心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2010年11月29日(月) アマチュアリズムの大切さ

AAのスポンサーは、広い意味では依存症の「治療者」「援助者」です。ただし、AAのスポンサーはプロフェッショナルではなく、アマチュアです。

ただし、ここで使っている「アマチュア」という言葉は、技術や知識が専門的なレベルに達していない素人レベルという意味ではありません。最近スポンサーを始めたばかりで技量の低い人もいれば、長年経験を積んだ素晴らしい人もいるでしょう。技量の高低ではなく、それによって金を稼がない、非職業的であるということです。

AAに先立つこと40年、フロイトが精神分析という分野を開拓しました。この精神分析を世界に広めるのに活躍したのが lay therapist(レイ・セラピスト=素人療法家)という人たちです。彼らは医療や心理の専門的資格は持たず、精神分析のトレーニングを積んだだけの素人でしたが、それで患者を治療し実績を積んでいきました。これが、非資格的療法家の始まりです。

AAもこの非資格的療法家をスポンサーシップという形で取り入れました。
スポンサーになるためには何の資格も要りません。スポンサーになるためのワークショップや研修制度もないし、資格認定があるわけでもありません。スポンサーは資格ではなく、AAの霊的な価値観をどれだけ実現できているかで判断されます。スポンサーに必要なのは、自分が12ステップをやった経験、それを人に伝える技量、意欲、そしてそのことに割ける時間です。

AAが自分たちのことを「素人」だと言うのは、素人であることをレベルの低さの言い訳にするためではありません。12ステップを伝えるという高い専門性を、素人であるがために(つまりそれで金を稼いで暮らしていないだけに)無料で提供できるわけで、素人であることを誇りにしているのです。

ある医師が講演で「私たちは患者さんを診察時間内しか相手してあげられないけど、自助グループに任せればスポンサーさんが24時間態勢で面倒見てくれる」とおっしゃっていました。スポンサーというのは素人ですから、たいていはAA以外のことで仕事をして金を稼いでいます。そして仕事以外の時間帯、つまり本来だったら家族や趣味のための時間を割いてスポンシーの相手をしています。僕もソーバー1年目には、夜中の2時にスポンサーを電話でたたき起こしたことがありました。そこまでの対応をしてくれる人ばかりではないかもしれませんが、多かれ少なかれスポンサーは生活の時間を捧げてスポンサーシップをやっています。

もしスポンサーシップが有料で、スポンサーがそのことで収入を得て暮らしているとするなら、どんな料金がふさわしいのでしょうか。AAが有料で高価なものになったら、12ステップをどれだけの人が手にできるでしょう? AAが自分たちのことを「素人」だと言うのは、無料で提供することに誇りを持っているからです。

またAAはプロフェッショナルということを完全に否定しています。もし精神科医であるとか、心理の資格を持つ人がメンバーになったとしても、そのことはAAの中では捨てなければなりません。また、依存症関係の回復施設のスタッフは、たいていはどこかのグループのメンバーでもありますが、グループのメンバーとして活動しているときには職業のことは伏せなければなりません。これを「(職業家としての)帽子を脱ぐ」と表現します。AAは素人の集まりですから、回復の業界で仕事をしている人でも、AAに来るときは素人にならねばならないのです。まわりのメンバーも、その人の「素人性」を尊重します。

もちろん、AAのメンバーが施設で働いて、そこで12ステップを伝えることで金を稼いでもちっともかまいません。ステップを伝えることを職業にしてもよいのですが、その場合は職業人として活動するときは、逆にAAメンバーであることを完全に伏せなければなりません。(しかるに、施設スタッフであるのに、某グループのメンバーでもあることが露わなブログをやっている人がいて、そこはきちんとして欲しいと思っているんですけど、まあそれはともかく)。

数年前、某イベントでアメリカの回復施設の若いスタッフが「どうしてAAメンバーってこうなれなれしいんでしょう」と不満を漏らしているのを耳にしました。その人は、有名施設で働いている自分をAAメンバーが上座に奉ってくれないのが不満だったようですが、そうした不満を持つこと自体が霊的価値観を実現できていない証左であり、それにふさわしい扱いを受けただけのことだったと僕には思えます。

繰り返します。AAがアマチュアリズム(素人性)を大事にしているのは、素人であることを技量の低さの言い訳にしているわけではありません。スポンサー初心者は経験不足でしょうし、経験を積んでも技量がなかなか向上しない人もいるでしょう。けれど皆が良いスポンサーになろうと努めています。良いスポンサーとは、回復を伝えるために高い専門性を持つということです。

回復施設をもっと良く12ステップを伝えられるように改革していこうという動きが始まっています。それは必要なことですが、僕はそれだけでは足りないと思っています。施設を退所してきた人たちを受け入れる自助グループの側にも質が求められます。回復施設の改革と、自助グループの改革は、車輪の両輪です。

スポンサーをやる人たちは、高い専門性を無料で提供することに誇りを持って欲しいと思います。それを職業としてないことに引け目を感じる必要はまったくありません。むしろそのことが、霊的な価値観の実現に大きな意味があります。ただ同時に、そのプライドに見合っただけの技量を身につけるために自己研鑽を怠らないで欲しいです。僕も良いスポンサーになるための努力を続けたいと思います。


2010年11月26日(金) ドクター・ボブの言葉の真意

ビッグブックの初版が出版されるまで、12ステップは人から人へ(スポンサーからスポンシーへ)と口伝で伝えられていました。しかし、その方法ではAAはじれったいほどの遅いスピードでしか広がらなかったでしょう。その間にも酒をやめられないアルコホーリクは世界の各地で命を落とし続けることになります。

そこで、初期のAAの人たちは本を書き、それを媒介として、12ステップという「酒をやめる方法」を全世界に伝えることにしました。その時AAメンバーはまだ40人しかいませんでした(本を書いている間に100人に増えたのですが)。

AAというのは、この100人が全米、全世界に散って、各地でアルコホーリクを助けてAAグループを作っていった・・わけではありません。AAの評判を聞いて、ビッグブックを買い求めた人たちが、その本の中身通りにステップをやって回復し、各地でグループを始めていった、というのが正解です。つまり初期メンバーの意図通り、本がステップを伝える手段になってくれたのです。もちろん本を読んでも分からないことがあれば、ニューヨークのAAオフィスに問い合わせするほかはなく、そうした手紙にはビル・Wの女性秘書たちが一通一通丁寧な返事を書きました。ついでに言うと、AAの月刊誌「AAグレープバイン」を創刊したのも女性たちでした。AAが広がったのは、本による伝達と女性の力あってのことでした。

ビッグブックがステップを伝える能力を持っていることを再確認させたのは、1970年代から始まったステップの再興運動でした。ジョーとチャーリーのBig Book Studyによってステップのやり方を学んだ人もたくさんいます。

このように「本によってステップを伝える」というのは、AAがその最初期から持っている基本コンセプトの一つなのですが、それに異を唱える人たちもいます。「そこを否定してどうするんだよ」と思うのですが、その人たちによれば、ステップというのはスポンサーからスポンシーへ直に伝えられていく以外ないというのです。もちろんそう考えるのは自由なのですが、彼らが根拠にしているのがビッグブックに載っているドクター・ボブの体験談の<ある部分>だというのです。しかし、その根拠というのが誤解に基づいているものなので、どこかでその誤解を解くための文章を書いて置いた方が良い、と思っていました。この文章はそのためのものです。

