心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
もくじ過去へ未来へ


2005年11月30日(水) 真っ赤なドキュメント

昨日上司にメールで送りつけたレポートは、案の定真っ赤な字でたくさんのコメントを付加されて突き返されました。やっぱり自分には協調性というものが不足しているなぁと実感させられる出来事でありました。

「AAのステップは理想を述べたもので、仕事をしていく上ではステップなんて応用できない。謙虚だの今日一日などと言っても世間では通用しない」というような意見を耳にすることがありますが、僕はそういう考え方には賛同できません。
たしかに仕事というものには、自分の利益を確保するために、他を押しのけねばならない側面があることは否定しません。でも、「自分さえよければよい」という行動に傾くと、結局自分の利益にはならないものであります。かといって、自己犠牲に傾けば、生活していくだけの金銭を獲得することすら困難になってしまうでしょう。
つまるところ、すべての事柄はつながっているのだということを意識しつつ、バランスの取れた行動を選択していくというが目標になるのでしょうが、それこそがステップの要求しているものだと思うのであります。

さて、先日日曜日に「サンタの○庫」でプリンターを購入しました。
ここのところ5年ばかり、裏紙印刷専用のプリンターにはキヤノン製を使ってきました。なぜキヤノン製を使っていたかというと、インクカートリッジの使い回しができるからです。リフィル(再充填)インクを使って、印刷コストを抑えようとすれば、インクカートリッジは、家にある何台かのプリンターで使い回しができたほうがいいにきまっています。

1990年代のキヤノン製プリンターは、プラスチック部品が多くて、コンパクトで軽くてよろしいのです。しかしその反面耐久性に乏しく、機械的に摩耗してしまうという壊れ方をしました。ただ中古品が安価に出回っていた(数百円で手に入った)おかげで、とっかえひっかえ使ってきたわけであります。

ところが最近になって、そうした古いプリンターが中古屋から姿を消してしまいました。けれど、同時代のエプソン製プリンターは、まだ店頭に飾られていて、今後のタマも十分にありそうです。

思えばキャノンにこだわったのはカートリッジの再利用が理由です。しかし、以前と比べて僕の印刷する紙の枚数はずっと減ってきました。以前は「画面で読むと肩がこるから」という理由でホームページもなんでもかんでも印刷してから読んでいました。メールを書くにしても、長い場合にはいったん印刷して推敲していたりしたものです。何百枚にもなるプログラムコードを印刷して、それを綴じて持ち歩いていたりしました。

でも最近は、カラーで構成されたページが増えてウェブページを印刷するとカラーインクを大量消費してくれるようになり、滅多に印刷しなくなりました。メールは書きっぱなしで送ります。最近は紙にプリントアウトされたコードを読んでいるプログラマーも見かけません。

というわけで、しばらく前にPM-670Cを500円(税込み)で、日曜日にはPM-760Cを2千円あまりで入手して、キヤノン製を置き換えることとなりました。いずれも別に買ったインクカートリッジのほうが高かったです。

キヤノン製と違って、エプソン製は金属部品が多く、ちょっと重くて大きいのが欠点ですが、機械体としてはしっかりしているので、今後何年もつきあっていけるのではないかと思っています。


2005年11月29日(火) 仕事に復帰

今日は仕事に行きました。
出社すると(午後から出社のくせに)さっそくメンバーを召集して会議を開始し、2時間の後に散会、その会議のレポートの下書きを全員にメールで送りつけて「今日中に目を通して返事をくれ」とコメントしておき、返事が返ってきたところでレポートを上司にメールで送信。ちょうど夕方になったので上司からの返事も待たずに帰ってしまいました。
こんなふうに自己中心的に仕事をしていると、きっといつか周りの誰からも相手にされなくなってしまうんだろうと思うのであります。
しかし、いまの自分には周りに気を配っている余裕がありません。

先週の金曜日にZIPディスクの中身が壊れました。このZIPディスクには、個人的なプログラムだとか、「心の家路」のHTMLファイルだとか、消えても死にはしないが、消えるととってもさびしくなるデータが詰まっています。
新しいディスクをフォーマットして、古いディスクからデータのサルベージをして、およそのデータがリカバリできたのが今日の夜です。さあ、できたデータをバックアップしておこうと思ったら、またZIPディスクの中身が壊れ、ここ数日の作業は水泡に帰しました。
どうやらZIPドライブが壊れているようで、つっこむディスク、つっこむディスク片っ端から壊してくれるようです。
もう前世紀の遺物であるZIPドライブとはお別れの時期が来たのかもしれません。
(そういえばアイオメガに注文したドライブはまだ届かないぞ)

代わりのメディアは何にしようかと悩むのであります。
USBメモリは安くて良いのですが、意外と取り回しが面倒なのと、小さすぎて紛失するという難点があります。iPod miniだとかナノだとか、あんなにちいさくてなくさないのか不思議であります。
無難なところではコンパクトフラッシュでしょうか。
会社の同僚に尋ねてみると、ノートパソコンをどこへ行くにも持ち歩いている人、ZIPからリムーバブルハードディスクに乗り換えた人、相変わらずフロッピーディスクで事足りている人、さまざまでした。

そういえば妻の退院の日付が決まりました。12月7日に内科の診察を受けて、そのまま一時退院してくるそうです。一時退院とは言っても、荷物は全部持って、ベッドを明け渡しての退院です。12日(月曜日)に精神科の外来を受診して、問題なければ正式に退院ということになるそうであります。

ただ、子供たちに「ごまちゃんの大冒険」を話して寝かせる習慣は、今後も続いていくのかも知れません。


2005年11月28日(月) 仕事を休み

仕事を休んでしまって、ついでにミーティングも休んでしまいました。

さて、子供のPHSですが、端末の値段は8,800円でした(税込み)。もちろん1円という端末も隣には並んでいたりするのですが、そういうのは月額基本料金が数千円するのであります。「安心だフォン」は月額料金が980円で、なおかつこれが2台目の契約なので、基本料金が400円値引きになります。しかも「無料通話分」という名前のミニマムチャージがなく、完全従量制であるところもお気に入りです。

