心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

ホーム > 日々雑記 「たったひとつの冴えないやりかた」

たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
もくじ過去へ未来へ


2011年03月31日(木) ホーソン効果

ホーソン効果(Hawthorne effect)について。

僕の仕事の顧客は製造業の会社です。どこの工場でも「どうやったら生産性を上げられるか」という課題を追い求めています。より多くの製品を作ることが、より多くの利益に結びつきます。倍の製品を作るためには、倍の人数を雇えばいいのですが、それでは給料も倍払わねばならず、生産性は上がりません。

どうやったら今いる人たちによりたくさん働いてもらうことができるか?

こういうことを考えなければ経営者として(そして雇用主として)失格です。20世紀に存在したウェスタン・エレクトリックという会社は、アメリカの電話会社AT&Tの製造部門で電話関係の機器を作っており、日本電気の持ち主でもあった会社です。1927〜32年に、この会社の工場でハーバード大学の研究者たちが様々な実験を行いました。

その一つが「照明実験」です。職場の照明を明るくすれば、作業者たちが気持ちよく働けるようになって生産性が上がる(一時間あたりの完成品の数が増える)に違いない、という仮説を立て、実験をしてみると結果はその通りになりました。このことからは「照明は明るい方が生産効率が上がる」と言えます。

さらに確かめるために、今度は照明を暗くしてみました。暗くしたのにかかわらず、生産効率は以前より上昇していました。元の明るさに戻してみても、やっぱり生産性は上がっていました。となると、照明の明るさと生産性は関係がないことになります。

ではなぜ生産性が上がったのか。
同時期に行われた他の実験の結果と合わせて言われることは、「人は関心を寄せられると自ら生産性を高める」ということです。これらの実験は経営幹部や同僚たちの大きな関心を集めながら実施されました。注目されることによって、自分のやっている仕事に大切な意味があると感じた作業者の心理状態が生産性に影響を与えたのだと考えられます。

それ以前の経営管理論は、作業者をあたかもロボットのような存在と見なしていたのですが、この発見によって作業者は心を持った存在であり、その心理状態をどのように導くかという方向へ変わっていきました。そしてこの発見は、工場の名前を取って「ホーソン効果(ホーソン実験)」と呼ばれるようになり、(僕は心理学を勉強したことがないので知りませんが)心理学の教科書には必ずといって良いほど載っているのだそうです。

このホーソン効果は生産管理の分野ばかりではなく、人間の活動全般に言えることです。

イギリスでこんな実験が行われました。うつ病患者を二つのグループに分けます。片方にはカウンセラーが専門的な治療を施します。もう一方のグループには何の専門的技量を持たない素人が、同じ時間、世間話をします(お話し療法)。そしてこの両者の結果を比べると、どちらもうつが改善したものの、その差はあまり大きくありませんでした。これは、(カウンセラーによる専門治療の effect size が小さいということではなく)、素人によるお話し療法にも効果があるということ示しています。イギリスでは、ボランティアがうつ病患者と話をするという「友だち療法」の試みが広がっているそうです(これも医療費削減の一環か?)。

人は関心を寄せられると自尊感情が向上します。自分のことを気にかけてもらっていることがわかれば、それだけで「自分の大切さ」を感じることができます。まして注目をあびればなおさらです。

(自身が注目を浴びることによって自尊感情を高めることに熱心な人がいます(自己治癒の試みでしょう)。しかし施設スタッフは自分ではなくクライアントのケアに熱心になるべきだし、スポンサーはスポンシーに関心をよせるべきであって、自分のケアはまた別にしなくてはなりません。人は多かれ少なかれ、自尊感情を高めるために関心を集めたいと思うものですが、その行動も度が過ぎれば「賞賛乞食」と呼ばれてしまいます。賞賛を恵んでくれる人たちを追い求め、その機会に恵まれなければ自らを哀れむ気持ちばかりが強くなる。そういう人に接すると、軽蔑したものか、同情したものか悩んでしまいます^^)。

話を元に戻して、何が言いたいかというと、「僕らはお互いに関心を寄せるべきである」ということです。

AAは素人の集まりでプロの治療者はいません。しかしそこには同じ問題を抱えた人に対してお互いの関心があります。それに治療的な効果があるのでしょう。フェローシップ(仲間意識)は断酒継続の支えを提供し、ステップは飲まない人への変化を提供すると言われます。だから変化のためには12ステップが必要だということなのですが、それは逆にステップをやらなければ変化がないことという意味にはなりません。ステップに熱心でないAAグループに参加する人にも、ステップが希薄なスポンサーシップでも、やはり何らかの改善がもたらされます。それには「ホーソン効果」に代表される、人は人に関心を寄せられることによって良くなる、という効果があるのでしょう。

日本にはアディクションの施設がおそらく100以上は存在します。しかし専門的なスキルを備えたところが少ないという批判があります。だから自分たちで勉強したり、精神保健福祉士のような国家資格を取得しようという動きがあり、それはそれで素晴らしい歓迎すべきことです。これからそうした動きが強まっていくでしょう。僕自身も自助グループという枠の中で、ステップやスポンサーシップというスキルを広める取り組みをしようと思っています。

しかし、忘れてはいけない、忘れて欲しくないことは、専門的スキル以前に「人に対する関心」が必要なのだということです。関心とはすなわち愛情です。トルストイは「天国とは人がお互いに助け合って生きるところだ」と書いたとされます(僕はトルストイとか読まないから知りませんけど)。ジョー・マキューは、新しく来たアルコホーリクが愛らしいなどということは絶対にない、と書いています。反抗的で助けを拒む人が愛らしいわけがありませんが、そういう人たちこそ最も関心を必要としています。

専門的なスキルなど持たなくても、多くの人を救ってきた実績を持つ施設はたくさんあります。そこに何があったか、それはスキルより大事なことです。

(追記:ここ十数年経済が長いこと苦境にあることにより、どうやって気持ちよく働いてもらうかという心理的手法をとる余裕が失われ、どのように体を動かすかなどの機械的な動きまで決めてしまう現場改善が多くなってきています。こうした労働強化が病んだ人を増やしている側面もあると思います)。


2011年03月24日(木) 施設について(その3)

話を続ける前に「酒がやめられない」という言葉の意味を、再度説明しておきたいと思います。

「酒がやめられない」という言葉は、毎日お酒を飲んでいる状況から抜け出せない、という意味で使われているわけではありません。何日か、何ヶ月か、あるいは場合によっては何年か酒を飲まない期間があるにもかかわらず、なぜかまた飲んでしまう。つまり「再飲酒が防げない」「再飲酒の確率が高い」ことに対して、酒がやめられないという表現を使います。

ドライアップする(酒を切る)ことはそれほど難しいことではありません。精神病院に入院してアルコールから隔離されれば、アルコールは体から抜けていきます。院内飲酒をするようなタチの悪いアル中もいますが、入院は解毒のおおむね確実な手段です。AAが始まった頃のアメリカでは、解毒の技術が進歩しておらず、重症のアル中も多かったために解毒の途中で死んでしまう人も少なくなかったと言います。けれど、医療技術の進歩は何度でも安心して解毒できる環境を作り出しました。

病院を退院したばかりの人の断酒はまだまだ不安定で、十分に「酒がやめられた」状態とは言えません。再飲酒の確率も高く、退院後の断酒維持率のグラフを見ると懸垂線のようにぐんぐん下がっていき、2年後には1〜2割しか残っていません。解毒は簡単(確実に行える)だけれど、断酒の維持は難しいわけです。