飲んだくれの外科医ドクター・ボブは、ニューヨークから来た株式ブローカーであるビル・Wと会って話を聞き、彼と同じやり方をすることで酒をやめました。これがAAの始まりでした。

酒をやめるように他の人からもさんざん説得されても酒をやめなかったドクター・ボブが、なぜビルと会って酒をやめられたのか? その疑問に対して、ドクター・ボブはこう書いています。

読者の脳裏に自然と浮かぶ疑問は、「その彼は他の人と何か違ったことをしたのか、あるいは言ったのか」ということだろう。(p.252)

彼はアルコホリズムの情報を私にくれ、それが役立ったのは疑うべくもない。何より大切なのは、彼は自分自身の体験からアルコホリズムなるものが何なのかを身をもって知っていた、私が話した初めての人間だったことだ。言い換えれば、彼は私の考えを話した。彼はすべての答えを知っていたが、それは本から得た知識ではなかったのだ。(p.253)

ドクター・ボブは医者であり、それまでもアルコホリズム(依存症)に関する本をたくさん読んでいたと書いています。にもかかわらず酒がやめられたのは、本ではなく同じアルコホーリクであるビルと出会ったからである、というのです。

そのことには疑いがありません。しかし、これをもってして「ステップはスポンサーから渡してもらう他はなく、本から得た知識で行うのは無理である」と結論づけるのは早計であり、誤解を招くだけです。

ドクター・ボブは、ビルと出会う前に、「このビール実験のころ、私は、見るからに落ち着いて、健康で、幸せそうに見える人たちのところに顔を出すことになり、大いに興味を持った」と書いています。この見るからに幸せそうな人たちとは、AAの回復の原理の基礎となったオックスフォード・グループの人たちです。

ドクター・ボブはオックスフォード・グループのメンバーでした。またビルの物語に出てくるビルのスポンサー(ビルの友人エビー・T)も、オックスフォード・グループのメンバーでした。もちろんビル・Wも含め、ビッグブックを書いた40人のAAメンバーは全員がこのグループのメンバーでした。AAがオックスフォード・グループから独立するのはその後のことです。

12ステップの中で、ステップ3以降のすべてのステップは、オックスフォード・グループから受け継いだものです。

そしてドクター・ボブはその原理について「手当たり次第に、ありとあらゆるものを読み、それについて知っていると思われるあらゆる人々と話をした」(p.250)とあります。つまり、ドクター・ボブは回復をもたらす霊的原理についてはとても詳しかったわけです。また、彼はオックスフォード・グループのメンバーから、酒の問題を解決するには霊的手段しかないことも提案されていました(つまりステップ2です)。

にもかかわらず、ドクター・ボブは「毎晩酔っぱらっていた」とあります。彼の得た霊的原理には何かが不足していたのです。

欠けていたものとは何か? それはシルクワース博士が発見したアルコホリズム(依存症)の情報、アル中は酒に対してなぜ無力なのかという病気の知識です。つまりステップ1です。彼は医者であるにもかかわらず、自分の病気のことは知識がありませんでした。そして、その知識を得たとき、回復に必要なすべてのピースが揃い、彼は酒をやめることができ、AAが始まったのです。

つまり、ビル・Wがドクター・ボブに運んでいったものは、ステップ1だったのです。2以降のステップに関してはドクター・ボブはすでに知っていたのです。

ということからすると、ドクター・ボブの文章を根拠として言えることは、本からではなく同じアルコホーリクからしか受け取れないのは、12ステップ全体ではなく、ステップ1のみである、ということが正しい。p.253の文章を根拠として、本からステップを受け取った人のステップを本物でないと主張するのは、単なる勉強不足、経験不足の露呈です。

では、本当にステップ1だけは本から受け取ることは無理で、同じアルコホーリクから受け取るしかないのでしょうか。

僕の経験でもステップ1にはAAミーティングで話を聞く経験がとても必要でした。同じ依存症の人から経験を聞き、自分も同じだと思うことが必要だったのです。そういう意味では同じアルコホーリクの経験に触れることはどうしても必要だったと言えます。

しかし、これについてもビル・Wや初期のAAメンバーたちは解答を用意しています。僕の使っているビッグブックは文庫版で、巻末にはドクター・ボブの物語しか載っていません。しかし、分厚いハードカバー版には、同じアルコホーリクの経験談がたくさん載っています。もちろんその経験談は、読んだ人がAAミーティングに参加したのと同じ効果を得るのを狙って収録されているわけです(表紙カバーのビルの文章を参照)。

そして、その狙いはあたりました。そうでなかったら、AAは今のように全世界に広がってはいなかったのですから。ドクター・ボブがビルからステップ1を受け取る必要があったのは、その当時はビッグブックがまだ書かれていなかったからです。

12個のすべてのステップは、ビッグブックという本から受け取ることが可能です。スポンサーではなく、本から受け取ったステップを「本物ではない」と非難されたとしても、その非難は相手の誤解が原因として片づけておけばいいでしょう。

もちろんステップをやったスポンサーが近くにいるのなら、その人に「ステップを渡してくれ」と頼むのが一番楽です。なにもわざわざ苦難の道を選ぶことはありません。しかし、手近に適任者がいないのなら、ビッグブックを読んでそのとおりに実践すれば大丈夫です。その時にあなたに必要なのは、「意欲と、正直さと、開かれた心」(p.268)です。

もし、あなたがビッグブックだけで回復できなかったとするなら、それは意欲が足りなかったか、正直でなかったか、心が偏見に満ちていたかのいずれかです。その場合にはスポンサーに手伝ってもらうしかありません。


2010年11月24日(水) 現世利益

「AAにいる私たちは霊的原理に従っている。最初はやむを得ず、そして最終的にはそれに従うことによってもたらされる生きかたが好きだから従っている」(12&12 p.237)

12ステップは酒をやめるためにやるものです。しかしそれだけでなく、副次的にいろいろな効果をもたらします。ある人は、ステップをやった結果、奥さんとのセックスレスが解消したとうれしげに報告してくれました。また別の人は家族と別居状態だったのですが、戻ってきてくれと奥さんに頼まれたそうです。どちらも自己評価は上がりまくりで、「ステップやって良かった」という感想になるのもうなづけます。仕事でプラスに評価されるようになったとか、就職できたという話はいくらでも聞きます。

そうした即物的な報酬をあてにしてステップをやるのは間違っている、という意見もあるでしょう。確かにそのとおり。もしこの人たちがセックスレスの解消や、家族との同居を目指してステップをやったとしたら、このような結果に結びついたかどうかは疑問です。あくまで回復という本来の目的のためにステップをやった結果でしょう。

けれどステップをやっていると、しばしば現実的な成果を手にします。つまり、僕らの抱える「性格的欠点」というやつは、それほどまでに僕らが成果を手にするのを邪魔していたというわけです。だからそれが少しでも取り除かれたときに、僕らは成果を手に入れられるようになってきます。

努力に対して報酬が与えられると、人は努力を続ける動機(やる気)を得ます。そうしたフロー効果が起きているときは、ステップに対する理解やハイヤーパワーへの信頼は急速に深まっていくようです。

もちろん、成果を与えるかどうかは神さまが決めることですから、結果が出なくても自分の努力不足だと嘆く必要はないのでしょう。けれど、一生懸命やっているのに成果に乏しいときは、自分の方向性を見直してみたほうがいいかもしれません。

もちろんビッグブックには、ステップをやれば金持ちになれるとか、素晴らしい伴侶を手にできるとか、良い仕事に就けるとは書いてありません。酒がやめられると書いてあるだけです。けれど、その他にあんな良いことや、こんな良いこともあったという記述が、ビッグブック全体に散りばめられています。そこをあえて読み飛ばす必要はありません。

何の報酬も得られないのに努力を続けられる人はいません。「見返りを求めずに奉仕」と言ったって、それ以上のものが与えられるからこそ、即物的な見返りを期待しないだけの話です。

僕らは生活に便利な家電製品を手に入れると、「これは役に立つから気に入った」と思い、それが生活に必要なものだと思います。ステップも同じことです。ビル・Wは霊的であるということは、現実的であることだと言っています。

ステップによって僕らは利益を得ます。それは来世の利益ではなく、今この人生にもたらされる現世利益です。何よりも酒がとまるのです。アル中にとってこれ以上の現世利益があるでしょうか?