ところで、仕事を休んだからには、布団で寝ているわけですが、ただ寝ていてもつまらないわけであります。テレビをつけてみても、見慣れないものばかりであまりおもしろくはありません。
しかたなしに、買ったまま読まずにたまっていた少年サンデーをまとめて読破しました。
マンガの週刊誌ですら、読まずにたまってしまう生活・・・なんとか考え直さないと。


2005年11月27日(日) 子供にPHS

「無限回廊」という名前の戦前戦後の猟奇殺人ばかりあつめたサイトを読んでいました。
そして、新聞を読めば、小学生が殺されたという事件がまた紙面を覆っています。
不審者の情報があったのに、詳細が父兄には知らされていなかったと学校や警察が指弾されています。曖昧な情報は不安をあおるだけで、役に立たないと言うことでしょうか。

実は長女次女の通う小学校周辺でも不審者騒ぎはあります。例えば「某ファミリー・レストランの周辺で、片手に人形、もう一方の手に包丁を持って、顔をマスクで覆っていた若い人物が発見された(男女は伏せられてます)」というような情報がまわってきます。

けっこう具体的なんだけれど、だからどうするという具体策がでるわけでもありません。

長女にPHSを持ってもらうことにしました。といっても、学校にケータイを持っていくのは禁止されているので、防犯には役に立たないかもしれません。

「安心だフォン」という電話は3カ所しかかけられない端末です。そのかわり基本使用料が980円で、通話料金は標準料金が適用されます。メールなどは3カ所以外にも自由に送れます。

しばらくは、このPHSのネタで書こうかな。


2005年11月26日(土) 寝る日々

木曜の夜も、金曜の夜も、仕事帰りに眠くなって、途中のパーキングエリアでラーメンを食べた後に寝てしまいました。そうやって夜遅くまで寝てから帰ってきて、自分一人用に風呂を入れて入るのであります。そして、洗濯をして、アイロンをかけるのであります。

今日は約束通り子供たちとハリー・ポッターのDVDを見ることにしました。
しかし疲れがたまっていて眠かったので、布団をひいて、その中に横になって見ていたら、途中で寝てしまいました。気が付くと映画は終わっていて、子供たちは母屋に戻っているのでありました。

用意しておいたポテトチップスとポップコーンは、ほんの一握りだけ残されていました。これは子供たちの思いやりの心というか習慣であります。
まだ長女が小さかった頃、僕が自分用にポテトチップスなどを買ってきて全部食べ、空き袋をそこらへんに転がして置くと、彼女がそれをみつけて「私の分がない」と泣くのでありました。かといって小さな子供に菓子をあまりたくさん食べさせるのも問題なので、ほんの一握りだけ袋に残して置いておくことにしました。それが発端となって、「ほんの一口分」だけを「まだ食べていない人」のために残しておくという習慣が生まれたのであります。
子供たちは、パパは寝ていてまだ食べていないから、少しずつ残して置いてくれたのでしょう。

筋肉から疲れが抜けて起きあがれたのは深夜になっていました。
そしてまたこれから寝るのであります。


2005年11月24日(木) 良いニュース?と悪いニュース

ブログやウェブサイトを開設したというお知らせをいただきながら、なかなかじっくり見に行けていないひいらぎであります。
原因はなぜなのか考えてみますと、午後半日の出勤で一日分の仕事をしているからでありましょう。半日なら半日分の仕事だけしておけばいいのでしょうが、能力いっぱいまで自分を犠牲にしてしまうところが「欠点」なのでしょうね。うつというブレーキがかかるまえに、自分でスピードを制御しないといけないのかもしれませんが、人生全般にコントロール喪失であります。

「良いニュースと悪いニュースがある。どっちを先に聞きたい?」とやるのは、僕の悪い癖で、周囲に大変不評であります。良いニュースから先に話すと「それが良いニュースなら悪いニュースはいったいどれだけ悪い知らせを運んできたんだ!」と言われますし、悪いニュースから先に話すと「良いニュースと言うから期待したのに、ちっともよくない。そりゃ悪いニュースに比べれば良いニュースなんだろうけど」と言われるのが落ちです。

妻の退院が決まりました。来週の水曜か木曜に「一時退院」というかたちになり、退院後にトラブルがなければそのまま再入院はなしということになりそうです。とは言っても、妻のうつの状態に目立った改善はなく、退院が果たして良いニュースなのかは疑問であります。
ただ、まあ周囲の人間に疲労がたまってきているのは確かなので、それを考えれば良い知らせかもしれません。

毎年この時期になると、年賀欠礼のお葉書がやってきます。群馬県からやってきたそれは、50代半ばでの逝去を伝えてきました。しかし、名字と文中の名前をつなげてみても、心当たりのある名前になりません。宛名が僕の名前だけということは、妻の知り合いや妻方の親戚でもなさそうです。
PDAを検索してみて、その名前が群馬の中堅どころのAAメンバーの名前だとわかりました。ふだんはニックネームが通用している世界ですので、本名だとなかなか人の顔に思い当たらなかったりします。長野県にも縁の深かったメンバーです。
それにしても、酒をやめて第二の人生を始めて、そしてそれも50代半ばでついえてしまうとはさびしい限りです。そしてその死を知るのも半年後のはがき一枚というのも。

若い頃は年賀状なんて出さなかったし、欠礼のはがきも父や母が受け取るもので、自分がそういうものを毎年受け取る年齢になるなんてことは考えもしませんでした。しかしいつか自分も、あのときの父母の年齢に近づいてきているわけであります。

今年もインクジェット用の年賀状を100枚買いました。そのうちの半分以上はAAメンバー向けに発送されていくことになります。もう滅多に行き会うこともない、年賀状だけのつきあいの人も多いのですが、お互い飲まずに無事にやっているということをつたえるpingのようなものであります。

そういえば毎年やっている年賀三が日の特別ホームページですが、今年はまだ全然ネタを思いついても仕入れてもいません。どうなることやら。


2005年11月23日(水) サイト運営

最近ホームページのほうはさっぱり更新がありません。
まあ、いちおう12ステップの祈りをひとつひとつ翻訳していますが、12までいくのはいつになるやら。

いままで「心の家路」はだいたい月に何回かの更新を心がけてきたし、日々雑記もなるべく毎日書くよう心がけてきました。
が、最近はそのペースもすっかり落ちています。

まあ、原因は生活の忙しさとうつの両面であります。

自分でも、休みの日に「コタツの上に載っているノートパソコンの電源を入れるのが面倒でたまらない自分」を発見してとまどっております。
僕がパソコンの電源を入れるのを嫌に思うのは、飲んでいた頃、しかも一人暮らしで飲み続けていたころだけでしたから。