断酒維持の確率を少しでも上げようと「三本柱」なるものが提案されており、なかでも有効性が高いとされているのが自助(相互支援)グループです。だから酒をやめるために断酒会やAAに通えと言われます。しかし多くの人には誤解があり、解毒が済み、飲酒欲求が減ってきたところで「酒がやめられた」と早合点してしまうのです。実際にはまだまだ再飲酒の確率が高い危険な状態が続いているのにもかかわらず・・です。自分が酒がやめられたと思っている人は、酒をやめるためのグループに通おうとは思いません。

退院後に通院とグループ参加を続けて断酒が安定していけばいいのですが、うまくいかない場合があります。グループに通っても再飲酒、通わなければさらに再飲酒。その合間にときどき入院が挟まっている、という状況も少なくありません。

何か手を打たねばなりません。その時に選択肢として浮上するのが施設入所です。グループに通ってダメだったにせよ、通えなくてダメだったにせよ、そうした環境から離れ、依存症の施設に入所して回復に専念できる環境で「きちんと酒をやめる」ことを目指すわけです。

施設につながれば仕事は続けられません。休職か退職することになります。通所ではなく入所となれば、家族とも切り離されることになります。仕事や家族のことから解放されることで、回復のプログラムに集中できるわけですが、多くの人は「そこまでのことはしたくない」と思うのではないでしょうか。

だから、断酒と再飲酒、入院と退院を繰り返しながら、何年もかけて仕事を失い、家族を失い、経済的に困窮した状態になって、ようやく「そこまでする必要がある」ことを納得します。それまでにいったいどれだけのものを失うのか。多くの人は「こうなるまえに何とかしたかった」と考えるようです。その「何とか」とは、仕事や家族のことを優先させず、回復を優先すれば良かったという後悔です。

回復以外のことを優先させれば、回復も回復以外のことも失ってしまう。回復を優先させれば、回復もそれ以外のことも失うことはない。という逆説が存在するわけです。

だから、自助グループでうまく回復できないとか、通えない事情があるのであれば、なるべく早く施設を利用するにこしたことはありません。早期発見・早期介入・早期治療はここでも有効です。ところが現実の施設は、いろいろ失ってしまった人、遠慮のない言葉を使えば回復困難の人が多いのです。重症・末期の人を受け入れる施設はもちろん必要なのですが、「施設とはそういう人の行くところ」という認識になってしまってはマズいでしょう。早期治療という理想と逆行してしまうからです。

しかし、「施設は回復困難の人が行くところ」という認識がなんとなく広まってしまった結果、病院を退院するとすぐ再飲酒してしまうような困難ケースが施設に紹介されて行く、なんてことが行われています。そうした人を受け入れる施設も必要なのでしょうが、これではまるで施設が病院の下請けであるかのようです。(社会復帰のための中間施設だと捉えれば病院→施設という流れは自然かも知れませんが)。

本来であれば公的な病院などが困難ケースを担当し、依存症の施設のほうはボリュームゾーンの人たちをどんどん数多く回復させるような分担になるべきです。現状はあべこべです。これには、依存症の治療になるべく費用をかけたくないという国の施策が背景にあるのでしょう(話は依存症だけでなく精神疾患全般に及ぶのですが、今回はそこははしょります)。依存症によってどれだけの社会的損失が生まれているか、逆にそこから多くの人が回復することにどれだけ多くのメリットがあるか。それが社会全体に理解されていません。施設のスタッフががんばればいい、病院の医師ががんばればいい、というレベルの話ではなく、アディクションに対する社会の認識を変えていく必要があります。

そんなわけで、施設の置かれた状況を変えて行くには、個々の努力はもちろんのこと、リカバリー・パレードのような回復擁護運動が盛んになっていく必要があるのでしょう。

明日から数日でかけてきます。ノートPCも通信手段も持参するので、ネットにつなげるとは思うのですが、雑記の更新頻度は落ちるでしょう。もとより雑記は毎日更新していたわけではないので、これも通常に戻るということです。


2011年03月23日(水) 施設について(その2)

日本の依存症の施設が「福祉施設化」しているという話は以前から出ていました。依存症の治療よりも、社会復帰の訓練施設としての機能が重視されるようになってきている、というわけです。(さらに言えば、社会復帰できずに施設に長期滞在する傾向が強まっています)。

日本ではどうしてヘイゼルデンやベティ・フォードのような治療型の施設ができないのでしょうか?

おそらくそれはいろんな原因が組み合わさっており、単純に答えることはできないと思います。けれど、一つ確実に言えることは、コストの問題です。

例えば例に挙げたヘイゼルデンでは、通所プログラムで$10,000、4週間の入所プログラムで$28,300となっています。約1ヶ月で240万円ほどです。もちろん適用できる保険もあるのですが、そうであったとしても、日本で依存症の治療にそれだけのコストを支払える人がどれだけいるのでしょうか。「高すぎる」という声もあるかもしれませんが、優秀なカウンセラーをたくさん配置すれば、必然的にこのコストになってしまうでしょう。ベティ・フォードは30日間で$27,400とほぼ同じです。(Serenity Parkは30日間で$7,500だけどね)。ヘイゼルデンもベティ・フォードも、営利を目的としないnon-profitの組織です。

もし日本で依存症の治療型施設を作り、その料金が一ヶ月で240万円だとしたら、どれぐらいの利用者が見込めるでしょうか?

日本の依存症の施設で料金表をネットに掲載しているところは少ないですが、別に隠しているわけではないので聞けば教えてくれます。安いところで一ヶ月あたり十数万円〜二十数万円。高いところで三十数万円です。ただし、健康保険が適用されるわけではないので、全額が本人あるいは家族の負担となります。

精神病院に入院して健康保険が適用された場合の本人負担額が十数万円ですから、それに比べて極端に高いとは言えません。しかし、高額医療費の制度が使えないことや入所が長期化する可能性を考えれば、本人家族の経済的負担はずっしり重くなります。早期介入・早期治療が行われず、病気が進行して経済的苦境に陥ってからようやく施設入所に至るのが日本の現状です。240万円の十分の一ですらなかなか払えたものではありません。

そこで多くの施設では、障害者自立支援法の施設認定を受けています。これにより入所費用のかなりの部分を公費で負担してもらえるため、本人家族の負担は軽くなります。また、施設の経営を安定させる効果もあります。(それでも負担しきれないという場合には生活保護にして本人負担をなくす手段が取られるのは病院と同じです)。

このようにして精神障害者の自立訓練施設として税金が投入されている以上、国あるいは社会がこうした施設に福祉的機能を期待するのは当然のことです。日本の多くの施設が福祉施設化しているのは、こうした背景があるものと考えています。

では日本では治療型の施設は成り立たないのでしょうか? 成り立つかどうかは経営の問題です(非営利組織でも経営は経営です)。僕には経営者としての才能はなさそうなので、これについては何とも言えません。ただ、日本にも以前より治療志向の施設もあるし、またリカバリーダイナミクスを導入するなど意欲的な取り組みもなされている以上、日本でも治療型の施設が今後隆盛する可能性はあると思います。

