心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2009年10月31日(土) 小西さんのDV講座

9月末に社会病理学会の公開シンポジウムで信田さんの話を聞きました(タダだったから)。10月末は県の機関の主催するDV防止セミナーに行きました(タダなので)。講師は武蔵野大学の教授で小西聖子という人。この人は精神科医で臨床の人なのですが、学校の先生でもあるので話がわかりやすくて助かりました。セミナーといっても、小西先生の2時間の話があるだけの内容。フロアの参加者は六十数人でした(なぜこんなに少なかったのか?)。

話の前半はDVの概説、後半はDV被害が重い人に見られる解離症状についての説明でした。今回も自分へのメモ書きとして、講演の中からいくつか話題を書き留め、発展させておこうと思います。

何かと出てくる内閣府のDV調査はこちら。
http://www.gender.go.jp/e-vaw/chousa/index.html

よく言われることで、男から女へのDVだけじゃなく逆もあるのは事実で、身体的暴力・精神的嫌がらせや脅迫・性的なもののどれかを一度でも受けたという質問では、男女比は1:2になっています。国によっては1:1にもなるそうです。
しかし、介入が必要なほど重篤なケースに限れば女性が9割以上(調査では身体的暴力を複数回受けたのは男16に対し女117)。

つまり、DVは男女のパワーの差の問題であり、ジェンダー(社会的性差)の問題です。例えばもし男女間で経済力に差がない社会であれば、DVの様相はまったく違っていたはずです。けれど、小西先生はジェンダーの話に傾くことを戒めます。自分の唱えるモデルにあてはまる実例にのみ共感を示し、あてはまらない例を無視する態度では臨床家は務まらないという話でした。

これはよくわかる気がします。視野狭窄を起こしがちな社会活動家では、実際に困っている人相手の実務は務まらないということであろうかと思うのです。

しかし社会的な要素は大事です。
9月末に書きましたが、DV加害者(夫)は妻が悪いから暴力を振るう、という被害者意識いっぱいであり、被害者(妻)のほうは私が至らないからいけないのだ、という自責感(加害者意識)いっぱいです。そこには共依存のような心理的問題があるのでしょうが、妻が逃げ出して離婚しないのは、そういう理由ばかりではありません。

経済的な問題、自分の仕事のこと、子供の将来のことなど様々なことがあり、メリット・デメリットのトレードオフになってくれば、スマートな問題解決が無理なことも多いのです。

たったこれだけの文章を書くのに2時間もかかっています。守備範囲外だとそんなものでしょう。使い慣れない言葉ばかりだし、調べ物でネット検索すると読みふけってしまうし。というわけで、続きは明日(かも)。


2009年10月28日(水) 自傷行為について考える

この雑記を何のために書き出したかというと、最初は「心の家路」の集客のためでした。アクセスカウントを稼ぐには、更新頻度が高くないといけません。だから、日記形式で、日々の生活のことでも、考えたこと何でも記録していくことにしました。しかし、やがてアクセス数に関心を失ってしまい、ほとんど自分用のメモ書きとなっています。

考えたことを頭に定着させるためには、書くことが必要です。だから学校でも板書をノートに書き写すわけですし、AAのステップも棚卸しは頭の中ではなく紙に書いて行うのでしょう。この雑記は、僕が見聞きしたことを自分の頭の中に定着させるためにやっているのです。

さてお題。手首を切って自殺、大量服薬で自殺というのがあるので、リストカットや over dose(OD) は死ぬためにやっている(つまり自殺未遂)と解釈されがちです。けれど、死ぬためではなく、死なずに生き残るためにやる人の方がずっと多いのだと思います。

参考:kyupin先生のブログ
リストカット
http://ameblo.jp/kyupin/entry-10040304313.html
リストカットについての私見
http://ameblo.jp/kyupin/entry-10329934008.html

ストレスコーピング(精神的緊張を乗り越える手段)としてのリストカット。抜毛癖もこのたぐいかもしれません。

それが外に向かえば暴力癖(間欠性爆発性障害)になるのかも。DV夫は職場では評判が悪くない場合が多いのだそうで、外で受けたストレスを妻に暴力をふるうことで解消しているふしがあります。勉強のストレスで放火癖がでる受験生とか。窃盗癖のある人は、ストレスがかかるとつい万引きしてしまう話を聞いたことがあります。
病的賭博や性的放縦にもストレスコーピングの要素があるのかも。

アル中さんやうつの人もふくめてメンヘル系のブログを数十眺めていますが、子供の頃の虐待(特に性的虐待)の話を読むとげんなりします(精神的ブラクラだから)(でも読む)。そんな風に読む側に覚悟を求めてくるブログの一つがこれです(それに比べればアル中さんたちのブログはヌルい)。

解離性同一性障害(多重人格障害)40余りの人格と共に生きる
その中のエントリで、
大好きだった彼女が
http://ameblo.jp/rin3718/entry-10334698938.html

「300錠以下の量でODしたとは言えない」

というのもすごい話ですが、これはリストカットに Delicate cutter と Coarse cutter があるように、delicate なODと coarse なODの違いなのでしょう。

アルコール依存症は「慢性的自殺」とか「緩慢な自殺」と言われますが、それは自ら臓器にダメージを与え続ける行為からそう言われるのだと思います。実際には、死にたくて飲んでいるのではなく、ストレスに負けずに生き残るために飲んでいるわけです。

自傷行為(時に他害行為も含む)は、何かのメリットがあるからこそするのでしょう。ただそれが局所解(local minimum)であることに気づけずにいる、と思うのでした。


2009年10月27日(火) アル中になりやすい人・なりにくい人

依存物質にはそれぞれ、毒性の強さとは別に、依存のなりやすさの違いがあります。
私たちはコーヒーや紅茶やコーラからカフェインを日常的に摂っていますが、カフェイン依存症になる人はわずかです。カフェインは依存になりにくいのです。一方、タバコを習慣的に吸う人はほぼ全員がニコチン依存になります。ニコチンはきわめて依存になりやすい物質です。アルコールは中間で、習慣的に酒を飲む人の中で依存になる人は約一割とされています(この数字はアメリカの話なので、日本ではもっと少ないかも)。

では、アルコール依存になる人・ならない人の違いは何か?