2010年11月23日(火) あいさつ

あるスポンシー君がカウンセラーの先生から「挨拶をきちんとするように」という指示をもらってきました。おお、先生ナイス! なんて今の彼にフィットしたアドバイスでしょうか。

職場にでたら「おはようございます」、先に帰るときは「お先に失礼します」と大きな声で言う。こんなシンプルなことがなかなか徹底できていないのです。(ちなみに自分が先に帰るときに「お疲れ様でした」と言うのは不適切)。

ミーティング場を維持しているのにメンバーが増えない、せっかく来た仲間が繋がらずにどんどん消えていってしまう、という悩みを持つ人がいます。AAは宣伝を使わず「ひきつける魅力(attraction)」を使うとありますから、回復した人が魅力を発散していればいいのでしょう。

ではその「魅力」とは何か? それは目に見えないオーラのような、体のどこからどうやって出したらいいか分からないものではなく、もっと具体的な行動であると僕は思います。その一例が挨拶です。

もしあなたがミーティング会場のドアを開けて入っていったとき、先に椅子に座っているメンバーたちが誰もあなたを振り向かず、声もかけず、下を向いて暗い顔をしていたとしたら、あなたはその人たちに回復の魅力を感じるでしょうか? 「こんばんは」とか「よくきたね」とか「最近寒くなったね」と声をかけてくれる人の方に好感を持てるのじゃありませんか?

ちやほやしろと言っているのではありません。ごく普通のあいさつでかまわないのです。帰るときには「おやすみなさい」とか「お疲れ様」とか「気をつけてね」と言えばよいだけです。忙しければ、視線を合わせて会釈するだけでもいいし。

それが他者に対する思いやり(AA用語で言えば配慮とか関心)が行動となって現れたものであったときに、(つまり形だけ真似たものでなかったときに)人はそれを「魅力」として受け取ってくれるのでしょう。

だからグループに魅力があるかどうかは、ドアを開けて入った瞬間に分かります。(それ以前に入り口付近の灰皿の人だかりを通り過ぎたときにわかることもある)。

ステップをやって回復したつもりなのに、誰も自分にスポンサーを頼みに来ない、という悩みを持つ人もいます。その人の内面に変化があったとしても、それが行動の変化となって外に出てこなければ人にはわかりません。(てゆーか、行動の変容を伴わない回復って回復と言えるのか?)

「私たちの場合ほとんどの人が、限られた人しか愛せなかった。迷惑をかけられない限り他人には無関心だった。そしてそれ以外の人たちのことは、まさに嫌っていたし、憎んでいたことを認めないわけにはいかない」(12&12, p.121)

自分のことを「挨拶ができる人間」だと思っていても、実はお気に入りの人だけ相手にし、他の人には礼節を欠いている姿を見られているのかもしれません。

12ステップを小学校で教えてくれればいいのに、と言った人がいましたが、「人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ」という本があるとおりに、単に僕らが子供の頃にそれを受け取り損ねただけの話なのです。


2010年11月18日(木) 特別なニーズのために

ビッグブックを使ったステップのやり方に出会うまで、僕にとって依存症は「難病」でした。断酒は可能であっても、またいつ飲んでしまうかも分からないリスクが大きい病気だと捉えていました。また、AAでは後から来た仲間を手助けしろと言われるのですが、どうやって手助けして良いか確実な方法を知りませんでした。とりわけ最初のスポンシーでの手痛い失敗以来、僕はスポンサーになることに臆病になっていました。

ところが何の運命のいたずらか、2003年に始まった「(関東)ビッグブックの集い」という集まりに巻き込まれていくことになります。これが僕とビッグブックのやり方との接点でした。2004年には表形式での棚卸しを2回人に聞いてもらっています。2005年にはスポンシーと一緒にビッグブックを読み合わせての分かち合いを試みたのですが、この時は彼を回復に導けず、後にスポンサーシップを解消しています。JoeMのやり方を学んだ僕は、2年後に同じ人にこのやり方を試し、これがうまくいったのです。

それから3年、数人にこのプログラムを手渡すことができました(中にはまだ途上の人もいます)。限りある時間の中で自慢できるような実績ではありませんが、僕は手応えを感じています。自分はこのやり方を深めていけばアルコールに対して安全だし、問題を解決した人たちの共同体も成長していくでしょう。ビッグブックの集いは2008年に活動を終えてしまいましたが、それ以外のいろんな流派?の人も含めて、いまやたくさんの人たちがビッグブックのやり方でステップをやり、それを伝え、実績を積み上げています。

12ステップにはアルコール依存の問題を(他の依存の問題も)解決する力があると確信するようになりました。僕は7年前、8年前とは違った気持ちでAAをやっています。

そのように気持ちが変化すると同時に、スポンサーとしてステップを伝える以外の能力も必要であることに気がついてきました。例えばステップが途中で止まってしまう人がいます。その原因を「やる気の不足」で片づけてしまっていいのでしょうか。特別なニーズを抱えている人がいるのではないでしょうか。

僕としては(依存症の問題を抱えていたとしても)なるべく普通の生活をしたいと思っています。同様に他の人たち(スポンシーとか)にも、なるべく普通の生活ができるようになって欲しいと思っています。働いて、家族と一緒に暮らし、社会の中で責任を果たしていって欲しいのです。もちろん、現実には制約があるし、最初はミーティングだステップだと、普通とは違った生活かも知れません。とりわけ1年目には集中的にミーティングに通って欲しいと思います。すべてが人並みになるわけではありません。

ステップを使って回復したとしても働くことが難しい人がいます。それはステップでは解決できない特別なニーズをその人が抱えているということです。それはメンタルな健康問題かも知れません。発達障害だとか、ひきこもり、トラウマかもしれません。もちろん、その専門家になる必要はありません。いろんな問題についてよく理解し、スポンシーがその問題を抱えていたらアドバイスをし、その分野の専門家にうまくつなげてあげられることが必要なのです。

「スポンサーの役目はステップを伝えることだけだ」と言う人もいます。それでもいいのかもしれません。依存症以外に問題を抱えていない「純粋なアルコホーリク」ならば、ステップを受け取るだけでいいのでしょう。それがボリュームゾーンにちがいありません。

