ホーム > 日々雑記 「たったひとつの冴えないやりかた」
たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2005年04月30日(土) 台北(その3) 9時半まで寝ていました。ホテルの屋上で朝食を食べていると、隣の小学校から拡声器の音楽が聞こえてきます。覗いてみたら、校庭でダンスをしていました。運動会なのでしょうね、土曜日だし。この運動会という文化も日本が持ち込んだものなのかもしれません。
今回あいだに入ってくれた商社の人が、偶然台北に寄ったそうで、昼飯に飲茶をおごってくれました。こういう恩を受けるので、今回みたいな無理な話も断りにくいのであります。明日は香港で、あさっては東京だそうです。人と人をつなぐ商売も大変だなと思います。
今夜泊まるホテルに荷物を預けて、歩いて行天宮という(三国志の)関羽をまつったお寺に行きました。自分は観光だけれど、参拝している人たちは敬虔です。こういう雰囲気だと、なかなかカメラを出して写真を撮る勇気がでません(撮ったけど)。
そのあとは、目的もなしに適当に路地裏に紛れ込んでみました。押井守が映画「攻殻機動隊」で描いた架空の未来の日本は、表記言語に漢字だけが使われています。まさにその世界に紛れ込んだみたいに、漢字だけの世界をさまよってみました。市場に紛れ込んでみたり、公園で老人が麻雀を打っているのを覗き込んでみたり・・・。
ホテルにチェックインして、シャワーを浴びてコンビニまで買い物にでました。途中で露店街があったので寄ってみました。海産物を売っている隣で女性の下着を売っていたりします。生臭い臭いと流行が混じり合っている不思議な世界であります。
某メーリングリストでドリアンの話がでていたので、露店で売っているのを買ってみることにしました。まるまる一個買っても包丁もないので、中身だけ売っている店で、最小限の量だけ買いました。一切れで90元というのはぼられている気もしましたが、札しか持っていなくてどうせおつりをもらわないといけないので値切りませんでした。
一口食べてみて「プロパンガスの臭い」が鼻についてはき出してしまいました。ゴミ箱に入れておいても臭うのでトイレに流してしまいましたが、入れ物の袋だけでバスルームがLPガス臭いです。まあ、日本人観光客相手に中身の腐った果物を売っている店もあるので、ひょっとしたらそういうのにひっかかったのかもしれません(前回は黴びたマンゴスチンを買ってしまったのでした)。
夕方まで寝ました。AA会場の病院は歩いていける距離なので、6時半に起きれば十分です。今年一番の暑さで真夏並みだという外を歩いた身に、冷房の効いた部屋は快適でした。PHSのアラームにたたき起こされて、時計を見るとなぜか5時半です。PHSは日本時間のままなのでした。思いっきり不機嫌になって、もう一度寝直しました。
病院はすごい大きな病院でしたが、夜とあってもう受付も閉まっていて「AAの会場」がどこだかわかりません。警備員には日本語も英語も通じません。これは部屋がわからずじまいでお仕舞いかなとあきらめかけましたが、ERという文字を見かけたので、救急の入り口へ回ってみました。警備員に止められましたが、彼は英語で書かれた住所が確かにこの病院であることを認めて、奥の人間に僕が「AA」を探していることを伝えてくれました。
AAといっても全然理解してもらえないので、試しに紙に禁酒会と書いてみたら、看護婦さんに9階の会議室まで案内してもらえました。そして、僕はそこで台湾人のAAメンバーに会うことができたのでした。
日本には日本語でAAをやっている共同体と、日本に住んで英語を話す人が英語でAAをやっている共同体のふたつがあります。日本のように現地人の共同体がある国も多いのですが、数から言えばEnglish Speakerたちが身を寄せ合っているAAしかない国のほうが多いのじゃないでしょうか。
NYのGSOが出しているContact Listにも台北の項目にEng.とあったので、僕はてっきり英語ミーティングに紛れ込むものだと思っていたのです。
でも集まっていたのは台湾人たちでした。中に一人英語を話す人と、一人日本語を解する人がいたので、僕は日本から来たAAメンバーとして紹介され受け入れられました。
ミーティングは公用語であるマンダリン(北京語)で行われているので、人々が話していることはまったく理解できませんでした。しかし、序文や第5章を読むところでは、繁字体中国語の本を一生懸命おいかけてみました。人数は十数人。土曜日は伝統ミーティングらしく、今日は伝統4でした。
途中で小さな子供が紛れ込んできました。後でわかったのですが、別の部屋でアラノンをやっているようです。台北では10年前から日曜日を除く毎日AAミーティングが開かれているのだそうです。そして英語ミーティングはそれとは別に存在するのだそうです。
1時間のミーティングが終わったら、ダンキンドーナツでアフターミーティングを楽しみました。「もう二度と会えないかもしれないけれど、霊的な共同体の中でいつも一緒だよ」と(一応英語で)言って別れました。この原理は言語も国境も越える、そう信じることができました。
ホテルのレストランのラストオーダーの時間が過ぎてしまったので、山田珈琲店という日本食の店で定食を食べました。こうして油っこくないものを食べてみて、はじめて自分の胃が疲れていることに気づくのであります。
読むものがないのでビッグブックを取り出して、たまたまフライヤーの挟まっていたページを開いたら第4章でした。何らかの形の霊的体験が僕に訪れたような気がします。自分を取り巻く世界と自分とが何かでつながっている実感があります。
「来てよかったな」と思いました。
名古屋空港で、お守りがわりに海外旅行保険に入りました(3000円たった)。お守りは大事であります。幸い今のところ、けがも病気もなく、あとは日本に無事帰るだけであります。
大汗をかいて歩き回って、体はすごく疲れています。でも、いまのところすべてがうまくいっています。おやすみなさい。
2005年04月29日(金) 台北(その2) traditionalな朝食は、揚げパンみたいなもの(原料は小麦か米か)に、砂糖の入ったソイミルクみたいなものでした。ちょっと油っこいけれど、寝起きの悪い僕の胃にはちょうどいいものでした。
台北の渋滞を抜けていく1時間の間、車の助手席でぐっすり寝てしまいました。やっぱり朝は苦手であります。
仕事の方は(午前中だというのに)割りと簡単にアイデアが浮かんで、お昼までにはプログラムの実装も終わり動き出しました。午前中に作り込んでしまったバグも午後には取れて、夕方にはオーケーがでました。というわけで、予定通り明日はオフであります。
ただ、「問題が起きたらいつでも呼び出すから」と釘を刺されているので、あまり台北から離れるわけにもいかないでしょう。
昼食は、炒飯のお弁当です。お弁当にぎっしり炒飯だけが詰まっているというシロモノです。飲み物はいつでもなぜかヤクルトが添えられます。
夕食は工場のひと数人と一緒に、近所のお店に行きました。店というか屋台というか中間のようなところであります。台湾の人がごくふつうにチープな外食に食べるようなものを、出されるままに食べました。彼らの話す中国語(台湾語)はまったく聞き取れません。たぶん一生話すことも聞き取ることもできずに終わるのでしょう。ともかく彼らは大きな声でよくしゃべるのであります。
僕はこれで台湾に来るのは6回目ですが、食べ物で苦労したことはありません。口に合わない人は香辛料や脂っこさに辟易してしまうようですが、何でも喜んで食べています。
唯一の例外は鴨鍋を食べに行ったときで、鴨肉だと思って最初に口にしたのがショウガの固まりで、二番目に取ったのが鴨の頭(くちばしがついていた)、3回目の正直が足(爪があった)、四度目が肛門であったときであります。
昨夜とは違うホテルへ送り届けてもらいました。
ここからは電脳街が近いので歩いていきました。こういうところでどんな部品を買うかは難しいところです。家へ持って帰ってパソコンに取り付けてみたら不良品だったとしても、交換してもらうのは至難の業です。
サーバーPC用に、PC133で256MBのSDRAMを買いました(1260NT$)。
電脳街の地下は、以前は違法コピーのソフトをおおっぴらに売っていましたが、現在はそういうものは一掃されてしまってつまらなくなりました。ここでもハリウッドの映画は安く、日本のアニメは高いです。「げんしけん」が平積みになっていましたが、誰が買うんだろう?
