心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2011年05月31日(火) 家族の抑圧

前回の雑記で、アル中本人が(病気のせいで)自分で望んでいないことをやり続けざるを得ないために、自分の真の感情を抑圧する防衛システムを作り上げるという話をしました。

「望んでいないことをやり続けざるを得ないので、真の感情を抑圧する」という点では家族も同じです。

例えばアル中の奥さんの立場を考えてみます。
「アルコホーリクは、他人の人生を巻き添えにして巻き上がる竜巻のようなもの」(AA p.119)なので、アル中と暮らしていれば、やがて奥さんの人生も子供の人生も台無しになっていきます。遅かれ早かれ、彼女(奥さん)は人生が台無しになることを予感します。

経済的な問題を考えてみます。彼女は専業主婦かも知れませんし、働いているかも知れませんが、いずれにせよダンナの稼ぎに多くを依っています。ダンナが酒でトラブルを起こして収入が減ったり無くなったりすれば、彼女や子供の生活と将来が脅かされます。それを防ごうと、トラブルの尻ぬぐいをし、トラブル予防の世話焼きをして、ダンナが社会的立場を失うのを防ごうとします。

イネイブリング理論では、この尻ぬぐいや世話焼きが良くないのだと言います。そうした妻の行動によってトラブルが覆い隠されてしまい、本人が自分の起こしているトラブルすなわち病気に直面する機会を失わせ、酒を飲み続けることを可能にするとされています。手助けを避ければ、トラブルが表面化して回復のきっかけになるというコンセプトです。これにより、仕事や家族を失って社会の底辺に落ちることが底つきだという誤解も生まれました。その理屈で言えば、まだ仕事や家族があるうちは底つきができなくなってしまいます(もちろんそうではない)。

彼女は離婚を考えるかも知れませんが、離婚は経済的支えを失うことも意味するのであり、まして子供があればその父親との関係がゼロになるわけでもありません。もっと状況が悪化すれば離婚が現実的な選択肢になるかもしれませんが、多くの奥さんは「いつの日かダンナが無気力から立ち上がって、意志の力を使い始めることを期待」するほうを選ばざるを得ません。ダンナの手助け以上に、自分の生活や子供の将来を守る「必要性」があることを忘れてはいけません。

そうやってダンナに期待し信じたところで、現実にはトラブルが頻繁に起こり、家族は打ちのめされます。だから、信じられない、信じたくないという気持ちになったとしても、でもなお期待し信じなければ今日の生活が守れない立場に置かれます。そのように家族も「望んでいないことをやり続けざるを得ない」という立場に置かれて、抑圧を発達させます。

アラノンやギャマノンの目的が、この抑圧だと誤解している人もいます。ダンナが飲み続けて家に帰ってこず、どこにいるのか分からないにもかかわらず、「ダンナのことはちっとも気にならない。私は私の人生を生きているから幸せよ」という人がいたとします。しかし現実にはダンナの飲酒(あるいはパチンコでの借金)によって彼女の生活や、子供の将来が脅かされている・・・生活の根幹が崩れつつあるのに幸せだと感じているのなら、それは精神が病んでいるとしか言いようがありません。

本人が病気のどのステージにあろうとも、家族は感じている気持ちを抑圧し続けます。その結果、他者への恨み、後悔、自己憐憫に支配されるようになる点は本人と同じです。家族の中で酒を飲んでいる(ギャンブルをやっている)のは一人だけかもしれませんが、家族全員が同じ病み方をします。アルコール依存症と診断されるのは一人だけかも知れませんが、他の人の病も同じです。これが、疑似アルコホリズム(para-alcoholism/co-alcoholism)と呼ばれたものです。これがアルコール以外の依存症にも拡大され co-dependence/co-dependency という名前を獲得し、それが共依存という日本語に訳されるようになりました。

だから、例えばアルコール依存と共依存を違うものと考えたり、違った回復戦略が必要だと考えるのは間違いです。AAとアラノンはまったく同じ12ステップを使って同じ回復を成し遂げることを目的としています。

子供の世代についてここで深入りするつもりはありませんが、基本的には同じです。例えば子供は「お父さんが酒をやめないのは、自分のせい(自分が悪い子だから)ではない」と頭で理解することはできても、なお自分を責める感情はなくなりません。妻なら離婚できても、子供の立場で親の問題から逃げるのは現実的には無理なことなのです。ここでも同じ構図が成り立っていることに気づかれるはずです。(ダンナが酒をやめる前に離婚してしまった奥さんもおなじ感情を抱えている話はよく聞きます)。

共依存概念とは、「家族にアルコホーリクが一人いれば、家族全体が本人と同じように病む」という考えから生まれてきたものです。本人と家族を対立するものと考えたり、違いを探すことではなく、同じところを探すことでしか共依存概念を理解できないでしょう。アラノンの12ステップのステップ1は「アルコールに対して無力」だと言っています。問題が同じであれば解決も同じ、それを手に入れるためのステップ3から先の行動も同じです。

ただし、アル中がどうやって酒を切るかという話は12ステップには含まれていません。まず入院して酒を切ってこいとビッグブックにあります。そこは12ステップの担当範囲外なのです。同様に家族がどうやって本人を治療に結びつけるかという話も12ステップの範囲外で、別にインタベーション(介入)の手法が必要になってくるわけです。介入は専門家の手ほどきを受けながら家族が行うもので、日本でもその情報が提供されるようになってきています。

共依存概念は誕生以降、どんどんその守備範囲を広げているようです。それだけに何が問題なのか見えなくなってきています。僕は共依存という言葉をなるべく使わないようにしています。本人がアルコール依存症になり、家族が共依存になるという表現をすると、まるでそれぞれ違った問題を抱え、違った解決があるかのような誤解を与えるからです。その言葉はCoDAの人たちが取り組んでいるような「相手の回復成長を妨げる支配関係」に限って使うべきだと考えています。アル中の家族にもそのような共依存症の人はいるでしょうが、すべての家族がそうではありません。

前述のように共依存概念の成立は1970年代・80年代です。アラノンはそれよりずっと前から存在しているわけで、そのところを頭に置いて欲しいと思います。


2011年05月30日(月) アル中の自己防衛システム

アル中は本当に酒を飲みたいと思っているのでしょうか。

飲んでいればトラブルがやってきます。仕事ができなくなる。金が稼げなくなる。家族や友人との約束も守れなくなる。そればかりでなく人に迷惑をかける様々なことをしでかしてしまいます。長い目で見ればその人の人生も、周りの人たちの人生も台無しになってしまいます。

アル中の人は、そんな風に物事を台無しにしたいと思っているのでしょうか。

いや、決してそんなことはありません。彼(彼女)は、できることなら、健康的で、人に迷惑をかけない、社会的に自立した生活を送りたいと願っています。

けれど依存症という病気が強迫性や渇望によって彼(彼女)に酒を飲み続けさせてしまいます。そのせいで、アル中は望んでいない人生を送ることになります。彼(彼女)は本当はそんなことはしたくない。人に迷惑をかけたり、信頼を裏切ったり、自分や家族の将来を台無しにしたくない善良な人間です。であるにもかかわらず、彼(彼女)が現実にやっていることは、結果からすれば物事を台無しにすることばかりです。

しかもそれは誰に強いられたわけでもない、彼(彼女)が自分でやっていることです。やってはいけない悪いことを自分の意志でやっている・・まるで自分が道徳観念の欠如した悪人か、立ち直る気のない意志薄弱者のように思えてくるし、まわりもそう見なすようになります。彼(彼女)はそこから抜け出そうと努力しますが、たいていは成功しません(病気だから)。

