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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2010年09月30日(木) 回復とは何か? アルコール依存症に「治癒はないが、回復はある」と言います。
治癒とは治った状態、病気のない状態です。例えば風邪が治れば、風邪を引いていない健康体に戻るわけです。依存症の場合には、病気がない状態には戻れないのですが、回復はあるとされています。(少なくとも診断基準は満たさなくなる)。
ではその「回復」とは何なのでしょう。どうなれば「回復」なのでしょう。それがハッキリしなければ「回復しろ」と言われても、何を目指して良いのか分かりません。
以前アメリカの回復擁護運動の本を読みました。彼らが擁護(アドヴォケート)する「回復」とはいったい何でしょうか? 彼らは回復について様々な定義を試みたあげく、最後には回復を定義することを諦めています。人によって何を回復とするかは実に様々であり、それを包括できる定義は決めようがなかったのです。「その人が以前より良くなった、回復した」と思えるのならそれが回復、として回復の定義を一人一人に任せてしまっています。
12ステップでは何が回復かはハッキリしています。「霊的な目覚め」が実現された状態が回復した状態です。けれどステップをやる以前でも、ともあれ飲んでいた酒が止まっていれば、それはそれで回復と呼んでかまわないでしょう。
それぞれ勝手に回復を定義して良いということなら、僕は僕なりの回復の定義をしなくてはなりません。それはこんなものです。
飲んでいた頃の僕は「もし・・・だったら」という考えにとりつかれていました。例えば、僕は進学のために上京し、東京での一人暮らしに適応障害を起こして酒がひどくなりました。すると、それを振り返って「もし実家が東京の近くにあったら、自宅から学校に通えて楽だったろうに」と思ってしまうのです。
しかし、長野にある実家が東京近辺に移動することは現実にはあり得ないわけで、「実家が東京の近く」という幸せは、僕の人生のタイムラインの上には実現不能です。つまり幸せを別の人生の上に求めているわけです。実現不可能な幸せを追い求めてしまうのだから、これは不幸です。
この他にも、もし大学を辞めてなかったら、もし会社を辞めてなかったら、あそこで彼女と結婚していたら、結婚しなかったら、あの時大酒を飲んでトラブルを起こさなかったら・・という「たら」「れば」を考えてしまうわけです。それは、人生が過去に分岐していて、自分が選ばなかった分岐(選択肢)の先に幸せがあったはずだ、という思いです。そしてこれは、酒をやめた後も続きました。例えば「もし、アル中になっていなかったら」というやつです。
今はそうではありません。自分の追い求める理想は、自分の人生のタイムラインを未来に延長した先にあります。実際その幸せが実現できるかどうかはわかりません。けれど、この人生(道)の先にその可能性があり、それを目指して歩いていけばいいのだ、と分かっています。
新宿で雨に打たれ歩きながら考えました。自分は大学を中退し、仕事もたびたび辞めてキャリアを中断し、自殺未遂をし、精神病院に入院し、酒で10年分の人生経験を失って、そのツケはいまも払い続けています。けれど、僕の人生はこれで良かったのだ、と。
「自分の人生はこれで良かったのだ」、いまのこの人生は生きるに値する良い人生だ、そう思えるようになることが、僕の回復の定義です。そして、そのような変化をもたらすのに、人間一人の力では不十分だということも。
僕の回復の定義は、飲んでいない期間が長くなるにあわせて、その都度変化してきました。これからもソブラエティが続いていけば、また定義が変わっていくのかも知れません。
2010年09月27日(月) 共依存=支配とコントロール アルコール依存の人が酒をやめると共依存の症状が残る、というのがこのギョーカイの標準的な理解なのだそうです。
共依存とは「世話焼き」のことだと言う人がいます。例えばアル中の旦那を持つ奥さんが、旦那が酒を飲んで起こしたトラブルの後始末をするのが世話焼きです。二日酔いで体調が悪い夫のかわりに職場に休む連絡をしてあげる。酔って帰宅し玄関で寝てしまった夫を布団まで連れて行く。夫が外で人様にかけた迷惑をかわりに謝ったり弁償したりする。・・・これが共依存であると解釈すると、「酒をやめた後に共依存が残る」という言葉が理解できなくなります。
なぜなら、アル中さんは酒をやめたからといって、誰かの世話焼きを強烈に行うことはあまりないからです。(AAメンバーが誰かのスポンサーになればあるかもしれないけど)。