慢性アルコール中毒が病気だと考えられるようになる前は、酒に溺れるのは不道徳の証だと思われていました。そのころでも「酩酊という不道徳は遺伝する」ことが知られていました。つまり、アル中の子供はアル中になりやすいのです。これは、アルコール依存症に遺伝性があることを示しています。

ただ間違えてはいけないのは、遺伝するのは「病気になりやすい体質」で病気そのものではありません。血友病みたいな遺伝病とは違って、アル中は予防が可能です。酒を飲むから依存症になるのですから、飲まなければ予防できます。
つまり、親がアルコール依存症の人は酒を飲まない方が良いし、自分が依存症本人だという人は子供が成人しても酒を飲まないように教育すべきです。そうすればアルコール依存症は予防できます(他の依存症になる可能性は残りますが)。酒が飲めないのは不憫な気もしますが、どうせ依存症になれば飲めなくなるのですから、最初から飲めない方が苦労が無くてすみます。

遺伝の要素以外に、ストレス耐性という要素が言われています。
それは 1950年に書かれたこの文章 にも書かれていますが、将来アル中になる人は酒を飲むことで「際だった解放感」を得ます。つまり普通の人より「酔いの快感」が大きいと考えられています。人より気持ちいいので、人よりハマりやすいわけです。

酒が好きだから依存症になったという人もいますが、人より酒の快感が強かったので快感物質にハマってしまっただけの話で、その点では覚醒剤でラリっているのりピーと大差ありません。

では、なぜ「人より強く解放感を感じるか」。前の文章によれば、その人の受けているストレスが

「その社会のほかの人々よりはるかに強いか、あるいは彼が、ほかの人たちのようにその緊張をうまく調節する方法を学んでいないか、どちらかの理由による」

というわけです。しかし前者(他の人より強いストレスのせいで依存症になった)という人はまずいないと思います。例えば仕事のストレスが依存症の原因だ主張する人がいますが、ストレスになるほどの激務を毎日大酒を飲みながらこなせるわけがありません。
つまり、ほとんどは後者。ストレスの量は社会の他の人と変わらないものの、ストレスに弱いか、ストレス解消が下手だったわけです。そこへ酒を飲んだら大きな解放感を味わったので、病気になるほどハマってしまったというわけです。

重大なことを目の前にしても、人と夕食を楽しんで熟睡できる人がいます。当然こういう人はストレスに強い。一方、大したことでないのに心配して眠れなくなり、騒がなくてもいいことを騒ぐ人もいます。ストレスに弱く、アル中にもなりやすい人と言えます。

断酒する人の中には、酒に変わる楽しみが欲しいという人もいます。けれど、アル中さんの酒の快感は普通の人より強いのですから、酒より気持ちいいことなんて、そうそう見つかりません。ストレス解消の手段を追求するよりも、なぜ自分は人よりストレスに弱いのか、そのことに取り組むべきなのです。


2009年10月26日(月) リベンジ?

あれは16日の金曜日のことでした。
その日僕は神奈川にある本社にでかけ、帰路はいつものとおり小田急から横浜線に乗り、さらに特急に乗るために八王子で乗り換えたのでした。
八王子駅エキナカ、コンコースのトイレ前に Montly Sweets という名の売店があり、いろんなスイーツのアンテナショップが月替わりで入っています。10月は「王様からのご褒美」という店です。この店はロールケーキがお勧めなようで、真ん中にミルクプリンと生クリームが入っているジャージープリンロールと、季節限定のマロンロールの二種類がショーケースの大半を占めていました。

秋だからマロンがおいしそうだが、プリンが入ったロールケーキも捨てがたい。

迷った挙げ句にジャージープリンロールを選択しました。自宅まで3時間近くかかるので、保冷用のバッグ(100円)も購入。

金曜日とあって列車は混み合っていました。町田の駅で指定席を取るのに、いつも窓際のA席かD席を取るのですが、通路側の席しか取れなかった時点で悪い予感がしたのです。実際ほぼ満席で、網棚(といっても網でできてるわけじゃないけど)の上は新宿から乗った客の荷物で占められていました。仕方ないので、かなり座席から離れた場所にケーキを置きました。

特急の終点でローカル私鉄に乗り換えです。乗るのはわずか2駅、数百メートルにすぎませんが、どうせ会社が交通費を支給してくれるので乗らなければ損です(乗らなければ支給されない)。

携帯で調べると、乗り換え時間はわずか3分しかありません。実際は見間違いで、私鉄の乗車時間が3分で、乗り換えは10分以上余裕があったのですが、それは後でわかった話。無論、慌てた僕はケーキを忘れました。

それに気がついたのは私鉄の駅を降りてからでした。JRの駅まで歩いて戻り「先ほど到着の特急に忘れ物をしたのですが」と駅員に伝えると、彼はため息をつき「たいていの特急はこの駅で清掃作業をするのですが、あの列車は他の駅まで行きそちらで清掃されるのです」と言いました。その駅まで往復二千円以上使って自分で取りに行くか、明日荷物が回送されてくるのを待つか・・・。いくら保冷バックに入っていても、ロールケーキは明日まで持ちそうにありません。

諦めて駅前のデパートでショートケーキを買って帰りました。予定より1時間弱遅れて帰宅すると、楽しみにしていたイーグルスのプレーオフ試合は、もう決着がつく頃でした。

そしてこの月曜日。再び本社にでかけた僕は、しっかと紙袋を抱いてJRの特急から私鉄に乗り換えました。その紙袋の中には、ジャージープリンロールと季節限定マロンロールが両方とも入っていたことは言うまでもありません。こうして僕のリベンジはなりました。・・・が、なんか金銭的消耗が大きい気がするのは気のせいでしょうか。
(その間にイーグルスはプレーオフ敗退しているし)。


2009年10月23日(金) ミーティング休み

教会の人から電話があったのは、ミーティングの二日前でした。
葬式になるのでその日は会場の部屋を貸せないという連絡でした。教会を借りていると時々そう言うことがあります。結婚式は事前にわかっても、葬式はいつ発生するかわかりません。
そこで、その日のミーティングは中止にすることにしました。うちのグループのメンバーには、ホームグループしか出席していないビギナーはいないので、休みにするとミーティングの間隔が開きすぎるって心配はありません。これは他のグループから来ている連中も同じです。同じ日に別の場所でもミーティングはやっているのですから、そちらに行けば大丈夫。なので、悩まず中止を即断しました。

中止にして困るのはメンバーへの連絡です。あらかじめ休止がわかっていれば、前の回の参加者に伝えることもできるのですが、急な話ではその手は使えません。AAは会員名簿を作らないので、こういう時は個人的な連絡だけが頼りです。女性のメンバーなど連絡先を知らない場合には、わかりそうな人に伝言を頼んでおきました。

あとは、セントラルオフィスにFAXで連絡をし、車に乗り合わせて来てくれる施設の人には電話で伝えました。

それでも中止を知らずに来てしまう人もたまにはいます。当日の30分前には教会隣の駐車場で葬式を眺めながら事情知らずのAAメンバーが来ないか見張っていました。開始時間10分過ぎても、そういう人は現れなかったので、トラブルがなかったことに感謝して帰路についたのでした。

仮スポンシーは病院近くの会場に行き、入院患者の人がたくさん来て新鮮だったと電話をくれました。別のスポンシーは、また別の会場に行き旧交を温めたそうです。休んだら休んだで恵みはあるものなのでありましょう。


2009年10月22日(木) 嫌悪療法

中国に暮らす人が、妙にマズいタマゴを買ってしまい、調べてみると人工的に作られた偽卵であった、という話がありました。
その偽卵ではなくて、擬卵というものがあります。こちらは食べるものではなく、小鳥に抱かせるプラスチックの丸い塊です。文鳥やカナリヤのメスは交尾しなくても無精卵を生んで暖めてしまうことがあり、それを取り上げるとまた生んでしまいます(ニワトリ状態)。そこでニセ卵を抱かせて卵を産むのを防ぐのに使います。