「美鳥の日々」の1巻はこちらでもフィギュアつきだ。月姫のDVDのセットが2500NT$であったので、思わず買おうかと思いましたが、3回前を往復したあげく「自分はそんなものほしくない」ということに気づくのでした。
夜9時で電脳街が閉まって追い出されたので、帰り道をとぼとぼ歩いているとフィギュアを売っている店を見つけたので入ってみました。「ゆびさきミルクティー」のセットが日本円で1000円ぐらい(高いのか安いのか)。おねがいツインズが1300NT$。草薙素子が100NT$で投げ売りされていました。僕はフィギュアはあまり好きではないので、見るだけで決して買いません(等身大アスカとかだったら考えるかも)。
さらに帰り道を歩きながら考えたことは、おたくをやるには、気力・体力・財力・部屋のスペース・時間、そのすべてが潤沢に必要なのだということです。僕なんかおたくを気取っていても、所詮は「おたくもどき」にしかすぎないのであります。
PHSでインターネットには接続するのですが、週末で混んでいるのか、日本のサーバーにも、ロンドンのIEJI.ORGにもなかなかつながりません。これをポストするのも明日のホテルに移ってからからになるかもしれません。
ともかくすごく疲れています。明日はチェックアウトぎりぎりまで寝るぞ。
2005年04月28日(木) 台北(その1) 朝9時起きというのは、この前東京に行ったとき以来の早起きであります。
まあ仕事に復帰することを考えれば、もっと早く起きることも当たり前なのですが。
特急しなのの中では気持ちよく寝てしまいました。
初めて乗る名鉄では、別に急ぐ必要もないのに、特急電車に乗ってしまいました。
新しく中部国際空港ができて、いままでの小牧の空港はどうなるのでしょうか? 軍民共用の空港だったから、軍(じゃなくて自衛隊か)専用になるのでしょうか。
国際空港の案内板には「インターネットコーナー」という掲示があるのですが、そこの場所に行ってみても、ネット端末などはありません。2台だけ存在するという無料端末を探して、空港中を歩き回ってしまいました。ギャラリーがあって油絵が展示してありましたが、芳名帳をみると今日の訪問者は3名のようであります。屋上に出て、飛行機を見ながらまた歩き、10分100円の有料端末で「ぶどうの〜」に書き込みをしました。
その後、ビジネスクラス向けのラウンジに行ったら、パソコン用のLANが無料で提供されていました。ディバッグから緩衝材(プチプチだ)にくるんだThinkPadを取り出したら、隣のガイジンにぎょっとした目を向けられました。今度はなにかまともなバッグに入れておきましょう。
たまには紙の新聞を読みたいと思って朝日を買いました。でも、機内でも朝日を配っていました(くそ、エコノミーだと中日新聞しかくれないのに)。
アテンダンスが配ってくれたシャンパンはとってもおいしそうでしたが、代わりにトニックウォーターをもらいました(おかわりもした)。初めてのビジネスクラスに感激です。でも、食事はコンビニ弁当のようなエコノミーの機内食が好きです。
入国審査がえらく厳しくなっていて、40分以上列に並んでいました。空港に迎えに来てくれた相手の会社のSさんとPHSで連絡が取れたので、まあ役に立ってよかったです。並んでいる列の中で下手な英語でしゃべるのはすごく恥ずかしかったけれど。
ホテルへ荷物を置いて、街中へ買い物へ。台湾のコンビニに置いてあるものは、どんどん種類が増えて日本のコンビニと大差がなくなってきているような気がします。
足つぼマッサージの店に入って、ついでに肩ももんでもらいました。1時間で1000元。
ホテルにもLANが引かれていましたが、ちっともつながりません。DHCPサーバーがアドレスを割り振ってくれません。きっとリース期限が長すぎるのでしょう。デフォルトで48時間とかになっているサーバーも多いですから。手動でアドレスを割り振りました。
明日朝は7時20分に迎えに来てくれるそうです。えらく早いと思ったら、traditionalな朝食につれてってやるから、ホテルの朝飯は食わずに待っていろだそうであります。
今日は移動だけで気楽でしたが、明日は仕事。
おやすみなさい。
2005年04月27日(水) 多忙 予定では今夜ホームグループのミーティングに出席するつもりだったのですが、出発の準備が整わなくてミーティングはキャンセルしてしまいました。
予定が遅れた最大の原因は、ノートパソコン関係の準備が全然できていなかったことです。
前の会社では、泊まりがけで仕事に行くことも珍しくありませんでした。(おかげで、バスケットを預かっているミーティングを欠席する時には、いつも頼りがいのあるメンバーに頼ってばかりでした、感謝)。
そのためもあって、ノートPCには開発環境一式がインストールされていて、ホテルの電話だとか、PHSだとか、携帯電話だとかでダイアルアップする設定もばっちりなのが常でした。海外でも、iPassだとかGRICの設定さえ日本できちんとしていけば苦労することはありません。
でも、会社を移って、出張先と言ったら本社ぐらいしかなくなって、ノートパソコンを持ち歩く必要もなくなった時に、ノートパソコンは一度まっさらにしてしまったのであります。ときどきまっさらにインストールし直さないと調子が悪くなるのが、窓OSの問題点でもあります。そして、そのノートPCは「会社から仕事用に提供されているPCにはインストールできない怪しいソフトを入れるための箱」となって仕事机の上と自宅を往復することになったのでした。
で、あわてて開発環境をインストールしているだけで2日つぶれてしまいました。
さらにこの時期に無線LANカードを買い換えたのも混乱に拍車をかけました。ブリッジの設定も変えたので、やれ「ノートパソコンからインターネットできない」とか「ネットワークメディアプレーヤーでしまじろうが見られないぞ!」とかいう苦情が起こり、それをそのままにしたまま留守にするわけにもいかなくなったのです。(まあ、自家製の問題には違いありません)。
台北では馬偕紀念醫院という病院で、No Name Groupという英語グループが、金曜は20:30、土曜は19:30からミーティングをしているようであります。ホテルは毎晩違うところだし、場所の位置関係がどうなっているのか、地図もろくに見ていないので、移動はタクシーが頼りであります・・・が大丈夫か自分。
30日には南信州でオープンスピーカーズミーティングが開かれて、僕も出席の予定でした。東京からもたくさんメンバーが来てくれることになっていて、再会を楽しみにしていた人もいるのですが、残念であります。
これからソースコードを見るのですが、3年前に書いたコードは他人のコードと同じであります。万が一にも寝過ごさないように、早めに寝ることにします。
自分がいなくてもホームグループのミーティングは滞りなく進んでいることでしょう。うれしいような、ちょっと寂しいような。
明日の朝、荷物に入れるもの:ノートパソコン一式(ウルトラベース含む)、パジャマ。
2005年04月26日(火) 持ち物リスト パスポート