共依存の本質は世話焼きではなく、支配とコントロールです。奥さんたちは「世話焼き」という手段によって、酒を飲んでいる旦那をコントロールし、状況全体を支配しようとしているわけです。アル中本人が酒によって万能感を味わおうとするように、共依存の人は世話を焼くことによって万能感を実現しようとします。アルコール依存症では酒を飲むことが原因ではなく症状であるのに対し、共依存の場合には世話焼きが症状ということです。
酒をやめたアル中さんたちは、(あまり人の世話は焼きたがらないが)状況全体を支配し、コントロールしたいという欲が出ます。そのために、自分の考えが一番であり、人の言うことは聞きたくない。「アル中は・・・である」とひとくくりにされたくない。こいつらまるでわかっちゃいねえバカばっかり、オレの言うことを聞いていればいいのに、になってしまうわけです。
なぜ支配すること、コントロールすることを望むのか。それは自分の中の満たされない欲求を満たそうと努めるからです。ステップ4ではその様々な欲求に「本能」という名前を付け、自分の欲望のアンバランスさを分析していきます。
しかし、自分の共依存の問題を解決しようとするならば、ステップ4以前に、まずその問題を抱えていることを自分に対して認めねばなりません。アル中が飲酒をコントロールしようとして失敗を重ね、最後にアルコールへの無力を認めるように、共依存でも状況をコントロールし、人を支配しようとして失敗を繰り返す自分を自覚し、状況に対して無力を認めることから始めなくてはなりません。
そのためにも、共依存=世話焼きと表現することをやめ、共依存=支配とコントロールという文脈を使っていく必要があります。
ACの問題も共依存です。アル中本人と同じで、ACも症状が世話焼きとは限りません。「ACの特徴」というのを検討してみれば、過剰に物事を推測すること、自分を過剰に批判すること、責任を取りすぎること、取らなさすぎることなどなど、それぞれが自分を取り巻く状況を支配しコントロールするためのものであることがわかります。
しかしながらACの人たちは、状況に対する無力を認めるにしても、自分が状況をコントロールし、人を支配しようとして失敗を繰り返している無力ではなく、自分が状況の犠牲者であるからこそ無力だと感じがちです。これではステップ1にならず、後のステップへも進みません。「誰かを悪者にし、状況の被害者をやっているうちは回復しない」と言われるゆえんです。(むろん虐待などで被害を受けた傷のケアとは別の話)。
アル中さんたちが、アルコールの問題から目をそらそうとするように、共依存の人たち(親や奥さんやACの人)は自分に支配とコントロールへの強い渇望があることから、目をそらそうとします。それが「世話焼き」という言い換えとして現れてくるわけです。依存症の人は問題に対する否認が強いのですが、それは共依存やACでも全く同じです。
あるACの人が(その人も回復歴は長いのですが)「自分はACだから準備も完ぺき主義なんです」と言っていたのですが、それを聞いた僕は反射的に心の中で「自分はACだからコントロール欲が強く、完ぺきな準備をすることで状況を支配したいのです」と言葉を置き換えたのでありました。
2010年09月21日(火) 「言いっぱなし聞きっぱなし」だけでは回復しない 自助グループの多くは「言いっぱなし聞きっぱなし」を採用しています。
「言いっぱなし聞きっぱなし」と言われても、自助グループになじみのない人は何のことだか分かりません。言いっぱなしという日本語はあっても、聞きっぱなしという単語は普通使いませんから。「言いっぱなし聞きっぱなし」というのは、自助グループのジャーゴン(専門用語)であり、内部で使うべきもので、一般に向けて使う言葉ではありません。
これは crosstalk の禁止という意味です。ミーティングで誰かが離したことに対して、直接意見や質問をしないというルールです。
例えば誰かが「酒は飲んでいないが昨日の晩も妻を殴ってしまった」と語ったとしても、それに対して「DVは犯罪だよ」とか「殴られる者の気持ちになってみろ」などと言わないわけです。そのかわり、自分も昔は殴っていた経験とか、それがなぜ止まったのかとか、子供の頃に親に殴られ続けた経験などを話しても良いし、あるいは平然とスルーして自分の話したいことを話します。
人は肯定され、受容されるのを好むものです。批判されたり否定されるのを好む人はいません。だからクロストークがあると、人はそこから遠ざかるようになり、自助グループとして成立しなくなってしまいます。
ましてや、依存症の人たちは(ACの人たちも)自己中心ですから、たとえ建設的で自分の回復の役に立つ意見であっても、指示を受けることを好みません。指示を受けられないで、自分で自分の誤りに「気づいて」修正していくしかありません。
