心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2012年10月31日(水) 現実検討について(その1)

現実検討能力(reality testing)という話をします。現実検討識とか、現実吟味なんていう訳語もあるみたいですね。

しかし、僕は現実検討能力について詳しいわけではありません。僕は心理学や精神医学の徒ではないので、系統だって勉強したことはありません。じゃあどうしているかと言えば、例えば「現実検討」という言葉がでてきたら、それについての短い文章を読んで、「だいたいこういう事を指しているらしい」と理解する程度です。

他の人が現実検討能力について話をしているときに、その文脈での言葉の使われ方と、僕の頭の中の理解に齟齬がなければ、概ね正しい理解をしているのだろうし、何か引っかかりを感じればヒマな時に本でも読んでもっと勉強しとかなくちゃマズイなと考えるわけです。

最近は雑記の読者が増えてしまったので、あまりうかつな事を書くのも恥ずかしいと思い、ちょっとだけ調べ物をしてから書くことにしていますが、それでも読者の方々には、僕の文章は常人的な理解に過ぎないことは憶えておいて欲しいのです。

現実検討能力とは、自分が頭の中で感じていることと、外の世界で現実に起きていることの差を捉えることです。主観(内的事象)と客観(外的事象)を区別する能力とでも言いましょうか。

発達障害を抱えたスポンシーとの対話も、現実検討に関する話が多くなっています。例えば、ホームグループで自分は他の皆に受け入れられていない、疎外感を感じる、という話が出たとします。

なぜ受け入れられてないと感じるのか、と詳しく聞いてみるとします。すると・・・。

今日ミーティングでAさんと一緒になったが、Aさんは不機嫌な表情をしていた。きっとそれは自分に対して腹を立てているに違いない。その理由はハッキリとは分からないが、きっと自分の○○なところや××なところが気に入らないに違いない。あるいは、自分が過去にやった何かに対して、まだ腹を立てているに違いない。そんなAさんと一緒にいるのは具合が悪い。

などという話を聞くことになります。ここで真相を確かめるまでもなく、Aさんは腹を立てている事実はありません。

人はいつでも機嫌良いわけではありません。不機嫌になるには様々な理由が考えられます。奥さんと喧嘩したからかもしれないし、金の事で悩んでいるのかも知れない。昨日の晩に夜更かしして睡眠不足なのかも知れないし、腹が減っているだけかも知れません。スポンシー君に対して立腹している可能性は低いし、本当のところは尋ねてみるしかありません。(発達障害の人の中には、人の表情を読み取る能力が低いために、不機嫌な表情じゃないのに不機嫌だと捉えちゃう人も多いことも関係している)。

「自分に対して腹を立てている」というのは、自分の感じ方です。それは本当らしく感じられるわけですが、自分の外の世界で起きている現実は違うかも知れない。その差を把握できるのが、現実検討能力です。

退屈な会議はたとえ10分と短くても、1時間のように長く感じられます。一方で、好意を抱いている異性との電話は10分間は、ほんの2〜3分であるかのようにあっという間に過ぎ去ります。でも、どちらも同じ10分であることは、知性を使えば分かります。

(発達障害のあるなし関係なく)人は精神的に調子を崩すと現実検討能力が低下するもののようですし、現実検討能力が低下すると、さらに調子を崩していくものみたいですね(デフレスパイラル的な)。

スポンシー君はAさん以外の人とも同じような体験を繰り返し、結果的にグループで自分が疎外されているように感じるに至ったというわけです。現実にはグループで暖かく迎え入れられているので、疎外されているなどと訴えたら他のメンバーにとっては心外でしょう。場合によっては、謂われのない非難をしたとして逆に嫌われ、イジメの原因になってしまうこともあるのかもしれない。そうなったら空想の被害体験が、現実のものになるわけだ(さすがにウチのグループではそうはならないだろうけど)。

上司が自分だけに叱責を繰り返すのは、上司が自分を嫌いだからイジメているに違いない・・というような訴えも、よくよく職場で観察するように勧めれば、実は上司は他の社員にもまんべんなく注意をしており、たまたま自分のミスが多いせいで注意される機会が人より多目だっていうだけだったりします。これも、「上司に嫌われてイジメられている」という感じ方と、現実との違いが捉えられていないからです。

主観(感じ方)と事実が完全に一致することはないのでしょうが、両者の間に差があること、自分の感じ方が事実とは限らないことは、分かってなくちゃならのだと思うのです。


12ステップの立場から見ると、この「現実検討能力の乏しさ」は、恐れや恨みにつながることが多いと思われます。

先に挙げた例を見るまでもなく、存在しない被害体験を作り出したり、軽微な被害を過大に深刻に捉えたりして、相手に対する恐れや恨みを作り出していきます。あるいは被害は現実であっても、トラブルの発端が自分にあるのに、責任を相手に帰着させていたりします。棚卸しを聞き慣れた人に言わせれば、「アル中の恨みは、ほとんどが逆恨みに過ぎない」そうです。現実検討能力の乏しさが、逆恨みを実現していると言えます。

棚卸し表というのは、恨みという内的な事象を手がかりに、外の事象との軋轢を視覚化して表現するものです。文章ではなく表にすることで、視覚化がうながされ、見通しが良くなります。

人から現実検討能力が完全に失われることはないので、表がちゃんと書けていれば、表を見ただけで、自分のつまらない欲望を充足させるために、人との間に軋轢を招いていた自分の愚かしさが見えてきます。たいていの人は、自分自身に対してお尻がこそばゆくなるような恥ずかしさを憶え、相手に対して申し訳ないという気持ちも持つようになります。

ところが、この能力がさらに乏しくなると、表を書いて、それを見ても、自分の何が悪いのか把握できなくなります。どうも、人は精神的に具合が悪くなるほど、主観(感じ方)を補強するような事実ばかり集め、主観を否定する材料は捨ててしまうような、認知のフィルターを持っているようです。そして、具合が悪くなればなるほど、そのフィルターは性能をいかんなく発揮してくれます。

そんな場合には、棚卸し表の内容も、相手が悪く自分は被害者という内容に傾きがちです。表だけを頼りにすることはできません。「グループで疎外される」とか「上司に嫌われてイジメを受けている」という話しか書いてないのですから。だから、認知のフィルターなりバイアスの向こう側にある、より客観的な事実を探らなくちゃならないのですが、そのために必要なのは「常識」とか「考える力」なのでしょう。

(スポンサーであれカウンセラーであれ)少なくとも棚卸しを聞く側は、話す側より回復している必要があるでしょう。同じレベルだと、一緒になって「疎外する方が悪い」「イジメをするほうが悪い」という被害者ごっこを演じることになってしまい、「自分の側の掃除」をすることができなくなります。12ステップに取り組むもの同士は、お互いに助け合うと言っても、関係が対称であっては手助けにならないみたいです。

(続く)


2012年10月26日(金) 依存症は運転免許の欠格事由

昨夜はホームグループのミーティングでした。メンバーの一人が職業訓練を終えたので、お祝い?もあって久しぶりにアフターミーティングに行きました(ガストで飯を食いながら無駄話しただけですが)。

その中の話の一つが、てんかんであることを隠して運転免許を取ることに罰則を設ける、という話でした。
参考:持病原因の事故防げ 病状虚偽申告に罰則
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2012102502000233.html

病気を隠して運転免許を取得することに罰則がないからいけないのだ、という主張になっています。昨年栃木県でクレーン車が小学生の群れに突っ込んだ事件が背景にあるのは言うまでもありません。アフターで、そんな話がでるのは、この話がアルコール依存症と無縁ではないからです。