人間はそのような自分の姿を真っ正面から見ることに耐えられません。激しく自尊心が傷つき、最悪の自殺に発展しかねません。だから、彼(彼女)は自分自身を守るために、自己正当化を行います。つまり、理由付けです。

例えば酒を飲まなければならないのは、ストレスのせいだと言い出します。ストレスに耐えてやって行くにはどうしても酒が必要なのだ。だから悪いのは自分ではなく、家族や職場の連中、あるいは社会が悪いと言います。育った環境や親のせいにすることもあります。単に自分は酒好きだと言う場合もあります。

最初は自分にウソをついていることを自覚していますが、やがてそのウソを信じるようになっていきます。自分は善良な人であり、身の回りで破壊的なことが起きているのは周囲の悪人たちのせいだという「防衛」を完成させます。この防衛によって彼(彼女)は、善良に生きたいという自分の理想と、破壊的な現実の行動との折り合いをつけ、自殺せずに生きていくことを可能にしているのです。アル中の自己正当化というのはこのように形作られます。

残念なことに、この防壁は酒をやめても消えずに残ります。彼(彼女)は鏡に自分の姿が映るのを避けるように、正確な自己像を捉えることを拒みます。酒をやめてしまった以上、辛い現実に直面しても酒に逃げ込むことができなくなるからです。他者への恨み、後悔、自己憐憫が相変わらずその人を支配しています。この世の中はクズばっかりだし、自分の人生はもはや生きるに値しないと感じています。そうした感情や、その態度によって発生する他者との軋轢が、彼(彼女)を再び飲酒へと引き戻してしまうことは良くあることです。

アル中の回復とは酒をやめることであり、酒をやめるとはこの「防衛」が取り除かれることです。そのためには、どんなに嫌でも鏡に映った自分の姿を見るしかありません。ただ、それを一人でやることに慣れている人はいませんから、何らかの他者の手助けはどうしても必要なことです。

他罰性、尊大性、被害的認知、自己正当化などはこの防壁の現れです。防壁が取り除かれたとき、その陰に隠されていた善性が再統合され、自分自身に対する信頼、他者に対する信頼を取り戻すようになります。彼(彼女)は自分が思っていたほどの善人ではないかもしれませんが、自他の不完全性を受け入れて生きていけるようになります。

まとめると、アル中は自分が最もしたくないことをせざるを得ない状況に追い込まれ、生きていくためにやむなく「防衛システム」を身につけます。自分に嘘をついて人を責めることが上手になります。それがアルコール以上に彼(彼女)を生きづらくさせています。そして、回復とはそれを取り除くことです。

では家族はどうなのか? 実はこの文章は家族のことを書くための前説です。なので、次回に続きます。


2011年05月29日(日) 良いことが起きたときだけ

良いことが起きると「これは神さまのおかげ」と感謝する人がいます。

その人にとって、神さま=自分に都合の良い存在、ということです。自分に都合の良い事をしてくれるのが神さまであり、良いことが起こればそれは自分の信仰の証しであると考えます。

悪いことが起これば、「私は真面目にやっているのに、なぜ神さまはこんなヒドいことをされるのだろう」と恨むのです。あるいは、自分の信仰心が足りないのではないかと悩んで見せたりします(まあそれは否定しないけど)。

神さまは自分に都合の良いことばかりして下さるとは限りません。

「神は父であり私たちは子である」(AA p.90)

僕らは神という大人に面倒を見てもらっている幼い子供のようなものです。子供は歯を磨きたくないかもしれません。けれど、それを放っておくわけにはいかず、大人が代わりに歯を磨き、やがて本人が自ら歯を磨くように仕向けます。遊んでいたいけれど勉強させたり、夜遅くまで起きていたいけれど寝かせることをします。いずれも、本人の将来のためであり、本人の希望通りにすることが良いことではありません。

ママはいつも夜早く寝ろってうるさいけど、ママが実家に泊まる日は、パパと一緒に夜更かしするの。でも次の日にパパと昼まで寝ていると、帰ってきたママがすごく怒るの。だからママは嫌い、パパが好き・・・良いことが起きると神さまのおかげだと感謝する人は、こういう子供みたいな存在なのです。

神さまは自分に都合の良いことばかりして下さるとは限りません。僕らから見たら理不尽としか思えないこともいっぱい起こります。でもそれは、僕らが神さまのような全知全能ではないから、何が本当に良いことか分からないだけかもしれません。

会社が倒産したり、恋人が心変わりをして去っていったり、アル中が酒を飲んで死んだり・・・それが必ずしも悪いことだとどうして言えるのでしょう? それはあくまでもあなたの(あるいは僕の)判断に過ぎません。

信仰心を持っているつもりで、実は神さまに「あれをしなさい」「これはしてはいけません」と指示を飛ばして、いつのまにか神さまより偉くなろうとしている人は困った人です。

世の中には良いことも悪いことも起こります。信仰心を持とうと持つまいと、そのことを受け入れている人たちがいます。神という言葉を使わず神を意識することがなかったとしても不合理不条理な世界を嫌わずに生きている人であれば、それは立派に信仰を持った人だと言えます。

悪いことが起きると神さまを恨んでいるようなら、信仰心がその人を劣化させたと言う他はありません。それは「不可知論者」の態度です。橋を渡ったつもりでまだこちら岸にいるのです。


2011年05月25日(水) 怒りと恨み

ここで言葉の意味をはっきりさせておきます。

怒り(anger)は僕らが良く経験する感情です。例えばあなたが道を歩いている時に誰かがぶつかってきたら、怒りの感情を覚えるでしょう(身体的安全の問題)。誰かが話している言葉が、あなたを怠け者だと指弾しているように聞こえたら、あなたはその相手に対して「私のことを何も知らないで何を言うか!」という気持ちになるでしょう(自尊感情の問題)。

怒りの感情は必要なものです。怒りの感情によって、僕らは自分の安全安心や、自己評価や、そのほか大事にしているいろいろなものを守ることができます。怒りは僕らが生きて行くために必要だからこそ与えられているものです(程度問題ではありますが)。

では恨み(resentment)とは何か。ジョーのステップでは恨みを、re と sentment に分解して説明しています。re という接頭子にはいろんな意味がありますが、ここでは「再び」とか「何度も」という意味です。sentment という英単語はありませんが、sentient(知覚)と語源が同じで「感じる」という意味です。

つまり恨みとは「何度も何度も怒りを感じる」ことです。例えばあなたが「怠け者」と言われたら、その時に「何も知らないで何を言うか!」という怒りの感情を抱きます。その数日後にまた「怠け者」と言った相手に会ったとします。するとあなたの中で数日前の「怠け者」という言葉が思い出され、「再び」怒りの感情を抱きます。さらには、別に相手に会わなくても、その人のことを思い出しただけで、同じ感情がぶり返されます。これが恨みです。

この時、相手は一度だけ「怠け者」と言っただけです。(それも言ったかどうか本当は分かりません。ただあなたがそう感じただけかもしれません)。けれど、あなたは何度も何度も恨みの感情をぶり返し、傷つきます。(相手は何もしていないのに!)