しかし、AAには依存症以外の問題を抱えた人(double disorder=DD、重複障害)も結構たくさんいます。専門家のケアを受けている人も少なくありません。僕が最近発達障害に注目しているのも、それがいままで見過ごされてきたのではないかと考えているからです。大人の発達障害を診断できる精神科医は日本にはまだ少ししかいません。だから非定型うつ病、躁うつ病、人格障害などと誤診を受けてきた可能性があります。あるいは病名もつけられず、単に回復しない(するつもりのない)依存症者としてきたり、ステップをやってもその効果が現れない・現れにくい人として扱われてきたということも考えられます。

ビッグブックのステップが始まる前にもAAは存在し、そこでそれなりに多くの人たちが回復してきました。そこで回復できなかった人には「やる気がないから」というレッテルが貼られてきました。そういう不適切なレッテルを貼った人たちには、自分たちのやり方が万能であるという価値観を心のどこかに持っていたに違いありません。

ビッグブックのやり方が広がって、より多くの人が回復できるようになりました。しかしそれですべてがカバーできたとは思えません。こんどはビッグブックのやり方をしている人たちの中に、「自分たちのやり方が万能である」という価値観が忍び込みつつあるようです。こっちはこっちで、回復できなければ受け取る側に問題があるかのように捉えられてしまうことがあります。(そういったケースのフォローアップを2件やった)。

歴史は繰り返す、ということでありましょうか。

僕もこの3年間の間に1件明確な失敗をやらかしています。それをスポンシーの資質の問題として片づけては、僕は進歩できないと思います。それともう一つ、発達障害については、僕はニッチな分野を相手にしているのだと思っていました。しかしこれは意外なボリュームゾーンかもしれないと考えを改めているところです。

自分のスタンスはどうあるべきかを考えながら書いたので、いつもより長い時間がかかりました。


2010年11月17日(水) ミーティングのテーマ

僕のホームグループ(AAで所属するグループ)では、毎回ビッグブックを読んで分かち合いをしています。ミーティング・ハンドブックという小冊子は使っていません。クローズド・ミーティングでは12ステップに関する部分を読み、オープン・ミーティングではステップ1と2に関係する部分とドクター・ボブの物語を読んでいます。つまり話はアルコールのことか12ステップのことです。

日本のAAミーティングでは、分かち合う話題として毎回違った「テーマ」(つまり今日のお題)を決めているところが大多数でしょう。僕らのグループではそういったテーマは決めず、「お話しは今日読んだところに沿った内容でお願いします」と言っているだけです。

これはどういうことかというと、

「文章を読んでその内容を理解し、内容に沿った自分の体験と考えを数分で話せ」

ということです。やってみると結構難しく、最初に話をする司会者からしてすでに逸脱することもしばしば、というのはご愛敬です。無理して本に話をあわせることをせず、今の自分に必要な話をする人もいます。ともあれ「ビッグブックに沿ってアルコールかステップの話に集中しよう」という理想だけは高く掲げています。(そうすれば同調圧力も働くしね)。

たまに隣のグループにお邪魔するのですが、そこでは12&12かビッグブックを読んでミーティングをしています。司会する人によってはテーマを決めることもありますが、本を読むのであればいつものホームグループと同じスタンスで話をすればいいので気楽です。

実は昨夜、仲間のバースディミーティングで普段行かない会場を訪れました。そこではハンドブックの3章を読んだ後、テーマが出され、すぐに分かち合いに入りました。僕がAAにつながった頃は、こういうスタイルのミーティングばかりでした。今でもたまにこういう「テーマミーティング」に出ることもあります。だから、慣れているはずでした。

ところが、出されたテーマを聞き、これはどのステップの話だろうと考え出したら、頭が真っ白になってしまいました。悪いことに司会者とバースディの人の次に順番が回ってきてしまい、何を話したらいいか頭の中で考えるヒマもありませんでした。よっぽど話をパスしようと思ったのですが、せっかく来たのだから「バースディおめでとう」ぐらいは言いたいこともあって、その後しどろもどろな話をしてしまいました。とほほ。

これは、何が良いとか悪いという話ではなく、自分の普段のスタイルと違う慣れないことをするのは戸惑いの元だという話です。逆に普段テーマミーティングにばかり出ている人が、僕らのミーティングに来たら「なんだこれ?」と思うかも知れません。

「アメリカには日本のようなテーマミーティングはない」と断言する人もいますが、実際にアメリカに行った人によれば必ずしもそうではないようです(似たようなものはある)。topic を決めて分かち合うのは discussion meeting というのだそうです。ただ、そのトピック(=テーマ)は「何でもあり」ではなく、回復の役に立つAAのプログラムに沿ったものが意識的に選ばれるそうです。

NYのGSOのサイトに「ミーティングお勧めテーマ」が掲げられています。

SUGGESTED TOPICS FOR DISCUSSION MEETINGS
http://www.aa.org/subpage.cfm?page=120

一般的なトピック

・12のステップ
・12の伝統
・「ビッグブック」の各章
・「ビルはこう思う」を読んで
・「どうやって飲まないでいるか」を読んで
・AAのスローガン(おのれはおのれ人は人、気楽にやろう、第一のことは第一に、HALTなど)

特定のトピック

・受け入れること
・感謝の気持ち
・ハイヤーパワーへの信仰
・自己満足(ひとりよがり)
・調べもしないで頭から軽蔑すること
・依存
・恐れ
・許し
・ソブラエティで得た自由
・グループの棚卸し
・希望
・謙虚
・アイデンティフケーション(=自分をアルコホーリクだと認めること。話の始めにアルコホーリクの××ですと名乗ることも含む)
・不全感
・棚卸し
・怒りを手離す
・友人とは友好的に(=専門家援助職との協力)
・今日一日を生きる
・埋め合わせをする
・黙想
・開かれた心
・参加して活動する(=AAに)
・忍耐と寛容
・個人的な霊的体験と霊的目覚め
・やることの計画を立てる――結果(の計画)ではなく
・私たちのすべてのことにこの原理を実行する
・個人ではなく原理(に信頼を置く)
・幻影――未来の残骸の中で生きる
・恨み
・私たちの責任
・徹底した正直さ
・(心の)平安
・サービス
・スポンサーシップ
・最初の一杯を遠ざける
・全面降伏
・三つのレガシー、回復、一体性、サービス
・12番目のステップを行う
・12の概念
・アノニミティを理解する
・AAのメッセージを運ぶ方法
・ソブラエティとは何か
・意欲
・仲間と共に

・・・ちょっとハードルの高いトピックかもしれませんが、こういうテーマでミーティングをすればグループもメンバーも成長できるように思います。


2010年11月15日(月) 回復研フォローアップ

先週末の回復研の集会で質疑応答のコーナーがあり、そのなかでACの方から、

「ステップ4で過去のことを棚卸し表に書こうとすると、フラッシュバックが起きて具合が悪くなってしまう」

という質問がありました(言葉は正確ではないけれど、だいたいこういう意味だったと思う)。司会者が僕に振ったので、僕が答えたのですが、限られた時間の中で説明できなかったこともあるので、ここに少し書いておこうと思います。

僕は棚卸しでフラッシュバックが起こる人をスポンシーに持ったことはないので、経験からどうしたらいいかという話はできません。だから、他の人が分かち合ってくれた経験を伝えることにします。回復研というのは、ジョー・マキューという人が確立したステップのやり方を紹介していくのが目的です。AAやNAのメンバーがこのやり方でステップをやれば、それは「ジョーのステップのやり方」でやったということになります。これを回復施設のプログラムとして仕立て直したのが「リカバリー・ダイナミクス(RD)」です。