順を追って説明しましょう。

自動車運転免許は国家資格です。国家資格には、その根拠になる法律がありますが、その中に「これこれの者には資格を与えない」という欠格条項というものがあります。それに該当すると、試験に受かっても免許をもらえないか、そもそも試験を門前払いされてしまいます。

2002年の道路交通法改正以前は、運転免許の欠格事由はこんな風になっていました(法律の条文とは順番が違いますが)。

1. 資格年齢に満たない人。
2. 免許を取り消された日から起算して、指定された期間を経過していない人。

まあ当たり前の話です。

3. 身体に一定の障害のある人。
4. 精神病者、知的障害者、てんかん病者、目が見えない人、耳が聞こえない人、または口がきけない人。
5. アルコール、麻薬、大麻、アヘン、または覚せい剤の中毒者。

(他にもあるけど省略)

これらに該当すると、無条件に欠格となったので「絶対的欠格」と呼ばれます。ただ、実際には身体不自由以外は、それほど厳密に適用されていませんでした。法律は条文通りに運用されるわけではないという一例です。

2002年の道路交通法改正では、飲酒運転の厳罰化ばかりが話題にされましたが、同時に欠格条項も変更されました。「精神病者、知的障害者、てんかん病者、目が見えない人、耳が聞こえない人、または口がきけない人」というのが削除され、かわりに、幻覚の症状や、発作により意識障害・運動障害をもたらす病気の場合には、政令で定める基準に従って、免許を与えない「ことがある」、ということになりました。

「与えない」という絶対的欠格が、「与えないことがある」に変わったので、これを相対的欠格といいます。

その素案の段階では、法律の条文に具体的な病名が挙げられていました。Wikipediaによれば、その病名は

・統合失調症、双極性障害、躁病、重度だと判断されるうつ病、持続性の妄想障害
・てんかん
・ナルコレプシー
・脳虚血
・糖尿病
・睡眠時無呼吸症候群

だったそうです。素案を見た患者団体が、病名を法律に盛り込むと病気に対する偏見を助長しかねない、と反対して、具体的な病名は法律ではなく施行令(政令)に書かれることになりました。政令に書かれているのは、

・統合失調症
・てんかん
・再発性の失神
・無自覚性の低血糖症
・そううつ病
・重度の眠気の症状を呈する睡眠障害
・その他

です。もちろんそれが自動車の安全な運転の妨げになる場合、ということですけれど。それと「アルコール、麻薬、大麻、アヘン、または覚せい剤の中毒者」というのは削除されませんでしたが、絶対的欠格から相対的欠格へと移行しました。

で、てんかんの場合に免許を与えるかどうかの基準が、「過去2年間発作が起きてないから今後も発作の恐れがない」というような医師の診断書ということになりました。てんかんの人が免許を取得・更新するときには、質問票の中にある「病気を原因として又は原因は明らかでないが、意識を失ったことがある」という項目に○をつけることでてんかんを自己申告した上で、診断書を提出して許可を仰ぐ、という流れになります。

しかし、申告しなければ診断書も必要ありません。申告しなくても罰則はありません。統合失調症や糖尿病や睡眠時無呼吸症候群には、そうした仕組みすら存在せず、てんかんだけに求めているのですから、てんかんを申告しない人が多数存在するのは当然とも言えます。

栃木のクレーン車事故の第一報を見たとき、「これはてんかんだね」と話し合ったのを記憶しています。無申告や治療中断という話と、小学生6人が死亡という悲惨さを考え合わせれば、その後の流れは予想できました。それが、上に掲げた、虚偽深刻の罰則化提言というニュースにつながっています。

他の先進諸国では、病気や障害を理由の差別を禁じる「差別禁止法」が作られ、障害が理由の欠格事項は原則ありません。近年日本でも様々な資格で、絶対的欠格→相対的欠格と変更されたのは、この世界的な流れに沿ったものでした。だが改革にはバックラッシュはつきものです。

てんかんも偏見の多い病気で、偏見ゆえに適切な治療を受けていない人も多くいるとされます。それは精神障害や依存症や発達障害と同じ構図です。無辜の小学生6人も、てんかんという病気に対する偏見の犠牲者だったわけです。

記事では、免許を更新すると危なそうな患者の情報を(個人情報保護法に触れずに)医者が警察に提供できる仕組みも提言されています。「提供できる」ということは「提供しろ」ということで、しなかったら事故の被害者が民事で医者を訴えるという話になるのかもしれません。てんかんの学会では、逆に無発作の基準期間を短くすることで申告しやすくした方が良いと言っていますが。

もちろんアフターでこんな真面目な話をするわけがありません。もっと与太話です。

厳格化は他の病気にも飛び火しかねません。一番燃え移りそうなのが「アルコール、麻薬、大麻、アヘン、または覚せい剤の中毒者」です。なにしろ、これは政令ではなく、法律のほうに残りっぱなしですから。

しかも、道路交通法改正の目的が飲酒運転対策でした。厳罰化をしても、いっこうに飲酒事故が無くならないのは、アルコール依存症が原因だということも分かってきました。とすると、次は「アル中、ヤク中に免許を与えるな、更新させるな」という声が上がりかねません。

もちろん、これは絶対的欠格ではないので、アル中・ヤク中だからと一律に免許を禁じることはできません。だとすれば、てんかんの場合と同じように、「過去2年間断酒が継続しており、今後も最低○年間は断酒継続できる見込み」という証明を誰かにしてもらう話になるのじゃないか。たぶん医者の診断書か何かで。

しかし、アルコール依存症というのは(断酒初期を除けば)医者にかかる必要の無い病気です。他の精神科疾患がなければの話ですが、年単位で酒をやめている人の多くは医者には行っていません。そうなると、免許更新の前にだけ、断酒継続の証明書をもらいに医者にかかることになりはしないか。何年かぶりに診察室に現れた患者に対して、「この人は2年間飲んでない」と医者が判断できるものでしょうか。さらには、今後も断酒が続きそうかどうかなんて、分かろうはずもなし。

さあ、どうしたもんだ。

与太話はともかくとして、ホワイト先生によれば、病気を治療するよりも、懲罰を与えることでトラブルを防ごうとする圧力は常にあるのだそうです。病気の治療(なり障害の支援)は一人ひとりに対して行わねばなりませんから、手間も金もかかります。一方、懲罰は見せしめによる抑止効果が期待できるので、安くつくはずだという発想があります。小さな政府が基本のアメリカばかりではく、日本も不景気で社会保障の予算が削られれば、懲罰志向になりかねません。いや、実際になっているのです。

懲罰志向は、病気や障害に対する偏見を助長し、未治療の人を増やし、結局はトラブルを増やすでしょう。AAの人間として、政治的な意見を述べるのは慎まなくちゃなりませんが、懲罰志向と治療(援助)志向と、どっちが良いかは、言わずもがなです。


2012年10月25日(木) 平凡な存在

僕は特別なAAメンバーではありません。

例えば、ソーバー(酒を飲まないでいる)期間の長さで言えば、僕より長くやめ続けている人はAAには結構たくさんいます。30年という人に比べれば、僕はまだヒヨッコです。

頭の良さでは、AAには僕よりずっと高学歴の人はたくさんいるし、東大卒の人もそんなに珍しくありません。

僕の収入は多くはありませんが、人並み以上に稼いでいる人もいるし、専門的職業や一流企業に勤めている人もいます。

人気があるAAメンバーなら、その人のバースディミーティングには何十人と集まり、部屋に入りきれなくなったりしますが、僕のバースディミーティングは、いつものミーティングとそれほど変わりません。

