 更に私が高校生になると、兄は、私の男性関係にうるさくなった。 だんだんとシスコンぶりを発揮し始めたのだ。 男の子からの電話は、ほとんど切られていた。 他にも「社会人とは付き合うな。」「男が出来たら、俺に会わせろ。俺が兄として見定めてやる。」などと言うようになった。 少々やり過ぎな所もあったので、迷惑な事もあったが、こっそり嬉しかったりもした。
このころから、母のことはどうでも良い存在になっていた。 小学6年生の頃、同級生の男の子に、「お父さんもお母さんもいないくせにっ!」という言葉を吐かれ、泣きながら帰ったこともあり、恨んだりもしたが、もう、うちの家族スタイルが出来上がってきた今、母への恨み辛みはすっかりと薄れていた。
父は死んだ。 葬儀に帰って来ていた母は、男の待つ遠い地に戻っていった。 これで家族は、母方の祖父母と兄と私、4人になった。
夏休みが明け、始業式、全校生徒の前で、校長先生が私の父が他界したことを告げる。 周りの皆が私の方を見る。 私は、ただただ恥ずかしかった。 皆の視線が自分に集まっていることが、ただただ恥ずかしかった。 皆が私を見て何を思っているかなど考えもしなかった。
父が他界してから、教師の目が変わった。 私の暗い表情ばかりを追いかけてくるようになった。
教師よりもずっと私を憐れみの目で見ていたのは祖母だった。 「時々暗い表情をします。」と教師に言われて、更に祖母は追い込まれていく。 「可愛そうな子」祖母は、私のことをよくそう言った。 私は「可愛そうな子」にならなければいけないような気になっていった。
中学1年生だった兄は、非行の道を走り始めた。 祖父母と妹しかいない家は、絶好の溜まり場となった。 いつもガヤガヤと騒がしい兄の部屋。 祖父母が注意すると、反抗する。 閉まっているガラス戸の向こうから物が飛んでくることもあった。 友達のことを悪く言った祖父母に怒り、包丁を振り回したこともあった。 流石にその時は、私も尋常ではない恐怖を感じた。 「お兄さんが、じいちゃんとばあちゃんを殺してしまう・・・」 本当に殺してしまうのではないかと思った。 結局兄は、最後に包丁をテーブルに突き刺し、部屋に戻っていった。 小学生だった私は、兄にには何の相手にもならないからか、この頃からほとんど口を利くことがなくなった。
祖母は、私に兄のことを愚痴るようになった。 そして、「お前だけが頼りだ。」と。 「お前だけはしっかりしてくれよ。」 「お兄さんは頼りに出来ん。お前がばあちゃんの面倒を見てくれよ。」 毎日のように、そう言い聞かされた。
兄を恨めしく思った。 けれど、兄のことは嫌いではなかった。 兄が羨ましかった。
父が帰ってきた。
子供だった私は、父が棺桶に入れられるまで会わせてはもらえなかった。 一晩海に沈んでいた父の姿は、そのままでは子供が耐えられる状態ではなかったのだろう。
ポンポン舟で通勤していた父は、いつもの様に舟で帰宅していた。 途中でスクリューに何かが絡まり、それを取り除こうとエンジンを切ってイカリを下ろした。 そのイカリのロープが足に絡まり、イカリと共に海へ投げ出され、イカリと共に海に沈んだ。
泳ぎは得意だったはずの父。 どうして抜け出せなかったのか。 まず、父は酒を飲んでいた。 どのくらいのアルコール量だったかは知らないが、アルコールが入っていると普段泳ぎの得意な者でも思うようにいかない。 しかも、足にはイカリのついたロープが絡まっていて、どんどん沈んでいく。苦しさでパニックにもなるだろう。 更に、父は安全靴を履いていた。 鉛の入った靴。どう考えても水泳には向かない靴だ。
さぞかし苦しかっただろう。 真夏とはいえ、夜の海の底は冷たかっただろう。
と考えるのは今になって。 当時、子供だった私は、そんなことなど一切考えもしなかった。
朝になって、無人のポンポン舟に気が付いた漁師さんが警察に連絡してくれたらしい。 イカリを引き上げたら遺体も一緒に上がってきたのだ。警察の方も、慣れた事かもしれないが、さぞかし驚いただろう。
人間は、死んで尚いろいろな人の世話にならなければならない。 一人で、誰にも迷惑をかけず、誰の世話にもならずに死ぬことは出来ないのだ。