この「ジョーのステップ」とRDを日本に紹介したのがIさんです。ジョーのやっている施設に一ヶ月滞在して日本に戻ったIさんは、さっそくこのやり方を何人かに試してみました。この時期たまたまIさんの周りにはACの色彩が濃い人たちが集まっていたようです。ところが、その人たちがステップの途中で具合が悪くなってしまいました。そこで、まだ存命中だったジョーに相談したところ、強いトラウマは12ステップではなく、専門家の手によって解決すべきだというアドバイスをもらったそうです。(しつこく何人も試さず最初の一人か二人で気づけよってツッコミはともかく)。

また(僕は記述箇所をみつけていないのですが)、ジョー&チャーリーの本にも強度のトラウマは棚卸しではなく専門家の手によって解決すべきだとあるそうです。

もちろんステップによってトラウマの問題を乗り越えた経験を話している人もいますし、ビッグ・レッド・ブック(BRB)のステップでは被虐待の問題を取り扱っており、ステップがトラウマの解決に役に立たないわけではないでしょうが、強度のトラウマには専門家による解決をお勧めすることにしています。

つい何ヶ月か前、西澤哲先生の一般向け講演を聞く機会に恵まれました。この先生は被虐待やトラウマの専門家で、プレイ・セラピーという手法を使われています。その技法はステップとは異なるものです(何らかのバリエーションではないという意味)。話を聞いた印象では、トラウマを乗り越えて得た自己像と、12ステップによって回復した人たちの自己像は、共通するところがたくさんあるように思いました。おそらく精神の健康という点では共通しているからでしょう。また、最近日本に紹介されているEMDRもステップとは異なる手法です。

とすれば、「ステップがトラウマに歯が立たないとは言えない」ものの、強いトラウマを抱えた人がステップにこだわるのはリスクが大きく、専門家の手にゆだねた方がよいと言えます。トラウマを乗り越えてからなおステップをやりたければ、その時にやればいいと思います。

それとは別に発達障害のことを書いておきます。発達障害を抱えた人にRDが効果があるかどうか、というのは大事な話です。

今年の2月にダルクの招きで、ジョーの後継者であるラリー・Gが奈良でRDのワークショップを行い、僕も参加させてもらいました。発達障害のことを尋ねてみたかったのですが、皆に関係のある話でもないので質疑応答の時間は使わず、昼食を済ませたあとのラリーをつかまえて質問してみました。

「セレニティー・パーク(RDの本拠的施設)では発達障害の問題に対して何かケアをしているのか。また、アメリカでの依存症と発達障害の重複障害の現状を教えて欲しい」

という僕の尋ねに対し、セレニティー・パークでは発達障害を抱えた人は扱っておらず、他の施設へ紹介している。アメリカでは発達障害を抱えた依存症者は、その人たち専門のグループに通い、専門的なケアのできる施設に通っている、という答えでした。

ジョー&チャーリーにせよ、RDにせよ、すでに30年以上の経験が積み重ねられています。その中で強度のトラウマや発達障害に対する適用には慎重な姿勢が作られてきました。僕はそうした実体験はありませんが、先達の経験は尊重するべきです。ジョー、チャーリー、ラリーの経験に対して異を唱えて無謀をする必要はありません。彼らの自らの限界を知る姿勢は好感を呼びます。

何でもステップで解決できるわけではなく(当たり前の話)、個別の問題には個別の対応が必要です。自助グループでスポンサーをやっている人が、そうした専門的な技量を持つ必要はないし、それを求められてもいません。ただ、自分の限界をよくわきまえておき、必要に応じて専門家につなげることが求められているわけです。


2010年11月10日(水) 帰結主義?

MATRIXについての話を聞いているとき、考えたことです。
MATRIXというのは依存症の新しい治療枠組みで、MI(動機付け面接)とCBT(認知行動療法)を組み合わせたものです。そのなかで、家族の対応についての話でした。

飲んでいるアル中は孤独で淋しいものです。そこで本人がトラブルを起こしたとします。たとえば家の中で酔って暴れるとか、外で酒を万引きしてくるとか。すると家族は本人に関わらざるを得ません。片づけしたり、説教したり、怪我の手当てをしたり・・・。家族は本当だったら自分たちの生活、自分たちのやりたいことがあるのですが、それを一時中断して本人に関わらざるを得ません。ここで本人は、飲んでトラブルを起こせば家族にかまってもらえて淋しくない、ということを学習してしまいます。

そこで何らかの介入があって、本人が酒をやめたとします。すると家族は「やれやれ」という感じで、それぞれの生活に戻っていきます。飲まなくなった本人は、ぽつんと一人取り残されて、淋しくなってしまいます。再飲酒してトラブルを起こせば、また関わってもらえる・・・。

こんなふうに、家族の対応の仕方が、本人に再飲酒のメリットを与えてしまうのであれば、この構図を逆転させなければなりません。飲んでない時にはごほうびをあげ、やさしくしてあげます。飲んでいるときには冷たくします。ごほうびといっても、酒をやめるたびにディズニーランドのホテルに泊まっていたのでは金がいくらあっても足りません。簡単で反復できるレベル、せいぜい「一緒にテレビを見てあげる」とか「好きな料理を作ってあげる」程度のことです。冷たくするとしても、露骨な罰ではなく、例えば「駅まで車で送ってあげない」程度のこと。

その話を聞いてふと思ったのは、これって「なんとか本人に酒を飲ませないように、家族が努力する」という構図とどう違うのか、ということです。これを実行して、その結果に家族が一喜一憂するのなら、それは共依存として今まで否定されてきたことではなかったのか・・・。

この疑問に対する回答は「それは結果による」のだそうで、飲酒問題の解決の役に立つのならそれで良いとするわけです。(共依存は飲酒問題の解決の役に立たないことを示す)。

そうか、なるほど帰結主義か。
(最近サンデル教授のファンになっているのでそんな言葉を使っちゃいます)

例えば、子供も大人と同じ人権があって、平等に扱わなければならないわけですが、かといって子供の意見を尊重して好きに行動させるわけにはいきません。

虐待とは何かを考えてみます。例えば教育は、子供を一日部屋に閉じ込めて、やりたくもない勉強を無理やりさせるわけです。これは虐待ではないのか。しつけはどうなのか。しかし帰結主義的に考えれば、教育はその後のその子の人生の役に立ちます。身辺自立といって、身の回りのことが自分でできるようになること。また最低限の礼儀をわきまえることなど。しつけによって身に着けるしかありません。

子供の自由を奪い、やりたくないことを無理にさせたとしても、その教育やしつけによってその後の人生をつつがなく生きていけるのであれば、それは子が幸福に生きる権利を尊重したことになるわけです。

つまり権利の尊重、相手への思いやりとは、相手の当座の欲求を満たしてあげることではなく、長い目で見たとき相手に役に立つことが必要です。

さて、メンタルなことに話を戻しましょう。

心のトラブルを抱えた人には、優しく受容的に接することが必要なのでしょう。けれど、「癒し」とやらを重視するのも考えものです。居心地のよさを提供されると、その人はその調子の悪い状態にとどまろうとします(ある種の疾病利得)。具合の悪さを維持するような接し方は、手助けとかサポートとは違うものです。癒しが人殺しの論理になってしまいます。