12ステップの理解という点でも、当然僕より進歩している人はいます(皆さんその点は謙遜されますけど)。

また、特に素直でやる気があるわけでもなく、AAに来た頃は普通のビギナーでした。つまり、恨みがましく、ヒガミっぽく。酒は自分の力でやめてみせる。誰の助けも要らない、と思っていたわけです。

人格を磨くという面でも、僕より立派な人たちはたくさんいるでしょう。

いろんな意味で、僕は特別なAAメンバーではなく、普通のありきたりなAAメンバーです。

今の日本のAAは長くAAを続ける人が少ないため、相対的にビギナーの占める割合が多くなっています(10年経ってもビギナーみたいな人はいるけど)。さすがに僕もビギナー期に比べれば多少進歩したとは思います。AAに残り続ける人というのは、その人それぞれにAAを理解し、魅力を感じているからこそ残っているわけです。そうした人たちの中にあって、僕は特別ではない、ということです。

おそらく僕はネットでの露出機会が多いために、相対的に目立っているだけなのでしょう。

さて、AAには「二本足をハイヤーパワーにしてはいけない」という言葉があります。ハイヤーパワーとは人ならざるものであり、人をハイヤーパワーとして扱ってはいけない、ということです。こういう言葉が存在するということは、人は人を神格化しやすいということを意味します。

神というのは曖昧な概念です。曖昧な概念を把握するのは面倒です。それが人として形を取って存在しているのなら簡単で良い。だから人を神さまにして、「あの人がいるから安心だ」「あの人の後をついていけば良い」と考えたくなるものです。

回復に成功した人の足跡をたどる、というのが基本路線です。ただ、相手も人間ですから、間違いも犯します。神ではないのです。最初はスポンサーや仲間をハイヤーパワーにするのも良いけれど、回復が進んでいけば、他の人でも自分自身でもない「力」を見つけなければなりません。

また、多少目立っているメンバーを見つけて、「あいつは分かっちゃいない」「回復していない」と叩くのも、逆のパターンの神格化です。スケプチシスト(懐疑主義者)はどこにでもいます。「自分だけはわかっている」という自分を特別に扱いたい気持ちが、そうした批判の出所です。

ビッグブックのp.178に「台座にたてまつる」という言葉がありますが、人は(肯定的でも否定的でも)誰かを台座に奉って崇めて安心したがるものなのでしょう。また、批判という奉り方もあるということです。

AAに残り続け、メンバーの相手をしていれば、時に自分が神格化の対象にされている気付かされます。長い人でそういう経験を持たない人はいないでしょう。尊敬されて有頂天になってみたり、批判されて気に病んでみたり。自分への評価を操作しようと試みて、結局は相手に振り回されてみたり。それが嫌でAAをやめていった人もいませんかね。

やがては、そうやって人に振り回されるのは、自分の回復が足りないからだと気付くようになります。AAとはつまるところ、人を助ける行動を通じて自分を助けるものです。相手が回復するかどうかは確かなものではありませんが、努力していれば少なくとも自分の回復はより確かなものになります。そこが大事です。

時には相手が回復して、自分に良い評価が与えられることもあります。それは秋の味覚としてありがたく頂戴すれば良いのですが、それが目的ではないのは忘れちゃなりません。

批判の内容は的外れなものも多いのですが、そうした中にも有益な示唆が含まれている場合も多いので、その部分は自分を改めれば良いのです。まったく不当な批判もあるでしょうが、それを捨て置けずに敵意を持ってしまうのは自分の問題です。

「批判されないということは、何もしていないということだ」

これはスポンサーが与えてくれた言葉です。目立つために努力しているわけではなくとも、努力を続けていれば、どこかでなにがしかの注目を浴びることは避けられません。そして注目は批判を呼ぶものです。批判されることを気に病むよりも、まったく批判されないことを気に病むべきなのだと。(ある意味批判もご褒美なのかも)。逆風が強いときは頭を低くする古来からの知恵を使えばいいんだし。

こうして、盲信や懐疑主義の罠をくぐり抜け、自分がそれに振り回される時期を過ぎると、他の人と尊敬をベースにした対等な人間関係を築く能力がついてきます。そうした関係の中にあって、「自分が特別な存在である」必要は感じません。本当の意味での仲間意識が育ってくるものだと思います。

12&12のステップ12には「仲間の間で特に抜きん出た人間になる必要はない」ということへの気づきが書かれています(p.165)。若い頃に成功を追い求めたビル・Wだからこその文章かもしれません。AAの中で彼ほど注目を浴びた人は他にいないでしょう。また、先頭に立ってAA全体を導いていかねばならない、というプレッシャーもあったことでしょう。その彼が得た答えが「特別な存在になる必要はない」というものでした。

真の野心とは、人々の中で特別な存在になりたいと思うこととは違うはずです。僕はたくさんいるAAメンバーの中で平凡な存在に過ぎません。そのことに深い感謝があります。

−−−−

メールをいただきました眞美様へ。
書いていただいたメールアドレスが間違っていたようで、こちらから出した返信が届かなかったようです。お知らせまで。


2012年10月22日(月) AAのニックネーム

日本のAAメンバーのかなりの割合がニックネームを使っています。例えば僕は「ひいらぎ」と名乗っています。これは実名とは何の関係もありません。

ニックネームを使う習慣は日本のAA独自のもので、他の国のAAでは珍しいそうです。他の国のAAではニックネームを使わず、ファーストネーム(名字ではなく名前の部分)かフルネーム(実名)を使っているそうです。

この日本独自のニックネームという習慣は、日本のAAの始まりの頃に誕生したのだそうです。

日本語のAAが始まる前にも、米軍キャンプを中心に英語のミーティングが行われていました。ミニーさんとピーターさんの二人が日本語のAAミーティングを始めた時、英語グループの人たちがミーティングに参加してくれました(通訳は二人がしていたそうです)。英語のメンバーたちは当然お互いをファーストネームで呼び合いました。

そのミーティングに参加するようになった日本人メンバーたちは、「AAとはファーストネームで呼び合うところだ」と解釈し、自分たちに英語風のニックネームつけ呼び合うようになったのが始まりだと伝えられています。

時代が下ると、英語風のものばかりではなく、珍妙なニックネームを名乗るメンバーが増えました。一部には、ニックネームを使うこと自体が自助グループの習慣であるとか、それがアノニミティ(無名性)の実践であると解釈している人もいるようです。それは勘違いです。AA内部ではフルネームを名乗ってもちっともかまいません。(問題になるのは、AAの外で、しかも活字や放送やネットにおいて、AAメンバーであることと実名を同時に明かすことです――伝統11)。

依存症という病気には偏見があるので、AAにやってきたビギナーはこの病気を恥辱だと感じています。また、人とすぐに打ち解けられないタイプの人も少なくありません。だから、ビギナーが自分の身元を伏せておきたいと願うのは珍しいことではないし、住所や名前を聞かれないことで安心する人も多くいます。しかし、いつまでも身元を伏せ続けなければならない、というわけではなく、多くの人は、相応しいときに情報を明らかにしていくようになります。

最近では、奇妙なニックネームを使う人がやや減り、若い人たちを中心にファーストネームを使う人が増えてきました。つまり名字ではなく、名前の部分を使う人たちです。悪いことではありませんが、おかげで、女性のニックネームが憶えづらくなりました。だってそうでしょう?