ヘビは飼ったことがありませんが、生卵が大好きなのだそうです。与えてやると丸飲みし、食道内の突起を使って器用に割ります。ヘビに擬卵を与えると飲み込んでも割ることができず、非常に苦労して吐き出し、もう二度とタマゴを食べようとしなくなる、という話をかなり以前に聞きました。ヘビにもそれだけの知能があるわけです。

同じ理屈をアル中さんの治療に使えないか、と考える人がいるのは当然です。
催吐薬と酒を同時に飲ませます。これを何度も繰り返せば、酒を飲む→吐き気がするという条件反射が作られるはず、という理屈です。嫌悪療法と呼ばれて広く行われた時期もありましたが、現在ではあまり行われていません。ヘビやサルなら効き目があっても、人間は条件反射以外の余計な知恵を使うので役に立たないのです。

けれど、同じような治療は現在の日本でも行われています。
アルコール病棟の入院患者に主治医が「酒を飲ましてやる」と告げます。意地悪な医者だと、患者の酒の好みを聞いてウィスキーやらビールを用意し、おまけに若い看護婦に酌をさせたりします。もちろん酒を飲ませるのが治療ではなく、事前に抗酒剤(アンタビュースやシアナマイド)を処方し、医師が観察しながら飲ませます。
抗酒剤服用後に飲酒すると、アセトアルデヒドの効果で血圧が下がり、動悸が激しく、顔面が硬直、視野は狭窄します。この場合は医者がついているから大丈夫ですが、外でやれば救急車騒ぎになります。

この「飲酒テスト」は名目としては、抗酒剤服用後の飲酒をあらかじめ実体験することで、退院後の危険を減らす目的があります。もう一つは、抗酒剤の処方量の決定のためという名目があります。抗酒剤にも副作用があるので量は少ない方がいいのですが、人によって効き方が違うので少なすぎれば効果がなくなります。

中には飲酒テストを繰り返しやる病院もあるようで、名目はともかくとして実質は嫌悪療法を試みているのだと思います。アルコール病棟に入院しても依存症が治るわけもなく、退院後にすぐ飲酒してしまう患者さんもいます。中には退院直後に酒を買い、酩酊しながら帰宅するツワモノもいます。家族としては高い金を払っての入院なのに、オトーさんが酔って帰ってきたのではたまりません。病院も苦情を避けるために嫌悪療法を試しているのでしょう。

そういう病院を経験した人の話を聞くと、どうやら数ヶ月くらいは効果がありそうな感じです。やはり人間はヘビとは違うのであります。


2009年10月21日(水) hit bottom

「AAの誰もが、まず底をつかなければならない」(12&12 p.33)

回復には底つき体験が必要だと言われます。
では「底つき」とは何なのでしょうか?
僕はこのことに長い間明確な答えを出せずにいました。

「ほかの人と比べると極限まで行き着かなければ底つきの経験ができないアディクトもいる」(NA p.8)

AAの中には、仕事も家族も住む家も失った経験のある人がいます。彼らの経験は壮絶です。健康を極端に害してしまい、薄いお粥のようなものしか食べられない人もいます。福祉施設に暮らし、自分のものはバッグ一つに収まるだけの人もいます。まさに「底」というにふさわしい体験です。

しかし、回復に必要な底つきは、そういう種類とは違うようです。なぜなら、いろいろ失っていないうちから回復を始める人もいるからです。

では「底つき」とは何なのか、もう一度その問いに戻ります。
AAの本の中で「底つき」という言葉は、12&12のステップ1に出てきます。ステップ1はアルコールに対する無力を認めるステップです。「底つき体験」とは「無力を認める体験」そのものです。

ではアルコールに対して無力とはどんな意味なのか?
無力とは「力がゼロ」ということです。自分は酒をやめる能力がゼロであって、自分の能力を頼っていれば(現在は飲まないでいても)いつかは必ず再飲酒する、というのが無力の正体=底つき体験です。

自分は酒をやめる能力がゼロである。この大問題を解決するためには、自分以外の「力」が必要です。その力=自助グループとすれば、AAや断酒会に通い出すことが「底つき体験」ですし、ステップの場合には力=神とするわけです。

はしょって言えば、自力での断酒を諦め、自助グループを信じ出す(あるいはステップを始める)のが「底つき体験」そのものです。(通っていても信じていない場合もありますが、それはまた別の話)。

社会的などん底まで行き着かなくても、まだ失うものが少ないうちに回復が始まることを「底上げ」と呼びます。そりゃ仕事や家族を失わないうちに回復が始まった方が良いに決まっています。ずいぶん前から底上げの必要性が叫ばれていますが、はたして成果が出ているのでしょうか。自己流の断酒をしている人が増えただけの印象です。

AAにいる人たちの多くは自己流の断酒を試み、やがてそれを断念して「底つき」した人たちです。自分には自己流の断酒期間が必要だったと言う人もいますが、単なる時間の無駄だったと言う人もいます。自己流の期間を節約し、早く自助グループにつながることができれば、そのぶん「底上げ」につながります。

医療機関による依存症の早期発見・早期治療によって、断酒を始める人は増えていると思われます。けれど彼らの多くはまず自己流の断酒を試みます。自己流は底つきの時期を人生の後ろにずらす効果しかありません。アル中さんの平均寿命を延ばす効果はあるかもしれませんが、回復時期が後ろにずれるのは人生における苦しみの総量を増やしてしまいます。

早期発見・早期治療が「底上げ」につながっていないのが現状です。


2009年10月20日(火) 行動を変えることから

元々は弱小球団ヤクルトスワローズのファンだったのです。特に関根潤三のヌルい采配が好きでした。1989年の神宮最終戦では、クラブハウス前の通路に陣取って「野村監督反対!」を叫んでいた一人です(強くなったら面白くないと思ったから)。

が、強くなったらなったで面白く、スワローズのファン以上に野村克也監督のファンになってしまいました。なので、1998年彼が三顧の礼をもって阪神の監督に迎えられると、僕もタイガースファンに鞍替えしてしまいます(阪神では星野優勝の下ごしらえしかできなかったのが残念)。野村監督が楽天イーグルスの監督に就任すると同時に、僕がこの球団のファンになったのは当然です。

彼が選手に野球を教えるのに使う「野村ノート」には、こんな一節があるとテレビでやっていました。(行動が変わればバージョンから少し変化しています)。

『考え方が変われば、習慣が変わる。
 習慣が変われば、人格が変わる。
 人格が変われば、運命が変わる。
 運命が変われば、人生が変わる。』

考え方を変えるが人生を変えることにつながっていく、という話です。
アル中さんたちも、酒でダメになってしまった人生を変えるために、飲酒という習慣を変えよう(断酒)とします。習慣を変えるためには、考え方を変える。つまり、断酒というのは心の問題だと思うわけです。これは間違ってはいません。

間違ってはいないのですが、なぜ多くのアル中さんが習慣を変えること(断酒)に失敗するのでしょう?