ポイントとして押さえておきたいのは、福祉型の施設は治療型の施設に劣ると単純に捉えて欲しくないということです。福祉型の施設も必要があって存在しているのであり、そうした施設の提供する機能が存在しなければ困ってしまう人たちがいることです。福祉型としての施設の技量の巧拙はあるでしょうが、それは福祉型・治療型の区別とは別の問題です。「福祉型より治療型の施設の方が上等である」と考えるのはあまりにも幼稚というものです。

またアメリカでも高価な施設ばかりではなく、安くてそれなりのところもあり、またAAメンバーがほぼボランティアで運営しているハーフウェイハウス的施設もあります。こうして様々なバリエーションがあり、利用者に適したところが選べるところがアメリカのアディクション治療先進国たるゆえんです。日本でも施設の数が増えるばかりではなくバリエーションが広がり、それぞれに質が高まり、また適切な施設へ相談者を紹介するソーシャルワークの機能が発展することを願っています。

もう少し日本の施設の話を続けたいと思います。

(続く)


2011年03月22日(火) 施設について(その1)

宿屋は町にあるものです。しかし町と町の間の街道に、ぽつんと宿屋が建っていることがあり、これを halfway house(ハーフウェイ・ハウス)と呼びました。二つの町の中間にある宿という意味です。これが転じて、刑務所や精神病院を出た人が社会に復帰する訓練を受ける施設のことをハーフウェイ・ハウスと呼ぶようになりました。日本では中間施設と訳されます。

世間に出てきても、身寄りがなかったり頼れなかったりすると、住む場所を借りるのも仕事を得るのも簡単ではありません。長い間世間から隔離されていたので、ソーシャルスキルも衰えています。そのせいで社会にうまく適応できず、再犯あるいは再発へと結びついて、元の場所に戻ってしまう人も少なくありません。

そこで、社会復帰の訓練を行うのが中間施設です。大きな精神病院なら系列に中間施設を抱えていますし、刑務所の場合には法務省が保護観察施設を全国で運営しています。中間施設は、病院のような治療施設でもなく、刑務所のような矯正施設でもなく、福祉的性格の施設です。

勘違いしやすいのは、アメリカのヘイゼルデンやベティー・フォード・センターは中間施設ではありません。これらは保険適用のアルコール依存症の治療施設です。

日本ではメリノール・アルコール・センター(MAC=マック)があります。これはアルコール依存症当事者の二人の神父が始めたものです。当時の東京には断酒会の会場が多くあり、家族も住むところもあるアル中は断酒会で助かっていました。そこで彼らは断酒会がカバーしきれていないドヤ街のアル中に手を差しのべることを目的としていました。だから彼らの作った施設は、アルコール依存症の治療施設としての側面と、ドヤ街の人を一般的な社会に復帰させる社会訓練施設(=福祉施設)としての側面、この両方を兼ね備えることになりました。

その後、ダルクなど同じような施設はたくさん作られ、その総数は100を越えています。そのほとんどがマック同様に治療施設と福祉施設の両方の機能を担っています。

しばらく日本の依存症の施設についての話を続けてみたいと思います。

(続く)


2011年03月21日(月) ステップ4の棚卸しが書けない?

連休3日目、いろいろ溜まった雑事を片付けようと思っていたのですが、いったん外出しただけで、あとは半日寝て過ごしてしまいました。疲労が溜まっていたのでありましょう。(外出はみずほ銀行のお金を郵便局に移しに行った)。

原発事故に関して、政府や専門家は「安全です」「大丈夫です」を繰り返しています。それを何か隠しているに違いないと疑い、何の根拠もなく「危険だ」と騒いで東電や政府を非難することはしたくありません。(つまり基本は安全だと思って暮らすしかないということ)。

けれど、じゃあ安全だと信じていれば済むというものでもありません。僕としては、15日の出来事に注目しています。作業者の被曝線量は50ミリシーベルト/年と定められています(女性はこの半分)。緊急作業の場合に限って、倍の100ミリシーベルト(mSv)まで許容することになっています。この日、厚生労働省が福島第一で今回作業する人に限って、この上限を100mSvから250mSvに引き上げました。国際基準では上限500mSvなのだそうです。これは血中の白血球数が減りだす量です。

すでに7人の作業員が、元の上限100mSvを超えています。もし通常時にこんなことが起きたら大騒ぎになり、責任追及の声が上がるでしょう。もちろん今回そんな話にはなりません。現状は「作業員の健康を危険にさらしてでも事態を収拾しなくてはならない状態」なわけです。

平穏に暮らすべき、でも予断は許されない。平常の暮らしをしながらも、リスクを増やす行動を避けていくことが求められているのでしょう。

さて、震災&原発関係の話もこれでおしまいにして、明日以降は通常の雑記に戻ろうと思います。つまりアディクション関係でネタを拾って書きたいことを書いていきます。

遠くにいるスポンシーから電話を受けました。昨今遠地からの電話は「長野でも大きな地震がありましたが大丈夫ですか?」というものばかりでしたが、その彼の話題はまるで日常的な、

「スポンシーがステップ4の棚卸表をなかなか書かないのですが、どうしたらいいのでしょう?」

という相談でした。要するにスポンサーとして催促したものかどうか、と聞きたかったのでしょう。でも僕の答えは催促する・しないということとは違っていました。

ステップ4の棚卸しが書けないのは「やる気がない」とか「サボっている」という問題ではなく、ステップ1・2・3のどれか(あるいは全部)がちゃんとできていないからです。(逆に言えば、ステップ1・2・3がちゃんとできればステップ4の表は書けるはず)。

だから、スポンサーの役目は、スポンシーがステップ1・2・3がちゃんとできているか確かめ、できていなかったら(棚卸表を書くのを催促するのではなく)ステップ1・2・3のどれかまで戻って、そこからやり直すことです。

では、できている・いないを、どうやって確かめればいいのか。緑本「ビッグブックのスポンサーシップ」によれば、スポンシーにはビッグブックの各章を読んでもらい、その要点をそれぞれ1ページの紙に書いてもらう、とあります。(ジョーのステップあるいはRDでは、「医師の意見」と第1章がステップ1、第2章〜第4章がステップ2)。その要約を読んで、スポンシーがステップ1・2・3を理解できているかチェックするわけです。

電話では言わなかったのですが、これをやるにあたってスポンサーの側に要求されることがあります。それはスポンサーがちゃんと各ステップの要点を理解していなければ、スポンシーが書いてきた紙を読んでちゃんとできているか判定することができません。だから、スポンシーに要求する前に、まず自分でそれをやってみるのは良いことです。

このことに限らず、ステップにおいてスポンサーはスポンシーより進歩していなければなりません。水は低いほうから高いほうへは流れないからです。同様にスポンンサーはスポンシーより(少なくとも霊的には)健康でなければなりません。カウンセラーはクライアントより、精神科医は患者より健康でなければならない、と言われますが、同じことはスポンサー・スポンシーの関係にも言えます。

自分と同じレベルの人をスポンサーに選んでは回復できません。しかしアルコールや薬物の害によって自己評価が下がっている人は、往々にして「あいつは上から目線でものを言うから嫌だ」などといって自分より回復した人を避けます。回復したくない人は回復しない行動を選択するものです。回復したい人は回復する行動を選ぶ。そのときに「上から目線」がどうこうなどと言っている余裕はもはやないものです。


2011年03月20日(日) 買い占め叩きはそろそろやめないか?