その人に変化を促す手助けは、冷たい態度に感じられることが多いはずです。しかし、冷たいと言われようが、上から目線と言われようが、それは仕方ないことです。


2010年11月09日(火) 発達障害と12ステップ

掲示板でのやりとりをご覧になれば、12ステップがある種の問題には効果を示さない(示しにくい)ことが見て取れると思います。

12ステップはconfrontation(直面化)が基盤です。自分がアルコールへのコントロールを失っているという事実に直面することが大事です。直面するからこそ、「アルコールに対して無力である」と認められるわけです。しかし依存症は否認の病気であると言われるように、「不都合な真実」に直面するの避けようとする心理が働きます。たとえば、飲んでいた頃は酷いこともしたが、それは酒に酔ったせいであって、しらふの今は正気である・・という言い訳のように。

さらに先のステップに進むと、自分の中にある恨み(怒り)、恐れ、人に与えた傷に直面していきます。その自省によって自分への洞察が生まれます。さらに先のステップでは人に与えた傷について謝罪や補償する行為を通じて、自分の心の中の汚れをぬぐい去っていきます。内面の変化が行動の変容をもたらします。

しかし、自分が人に与えた傷に対して直面できない人たちがいることに気づかされます。「人を傷つける」というとたいそうな言葉ですから、迷惑をかけるとか、非礼をするという言葉で置き換えても良いでしょう。それは、人を傷つけて平気でいる(罪悪感を持たない)かのように見えるわけです。

ある種の人たちは、自分の言動が非礼であることに気がつけません。そして相手がいきなり怒り出して当惑します。そうした相手を責めるか、自分の何が悪かったのか分からず悩みます。あるいは、相手のちょっとしたひと言やしぐさに囚われ、相手が自分を嫌っているのではと勘違いして、疎外感や孤独感を感じます。(逆に愛していると勘違いするときもある)。言葉の行間や、婉曲表現、場の雰囲気を理解できません。あいまいな概念を把握できず、字句をその字面通りに解釈します。

これは広汎性発達障害の特徴です。このジャンルには、アスペルガー症候群、自閉症(カナー型)、高機能広汎性発達障害、PDDNOSが含まれます。共通するのは想像力と言語の障害です。人の気持ちを理解することが難しく、結果として人を傷つけたことが理解できません。

人を傷つけたことが自覚できない。あるいは、人が別に傷つけてこないのに、恐れを感じ、相手に恨みを持つ。こうした人の行うステップ4・5(棚卸し)の自己洞察は、常人の理解を超えた世界になりがちです。というのも、棚卸しというのはその言葉通りに(商売の棚卸しでも、自分の棚卸しでも)「事実に基づいて行う」必要があるのですが、広汎性の認知の特性によって表に書かれたことと、事実の間に乖離が生じてしまい、望ましい自省に結びつかないのです。

それでもその人なりの掃除が行われれば、心の風通しが良くなって目覚めも経験するようです。だが、その回復の姿は「ひとりよがりの回復」という印象を与えるものになります。

またこれとは別に、認知は正しいのに自己洞察がうまくいかない人たちがいます。
残念ながら、そういうタイプの人たちと深く長くつきあった経験がなく、棚卸し表も拝見したことがないのですが、おそらくは表の中身は事実と大きく乖離してはいないでしょう。ところがそれによって得た自己洞察を長く保持することができないのです。興味関心の対象が移ろいやすく、自己洞察ですらすぐに消えていってしまうのです。

これはADHD(注意欠陥・多動性障害)の特徴です。このタイプの人たちは、同じことで悩み続けることができません。しかししばらくすると同じトラブルを起こして、また同じことで悩んでいます。結果としてこういう人の回復したという主張も「ひとりよがり感」を与えることになります。

どちらのタイプでも、障害がそれほど重くなければ、ステップは「その人の内面には」効果を示す可能性は十分にあると思われます。実際明らかにそう言うタイプの人でも自分が変化したと言う人がいます。しかし内面の変化が、行動の変容へと結びつくとは限りません。なぜなら、障害は残ったままで解消したわけではなく、その障害にステップは効かないからです。また、障害が重ければ、ステップを進めることができなくなる場合もあります。

ついでに書いておくと、広汎性(PDD)とADHDはふたつに明確に分けられるものではなく、中間タイプや重複した人もいます。

困ったことにこの種の障害を抱えた人に限って、「ステップは万能である」という意識にとりつかれます。彼らは12ステップが人生の困難のすべてを解決してくれると信じてしまいます。もちろんそうではありません。12ステップで糖尿病は治らないし、なくした足が生えてくることもありません。糖尿病には糖尿病の治療が、足が悪い人には松葉杖や車いすが、目が悪い人にはメガネが必要です。ステップ万能論の危険は、目が悪い人からメガネを取り上げることにつながることです。

では発達障害にとって、メガネや車いすに相当するものはあるのか。残念ながら大人の発達障害に対する対策は近年始まったばかりで、本当になにもなく、すべてはこれから、と言っていいぐらいです。しかし、子供の発達障害については、すでに10年、20年経験が積み重ねされており、各地に専門家がいます。子供の発達障害も、大人の発達障害も、その対応には大した違いはありません。すでに得られた経験を、大人に適用していくことは有効です。

実はスポンシーの一人がこのタイプのトラブルを抱えていて、彼との毎日のやりとりをこの雑記に書けたら関心のある人にとってはとても興味深いと思われます。もちろん、プライバシーや守秘のことがあるので、書くわけにはいきません。いつかたくさん経験を積めたら、総合的な話をここで書くことができるかもしれませんが。

残念ながら12ステップではすべての問題は解決できません。足の悪いのや目が見えない障害だったら周りの人にも分かりやすく、それが障害だと理解してもらいやすいのですが、ADHDやPDDは障害だと認知しづらく、本人にとっても周囲にとっても誤解の元です。

PDDやAHDHは心の問題だと勘違いされやすいゆえに、12ステップで解決できる(解決した)ような話になってしまいがちです。けれど、ステップでそれを解決しろと言うのは、足の悪い人から車いすを取り上げ、目が悪い人からメガネを取り上げるのと同じ行為で、実に困ったものなのです。また、本人の側もやっぱり否認が強いわけであります。


2010年11月06日(土) アルコールが最も危険な薬物

イギリスでは違法薬物をその危険性に応じて三段階に分類している(クラスAが最も危険)のですが、David Nutt教授の属していたACMDというのは、科学的根拠に基づいてそのクラス分けを内務大臣に勧告する役割を負っていました。

ところがこのNutt先生「薬物の危険性は過大評価されている」という論文を発表してしまったのです。その論文によれば、違法薬物による害は人生の他の活動(例えば乗馬)による危険と大差はないというのです。例えば乗馬のせいで毎年10人が亡くなり、100件の交通事故が起きているが、それが乗馬依存症候群と呼ばれて禁止されたりしない。しかしこれはエクスタシー(MDMA)による害と「大差ない」し、乗馬を禁止すればこれらの被害は社会から取り除くことができる、と。