それは考え方を変えることは、実は簡単なことではないからです。変えたいという意欲があっても簡単にはなりません。ではどうすればいいか?

「考え方が変わらないのなら、行動(習慣)を変えるしかない」

これが昔からの知恵です。飲んでいる行動を、ミーティングなり例会に行く行動に置き換えろ、というわけです。行動が変われば、それが考え方に波及し、さらにそれが例会以外の日常生活の行動に波及し、やがて人生そのものが変わっていく仕組みです。

自分の人生が良い方に変わっていないのなら、それは家にいる時間が長すぎる、というわけ。

たとえ日本一になっても野村監督は今年で解雇が決まっているそうです。ファンとして残された試合を楽しむほかありません。


2009年10月18日(日) 効力感

辛い体験をすれば、同じことは繰り返すまいと思うものです。

けれど、これは必ずしも真とは限りません。酒で失敗したアル中さんや、パチンコで有り金をすったギャンブラーは何を思うか? 「次はもっとうまくやろう」であって、酒やギャンブルをやめようとは思いません。

それは「苦しみが足りなからだ」という意見があります。

実際そうである場合も多いのですが、これも必ずしも真とは限りません。
厳罰化で飲酒運転は減りましたが、ゼロになったわけではありません。覚醒剤も同じです。失うものがどんなに大きくても、渇望に囚われた人は依存の対象を手放したがりません。共依存の奥さんがダンナの飲酒を手伝わなくなれば、飲み続ける苦しみは増していきます。けれどダンナは酒をやめません。

これは人が変化するためには、苦しみ(懲罰)だけでは不十分で、別のファクターが必要ということを示しています。「回復しないのは底付きが浅すぎるからだ」という理屈を振り回す人は、他のファクターに気づいていません。その人の説に従えば、極限まで行き着かなければ回復できないことになってしまいます。けれど、あまり失わないうちから真剣に回復を求める人もいます。それはなぜでしょう?

現状維持のデメリットがどんなに大きくても「自分は変われない」と思っている人の選択肢は一つしかありません(現状維持)。

酒をやめる気がなさそうなアル中さんでも、実は自分で何度か酒をやめよう(減らそう)と試した経験があるのが普通です。でもコントロール喪失がこの病気の特徴ですから、節酒や断酒に失敗します。すると、酒をやめられないことを体験から学んでしまいます。

問題があることは分かっている(飲み続けるのは辛い)、けれど変化もできない(酒をやめるのに失敗する)。この板挟みの状態を、人はどうやって打破しようとするか?

それが否認です。自分の酒は大したことがない、女房が大げさに騒いでいるだけだ、と思い直せば、(自分の中で)問題は消失します。問題がなければやめる必要もありません。こうしてディレンマは解消されます。

否認という防衛機制はいろんな形を取ります。
「自助グループに通っても仕方ない。どうせ飲むときは飲むんだから、最後は自分だよ」とか「自分は神を信じられない」とか、あるいは「ステップは酒をやめた後に人格を磨くためにするんだ」とか。

否認を打ち破るために必要なのは「効力感」です。それは「自分もやればできる」という感覚です。不信に陥っている人が効力感を得るのは簡単なことではありませんが、例えば実際に酒をやめている人の姿を見れば、自分にもやめられるという意識が芽生えます。

「真剣にやる気があれば、この友人のようになれるかもしれない。ぼくもなれるだろうか。もちろんだ!」(AA, p.19)

AAの創始者ビル・Wは、友人エビーの回復した姿を見て「自分もやればできる」という効力感を得ました。もしエビーが飲んだくれの残念な姿だったら、ビルも酒をやめようステップをやろうと思わなかったでしょう。

人の回復の手助けをするためには、まず自分が回復していなければならない。当たり前のことなのですが、そのことが分かっていない人も大勢自助グループにいます。回復していない奴に「底付きが足りない」と言われれば、お前にだけは言われたくないと思うでしょう。回復した人は人間的にすばらしい、とは言いませんが、必ず何らかの魅力を発揮しています。

奥さんが共依存行動をやめても、ダンナが酒をやめないのは、断酒会に行かないから、という理屈も分かってもらえたでしょうか。

とはいえ、否認にも至っていない(まだ自分の問題に気づいてもいない)人がいるのも確かで、もう少し苦しんでもらうしか無い場合も多々あります。苦しみと効力感がセットで揃わなければ、人は変わる準備が整わないのです。

11月7日のイベントに行く予定にしております。


2009年10月17日(土) 非定型うつ病について追加(その2)

日本ではメランコリー型のうつ病も非定型うつ病も区別されない、それはなぜかという話で、非定型に効果のある薬が使えないので区別する必要がないという理由を挙げました。

もう一つの理由は診断基準にあると思います。
メランコリー型・非定型という名前は、DSMに載っているのですが、どちらも「大うつ病」というくくりの中にあります。DSMは病気の原因よりも症状を重視します。原因を探るのは難しい、けれどマニュアルに基づいて症状を観察すれば、客観的基準で診断が下せる、これがアメリカ人の考える合理性なんでしょう。その結果、原因が違っていても抑うつ症状が出ていればうつ病と診断されることになりました。(とはいえ、メランコリー型と非定型の間には、かなり症状の違いがありますが)。

神経症という大きな概念があります。外部のストレス因子で具合が悪くなっているという考え方です。アル中旦那の飲酒(断酒後のドライドランク)のせいで奥さんの具合が悪くなっているのなら、ストレス因子=旦那です。旦那が2〜3ヶ月入院で留守の間は奥さんが元気になるなら、どんぴしゃです。

DSMには神経症という概念がありませんので、この場合なら「適応障害」という病名でしょうかね。(飲んでいようがやめていようが)アル中の配偶者に適応障害のひとは多いはずですが、実際は「うつ」という病名をもらっている人が多いのじゃないでしょうか。こういう人がうつの治療をしても良くならないのは不思議でもなんでもありません。それが離婚の段取りがついたらとたんに改善したりします。

神経症は(診断の)ゴミ箱と言われたことがありました。うつや統合失調や依存症などの鮮やかな症状があるなら診断も簡単ですが、なんだかハッキリしない患者にも病名は与えねばなりません。そんな時に神経症は便利だったというわけです。

その便利なゴミ箱がなくなってしまうと、代わりのゴミ箱が必要になります。それがうつ病だったというわけでしょう。昔だったら神経症と言われた人たちが、今はうつ病と言われ(当然三環系が効かないので)SSRI/SNRIを処方されている。発達障害やら器質性の人も混じっているでしょう。