いつも使っているセルフのスタンドは全油種品切れでした。でもせっかく来たので洗車をして、ついでに店員に「灯油も品切れですか?」と聞いたら、本当はダメなんだけど一缶だけならと言われ、売ってもらいました。系列の別の店ならガソリンの在庫があるかもと言われ、出かけてみましたがそこも品切れ。さらに別の店でようやく20L入手しました。

2月と比べガソリンの値段が20円近く上がっています。ただし、震災前からリビア情勢で10円は上がっていたので、震災の価格への影響は限定的かも知れません。

ガソリンの買い占め行為はご遠慮下さいという広報を県がしています。ティッシュペーパーだったら自分の部屋を一杯にするぐらい買い占めることもできるでしょうが、ガソリンは自分の車を満タンにしたらそれ以上は無理です。灯油も似たようなもの。在庫の払底は買い占めのせいではないでしょう。

精油所が被害を受けて供給が少し減った・・それだけでこの混乱です。ちょっと需給バランスが崩れただけで店頭在庫が消える。それが今の日本経済の仕組みです。製造業では東北に工場を置いているところも少なくありません。(今はそれほど差がありませんが)昔は人件費が安かったからです。そうした工場の操業が止まっています。被害を受けていない工場も、インフラや物流が動かないせいで稼働できていないのです。

確かに不急不要の買い物をする人たちもいます。けれど、その人たちの行動が理由で店頭在庫が消えたわけではありません。いまや店の裏に倉庫を持って在庫を抱えている店は少なくなりました。必要な商品がその都度送られてくるのが普通です。だから、若干の供給の減少、物流の停滞、そして不安解消のための若干の需要増だけで、こんなになってしまうのです。

日本人は便乗値上げを嫌います(僕も嫌う)。でも功利主義者に言わせれば便乗値上げだって正当な経済行為です。値上げで需要が抑制されれば皆に少しずつ行き渡るようになります。利益を求めて遠くからでも商品供給が行われて需給バランスが回復します。悪いことではありません。でも日本人的価値観では、災害時の便乗値上げは悪質な利益追求だと解釈されてしまいます。だから値段の変わらないスーパーやコンビニからあっという間に商品が消えてしまい、皆に行き渡りません。

こうしてみれば、僕らの属する経済システムの弱点がさらけ出されたわけです。だから経済の話をせねばならないのに、「買い占めが悪い」というモラル論になってしまうところがいかにも日本人的です。

(ただ僕だって日本人なので、地震の翌日に買いに行ったらガソリンやティッシュペーパーが10倍の値段になっていたら怒るけど。でもそれなら買い占めは滅多に起こらず、みんな節約して多くを買わず、どうしても必要な人はどんなに金を出しても買うでしょう。これも一つの解決方法です)。

原発事故の対応を巡って、アメリカ政府の人が「日本人は合意形成に時間がかかるので、原発事故への対応が後手後手に回る」と批判していました。それはそうでしょう、アメリカ人はトップダウンの仕組みが好きです。というか、トップダウンでなければ動かない国なのでしょう。だからアメリカやフランスは大統領制を敷いています。日本で管首相が強権的な政治をやったら反発を喰らうだけでしょう。

テレビで被災地の悲惨な映像を繰り返し流しています。被災地では燃料が、避難所では食料が、病院では医薬品が足りないと延々やっています。あれにはちゃんと意味があるのです。あの映像情報によって、皆が「被災地に送るのを優先せねば」という合意がゆっくり形成されます。

そんな事態を予防しようとして、管首相が強権的な命令を出したらどうなるでしょう。現地でいろいろ足りなくなるのを見越して、(たとえばの話)関東以南では白ナンバー車への給油を禁止したらどうでしょう。営業車に燃料が回され、「品物はあるが被災地に運ぶ燃料がない」などという事態は回避されます。そんなふうに強烈なリーダーシップを発揮することは日本では許されていません。

誰かがいったんは悲惨な目に遭い、それを皆で共有して、じゃあ対策をしよう・・と、ゆっくり合意が形成される。良くも悪くもそれが日本人です。ただ、現地で悲惨な目に遭っている人はたまったもんではないでしょうが。


2011年03月19日(土) 経済への影響

日立製作所・ソニー・NEC・富士通・東芝・村田製作所・アルプス電気などなど、主要な電機メーカーの関東や東北の工場が被災して操業が止まっています。

材料で言えば、鹿島の製鉄所が止まっているし、大きく被災した釜石市には新日鉄の製鉄所がありますが、これも止まっています。この二つの工場は自動車用の鋼板を作っており、前述の電機メーカーの自動車部品製造が止まっていることもあって、トヨタやホンダの自動車生産が止まっています。

エチレンの生産が1/4ほど落ちてしまっているのも痛いはず。

ただこうした様々なことも復旧が進めば次第に解消していくでしょう。地震で止まった精油所も来週から4月にかけて稼働するようになるはず。そうなると一番痛いのはやっぱり電力不足になります。

東京電力は現在3,400万キロワット(KW)まで落ちている供給能力を、4月末までに4,000万KWまで戻す予定でいます。これで計画停電がいったん終了するわけですが、冷房需要がある夏場になると需要が6,000万KWを越えます。

暑くなったら現在より過酷な計画停電をやらざるを得ないでしょう。今回の計画停電では東京23区その他いろんなところが除外されていますが、夏場は千代田・港・中央の3区を除く20区でも実施だそうです。これが秋まで続きます。そして、冬場も5,000万KWは必要だというので、冬になったらまた停電が始まるわけです。

首都近辺がこんな状態で、いったいこの先日本の経済はどうなってしまうのか。震災前には景気回復がささやかれ、暑くなってくる頃には本格的に回復が始まるだろう・・そう皆が思っていたわけですけど、逆戻りは仕方ないですね。経済関係の報道をみれば、これで日本発の世界不況になることはないし、日本だって今年いっぱいには回復基調を取り戻すだろうとあります。結局景気回復が一年先に伸びた感じでしょうか。ボーナスは仕方ない諦めるにしても、その間に会社がつぶれなければいいんだけど。増税もあるだろうし。

原子炉に海水を注入したら廃炉になっちゃうので、できるだけそれは避けたかったという動機も見えてきます。でもそのせいで大変なことになってますけど。

ところで、事故の起こった発電所で作業している作業員については東電は公表していません。エキサイトの記事をたどって見つけたのが、The New York Times のこの記事。

Last Defense at Troubled Reactors: 50 Japanese Workers
http://www.nytimes.com/2011/03/16/world/asia/16workers.html

英雄扱いな記事ですが、中に作業員の被害についての記述があります。地震以来5人が死亡、22人が様々な理由で負傷し、2人が行方不明。ある作業員は、突然胸をかきむしって起立困難となって入院、別の作業員は破損した原子炉からの爆風を浴びて入院。3号炉の水素爆発で11人が負傷しています。こういう事実は国内では報道されていないのかもしれないし、されていたとしても目立っていません。(確かに、震災の莫大な死傷者数からすれば小さな数字ですが)。水素爆発の後、北澤防衛相が、安全だと言ったのに危険だったじゃないかと東電に食ってかかってましたが、たぶん公表されないだけで自衛隊にも被害が出ていたのでしょう。

信田先生がブログで、首都圏の住民全員が当事者の状態なのに皆が平静を装っているのは軽い解離が起きているからではないか、と書かれていますが、まさにそんな感じがします。