あなたが折角良い気分で楽しんでいても、部屋に相手が入ってきたとたんに、あなたの心に恨みがわき上がり最低の気分になります。これは「自分の感情を相手にコントロールさせている」ということです。相手に謝罪や反省をしつこく要求する人もいます。相手に頭を下げさせればスッキリするかもしれませんが、逆に相手が頭を下げなければいつまでも最低の気分でいることになります。そして、相手が頭を下げるかどうかは相手次第です。つまりこれも「相手に自分の感情をコントロールさせている」のです。

なんとか相手に謝罪させようという努力は、自分が相手をコントロールする努力に見えますが、実は逆で相手に自分をコントロールさせる努力になってしまっているのです。相手はあなたの感情をコントロールしたいとは思っていないでしょう。しかし、あなたが勝手に(恨むことで)相手に自分の感情をコントロールさせているのです。「どうか私を支配して下さい」と頼んでいるようなものです。

僕はそんなのは嫌です。誰の支配も受けたくないし、自由でありたい。自分の感情は自分でコントロールしたいと思っています。だから恨みは手放す努力をします。相手に謝罪を要求することもありますが、相手にその気がなければそれ以上の努力は自分を傷つけるだけに終わります。

恨みがましい人間の感情を支配するのは簡単です。ちょっとその人の気に入らないことをやってあげれば、いつまでもこちらを恨んできます。世の中にはそうやって恨みがましい人をからかって遊ぶ悪い人もいます。恨まれるのは楽しいことではないものの、それで相手の気分をコントロールすることを楽しめるなら安い代償だと考える人もいるということです(恨みがましい人は無視したりスルーすることができないから)。つまり恨むことによって傷つけられやすい立場に身を置いてしまうということです。

恨みという感情は自分が疲れる感情です。脳が疲れれば鬱になります。鬱の人は恨みを抱えているものです。せっかく休息や薬で鬱が改善しても、恨みがましい癖が抜けないので、また鬱に戻っていきます。

恨む人は「私は正しい、あいつが間違っている」と言います。恨むことは、相手にコントロールされること、支配されることを望むことです(歪んだ愛情)。恨む人は幸せと健康を拒み、不幸と鬱を愛する人たちです。


2011年05月23日(月) 伝統に関する議論

掲示板で伝統7(AAの経済的自立)についてのスレッドが続いています。
スレッドの流れとは別にメモ的にちょっと書いておきます。

日本のAAのミーティング会場は、たいていキリスト教の教会の一室か、公民館のような市町村の施設の部屋を借りて開かれています。

AAが教会の部屋を借りている場合には教会に使用料を支払っています。使用料を支払うことによって、教会とAAグループが別の団体であることをハッキリさせる意図があります。使用料といっても名目上のものであることが多いでしょう。おそらく教会側としては献金として受け取っているのでしょうが、真面目な信徒の方が毎月献金する額にくらべたらわずかな額にすぎません。AAの支払う使用料は、教会の財政運営にはほとんど寄与できていないはずです。

(だから教会によっては無料で貸すと言ってくれるところもあるほどですが、それを断って純粋にAA側の都合で使用料を受け取ってもらっているわけです)

教会にとっては経済的なメリットがないにもかかわらず、なぜそのような善意の取り計らいをしてくれるのか。その事情については詳しくないのですが、おそらく教会が地域のコミュニティーセンターのような役割を担うべきだという思想があるのでしょう。昔のテレビドラマ「大草原の小さな家」をみると、村で何かが起こるたびに皆で教会に集まって話し合っています。公民館や公会堂のような役割がそこにはあるのでしょう。あるカトリックの教会ではAAミーティングをやっている間に、別の部屋では日系ブラジル人の人が茶話会をやったりコンサートの練習をしていたりします。

ではAA会場に市町村の公民館のような施設を借りている場合はどうでしょうか。そういうところでは、部屋の使用料や冷暖房費が決められていて、使った団体がそれを支払うことになっています。一方で、何らかの公的な意義のある団体の場合には、団体登録をして利用料減免申請書を出すと、部屋を無料で貸してもらえるという制度を設けている市町村がたくさんあります。これは、行政がそうした団体に便宜を図ることによって、運営を助けているわけです。本来支払うべき利用料を払わずに済むわけですから、間接的にはその団体に助成金を与えているに等しいことになります。

どういった種類の団体の利用料減免をするかは市町村ごとに規則が違いますが、例えば手話サークルのような福祉目的の団体であればたいていどこの市町村でも減免対象にしているようです。で、AAも(AA以外の自助グループも)この減免制度を利用しているケースがたくさんあります。

僕は数年前にAAサービスの役割を与えられていました(いまはサービス組織から離れてAAの隅っこにいるだけです)。その頃に「AAグループがこの減免制度を利用することは、伝統7の経済的自立を妨げているのではないか」という議論がありました。AAは外部から寄付金や助成金を受け取らずに、あくまでメンバーのお金で運営する・・・はずなのに、減免制度を利用すると、間接的に行政から助成金を受け取っているのと等しいことになるのではないか、というわけです。

AAは統治機構を持たないので、もしこれが「伝統に反する」ということになっても、やめさせる命令を出せるセクションはありません。けれどもし伝統違反ならば放置しておくことはよろしくないわけで、何らかの注意喚起はしなくてはなりません。だから、減免制度利用は伝統7に反するかどうか、という議論が続きました。

例を挙げると、わが家の一番近くのAA会場は市の公民館の会議室を借りています。30人入ってもまだ余裕の広さの会議室の夜間枠(4時間)の利用料は1,400円です。民間の会議室を借りればこの数倍必要でしょうから破格の値段ですが、それでも月に四回ミーティングをすれば6千円近くになります。この公民館では必要ありませんが冷暖房費を取るところもあります。もし減免制度を利用しなければ、毎月これだけの財政負担が生じることになります。少人数のグループが献金袋で集めるお金で、この負担に耐えられるでしょうか。また、グループの負担が増えたらオフィスの運営はどうなるでしょう。

減免制度利用に賛成の人も反対の人もいましたが、どちらの側の人も相手を納得させるだけの議論はできませんでした。そこでNYのGSOにメールを書いて経験を分けてもらうことになりました。各国のオフィスはそれ自体が権威を持っているわけではありませんが、各グループは自分たちの経験をオフィスに送ることで、他のグループがそれを利用できるようにしています。だから困ったことがあればオフィスに尋ねてみて、他のグループでの成功や失敗の体験を分けてもらうことができます。とりわけAAの歴史が長いアメリカのGSOに集積された経験は尊重されます。

GSOからの返事はこんな感じでした。ちょうどそれに当てはまる経験はないが、AAでコンベンションを開くためにホテルの部屋をたくさん予約すると、何部屋ぶんか料金を割引してくれる。割引してもらうことは、ホテルから(つまりAA外部から)寄付を受け取ることにならないか、という議論があったが、ホテル側がAAに特別な便宜を図っているのではなく、他の客に対するのと同じ割引をしているのであれば、AAが寄付を受け取っていると考えるのはふさわしくないということになった。

これには皆が納得しました。つまりAAが特別待遇を受けているかどうかが問題というわけです。誰もが受け取れるものであれば、私たちが拒否する必要もない。ところで、どんな団体を減免制度の対象にするかは、市町村によって大きく違っていることも分かってきました。減免制度の利用の有無という単純な線引きは適当ではなく、もっとケースバイケースであり個別の事情を聞かなければ判断のつけようがない問題だという認識が広まりました。グループの自律性にまかせるべきだということになって話が終わりました。

たった一つのことを判断するのに、皆が知恵を絞り、時間も手間も使いました。挙げ句に結論は「これだけじゃ判断できないよ」という曖昧なものでした。でも伝統を守っていくということは、そういうことだと思います。伝統は僕らに考えることを要求します。けれど、僕らは考えることを厭います。

もし「減免制度利用は伝統7違反」というルールみたいなものができたら、これは考える必要もありません。個別の事情も考えなくてかまいません。その市町村の減免制度を調べる手間も要りません。考える必要がないので楽でいいのですが、でも伝統は僕らにルールに頼らず、考えることを要求しているように思うのです。

12の伝統に関する議論に無駄はないと思います。一つの結論を出す必要もありません。皆が一つのテーマについて考え、自分とは違う考え方をする人がいることを知る。世界は自分の想像より常に広いことを知るわけです。


2011年05月20日(金) 自分に対する埋め合わせだって?