しかし、自助グループが「言いっぱなし聞きっぱなし」だけで機能するかと、そんなことは決してありません。なぜなら「言いっぱなし聞きっぱなし」というのは自助グループの中のローカルルールであり、社会はそうなっていないからです。仕事で上司から指示を受けて「あなたの言いたいことは分かるが、私はそれをやりたくないのでやらない」などと言っていたら雇ってもらえないわけです。社会復帰のためには、やりたい・やりたくない、ではなくやる必要があることをやらなくてはならないからです。
そもそも回復のためには、やりたくないことも、必要であればしなくてはなりません。
自助グループの多くが採用している12のステップは、やりたいようにやるものではなく、スポンサーの指示を受けながら、その通りにやった時に効果が出るようにデザインされています。やりたい部分だけやる、とか、自分の解釈でやる、というのでは本来の効果が出てきません。
自助グループというのは、「言いっぱなし聞きっぱなし」の非指示的なミーティングと、強力に指示的なスポンサーシップの二つを両輪として進むようになっており、片方だけではグループとしても個人としても成長回復がありません。
話は脇に逸れるのですが、断酒会にはスポンサーシップがないではないか、という人がいます。僕は断酒会員ではないのですが、断酒会で先輩が後輩の世話をするとか、会長が新人を指導するというのが、スポンサーシップに相当するのだと聞いています。さらに、平等意識が強調されるあまり、この「指導」の関係が希薄になりつつあるのが、断酒会員数の伸び悩み(あるいは減少)と関連しているという意見を聞いたことがあります。AAでも、スポンサーシップが弱体化した時期には、停滞感が漂いました(それはまだ続いているかも)。
日本の自助グループの中には、12ステップを採用していてもスポンサーシップが普及していないところが少なくありません。それには、先に成立したAAやアラノンがスポンサーシップをないがしろにしたせいでありましょう。しかし「自助グループに理解がある」とされている援助職の人たちの中に、「自助グループは受容的で非指示的なものだ」という誤解や幻想がありはしないか、と思うのです。だとすれば、そういった誤解を解いていくのも僕らの責任であり、自助グループは受容と指示の両方をバランス良く提供するものだという知識を広めて行かなくてはなりません。
話は少し変わるのですが、日本では「カウンセリングは非指示的なものだ」という考えが広がっています。カウンセラーは話をよく聞いてくれるもので、ああしろこうしろと指示はあまりしない、という考え方です。これは肯定的関心、共感的理解を重視する「来談者中心療法」というのが日本で流行っているからです。
来談者中心療法(Client-Centered Therapy)というのは、その前は「非指示的療法」(Non-Directive Therapy)という名前で、カウンセラーが指示することよりも受容することを重視しています。これはカール・ロジャースという有名な心理学者が提唱した技法で、これを指示する人たちをロジャース派(あるいはロジャリアン)と呼びます。
実は欧米では指示的なカウンセリングが主流で、ロジャリアンは少数派です。しかし、日本ではカウンセラーといえばロジャリアンばかりです。なぜそうなってしまったのか。ある有名な先生がこんなたとえ話をしていました。オーストラリアに入植したヨーロッパ人がウサギを持ち込んだら、天敵がいないのであっという間にオーストラリア中にウサギが広がってしまった。日本のロジャリアンも同じであると。
日本ではカウンセリングも、自助グループもあまり普及しているとは言えません。それは、それは一般にはあまり効果がないと見なされているということでもあります。僕は共感と受容を重視する方針を否定するつもりはありません。そういうことも必要だと思っています。しかし、そればっかりでは困ってしまうわけで、やはりバランスが大事です。日本で自助グループやカウンセリングが流行らないのは、あまりにも共感と受容に偏りすぎているからではないかと思うのです。
2010年09月16日(木) 飲酒夢 例によって、ざっくりとした翻訳です。
元ネタはこちら
Drinking Dreams | A Wake Up Call for Recovering Alcoholics
http://www.everythingaddiction.com/addiction/alcoholism-addiction/drinking-dreams-can-be-a-nightmare-or-a-good-reminder/
Drinking Dreams Can Be a Nightmare or a Good Reminder
飲酒の夢は悪夢かそれとも良い警告か?