この雑記だって結構解離的なのでありますから。(そのことを自覚できているだけまだマシだ、と言って自分を慰めていよう)。

AAの仲間から「合同庁舎の近くを通るんだったら、これを持っていってくれ」と頼まれて、トイレットペーパー・ティッシュペーパー・おむつを渡されました。県が被災地向けの救援物資を集めているのだそうです。僕自身はちょこっと募金しただけで、献血も献品もしようという気がなかったのですが、まあこれくらいの簡単な運搬役務を断ったらいけないだろう、と引き受けました。

今日は自動車で実家に行ったのでだいぶガソリンを使ってしまいました。また明日は市内のスタンドを回らなくては。この時間がバカにならないんですよね。やれやれ。


2011年03月18日(金) リスク評価と言ってもなあ

みずほ銀行のシステム障害でATMが止まったのは、特定の口座の取引が急増したのが原因だそうです(これは本当)。義援金の受け付け口座に振り込みが集中したのが原因だという話も伝わってきており、(それが本当だとすれば)これもまた一つの美談と言えるかもしれません。でも娘の塾代金が振り込めなくて僕は困ってますけど。

原発への放水作業が行われたり、原発に送電線をひきこんで冷却機能を回復させるニュースがありました。原発関係ではしばらく良いニュースを聞かなかった(悪いニュースばかりだった)だけに、「これで底打ちにして欲しい」と切に願います。(時間がかかり復旧は早くても19日というニュースが入ってきました)。放射線業務従事者が1回の緊急作業で浴びる放射線の上限は100mSvと法律で決まっていますが、今回はそれが250mSvまで緩和されています。暗に犠牲を求められているということです。

現状では、現場から20Km圏からは退避勧告、30Km圏内は屋内待避の指示が出ています。ところがアメリカやイギリスは日本に住む自国民に対して60Km以遠への待避を勧告しています。この差はどこから生じるのか。

フランスやドイツはすでに自国民の日本からの国外退去を勧告しています。フランス政府はエールフランス機をチャーターして国民を引き取りに来ているという徹底ぶりです。アメリカ政府は日本への渡航自粛要請を出しました。各国が大使館機能を東京から関西へ移しています。逃げる場所のある人、逃げられる人たちは安全側に寄った判断をするものです。一方逃げることが簡単ではない当事者国日本は、それよりもリスク側に寄った判断をせざるを得ないのは当然とも言えます。

いつも拝見しているFast&Firstのブログに、ドイツの有名な週刊誌「デア・シュピーゲル」のサイトが紹介されていました(ニューズウィークみたいな印象の媒体です)。
こちらのページ
http://www.spiegel.de/panorama/0,1518,751072,00.html

上の線グラフは福島第一原発での空間放射線量の推移。二番目のグラフは(クリックするとアニメーションするページに移りますが)、風によって放射性物質がどのように運ばれるかを予測したものです。もちろん、封じ込めが成功すれば飛散を心配する必要はありませんし、より深刻な固体の放射性物質(の飛沫)はそう遠くまで運ばれるものではありません(だからこそ○○Km圏外へ退避というのが有効です)。けれど、今後何かあったときには、その時の風向きが大事だということはわかります。

地震から一週間経った今も余震は続いています。はじめの頃、福島の原発では直しても直しても、また余震で壊れてしまう繰り返しだったと伝えられています。震源から離れた僕のいるところでも、しょっちゅうゆらゆらと周期の長い揺れを感じます。それで地元の断層も刺激されたのか、規模はM2~3と小さいものの、ごく浅い震源の直下型地震が日に数回あってガガガと揺さぶられます(ここは糸魚川静岡構造線の直上)。

こうなると「地震酔い」といって、揺れてないのに揺れていると感じる平衡感覚の異常が発生する、と新聞で取り上げられていました。

現状は安全なのか危険なのか。それは何とも言えません。そもそも低い被曝線量で人体にどれぐらい影響があるか結論がでていないのです。危険があるという研究者と、安全だという研究者の、どちらの話に耳を傾けるかは聞き手の選択になります。

逃げられる人は逃げればいい。でも、僕も含め多くの人たちは、いまの場所に留まって日常生活を続けるしかありません。たぶんそれでまったく問題ないという可能性は十分にあります。とはいえ、確率論で不安が払拭されるわけではありません。いまの東日本を覆っている沈滞した雰囲気はそこに原因があります。日常通りの生活が求められているものの、非日常は着実に気分を浸食しているのです。

ともあれ、原発の電源が回復して冷却できるようになり(そうならなければ困るし)、余震がある程度収まって、被災地に救援物資が行き渡り、仮設住宅など復興の話になってくれば、こうした雰囲気も軽減してくるでしょう。

逆境の時こそ、その人の隠された人間性が露わになる・・・こんなときにどんな行動をとったか、それがその人の評価を決めたりするから怖い。


2011年03月16日(水) 今の僕らにできることは

水曜日、さっそく東証が反発しています。
2月半ばから仕事の中国案件が急に忙しくなり、休日出勤や出張が続いて張りつめた気持ちでいました。昨日でそれがちょっと一段落し、緊張の糸が切れてちょっとぐったりしています(でも案件はまだ片づいていない)。その間、アディクション関係でも週末忙しかったり、風邪を引いたり。そして世間では大地震があり、原発がトラブルを起こし、仙台や福島の友人知人の無事が分かってほっとしたりでした。

ガソリンスタンドでは給油規制が敷かれていて、「千円まで」と言われれば6リットルぐらいしか入れることができません。僕は勤務地が近いから良いですが、遠距離を通っている人は通勤用の燃料を確保するのに苦労しています。ガソリンの需給バランスが取れるにはまだ一週間ほどかかるとか。

スーパーやコンビニでは空の棚が目立ち、本屋が雑誌を持ってこないとコンビニのおばちゃんが嘆いていました。ニュースに言われるほど皆がパニックになって買いだめ・買い占めに走っているわけではないのでしょう。不景気もあって、流通段階での無駄な在庫をそぎ落としていた結果、少し需給バランスが崩れただけで、あっという間に店頭在庫がなくなってしまったのだと思います。それでも便乗値上げのトラブルが少ないのが日本人の善良さを示しています。

東京電力の計画停電は、初日こそ混乱が大きかったものの、軌道に乗りつつあるようです。すると関心はこれがいつまで続くかに移ります。発表では4月末までとなっていますが、今後どうなるのか。

止まっている火力発電所のうち、約半数は1〜2週間で再稼働できるそうです。これで400万キロワットが上積みされます。さらに4月末までに残りのすべて(350万キロワット)も再稼働する予定。老朽化して休眠している(たぶん規模は小さい)発電所も再稼働。計画停電が4月末までの予定はこれが根拠か。

水力発電所は、福島県内15カ所など合計22発電所が止まりましたが、それの再稼働状況はよくわかりません。2007年に無許可で取水していたことがバレて取水禁止になっていた塩川発電所を使う許可が出ています(90万KW)。また、このほか4カ所の発電所で取水を増やして発電量を増加させる許可が出ています。この中にはJRの信濃川発電所も含まれますが、ここも2008年に無許可取水がバレて、翌年から2年ほど使えない時期があったところです。

関西電力では木曽川で二つの(小さな)水力発電所を60Hzに転換し東電へ送電する準備を始めたとか。

こうやってちまちま積み上げても、夏場には2000万KWも不足します。これはすぐには解消できそうにありません。計画停電が年単位で続き、日本経済の足を引っ張らないとも限りません。福島のサイトで起こっていることを考えれば、原子力発電に対する拒否感はますます強まるでしょうが、生活を考えれば止まっている原発の再稼働や新設という話にいずれはなっていくでしょう。