この論文は違法薬物撲滅運動をやっている人たちの怒りに火を付け、Nutt教授はクラスA薬物である大麻をクラスBに格下げしようとしている危険人物という烙印を押されてしまいました。大臣はNutt教授に対して「薬物の危険を軽視した」ことで謝罪するように要求しましたが、教授はこれを拒否。さらにACMDは格下げを勧告したものの、大臣はハッキリとこれを拒絶。これを教授は「科学的根拠を無視した政策決定」と非難し、大臣からクビを言い渡されてしまいました。

しかしNutt教授はこれで引き下がる人ではなかったようで、政策の影響を受けない独立した薬物研究機関を設立。他のメンバーと一緒に新しい論文をLancetに発表しました。これが昨今ニュースで流れていた「アルコールが最も危険な薬物」という話です。

こちらの新しい論文では、薬物による精神的、肉体的ダメージ、犯罪が社会に与える害、家族の苦境、環境や経済的ロスなどを総合し、使った本人が被る個人への害と、社会が被る害の二つに分けて評価してあります。

結果、個人が被る害が大きいのは、ヘロイン(34)、コカイン(37)、覚醒剤(32)。社会が被る害が大きいのは、アルコール(46)、ヘロイン(21)、コカイン(17)の順。かっこ内は点数です。両者を足した総合点では、アルコールが72点で第1位、ついでヘロイン55点、コカイン54点となっています。

これによれば、アルコールの害はタバコやコカインより3倍も多く、MDMAの危険性はアルコールの8分の1。新たにクラスBにランクされたメフェドロンよりもアルコールは5倍も有害なのだということになります。

アルコールの害が大きくなるのは、一人ひとりに与える害は小さくとも、社会で大量に消費されているがために、社会全体からすれば大きな被害を被っているというわけです。

BBCの記事では、この論文に対する酒業界の反応も載っています。酒を乱用するのは全体から見れば少数派で、残りの多くは社会的な飲酒を楽しんでいる、としているものの、アルコールの乱用は社会の重大なリスクであり、それを恐れているともあります。社会に対するアルコールの害が深刻化すれば、20世紀初頭のアメリカの禁酒法のような極端な施策も行われかねません。そうなってしまったら、酒を造り売る業界はほぼ根絶やしになってしまうのですから。

醸界ニュースという酒造・酒販業界のニュースメディアに、酒の安売りによって酒販業者の生活が脅かされており、政府が酒類の販売制限を行うように政治的なアピールを行っている、というニュースが流れていました。酒というのは半額にしたからといって倍売れる商品ではありませんから、酒の価格が下がることは販売業者によって死活問題なのでしょう。

酒造・酒販業界もWHOのアルコール制限政策を歓迎しているという話なのです。

Alcohol 'more harmful than heroin' says Prof David Nutt
http://www.bbc.co.uk/news/uk-11660210
Drug harms in the UK: a multicriteria decision analysis
http://www.thelancet.com/journals/lancet/article/PIIS0140-6736(10)61462-6/fulltext
飲酒はヘロインやコカインよりも有害であることを示す薬物別有害度グラフ
http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20101101_alcohol_more_harmful/


2010年11月04日(木) 魂の避難所

何か一つのことが絶対的に大事であったら、どんなにか楽であろうかと思います。
たとえば、何か一つのことだけをやり遂げれば、酒が止まって幸せになれる・・とかだったら。
しかし現実はそうはいきません。

例えば僕はスポンシーにはAAミーティングに行くように要求します。相手の状況にもよりますが、ソーバー1年目だったら毎日行くぐらい当然だと思っています。仲間とのふれあいは断酒を続けさせる「支え」をもたらします。だから、この曜日はAAのミーティングが近くにありません、というのなら断酒会にお願いして行ってもらっています。

ではミーティングが絶対で、ミーティングに通えばそれでオッケーなのか、といえばそうではありません。「支え」を得て飲まない生活を続けてくれるのは大変結構なのですが、支えから離れたとたんに飲んでしまうのでは困ります。3年間熱心にミーティングに通ったあげく、就職してミーティングの数が減ったら飲んでしまったという人がいました。愛着形成してくれるのはいいのですが、ママの支えが必要で「一生ママから離れられない」のも困りものです。

ある程度ミーティングから離れても飲まないでいられるようになるには、その人が変わらなければなりません。この変化を実現するのがステップです。ミーティング通いが忙しくてステップができない、例えば棚卸し表が書けないというのなら、ミーティングを休んで表を書いた方が良い。変化を先送りするメリットはありませんからね。ここでミーティングの絶対性は崩れます。

ではステップが絶対的に大事で、ミーティングはなくてもいいのか? そんなことはありません。ステップをどこまでやろうとも、僕らは回復や成長の中途にあるのであって、完成されることはありません。また、どんなにソーバーが長くなろうと、仲間の支えは役に立ちます。

神との関係が大事だという人もいますが、それだけあればいいわけではありません。神さまは声を持ちません。神の声が聞こえるというのなら、それは依存症とは別の病気でしょう。声を持っているのは仲間たちであり、僕らがいるべき場所も人間のあいだです。ステップの本にも、着想を得たらそれを誰かと相談してみるべきだとあります。

では人間関係が絶対に大事かと言えばそんなこともなく、僕らの病気が人間への執着となって現れたことは多々あったわけです。

こんなふうに、回復や健康に必要なのはなにか一つではなく、たくさんの要素がバランスよく必要です。それはまるで栄養をバランスよく摂取するのが必要なように。

しかし、ときおり弱った心、弱った魂が、絶対的な一つの何かに寄りかかりたくなる誘惑に負けることがあります。その背景には、「自分はこれをやっているから大丈夫だ」と自分を安心させたい心理があるのでしょう。たとえば、自分はAAミーティングに通い続けているから大丈夫だとか、ステップをやっているから大丈夫だとか・・。そのような「魂の避難所」というのは、人生にはどうしても必要なものです。そこで一時の安らぎを得ることまで否定する権利は誰にもありません。

しかしいつまでもそこにとどまっているわけにもいきません。

まだミーティングにも続けて通うことができないでいる人に、こんな話をすると、ろくでもない屁理屈を考え出してくるのでしないほうがいいわけですけど。


2010年11月02日(火) 死ぬなら飲んだ方が良い

(彼は)飲まないでいることが少しも楽しくない。また昔のゲームに手を出すようになるのは時間の問題である。彼には、アルコール無しの人生なんて考えられない。そしてやがてはアルコールの有る無しにかかわりなく、人生そのものについて考えられなくなってしまうだろう。そのとき彼は、誰も知ることのないような孤独を味わう。彼はまさにぎりぎりのところにいる。終止符が打たれるのを心から待ち望むようになる。(p.220~221)

仲間の9年のバースディミーティングに顔を出していました。話を聞いているうちに、その会場の9年前のことを思い出しました。

当時そこの会場はとても出席者が少なくなっていて、グループを維持するのが精一杯という状況でした。僕自身も、これ以上AAを続けても自分の進歩はないだろうと予測して、そろそろAAやめちゃおっかな〜と考えていた頃でした。それでもAAを離れなかったのは、単に酒を飲むのが怖かったからです。飲まない喜びではなく、飲んだどうなるかの恐怖で酒をやめていたわけです。

そんな頃に精神病院を退院したあるおじさんがメンバーに加わりました。よく奥さんと一緒にミーティングに来ていました。AAに通い続けて酒は止まっているのでしょうが、表情が明るくなってこないのが気になりました。それに未来を語らないことも。人は酒をやめた直後は、未来を考える余裕を失っているものですが、数週間、数ヶ月と酒が止まり続けていると、将来こうしたいという希望を語るようになるのが普通です。たとえば仕事を再開したいとか、資格を取りたいとか。しかし、そのおじさんの場合にはそれがなく、ただもうすぐ子供の結婚式があるんだという話があるばかりでした。