12ステップの、ステップ8と9で「傷つけた人に直接埋め合わせ」をします。

埋め合わせとは何か? 一つには謝罪です。あと借りたもの(例えば金)は返す約束をしろ、とビッグブックにはあります。人に迷惑をかけたり、損害を与えたならば、現状復帰が望ましいのですが、現実にはなかなかそれは難しく、結局のところ謝ることしかできない場合も多いものです(これはやってみればわかる)。

12ステップにはいろいろ誤解がつきまとっていますが、埋め合わせについても多くの誤解があります。その最大のものは、埋め合わせの目的です。「相手との悪化した関係を修復するため」だとか、「社会の一員としての責任を果たすため」だと考えるのは間違いです。確かに埋め合わせをしていけば、そうした効果が得られることもあるでしょう。しかし、12ステップ全体の目的が、回復するため、つまり酒をやめるためのもので、ステップ8・9もその一環です。埋め合わせは100%自分の回復のためであって、相手のためにすることではありません。

時には埋め合わせができないこともあります。例えば相手が面会を拒否するとか。せっかく会ったのに、「お前の顔なんか見たくない、とっとと帰れ」と言われるかも知れません。埋め合わせの目的が「相手との悪化した関係を修復するため」だとしたら、これは埋め合わせの失敗になってしまいます。けれど、ステップ8・9は100%自分の回復のための行動ですから、相手がどう反応するかは成功失敗とは関係ありません。実際にやってみればわかりますが、残念な結果になったとしても、回復の効果は自分の中に現れます。
将来、状況が変わればまた違った埋め合わせができるかも知れません。

埋め合わせには重要な条件が付いています。埋め合わせをすることによって、かえって相手を傷つけたり、他の人に迷惑をかけるようなら、やってはいけないのです。これは男女関係ではよくあることで、例えばあなたの過去の不倫の相手に家まで謝罪に来られても困るでしょう。回復中の仲間に対する埋め合わせも気を使います。相手の回復の妨げにならないように気を使わなければならないのですから。また、「直接」の埋め合わせなのですから、手紙やメール、あるいはネットの掲示板で埋め合わせをすることはふさわしくありません。「直接」の機会が与えられないなら、与えられるまで待てばよいことです。

また何をどのように埋め合わせするかも大事です。ステップ4・5の棚卸しで、どのように相手に迷惑をかけたかきちんと把握する必要があります。そうしないと、まるでトンチンカンな埋め合わせになってしまいます。また埋め合わせは他者に要求できるものでもありません(12&12 p.62~63)。

12ステップの質疑応答をやると、かなりの確率で出てくる質問が「自分に対する埋め合わせは必要ないのか?」というものです。理屈はこうです。自分は他者から傷つけられた(だから憤慨している)。しかし、その相手に埋め合わせを要求できないことは分かった。であれば、傷つく立場に自分を置いたのは自分自身だから、自分を傷つけたのも自分自身である。だから、自分に対して埋め合わせをしてはいけないのか? というのです。

頭で12ステップを考えていて、実際にやっていないからこそ、こうした考え方になってしまうのです。実際やってみれば、他者に対する埋め合わせこそが最も自分の傷を癒すことに気づくはずです。ステップ4・5がちゃんとできれば、埋め合わせをしたい、という気持ちになっているでしょうから。その気持ちを実行に移せばよいだけのことです。

12ステップというものは、きちんと考えられて設計されています。自分勝手に解釈してステップをやると、自分が回復できないばかりか、まわりの人にも迷惑をかけます。

埋め合わせをされる立場のほうからすれば、「いきなりやってきて、もごもご言って帰って行ったけど、ひょっとしてあれが埋め合わせってやつかなあ」ということになるかもしれません。どんなふうに埋め合わせをするかは埋め合わせをする側の問題なので、あなたが埋め合わせを受ける側ならそのことについて気にする必要はありません。


2011年05月19日(木) 発達障害について(その15)

すでに発達障害の診断をもらった人、あるいは診断はもらっていないものの発達障害の特性を持っていると自認している人も次第に増えてきました。その背景には発達障害ブームとも呼ぶべき社会現象があります。

そうしたブームによって、発達障害の存在が社会に認知されるのは大変良いことです。しかし、社会現象には必ず陰の部分もあるものです。

最近気になっていることは、発達障害概念の混乱です。ただ、その話をするには前説があったほうがいいかもしれません。

発達障害の中でも、精神遅滞や自閉症(カナータイプ)は古くから知られており、僕の子供のころには養護学級や自閉症の施設が存在していました。これらのタイプは知的障害があるという点で共通です。

時代が下ると、教育の現場で知的障害がない発達障害が取り上げられるようになってきました。最初(おそらく日本では1980年代)は「学習障害」(=LD)です。これは読む・書く・話す・聞くのどれかに障害を持っているものです。ただし知的障害を持たないというところがポイントで、アルバート・アインシュタインも識字障害(これは読むことの障害)を抱えていたと言われています。

1990年代になると、「注意欠陥多動症」(=ADHD)が注目されました。LDとADHDは医学的には違った障害なのですが、結果として学習の妨げになる点は共通していたので、教育の分野では「ADHDはLDのひとつ」と認識されてしまいました。それは現在も続いています。LDとADHDを併発する人が少なくなかったことも、この混乱に拍車をかけました。

21世紀になると「アスペルガー症候群」や「高機能自閉症」が注目されるようになりました。これは知的障害のない自閉症です。しかしアスペルガーの印象は決して良かったとは言えません。アスペルガーの少年が凶悪犯罪を起こしたことが大きなニュースになったことや、自閉症という言葉が知的障害を連想させるのもその原因なのかもしれません。(以下この領域を「自閉症スペクトラム障害(=ASD)」と呼びます)。

LDだけが認知されていた時代には、ADHDの人もLDだとされていたわけです。また、ADHDだけが認知されたいた時代には、アスペルガーなのにADHDだとされていた人もいました。そして、そうした混乱は今も続いています。

最も顕著なのは、自閉の問題を抱えている(ASD)なのに、自身をADHDだと認識している人です。


2011年05月17日(火) 顔写真

ちょっと前になりますが「BOX-916」の表紙に顔写真が載ってしまい、物議を醸したことがあります。これはAAになじみのない人には説明が必要でしょう。

BOX-916というのは日本AAの月刊の雑誌で、発行部数は多分3,000部ぐらい。一部300円でほとんどが有料購読です(AAオフィスの収入の大きな柱になっています)。一方、国際的な雑誌としては AA Grapevine があり、これはNYのAAグレープバイン社が発行し、部数は10万部ちょっとぐらい(中身は英語)です。中身は meeting in print(活字によるAAミーティング)と呼ばれメンバーの投稿による「経験の分かち合い」が行われています。