だが、うつにも人生にも、麻雀のツキにも、すべて波があるわけなので、そのうちまめに更新されるようになる日も来るでしょう。

地上波のテレビで「ハリー・ポッター」をやっていたので娘と見たのですが、最初の1時間だけで寝る時間になってしまい、まだ見たいと騒がれてしまいました。今度の土曜日にパパの持っているDVDを3人で見ることにして落着しました。
「ほーら、あれがゴブリンだよー、良く覚えておこうね」と教育を施しているのでありました。

野球のシーズンは終わったし、WRCも趨勢が決してもうあまりおもしろくありません。NFLの録画中継を見ています。
昔はこの時期は大学ラグビーを観戦する時期だったのですが、残念ながら長野では放映してくれません。通信衛星を使った「モバHO!」というサービスでは、大学ラグビーの中継を柱に据えているようであります。

さすがに少し痩せないといけません。何かスポーツでも・・と思うのですが、思うばかりであります。


2005年11月21日(月) 寒い

ひいらぎはおたくなので、着ているものはいつもトレーナーです。
寒いと上に何かを着るのですが、普段は会社に行くにも、AAミーティングに行くにも車であり、リモコンエンジンスターターで暖気済みの車に乗り込むわけなので、とくに上着は必要ありません。

しかし僕は、先週末すっかり困ってしまっていました。
髪の毛が伸びすぎたので、駅前の床屋に行って散髪をしてもらおうという気持ちになりました。が・・・、駅前まで歩いていくとすると、どうしても上着が必要です。
まあ、駅前まで車で行って、駐車料金を払ってという手段もありますが、駅前の混雑に拍車をかけるのはあまり好ましくありません。
かといって、上着なしででかけるには寒すぎます。

なぜ上着がないかというと、妻が入院中で、おまけに退院する気がなく、家のことは気にしてくれないので、上着がどこに仕舞ってあるか行方不明なのであります。
もちろん考えられる場所はすべて探しました。が・・・妻が入院する前の時点で、2階への引っ越し作業が止まっていたことを考えると、何がどこに行っているのか、知っているのは妻ばかりであります。
が、「上着はどこだよぅ」という僕の入魂のメールにも返事をよこさないほど、彼女は機嫌を悪くしてしまったのであります。

しかたなく押し入れを探っていると、一度も袖を通したことのないスタジアム・ジャンパーが出てきました。これは昨年の白樺湖のラウンドアップの際に、女性のメンバーが作ってくれたものです。背中におっきなAAのロゴがあり、UNITY/SERVICE/RECOVERYの文字もまぶしいシロモノで、きっとアメリカでは着れたものではないでしょう。
僕もちょっと恥ずかしくて、いままで着ることはありませんでしたし、これからもないだろうと思っていました。

勇気を出して、そのスタジアム・ジャンパーを着て床屋に歩いていきました。もちろん誰も僕の背中を指さして笑ったりしませんでしたし、床屋さんがくすくす笑ったりもしませんでした。

なんだか仲間の愛に包まれているみたいで、とっても暖かかったですよ。
妻の退院まで、上着はこれ一枚で過ごすことになりそうです。


2005年11月20日(日) 仕事

僕の仕事はコンピュータープログラマーでありますが、ではいったい何のプログラムを組んで口に糊しているのかと問われることがあります。若い頃はゲームプログラムを組んだこともありますし、パソコン用のワープロソフトを組んだこともあります。CADのソフトの部品を組んだこともあれば、保育器の温度制御プログラムを組んだこともあります。Windowsのデバイスドライバを組んだこともあれば、モーターを駆動するプログラムを組んだこともあります。
要するに何でも屋であり、何が専門でもないしがないプログラマーであります。
世界で一流と呼ばれるプログラマーはおよそ千人ぐらいだろうと言われています。その下に二流と呼ばれる人がいて、僕はその下の三流ぐらいで、頼るものといえば腕の確かさではなく、経験値の多さである、ちょっと情けないエンジニアであります。

ここのところ十数年は、おもに工場で使われるソフトを組んでいます。日本の(いや最近では中国やマレーシアやフィリピンでも)工場で作られる製品は、厳しい検査を受けます。完成品だけでなく、部品の段階から検査は徹底して行われます。
1個10円の部品を検査して不良だとわかれば、その部品は捨ててしまうわけです。資源的にはもったいないかも知れませんが、まあ経済的には10円であれば致し方ないとも言えます。ところが、組み立て工程が進んで、(部品代と工賃がかかって)千円の部品に成長したときに、それを検査して不良品だとわかっても、やっぱりその部品はたいてい捨てられてしまうわけです。千円の部品を分解して、不良部品を突き止めて、組み立て直し、再度工程に混ぜるということはあまり行われません。そんなことをさせるためには日本人の人件費はあまりに高くなりすぎてしまいました。また海外の工場でも、そこまで工員を教育させてまでしたら、コストメリットがなくなってしまうでしょう。

検査といってもいろいろな手段があります。機械的に長さや重さを量ることもあれば、電気を流して特性をは計る場合もあります。X線で内部にひびが入っていないか見ることもあります。そんななかでもっともポピュラーなのが、人間の目で外観に異常がないか検査するという目視検査があります。
検査のような、単純でありながら注意力が必要で、同じ作業を一日忍耐強くできるというのは、女性に限られるようです。きっと脳みその作りが違うのでしょう。
それにしても、人間でありますから、お昼ご飯を食べれば眠くもなれば、晩ご飯のおかずを考えていれば集中力をなくすはで、何らかのミスがあるのがあたりまえで、不良品が後の工程に流出してしまうということがおこります。
そこでそういうことはコンピューターにやらせようという考えが生まれ、不運にも僕のようなプログラマーがそういう業界に吸い寄せられて来てしまうというわけです。
僕の役目は、CCDカメラで撮影された製品の画像から、良品と不良品を分けるソフトを組むという、きわめて曖昧模糊とした目標を設定されたプログラムを組むことです。