飛行機のチケット
JRのチケット
デクラレーションカード
ホテルの地図(2カ所)
馬偕紀念醫院(AA会場)の地図
PHS
PHSの充電器
PHS用のUSBケーブル
H"問屋で電話帳の編集
ダイアルアップの設定
PHSの説明書
相手の会社の人の名刺
ソースコードを入れたCD-R
LANのHUB(買ってくること)
256MBのコンパクトフラッシュ(要領収書)
ノートパソコン一式(ウルトラベース含む)
3泊分の着替え
パジャマ
手持ちの現地通貨
歯磨きセット
シェーバー
目薬
うつの薬
水虫の薬
台湾の旅行案内二冊
ビッグブック(英語版・日本語版)
商社の人の電話番号
PDA
PDAの充電ケーブル
仕事の資料2冊
2005年04月25日(月) 疲労 1月に休職を始めてから、明け方に寝るような昼夜逆転の生活が続いていたのですが、最近になってようやく午前中に起きられるような生活になってきました。
しかし夕方になると眠くなることもあります。
夕食を食べた後、ごろっと横になったらすぐに寝てしまいました。
30分後、セットしておいたアラームで起こされた僕は、「むぅ〜」という不機嫌な声をあげてしまいました。
(あー、ミーティング休みたい)
そうは思うのですが、また仕事に戻ってしまえばホームグループ以外のミーティングにはなかなか出られなくなるでしょう。僕はAAミーティングは霊的な貯金をする場所だと思っています。現実生活はすべてが霊的な生活ではないので、その霊的貯金を引き出して使うことになる場面も多いのだと思うのであります。その霊的貯金の残高がゼロになってしまうと、きっと僕はスリップ(再飲酒)してしまうことになるのでしょう。そんなふうに考えているので、ためられる時に貯める(出られる時には出る)ことが必要だと思っているのです。
夜半過ぎには眠くなってしまい、コンビニに夜食を買いに行って、それを食べて寝てしまいました。こんなペースで台湾の仕事が片づくのかわかりません。
やっぱり日曜に東京まで行ってきた疲れが出ているのでしょう。きっと台湾行きを無事にこなすことができても、ゴールデンウィーク後半は疲れを癒すために寝て過ごす羽目になるに違いありません。
2005年04月24日(日) 足からの衰弱、足からの回復 前の日の天気予報で、朝の最低気温が氷点下になると言っていたので、覚悟していたのですが、やっぱりいつも「ワイシャツの上にトレーナー」というおたくファッションでは、かなり寒かったです。
ですが、朝に信州で寒いからと言って下手に上着など着ていくと、昼に東京に着いた頃には大汗をかく羽目になることは明白なので、寒いのは我慢しました。
新宿駅西口で高速バスを降り、山手線で池袋へ、西口から劇場通りを北へ向かいます。首都高の高架が見えてきたあたりで左に折れて、小学校の裏に回り、細い路地を抜けていくと、そこにAAのオフィスが、「ないじゃん」。
実は道に迷ったのではなく、気がつかずに通り越してしまったのでありました。
いくつか印象に残った話からひろってみます。
「AAの本は、相変わらず売れないね」という話ですが、僕がつながった頃に比べれば、本を回復の道具に使おうという動きははるかに活発になっていると思います。当時は(へたすると今でも)「本なんか読んだって回復しない」と断言されたものでした。
でもそれは、コンテキストを無視した話で、本を読んでいたって回復しない。その時間があったらミーティングへ行きなさい。本を読むのはミーティングに行った後でいいじゃないか、と言う文脈から、「本よりミーティング」というふうに乱暴に抜き出された言葉でありました。
「本なんか嫌いだ。ちっとも読まない」というAAメンバーがいたって、それはちっともかまわないと思うのですが、そういう声が大きくなってしまっても困るなということであります。
台湾のAAの情報をもらいました。GSOの出しているコンタクトリストには、ふたつ英語グループが存在しているようです。仕事が空く予定の土曜日の夜にはミーティングがあるようであります。外国のAAミーティングに行った経験を話すメンバーのことを僕はうらやましく思っているので、可能なら訪問するつもりでいます。問題は英語で表記された住所を、どうやって漢字の地図から見つけるかであります。
今の日本のJSOの所長は、こういった情報の引き出しはたくさん持っている人で、悪い人ではないと思うのですが、リーダーシップをぐいぐい発揮して皆を引っ張っていくタイプではありません。AAにリーダーなんているのか? やつはグループのしもべでは? と言っている人は12の概念を読んでみてください。前の所長は強引と陰口を言われるところもあったけれど、日本AAの発展に寄与した部分も大きかったように思うのであります。今の所長も、失敗をおそれずに冒険をして欲しいと思うのですが、まあ自分にない物を人に望むのは悪い癖ですか。
まあ、自助グループのリーダーシップの好ましからぬ例も話に出ていました。
帰り道の新宿駅西口までも遠く感じました。最近家に引きこもりぎみで、歩いていないせいでしょうね。お昼を食べに行った店までも距離も、地元だったら間違いなく車で移動した距離ですから。
アルコホーリクは頭の先の方からは回復しない。ミーティングに出て歩くことで、足の先の方から回復するのだ、という話がありましたが、僕の足はすっかり弱っているようであります。
2005年04月23日(土) クレジットカード 最近クレジットカードを2枚も作ってしまいました。
一枚は、ガソリンスタンドの提携カードです。
最近のガソリン価格の高騰は生活を直撃している(はずなんだけどカードで払っているので今一歩実感がないけど)のであります。もはや有人のスタンドで給油するなんてことはなくて、セルフのスタンドばかり使っています。
セルフのスタンドでも、まったくの無人ではありません。
「また値上がりしたよね」と店員になにげなく話しかけたところ、「このカードを作って頂ければ、今お使いのカードよりさらに○円お得になります」とセールスされてしまいました。
「でも、年会費とかいるんでしょ?」という問いに対し、「いえ、このスタンドで年に一回でも給油してくだされば、会費は無料です」というので、おもわず入会してしまいました。
もう一枚は、インターネット接続プロバイダーの提携カードです。これは、そこのプロバイダーの接続料金が値引きしてもらえるというもの。そのプロバイダーを解約しない限り、年会費は無料というわけです。今後、このプロバイダーと一蓮托生というわけです。
こうやって顧客の囲い込みに、皆さん必死であるわけですね。
カードを作った理由には、ひょっとすると復職に失敗して会社員をやめることになる可能性を考えたからです。
20代の頃、フリーランサー(といえば聞こえがいいが、ぷーたろー同然)のプログラマー稼業をしていたのですが、結局その間はクレジットカードが作れませんでした。
カード会社の審査を通るためには、2年分の確定申告のコピーを送る必要があったからです。そして、そんなものを律儀に取っておくような生活はしていませんでした。