AAには12の伝統があり、その11番目には「AAメンバーとして名前や写真を、電波、映像、活字にのせるべきではない」ということになっています。これは外部の新聞やテレビについてのことですが、BOX-916でもGrapevineでも、顔写真やフルネームが掲載されることはありません。(ただし、会議の報告書などAAの内部資料には実名が掲載されていることは良くあり、あくまで実名や写真をAA外部に出してはいけないという話)。

実はBOX-916の表紙に出た顔写真はAAメンバーのものではありませんでした(写真素材集から取ったものらしい)。だから問題ないじゃないか、という意見もあったのです。けれど、BOX-916もAA Grapevineも、人の顔写真を載せることを注意深く避けてきました。その顔写真が、AAメンバーのものであろうとなかろうと。

なぜかというと、AA外部の人が見た場合、写っている人がAAメンバーかどうかは区別がつきませんから、AAは顔写真を出しても構わないところだと誤解されてしまっては困るからです。そんなふうに、注意深く配慮を積み重ねて「無名性」というものは守られています。

「心の家路」のリンク集でも、AA(あるいは他の12ステップグループ)のメンバーがやっているブログなどで、顔写真の掲載があるところはリンクしないように気を使っています。その顔写真がご本人(メンバー)のものであれ、その他の人のものであれ(例えば子供の写真とかでも)。

(12ステップグループではない、外部の施設や断酒会の人などはそれは関係ないわけです)。

もちろんあまり厳格にやるとリンクする先がなくなってしまうので、細かいことに目くじら立てないようにしています。12の伝統とは少しの逸脱も許されないルールではなく、配慮の積み重ねによって守られていくべきものだからです。

大切なことは、「結果として12の伝統というルール?が守られること」ではなく「伝統を尊重しようという個人個人の心のベクトル」なのだと思っています。

(注:メンバーの死後も名前と写真を伏せるかどうかは、本人の遺志と遺族の意向によります。ビル・Wが死んだときに、世界中のメディアに向けて初めてそのフルネームと顔写真が発信されました。なのでビルの顔写真やフルネームは結構気楽に使われています。けれど控えるべきだという意見もあります。)


2011年05月16日(月) 相談会をやって

この週末には、アディクションの相談会というのをやりました。
いろんなグループから人が集まって、アディクション関係で悩める人の相談に応じようという企画です。集まったのは、アルコールでは断酒会やAA、ギャンブルだとGAとギャマノン、薬物ではNA、ACではACAとACODA、あと摂食障害のグループの方。ひきこもりサポートのNPO法人の方を除けば、職業的専門家ではないアマチュアばかりです。

そんな素人が相談を受けても的確なアドバイスができるのか疑問を持たれるかもしれません。確かに専門的なトレーニングを受けていなければ、とんちんかんなこともあるかもしれません。しかし、当事者には一つ大きなアドバンテージがあります。それは同じ問題を乗り越えた経験です。

悩んでいる人というのは孤立している人でもあります(社会的に孤立しているという意味ではない)。悩みを人に言うことができずにいます。そりゃそうだ。「酒がやめられない」などと同僚や友人にこぼしてみたところで、「やめたければやめればいい」と言われるだけですから。だから、解決にたどり着くこともなく、厭世的な虚無感の中にあります。本人には「どうせ私はやめられない」という思いがあり、家族には「どうせこの人には無理だ」という思いがあります。

しかし問題を乗り越えた人と接することで、「やればできるかも」という思いを持つことができます。この効力感が何よりも大事であり、当事者はそれを提供できます。

アルコール・薬物・ギャンブルの場合には、本人よりも家族の相談が圧倒的に多いものです。家族の苦悩の深さに圧倒されることもあります。自助(相互援助)グループというのは、問題を認識し、それを解決する意欲を(多かれ少なかれ)持っている人しか来ないところです。だから、AAの中だけにいると、アディクションの問題を甘く見るようになってしまい、過剰な自信が生まれます。

まだ解決の兆しの見えない家族の悩みに接したとき、自分に正直であれば、力不足を認めないわけにはいきません。そうやって相談を受ける側も、自分の問題を把握することができることがメリットです。中には激しく動揺してしまった人がいましたが、それは自分の正直であるからこそです。今回の経験を役に立てて欲しいと思います。

回復につながる前には「介入」が必要です。AAに来た後も、仲間による支えが必要であり、回復のためにはステップも必要です。さらにその人が社会復帰できないのなら、ソーシャルワークが求められているのでしょう。さらにはアディクションには予防や啓発という分野もあります。AAはアルコール問題全体のほんの一部を担っているに過ぎません(その限定こそが良いわけですが)。

回復というのは、それを必要とする人のためにあるわけではなく、求める人のためにあります。

回復を求める人が希望するならば、少々無理してもできうる限り時間を割いて接したいと思います。非才な僕でも経験を提供することだけはできます。足りないスキルを身につけようとも思います。その時、僕が相手を好きか嫌いかは関係がありません(僕の回復の相手をしてくれた人たちは、僕を好きだったとは限らないのですから)。無理な押しつけなどその時に生まれようもありません。

しかしその人が回復を求めていないのであれば、何を提供しようが押しつけだと思われるだけです。その時には上の理屈は脇に置いてかまわないでしょう。

とまれ、何でもやってみることは良いことでした。「やればできるじゃん」というのと「できたけど、これじゃまだ不十分」という二つの気分が同時にあるのは当たり前か。「私は回復した」というのと「でもまだまだなんだよね」という気分が同居するように。


2011年05月13日(金) 裏側

「心の家路」で一番アクセス数が多いのが掲示板で、次がブログ(ヤマアラシのジレンマ)です。
http://www.ieji.org/dilemma/
ケータイ用は http://www.ieji.org/mt/mt4i.cgi

長らく Movable Type 4 を使っていたのですが、ようやくMT5にバージョンアップしました。

僕の契約だと MySQL のデータベースは一つしか作れません。MySQL は 4 を使っていたのですが、MT5 は MySQL の 5 を要求するので、いったんデータベースをバックアップし、削除して MySQL 5.1 で新規作成して、インポートするという手順を踏む必要があります。

データベースの文字コードはEUCを使っていたのですが、ついでにUTF-8にすることにしました。MTが勝手にユニコードのデータを突っ込んでくれるので整合性を持たせておきたかったのです。・・がこれがつまずきの始まりでした。

新しいデータベースにインポートし、MT5で表示しようとすると、ブログエントリの中身が全部文字化けしちゃいました。・・・インポートの時に文字コードを自動変換してくれるんじゃないのか? バックアップデータの中身を覗いてみると、EUCのコードとUTF-8のコードが混在しているし。トホホ。

そこからの道のりの長かったこと。ともかくMT5は無事動き、ケータイでMTのブログを見るための mt4i も無事再インストールできました。

ついでにMTにメールで投稿できるプラグインを導入することにしました。

僕自身はたいていパソコンの使える場所にいるからいいのですが、「家路」以外にも面倒を任されているサイトがいくつかあり、そちらではケータイからのブログ投稿は歓迎されるでしょうから、個人用のサイトでテストしてみることにしました。

選んだのは MailPack というモジュール。
http://www.skyarc.co.jp/engineerblog/entry/4022.html

手動で run-periodic-tasks を走らせれば動くのですが、cronの動作がどうもヘンなのです。テストでときどき変な投稿があるかもしれませんが、気にされませんように。

「家路」をMTとmt4iを使って再構成しようか・・というアイデアもあります。「家路」もあと何ヶ月かで始まって10年になります。その10年の自分の進歩を反映させたサイトにさせていきたい、という気持ちは常にあります。でも環境整備するだけでも難儀している次第です。