人間の頭脳というのは、(ときどき眠くはなるものの)いかに高度な情報処理をしているかということは、同じことをコンピューターにやらせようと考えるとわかるのであります。

来週の月曜日から製造機械の組み立てを始めるので、貸し出した光学部品を「月曜日午前必着」で返却してほしいという話がきたのが金曜の午前中でした。光学系を返してしまえば、像が写らず仕事にもなりません。つまり、僕の仕事の納期はいきなり金曜の夜までに縮まりました。
まあ文句を言っても始まりますまい。メールの向こうの相手も、電話の向こうの相手も、無茶な開発日程やら、製造日程やらに追いまくられているのですから。

月曜からずっとうつの具合が良くなく、ウコンの力 ウコンエキスドリンクを飲んでがんばってきたのですが、そこへさらに「ショコラBBローヤル」を飲んで、なんとか金曜の夜には仕事を仕上げたのでありました。

その反動か、この土日はほとんど布団で寝ている生活でありました。
いざって時に無理をきかせることで、普段あんまり熱心に仕事をしてない帳尻を合わせているわけなんですが、さすがにそういう仕事スタイルでは身体がついていかなくなっていることを感じるのでありました。


2005年11月17日(木) 入院的経験の諸相

日付指定を間違えたせいで、日記の投稿(書き込み)スクリプトが異常動作をしてしまいました。

はてさて、実家に泊まるにあたって、どうしようかと悩んだのがノートパソコンのインターネット接続でした。いつもはこうしたときのためにPHSを利用しているのですが、いまそのPHSは入院中の妻の手元にあります。
もう一台PHSを購入しようかとも思いました。最近ウィルコムは定額プランの案内をしているし、音声もデータ通信も定額になると宣伝をしています。しかし店頭で詳しく聞いてみると、パソコンを接続してのデータ通信は別枠で、月々最大6,300円の課金になると言います。それに端末も1万数千円の値札が付いていました。
これだったら、手持ちのAirH"の端末を持ち込みでデータ通信専用のプランで契約した方がよっぽど得だと思って、買わずに帰ってしまいました。

結局携帯電話で接続することにしたのですが、深夜はau.netの網が混んでいるのか、メールチェックもホームページの閲覧もなかなか進まずに、諦めて切断して寝てしまいました。

それにしても、妻の入院が長引いています。本人が退院したがっていないのが、最大の理由かも知れません。
だいたい精神病院というのは居心地の良い場所ではありません。少なくとも僕の入院の経験では、部屋の中はカーテンで区切られておりはせず、看護婦の数もふつうの病棟より少なく、医者に談判しようにもなかなか時間を割いてもらえず、入浴はせいぜい週2〜3回で、それも中で大便をたれる輩がいるので、その被害を被らないように、時間になったら先を争うようにして入るのが常で、食事の味付けは濃くして食材の安さを隠し・・・といったような具合です。

そんな環境に妻を入院させたらかわいそうだと思って、わざわざ入院待ちまでして大学病院を選んだのであります。
部屋は4人部屋でベッドごとに(内科などと同じで)カーテンで区切られ、ベッドサイドにはテレビがあり、日に2回はインターンの医師が見回りに来てくれ、看護婦の数は他の病棟と変わらず、入浴は空いている時間であればいつでもホテルの部屋式のお湯を使い捨てる風呂に一人でのんびり毎日でも入れ、食事は普通食をAとBの好きな方から選んで食べることができ・・・。

「お昼ご飯をたべて、お風呂にはいると、やっとしゃっきりするのよ」

と妻はのたまうのでありますが、正直言ってこちらは、体も心も疲れ気味で、できることなら立場を入れ替えて欲しいと思ってしまうわけであります。
ああ、こんな至れり尽くせりのところを選んでやるんじゃなかったという恨みの感情も生まれます。

12月中旬の長女の誕生日までには退院して欲しいと願っているのですが、「その前後には外泊を取ったから」というメールが来て立腹している次第です。

ああ、神様、私にお与えください。変えられないものを・・・。


2005年11月16日(水) 入院的経験の諸相

日付指定を間違えたせいで、日記の投稿(書き込み)スクリプトが異常動作をしてしまいました。

はてさて、実家に泊まるにあたって、どうしようかと悩んだのがノートパソコンのインターネット接続でした。いつもはこうしたときのためにPHSを利用しているのですが、いまそのPHSは入院中の妻の手元にあります。
もう一台PHSを購入しようかとも思いました。最近ウィルコムは定額プランの案内をしているし、音声もデータ通信も定額になると宣伝をしています。しかし店頭で詳しく聞いてみると、パソコンを接続してのデータ通信は別枠で、月々最大6,300円の課金になると言います。それに端末も1万数千円の値札が付いていました。
これだったら、手持ちのAirH"の端末を持ち込みでデータ通信専用のプランで契約した方がよっぽど得だと思って、買わずに帰ってしまいました。

結局携帯電話で接続することにしたのですが、深夜はau.netの網が混んでいるのか、メールチェックもホームページの閲覧もなかなか進まずに、諦めて切断して寝てしまいました。

それにしても、妻の入院が長引いています。本人が退院したがっていないのが、最大の理由かも知れません。
だいたい精神病院というのは居心地の良い場所ではありません。少なくとも僕の入院の経験では、部屋の中はカーテンで区切られておりはせず、看護婦の数もふつうの病棟より少なく、医者に談判しようにもなかなか時間を割いてもらえず、入浴はせいぜい週2〜3回で、それも中で大便をたれる輩がいるので、その被害を被らないように、時間になったら先を争うようにして入るのが常で、食事の味付けは濃くして食材の安さを隠し・・・といったような具合です。

そんな環境に妻を入院させたらかわいそうだと思って、わざわざ入院待ちまでして大学病院を選んだのであります。
部屋は4人部屋でベッドごとに(内科などと同じで)カーテンで区切られ、ベッドサイドにはテレビがあり、日に2回はインターンの医師が見回りに来てくれ、看護婦の数は他の病棟と変わらず、入浴は空いている時間であればいつでもホテルの部屋式のお湯を使い捨てる風呂に一人でのんびり毎日でも入れ、食事は普通食をAとBの好きな方から選んで食べることができ・・・。