今は審査も軽くなって、「家事見習い」とかの身分でもカードを発行してくれるようでありますが、「会社員の身分のあるうちにカードはつくっとけ」というのは僕の処世訓のひとつでもあります。
もっとも、何枚ものカードを使い分けるほど器用じゃないので、たいていのカードは机の中で眠っていることになるわけですが。
明日は東京。
2005年04月22日(金) 好転 水冷キットの輸入代理店のサポートに電話をかけてみました。
「この一週間で二度もポンプが止まったんですが!」
という息せき切った僕の言葉に、サポートマンは
「リザーバータンクに空気がたまってませんか?」
と冷静に聞いたのでありました。
ラジエーターの上に小さなリザーバータンクがあるのは見ればわかります。その上部に、少しだけ水の入っていない空間があります。
「でも、空気はほんのちょっとですよ」と抗弁する僕に、メンテマンは
「そのちょっとの空気が少しずつ循環してしまってですね、ポンプのプロペラにたまるんです。するとポンプが空転するんです」
「キャビテーションですか!」
「なんだ知っているんですか。注射器を使って蒸留水をタンクに足して、空気が入り込まないようにしてください」
そんくれー説明書に書いておけよ、と思いながら丁寧に礼を言って電話を切りました。
昨日予備の水冷キットを頼んだショップは、もう発送準備にかかっているとメールが来ていましたが、あわてて電話をしてキャンセルしました。
ともかく、これで無駄な出費は避けられそうです。
薬局で蒸留水は見つかりませんでしたが、代わりにコンタクトレンズ用の精製水がみつかったので、これで代用することにしました。何件か薬局を回って「注射器置いてないですか?」と聞いてみましたが、「昔はともかく今は医療品の問屋に行かないとないですよ」と言われてしまいました。
ひょっとすると、シャブ中と間違われたかもしれません。
注射器の代用品は、インクジェットプリンタのカートリッジに、リフィルインクを注入するスポイトを使いました。
28日から5月1日まで、台北に仕事をしに行くことになりました。
昨年までいた会社のお客さんで、僕が納入した機械の調子が悪いらしく、困り果てていたようです。僕も今は別の企業の従業員で、副業は禁止されているので、手助けしたくてもできずに申し訳ない気持ちでいました(というか、やっかいごとに巻き込まれずにほっとしていました)。
が、僕は今は収入のない身であります。むこうは、飛行機のビジネスクラスとホテルとタクシーを用意するから、ゴールデンウィークにちょっと台北まで個人旅行にこないかというお誘いがありました。そのうちの一日を、その工場で過ごす予定であります。
報酬は雑収入として確定申告しなくてすむ程度のものではありますが、まあ助かります。
それが先日徹夜でデータサルベージ作業などしていた理由です。
PHSを台北でも使える機種に変更しに、遠く離れた町の田んぼの中の電話ショップへゆきました。対応してくれたお姉さんは、元歌手で今はバラエティをやっているYOUに性格も顔も似た人でありました。
僕が自分の使っているPHSの電話番号を知らなかったせいで、時間がよけいにかかってしまいました(だってデータ通信カードの番号なんて覚えないでしょ)。まあ、僕はYOUのファンであるので、おねいさんと話をするのはなんだか楽しかったです。
そのおねいさんに花屋さんの場所を聞き、その花屋さんで仲間のバースディのプレゼント用の花束を作ってもらいました。ショッピングセンターに入っている花屋さんだと、店員もアルバイトだったりして、「花を選んでくれませんか」と頼んでも、「どうぞご自分でお選びになってください」と冷たく突き放されたりするのですが、専門の花屋さんは予算を聞いて手際よく選んでくれ、束を作っている間にコーヒーをごちそうしてくれたのでありました。
僕のつながった頃は、県内のAAに女性メンバーも少なかったので、バースディのケーキを切り分ける作業は野郎どもがやったものでした。まともに切れずに形が崩れても、そこはご愛敬でありました。
最近は女性メンバーが上手に切ってくれます。でも、手が足りないからって、先週病院を退院したばかりのメンバーが、バースディ者の話も聞かずにケーキを切る役をやっているのはどうかと思うのであります。
飲食洗い物は女性の役割なんて・・・AAは男女平等のはずじゃなかったのか。
まあ、他のグループのことにあまり口を出すのは良くないことでもあるし、僕のスポンサーは「物言えば唇寒し」とか「雄弁は銀」などと言っていたので、よけいなことは言わないことにしておきましたが、ここに書いているのでは意味がないか。
今日のバースディ者の下の子供と、僕のソブラエティが同じ年。彼女のソブラエティと、僕の下の子の年が同じ年数であります。
「次はひいらぎの番だね」と言われました。僕の日が来るまで、今日一日ずつ飲まないでいきたいと思います。
2005年04月21日(木) 寝る パソコンの置いてある部屋が片づいたので、長座布団を引いて寝られるようになったのはうれしいことであります。いままでは、座椅子によりかかるようにして寝ていました。
パソコンのファンとHDDの音がうるさいのを気にしなければ、昼間に安心して横になれる空間ができました。(いままでどんな部屋で暮らしていたんだか)。
さて、パソコンでビデオのエンコード作業なんかをやっていると、CPU負荷が高くて、熱が発生します。高性能ファンを思いっきり回してあげると、なんとかCPUは60℃を下回る温度になってくれます。でも、その状態ではぶんぶんうなるファンの音がうるさくてかないません。寝られませんし、音楽も聴けませんし、落ち着いて本も読めません。
しかたないので、CPUの水冷キットを買うことにしました。
いつも頼んでいる秋葉原の通販ショップに頼んだのですが、なかなか発送処理をしてくれません。イラついたので、キャンセルして、ネットオークションで即納をうたっているものを落札したのが先週です。
さっそく届いて、喜んで取り付け稼働させたら、なかなかパソコンが静かになって満足でありました。
が・・・、水を循環させるポンプがこの1週間の間に2回止まりました。水の循環が止まると放熱が滞って、CPUがすごく熱くなります。130℃を超えても動作しているんだから、AMDのにくらべてIntelのCPUは強いです。いやそうじゃなくて、たまたま僕が部屋にいる時だから、パソコンを緊急停止できましたが、そうでなかったらどうなっていたか・・・。
温度は果てしなく上昇して、部品は焼損、最悪火災発生。
こいつは不良品だから交換してもらわないといけません。
が、買ったのがショップじゃなくて、オークションなので、初期不良で交換というわけにはいきません。メーカーへセンドバックして修理扱いであります。悪いことに、それまで使っていた空冷キットは売り払ってしまった後であります。
修理のために送り返している間、CPUを冷やす機構がないと、パソコンが使えません。
そんなわけで、秋葉原のショップへもう一台注文してしまいました。とんだ金の無駄遣いであります。焦りが判断ミスを呼び、いらだちがさらなるイライラを呼び、最後には完全な無気力になってしまう。僕の病気であります。