2011年05月11日(水) ソブラエティを比較する

「ソブラエティは人と比べるものじゃない」と言う人がいます。比べるって、長さかしら、質かしら。長く酒をやめているから偉いってわけじゃない、というヒガミを言う人がいますが一理あります。相手がスリップ(再飲酒)しない限り追い抜けないものね。

比べるなと言われても、人は無意識のうちに比べてしまうものです。

例えばこんなシチュエーションを考えてみます。

「お宅の息子さんは良い高校に合格してうらやましいわ。いったいどこの塾に通わせたの?」という問いかけに対して、駅前のビルの2階にある塾、と返事があれば、じゃあウチの息子もその塾に通わせてみようかしら・・と考えるのが人間というものです。

「その服かっこいいね、どこで買ったの?」とか、「いつもかっこいいヘアスタイルだけど、いったいどこの美容室で切ってるの?」とか。

人がなにか魅力的なものを持っていれば、自分もそれを手に入れたい、と思うのが人間です。その背景には嫉妬心があります。嫉妬心は自己憐憫からやってきます。「あの人は良いものを手に入れて幸せになっている。でも自分は手に入れてないから不幸だ」というやつです。自己憐憫は気持ちのいい感情ではありませんが、正しく使えば役に立ちます。

つまり自己憐憫を「よし、自分もそれを手に入れよう」という方向に向かって使えば、自己憐憫を正しく使ったことになります。

昨年11月にIさんの結婚披露パーティに呼ばれました。多くの人がIさん夫妻に「どこで知り合ったんですか?」と質問していました。そう聞いている人たちはパートナーを欲しがっている人たちであり、自己憐憫を正しく使おうとしている人たちです。

ソブラエティについても同じです。「あなたのお酒のやめ方を見ていてうらやましくなります。どうやったら、そんな風になれるのですか?」と尋ねたくなるような誰かを探して質問してみればいいのです。もしその人が回復したAAメンバーならば「あなたにやる気があるのなら、教えてあげますよ」と言ってくれるに違いありません。あとは「スポンサーになって下さい」と頼めばいいだけです。

意識的にであれ、無意識にであれ、自分と相手のソブラエティの質は比較してしまうものです。比較するからこそ、自分より優れた相手を見いだし、自分が進歩するきっかけをもらえるのです。比較を回避していたら回復できません。

「あの人は良いソブラエティを手に入れて幸せになっている。でも自分は手に入れてない」。そう認めるのは楽しいことではありません。だから、相手の優位性を否定しようと躍起になる人もいます。人をこき下ろすのに熱心な人たちです。それは自己憐憫の悪い使い方をしている人たちでもあります。

「どんな塾にやってもウチの息子は勉強しっこない。どんな服を着て、どんなヘアスタイルにしてもオレは格好良くなれっこない。どうせオレは何をやってもダメなんだ」

まるで自分が不幸になるのは、他の人が努力したせいだ、とでも言わんばかりです。なんか、レインボーマンに出てきた死ね死ね団の歌を思い出しますね。エンディングに流れてたヤツ。

「暗い 暗い 暗い世界に 人を 人を 人を恨んで生きている 俺たちゃ悪魔だ死神だ〜♪」

歌詞違ったっけ?

ソブラエティ三十何年のBさんは、Gさん(おそらくソーバー数年)に頼んでビッグブックのステップを伝えてもらったのだそうです。なんて言って頼んだんでしょうかね。「あなたの持っているものを俺にくれ」とか? まあともかく、そう言えるからこそBさんは尊敬される人なのでしょう。「長く酒をやめているから偉いってわけじゃない」っていうセリフは、こういう人に言わせてこそ意味を持ちます。うかつに言えない言葉です。


2011年05月10日(火) 人ごとを案じる

僕はAAのメンバーなのでAAについては割と詳しいのですが、断酒会の会員ではないので断酒会についてはあまり知りません。

AAについては、日本で始まった頃のようなプログラムの濃さが失われ、「ミーティングで集まって話をしていれば仲間のおかげで酒がやめられる」という、12ステップなんか要らない雰囲気の会場が増えてきていることを懸念しています。

AAのプログラム劣化の原因はいろいろ考えられますが、新しいメンバーにプログラムがうまく伝わっていなかったため、古い人が去るにつれてプログラムが失われた、と考えるのが最も自然だと思います。

酒を飲んで酷かった頃の話をしろと言われます。確かにそれは必要です。過去の体験を掘り起こして正直に話ができなければ、今の自分の姿を知ることはできないのですから。しかし、「酒で酷かった頃の話をすればするほど良い」というのは勘違いです。ドランカローグ(drunkalogue)という言葉があります。ローグという接尾語は、プロローグとかモノローグとかのローグと同じで「話」をという意味です。

過去の自分はいかに酒で酷いことになってきたか、というドランカローグを話すとき、人は何らかのカタルシスを得ます。しかしそのカタルシスは回復「ではない」わけです。(つまり本来話せて当然と言うこと)。今まで秘密として背負ってきた心の荷物が降ろせれば楽になります。ミーティングでも、ストーリー形式のステップ4・5でも同じことは起こりえます。でもそれはやっぱり回復ではないのです。同じようなことは、アルコールだけではなく、薬物やギャンブルのグループでも、家族やACのグループでも起きているのでしょう。

回復(変化)をもたらすのは、そこから何をするかです。

なぜ冒頭で断酒会の名前を出したかといえば、それは断酒会でも同じようなプログラムの劣化が起きているのではないか、という懸念を抱いたからです。

先日断酒会のブロック大会にお邪魔しました。用事があり最後までいなかったのですが、何人かの体験発表を聞きました。気になったのは、ドランカローグが断酒会につながったところでお終いになっていたことです。まるで断酒会につながれば問題が解決するかのように。その後の話がされていても、全体からすれば割合はわずかなものです。

大事なことは断酒会につながった後、その人が何をしたかではないのかな、と引っかかりました。

僕は断酒会員ではないものの、たまには断酒会の方の話を聞く機会もあります。それがおつきあいというものです。10年前、15年前に聞いた話は趣が違っていました。

断酒会のプログラムには詳しくありませんが、断酒新生指針によれば、過去の掘り起こしの先にもするべきことは続いてます。「自己洞察を深め」「自分を改革する努力をし」「迷惑をかけた人たちに償い」をします。これらをAAの12ステップに対応させるのは誤解の元ですが、それでも無理にそれをすれば、それぞれステップ4・5、6・7、8・9に対応しています。以前の断酒会の人はそういう話をしてくれたものです。

例えば自分を冷たくあしらった会社の上司に腹を立てていたとします。しかし、上司が冷たかったのは、自分が酒を飲んで仕事に穴を空けたからであったと気づけば、その人の目の前で謝罪し、今後は態度を改めると約束する準備が整います。それを実行するにはとても勇気が必要ですが、実際にそれをやった人は自分の中で確かに大きく何かが変わったことに気づいたはずです。それこそが断酒の喜びではないのでしょうか。

そういう変化がなく、ただ酒が止まっているから良しとする話ばかりになっているのであれば、現状のAAと同じ問題を抱えてしまっているのではないか、とまあそんなことを考えたのです。

ともあれ、僕は断酒会には詳しくないので、例会ではブロック大会での話と違って、その後の話もされているのかも知れません。けれど、断酒会でもAAと同じような現象が起きていて、古い人が去るにつれて魅力が薄れつつある、ということはないのかな?と案じてしまったわけです。