土曜日の午後、私たち4人はニューポートビーチの Woody’s Wharf の前の波止場にボートを横付けした。船を泊めた私たちは、通路を上がってレストランの中にあるバーに入った。妻と妻の友人たちは、お休みを言って化粧室へ行ってしまったので、私はしばらくバーをぶらついてから、バーテンダーに氷なしのウォッカのダブルを頼んだ。手渡された大きなタンブラーは、縁まで透明な冷たい液体で満たされていた。私は片手にそのグラスを持ち、もう一方の手を腰に当てて、ぐっと飲み干した。
そしてタンブラーを口から離すと、目の前にスポンサーがいるじゃないか!
・・・というところで私は目が覚めた。
飲酒の夢(あるいは薬を使う夢)は、まだソブラエティ(断酒期間)が短い人たちにはありふれたことだし、ひんぱんにあることだ。それがいままで経験した中で一番リアルな夢だという人もいる。
私もそうした夢を何度も見たことがあり、そのたびに途方もない罪悪感、悪い予感、悲しみを伴って目を覚ました。私はもう一度ニューカマーに戻って、ホームグループで立ち上がり(ワンデイの)白いチップを受け取らなくちゃならならないのか。妻やほかの家族の失望はどれほどのものだろう。
というところで、それがただの夢であることに気がついた。
その気づきは私の心を喜びと感謝で満たしてくれた。それはともかく、こうした夢にはどんな意味があるのだろう? 私たちはこうした夢を気に病む必要があるのだろうか? それは私たちのプログラムが弱まっている兆しだろうか? 再飲酒(再使用)の夢は回復の一部なのだろうか? ほとんどの人は回復の初期に見るだけだが、中には最後の(本当の)飲酒から十年以上経ってから飲酒夢を見る人もいる。
「タダで気持ちよくなれて良かったじゃないか」というのは、あるオールドタイマーがその話を無視するときのセリフだ。大騒ぎするな。そいつはお前に感謝を教えてくれるんだ、というわけだ。
心理学の人たちには別の主張がある。私たちの脳は長年のアルコールや薬の使用で病んでいる。ソファーの上で眠れない夜を重ねて、ようやく眠りと呼べるものを手にしても、それは健康な睡眠にはほど遠い。それほど質が悪くなくても、私たちのレム睡眠がもたらす癒しと回復は、身体が求めるレベルには至っていないことが原因だという。
飲酒夢はしばしばストレスにさらされたときに出現する。言い方を変えれば、人生が山場にさしかかっている時だ。また飲酒夢を見るのはソーバー(しらふ)の人に限られるのも興味深い。
こうした夢を見たときに、最初に思いつくのは、それを秘密にしておこうという考えだ。もしその話がオールドタイマーの耳に入ったら、あなたのプログラムの質に疑いの目を向けられるかもしれない、と心配になるだろう。だが私たちは学んだはずだ。隠し事をするのは(古い考え)古い行動だ。それは私たちを酒や薬に引きずり戻す。
だから一つ提案するとすれば、もし回復の初期にそうした夢を見たら、その夢のことをソーバーの友人やミーティングで分かち合うべきだ。
それはその夢から力を得るばかりでなく、他の人が飲酒夢の分かち合いをするきっかけにもなる。
別の利点もある。そのぞっとする体験は、私たちに飲酒の狂気を思い出させてくれ、ソブラエティのメンテナンスをするよう促してくれる。
ボーナスもある。あなたが生き生きと描写して語れば、きっとグループに良い笑いをもたらせるに違いない。
2010年09月13日(月) 健康な人は自殺しない 自殺予防週間だそうです。
健康であるのに自殺してしまう人はいません。そこを勘違いしてはいけないのです。
何らかの苦しさから逃れるために、酒を飲む人がいます。処方薬を多く飲む人やリストカットをする人もいます。それは苦しさに耐えて生き延びるための手段です。人は「生き続けたい」という自己保存の欲求を強く持っていて、たとえやっていることが自己破壊的に見えたとしても、それは生き延びるための手段です。だから、自己破壊的な行動さえなくなればいい、と安易に考えてはいけません。