ゆきえ、ゆきこ、ゆき、ゆり、えり、えりこ、りえこ・・・どうやってこの違いを憶えろと?

おそらく新しい世代が増えて行くにつれて、ファーストネームや名字の部分を使う人たちが増え、本名と無関係なニックネームを使う人は徐々に減るだろうと思います。しかし、この習慣はなくならないだろうとも思うし、それが特に悪いことだとも思いません。

以下は、先日僕が送ったメールの一部です。

・・・・・・・・

日本のAAメンバーが、本名とはまるで関連のないニックネームを使っていることについて、一つ私の経験を述べさせてください。

私は工場で使われる機器を販売する会社に勤めており、顧客の多くはアジア圏です。技術職なので、顧客と直接接する機会は多くありませんが、年に何回かは会わねばなりません。

中国人の名刺をいただくと、ピートとかトミーというニックネームがつけられていることがあります。中国語の発音は難しいので、外国人に中国名を無理に読ませて混乱を招くより、呼びやすい英語風のニックネームをつけてしまっているのです。

ところが、このピートやトミーという名前が、元の名前とアルファベット1文字ぐらいしか一致していないのです。(例えば私だったら、Susumu という名前からサミーとかになるかもしれない)。

こうしたビジネスの習慣が中国全体でポピュラーなものなのかどうか知りません。しかし、外国人と頻繁に取引のある中国人の間で受け入れられているようです。

私がこうした習慣に接したときに、内心反発を感じました。だって、どう見ても我々日本人とあまり変わらないアジア顔の中国人が、ピートとかミッチェルとかいう欧米名を名乗っているのですから「ふざけんな!」という気持ちを持ってしまいました。

私はそうした気持ちを言葉に出すことはしませんでしたが、まず間違いなく相手に伝わっていたでしょう。でも、彼らはそれについては何も言いませんでした。きっと、私のような反応をする人は珍しくないに違いありません。

人は異文化に接したときに、不合理な拒絶をすることがしばしばあります。それは自分が慣れ親しんだことと違うからです。しかし、やがてそれに親しむようになると、理解の幅が広がり、拒絶は取り除かれていきます。

中国人ビジネスマンたちは、私の表に出てしまった反発心をとがめることはなく、またそれに迎合することもなく、むしろ寛容と開かれた心で受け止めてくれました。今ではそれに感謝しています。

私は外国のAAメンバーに接する機会はあまりありませんが、それでもたまには接することもあります。そして、彼らが日本人AAメンバーが使っているニックネームの文化に触れたとき、戸惑ったような顔をするのも経験しています。それは異文化との出会いです。

その時私は、その戸惑いをとがめることはしませんし、また迎合することもしません。以前中国人ビジネスマンが私に示してくれたのと同じ、開かれた心と寛容さでもって受け止めようと務めています。私がそうであったように、やがては彼らも日本の習慣に親しみ、理解の幅が広がり、拒絶が取り除かれていくでしょう。実際そうなる様子を、私は何度も見てきているからです。


2012年10月19日(金) リーフレット「司会者の心得」について

メールで問合せがあったので、他にも関心がある人がいるかもしれないと思い、雑記に書いておきます。

10年ほど前まで、日本のAAでは「司会者の心得」というリーフレットを頒布しており、ミーティングで読み上げられることもよくありました。
それには、こんなことが書かれていました。

・司会者が話したことも、他のどのメンバーが話したことも、個人の意見であり、AA全体を代表した意見でも、このグループを代表した意見でもありません。
・持ち帰りたいものは持ち帰り、それ以外は、この場に置いていってください。
・ここで話されたことや、ここで会った人のことはこの部屋にとどめておいてください。
・出席している方々のプライバシーを尊重するために、写真撮影、テープ、メモ等はご遠慮ねがいます。

なぜこのリーフレットが作られたのか古老に聞いたところ、かなり以前に関東でプライバシーがひどくないがしろにされるトラブルが続発し、対策として自分たちで作ったものが徐々に広がって、やがてオフィスから配布されるようになったそうです。

「司会者の心得」に書かれたことの中には、AAの方針に間違いなく一致する部分もありますが、それぞれのメンバーやグループの判断に任せるべき部分も含まれています。ところが、これがミーティングで読み上げられていると、これがAA全体の方針であるとか、ルールであると勘違いする人が増えてきました。

例えば、どこそこのミーティング会場で○○さんに会った、という話をヨソでしてはいけないのだ、とか、ミーティング会場でメモをとってはダメなのだ、というふうに、これを「AAのやり方」とか「ルール」と解釈し、そこから外れた人を責める道具に使う人まで現れました。それは、最初に善意でこのリーフレットを作った人たちの意図から明らかに外れたものでした。

そんな事情もあって、10年ほど前に「司会者の心得」は廃止することになりました。もちろん、もう使ってはならぬ、という話ではなく、使いたいグループが使い続けるのはそのグループの自由ですが、AA全体で使うものとして配布することはやめたということです。

代わりに希望するグループには「ブルーカード」というのを頒布することにしました。ブルーカードも「司会者の心得」に似たリーフレットで、ミーティング会場で読み上げられることを目的としたものです。そこに書かれた文章を要約すると、とてもシンプルです。

・「AAの目的は一つ」であり、ミーティングでは「アルコールの問題」「アルコホリズムに関わること」だけが分かち合われるようにお願いします。

というものです。

僕としては「司会者の心得」が「ブルーカード」に替わったのは良いことだと思っています。

「司会者の心得」の内容は善意で書かれたもので、常識的なものです。例えば、プラバシーを尊重することは(自助グループに限らず社会一般で)大事なことです。ミーティングで自分が話したことが、どこまでも広がってしまうのであれば、話しづらくてしかたありません。特にビギナーにとって、秘密が守られるということは大事なことです。依存症という病気に対する偏見は少なくなってきているものの、自分がその病気であると認めるには恥の意識が邪魔になることもしばしばです。それを認めることが回復の第一歩であるなら、ビギナーの回復のためにもミーティングで話されたことが外に漏れないことが大切です。

でも、ビギナー期を過ぎれば次第にそのことは気にならなくなります。何百人の聴衆の前で話をしたり、何千部も発行される雑誌に記事を書いたりできるようになります。それは、自分自身の中にあった(病気に対する)偏見が取り除かれていったから、つまり回復の結果です。

ミーティングで話をしている目の前でメモを取られたら、話しづらいでしょう。取材じゃないんだし。多くのグループでミーティング中のメモを歓迎しないのには、そんな理由があると思います。

でも私たちは「経験を分かち合う」ためにミーティングをやっています。つまりそれは、お互いに経験を伝え合うということです。伝えるために話をしているという意識があれば、相手が「メモを取っても良いか」と聞いてきたら、断る理由はありません。

おわかりでしょうか。ミーティングで聞いた話は一切外に漏らしてはいけないわけではないし、メモが禁止されているわけではありません。「司会者の心得」が伝えたかったことは、そんな表面的な細かいことではなく、「他者への配慮を欠いた行動をしてはいけない」という根源的なことだったのです。

ところが「司会者の心得」が長く使われるにつれ、そこに書かれた字句が「AAのやり方」とか「ルール」だと勘違いする人が増えてきました。(字句通りに解釈してしまう発達特性を持った人がAAに多かったせいかもしれませんが)。

幸いにしてAAはリーフレットを撤回するという軌道修正を行うことが出来ました。ところが、AA以降に始まり、AAの影響を受けた他のグループの中には、「司会者の心得」の内容を受け継いでいるところも見受けられます。