いつの間に連絡がついていたのだろう。 父の葬式に、母の姿があった。 母は終始泣いていた。 子供心に不思議に思った。
「どうしてアナタは泣いているの?」
父のお葬式で、私は一度だけ泣いた。 火葬場で、スイッチを入れる時。
「ソレを押したらお父さん死んじゃう・・・」
父は、もう二度と帰っては来ない。
お葬式が終わった後、母も含めて家族で食事をしながら私は呟いた。 今でもハッキリと憶えている。 これがその時私が父の死で感じた全て。
「もう、家族揃ってご飯食べることは無いんやね。」
一瞬、皆の動きが止まった。
1990年09月12日(水) |
棚卸し−父の思い出− |
父は優しかった。 気の長い人で、子供の遊びにもいつまでも付き合ってくれた。 縁側で兄と3人、一日中漫画本を読んでいたこともあった。 隣町のお祭りに、舟で連れて行ってもらったこともあった。 車の免許が取り消しになってしまい、造船所に勤めていた父は、舟で通勤していたのだ。 お祭りの帰りの舟で、私は毛布にくるまり花火を見た。 夜の小さなポンポン舟の立てる波は、プランクトンが緑色に光って幻想的にも見える。 けれど、小さなポンポン舟は、真っ暗な広い海に今にも飲み込まれそうで怖かった。 母がまだ家にいた頃、一度だけ父が母を殴るところを見た。 原因は知らない。 あまり覚えていないけれど、父は酔っていたような気がする。 怖かったという記憶もない。 その後、私は、片目に青あざを作った母に、「パンダ!パンダ!」と言い、 眼帯をした母に、「タモリ!タモリ!」と言ってはしゃいでいたのを覚えている。 見たままを素直に悪気もなく口にしてしまう子供のなんと罪なことか。 母はどんな気持ちでいただろう。 特に父の悪口を聞かされた覚えはない。 何も言わずに母は消えたのだ。 私は小3になった。 相変わらず母はいない。 父と兄と祖父母と5人の暮らしが普通になっていた。 夏真っ盛り、お盆前に、ウチに自動販売機が設置された。 ウチの前の海は、釣り人が多く、その釣り人を狙った自販機の設置だった。 父は、家を空けることが多く、自販機を設置したその日も家に帰ってはこなかった。 そしてお盆に入り、帰ってこない父を心配していただろうか? そのことは記憶にないけれど、14日だったか15日だったか、家に一本の電話が入った。 確か、祖父が応対していたと思う。 直感的に何かを感じた。 私は、階段の下から、二階の部屋にいる兄に向かって言った。 「お父さん、死んだかもしれない。」 何の感情も見えない淡々とした口調で。 自分でも不思議な感覚だった。 小学3年生だ。“死”の意味が解らなかったワケでもなかったはず。 しかし、さほど“哀しみ”という感情は無かったと思う。 中学1年生の兄は、 「悪い冗談言うな!」 というような事を言っていた気がする。 冗談なんかじゃない。大まじめだったのだけど。 父との思い出・・・ 他にあっただろうか? 保育園の頃、交通事故で入院したとき、夜遅くにオセロを持ってきてくれた。 刺繍が好きで、夜に刺繍をする父の横で、リリアンを解くのを手伝っていた。 口笛を吹くと、「夜口笛を吹くと蛇が出るぞ。」と言われ、怯える私に「今は大丈夫。この刺繍針でお父さんがやっつけてやるから。」と言って口笛を教えてくれた。 あまり家に帰ってこない父だったけれど、『小学○年生』の雑誌だけは毎月必ず買ってきてくれていた。 それくらいか。
一年ぶりに帰ってきた母は、どのくらい家に居ただろう。 どんな話をしたのか、どんな気持ちで、どんな生活をしていたのかサッパリ記憶にない。 父や祖父母とどんな話がされたのか知らないが、気が付けば母は、また居なくなっていた。 家族構成は、祖父母(母方)・父・兄・私の五人になった。 祖母からは、「お母さんはお前達を二回捨てて出ていったんだ。」と聞かされた。 祖母は、よく母の悪口を言う。 悪口と言うより、愚痴だろう。 我が子だからこそ余計に情けなくて腹が立つのかもしれない。 戦時中に母を産み、空襲の中赤子を抱えて走り、苦労して育てたというのに夫と子供を置いて出ていった。 祖母は、自分も捨てられたという思いがあったのだろう。 更に、歳をとってから、孫まで育てなくてはならなかったのだ。愚痴りたくなる気持ちも解らなくもない。 しかし、まだ幼い私に愚痴られてもチト困る。 私は、ただ祖母の愚痴を聞いて頷く。時々、祖母の言って欲しそうな言葉を吐く。 「寂しくないよ。」 「お母さんなんていらない。」 それは20年以上経った今も、まだ続いている。 私は、ただ祖母の愚痴を聞いて頷く。時々、祖母の言って欲しそうな言葉を吐く。 そして、今度は母の愚痴と言い訳も加わる。