リストカットやODをした人に「もう絶対しないと約束して」と言っても無駄で、しなければもっと苦しくなってしまうだけです。断酒すると飲んでいた頃より苦しくなります。酒や薬で麻痺させる手段が使えなくなるからです。その苦しさを別のもっと健康的な手段で解消する必要があるのですが、そのためには金も時間も手間も必要になります。(その手段の一つが自助グループですが、自助グループがすべてとは言いません)。
リストカットでもODでも、あるいは飲酒やギャンブルでも同じですが「耐性」が形成されるので、同じ効果を得るために、より激しく、よりたくさんやる必要が出てきます。けれどそれにも上限がありますから、やがてはどうやっても望んだだけの効果が得られなくなります。それは生き延びる手段を失うことを意味します。その時、死ぬことが究極の解決として選択肢の一つに挙がってきます。生き延びるだった手段が、人生にピリオドを打つ手段に変わってしまうわけです。
そういう意味では、依存症の人や、リスカやODをやるひとは、生きる欲求の強い人だと言えます。やっていることは問題行動なので病んでいるのですが、根源的な自己保存の欲求の部分は健康?です。
問題行動を起こさずいきなり自殺してしまう人がいます。彼らは健康なのに自殺したのか? そんなことはありません。生き続けたいという根源的な部分が病んでしまった結果です。(その多くがうつ状態だという話には説得力があります)。
あるセミナーで、講師が「人には自殺する権利があると思いますか?」というお題を出しました。
これには例外はあるかもしれません。拷問され脱出できず、なぶり殺しにされるしかない状況があったとしれば、苦しみから逃れるために死を選ぶことまで否定できません。けれど、そうした特殊な状況を除けば、「自殺する権利はあるか?」と尋ねられたとき、「そんなものはあるわけがない」と即答できるはずです。
そこで自殺する権利があるのかないのかちょっと考えてしまった、という人は、死んでいるより生きている方が良い、という信念が揺らいでしまっているわけで、根源的な自己保存の欲求が弱くなっているのじゃないか・・・つまり病んでいるのじゃないか、自分のことを気にした方が良いかもしれません。
最後は人のことより自分の心配をしろ、という結論になってしまいました--;
2010年09月09日(木) キンドリング(その3) アルコール依存症になるには、それなりに長い期間飲み続けないといけません。若い人の場合には、この期間は短くなりますし、女性だと「お酒を飲み始めて乱用になるまでたった数ヶ月だった」という話もありますが、いずれにせよある程度の期間は必要です。
たいていの人は医療機関で「アルコール依存症」というお墨付き(診断)をもらっています。診断をもらう前に酒をやめる人も少なくありませんが、それはまた別の話にしましょう。
医療機関にかかるのは、お酒で何らかのトラブルが起きたのが原因です。なんかヘンだと誰かが思わなければ医者に行く(連れて行かれる)わけはありません。だから、お墨付きをもらった後で、無事にトラブルなく酒を飲める人はまずいません。
・・・とは言うものの、診断をもらった後でトラブルが急増した感じがする、って話があります。お前は依存症だから酒を飲んではいけない、と言われたせいで、急に病気の進行が早まった気がする、と感想を漏らす人がいます。
これについては、いくつかの説明が可能です。診断をもらう前は、酒でトラブルを起こしていることに無自覚だったものが、診断をもらうと人にかけている迷惑を自覚せざるを得なくなって、トラブルが増えたように感じている、という説。