「お昼ご飯をたべて、お風呂にはいると、やっとしゃっきりするのよ」

と妻はのたまうのでありますが、正直言ってこちらは、体も心も疲れ気味で、できることなら立場を入れ替えて欲しいと思ってしまうわけであります。
ああ、こんな至れり尽くせりのところを選んでやるんじゃなかったという恨みの感情も生まれます。

12月中旬の長女の誕生日までには退院して欲しいと願っているのですが、「その前後には外泊を取ったから」というメールが来て立腹している次第です。

ああ、神様、私にお与えください。変えられないものを・・・。


2005年11月15日(火) 宗教的経験の諸相

スポンシーのひとりと月曜日のミーティングの前にやっているビッグブックの読み合わせも、医師の意見から始めて、第2章が終わるところまできました。

第2章の終わりのところには、ウィリアム・ジェイムスの『宗教的経験の諸相』という本の名前が挙げられています。ビッグブックが書かれたのは1930年代のアメリカですから、その本はたまたまその時期に有名だった本であって、それが日本で出版されているわけはないという思いこみがありました。

しかし調べもせずに自分の考えが正しいと思うというのは、いつも誤りの元です。
とあるメーリングリストで、その本が岩波から出ていることを知りました。

で、とりあえずamazon.co.jpで調べてみると上下巻とも在庫切れでありました。アマゾンでは「マーケットプレイス」という名前で中古本の売買仲介もやっています。上巻のほうは定価と同じぐらいの出品がみつかりました。古本なのに定価と同じというのは釈然としませんが、新刊書店で在庫切れなんだから仕方ありません。注文したところ、数日後には到着しました。問題なのは下巻のほうで、コンディションが「非常によい」かわりにお値段も\2,980と定価の3倍をふっかけている出品しかありません。

さすがに文庫本に3千円は出し過ぎだなぁと思ったので、日本の古本屋 で探したところ、500円というのがみつかりました。が、注文して3日過ぎても返事がありません。

そこで思い出したのが、紀伊国屋BookWebという新宿・紀伊国屋がやっているオンライン販売です。これで念のために探してみたら・・なんと新刊の在庫がありました。ついでに「失われた週末」の廉価版(980円かな)があったので一緒に買うことにしました。

そうしたら、「在庫がないので出版社から取り寄せになる」という連絡が来てびっくりです。アマゾンで在庫切れ=絶版ではないわけですね。当然出版社に在庫があることもあるわけです。そういえばamazon.co.jpでは英語版のビッグブックも時々品切れです。

そんなところに、日本の古本屋で頼んだ下巻が、いきなり冊子小包で届きました。
そんなわけで、下巻は2冊になってしまいそうです。

明日・あさっては、一人で実家に里帰りの予定です。
たまにはパソコンを離れて、のんびり読書でもしてみますか。


2005年11月13日(日) Equipments

アイオメガのアメリカのサイトで、ZIPドライブのアウトレットをやっていたので、オンラインで購入したのは、先月、いやもう先々月のことだったでしょうか。
すでにクレジットカードで決済も済み、あとは到着するのを待つだけという状態です。
なぜこんなに到着が遅いかというと、船便を指定したからであります。

アイオメガのサイトでは船便でも2週間ぐらいで届くとありましたが、Hazeldenで本を買ったりした経験からすると、3〜4ヶ月かかるのがふつうです。もし、半年待っても届かなかったら、英文でクレームのメールを書いたり、場合によってはクレジットカード会社に連絡して支払いを止める(というか返金を頼む)必要があります。そうならないことを祈るばかりです。
しかし、クレジット会社の海外使用のクレーム受付はいつ電話してもつながらないのであります。試しに国内でのカード使用のクレーム受付へかけてみるとすぐにつながります。それだけ国内でのカードトラブルは少なく、海外でのカード使用にはトラブルが多いということなのでしょう。

さて、PDA(個人情報端末)としてはPalmを長いこと使ってきました。
主にAAメンバーの電話番号その他の住所録を格納したり、スケジュール管理をしたり、ときには電車やバスの中で簡単なメモを書いたりと活躍してきました。
しかし現在使っているParmVxが、ディジタイザの位置が完全にずれてしまって、まったく使えなくなってしまいました。
このシリーズの新品が販売終了になってずいぶんとたちますが、壊れる(orなくす)たびにヤフオクで中古品を買って、データを引き継いできました。

今度も中古品を買って・・と思ったのですが、最近は中古でコンディションの良いものがなかなかないのが実情です。いっそのこと、新しいPDAをという気持ちもあります。
そういえば、シャープがLinuxを使ったPDAを出していなかったっけ・・・。
物欲に支配されるひいらぎであります。

話は変わって、ウィリアム・ジェイムスの『宗教的経験の諸相』(上・下)を古本で買いました・・・、がもう眠いので、その話はまた明日。


2005年11月10日(木) 異常な食べ方

水曜日のホームグループのミーティングの後、24時間やっているスーパーマーケットで、子供のためにお菓子や、自分のために夜食用のラーメンなどを買うのが習慣になっています。
最近は外食中心のせいか、体重が漸増状況にあるため、カップラーメンならぬカップはるさめにシフトしていたりします。

スナック菓子類は、自分のために「ナッツとクラッカー」というのを一袋、子供たちのためにそれぞれチョコレート菓子をひとつずつ買いました。「ナッツとクラッカー」は一週間かけてゆっくり消費する心積もりでおりました。

この「ナッツとクラッカー」というのは、アーモンドを主体に、ピーナッツとクラッカーが混じっている菓子です。塩味がきいていて、なかなか美味しいのです。こいつを夜寝る前に少しだけ食べようと、袋を開けました。
が・・、食べ始めたら止まりません。袋の裏を見ると700Kcalと書いてあります。こいつを一晩で食べてしまったら、ちょっと問題だな、と思いながら、もう少し、もう少しと食べ続けてしまいまして、結局空っぽにしてしまいました。

さらに飽きたらず、子供用に買っておいたアーモンド・チョコレートを開封すると、半分ぐらい食べてしまって、やっと眠りにつきました。

翌朝(つまり木曜の朝)、起きてみると、異常に胃がもたれています。こんな不快感は飲んでいたころ以来です。幸い吐く必要は感じませんでした。が、問題は逆方向に発生しました。