というのも、他のグループや援助職の人から「自助グループってこういうやり方をするもの」という話を聞くときの内容が「心得」の内容そのものだったりするからです。たった1枚のリーフレットでしたが、その影響が及ぶ範囲は広かった。

僕はAAメンバーとして、他の団体がどうあるべきかという意見を表明することは控えねばなりませんが、すでにAAは「司会者の心得」を廃止したということは、知らせておくべきことだと思います。

個人的には「司会者の心得」の最大の欠点は、回復したくない人にとって都合の良い解釈が出来る言葉が並んでいることだと思います。回復とは変化を伴うものです。変化を伴わない回復はあり得ません。自分の何かを変えるのは、面倒だししんどいことです。しんどさを避け、今の自分のままでいるのに都合の良い言い訳を「司会者の心得」の中に見つけることが可能です。それがあのリーフレットの難点だったということです。

自助グループも変化するものです。10年前、20年前と同じとは限りません。悪い方にも変わりうるし、良い方にも変わりうるということです。僕は日本のAAの現状について嘆くような話を書くことも多いのですが、もちろん良い方向への変化もたくさん起きていることは疑いありません。


2012年10月15日(月) AAミーティングはバイキング料理?

「AAミーティングはスモーガスボードみたいなもんだと思う」

スポンシーと一緒に公民館の草むしりをしながら、そんな話をしたのですが、当然それだけではまったく理解してもらえなかったので、もうすこし詳しく話をしました。

私たちの身体は、私たちが何を食べるかによって、健康にも不健康にもなります。栄養のバランスが取れた食事を心がければ健康が維持されるし、偏食が激しければ不健康になります。脂の多い、味の濃い料理は美味しいものですが、生活習慣病の元です。炭水化物主体の食事ばかりだと、アミノ酸が不足して鬱になりがちです。

身体を健康にしたければ、好きになれない食品も食べた方が良いわけです。(医食同源というやつね)。

同じ事は、精神についても言えます。

私たちには誰にでも「自分なりの考え」というものがあります。他の人から何かを言われたときに、自分が納得できる考えであれば賛同できるし、納得できなければ退けてしまいます。私たちが食べ物に好き嫌いを持つように、考え方に対しても好き嫌い(偏食)があります。

そして、考え方の偏食がひどくなると、私たちの精神は不健康になってしまいます。「回復の役に立つ」として示された考え方でも、気に入らなければ退けてしまう傾向が私たちにはあります。偏食は自力ではなかなか直せません。

さて、スモーガスボードという料理があります。日本ではバイキング形式とも言います。様々な料理が並べられていて、自分の好みに合わせて選んで食べる形式です。バイキング形式のレストランでは、僕はたいてい食べ過ぎてしまいます。

バイキング形式では、人は自分の好きな料理ばかり取ってくるものです。嫌いな料理をたくさん取ってくる人は滅多にいません。健康に気を使っている人は、栄養のバランスを心がけているでしょうが、それでもやはり手を付けない料理があります。

AAミーティングは、参加するメンバー一人ひとりが自分の考えを話すものです。人間は誰一人として同じではないので、ミーティングでは様々な考え方が提供されます。いわば、考え方のバイキング料理みたいなものです。ミーティングの参加者は、他の人の何らかの考えを取り入れて帰るものですが、誰のどの考え方を取り入れるかは自分次第です。もちろん、私たちには好き嫌いがあるので、気に入らない考えは否定して取り入れることはありません。考え方の偏食の結果、私たちの精神は不健康なままです。

偏食がなかなか修正できないように、自力で回復するのも難しいことなのです。

10年以上前のことですが、日本のAAには「司会者の心得」というリーフレットがありました。ミーティングで読み上げられることもありました。それには、こう書かれていました。

「司会者が話したことも、他のどのメンバーが話したことも、個人の意見であり、AA全体を代表した意見でも、このグループを代表した意見でもありません。持ち帰りたいものを持ち帰り、それ以外は、この場に置いていって下さい。」

持ち帰りたい意見だけ持ち帰り、持ち帰りたくない意見は忘れてしまえ! という、まさに偏食の勧めです。このリーフレットが廃止されたのは良いことだと思いますね。

AAにやって来るアルコホーリックの精神は不健康です。考え方も不健康に偏っているし、なおかつ考え方の偏食も激しいので、気に入らない考え方には腹を立てるだけです。だから、AAミーティングだけで回復するのは実は結構難しいことなのです。

そのために用意されているのがスポンサーシップという一対一の関係です。スポンサーは「このような考え方をしなさい」という提案(という名の指示)をします。バイキング料理のような好き嫌いは許容されません。スポンシーに必要な栄養(考え方)を摂ってもらって、健康を回復してもらうのがスポンサーの役目です。もちろん、ニンジンの嫌いな子どもにニンジンを食べさせようとするようなものですから、反発があるのが普通です。当然そこには工夫が必要だし、一筋縄ではいかないし、失敗もあります。

スポンシーにとってみれば、スポンサーの言うこと(考え方)は間違っているようにしか思えませんが、つきつめれば、それは「嫌いだから食べたくない」ということにすぎません。

偏食で身体が不健康になった人は、自分のことを好きになれないものです。偏った食事のせいで、太って、顔色も肌も不健康になり、おしゃれな服が似合わなくなった自分を好きになるのは難しいものです。その人は例えば野菜は好きじゃないかもしれず、食べたくないと思うかも知れません。しかし、努力して野菜とかミネラルの豊富な食事を摂るようになったとすれば、バランスの取れた食事のおかげで、やがてその人は痩せ始め、顔色や肌が健康になり、服も似合うようになる・・・。つまり以前より自分を好きになるし、自分を変えてくれた野菜を好きになります。

考え方にも同じ事が起こります。最初は反発していたスポンシーも、しぶしぶ新しい考え方を取り入れるにつれ、次第にそれが好きになっていくものです。自分の精神を健康に戻し、人生を立て直してくれた考え方なのですから。これはスポンサーから押しつけられた考え方だ、などという意識は消えてなくなり、最初から自分がそういう考え方を持っていたぐらいの気分になるようです。

ミーティングに出ているのに酒が止まらないとか、酒は飲んでないけれど回復した気がしない、という人もいます。そういう人には、スポンサーを持っているのか聞き、いないなら誰か探せと言います。スポンサーがいるのにうまくいかないなら、提案に従ってみろと言います。

このように、ミーティングとスポンサーシップは両立し、バランスが取れていなければならないのだと思います。どちらかに偏るとロクなことがない。

先日AAのラウンドアップに参加したら、ずいぶん遠方から来られていた人たちと話す機会がありました。彼らの地元のAAでは、スポンサーシップがほとんど存在しないのだそうです。なので、ずいぶん遠くまでスポンサーを求めたという話でした。

1970年代に東京で始まった日本のAAは、全国に広がりました。しかし、広がったのはミーティングという形式だけかもしれません。一対一のスポンサーシップは伝えるのが面倒ですから、全国に広がる過程で軽んじられ省略されてしまったのではないかと心配しています。ミーティングとスポンサーシップというのはAAの両輪なのですから、ミーティングだけだと片輪走行になってしまい、ふらふらと安定しません。

「持ち帰りたいものだけ持ち帰れ」という話だとか、「ミーティングだけで回復する」という話が混じってくるのは、AAのプログラムが他のもので薄められたということかもしれません。