まあ単なる「投影」だという可能性もあるし。


2011年05月09日(月) 想像力の障害

自閉症の三要素について、あらためて確認してから書こうと、ネットを検索しました。
(そうです。ネットを検索したのです。ネットは便利なので、ついつい本を開かずに検索してしまいます)

そうしたら知的障害の三要素というのを見つけました。

・知的機能に制約がある
・適応行動に制約を伴う
・発達期に生じる

なるほど、成人後に発生したものは知的障害と呼ばないんですね。あと、例によって「社会適応の妨げになっていなければ、それは障害ではない」という考えが取り入れられています。ネパールの船着き場ではしけに舟をロープでくくる仕事をしている人に、知的障害があるとか、ないとかいうことはまったく関係ない(by市川さん)わけです。でも日本だと問題になってしまう・・・それが日本社会の切ないところです。

さて話を自閉症の三要素に戻します。ローナ・ウィングの定義によれば、自閉症スペクトラム(AS)には三つの領域に障害があります。

・想像力
・コミュニケーション
・社会性

社会性の障害とは、前の二つ(想像力とコミュニケーションの障害)の結果として起こるものです。

で、想像力の障害をご本人に説明するのには苦労しています。なにしろ、本人は自分の想像力に障害があるとはまったく考えていないからです(生まれたときからずっとそうだから)。

これが足の速さだったら、他の人と比較する機会もあるでしょう。しかし、想像力を他の人と比較する機会はなかなかありません。想像力がある・想像力がない、の択一で考えれば、確かにその人にも想像力はあるのです。ただ、その力が弱いだけ。

ここで「計算力が弱い人」を考えてみます。その人は計算できる・できない、で考えれば、計算はできるのです。しかし、その力が弱いので、計算する速度が人より遅くなります。速く計算しようとすれば、間違いが増えます。

想像力も同じことです。想像力が弱い人は、想像できる範囲に限界があり、それを無理に広げようとすればしばしば間違った想像をしてしまいます。

想像とは知覚に捉えられないものを心に思い浮かべることです。それは行ったことのない場所や、まだ来ぬ未来のことばかりではなく、「自分の言葉で相手がどんな気持ちになるか」とか「相手の言葉や行動の裏に隠された真意」を捉える能力でもあります。そこに障害があると、人とうまく接することができず、社会適応の妨げになります。(んで、うつになったり、アル中にになったりする)。

想像力に障害がある人の人生は恐れでいっぱいです。それは落とし穴の多い道を目隠しされて歩くようなものです。

ではそういう人はどうすればいいのか? 先日もテレビに出ていたテンプル・グランディンによれば、「社会のルールを憶えること」だそうです。ここで言うルールとは法律や規則のことではなく、常識やマナーや暗黙の了解です。そうした隠れたルールは、あいまいで、例外が多く、しばしば破られてはいますが、確かにルールとして存在しているのです。それを憶えていくことが大切だとしています。SST(ソーシャル・スキル・トレーニング)などもその一環と言えますが、SSTで学べるのは一部に過ぎません。

自閉圏の人にありがちな不満は、そうした社会の習慣(ルール)を自分がいつ破ったらいいか分からないことです。見えないルールに縛られるのは楽しいことではありません。それを逸脱できたら楽です。現実にそれを破っている人たちがいる。じゃあ自分もと破ってみると、なぜか自分だけ叱られる。酷い仕打ちではないか、というわけです。(また別のルールがあることを憶えなくてはならないわけだ)。

自分だけがそうしたルールを憶えさせられている、と不満に思う必要はありません。そうした暗黙のルールには社会の誰もが従っているもので、あなただけに課されているわけではありません。それに人間というのは、そうしたルールを一生かけて少しずつ憶えて成熟していくものでもあります(recoveryとmaturityは似た概念です)。僕も先日ちょっとした失敗をやらかして恥ずかしい思いをしました。でも、次からはうまくやるでしょう。そうやって人は進歩するしかないのでしょう。・・・という話をしても、スポンサーも同じ苦労をしている、ということは、スポンシーには想像してもらえないのかも。やれやれ。


2011年05月06日(金) ステップをやるのに何年必要?

12ステップをやるのにどれぐらいの時間が必要なのか?

それは一概には答えられないことでしょうが、少なくとも「3年も5年もかかるものではない」とは言えそうです。

AAの創始者の一人ドクター・ボブは、生涯で五千人以上のアルコホーリクを治療し12ステップを伝えたとあります(AA p.241)。彼は5日間の入院治療を提供していました。初日はアルコールの解毒で翌日にはステップが始められました。離脱症状が消えるまで待ってなどいませんでした。

ところでビッグブックとは「厚い本」という意味です。初版で厚い紙を使ったため、本全体が厚くなってしまい、こう呼ばれるようになったと伝えられています。ではなぜ厚い紙を使ったのか。お金がなかったので、安い粗悪な厚い紙を使ったという説を信じてきたのですが、真相は意図的に厚い紙を選んだのだそうです。まだ離脱で手が震えるアルコホーリクでもページがめくりやすいように厚い紙を使ったと記録に残っています。(薄い紙はめくりにくいからね)。

前の雑記でドクター・ボブが棚卸し表を本人から聞き取って代筆していたと書きましたが、それは離脱症状で手が激しく震えてペンが握れない人のためでもあったのです。

5日間で12ステップをこなすというのは、こんにち的な基準からすればずいぶんな促成栽培で乱暴な印象を受けます。しかし、当時はこれがスタンダードだったようで、他のAAメンバーが運営していた病棟でも、時代が少しくだってヘイゼルデンの最初のころでも平均入所期間は5日間で、それで12ステップをこなしていたわけです。

しかしさらに時代が下るにつれ、施設の入所期間は延長されていきました。5日間でうまくいく人もいるのでしょうが、皆がそうではなかったのでしょう。

AAが20周年を迎えたときに出版された本「AA成年に達する」で、ビル・Wは「アルコホーリクは急がば回れで行くべきだ」と書いています。たいていのアルコホーリクは最初は酒をやめることしか希望せず、酒以外の自分の短所はなかなか手放そうとしない。アルコホーリクは「何もかもすぐ良くなること」を希望しない。オックスフォード・グループの概念(絶対の純潔・絶対の正直・絶対の無私・絶対の愛)は酒飲みには手に余り、バケツで与えるのではなく、ティースプーンで少しずつ口に運んでやらなくてはならない・・としています。

何のことはない、アル中の回復には時間がかかる、という当たり前のことが再確認されたのでした。

とは言うものの、1年にステップをひとつづつ、というペースではその人の苦しみを長引かせているだけで、それじゃ単なるイジメだと思います。12番目のステップに到達するまで数週間から数ヶ月程度じゃないでしょうか。

それにしても、アル中は「何もかもすぐ良くなること」を望まない、ってのは至言ですね。酒をやめて何年経っても「ここの部分は良くならなくていいです」という保留を抱えこんでいるのがアル中です。

その点では僕も例外ではなく、一生その部分が良くならなくてもオーケーだとは思ってないのですが、「まあ神さま、まだここは置いておきましょうや」という保留はいくらでもありますとも。ただ、その部分が回復しないのは、僕自身が「そこはまだ良くならなくてもオーケー」だと思っているからだという自覚は持っていないといけないよね。回復しないのは回復したくないからなのであって、回復しない責任は自分にあるのですとも。(12&12のステップ6)。