ようやく新しいメールアドレスが決まったので、AA用の名刺を作りました。(いままでのアドレスも受信専用で使っていきますが)。
僕が生まれて初めてかかった東京の精神科のクリニックには、僕の初診の記録は残っていなかったそうであります。もう14年も前の話ですからねぇ。
やっぱり徹夜なんかすると、後がこたえます。無気力にごろごろ転がってばかりいる自分であります。
2005年04月19日(火) 疲労困憊 前の会社の社長に会いに行きました。
用件は僕がした仕事のデータをコピーして貰うためであります。千円の菓子折を持って挨拶に行きました。
社長は人が変わったようでありました。プロ野球の鬼監督が、野球をやめたとたんに「よいおじさん」になるのとちょっと似ているかもしれません。
「俺は20年会社勤めをして、20年会社をやってと、人生が20年区切りになっているんだ。だからこれから20年は自分の好きなことをしようと思うよ」と言いながら、20年前に買ったまま会社経営に忙しくて読めなかった本を手にしていました。朝から晩まで読んでいるのだそうです。
ひきこもりでは体に悪いだろうと、奥様が花見に連れ出して、ちょうど帰ってきたところへ僕が電話を入れたのだそうです。この奥様も「なんとかなるわよ」のケセラセラの人なので、この夫婦はやっていけるのでありましょう。
人間は変わるものであるし、変われるものであると、感じました。
なので、仲間のバースディ・ミーティングでもそんな話をしてしまいました。
それにしても、最近はバースディ・ミーティングが増えました。僕がつながった頃は、全県でも年に数えるほどしかなかったのに、最近はなんだかしょっちゅうであります。とても全部は出られません。良いことなのに違いありません。
前の会社の社屋は、もう電気も止まっているのでパソコンも動かず、データも吸い出せませんでした。パソコン2台を借りて帰って自宅で作業です。が・・・、起動しません。結局徹夜でデータサルベージ作業をするはめになってしまいました。おまけにDVD-Rが書き込みに3回連続で失敗してくれるし・・・やっぱり一枚49円のメディアは仕事に使うには良くないかなぁ。
資源ゴミの日なので、徹夜明けのまま、本を整理して出すことにしました。大島弓子選集、坂田靖子、めるへんめーかー。なかには絶版で、一時期一万円以上まで値を上げた本もありますが、インターネット・オークションの普及で、500円でも売れないものになってしまいました。
リタイアしてから海外旅行とスイミングと絵(描く方)に凝っている母が、画材を買いに街まで出てきたついでに我が家に寄っていきました。今度の展覧会には(会員ではないものの)出展招待がきたそうで、50号の大物を描いている最中であります。
というのは口実で、たまには我が家にも来客がないと、散らかったままちっとも片づかない(かといって来客は誰でもいいわけではない)ので、寄るように母に頼んだのは、他ならぬ僕であります。
である以上、徹夜明けだからといって寝ているわけにもいかず、夕方まで起きている羽目になりました。
ThinkPadのDVDドライブが部品で届いたので(中古なのに4千円以上した)、CD-ROMドライブの部品をばらして入れ替えました。フロンベゼルがなくて格好が悪いので、プラスチック板をヤスリで削って自作。これでやっとノートパソコンでもDVDが観られる・・・、と思ったものの、再生ソフトがありません。
フリーウェアのDVD再生ソフトがいつくかあったはずなので、探しておきましょう。
さすがに40を過ぎると完徹はこたえます。
2005年04月16日(土) ディジタル化 (パソコンおたくネタ)
以前からTVキャプチャボードは持っていました。ConexantのBt878搭載のとってもベーシックなやつです。中古で買ったのですが、5千円しかなったと思います。
当時は、Linuxパソコンを作って、それでテレビを録画するというのが流行していたわけです(ごく一部で)。Bt878ならLinuxでデバイスドライバーで苦労することもなかろうと、思ったわけです。しかし、例によってLinuxがインストールされることもなければ、テレビ録画パソコンが作成されることもありませんでした。
Bt878はWindowsパソコンにささって、野球中継を見るのにでも使われるのがせいぜいでした。
3月に「溺れる人」をパソコンで録画した時に、その映像を見て「VHS以下だなぁ」という感想を持ちました。最近では1万円ちょっとで3次元Y/C分離機能を持ったチューナーで、MPEG2のハードウェアエンコードのボードが買えます。
で、レーザーディスクを売って得た金を元に、つい買ってしまいました。
しばらくはテレビ番組なんかを録画して遊んでいたのですが、そのうちにVHSテープをパソコンで録画して編集し、DVDに焼いておくということを始めました。まあ、たぶんお金のある人なら、VHS+DVDのついたハードディスクレコーダーなんかを十万円ぐらいで購入して、お手軽にすませるのでしょうが、こっちは貧乏人であります。ヒマもあるし。
3月に部屋を片づけていて思ったのは、「どうしてVHSのテープはこうもかさばるのだろう」ということであります。絶対βのほうが優れていたと思うのでありますが、技術的に優れているものが市場を支配するとは限らないという好例であります。
大学の先輩は引っ越しの際にVHSテープ400本をゴミの日に出したそうですが、その量はいかばかりであったことでしょうか。
テープを再生してパソコンのハードディスクに録画し、MPEG2をDivXにエンコードするという作業を、一日一本ずつ地道にやっております。内容は子供には見せられない大人のコンテンツであります。この作業が終わったら、部屋の一角を占めていたテープは、プラスチック・ビニールゴミの日に捨てられる運命でしょう。
それが終わったら、8ミリ(フィルムじゃなくてビデオのほう)で録画した子供の成長記録をDVDに焼くという、実にお父さんらしい作業に精を出すとしましょう。
肉体的コンディションも、精神的コンディションも、波を打ちながらゆっくりと向上しています。でも、医者はまだ働くのは無理だと言います。傷病手当金が出ないので、生活に困っちゃうんですよと訴えたら、障害者年金を申請してみませんか? という話になったので、社会保険事務所に年金の加入状態を調べに行ったり、東京で最初にかかった精神科のクリニックに電話をしたりしているのであります。
やっと仕事の資料なんかに、目を通す気力がでてきました。
2005年04月14日(木) 狂った人 地区の会場の地図が刷り上がったというので、取りに行くことにしました。
B4版両面1000枚で4,700円というのは、すごく安いと思うのですが、今回は「紙の色はピンク」という指定があったので、1枚あたり2円上乗せして6,700円です。
それだけの金を立て替えておくには僕の財布はちょっと寂しい状態でした。