2012年10月09日(火) 目標値(日本のAAメンバー数)

先日のポスターセッションで、日本のAAのメンバー数は5千人前後で、まだまだ量的成長の余地がある、という話をちらりとしたら、「では、目標は何人なんだ?」という質問をその場で頂きました。

え? なんですって? 目標値? 確かに、何かの目標は持たなくちゃならないでしょうが、団体としてのAAはそんなの決めたことはないんじゃないかな。とりあえず「個人的には10万人ぐらいになって欲しい」とか言って、その場を過ごしちゃったのですが、それなりに根拠のある数字を考えとかないとだめですよね。

AAは会員名簿も作らないし、自分がAAメンバーだと言えばその人はAAメンバーなので、正確な人数を数えるのは不可能です。ただ、そうも言っていられないので、それなりに数える手段はあります。オフィスに登録しているグループは年の初めに、代表者やミーティングの情報を書いた用紙をオフィスに送りますが、そこにはグループのメンバー数を書く欄もあります。その数字を積算すれば、登録グループ所属のAAメンバー数は勘定できます。それを元にしたのが約5千人という数字です。

もちろんこれには、ホームグループを持たないメンバーとか、自分はAAメンバーだと思っていてもミーティングに行っていない人は含まれない可能性大ですが、それは仕方ない事だと思います。(その人がAAメンバーだと名乗っていても、AAのほうじゃ勘定に入れてない、ってことが起こりうるって話)。

この数字が現実と乖離しているんじゃないか、という指摘もあります。登録用紙に多めの人数を書いたりして、水増してるのじゃないのか? という疑いです。2007年に関東でサービスフォーラムが開かれたときに、実行委員が全国のグループに直接連絡を取ってメンバー数の正直なところを聞いたそうです。連絡の取れないところは、その周りのメンバーから情報を集めて、そうやって集計した数が約4,500人でした。5年前で4,500人、現在5,000人。調査の方法のアバウトさを考えれば、概ねそんなものでしょう。

で、その5千人を何人にするのが目標か、という数字の話でしたね。

AAがそれなりにうまく機能しているアメリカには138万人のAAメンバーがいます(アメリカ・カナダのAAは一体なので、これは両国を合わせた数字)。
資料はここ、
ESTIMATES OF A.A. GROUPS AND MEMBERS
http://www.aa.org/lang/en/en_pdfs/smf-53_en.pdf
推参の方法は、日本とだいたい同じでしょう。

北米 1380 : 日本 5 (単位:千人)

276倍も違うぜ!

ただし、これは母数の違いを考慮に入れていません。日本とアメリカでは人口も違うし、たぶん有病率も違うでしょう。それを計算に入れないと。

アメリカの有病率ってどれぐらいだろう? と思って「prevalence alcoholism」でググったら、こんなのが見つかりました。
Prevalence, Correlates, Disability, and Comorbidity of DSM-IV Alcohol Abuse and Dependence in the United States
http://archpsyc.jamanetwork.com/article.aspx?articleid=482349

有病率ってのは診断基準によって違ってきますが、この研究ではDSM-IVのを使っています。alcohol dependence(アルコール依存症)の12ヶ月有病率は3.8%(男性5.4%、女性2.3%)、生涯有病率は12.5%(男性17.4%、女性8.0%)。すごい数字であります。さすがは「人口の1割がアルコール依存症になる」とか「誰でも親戚に一人はアル中がいる」と言われるお国柄。

アルコホーリックが多いのは「男性」「白人もしくはネイティブアメリカン」「若くて独身」だとあります。

アメリカの成人人口は2億5千万人ぐらい。カナダにおける有病率のデータは知りませんが、人口が少ない(成人人口2千6百万人ぐらい)なので、アメリカと合わせて、生涯有病率の数字を使ってテキトーに計算すると、アルコール依存症者の数は3千4百万人ぐらいとなります。「アメリカのアル中は3千万人」という数字を他で聞きましたが、だいたい同じ数字になりましたね。

さて日本です。厚生労働省の調査班が2004年に発表した調査では、日本のアルコール依存症の有病率は0.9%(男性1.9%、女性0.1%)。基準はIDC-10だから、DSM-IVとそんなに違わないでしょう。そして、日本におけるアルコール依存症者の数を80万人と見積もっています。

北米 34000 : 日本 800 (単位:千人)

42.5倍だ。

母数が42.5倍違うので、138万人を42.5で割った結果が3.2万人。日本のAAは、とりあえず3万2千人のメンバー数を目標にすればいいんじゃないかというお話。まあ、途中の計算が相当いいかげんなので、話半分に聞いて欲しいのですが。

さて、アメリカのAAですら、3千4百万人のアルコール依存症者のうち138万人しか「惹きつけて」いないのです。全アルコホーリックの4%にすぎません。アメリカのAAは良い結果を出していますが、それでも「この問題のほんの上っ面をかすめたにすぎない」(p.29)のです。

それでもアメリカのAAは健闘していると言えます。
http://www.cam.hi-ho.ne.jp/aa-jso/data/newsletter/s09.pdf
に、ヴァリアント博士の話が載っていますが、アメリカにおけるアルコール依存症からの回復例の4割がAAを通じてのものだそうです。残りの6割のかなりの部分は回復施設を通じてのもので、施設の多くは12ステップをプログラムに取り入れています(もちろんそうじゃないところもある)。

日本に比べて何十倍もアルコホーリックが多く、しかもその1割しか酒をやめない、前の論文によれば治療を受けたことのある人も全体の1/4に過ぎない、それがアメリカの現実です。かくも彼の国の酒の害は深刻なのです。だからこそ、政府が施設に税金を投入して回復プログラムが進歩するし、優秀な頭脳が集まります。また、税金を投入しなくても良いAAは重宝がられます。(自助グループには公的機関の手が回らない部分を引き受けている側面がありますから、自助グループが盛んになれば政府の支出は減ります)。

アメリカのアディクション治療は日本より何十年も先を行っている、と言われますが、あちらには真剣に取り組まざるを得ない社会背景があってこそです。とは言うものの、日本にだって、まだ何十万人も未治療、未回復の人がいることも事実です。日本でも80万人のうち、4%ぐらいをAAが引き受けて、3万2千人のメンバー数、というのもあり得ない数じゃないと思いますよ。

ま、そういった数値目標がAAに相応しいかどうかはともかく。


2012年10月03日(水) 脳の機能障害と回復

掲示板のほうで、脳の機能障害という話をしました。

この脳の機能障害が何を示しているかというと、大脳皮質、特にその前の部分(前頭前皮質)の機能低下のことを指しているわけです。前頭前皮質は、僕らの額の中の所に収まっています。前頭前皮質は、過去の経験や知識に照らし合わせて計画性や創造性を発揮する・・という、まさに人間らしさを実現しているようなところですが、その部分の活動が鈍ってしまいます。すると考えることやることが、無計画で衝動的になってしまいますし、トラブルになると易怒的・他責的な対応になってしまいます。

アル中は、酒をやめて素面になればすぐにマトモに戻る、と信じています。しかし、アルコールによる脳への影響は酒をやめても長く残ります。自分の脳が酒のせいで萎縮しているかどうか、を気にしている人がいますが、容積の問題ではなく機能しているかどうかです。脳の働いている部分は、酸素の消費量が多いので血流が増えます。この血流を計測して三次元的に視覚化したSPECT画像が こちらのページ にまとめてあります。