そんなゴミ箱状態のうつ病の中で、ことさらにメランコリー型・非定型の違いを取り上げて別の病気に仕立てる必要がない、というのが現場の精神科医の意見なのだと思います。

最近ネットや新聞で「非定型うつ病」が取り上げられ目立ってきていますが、実は昔ながらの?非定型の人は少ないのじゃないかと思います。うつ病ではない、つまりメランコリー型でも非定型でもない人たち。それは前述の適応障害や不安障害、気分変調症(軽度の抑うつが長く続く)であったり、林先生の擬態うつ病や、kyupin先生の器質性障害なのでしょう。そういうのをひっくるめて「非定型」と呼ぶから、さらに話はややこしくなります。

遷延性うつ病で苦労していた(いる)身としては、「それはうつじゃねーだろ」と内心ツッコミたくなる場面は多々あります。ましてやその人や家族が酒を飲んでいたとなれば、真っ先に疑うのはアルコールの影響です。


2009年10月16日(金) 非定型うつ病について追加(その1)

非定型うつ病について以前に書きました。
7/23, 7/24, 7/25, 7/27

これを書いたときは、僕は非定型うつ病を「最近登場してきたうつ病の新ジャンル」と捉えていたのですが、それは誤りでした。非定型うつ病は実は古くから知られた病気で、しかもうつ病とは異なる病気です。

しかし現在の日本では、従来型のうつ病も非定型うつ病も区別はされていません。それはなぜか、ということを中心に、もう一度非定型うつ病について書いてみたいと思います。

元ネタはこちらで、ほかに薬について調べた情報を元に書いています。

DSMでは従来から日本でうつ病と呼んできたものを「メランコリー型」。非定型は「非定型」と呼んでいます(つまりメランコリー型が定型という意味)。

非定型うつ病はMAO阻害剤という薬が効きます。これは第一世代、つまり一番古い抗うつ薬です。

脳の中ではセロトニンやアドレナリン、ドーパミンなどの神経伝達物質(モノアミン)が活躍しています。使用済みの伝達物質はモノアミン酸化酵素(MAO)によって代謝され再利用されます。脳がうつになるのは、モノアミンの調整がうまくいかず、量が少なくなりすぎるからだと考えられています(アミン仮説)。

そこでこのMAOの働きを阻害して、伝達物質が代謝されないようにするのが「MAO阻害剤」です。そして非定型うつ病は、このMAO阻害剤が(ほかの薬や電気けいれん療法よりも)良く効く病気として、すでに1958年に紹介されました。

非定型うつ病がうつ病と似ているが違う病気とされる理由は、ひとつには前に書いたように症状が違うこと。もうひとつは、今回書いたように違う薬が効くことです。違う薬が効くから違う病気、という理屈は乱暴すぎる気がしますが、ある薬が良く効くのであれば、その薬にあった病気の仕組みがあると考えられるわけです。

MAO阻害剤は、元は結核の薬として開発され、やがてうつ病に使われるようになりました。しかし、副作用が強くて使いづらい薬だったために、どちらにも使われなくなり、現在はパーキンソン病の治療にのみ使われています(アメリカでは現在でもうつの治療にも使っている)。

というわけで、日本ではMAO阻害剤をうつの治療に使っていません。非定型うつ病をこの薬で治療した経験のある医者もいないわけです。メランコリー型も非定型も区別せずにほかの薬で治療を行っています。であれば、治療する上で別の病気として区別する必要はないわけです。
しかしメランコリー型が三環系抗うつ薬に良く反応するのに対し、非定型は薬が効かずに遷延化しやすいとされ、適切な治療を受けられていない非定型の人も多いのじゃないか、というのが個人的な考えです。

MAO阻害剤にはAタイプとBタイプがあり、うつに効くのはAタイプなのに、日本ではBタイプのセルギリンしか販売されていません(非定型にMAO阻害剤が効かないという話はここらへんが原因かも)。だから、無理に医者に頼んで処方してもらっても無駄ということでしょう。

しかし薬も進歩するもので、海外ではMAO阻害剤を改良した「可逆的モノアミン酵素タイプA阻害薬(RIMA)」という薬が使われています。

(この話続きます)。


2009年10月14日(水) 一人が苦手

僕の勤め先は、もともと12人が所属する事務所でした(内2人は本社に転属中)。今年の春までに5人辞めていきました。理由は独立起業・転職・非正規切り。

今年春に不景気のあおりをくらって事務所が閉鎖になり、残った5人は在宅勤務になりました。僕もその一人です。機材を自宅に持って帰り、会社との連絡は支給された携帯電話とメール。ほかの社員に会うのは月に一回の本社での会議のみです。

たまに客先で同僚と会うことはあっても、普段は一人で仕事をしています。もともと一人が得意な人なら良いのでしょうが、皆がそうとも限りません。見落としがちなことですが、「人付き合いが苦手」=「一人が得意」とは限らないのです。

一人が得意な同僚もいます。彼は長年付き合った恋人と別れてしまい「週末デートしなくてすむのは楽でいいよ」と言いながら、仕事もプライベートもマイペースで楽しんでいます。

僕は一人は苦手です。人付き合いは苦手ですが、一人はもっと苦手なのです。人間関係に疲れて一人になりたいと思うことはしばしばですが、一人でいるとどんどんマイナス思考になって苦しくなります。一匹で飼っていると、淋しくて死んじゃうウサギみたいなものかもしれません。

明日は本社で会議です。同じ在宅勤務の同僚が辞めることになり、彼の仕事の引き継ぎが必要になりました。

その彼はもとより在宅勤務が希望でした。仕事は自宅でできる種類でしたから、実現の可能性は十分あったのですが、彼自身が「自分だけ在宅になると、周囲にどう思われるか気になる」と言って、希望を叶えずにきました。それがこの春から会社の都合で皆が一斉に在宅勤務です。彼にとって、誰にはばかることなく大手を振って在宅ができるわけですから、願ったり叶ったりだろうと皆が思っていました。

けれど彼は半年でうつを再発させ、仕事が続行不能になって自ら退職を申し出たのです。皆がそれを知り、思いとどまってもらおうと画策を始めた頃には、すでに社長の裁可が降りた後でした。

彼は一流大学を出て、一流企業?に勤めていたものの、うつを発症して退職した過去があります。その後、僕が酒をやめて勤めていたたった数人の会社に、彼が就職してきました。実は高校の同学年だったのですが、僕は彼のことをまったく憶えていませんでした。同じうつ病どうし、あっちが休んだりこっちが休んだりの時期もありました。

彼は人と一緒にやるのは苦手だと言っていましたが、だから一人が得意とは限りません。彼の退職の話を聞いたとき、在宅になり一人にならなかったら、彼も持ちこたえたろうに残念だと思いました。

僕もうつで辛い時期がありました。特に土日と休んだ後は、月曜日に仕事に行くの大変でした。けれど、当時は月曜のAAミーティングの責任を負っていたので、辛かろうともミーティング会場を開けて、司会をしなくてはなりません。僕が逃げ出せばグループは自然消滅しかねない状況でした。

その逃げ出せない状況が、僕にはとても良かったのでしょう。月曜に仕事を休んでAAにだけ行くと、何を言われるかわかりません。なので、調子が悪かろうと無理無理月曜の朝は仕事に行きました。ぐったり疲れてもさらにミーティング。そうして人と接しているのが、僕のうつにはプラスになりました。