通勤のために高速のインターに向かっている途中で、お腹が痛くなり、「これは途中のパーキングエリアまで我慢したら交通事故を起こしてしまう」と判断して、TSUTAYAのトイレにかけこみました。おかげで大遅刻であります。会社でもだいたい3時間おきにトイレに行く羽目になりました。うーん。おしりが痛いよう。

が、どんなに気持ち悪くても、昼食を胃に収めることができるのは、毎日二日酔いだったころに身につけた能力(?)であります。偉くはないか。

アーモンドが胃に過負荷をかけたせいで、胃腸全体が失調してしまったのでしょうか。
ともかく、頭がぼうっとして全般に鬱状態で、仕事に手が付きませんでした。いやまったくひどい一日でありました。
疲れやストレスがたまっていなければ、スナック菓子の食べ過ぎぐらいなんでもないことですが・・・。

しかし思い出してみると、アーモンドをぼりぼり食っている間は、(飲酒ほどではないものの)なんとなく少しだけ幸せ気分だったなぁ、と思うのであります。「この幸せをもうちょっとだけ長続きさせたい」という欲が、アーモンド食べ過ぎの原因だったことは間違いありません。

食べたい欲求に対して無力であり、日々の生活を自己管理できなくなりました・・・とはなかなか認められないなぁ。


2005年11月08日(火) 新聞

新聞を読む機会が多くなりました。
義父母が、読んでいる新聞をローカル新聞から読売に変えました。僕としては、自分が金を出すのでなければ、全国紙ならなんでも歓迎です。
ニュースそのものは、新聞社のサイトなり、YahooやLivedoorのニュースで読むことができます。だから、わざわざ紙の新聞を読む理由は「ニュース以外」ということになります。

読売は最近、刑務所を出所した人の再犯防止の仕組みについての特集を続けています。今日の記事は、幼い頃から母親に虐待を受けてきた男性の話でありました。
こうした話を読みながら思い起こすのは、加藤諦三という人の「自殺する高級官僚、うつ病になるエリートサラリーマン、登校拒否をする子供たち、子供を虐待する親たち、こうした人々は(中には例外もあるが)実は大変まじめな人たちなのだ」という言葉であります。まじめにこつこつやってきたものが報われない。そういう世の中なのかもしれません。
が、こつこつ努力をしても、必ず報われるとは限らないのが世の中であります。

がしかし、努力をして報われて成功することが求められている世の中になっているのかもしれません。落伍者になるのは自己責任だからねと言わんばかりの。落伍者にならないように、大人も子供も必死になっているような世の中のような気がします。実は、落伍したって、何とでもなるというのは、飲まないアルコホリーク業界にいると、自明のようにわかるのですが。

アメリカやフランスは日本より離婚率は高いけれど、家族に対する満足度をアンケートすると、満足していると答える人の割合は日本よりずっと高いのだそうであります。

子供が親の望むものを備えていない、いや親が「世間が子供に望んでいる」と勝手に信じているものを子供が備えていないと、親はちょっぴり、いやかなり寂しくなる。それは本当であります。だが、所詮は自分の子、末は博士か大臣になろうはずもありません。けれど、やっぱり勉強はできてほしいし、将来お金にも困ってほしくないという欲があります。
子供のありのままを受け止めることが、親が幸せになる近道なのかもしれません。なにせ、子供のほうは、親がアル中だろうが虐待者であろうが、それを親と思って離れない(られない)わけですから。

話が新聞からずれました。
で、自分はというと、産経新聞のネット版を読んでいます(朝刊だけだが毎月500円と安いから)。そして、実家に寄ると朝日新聞を読むわけです。
産経と朝日では主張がかなり違っていておもしろいです。朝日が親アジアで弱腰傾向だとすると、産経は対中強行派であります。都知事の文章を載せるのは産経と決まっています(読売にも載ったけど)。
新聞ごとの傾向の違いを知っていて、読む新聞を選んでいるなら、それも自己責任でしょうが、たまたま読んだ新聞の社説なんかを頭から信じてしまったりすると、新聞に自分の意見を振り回されるということになりかねません。

情報化時代になって、情報の選択能力が重要・・・なんて話がずっと前にありましたが、それは紙の新聞の昔から変わらないことでありましょう。


2005年11月06日(日) 適応障害

妻の入院が長引きそうであります。
せっかく入院しているのだからと内科的検査もしたところ、甲状腺の働きが低下していることがみつかりました。それ単独であれば、すぐに治療が必要というわけでもなさそうですが、甲状腺ホルモンの不足は、抑うつ気分に結びつくわけで、(内科医の見解にもよるでしょうが)ホルモン充填をするかもしれません。

うつ病の治療に甲状腺ホルモンの充填をするぐらいですから、ホルモンの追加によって、うつの薬のバランスも取らないといけません。そうしたことを考えると、途中に一時退院を挟んで、まだまだ入院は続きそうです。
本人は気楽そうなのですが、待っている家族は、ジジババにしても子供にしても、そして僕にしても気楽なものではありません。

それから、妻に新しく病名がつきました。「適応障害」です。ネットで調べてみると、雅子様に付けられた病名です(するとおいらは浩宮か)。もともとはパニック障害を背景に、抑うつ気分を主訴とするという状態だったのですが、昨年の僕の失業&就職、上の子の学級担任が原因の学級崩壊(気味)という激動の期間を経て、PTA(や授業参観)に参加できないということから始まって、体の症状、心の症状ともに不調が続いていました。

環境が変化して、その変化について行けていない時に、他の病気に分類できない時につけられる病名のようです。心身症的に体の症状が出る場合もあれば、抑うつ気分が主な場合もあり、場合によっては買い物依存などの行動障害がでる場合もあるそうであります。

子供と一緒にお見舞いに行った後、親子3人でお風呂に入りに行きました。

それからソーシャルワーカーさんと相談して、障害年金の訴求請求が退けられたぶんについては、再審査請求はしないことになりました。これで年金関係の事務処理は終わることになります。


2005年11月05日(土) 山梨へ

AAメンバーと車に乗り合わせてセミナーに行くのは、一昨年だったか新潟へ行って以来になります。
今回集合時間を8時45分にしたのは、現地への到達時刻なんてものは無視して、通勤割引を適用させるために、9時前にETCのゲートをくぐりたかったからであります。むろん、100Kmをオーバーしないインターでいったん降りて、すぐにまた乗り直すということをします。
時間を無視したおかげで、昼食を予定していたサービスエリアに10時に着いてしまい、いくらなんでも昼食には早すぎるだろうということで、そのまま現地に向かいました。