これを見ると大脳皮質の機能は、断酒後の時間の経過と共に戻っていく様子が分かります。1年経過しても、かなり機能低下が目立ちますが、それでもかなり正常に近づいています。「イライラ3年、ぼちぼち5年」というのもうなずける話です。

ちなみに、うつ病の人も、前頭部の血流が低下している(機能低下)が認められ、これを利用した診断方法の開発が進められているとニュースにありました。

何もしなくても経時変化で良くなっていく、というのなら、自助グループに通わない人でも良くなっていったり、共同生活とミーティングだけで特別なプログラムのない回復施設の効果が説明できます。ただ、なかなかそれだけでは、うまくいく人が少ない、というのがアルコール・薬物依存症の現実です。だからみんな苦労するわけです。

断酒初期に再飲酒が多いのは、前頭全皮質の機能障害で衝動的に行動してしまうことが多いから、という理由で説明できるとします。ではなぜ、10年経っても、20年経っても飲む人がいるのか。それについての話をしてみます。

ジェリネク博士は、50年以上前に大量のアルコホーリックを調査した研究者です。彼の文章は こちら に置いてあります。アルコホーリックになる前の段階のところに、こんな記述があります。

「後のアルコール中毒者(時々異常に飲過ぎる人も)は、大方の社会的なドリンカーとは対照的に、間もなく酒による際立った開放感を味わう」

後にアル中になる人は、酒を飲んだときに感じる快感が普通の人より大きい、と言っているわけです。

人間の脳には「報酬系」とか「報酬回路」と呼ばれている仕組みがあります。生存に有利なことが起きると、報酬系が働きます。人はそれを「快感」とか「気分の良さ」として感じます。食物を食べれば血糖値が上がりますが、それは生存に有利なので気持ちよさを感じます。暖かい布団で寝るのが気持ちよいのも、セックスが気持ちよいのも、お金が入ると気分がいいのも、良い人ですねと褒められれば気分が良いのも、この報酬系の働きによるものです。

この報酬系というのは脳全体の働きによるものですが、その中核は、側坐核や腹側線条体と呼ばれる部分です。これは脳の表面(皮質)ではなく、もっと真ん中あたりに存在します。人が心地好さを感じているときには、側坐核が活動しており、現在の技術はその活動を測定することを可能にしています。

なぜアルコール依存症になる人は、他の人と比べて際だった快感を酒で感じるのか、という疑問に挑んだ人たちがいます。

参考リンク:
心の由来:「心」についての身もふたもない話
依存症なままでは早死にしちゃうよ? パートIII
http://blogs.yahoo.co.jp/kopheee/9869947.html

Wrase先生たちは、アルコール依存症(断酒中)を集め、アルコール関係の写真を見せたり、ゲームをさせてお金が手に入ったり失ったりという体験をさせ、その時の側坐核の活動を普通の人と比較しました。

すると、アルコール依存症の人は、ゲームで普通の人と同じ程度の結果を出していても側坐核の活動は鈍く、飲酒を予感させるアルコールの写真には逆に強く反応しました。

この結果から、おそらくこんな事が言えるのではないかと考えられます。「報酬系の働き」も人によって違い、生まれつき働きが強い人も、弱い人もいるだろうということは、当然予想されます。

報酬系の働きが強い人は、生活の様々な場面で喜びや幸せを感じます。逆に報酬系の働きが弱い人は、他の人と同じ環境に置かれていても、喜びや幸せを感じることができず、むしろ惨めさを感じる回数も多いでしょう。

つまり「幸せを感じる能力」も、人の能力の一つで、個人差がある。勉強であれ、スポーツであれ、能力を伸ばそうと思ったら、努力して鍛えるしかありません。幸せを感じる能力も、同じように鍛えることはできるはずです。能力を伸ばすのに、努力が要らない近道はありません。鉄棒で逆上がりができるようになるには、ひたすら練習を繰り返すしかありません。

ところが、「幸せを感じる」ことについては近道があります。アルコールや薬物は直接報酬系に働きかけ、人に多幸感をもたらします。普段、喜びや幸せを感じていないぶんだけ、アルコホーリック候補生は強い開放感を味わいます。何かをきっかけにして、多幸感を常に酒に求める行動を繰り返すようになります。

報酬系の働きで、脳のシナプスでドーパミンがたくさん放出されると、私たちはそれを気持ちよさとして感じます。放出されたドーパミンはシナプスの受容体で再取り込みされますが、ドーパミンの大量放出が繰り返されると、受容体が閉じて数を減らしていきます。すると私たちは、以前ほどの快感を感じられなくなります。

そこで、元のような快感を求めて、よりたくさんの酒を飲むようになる。それが「酒が強くなる」ことであり、酒に溺れていく原因でもあります。ぶっちゃけ、鈍感になったので、より強く刺激しないと感じなくなっただけなんですが。アル中が何年酒をやめても、この報酬系は元には戻りません。再飲酒すると、最初はうまく酒がコントロールできても、遠からず元の飲んだくれに戻るのは、脳の中でこういうことが起きているからだと考えられています。

元々幸せを感じる能力が低かった上に、さらにそれを酒で鈍感にしてしまった僕らはどうすればいいのでしょうか。

酒をやめたアル中が「酒に変わる趣味を持ちたい」とよく言いますが、残念なことに、アルコールほどの快感をもたらすものは(その人にとって)ありません。手っ取り早い心地好さを求めている限りは、酒以上のものはないでしょうね。

それでも人間の脳にはいくばくかの復元力があるらしいのです。イライラと自己憐憫の塊だったアル中が、断酒何ヶ月かで道ばたに咲いている花の美しさに感動した、という話をして周囲をビックリさせたりします。幸せを感じる能力が幾分戻ってきている、ということでしょう。

ところが、僕に言わせれば、こうした能力を対人関係の中で発揮するには、相当の高さが求められるのです。

例えば私たちは、褒められれば嬉しい(快)だし、叱られれば切ない(深い)。切ないどころか不愉快で反発したり、叱られることが理不尽だと感じたりします。ところが、叱られながらも、相手が本当に自分のことを心配して叱ってくれているのだとか、自分に期待をしているからこそ叱るのだと気付いて、相手の思いやりに嬉しさがこみ上げて涙がにじんでしまった・・という体験が、普通の人なら(アル中でない普通の人なら)あるはずなんです。でも、酒をやめただけのアル中には、そういうのはありません。同じ体験をしても反発だけです。何年酒をやめても。これは単なる例に過ぎませんが。

物に幸せを感じるのは比較的容易でも、人に対して(特に自分の意のままにならぬ人に対して)幸せを感じるのは、難しいことで、経時変化に期待することは出来ません。そして、生きていてもつまらない世界に住んでいる人が、即効性の幸せ薬に手を出すのは時間の問題です。

だから、幸せを感じる能力を鍛えることが必要です。その手段の一つが12ステップというわけです。認知を変えれば、行動が変わり、その人を取り巻く世界も変わります。人を変えるのは難しいし、ましてや世界を変えることはできません。しかし、自分を変えれば世界が変わります。なぜなら、自分の感じ方が変われば、世界は以前とは違って見えるからです。

血流だとか、神経伝達物質とか、受容体というミクロレベルのことが、認知というマクロなことで変わりうるのでしょうか。うつ病に使われる抗うつ剤は、脳内の神経伝達物質のバランスを調整することでうつを解消する働きがあります。しかし、薬を使わない認知行動療法でも、抗うつ剤と同様の結果が出ていることが知られています。つまり、認知の修正というマクロな手段が、脳内のミクロな世界に影響を及ぼしうる、ということです。