別の説は、「お前は酒を飲むな!」と言われるために、隠れて酒を飲んだり、飲んだことを隠そうと努め、それが本人には心理的な苦しさ、周囲には不審な行動と見られて、トラブルを増やしている、という説。
しかし、キンドリング現象を根拠にすると「病気の進行の速度が速まる」と解釈することもできます。キンドリングでは、継続して刺激が与えられるより、間欠的に刺激を与えた方が、脳の変化が早く起きます。これは電気刺激だけでなく、化学物質による刺激でも同じです。・・・ということは、酒を飲み続けている(継続的な刺激)よりも、断酒と再飲酒の繰り返し(間欠的な刺激)のほうが脳の変化の速度が速い=依存症の進行が速まる、と考えても矛盾はしません。
AAにやってきて何ヶ月か酒をやめ、再飲酒すると、前よりひどいトラブルを起こす人がいます。それにはいろんな説明が可能です(溜まりに溜まった飲酒欲求が、堰を切ってあふれ出したのかもしれません)。けれど、
酒をやめている期間も依存症は進行している
という経験的事実は、キンドリング現象で説明がつきます。実際病気が進んでいるのかもしません。
中途半端な断酒はかえって病気を進行させる。何年間かに何度か再飲酒がある程度という人と、同じ年数(やめずに)飲み続けてきた人を比べると、前者のほうが重症化したヒドいアル中になっている可能性があるわけです。断酒は病気の進行を止められる、というのは必ずしも真とは限りません。やめるのなら、完全にやめるしかないわけです。
2010年09月07日(火) キンドリング(その2) 9月になってから夏ばてになっているひいらぎです。
さて、本題。てんかんは、脳内のネットワークが部分的に異常に興奮する(異常発火・てんかん放電)ことで起こります。ではこの興奮を人為的に作り出したらどうでしょうか。
ネコやラットの脳に電極を刺して電流を流します。この電流はてんかん発作を起こすほど強力ではなく、ごく微弱な電流です。当然ラットの行動には何の変化も起きません。しかし、この刺激を一日一回続けていくと、3週間ほどするとてんかん発作を起こすようになります。さらに続けていくと、発作が次第に激しさを増していきます。(時間依存性がある感受性の亢進)。これをキンドリングと呼びます。
さらに大事なことは、こうなったラットに電気刺激を加えずにおき、たとえば1ヶ月後に再び電気刺激を与えると、1回目から激しいてんかんを起こすのです。つまり、時間が経過しても、亢進した感受性(てんかんを起こす体質)は消えません。これは、てんかんが一生治らないことと一致します。
キンドリング現象は電気刺激だけではなく、化学物質の反復投与によっても起こります。
アル中さんたちも、アルコールという化学物質を自ら反復投与します。毎日同じ量を飲んでいたとしても、最初は何も起きません。けれどある時から離脱症状が起こるようになり、それが激しさを増していきます。やがては連続飲酒発作も起こるようになります。そして、しばらく断酒を続けていても、再度酒を飲むとあっという間に元通りの飲んだくれに戻ってしまいます。一度そうなったら元には戻りません。
電気刺激の反復によるキンドリング現象がてんかんを説明できるのであれば、化学物質の反復投与によるキンドリング現象がアルコール依存症の症状を説明できる、そう考える人がいます。
電流をひたすら流しっぱなしにするよりも、この実験のように間欠的(一日一回とか)に刺激を与えるほうがてんかんが早く起こるようになります。
そのことが化学物質の反復投与でも起こるとするならば、「酒を飲んだりやめたりするほうが、ひたすら飲んだくれっぱなしより依存症が早く進行する」という経験的事実を説明できます。
つまり、半端な断酒はかえって依存症を進行させる・・わけだ。それについてはまた次回。