さて話は変わり、阪神大震災の時には関西のAAメンバーが神戸に入ってAAミーティングを開き、その合間にはボランティアに従事した、という美談が残されています。今回の大地震でも、関東のAAメンバーの中には仙台に行ってミーティングを開こうという話が出てきています。

こういう話を聞くと、ちょっと「うらやましさ」を感じてしまいます。テレビ画面には被災地の惨状が映し出されています。それを見ても僕らにはどうすることもできません。個人的に物資を送りたくても被災地向けに荷物を送ることはできず、せいぜい義援金の募金をするくらいか。異常事態の興奮が次第に冷めてくれば、心の中に残るのは無力感ばかりです。

こんなときに直接現地に乗り込んで活躍する話は、その無力感を突き破る超人的な幻想を僕らに与えてくれます(そしてそれこそアル中の求めるものです)。圧倒的な力(この場合は自然災害)によって、力の及ばなさを思い知らされると、人は自己効力感をなんとか取り戻そうとあがくものです。災害が起きるたびにたくさんのボランティアの人が現地に向かうのは、その健全な現れです。

しかし、そうして行動を起こせる人たちは、いわば「余裕のある人」です。皆がそのように恵まれているとは限りません。僕のようにカツカツで暮らしている者には、そうした日常逸脱行為は許されていません。だからこそ、その行動に対して「うらやましさ」そして若干の「うらめしさ」を感じてしまいます。

とはいえ、そんな僕にも着実にできることがあります。災害や国難に対して何もできなくても、いま自分が置かれた状況の中で、目の前に置かれた物事をこなす日常を着実に進めていくことです。それこそが僕のいるべき場所、僕のやるべきことです。

自分のことをしっかりやっていれば、残りのことは世界をコントロールしている神様がなんとかしてくれる・・だから安心して目の前のことに取り組める。それこそが信仰の証(あかし)です。

福島の原子力発電所は困難な状態からなかなか抜け出せないでいます。数百人が交代で現場に入って作業しています。(確かめてはいませんが)その多くは東京電力という恵まれた上場企業の社員ではなく、関連会社・協力会社と呼ばれる中小企業の人たちでしょう。事後に十分な補償があるかも不明確な中、彼らは文字通り「命を張って」作業に当たっています。そんな彼らのがんばりのためにも、ぜひなんとか、なんとか、事態が収拾してほしいと願っています。


2011年03月14日(月) 地震の週明け

朝早くから起きて、開店しているガソリンスタンドを探し、ようやく20リットルを補充しました。石油元売り各社によって状況は異なりますが、すくなくとも僕のいる県内では燃料の供給状況が悪くなってきています。テレビ画面に映されたように、いくつかの精油所や政府の備蓄基地が被害を受けて、供給能力が落ちている上に、供給が災害救援関係に優先的に回されているため、一般の需要末端まで届きにくくなってきているのだとか。

多くのガソリンスタンドでは在庫払底で閉店を余儀なくされており、ようやく見つけたところでも20リットルの制限をしていました。それほど逼迫していないのかも知れませんが、ガソリンは買いだめができないだけに、自分の車がガス欠寸前になったときに営業しているスタンドが見つからなければアウトです。皆が不安に陥った結果の騒ぎですが、いざ自分が必要な時に必要なぶんを確保するためには、その不安行動と同じ選択をせねばならないのが心苦しいところです。ついでに灯油も買っておきました。

24時間営業のスーパーではミネラルウォーターが売り切れており、カップラーメンや缶詰も安価なものを中心に品切れになっていました。首都圏では東北方面から商品の供給を受けているところが多く、食料品を中心に品薄になってきているとか。

月曜になって東電では予定通り計画停電を開始したようですが、この雑記を書いている現時点ではまだ実際の停電には至っていません。JRが運行路線を限定したため、多くの人が通勤・通学に支障を来し、経済活動が抑制された結果電力需要が押し下げられ、停電が回避されているのは皮肉な話です。

東北には多くの企業の工場が集中しており、直接被災しなかった地域でも、電力不足で工場の稼働が止まっています。(東北電力でも明日から計画停電開始)。部品不足で東北以外の自動車組み立て工場も止まっています。事情は電機大手でも同様か。東電では計画停電実施期間を当初1〜2週間としていたのを、4月末までに訂正。今後需要が高まる夏や冬にも実施するとか。

テレビ画面で見れば、東北新幹線の架線柱が大量に倒れています。高速道路も通行止めが続いています。経済活動の沈滞は避けられないところ。かくいう僕の会社でも、神奈川の本社は社員が出てこれないのでほぼ機能停止状態です。

週明けの東証は急落し、1万円を割り込んでいます。税収減と復興による支出増で、震災増税の可能性もあるとか。直接的被害の大きさは言うに及ばず、日本全体に与える影響は阪神大震災をはるかに越えています。

とはいえ、一般市民が騒いでみても仕方ありません。目の前に積み上がった日常の様々なことを片づけていく以外にすることは何も無いとも言えます。

今のところまだ関東の停電は回避されているものの、需要が高まる夕方からは停電が実施される可能性大です。AAではミーティング会場に公共施設を使っているところも多く、停電が予測されるところでは会場が使えない可能性が言われています。計画停電が続けば、運の悪い会場は代替会場を探すことになるのかも。


2011年03月13日(日) 計画停電

この雑記を書いているうちにも、東京電力から発表があるかもしれませんが、計画停電が予定されているようです。

電気は大量貯蔵することができないため、供給量と需要量(負荷量)が常に釣り合っていないとなりません。このため、電力会社では需要量を常にモニターして、各発電所をどれだけ稼働させるか調整しています。原子力の発電所は発電量をなかなか臨機応変に調整できないので、この役割はおもに火力と水力の発電所が担っています。

供給と需要が釣り合わなくなるとどうなるか? 商用電力は交流で供給されています(東京電力は50Hz)。負荷が大きくなる(供給<需要)と、この周波数が下がります。逆に負荷が軽くなる(供給>需要)と周波数が上がります。電力会社ではこの周波数をモニターして、発電量を調整し、せいぜい±0.2Hzの変動に抑えています。

電力消費が最大になるのは真夏の午後です(エアコンを使うため)。特に甲子園で野球が行われている日が多いのだそうです。東京電力ではそれに備えて6,250万キロワットの供給能力を確保しているのだとか。これは自前の発電所のほかに、隣接する中部電力や東北電力から融通してもらう電力も含みます。

地震の影響でこの能力が半分程度に落ちてしまっています。原子力発電所は柏崎は動いていますが、福島の二カ所はニュースで報道されているとおり止まっています。水力発電所に影響はないそうですが、火力は10カ所で停止しています。日曜日は揚水発電所に溜めた水を使って3,700万キロワットを確保するものの、翌日月曜日からは3,100万キロワット程度に低下するとしています。

東電の予想では月曜日以降の電力需要は最大4,100万キロワット。実に1,000万キロワットが不足します。

もし需要が供給を上回るとどうなるか? 前述のように周波数がどんどん下がっていきます。周波数が下がると発電所で発電に使っている蒸気タービンの回転数(通常は3000rpm)が落ちていきます。回転数が落ちてタービンの共振周波数に近づくと・・タービンが壊れて発電所が大災害になってしまいますから、それを防ぐため発電機を止めるしかありません。これによって供給が減るのでますます周波数が落ち、各地の発電所が次々止まり、やがて関東全域が停電する。これが最悪のシナリオです。

これは避けねばなりません。そこで周波数がある程度下がってきたら、送電を途中でカットすることで需給バランスを保ちます。トカゲの尻尾切りのように送電カットされてしまった地域では突然停電することになります。

それは社会トラブルの元になりますから、計画的に停電させることで、全体のバランスを保つ・・というのが今回の話です。具体的には暖房や炊事などで需要が高まる夕方の時間帯を中心に3時間程度、地域ごとに輪番で停電させることになるようです。

他の電力会社から電気を融通してもらうことはできないのか?