月曜が祝日(つまり3連休)の時は、その会場は休みになります。すると僕は仕事もAAも休めて楽でいいのですが、その後決まって調子を崩すのです。人間関係のストレスでうつになっているはずが、人間関係がないとさらにうつが悪くなるのです。それは僕が「一人が苦手」を意味するのでしょう。

本当にうつが悪くて飯も食えない文字も読めない状況なら、無理に人と接するのはいけないのでしょうが、少し良くなってきたら人と一緒に何かしないとうつは良くならない、というのが僕の信念です。

辞めていく彼にもAAみたいな場所があれば良かったのに、と思ったりします。

僕の業界では独立起業する人は珍しくありません。それできちんと食っていける人には自己管理がきちんとできる人たちです。自分をたるませすぎず、締め上げすぎず、ちょうどよいペースで仕事ができる人たちです。つまりそれは組織の中で仕事をする能力と同じです。会社の中で仕事ができる人は、独立して会社を興しても仕事ができる・・・考えてみれば当たり前の話ですね。


2009年10月13日(火) 本人の望む以上には良くならない

人は望む状態と現状とのギャップを埋めようと行動します。
逆に言えば、現状が理想に近ければ、特に行動を起こす動機が発生しません。

前にアルコールで入院した病院に、ある患者さんがいました。
その人は酒の問題もあるのですが、すでに入院が年単位になっているので、アルコールの治療プログラムには入っていませんでした。主な病気は分裂です。が、そちらもかなり寛解していて退院に支障はなさそうでした。でも退院しない(できない)のです。

話を聞いてみると、奥さんと娘さんが「戻ってきてほしくない」という希望で、彼もそれを受けれいたのです。だから彼が退院するとすれば一人暮らししかありません。それは彼の希望ではなく(一人暮らしをいったん始めると家族との同居がさらに難しくなる)、入院し続けたいとすれば、あまり病気が良くなると彼は困ってしまいます。
そんなわけで、彼の病気は良くなりきらないのでした。

「精神の病は本人の望む以上には良くならない」

まるで上昇を拒むガラスの天井があるかのように、本人の願望が治癒を拒むことがあるのです。僕はアルコールをやめてもうつがなかなか改善しなかったときに、「治ることを望んでいない」と言われてずいぶん腹がたったものですが、実際その通りなのです。

病気が治ることは良いことばかりとは限りません。それによって失うこともあります。
例えば依存症が良くなるためには、酒を失わざるを得ません。精神安定剤で、気分が落ち着いてほんのりうっとりするのが好きだとすれば、病気が治ればその薬はもう飲めなくなります(それでも飲めば依存症)。病気だからと免除されていたいろいろなことも再開しなくてはなりません。

良くなろうと思わない依存症の人は、自助グループに行きません(それで周期的に再飲酒する)。他の病気でも、良くなるために医者や治療法や薬をイジってみる気にならなければ、悪い状態が維持されます。

治ることで得るものと失うものを天秤にかけ、治らないことを選択する人がいるのは不思議ではありません。損得勘定ができないのではなく、健康になりたい人とは価値観が違っているだけのことなのです。


2009年10月11日(日) 器質と気質

てんかんの人は統合失調症になりません(実際には少数なるけどこの際それは無視)。これはてんかんの人の脳と、統合失調の人の脳が違うことを示しています。
脳の違いによって、どんな精神病になるかも違ってきます。

病気になる前の性格(気質)にも違いがあって当然で、クレッチマーの分裂気質・循環気質・粘着気質という分類も、脳(器質)の違いが性格(気質)の違いに反映されていると考えてもいいかもしれません。

うつ病の人と、統合失調の人では、当然気質も違ってきます。それはリアルに接していても、ネットを介してでもわかります(つまり気質は演じることができない?) 本人は「うつ」だと言っていても、なんか違うなぁと思うことがあります。

以前に掲示板で「うつ病と統合失調症の比較」というページを紹介しましたが、あれは当を得ていると思います。

うつの人は、良心的というかあまりにも気遣いする感じで、会って別れたあとで「電車には間に合いましたか」とか「雨には降られませんでしたか」というこちらを心配するメールをもらったりします(それより自分のこと優先しろよ)。印象としては「いっぱいいっぱい」な感じで、そんなに頑張らなくてもいいのに思ってしまいます。わりと人間関係は豊富。

統合失調(分裂気質)の人は、気は遣うんだけどそれが「人のため」ではなく、自分がどう思われているか気にしちゃうタイプ。取り越し苦労が多くて、結果的に消極的。ひとりで行動するのが好きで、社交は嫌い。

分裂の人の印象は「固さ」と言う言葉で表現される思考の硬直化。どうして「盗聴されてる」って結論になっちゃうの? という感じで違う考え方ができません。そこまで極端でなくても、ちまちま節約してるのにドバーっと金を使っちゃうとかね。大きなことにこだわるならわかるんだけど、細かいことにこだわる。ひとりを好むのも、この「固さ」ゆえだと思います。

分裂気質の脳を持った人も、うつ症状になり得ます。そんな時に医者はうつの病名を与えます。でも伝統的なうつ病とはメカニズムが違うので、休んでも良くなるとは限りません。もし統合失調の陰性症状だと診断しても告知するとは限らないし、処方を聞いてみると抗精神病薬を飲んでいたりします(それが効くならうつじゃないだろ)。

なぜか世の中には「統合失調よりうつのほうがまし」という風潮(偏見)があるせいで、自分はうつ(あるいは躁うつ)だと思いたい人が増えています。それで不適切な治療をして良くならないのは不幸なことです。自分ではうつだと思っている人に、抗精神病薬を出して良くしちゃう医者は腕利きなのかも。

話は少し変わって、1年前の読売新聞に統合失調だと誤診されたシリーズをやっていました。ボーダーや広汎性発達障害なのに医者が間違えたという話でした。統合失調じゃない人に抗精神病薬を飲ませると副作用が強く出て、それが幻聴(陽性症状)、無気力(陰性症状)という統合失調の症状と似ていたりするので、話はややこしくなります。

それと最近は内因性の病気(伝統的うつ病や統合失調)が減っているという説もあります。代わりに増えているのが広汎性発達障害。なんでそれが増えたのか、食事の変化か、IT化のせいか、晩婚晩産化か。それで大人になった人たちが、うつや統合失調にカテゴライズされているという説です。


2009年10月10日(土) 説得者

「アルコールは偉大な説得者だった。アルコールはとうとう私たちを打ち負かし、正しい状態に叩き込んでくれた。だがそれはうんざりする道のりだった」(第4章)

午後は仲間とビッグブックの分かち合いをしていました。ちょうどここを読んだときに「そうなんだよね〜」とうなずきあった次第です。

AAのプログラムをやってみるように、誰かを説得するのは無理な話です。それは自ら選び取らなければなりません。まだ飲みたいとか、自分のやり方を試したいというのなら、ご自由にどうぞと言うしかありません。