たとえばAAのイベントで泊まる時とか、東京まで行く時とかのお金のかかる時に、妻に「お金をください」と言うと露骨に嫌な顔をされるので、そうした事態を避けるためにへそくりをしております。たとえば3月にジャンボ宝くじで当たった1万円は、使わずにそのへそくりへ繰り入れてありました。現在の残高は2万円であります。
出がけにそこから1万円を抜き出そうとしたところ、へそくり袋が見つかりません。
30分ほど探してみたけれど見つかりません。
仕方ないので諦めて出かけて、帰ってきてまた探しましたが見つかりません。
そういえば先日母のところを訪れた時に、財布などから数万円だけ抜いていく空き巣が頻発していて、義理の姉も被害者であるという話を聞いていました。
家の者に、「俺のへそくりを見つけたか?」と聞いても、「最近片づけしてたから、一緒に捨てたんじゃないの?」とつれない返事が返るばかりで、ちっとも親身になってくれません。
「くそ、警察に被害届を出しに行くぞ」
そういって上着に腕を通したら、内ポケットに袋ごと入っていました。
先日ある人と食事の約束をした時に(結局その食事はドタキャンされてしまったわけですが)、もし金が足りなかったら恥ずかしいからと、出がけに時間がないので袋ごと内ポケットにつっこんだまま、すっかり忘れていたのでした。
そんなわけで、精神的にも、肉体的にもすっかり疲れてしまいました。
まったく自家製の問題であります。
2005年04月13日(水) コントロール喪失 最近オークションで買ったもの。
・11b無線LANカード2枚(Win95,Linuxパソコン用)。これは安かった。
・11b/11g共用無線有線ブリッジ。パソコンで録画したMPEG2を居間のテレビで見るため。
・ルーター。高性能用に置き換え。
・CPU水冷キット。だって、ファンがぶんぶんうるさくて。
・StarSuite7。なぜか代わりにポストペットV3が届く。
・USB2.0+IEEE1394+1000Baseコンボカード。
・USB2.0+IEEE1394コンボカード(なぜかまだ届かない)。
・3次元Y/C分離機能付きテレビキャプチャカード。(だって787Aじゃ画像汚くて)。これはオークションじゃなくて通販ですけどね。
次々届く荷物に、妻の目がつり上がってきております。
そう、私はいま物欲の季節を迎えております。
どうせわたしはキチガイで、コントロール喪失で、オタッキーだよん。
2005年04月12日(火) 良&不良 月曜日は調子が悪くて、つくづく「休職中でよかった」と思いました。これで会社に行けと言われたら泣きたくなってしまったでしょう。
それでもオークションで売ったレーザーディスクの発送に郵便局に行きました。これはもともと東京の仲間が不要になったからとタダで譲ってくれたものですが、それが今僕の小遣い銭となって生活を助けてくれています。(それにしても○デ○○はいくら安くしても売れないなぁ。それとアレはまだ売れないぞぅ)。
風邪が悪化して、しんどかったのですが、仲間のバースディミーティング(だと思った)ので無理して出かけていきました。でも来週だそうです。そのまま帰ろうかと思いましたが、せっかくだからAAの空気を一時間半吸って帰ることにしました。ミーティングの半分以上は机に突っ伏して寝ていたでしょうか。
今日はお昼に起きて内科医へ。それでも風邪は良くなっているので、抗生物質は抜きにして、今回出た薬が終わった頃、もう一度通院しにくるかどうかは自分で決めていいよという話でした。
地区委員会の議事録をクロネコメール便で発送しました。郵便局だったら140円のものが80円で送れるし、コンビニは24時間やっていてくれるし、その点では便利であります。
精神科医から自宅に電話があって、傷病手当の支給は無理だろうという用件でした。
もともと今回は入社してすぐに休んだので、傷病手当は無理だろうと思っていたのです。しかし、会社が1月分の給料の精算と一緒に傷病手当の用紙をよこしたので、医者に書いて貰って提出しました。どうやら前の会社と通算して処理して貰えるようです。本社の総務でそれを社会保険事務所に持って行ったら、3年前にも休職して傷病手当を貰っているが、それと今回との関連性はどうなのかと言われて、問い合わせ票が僕のところへ送られてきました。
医者と相談して、「前回はアルコール依存症と抑うつ状態」、今回は昨年8月に「うつ病」の病名を初めてつけたので「うつ病」ということで、別個のものとして考えていいのではないかという結論を出して、返送しておきました。
調べてみて初めて知ったのですが、傷病手当というのは一回貰い始めると、最長一年半貰えるわけです。でも、途中で働きだして貰うのをやめても、次に同じ病気で休んで申請しても、最初の時から一年半以上経過していると、貰う資格がないのだそうであります。
(途中で完全に治癒した場合は別)。
僕の場合、前回と今回で「連続性があるかどうか」が問題になり、医者のところに問い合わせ票がくることになりました。医者が電話口言うには「連続性があるかないかと言われれば、ないと強弁することは難しい。あると言えばおそらく不支給になるだろうが、ご納得いただきたい」ということでありました。
もともと傷病手当を当てにして休職したわけではないので、それですぐに困ってしまうことはないものの、復職後に給料と傷病手当の両方が入れば生活が楽になっていいなという夢は打ち砕かれてしまいました。やっぱり甘かったか。
まあ、予定通り定期預金を崩すことになります。
大人になると同時にアル中になった僕は、酒代のせいで常に貧しく、定期預金というものを作ったことがありませんでした。だから、AAにつながって、ミーティングで「生まれて初めて定期預金を作りました」と言えた時は実にうれしかったものです。
そう考えると、その飲まないで働けた時期が、現在の僕の生活を支えてくれているわけであります。ソブラエティというのは実にありがたいものであります。
会社の総務からメールで連絡があって、休職前に残っていた有給休暇2日と、4月1日付けで支給された12日ぶんとあわせて14日という計算にしてくれるそうであります。これで復職後にまた悪くなっても、有休が使える見通しがつきました。
医者は「現在の好不調の波が消えて、働きたくてうずうずしている状態が1ヶ月続いたら、復職してもいい」と言っていますが、そうのんびりともできなくなりました。おそらく、明日書いて貰う診断書が最後になるでしょう。
2005年04月10日(日) 三寒四温 ちょっとうつの具合が良くなったと思ったら、また悪くなりました。
波があります。
最近の傾向は、木・金・土と良くて、日・月・火・水と悪いという感じです。三寒四温、いや四寒三温といったところでしょうか。
以前に台湾でやった仕事の機械の調子が悪くなったらしく、英文で質問のメールが来ています。旅費もホテル代も日当も出すから、様子を見に来てくれないかとオファーがありますが、いちおう今僕の属している会社は副業禁止なので引き受けるわけにもいきません。
だいたい、行って解決できればいいけれど、できなかった場合には、どうなるのだろう?