震源に近い東北地方は関東以上の大きな被害を受けていて、東北電力は自前の電力も賄えていません。北海道から送ってもらおうにも、途中の送電線が被災しています。

では、西日本はどうか?

明治時代に日本で電気が普及しだした頃、東日本ではドイツから発電機を買ったので50Hzに、西日本ではアメリカから買ったので60Hzになっています。北海道・東北・東京電力は50Hz。中部・関西・中国・四国・九州・沖縄電力は60Hzです。周波数が違うために、この両者の間ではそのまま電力を融通できません。

そこで、長野県と静岡県の三カ所の変電所で周波数変換を行って、西から東へ、逆に東から西への送電を可能にしています。ただ、その能力はせいぜい100万キロワットしかありません。現在関西電力や九州電力から東電に向けて送電が開始されているそうですが、ここがボトルネックになって必要量の1/10しか供給できません。

(だから、東京に電力を送るために関西で節電しよう! というチェーンメールは、善意とはいえあまり意味はありません。西日本全体で100万キロワット捻出すればいいだけなので。ただ節電自体は悪いことではないし、西日本の電力会社も余裕は欲しいはず)

東電によれば、計画停電は一週間ぐらいで解消できる見込みだとか。おそらくその間に火力発電所を再稼働させるのでしょう。しかし、これから夏に向けて需要はどんどん増えていきます。福島の原子力発電所の能力950万キロワットが失われたのは痛かった。

2007年の中越沖地震では、柏崎の原子炉7基すべてが停止しましたが、最初の1基が再開するのに2年5ヶ月要し、4年経過した現在も3基がまだ停止中です。福島も再開までは(再開できたとしても)年単位になるでしょう。

被災地にいる知り合いのことも心配ではあるのですが、他にもいろいろ心配はあるわけです。


2011年03月11日(金) 言いっぱなしの聞きっぱなし

のどが痰を製造し始めたのは風邪が治ってきた証拠でしょうか。
僕は風邪薬を飲むと、必ずその後軽いうつになります。(精神状態に影響を与えるのは精神科の薬ばかりとは限らないため)。たぶん今回は鎮咳剤のせいなのでしょう。まだ残っている風邪のダルさと、若干のうつのために重く感じる体を引きずって仕事に出てきています。スーパークリーンを維持している人たちは、こんな時にも限られた薬しか使えないので大変だろうな、と思うのです。

さて、AAのミーティングは「言いっぱなしの聞きっぱなし」だと言われます。これはクロストークの禁止を意味しています。同じミーティングでも、例えば仕事の会議は「言いっぱなしの聞きっぱなし」ではなく、相手の発言に対して質問したり、意見を述べるのは自由です。そうやって討論を重ねながら一つの結論を出すのを目的としています。

AAのミーティングはそうではありません。人の発言に対して、質問をしたり、直接的に意見を述べることはしません。クロストーク(話のやりとり)が禁止されているので、順番に自分の話をしていくだけです。アル中というのは「No」と言われるのが大嫌いなので、自分の発言に対して他者から意見をもらうことを嫌います。クロストークありでやっていると、人はAAに来なくなってしまいます。

クロストークなしのミーティングは、往々にして進歩の妨げになってしまいます。なぜなら人は自分にとって耳の痛い話を聞き流し、心地よい言葉ばかりを持って帰りたがるからです。それでは現状維持にしかなりません。そうした問題点を補っているのが「スポンサーシップ」という一対一の関係です。スポンサーシップでは質問もあれば意見されることもあり、提案という名前のかなり強めの指示が与えられることもあります。

自助(相互援助)グループが紹介されるときに、同じ問題を抱えた人が集まる「言いっぱなしの聞きっぱなし」のミーティングばかりが取り上げられることが多く、まるでそれだけで十分な効果が出るかのような誤解を与えています。例えスポンサーシップという形でなかろうとも、何らかの形で個人的に相手をしてくれる人が回復には必要です。ミーティングだけで、ほかには一切付き合いなしというわけにはいきません。

話を元に戻して、では「言いっぱなしの聞きっぱなし」とは、単にクロストーク禁止という意味だけなのでしょうか? いやいや、他の人の話に口を挟まなければ、何をしゃべっても良いというわけではありません。

AAミーティングは経験を共有(シェア)するものです。ミーティングにはテーマ(トピック)が出され、最初の人から順番に自分の話をしていきます。この時に、他の人の話を聞いて、自分の中で想起されたことを話すことが必要です。例えば誰かが「酒で仕事の失敗をして、大変惨めな思いをしたことがあったが、それでも酒はやめられなかった」という話をしたとします。自分も酒で仕事の失敗があったなら、それを話せば良いし、別の例えば酒で友人との約束を破ったという似たような話でもかまわないでしょう。

人はそれぞれ違う人生を生きているので、まったく同じ経験をすることはありません。けれど、経験を重ね合わせようという努力があれば、(先の例で言えば)どのような痛手も反省も飲酒の歯止めにならなかった、という事実が全員で分かち合われます。いわゆる集合知です。これによって、ミーティングの目的が達成されます。

ところが、まったく関係のない話をしたらどうなるでしょうか? 「今朝家族に言われたひと言が気に障って、一日が台無しになってしまった」とか「今日は歯医者に行きました」みたいな話をしたらどうなるでしょう。もし皆がそれをやり、単に集まっててんでんばらばらな話をしてお終いでは、共有するものなしに終わってしまいます。これでは「言いっぱなしの聞きっぱなし」ではなく、「言いっぱなしの言いっぱなし」です。

先ほど、ミーティングだけでは十分な効果が見込めないという話をしましたが、それでもミーティングにはちゃんと効果があり、だからこそAAはミーティングを大事にしているのです。けれど、そのミーティングが「言いっぱなしの言いっぱなし」になってしまって、経験も力も希望も共有されなければ、その効果も期待できません。

クロストーク禁止ですから、自分がしゃべっている間は皆が黙って聞いてくれます。人は誰だって、自分の言いたいことを言えばスッキリします。けれど、そのスッキリ感は回復とは違います。ミーティングの目的に沿わず、自分のしゃべりたいことを一方的にしゃべってしまう人は、会場の外で自分の話を聞いてくれる人間関係を持たない人です。ミーティングはそうした関係の代替物ではありません。