ちょうどその人の1年のバースディと、お子さんの結婚式が同じ頃に重なり、バースディでは式が無事に済んで肩の荷が下りてホッとしたと語っていたのを覚えています。けれどおじさんは翌週のミーティングには来ませんでした。さらに次の週のミーティングには奥さんだけがやってきて、旦那さんが自殺して葬式も済んだという報告をされました。酒は飲まずに自ら命を絶ったそうです。奥さんの「いままで大変お世話になりました」という言葉に、僕は何もできなかった大きな喪失感を感じました。

それは、僕はAAをやめてはいけない、と思い直す機会になりました。しかし同時に、酒をやめているだけでは全然ダメなのだ、と強く思うようにもなりました。では足りないものは何か。たぶんそれは「12ステップ」だったのでしょう。僕が東京でビッグブックのステップをやっている人たちに出会うのはそれから2年後です。

さらに2年後、戸塚で開かれたビッグブックの集会で、東北から来たメンバーがスピーチで紹介していたのが、冒頭に掲げた11章の文章です。そこでハッと気がつきました。いままでそこを何度も読んでいはずなのに、何度読んでも思い至ることがなかったわけです。「酒をやめているって素晴らしい」と言いながら実はちっとも楽しくない。もし飲んでもトラブルが起きないのなら再び飲みたい。けれど飲むわけにはいかないのだ。なぜならば飲むことは社会的な死を意味するから。死ぬのは嫌だ。だが飲まずに生きることが果てしなく虚しい・・・酒をやめた人は、時にそんな心理になるものです。そしてその中には、しらふのまま人生に終止符を打つ人もいます。そうやっていったい今まで何人自殺していったでしょうか。

ビッグブックの文章は「私たちはそこからどうやって脱出したのかを述べてきた」と続きます。ステップがあるってことは素晴らしいことです。けれどステップを受け入れられない人もいるし、準備ができていない人もいます。そんな人がしらふで死にたくなったらどうすればいいのか。

そんなときは酒を飲むのがいいのだと思います。こんなことを書くと再飲酒の勧めみたいになって怒られてしまうかも知れませんが、それでも死ぬよりはマシです。なにせ酒が好きだから飲んできたのではなく、生き延びるために酒を飲んできたことを忘れてはいけません。だから酒をやめただけでは死にたくなるのが当然なのです。再飲酒すれば、どんなに若かろうと、どんなに病気が軽かろうと、それが死につながる可能性はゼロではありません。だからこそ酒は飲むなと言うのですが、しかし飲まずに自殺してしまっては元も子もありません。

僕は精神病院からAAに戻ったときに、後に最初のスポンサーになってくれた人がかけてくれた言葉を覚えています。

「生きて帰ってくりゃそれでいいんだよ。そうすりゃまだチャンスはある」

(それでも飲んだ後のAAの敷居は高かったけど)。


2010年11月01日(月) コミュ力が必要?

日本精神神経科診療所協会の発行しているブックレット「にっせいしん」の第2号がアディクションの特集で、そこに斎藤学先生の文章が載っています。アディクションと境界性パーソナリティ障害、摂食障害、さらに複雑性PTSDや児童虐待までまとめて論じられています。この先生にかかるとなんでも一緒くたです。

ブックレット「にっせいしん」No.2 特集「アディクション−依存症等へのアプローチ」
http://www.japc.or.jp/pdf2/book/book2.pdf

この一緒くたというところはスルーして、別のところに注目してみます。

「現代社会は市民の平等と自由を大切にする。そうした民主主義は、個々人の「公」への奉仕ということが前提とされているのだが、その前提の基盤となるのは他者への「共感力」つまり社会性である。現代社会とは、その成員にふさわしい社会性を身につけているか否かを常に審査されている社会である。この審査は年を経るごとに厳しくなり、この要件を満たせないのではないかと危惧する人々が増えている。近年、対人緊張を訴え、公の場に出ることを厭う人が増えてきたのはそのためである。BPD患者に代表されるパーソナリティ障害者やアディクト(依存症者)とは、こうした「社会的責任を免除」(ないし「社会生活から排除」)されがちな人々のことである」

つまり社会の変化が新たな病者を生み出しているというわけです。
共感力に代表される社会性が重視される変化を他でも感じます。最近の企業の採用担当者は「コミュ力」重視なのだそうです。コミュ力とはコミュニケーション能力のこと。これについて2ちゃんねるのまとめサイトを眺めていると「コミュ力って上がらなくね?」というスレッドを見つけます。共感力がなければ就職すら危うい。しかもそのコミュ力とやらは、トレーニングしても上がらないと考えている人もいるわけです。

これについて思い至るのは、アスペルガーに代表される広汎性発達障害のことです。広汎性の人は、想像力や他者への共感力を欠きます。これは生来のものなので、トレーニングしても能力そのものが伸びるわけではありません。ただ、視力の弱い人がメガネをかけるように、足の弱い人が杖を使うように、補助的な手段によって社会生活を送れるようにはできます。けれど、能力そのものが常人同等になるわけではありません。鑑別が行われず、適切なサポートもなければ、それこそ「コミュ力あがらねえ」という話で終わってしまいます。

国際競争力を確保するだけの経済効率を保つには、高い能力を持った人材ばかりを確保したい、というのが今の日本企業の置かれた状況であり、そうしなければ倒産してしまいます。何十年か前ののんびりとした経済状況であれば、コミュ力不足の人にもたくさん働く場所が与えられたでしょうし、お見合いで結婚相手も決められて家庭も成していたでしょう。そこでは少々変わり者と見なされる可能性はあったにせよ、障害者と言われることはなかったわけです。

つまり社会の変化が、トラブルを抱えた人たちをあぶりだし、彼らに病気のレッテルを張り、公的な扶助を必要とさせているのです。

もうひとつ、産経新聞の子供の虐待の記事。
虐待の「世代間伝達」 愛されなかった過去
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/100413/crm1004131833018-n2.htm

「虐待は、外部が何も介入しなければほぼ確実に連鎖する。3割にとどまっているのは、多くの人が成長の過程で、外部の大人たちから自然にさまざまな援助を受けているからだ」

虐待が増えているのかどうか、という話は、発達障害が増えているのかどうかという話と同様で、昔のデータがない以上比較しようがありません。しかし虐待として数えられる数は確実に増えています。

現在では、子育てが母と子だけのプライベートなことになってしまっているわけで、そこに他者が自然に介入したり援助することが難しくなっているわけです。これが何十年か前だったら、近所や親戚との関係が濃密で、それはそれでプライバシーがなく他者の口出しが多いうっとうしい世の中だったのかもしれませんが、母親以外のいろんな人が子育てに関わって、虐待を減らす効果が存在したのではないかと思うのです。

こうしてみると、日本の国際的な経済地位の向上に代表される豊かさや、プライバシーの重視が、必ずしも良いことばかりもたらすわけではない構図が見て取れます。日本が豊かになったのはせいぜいここ何十年かであるだけに、豊かさを社会で分配するやり方がまだまだ初心者だし、プライバシーという権利が金科玉条になるのも危ういことです。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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