今の台北は雨期が始まる前できっといい季節です。
掃除をしていたら、台湾ドル(元という名前だけれど、お札には園と書かれています)の使い残しが2万円分ぐらいでてきました。日本で台湾ドルを円に換金してくれる銀行は、数えるぐらいしかありません。田舎にいる限り、これは持ち腐れであります。
いつかは仕事じゃなくて、遊びで台湾に行ってみたいです。
2005年04月08日(金) 露出 まっとうに大学を出て会社に就職した従兄弟が「写真家になりたい」と言い出して、周囲の反対を押し切って写真学校に通い出したのがもう十数年前でした。そこそこ有名な写真家の先生の下について修行したりしたそうですが、商業写真家としては芽は出ずに、結局地元のフォトスタジオに勤務となり、結婚式の写真を撮るのを主ななりわいとするようになりました。
スタジオで写真を撮って貰うと、撮影からプリントまで一枚で2〜3万円ぐらいかかるそうであります。だから、あまりスタジオで写真を撮る人はいません。そこで、そのスタジオでは「半額くらいにしてあげるから、5年間毎年撮りに来てください。月々わずかこれだけの支払いで・・・」というプランを作って売るようになりました。
スタジオ勤めの従兄弟にもそのプランの販売ノルマが課せられ、彼は親戚に頭を下げて回る羽目になったわけであります。ちょうど幼い娘が二人いた僕は、そのプランの販売相手としては格好の餌食であったわけです。そんなわけで、ここのところ何年間か、銀行の通帳から「シャシンダイ」という名目で、定期的に出費が続いていたのでした。
まあ、お金のことは「田舎の濃密な親戚づきあい」だと思えば、あきらめもつくことではあります。
が、子供の写真を撮影すると言うことは、親も含めた家族のカットも撮影すると言うことであり、僕も着慣れない背広を着て、スタジオであーでもないこーでもないと色々な格好をしたり、作り笑いをしたりしなければならないのが、一番の苦痛でありました。
しかし、できあがりを見てみると、そこらへんの街のカメラ屋が、2階の客間兼のスタジオで撮影してくれた数千円の写真とは比べるまでもない「写真らしい写真」に仕上がるから、さすがはプロであります。だからといって美醜が変わるわけもなく、ただ「いかにも写真」であるということにすぎないのですが。
今日は次女の入学式ということで、この毎年の撮影ノルマも最終回を迎えました。
話は変わって、今週のいつだったか、午前中にNHKのラジオをつけてみたら、アルコール依存症の家族の方のことが話題になっていました。こうやって、メディアに依存症という病気の存在が露出することによって、世間の認知が進んでいくことが、一番の病気の予防・治療に役に立つのではないかと思うのであります。
2005年04月07日(木) へとへと2 仕事の電話でたたき起こされました。
いや、それは前の会社の絡みで、今後の僕の収入にはつながらないので、仕事と呼んではいけないのでしょう。もしその会社に兄が勤めていなかったら、僕はもっと素っ気ない態度をとっていたことでしょう。
さて、3月中頃くらいから(だったかな)子供たちがごほごほ咳をするようになりました。「喘息かな」などと言っていたのですが、そのうち母親もごほごほ言うようになりました。小児科の先生の見立てでは、感染性の気管支炎だそうで、抗生物質を飲むうちに、症状は徐々に治まって、4月にはほぼ全快と言っても良い状態になりました。
が、そのころから今度は僕がごほごほ言うようになってしまいました。
しかも、だんだん咳き込みが激しくなってきます。皆に「医者に行け」と言われるので、まあ朝から起きていることでもあるし、珍しく内科の医者へ出かけました。
僕は風邪を引いても滅多に医者に行かないので、内科にかかるのは10年で3回ぐらいではないかと思います。それでもきちんとカルテは残っていて、うつ病であることも、アルコール依存症であることも、記録に残されていました。
「喉の薬は、うつの薬とかち合うことが多くてね。今は何の薬を飲んでいるんだ?」
と聞かれたので、精神科でもらった薬剤情報の紙を渡しました。
こういうことをきちんとしてくれる内科医は実は結構少なくて、ただの風邪を引いた依存症者に安定剤なんかをするっと出してしまう医者は世間にごろごろしているのであります(たぶんきっと)。
桜はまだですが、梅が咲いているほど気候がよいので、外で体を動かす気になり、午後は車にCDチェンジャーをつなぐことにしました。記録によると一昨年に買ったものの、取り付ける気力がなくて、1年半以上部屋の片隅に眠っていたものでした。
整備解説書を買えば、車をばらす手順は書かれているのですが、何千円もする本を買う気にもなれなかったので、手当たり次第にコンソール周りを分解しました。なんとか暗くなる前に作業を終えたいと思うのですが、焦るほど混乱して部品のはずし方が分からなくなります。
小学校から帰ってきた娘が、「パパが車を壊している!」と驚いていました。
それでもなんとか、夕方までには配線も終わり、車も元通りになりました。
体を動かしていたので、夕方からへばってしまい、10時過ぎまで寝てしまいました。おかげで、スポンシーからの電話ものがしてしまうし・・・(後で連絡付いたけど)。
これからはなるべく夜寝て、朝起きている生活にしよう・・・と思うものの、すでに窓の外は明るくなってきている時間であります。
2005年04月06日(水) へとへと 独身時代東京のアパートに住んでいた頃、ゴミの分別収集が始まりました。
酒瓶やビールの缶は月一回決められた日の「朝」にしか収拾してくれません。アルコホーリクで自己管理の全然できない僕のアパートのキッチンは、瓶と缶であふれかえりました。
さて、幸い今は毎日飲むジュースのペットボトルの処理に苦労しているぐらいで、さして苦労はしていません。しかし、唯一なかなか出せずにいたのが「破砕ゴミ」という分類の日であります。これは割れた皿であるとか、壊れた小型家電製品であるとかを出す日であります。
部屋の片隅に、壊れたキーボードだとか、ジャンク品だと言われて買ったら本物のジャンクで使えなかったドライブだとか、そんなものがうずたかく積もっていたのです。それが、フリップ・K・ディックのいうキッチュのように、次第次第に増えてくるのであります。
このままだと僕の部屋はゴミで占領されてしまう。
と思いながら、毎月「しまったもう破砕ゴミの日は過ぎてしまったか」と嘆くのが常でした。
というわけで、PerfecTV(スカイのつかない)のチューナーやパラボラアンテナ、子供の壊れたおもちゃ、パソコンのマザーボード、テープドライブ、MOドライブ、コレクションしたPHSの端末類などを、まとめてゴミに出しました。
そこはアル中でうつ病の人間ですから、やり始めたら徹底的です。中途半端はありません。
おかげで、ステップ4&5が終わった後で心の中の風通しが良くなってすっきりするように、僕の部屋も風通しが良くなってすっきりしました。
しかし、そこは「始めたらやりすぎる」人間の常。体はへとへと、心は自分のコントロールの及ばない諸々の事柄にイライラであります。
ほどほどのいい加減(良い加減)を知らないコントロール喪失人間であります。
2005年04月04日(月) 仲間のバースディと新しい地図 あるAAの仲間のバースディミーティングに始めて行きました。
その人のバースディミーティングというのは、毎年同じ時期にあるわけで、忘れていると毎年行けません。5回目の今年になってやっと行けました。
長野県に新しいAAミーティング会場が二つ増えました。
地図がやっと書き上がったので、更新しておきました。
ついでに、古くなった情報もなるべく新しくしました。2003年(つまり一昨年)に更新したまま放ってあった情報が多くて、やっぱ「まめに更新しないとだめだな」と反省しました。
特にMapFanの地図へのリンクは、まともにリンクできているカズの方が少なくて、チェック体制の甘さがばればれであります(直しときましたけど)。
リンク集の方も、リンク先がまだ存在しているかのチェックをしばらく怠っているうちに、消えてしまったホームページもあったりして・・・。リンク切れを発見したら、メールか掲示板で教えていただけると、大変うれしくありがたいです。
明日(もう今日か)は下の子供の入学式です。赤ん坊が幼児になり、そして学童になる・・・。うーん人間は成長するものですな。僕はなかなか回復しませんが。