私が小学一年生の時、母は突然姿を消した。 その日、母は、いつもと同じように「仕事に行ってくる。」と言って家を出た。 いつも何も言わない私が、「どこ行くの?私も行く!」と泣きじゃくって母のバイクを追ったという。 20年程経って、母から聞いた話。 私には、その日の記憶は全く無い。 その後、母が帰ってこないことをどう思って、どう過ごしていたのかも記憶に無い。 うっすらと覚えているのは、その後、父と色々な所に行って、色々な人に会ったこと。 父は、母を捜している様だった。 私は、父がどこかに連れて行ってくれることが嬉しかった。 ただ、それだけしか思っていなかった。 私が小学二年生になって暫くした頃、母の居場所が分かった。 小学校高学年の兄は置いて、父と私と元さん(親戚のように付き合っていた近所のおじさん)の3人で迎えに行くことになった。 「お母さんが見つかったので迎えに行きます。」と担任の先生に欠席することを告げると、気の弱い先生は、オドオドして戸惑っていたようだった。 私は何も考えていなかったのだけれど。 恥ずかしいことだとも、悲しいことだとも。 むしろ、旅行気分でウキウキしていた。 フェリーに乗り、一晩かけて母のいる町へ向かう。 私は、母に会える嬉しさと、初めて乗る大きなフェリーにはしゃいでいた。 この旅のことも、実はあまり記憶にない。 覚えているのは、フェリーで元さんとお風呂に入ったことと、帰りに誰かの家らしき所に寄ったこと。 しかし、家の人の姿を見た覚えがない。 大人になってから教えて貰った。 あれは、ホテルだったと。 私は、小学二年生にして初ラブホ体験をしていたのだ。 なんてマセガキだろう(笑) とにかく、母は、約一年ぶりに家に帰ってきた。
母は、喫茶店で働いていた。 私が保育園に通っていた頃、時々、その母の勤める喫茶店に連れて行ってもらった。 私は、いつも決まってクリームソーダを飲む。 あの綺麗なグリーンのソーダ水が、妙に大人の飲み物のように見えていた。 その喫茶店に連れて行かれると、いつもソコには男の人がいた。 母は、私にその男の人を「菩提樹(ぼだいじゅ)のおっちゃんよ。」と教え、私も、母の勤める“菩提樹”という喫茶店の人だと信じていた。 そして、菩提樹のおっちゃんのことは誰にも言ってはいけないと・・・ なぜ秘密なのか。 少し疑問に思ったが、クリームソーダの魅力が、そんな疑問なんて吹き飛ばした。 菩提樹のおっちゃんは、時々私を遊びにも連れて行ってくれて、キャンディーキャンディーのヘアピンや鏡の入ったおしゃれポーチを買ってくれる。 とても優しいおじさんだ。 でも、これはすべて秘密。 信じていた。 秘密も守った。 そして、ある日、母は突然姿を消した。 私が小学校に入学して間もない頃の出来事だった。
私は望まれて産まれてきたのだろうか。 そんな事ばかり考えて生きていた。 私の産まれた頃、家族構成は、 父・母・兄・祖父・祖母 そして、私。 ベビーブームの真っ盛りに産まれた。 祖父母は、母の両親。 父は、祖父と従弟で、婿養子。 これ以上はややこしくなってしまうので書きませんが、とりあえず極普通の家族だったはず。
封印してきたワケじゃないけれど、 結局、私の根底はココにある。 消したいのか消せないのか、 それでもこれが私。 全てがあって、私がいる。
ただの私の自己満足になるかもしれませんが、 いや、そうなるのでしょうが、 私の人生の棚卸しにお付き合い願えれば幸いです。 色々な意味で、気分を害してしまう内容があるかもしれません。 気分が悪くなったら、即刻立ち去ることをお勧め致します。
日付は関係ありません。 1990年の9月に書いていくつもりなので、目次から1990年9月を選んでいただければ、棚卸しが表示されるはずです。
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