(続きます)
2010年09月03日(金) キンドリング(その1) 軽度発達障害という概念が浸透していった結果、トゥレット障害(チック症)もこの範疇に入ると考えられるようになってきたようです。(以前は母親の育て方や、家庭の機能不全に原因が求められた時期もあった)。チックはADHD・LD・自閉症としばしば合併します。しかめ面をして顔の筋肉をひくひく動かしてしまったり、「ぼ、ぼ、僕は・・」とどもってしまうのは、確かに本人はとても気になってしまうのですが、、治そうと思って治るものではありません。結局は本人も周囲も「それが個性」だと思って慣れるのが一番いい選択でしょう。
もうひとつ発達障害の範疇と考えられるようになってきたのが「てんかん」です。
僕はAAのラウンドアップで、アルコール性のてんかん発作で倒れる人を見たことがあります。某施設の入所者の人で、ラウンドアップ直前に再飲酒したのだと聞きました。参加中にアルコールが身体から排出され、離脱の症状のひとつとして「てんかん」を起こしたのでしょう。
アルコール性てんかんを起こすのは、元々てんかんを持っていた人に限られるのだそうです。依存症になる前はてんかんを起こしたことがないのに、今は飲むとてんかんを起こす、という人もいます。それは、元々持っていたてんかんの素質が、アルコールで花開いてしまったのでしょう。
大型二種免許を持ち、その資格で稼いでいた人が、アル中になっててんかん発作を起こすようになり、仕事も資格も失ってしまった話がありました。
てんかん発作は、脳内のネットワークが部分的に異常に興奮する(異常発火・てんかん放電)することで起こります。発火の起こった部位によって、表に出てくる症状が変わります。よく「口から泡を吹いて倒れる」と言われますが、そればかりではなく、身体が硬直したり、あるいは身体の一部がヒクヒクと痙攣したり、意識障害になったりします。いきなり相手の意識がぼうっとして、意思の疎通が悪くなったときには「解離(解離性障害)を疑え」といいますが、てんかん発作という可能性もあるわけです。
てんかんの治療には、抗てんかん薬が使われます。その中でも、デパケンやテグレトールはてんかん以外の発達障害にも使われます。同じ薬が奏効するということは、同じメカニズムがある(つまり根っこが同じ)と考えてもよい訳で、てんかんを発達障害に含める一つの根拠にもなっています。
デパケンは非定型うつ病にも処方されます(躁うつ病にも)。元来うつ病は内因性(内分泌系の異常)だとされていました。内因性なのはメランコリー型で、非定型のうつ病は器質性だという人もいます。それが証拠にデパケンみたいなてんかんの薬が効く。そのうち「非定型うつ病も発達障害に含めよう」と言い出す人が出てくるかも知れません。
てんかんは基本的に一度なったら治らないのだそうです。つまり「一度てんかんになったら一生てんかん」なのです。人生のある時期まで発作を起こさなかった人が、何かの刺激(たとえばアルコールの離脱症状)でてんかんを起こすようになると、発作を起こさない身体には戻れません。もちろん、薬で症状を抑えることはできるので、社会的には「治る」と言ってもいいのでしょうけど。
「一度てんかんになったら一生てんかん」というのは、「一度アルコホーリクになったら一生アルコホーリク」(p.49)というのとよく似ています。
いや、似ている以上に、てんかんを起こす仕組みと、アルコールの離脱症状の仕組みは同じだという説があります。それは「なぜアルコールをコントロールできる身体に戻れないのか」も説明してくれるのかも知れません。
・・・というわけで、続きます。
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