酒をやめても回復していないアル中は、即効性の喜びを求めてウロウロします(即効性の喜びは酒には限りませんが)。

それは、何とか練習しないで鉄棒ができるようにならないか、勉強しないで合格できないか、という考え・行動と同種のものです。さらには、努力している他者に対するやっかみも相当強くて、それがますますその人を不快な気分にさせ、一時の慰めがさらに欲しくなります。

飢えた人に魚を与えれば、その日は満ち足りるかもしれません。だが、その人は翌日も魚を要求するでしょう。漁の仕方を教えれば、その人は一生飢えることはありません。でも、漁の仕方は要らないから魚をよこせ、よこさないお前が悪いのだ、と言うのがアル中の脳の機能障害です。

飲まないでいれば経年変化で解消される部分もあるでしょう。しかし、持って生まれた報酬系の働きの弱さは、意識的な努力と行動によって鍛えるしかありません。


2012年10月02日(火) 本人だけの集まりの欠点

最近は、たまに近在の断酒会に出席しています。といっても、用事があるときだけなので、年に数回にすぎません。それでも何年か続けていると、門外の僕にもそれなりに断酒会の雰囲気が分かってきます。

僕の周りには、AAと断酒会の両方に出ている人も結構たくさんいます。断酒会がメインの人は、AAに来ても断酒会っぽい話をしているな、と思います。

AAと断酒会にはいろいろと違いがあります。名前を出す(顕名)の集まりか、無名の集まりか。会費制か献金制か。助成金を受け取るか、受け取らないか。断酒会の指針・規範とAAのステップ・伝統の違い。良く言われるのは、こうしたことです。それらは確かに違いを作り出してはいますが、もっと大きな違いを作り出しているものがある、と考えるようになりました。

それは、家族の出席の有無です。AAはアルコホーリック本人だけの集まりです。だから、クローズド・ミーティングに出られるのはアル中本人だけです。オープン・ミーティングならば家族も出席できますが、メンバーとしてではありませんし、話すのはAAメンバーだけというオープン・ミーティングも少なくありません。AAでは家族はお客さんなのです。

家族のためには、アラノンという別の12ステップグループが用意されており、旦那がアル中だったら、旦那がAA、奥さんがアラノンに参加するのが良い、ということになっています。

日本のアラノンは基本的にクローズド志向なので、本人は出席できません。だから、AAメンバーは家族がミーティングで話をしているのを聞く機会がほとんどありません。自分の家族の話も、他のアル中の家族の話も、聴く機会に恵まれません。

断酒会は、基本的には本人も家族も一緒に例会に参加しています(本人だけ、家族だけの例会に分けることもありますが、基本は一緒)。そこでは家族の話を聞くことができます。

例えば、本人の飲酒に苦しめられた家族は「もう死んで欲しいと本気で何度思ったことか」という話をすることがあります。ところが本人は、家族がそこまで追い詰められていたとは、まるで思っちゃいないものです。家族がそこまで(心理的に)自分を見放していたとは思っていない。どこか、まだ見放されていない、大丈夫だという甘えがあります。

だからこそ、本気で死んで欲しいと家族に思われていた、というのは本人にとっては受け入れがたい事実です。そんな風に自分を見限った相手とはもう暮らせない、とまで言い出したりします(困ったもんだ)。自分の妻が例会に出ていなくても、出ていてもそう言わなくても、他の人の奥さんがそう言っていれば、自分の妻も同じかも知れない、と思い至るようになります。(最初のうちは、あの旦那は酷いことをしたんだなとか、あの奥さんは我慢が足りないなとか、自分のことを棚にあげて考えていたとしても、やがてはその態度に変化が起こるものです)。

受け入れがたいと思っても、受け入れざるを得ないものです。なぜなら、他の夫たちは、妻たちの言葉を、口を結んだり、苦笑いでごまかしたりしながら、受け止め、受け入れているからです。そこで、自分だけ言葉を拒絶するわけにはいきません。例会を重ねるうちに、自分にとって理不尽に感じる、不愉快なことでも、相手の立場に立って物事を見て、受け止められるようになっていきます。それが回復というものでしょう。

そういう話は家ではできず、例会だからこそできる(小出しにだけどね)。それがグループにおけるダイナミクスというものです。

奥様が、「指針には、迷惑をかけた家族には償いをすると書いてあるけど、ウチはまだよね。楽しみに待っているわ」とか発言しても、会場がくすくす笑いに包まれるのは、良い会場だと思います。

逆の効果は家族の側にも起こります。本人がまだまだ身勝手なことを言ったり、やったりしていても、他の奥さんたちがそれを受け止めているのを見て、本人の回復には時間がかかることを受容できるものだと思うのです。

同じ事は性別を引っ繰り返しても起こることだと思います。(奥さんがアル中で、旦那が家族として例会出席)。ただ、僕の周りの断酒会には女性のアルコホーリックの姿はほとんどないので、見てきた話としては言えないのが残念なところです。

日本のAAではこのような仕組みがなかなか働いてくれません。家族の立場からの視点は、時に本人にとって批判的に感じられます。そういう自分とって厳しいことを受け止めていく機会が与えられないまま、AAメンバーは酒をやめていきます。本人たちしかいない環境で、同調圧力や共感がお互いに甘えを許す方向に働いていきます。だから、やや甘えた、脆弱な回復になってしまいます。AAで何年も酒をやめた人が、ちょっと厳しいことを人に言われたり、難しい立場に追い込まれただけで、他罰的な恨みがましい感情をずっと引きずったりするような、面倒くさい人のままだったりします。

AAでも、オープンの会場に家族が何人も来るようなグループでは、やや断酒会に近い好循環が起きていることもあります。だが、そういう会場は「あそこには家族が来る」と言って、一部のAAメンバーからは忌避されます。(そういうこと言っているからダメなんだけど)。また、断酒会でも家族の出席が少なく、本人主体の会になってしまうと、AAと同じ傾向になるようですね。

アメリカでAAが始まった頃は、本人も家族も一緒にやっていたものが、なぜAAは本人だけのグループにしたのか。その事情はAAノパンフレット『アルコール以外の問題』に書かれているので、ここでは繰り返しません。ただ、アメリカのAAとアラノンは別団体であるにしても、日本よりずっと近しい関係だと聞いています。イベントにはお互いのスピーカーを招き合うので、AAメンバーが家族の話を聞く機会も多く、普段のミーティングも同じ建物の別の部屋でやって、終了後のアフターは一緒に過ごすというのも珍しくないのだとか。

日本のAAとアラノンが、どうしてこんなに冷たい間柄になってしまったのか。今さら昔の話を蒸し返しても仕方ありませんが、一部の人たちの確執が、AAとアラノンの分断を招いてしまい、関係が修復されないまま現在に至っています。その分断は、AAメンバー一人ひとりの回復にとって、明らかにマイナスでした。残念なことです。できれば、今後数年間の間に、少しでも関係改善が図れれば良いのですが。

それはともかくとして、AAのミーティングだけにしか出ていないと見えてこないものがあります。少しでも興味があるなら、断酒会の例会に出てみることを勧めます。慣れない人は驚くことも多いかも知れませんが、あなたの心が開かれていれば、足を運ぶだけの価値はあると思います。

(もちろん、それは逆にも言えます。断酒会の人も、興味があったらAAのミーティングに足を運んでみていただきたい。あなたの心が開かれていれば、きっと得るものがあるはずです)。

私たちは他者を通じて自分の姿を見るのです。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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