本栖湖畔には11時に到着。昼食を求めて富士吉田方面まで戻ってから、もう一度本栖湖に戻ると12時半ころでありました。

スピーカーミーティングが終わって、ふつうのミーティングが終わる夜9時半までいたのですが、喫煙所でたばこを吸っているAAメンバーと話をする時間以外は、ほとんど24時間ルームで寝て過ごしていました。スピーカーの話は一人半ぶんぐらい聞いただけでした。だって眠かったんだもの。

帰りの車の中で「○○さんの話はよかったね」という話について行けなくて、若干さびしい思いをしました。でも、いつもミーティングを一緒にしていた仲間と車の中で会話しながら行く道中は楽しく、他県のメンバーと久しぶりに(去年の白樺湖のラウンドアップ以来ぐらいに)会えたのも楽しかったです。

こんな僕にも、まじめに会場に座ってスピーカーの話を漏らさず聞こうとしていた時期もあったのですが、いつの間にかAAイベントには「遊びに行く」ようになってしまいました。でもそうやって、「AAの空気」を吸って帰ってくると、しばらくはAAへの信頼感が深まる気がするのは、きっと気のせいではないのでしょう。


2005年11月04日(金) 10 years ago (10) 〜 手遅れだと言われても、口笛...

10 years ago (10) 〜 手遅れだと言われても、口笛で答えていたあの頃

井戸から水をくんで、薪で風呂を沸かさなくても、蛇口ひとつひねればお湯がでてお風呂に入れる。確かに日本は豊かになったんだと思います。またあの薪を割って冬に備える生活に戻れと言われても嫌であります。
だが、薪割りや風呂沸かしに取られていたはずの時間が余るはずなのに、こんなに忙しいのはなんでなのでしょう?
きっと時間泥棒がいるんですよ。

明日は、山梨です。

さて10年前。

通夜の晩は、灯明を絶やさないという風習がありました。
ろうそくの灯を絶やさないように、誰かが見張り番をして起きているのであります。僕はその役を買って出て、そして皆が寝静まった後でこっそり酒を飲むつもりでいました。
しかし、その役目は叔父たちがやるからお前は寝ろと言われました。

じゃあ、叔父たちにつきあって起きていて、彼らが酒を飲むのにつきあおうと思いました。それならおおっぴらに酒が飲めるはずです。しかし、酒は用意されませんでした。「世の中の人のほとんどは毎晩酒を飲むものだ」という思いこみは、僕の(そうであってほしい)という願望にすぎなかったのでしょう。

葬式の日は、禁断症状がピークの日でした。僕は何度シェーバーでひげを剃っても、あごがチクチクするという幻覚に悩まされていました。葬式の席で酒にありつけるだろうという願いはかないませんでした。

親戚中の誰もが、僕がアルコール依存症であることを知っていました。
思えば従姉妹が新興宗教にかぶれ、それを脱会させるためにマンションの一室に隔離(監禁とも言う)させる騒動の時にも、僕は何の役にも立ちませんでした。新興宗教にかぶれる心理について「わかったようなこと」を言って呆れられていただけでした。
前の年に祖母が亡くなったときは、アルコールの専門病院に入院中で、葬式のために外泊にでたものの、電車の中で酔っぱらって帰ってくる始末で、家で泥酔してしまい、葬式の役には立ちませんでした。

「お前がしっかりしなくてはいかん」という無言の圧力が、四方八方からかかっているような気がして、さすがに飲もうという気にはなれませんでした。

集会所を借りた本葬の後、火葬場で待っている間、お骨を拾った後のお清め、自宅に帰った後で近所の人にご苦労様、最後に親戚の人に。都合五回酒の席があったと思います。僕は11月だというのに汗をかきながら、少し震える手でビールや日本酒をお酌をしてまわりました。

もう酒を飲んではいけないのだろうか、それともまた酒を飲む日常に戻ろうか、ただそれだけのことが頭を支配していて、父が死んだ悲しみを感じることはありませんでした。

片づけが終わって、最後に兄が余った酒を酒屋に返しに行くという段取りになりました。僕はこれだけたくさん酒が余っているんだから、一本ぐらいなくなってもバレやしないだろうと思って、一升瓶をひとつ自分の部屋に隠しました。
しかし、母はお見通しだったようで、「一升瓶は18本。持って行ったものを返しなさい」と僕を叱るのでした。

翌日は、その年からかかり始めた精神科医を受診して、こんなふうに禁断症状も出て苦しいのだが、結婚式も迫っているので精神病院に入院するわけにも行かず、「先生何とかしてください」と泣きついてみたところ、「緊急避難的に」ちょっと強めの精神安定剤を処方されました。
「お酒の代わりに、これを飲んで、ともかく結婚式を乗り切りなさい」というわけでした。

吉事の前に凶事があったからお払いをすべきだという話が、どこからともなく出てきて、僕の実家は廃仏毀釈で菩提寺を失って以来、何かあると神主を呼んでいたので、祝詞をあげてもらいました。

安定剤の助けがあったからといって、ともかくその後結婚式まで飲まずにいたのは、やはり父の人生の最後の数日間から酒を奪ってしまったのは、僕の飲酒に問題があったからだと意識していたからでしょう。しかしそうした反省の気持ちも、その後の再飲酒によって「一番苦しいのは俺だ」という考えにかき消されていってしまいます。

そういえば父にあのとき、すごく悪いことをしたな、と思い出すのは、実にAAでの再出発から1年以上経過してからであります。それほどまでに、僕は冷たい人間なのであります。

(この項、おわり)


2005年11月01日(火) 10 years ago (9) 〜 手遅れだと言われても、口笛...

10 years ago (9) 〜 手遅れだと言われても、口笛で答えていたあの頃

日経バイト誌が休刊だそうであります。bit誌もすでに休刊。これからやってくるソフトウェアエンジニアたちは、いったいどこから情報をえるのでしょうか?