だから「何年経ってもまだ回復しません」なんて言っているヤツを見ると、「そりゃオメーが回復したくないと思っているからだろう」と思わずツッコミを入れたくなっちゃいます。そういうツッコミ入れたいところも僕の回復していないところなのでしょう(回復したくないヤツなんて放っときゃいいわけですから)。だが、そうした欠点をまだまだ手元に置いてかわいがりたいわけですよ。ええ、まったく。

違う話になっちゃいましたね。


2011年05月03日(火) ホームレスと12ステップ

ジョー・マキューの作った施設向け12ステッププログラムである「リカバリー・ダイナミクス(RD)」は、様々な国の300以上の施設で使われているそうです。その中には、依存症とはあまり関係なさそうなホームレスの支援施設(シェルター)も含まれています。

アメリカのホームレスにはアルコールや薬物の問題を抱えた人が70〜80%も存在するのだそうです(日本では20〜30%ぐらいだろうと言われています)。このため、ホームレスの人の自立を促すためには、アルコール薬物問題の解決が欠かせないというのです。

こうした施設では、アルコールや薬物の問題を抱える入所者全員に、RDによるステップ1とステップ2のクラスを提供しています。解説を加えておくと、ステップ1とは「問題」を把握するステップであり、ステップ2はその問題に「解決」があることを知るステップです。この二つのステップを経ることにより、ステップ3から先の「行動」へ進む意欲が生まれます。

クラスが終わった後、さらにステップ3以降に進みたい入所者には、個室が与えられます(個室というよりベッドと荷物置き場)。シェルターなので長期滞在はできないのですが、この場合は例外扱いしてもらえるというわけでしょうか。そこに滞在しながら地域のAAミーティングに通ってスポンサーを得たり、さらに先のクラスを続けることができるようになっています。そうして回復後に社会復帰していきます。

このようにして、せっかく社会復帰した人が再飲酒・再使用してホームレスに戻ることを防ぐ仕組みが出来上がっているのだそうです。

しかし、日本と違ってアメリカのホームレスには基本的なリテラシー(文字を読み書きする能力)を持たない人も多いのではないか? そういう人たちは12ステップができるのか? という疑問が生じてきます。

リテラシーを持たない人のためには、ビッグブックのCDやビデオ教材が用意されており、またステップ4の棚卸しも、本人の話を聞いて他の人が代筆してあげることで解決しているそうです。(棚卸しの代筆はドクター・ボブも行っていた記録があります)。

こうして回復した人の後には、自立後にリテラシーを身につけ、カウンセラーとしての勉強をして、こうした施設に戻り、過去の自分と同じホームレスの人の相手をしている人も少なくないそうです。その姿は新しく来た人にとって希望の姿となっています。

ホームレスの社会復帰の道具として12ステップが使われているところが興味深いです。きちんと12ステップを行うことが社会での自立につながっていくことは想像に難くありません。僕は最近常々思うのですが、12ステップの提供する霊的な解決とは、すなわち極めて現実的な解決なのだということです。(つまり現世利益)。

上に書いたように、アメリカほどではないものの、日本のホームレスにもアルコール・薬物の問題を抱えた人は少なくありません。日本のホームレス支援団体の中には、自分たちの運営する施設で12ステップを提供することを考えているところも出てきていると聞いています。ぜひそういう動きを歓迎したいものです。


2011年05月01日(日) 禁酒運動、パチンコ規制運動

AAの伝統10では、AAは外部の問題に意見を持たないとなっています。
AAメンバーとしてどんな意見を持っても自由ですが、AAを巻き込むような形で外部の論争に加わってはならない、ということです。

とりわけ「政治や禁酒運動、宗教の宗派的問題には立ち入らない」と明示されているので、AAメンバーであることを明らかにして行動しているときは特にこの三点、

・政治
・禁酒運動
・宗派問題

に立ち入らないように気をつけているわけです(もちろん人のやることはしばしば逸脱を伴いますが)。断酒会の規範でも政治や宗教への関与はしないことになっていますが、禁酒運動に関する項目はありません。この違いは両者の歴史の違いによるものでしょう。

アメリカでは建国以来ずっと禁酒運動が続いてきました。禁酒運動と聞くと、それに宗教的な意味合いを感じる人もいるでしょう。禁酒運動には宗教関係者も関わっていますが、宗教的な運動ではありません。アメリカは世界で最も薬物乱用(アルコールも含む)が激しい国であり、酒による治安の悪化や福祉コストの増大を避けるために、アルコールそのものを禁止しようという動きが継続して存在します。それは

「アル中を無くすために、国民全体が酒をやめるべきだ」

というかなり乱暴な主張です。実際これによって禁酒法が実施されていた時期もあります。しかし酒の販売を禁止したことにより、密造酒が横行し、それによってアル・カポネのようなギャングが巨大な利権を握りました。やがて戦争が迫ってくると、ギャングに儲けさせておくより、酒税で戦費をまかなうべきだという話になって禁酒法は廃止されました。

AAが誕生したのはそんな時代です。そして、初期のAAメンバーは禁酒賛成派・禁酒反対派の両方に利用されました。禁酒賛成派は、AAメンバーを「酒の害の見本」として利用し、反対派は「酒のせいで一部の人がアル中になってもそれは回復できる」見本として利用しました。いったいAAはどっちの立場なのか?

AA以前にも様々なグループが存在しましたが、それらは禁酒運動に巻き込まれることで「アルコホーリクの回復」から焦点を外してしまい消滅していきました。AAは同じ轍を踏まないように、禁酒運動には関わらないことを決めたのです。

日本では明治期より宗教的な禁酒運動が展開されていました。それについては全断連のサイトに紹介されています。
http://www.dansyu-renmei.or.jp/zendanren/rekishi_1.html
AAがオックスフォード・グループを母体として誕生したように、日本の断酒会も禁酒同盟を前身としています。宗教的な団体を前身に持ち、やがて宗教色を取り除いた点もAA・断酒会に共通です。

日本では禁酒運動が盛り上がることはなかったので、その点では心配はしていないのですが、最近少し気になっていることがあります。それはギャンブルについてです。最近、パチンコやスロットを規制しようという運動が目立ってきています。都知事が何か言って物議を醸していました。

もちろんそれは政治の問題なので、合意が形成されればなんでも規制すれば良いと思います。石原君は業界の反対を押し切ってディーゼル・エンジンを規制し、東京の空気を劇的にきれいにした実績があります(非実在青少年も規制しちゃったけど)。

気にしているのは、ギャンブルの自助(相互援助)グループの人が、そうしたパチンコ・パチスロ規制運動に参加してしまうことです。もちろん個人としてどんな運動に参加するのも自由ですが、GAやギャマノンの名前をちらつかせれば共同体を危険にさらすことになります。

また同時にそれは新しい仲間を手助けするチャンスを奪うことになりかねません。ビッグブックにはこんな文章があるのをご存じでしょうか。

「不寛容の精神は、その愚かさがなかったら救われたはずの人を追い払ってしまうかもしれない。私たちは禁酒運動をすることが良い結果をもたらすとは考えない。なぜならどんなアルコホーリクも、アルコールを毛嫌いする者からアルコールの話をされるのは好まないからだ」(p.149)

アルコールやギャンブルはこの世の中に実質的に合法化されて存在しています。大多数の人はそれをコントロールして楽しんでおり、依存症になるのは一部の運の悪い人たちだけです。自分たちの行状の悪さを棚に上げてアルコールやギャンブルを非難してみても始まりません。飲酒習慣やギャンブルの習慣に対して寛容であることが、まだ悩み苦しんでいる人たちを手助けするための、僕らが取れる最善の態度です。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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