2005年04月03日(日) VoIPアダプタ編 FAX電話機を買ったのは5年ほど前だったでしょうか。
用途はAA関係専用の電話回線に接続するためでした。
当時は(今もか)FAX電話機の印字方式といったら熱転写が一般的で、インクジェットは少数派でした(レーザー印字は高級機だけ)。熱転写はインクリボンのランニングコストがかさむので大量にファックスを使うには向いていません。感熱紙を使うという手もありましたが、これは経年変化して読めなくなってしまうという難点がありました。
だから、電気店の店員に「インクジェット方式の」と指定したところ、NECとキヤノン製しかないという返事でした。NECは当時もう自前でプリンターを作るのはやめていて、ヒューレットパッカード(HP)のOEMでした。なので、僕の買ったNEC製のFAX電話機も、エンジンはHP製だったというわけです。
一昨年だったかに、レーザープリンターの調子が悪くなっていた時に、AAの出版関係の仲間に勧められて、ブラザーのFAX・コピー・スキャナーの複合機を買ったので、FAXはそれで送受信するようになりました。
そんでもって、去年フリーになった時に、仕事をもらうために名刺に刷る仕事用の電話番号が必要になってIP電話を導入したのでした。
ブラザーの複合機・IP電話・冒頭のFAX電話機と3台並べておいておくのは場所の無駄であります。FAX電話機を片づけて、IP電話と共用にしようと以前から考えていたものの、面倒なのでそのままにしてありました。それにやっと手をつける気になったのです。
引退させたFAX電話機は、母のところに持って行って余生を送ってもらうことにしました。インクが切れていたのでカートリッジを注文したのですが、もうNECでは売っていなくてHPの型番になっていました。5年でカートリッジが3個目というのは、なかなかランニングコストが安くて、その点では買った時の選択は正解であったと言えます。
IP電話のVoIPアダプタの調子が悪くて、NTTに交換してもらったという話は以前に書きました。交換してもらって直ったと思ったら、また症状が復活してしまいました。インターネット上を調べてみたところ、NTT 西日本/東日本 VoIPアダプタの検証 とか NTT東西のIP電話対応機器について書くところ というページが見つかりました。
パソコンでVoIPアダプタの動作を24時間監視していて、挙動不審になったらリセットしてしまえ! というのはなんだか乱暴な手段ですが、なかなかどうして。
FAXを買った頃だったかに「マイ・ネーム・イズ・ジョー」という映画がありました。AAミーティングで、My name is Joe. I'm an alcoholic. と言っているところから題名を取った映画です。ツタヤオンラインで調べてみたら、近くの店にVHSのテープでレンタルしていたので、借りてきてパソコンにダビングしました。
今日はそのテープを返しに行って、ついでに娘たちとファミレスで食事してきました。
2005年04月01日(金) 水虫と友人の死 ホームグループのミーティングの帰りに、実家に寄らせて貰って、母に飯を食わせて貰っています。ついでに風呂も入らせて貰っています。
母はスイミングスクールに通っていて、そこの脱衣室で水虫を移されました。そんな話を聞いたのが2月。皮膚科に行って薬を貰いなさいよとアドバイスをして、「痕が消えても1ヶ月は薬を塗り続けないと、菌が潜伏して再発するからね」と言っておいたものの、3月のお彼岸に子供と帰省した時には、「もう良いと思って、塗るのをやめたら、また水虫になっちゃった」という予想された通りの展開を見せておりました。
お彼岸が終わってからしばらくして、長女が足がかゆいと言い出しました。実家のお風呂の脱衣所で、水虫をうつされてきたのかもしれないと思ったのですが、医者に行くのは先延ばしにしてきました。ですが、気が付くと、僕の足にもなんだか「カサカサ」ができてしまい、しかたなく今日は、親子で皮膚科に行ってきました。
そこは女医さんがやっているところで、泌尿器・性病科も兼ねているのであります。妙齢のお嬢さんが、診察室より奥の「処置室」というところに入っていくのを見ながら、「う〜む」と考え込んでしまう僕でありました。
毎日一回塗るように、と抗生物質を処方されました。昔は一日3回だったことに比べると、水虫の薬も進歩しているものですね。看護婦さんは「今日は人手が足りなくて」と言い訳していたものの、たかだか水虫の治療を受けるのに、3時間以上かかってぐったりしてしまいました。
さて、そのメールは今日のうちに届いていたものの、POPFileという迷惑メールフィルタが誤分類をしたおかげで、僕はショッキングな用件を伝えるメールの到着にしばらく気が付きませんでした。それは僕の友人(?)の死を伝えていました。
彼と出会ったのは高校の頃でした。
僕はそのころ、小学校6年から始めた天文の趣味もそろそろ飽きてきて、新しい何かを探している時期でした。天体の軌道計算をするというテーマから、「プログラムできる計算機」に興味を持った僕は、天文部と数学研究会の両方に属する彼と親しくなりました。
僕が後にプログラマーになるのを決定づける出来事でした。
お互いに東京の理系の大学へ進学した後も、頻繁に連絡をとっていました。コ○ック○ーケットに一緒に出店したこともありました。学業を放棄して一緒にアルバイトしていました。
だが、僕は酒に溺れて、学業どころか仕事も放り出すようになり、彼に多大な迷惑をかけるようになり、一度は疎遠になります。
彼は仕事がうまくいって、金も持っていたのですが、成功は長くは続きそうにありませんでした。彼は乾坤一擲の仕事を、会社員を(酒のせいで)やめてフリーになった僕に任せてくれました。彼の成功のおこぼれに預かろうと、無理に仕事を分けてくれるように頼んだのです。
頼まれた仕事を放り出して、雀荘でビールを飲みながら麻雀を打っているところを発見され、「貸した金は返してくれなくてもいいから、絶交だ」と言われて絶縁となりました。
その仕事は彼が完成させたものの、時期が送れ、ヒットにはなりませんでした。悪いことにその後、彼は成功には恵まれませんでした。そして、その原因のひとつは、あの重要な仕事を酔っぱらいに任せたことにあると考えていたとしても、無理のないことです。
僕が結婚式を挙げる時に、ダメもとで彼に招待状を出したら来てくれたものの、「おまえのことは一生許さないからな」とめでたい席で言われました。酷いヤツだと思ったものの、僕が彼にしたことを考えれば、無理のない話でした。
今から思うと、それが彼と交わした最後の会話となりました。
きれい好きだった彼の部屋が「30センチぐらいゴミが積もっている」んだと共通の知人が報告してくれた時には、なんだか自分の住んでいたアパートと似ているなぁと感じたものでした。
彼が長野の実家に帰って入院した原因は、アルコール性の慢性肝炎だという噂でした。
しばらくして実家への転居を知らせるはがきが届きました。
「そうか、彼も夢破れて、都落ちしたか」
と苦笑いしたものの、彼が酒に溺れているという噂に、もし彼がAAのドアを開けて入ってきたら、自分はいったいどうしたらいいのだろうと考えたりもしました。
そんな不安もいつしか消えていきました。ちゃんとボーナスをもらえる時が来たら、彼に金だけでも返しに行こうと思っていました。しかし、景気は悪くなるばかりだったのです。
最近になって、彼の昔作ったソフトを復刻するという話があり、仕事仲間が久しぶりに連絡を取ろうとしたところ、2年前に急病で亡くなっているという返事があったそうです。その連絡が、今日メールでやってきました。
彼は僕の鏡でした。同じようにビル・ゲイツになる夢を見て、同じように学業を放り出し、酒に溺れて、失意のうちに帰郷したわけであります。彼は死に、僕は生きている。二人の運命を分けたものは何だったのでしょうか?
AAの存在?
そうかもしれません。でも僕は「自分が幸運だったから」というふうに感じられてなりません。
この休みのうちに、何十年ぶりかに彼の家を訪問し、線香だけでもあげてこようかと思います。
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