分かち合いができないのなら、なぜできないのか、そのことに焦点を当てていく必要があります。それはゆっくりした作業でもかまわないのかもしれません。

「そういう話じゃなくて、もっとこういう話をしろよ」

そう言ってくれるスポンサーなしに、ミーティングの効果を出すのは意外と難しいことなのかもしれません。


2011年03月07日(月) 死生観と終末期医療

なかなかニュースを見る時間もありません。朝のNHKニュースの冒頭部分と、新聞を少しめくるぐらい。あとは仕事中に時間があればニュースサイトを見ています。

ニュージーランド地震の行方不明者の捜索が終わりました。日本からも捜索隊が派遣されており、帰国した捜索隊員が、生存者を見つけられなかった無念を語っていました。

こうしたニュースに触れるために思うのですが、日本人は本当に「最後まで諦めずに」捜索を続けます。災害や遭難から何日も経過し、常識的に考えればもう生きている可能性はゼロに等しかろうとも「全力を尽くす」姿勢です。台湾や中国で起きた大地震の時には、他国(特に韓国)の捜索隊は、現場で生存者がいる見込みが少ないと分かるや、「我々は救助隊だ。遺体を掘り起こしに来たんじゃない」と別の現場に案内するように災害本部に迫ったのだそうです。一方日本の救助隊は、見込みがなくても作業を続け、見つかった遺体を丁重に扱っている様子がニュースで流され、なにかと日本に批判的な中国のネットニュースに一時さわやかな感動を吹き込んだこともありました。

国ごとのこうした違いは、文化の違い(死生観の違い)から来るのでしょう。

個人的な考えなのですが、「最後まで生きているものとして扱う」という日本人の価値観は、国学思想の影響が大きいのではないかと思います。日本人が日本古来の文化と信じていることの多くは、実は明治維新前後に人為的に導入されたものであることが多いのです。例えば皇室の行事も、これ以前は仏式だったものが、国家神道の導入とともに神式に変わって現在に続いています。神道では、死者は穢れであり、忌むべき対象です。だから、葬式の時には死者はまだ死んでいない病者として扱われます。

話を元に戻すと、日本人の価値観の中に「生を諦めず、最後まで全力を尽くす」という考えがしっかり根付いていることは確かです。

このことは終末期医療にまで及びます。実は先日いただいた精神科医の方からのメールには続きがあり、医療費削減が叫ばれている中で、医療費全体に占める終末期医療の割合の大きさに触れられていました。

65才以上の高齢者の医療費が、全体の半分以上を占めています。このすべてが終末期医療ということはないものの、いざ死期が近づくと家族の希望に従ってどこまでも延命治療が行われているのが現実です。人は人生の終わりに大量の医療資源を消費します。それに制限を加えるべきなのかどうか。

そこで医療費がかさめば、結果として子供の医療に十分なお金が回せず、精神科医療にも回ってこないわけです。終末期医療にどれほどのお金が費やされているのか調べてみたのですが、資料によって「多すぎる」と言っているものもあれば、適正だというものもあり、政治的意図の反映がうかがわれます。

老人医療の無料化を行ったのは田中角栄だと思っていたのですが、先日亡くなった美濃部元都知事は自民党の政策に先立って無料化を実現しました。高齢者へのばらまきは得票につながるのです。

結局この問題は、人生のどの時期にどれだけお金を使うか、という価値観にも結びついています。掲示板にいらしたシナさんがお住まいのフロリダ州には、リタイアした高齢者が移住した町がたくさんあります。そこでは、そこでは子供の教育にかける自治体の予算を削減しろという法案が通過してしまうこともあるのだとか(高齢者福祉の予算を確保するため)。民意(選挙結果)に任せておけばいい問題ではないのかも知れません。

処方乱用の問題から始まって、医療費の問題、日本人の死生観、人生における消費バランス、さらには民主主義の誤謬にまで話が転がってしまいました。


2011年03月05日(土) ストレスと食べること

突然の話で中国に出張に行っていたので「家路」はほったらかしでした。
なにせ、電話もネットもつながらない環境だったのです(さすがに仕事用の携帯は持っていきましたが)。中国のみやげ話はブログ「家出」のほうにおいおい書くことにします。

たった一週間なのに、その間に1.5Kg体重が増えました。僕は出張に限らず遠出をすると必ず便秘をするので、1.5Kgの大部分は肥満ではなく滞留なのかもしれません。でもやっぱり数百グラムは太っていることでしょう。

僕は高ストレス環境に置かれるとよく食べるようです。なにせ、朝7時から夜11時ぐらいまで働いていました(それからホテルに帰って食事や入浴だから、仮にネット環境があってもやっぱり「家路」は放置だったでしょう)。「食べたいから」というより、食べるしか楽しみがないから食べていたようなもの。しかもたいして美味しい食事でもないのに(ブログに写真を張る予定)。

ホテルで体重計に乗りながら、ふと思い出したのが、昨年2月の奈良で行われたリカバリー・ダイナミクスの講座に、講師として呼ばれていたラリー・ゲインズ氏のことです。Joe & Charlieのビッグブックスタディの二人の片方であるジョー・マクアニー氏は既に故人ですが、ラリーさんは後継者です。その彼が、講座で余ったポテトチップスの袋をいくつか抱えて「これから宿舎の部屋に戻ってこれを食うんだ」と嬉しげに話している様子を見て、僕は内心「あららら」とちょっと残念に思ってしまったのでした。

ラリーさんは身長が高く肥えている巨漢です。アルコールもヘロインもタバコもやめた人が、しかも糖尿病で薬を飲んでいるというのに、食欲が抑えきれないとはねえ・・とすこし呆れたのです。でも「それもストレスゆえかもしれない」と思い直しました。

ラリーさんはアディクションの人相手専門のカウンセラーです。経験が長いので直接クライアントの相手をするよりも、同じ分野のカウンセラーをトレーニングしていることの方が多いはずです。しかし、カウンセラーと言っても、アディクション・カウンセラーというのは伝統的に酒や薬をやめた「当事者がやる」ことが多いのです。カウンセラーになりたい人は、すくなくとも、酒や薬をある程度やめている期間があるだけビギナーよりマシではないか・・・と思ってはいけません。大差がないどころか、なまじ素面なだけに、口がたつのでやっかいだとも言えます。

アル中・ヤク中というのは、やめて何年経とうとも「素直なよい子」にはなれないものです。この点ではアルコールや薬物のような物質依存であろうが、ギャンブルのようなプロセス依存であろうが違いはありませんし、本人・家族の区別もありません。「やることもやらないクセに、口ばっかり達者」という連中ばかりです(僕もその例外ではないけど)。

ラリーさんのストレスをおもんぱかると、食べることでのストレス発散ぐらい目くじらたてることではないかも、と思い直したのでした。

ついでにスコット・ジョンソン氏のことも思い出しました。スコットさんは両親とも依存症で、自分もアルコールとヘロインの中毒になって回復し、その後カウンセラーとして修行した後に、ベティ・フォード・センターに勤めて家族プログラムの開発をしたことで有名です。

直接お目にかかったことはないのですが、奈良ダルクで開かれているカウンセラー講座のために長期滞在しており、その様子をちょこっと小耳に挟みました。糖尿病であることも、食べるのが好きなことも、そして太っていることもラリーさんと同じであります。

そういえば、セレニティー・パーク(ラリーさんの施設)の写真を見せて頂いたとき、スタッフの人の巨躯に驚いた記憶があります。「巨体」というのは一流のアディクション・カウンセラーになるためには避けて通れない道だったりしてね。

僕はアディクション・カウンセラーへの道を歩んでいるわけではありませんが、なぜか体重は増加一辺倒です。なんとかしなくては。


もくじ過去へ未来へ

by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


My追加