さて10年前。

農夫であった父の晩酌は決して贅沢なものではありませんでした。
ビールがあればビールを、日本酒があれば日本酒を、焼酎があれば焼酎を飲んでいました。その日の飯はまずくても、酒さえあればという飲み方でしたから、多分にアル中的ではありましたが、夕に酒を切らしていることに気づいても、決してあわてて買いに出ることもなく、仕方なさそうな顔をして寝てしまう人でありました。

金がないときはホワイトリカーをお湯で割って飲んでいました。梅酒などを造るための酒で、そのまま飲むためのものではないので、アルコール臭い、ただ酔えるだけの液体でした。父にとって酒は体を温め疲れを取るためが第一で、味を楽しむのは二の次であったようです。僕は自分で酒を買いに行くのが面倒になると、父の酒を盗んで飲んでいたので、ホワイトリカーにもずいぶんお世話になりました。

なるべく父の酒を盗むのはやめて、自分で酒を買ってこようとは思うのですが、夜中に酒を切らすとやむなく台所の父の酒を失敬するのでした。翌日の夕になって酒が減っているのを見つけると、父は「夕べは台所に頭の黒いネズミが出たようだ」とつぶやくのでした。

「頭の黒いネズミ」と呼ばれるのはとてもバツが悪いものです。浅知恵を働かせた僕は、失敬したぶんだけ瓶に水を入れ、父の酒を薄めてごまかすようになりました。焼酎やホワイトリカーはともかく、日本酒は水で薄めるととたんに味が変わります。おまけに、薄めすぎると燗をつけるときに沸騰してしまうのでした。
これには父も母も怒りあきれたものでした。
聞けば、兄は高校生の時に同じことをしたそうです。それを30才を過ぎた自分が毎晩やっている愚かしさです。

息子が精神病院に入院するようになっても、父は夕食の席で酒を飲むのをやめませんでした。別に僕もやめてくれとは頼みませんでした。

だが、10年前のあのとき、父はふっつりと晩酌をやめてしまいました。
何日か経ってそれに気づいた僕は、母に尋ねました。
「親父が晩酌をやらなくなったのはなんでなんだ? やっぱり俺に原因があるのか?」

それを聞いた母は、「お前は自分の言ったことを覚えていないのか」と僕をしかりました。
なんでも、母は「どうやったらお前の酒が止まるのか」と自分の部屋で飲んでいた僕に尋ねたそうなのです。そのときに僕は「毎晩毎晩目の前で親父に酒を飲まれて、俺の酒が止まるわけはないだろう」と答えたそうなのです。

それは単に酒が止まらない言い訳に過ぎなかったのでしょう。だが、母は真に受けて、父に「息子の前で酒を飲むのをやめてくれるよう」頼んだのでした。なんと言っても、息子はあと1ヶ月ほどで結婚式を迎え、この家を出て行ってしまうのですから、そう長い辛抱ではないと父も思ったのかもしれません。

「親父は別に酒をやめた訳じゃないだろう。晩酌の代わりに寝床でウィスキーを飲んでいるんだから。こそこそ飲まないで堂々と晩酌をしてくれればいいんだ。冷たい酒は親父も好きじゃないだろう」

僕は父母の寝室から偶然のぞいた光景を、僕は言葉にしてしまいました。

寝室で酒を飲んでいることを息子に知られたと知った父は、その日から寝室で酒を飲むことすらやめてしまいました。

完全な禁酒に入った父とは対照的に、息子の僕の酒は止まりませんでした。

数日後、野菜を出荷しに行った市場で、父が意識を失って倒れたという報が母の元に入りました。珍しく僕は朝から仕事に行っていて、夕方までそれを知りませんでした。市場の人は救急車を呼んだそうですが、その到着より早く意識を回復した父は、運ばれるのを拒み、駆けつけた母の車に乗って自宅へと帰ってしまいました。

しっかりした検査のできる大きな病院に行こうという母の意見を聞き入れず、父の行こうとした医者は近所に開院したばかりの内科診療所でした。後年になって母が言うには、父は大きな病院に行って入院するのが嫌だったのだろう、野菜の世話ができなくなるのが嫌で、入院施設のないところにこだわったのに違いないというのです。僕もそれは父らしい考えだと思います。
結局夫婦は意見を譲歩し合い、それなりの検査設備のある個人医院にかかりに行きました。

診断は心筋梗塞。入院すべきかどうかは自宅で安静にして数日様子を見てから、必要なら大病院に紹介する。たばこは厳禁。お酒は血行を良くするので一日一合までならよし。という話でした。

これで父も一合だけ酒を飲んでくれるだろうと思うと、自室で隠れて酒を飲んでいた僕の罪悪感も少し軽くなりました。しかし、翌日起きてみると、父は酒は飲んでいなくて、かわりに灰皿に何本かのたばこの吸い殻がありました。「医者の言いつけを守っていない」と母は父を責めました。

その日の晩は、母は僕の息が酒臭いことはとがめずに、僕と二人で父を入院させた方がいいか、させるのだったらどこの病院がいいか相談していました。寝室で寝ていた父が起きてきて、どうしても体が冷えてしかたないので今夜は居間のコタツで寝ると宣言しました。僕と母はコタツを明け渡して、それぞれ寝室に下がることにしました。

「親父、一合だけだったらいいんだ、一合だけなら体にいいって医者も言ってるんだ」

記憶はすでにぼやけて曖昧ですが、おそらくそれが父と交わした最後の会話になりました。

翌朝、体から酒が切れて苦しくなって不必要に早く目が覚めた僕は、すでに明るくなっているものの酒を買いに酒屋まで出かけるか、それともお勝手から父の酒を失敬するか、迷いながら廊下へと忍び出ました。
どっちにしても、居間のコタツで寝ているはずの父にばれるとバツが悪いです。父が起きていないか、確認しないといけません。そっと居間の戸を開けて覗き込んでみると、父がおかしな姿勢で寝ていました。前の年に祖母が亡くなったときもそうでした。そんな格好で寝ていたら苦しいだろうという姿勢で人が寝ているときは、もうその人の寿命が尽きた後なのです。

コタツの脇の灰皿には数本の吸い殻が残されていました。
母を起こしに行きながら僕は、禁断症状で体は苦しいけれど、これからまた飲んで寝るというわけにもいきそうにない、どうやら苦しい一日が始まったようだと感じていたのでした。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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