ではなんで強制的にミーティングに通わされている人の中から回復する人が出てくるのか? 強制は意味がないのじゃないのか? このカラクリは単純で、最初は強制されていたものを、やがて自ら選び取るようになる仕組みです。

二ヶ月ほど前に仮スポンシーができました。最初の指示は二つだけです。毎日ミーティングに行くこと(AAがない曜日があるのでその晩は断酒会)、帰ったら電話をくれること。そんなわけで、我が家の電話は毎晩鳴るわけです。実際に彼がミーティングに行っているのかどうかは確認していませんが、電話が来ているうちは大丈夫でしょう。そこまでやっていれば、例え彼が飲んでしまったとしても、スポンサーとしては「それは病気だから仕方ないよ」と慰めの言葉をかけてあげられます。
(それをサボって飲んでしまったのなら、「ほらみろやっぱり」と言うだけです)。

もちろんこれを一生続けるわけにもいかないので、そのうち別のことを始めねばなりませんが、それはその時が来てからのことで、今心配することではありません。

かまやんさんの ブログ に野球の話が出てきて、昔僕も同じ話を聞いたのを思い出しました。

野球はボールをバットで打って、前に飛んだら一塁を目指すスポーツです。一塁に達したら二塁、三塁を目指します。それを、なんでボールを打たなきゃならんのか? なんで一塁に行かねばならんのだ、二塁や三塁をいきなり目指しちゃいけないのか? などと言っていると、みんなと一緒に野球ができず、ひとり淋しく過ごすかないわけです。

理屈はわからなくても全然構いません。本塁と一塁の間がなぜ約27メートルなのか、知っている野球選手がどれだけいるでしょう? あれに理屈はないのですね。それが「ちょうどよい」長さだったからにすぎません。同じように、仮スポンシーの彼にとって毎晩ミーティングに行くのが「ちょうどよい」というだけの話です。素直にミーティングに通っているから見込みがあるわけで、うだうだ言うようなら面倒を見ないだけの話です。

では、うだうだ言っているだけのヤツには、どう対応したらいいのか?
それは冒頭のとおり、説得を試みても時間の無駄です。放っておいて自分の好きにやってもらうしかありません。今飲んでいてもいなくても、いずれ「アルコールに説得され」ますから、その時に僕らが役立てるチャンスが来るかも知れません。飲まずに一生過ごせるなら、僕らの用はないわけですし。

放置プレーも立派な介入技法なんですってば。


2009年10月08日(木) 「自信」について

「ぼくは自分が指導者になったところを空想した。ぼくほどの統率力があれば、巨大な企業のトップでも務まる。絶対の信念を持ってうまくやれるはずだ」

「酔っぱらってくると、いまにきっと勝ってやる、という昔から持っていた固い信念がよみがえってきた」(第1章 ビルの物語)

自信については 以前にも書きました

世の中の不公平に敏感である(「会社が病気に無理解なのが悪い」とか)、
小さな勝敗にこだわる(「俺だけ酒を飲まないのにワリカンかよ」とか)、
一人前扱いされないと気が済まない(「上から目線で見下されてる感」とか)。

こうした傾向は「自分に対する自信のなさ」から来ています。自信がないから虚勢を張り、虚勢を張り続けるから精神的に疲れ、疲れが無気力を呼び、それを「うつ」症状だと訴えます(でも、本当のうつではないから楽しいことはできる)。

自信のなさは時に人生まで変えてしまいます。例えば、酒のせいで仕事のトラブルを起こし、一時的にマイナスの評価を食らってしまった。努力を続ければ後日失地回復できるのは明らかですが、自信のない人は目の前のことにこだわります。「会社が俺を信用してくれない」とか「この会社にいても一生昇進の見込みがない」などと言って退職してしまいます。

自信がない人の夢は大きい。貧弱な自己像の裏返し(補償作用)です。ビルも大きな夢を描いていますが、誇大妄想狂だったわけではなく、単に自信がなかっただけです。そして、自信のない男にとって、酒の酔いの与えてくれるかりそめの自信、解放感、万能感ほど心地よいものはありません。

ではこういう人間が、酒で惨めになったから、今度は酒をやめれば楽しく生きられるでしょうか? 誰かが書いていましたが、「回復」とはいうものの、元々持っていない能力は取り戻しようがありません。酒をやめても元の虚勢と緊張の状態に戻るだけです。

だから、単に酒をやめるだけでなく、自分を変えることもしなければ、本当の意味で酒をやめたことにはなりません。酒による解放感を必要としているうちは、ガマンの断酒が続きます。元々ガマンができない性格なので、ガマンの断酒は長くは続きません。

では、どうしたら自信が持てるのか? 自分で決心すれば自信が持てる、ってわけにもいかないのです。

いろいろな手法が考えられますが、例えば「失敗したところにとどまって、小さな成功をする」ことは肝心です。テニスで失敗した人が、サッカーで成功しても、テニスに対する苦手意識を克服することはできません。女性が苦手な男が、同性愛に走っても、女性に対する自信を得ることはできません。

元々(テニスや女性が)苦手な分野だったのですから、踏みとどまって努力しても大きな成功は望めません。でも小さな成功(女性とデートできただけでも、テニスのボールが前に飛んだだけでも)を得られれば、それは自信の土台になります。その人にとって失敗の意味合いも変わってきます。

だから、失敗した場所から逃げない、ということは、断酒継続にとって大事なことなのです。仕事で失敗したことは、仕事で取り戻さなければ意味がないし、別の仕事に移ったところで、自分が変わらなければそこで同じことの繰り返しです。

自分を変える(問題を解決する)ことが、断酒の「手段」であることを理解していただきたいのですよ。

「自信が持てない」―現代の「ウツ」に潜む悩み
http://diamond.jp/series/izumiya/10020/"


2009年10月06日(火) 新時代の日本的経営の反省

製造業に関わっていると日々実感するのですが、日本でモノを作ることはとっても高コストです。だからといって、工場を海外に移転するのも簡単ではありません。現地情勢や為替の変動リスクがあるからです。まして、モノではなくサービスを提供する企業は「海外で作って日本で売る」というわけにはいきません。

何が高コストかと言えば、何もかも高コストなのですが、中でも目立ってしまうのが人件費です。例えば日本とアジア諸国では、人件費が30倍、100倍と違います。日本が高すぎると言うより、向こうが安すぎるんですけどね。まあ、それはともかく。

20世紀の日本では終身雇用かつ年功序列が主流でした。1980年代から、アメリカ式の能力主義とか転職がもてはやされていたものの、家族的経営主義はなかなか変化しませんでした。そのように企業が従業員家族の生活保障を背負っている状況では、人件費を下げたくても、なかなか賃金カットはできません。

それを変化させたのが、1993年の平岩レポートでした。これは経団連の会長だった平岩氏が細川首相の諮問に答えて提出したレポートで、バブル崩壊後の経済再建のために旧来の様々な規制の緩和を訴えました。その中に、「参入しやすく、転職しやすい(柔軟な)労働市場を形成する」という一文があります。

さらに1995年には、日経連が悪名高い「新時代の『日本的経営』」というレポートを出し、従業員を三つのグループに分けることを提唱しました。正社員グループ(管理職総合職の終身雇用昇級有り)、契約社員グループ(専門職の年俸制有期契約、昇級なし)、そしてパートや派遣のグループ。従業員カースト制度みたいなものです。

実際1996年頃から、企業は「リストラ」の名の下に人件費の圧縮を進め、政府もこれを後押しする政策(たとえば1999年全業種への派遣解禁)を取りました。小渕内閣の財政出動によって景気は好転し企業は潤ったものの、(民間の)給与所得は減り続け「実感無き景気拡大」がその後も続きます。(最後にはリーマンショックによって「仕事があるだけまだまし」状態になってしまいます)。

こうして、新しい日本的経営によって「労働力の弾力化・流動化」が進められた結果、貧困は拡大し、国内市場はますます冷えてしまいました。結局企業にとってもいいことはなかったのです。

ここまでが前説。戦後の一時期を除き日本の自殺者数はずっと2万人ちょっとでした。これはバブル崩壊の時も増えていません。ところが1998年にぴょこんと3万人を突破し、その後そのまんまです。
また、自殺者数の年齢別グラフを作ると、男性では20代と高齢者が多く、子供と中年が少ない「N字型カーブ」を描いていたのですが、近年では中年男性の自殺が多い山形グラフになっています。完全失業率と自殺率の年次推移グラフには両者の相関が見られます。生活苦で自殺を選ぶのは中年男性ということです。

国民新党の亀井君が、家族殺人が増えているのは企業の責任と言って物議を醸しました。政治の責任のがれという感じもしますけどね。十年ほど前に「これから日本では犯罪が増える」と予言した人がいました。現状は(日本的)持てる人々がノブレス・オブリージュを放棄した結果だとも言えます。

今年の自殺者数のデータは来年にならないと出ませんが、今年から月ごとの数が発表されており、去年より増えたことは間違いなさそうです。
鳩山君の友愛政治に期待しますか。


2009年10月04日(日) 中川君の死に思う

中川元財務大臣が亡くなったニュースが流れています。
脱穀の作業中に、仲間からのメールで知りました。

もうろう会見の後に大臣を辞任、総選挙を迎えるに当たり周囲の勧めもあって断酒宣言。しかし落選後は再び飲むようになり、不眠を訴えて薬をもらっていたそうです。死因は循環器系の異常(アルコール性心筋症)だとか。

彼の死を「酒飲みがまた飲んで死んだ」で片づけるのは簡単です。

アル中は飲めば死ぬのですが、自分は例外だと思っている人は意外と多いものです。
AAメンバーでも「自分がスリップ(再飲酒)することがあっても、その時はもう一度AAでがんばります」なんて真顔で言う人がいます。飲んで生き残れるとは限りませんし、命までは取られなくてもAAに戻ってこられるとは限りません。
今の気持ちが「飲んでも戻ってくる」であっても、飲んでしまえば違うことを考え出すわけですから。

実際、AAで何年かやった後に飲んでしまって戻ってこない人はたくさんいるのですが、自分はそうなるとは思いたくないものです(でも可能性はある)。

今回得ているソブラエティが、自分の優秀の証明のように思うのは間違いです。断酒できたのは運が良かったからで、自分が優れていたからではない、という真実に目を向けるのは嫌なものですが、それをしなければ今のソブラエティを大事に守っていこうという気にはなれないでしょう。

もう10年くらい前のことです。ミーティングで司会を頼まれて、どんなテーマでもかまわないと言われたので「今度飲んだら死ぬかもしれない」というテーマにしたことがあります。その時10年以上のメンバーから「自分の場合にはそれはないと思う」と言われて、驚きました。

今度飲んだらやめられずに死ぬまで飲み続けるかもしれないのです(というか、その可能性の方が高い)。いつでも、何度でも手にはいると思うからこそ、人はソブラエティを粗末に扱います。

アル中には飲んでいる期間と、やめている期間があります。飲んでいる間に起こしたトラブルが自分の人生をダメにしたと思っている人は多いのですが、やめている間にやったこと(ソブラエティを粗末にしたこと)のほうがはるかに影響が大きいわけです。


2009年10月01日(木) 加害者性の獲得(その3)

暴力は被害者意識から発生する。

例えば神戸の震災の後性犯罪が増えました。地震という自然の暴力にさらされた影響が、自分より弱い者への暴力となって表出したのです。もちろん被害者意識が暴力を生むという図式は、暴力の一面をとらえているにすぎないのですが、DVの状況をよく説明してくれます。

人間は自分の理想とする状態と、現状とのギャップを埋めようと行動します。DV夫が妻に対して被害者意識を抱くのは、妻の行動が彼にとって望ましくないからで、その状況を修正するために暴力という手段に訴えるわけです。

それはちょうどアル中が、周りの人の行動が彼にとって望ましくないために、被害者意識から恨みをいだき、状況を修正するために相手を傷つける(迷惑をかける)行動に出ている図式とぴったり重なるわけです。

その行動様式からは想像しがたいことかもしれませんが、DV夫は妻と仲良くできることが理想だと思っており、アル中も周りの人と仲良くやりたいと思っているのです。しかし被害者意識を基盤に行動を決定している以上、彼らは不適切な行動を選択し続けます。

DV加害者プログラムでは、被害者意識の発生する個々の場面を想起し、そこにどんな信念が働いているか明らかにしていきます。被害者意識は彼の理想の実現に何の役にも立っていないことが明らかになっていきます。

AAのステップ4・5における棚卸しでも(ビッグブックのやり方では)、恨みを抱く相手との個々の場面の中で、自分が不当に扱われたと感じる仕組みを探っていきます。自分の満たしたい欲望(社会的、身体精神的、性的)が制限されたときの自分の反応パターン、そして代わりにどんな感情・行動が適切だったかを知っていきます。

どちらも、当人の行動とは裏腹に、心の中では仲良く平和にやりたい願望がある前提です。良くなるためには良くなりたい願望が必要なので、当然の話なのですけど。

被害者意識は不幸な状況の原因を他者に求めます。なぜなら被害者は正義だからです。しかし認知行動療法では、状況修正の責任は自分にあるわけです。

反省、あるいは被害者性を通じた他者の痛みへの共感という、どちらかといえばマイナスの感情を動機とするよりも、幸せになりたいという正の動機に基づく行動が評価を得て強化されたとき、人は(比較的)短期間に変わりうるのだろう、そんなことをシンポジウムのあいだじゅう考えていました。

そして個人的な経験をふまえれば、より深い反省は「変化が起きた後でこそ」可能なのであって、深い反省が深い変化を引き起こすわけではありません。

昔からAAでは言ったものです。「あなたの言葉も信じない、あなたの涙も信じない。ただあなたの行動だけを信じます」。反省の言葉や涙が、本当に心の奥底からのものであっても、それが何のあてにもならないことは、経験的に知られていたのです。


もくじ過去へ未来へ

by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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