2009年03月31日(火) |
この地の葬儀の基本形? |
葬儀は正午に開会、午後1時に閉会。
弔問客として参加する場合はそれだけなのだが、 当然、きょう(昨日)はその前後のすべてに参加したわけなので、 これは、かなり久々の体験だった。
10時に集合して、10時半ごろに食事した。 「おとき」と呼んでいたが、要するに、町内で葬儀をしていたころ、 「今のうちに食べておきましょう」と早めに昼食した名残だろうか? 「お斎」という語を調べると、ちょっと違う意味が書かれているが。。
葬儀が終わって棺を霊柩車に乗せると、 我々はすぐそのままマイクロバスに乗せられた。 知人の参列者に挨拶する余裕もない。
父母の家から葬儀場までの道の半分以上を戻って斎場へ。。 こんなところにあったんかね、、? 表から見ると、コンサートホールかと思うような美しい建物。。
最初の部屋に入ると、もう導師が先に来ていて読経が始まった。 ここで、葬儀場でいったん済ませたはずの最後の別れを再び。。 それから第2の部屋に移り、次のドアの中には、 いかにも今まで何人もの遺体を焼いてきたぞ、というような台があって 棺はその台の上に載せられ、、、そうしてドアが閉められる。。
それは、故人が急死だった場合などはとりわけつらい演出に思われた。
それから、また葬儀場の方に戻って、しばらく待機。 私はロビーで母の一番下と二番目の弟である叔父たちと談笑していた。 子どものころ、かわいがってくれた叔父たちである。
3時過ぎたころに骨拾いに再び市の斎場に戻った。 焼き場の人が、ここはどこの骨、これはどこの骨、と、 詳しく説明してくれるのだが、 私はとにかく、あの父の体がこんな姿になってしまうことにびっくり。 何年ぶりかなぁ、、骨拾いにまで参加するのって、、?
私が今までにこの骨拾いのところまで参加したのは、 母方の祖父の葬儀(一宮にて)と、 大学卒業の3年後に、家庭教師で教えていた子の葬儀(東京にて)の 2度だけである、、、それだけしか覚えがない。 (父方の祖父母の時は田舎で、土葬だったはずだし、、)
そのどちらの時も、かなりたくさんの人が残っていて、 遺体を焼いてる間に飲食していたような気がする。 特に家庭教師の生徒の時は、親族でもない自分がそこに参加してるのが 不思議な気がしたものだった。
焼き場の人がひととおり焼け残った骨の説明をした後、 三方状の台に入念に選んで二十数片の骨を取って並べた。 それを2人1組で1片ずつ骨壺に納めるのはどこも同じだろうが、 骨を入れる順番というものをちゃんと守っているらしい。 最後の数片は私と兄で入れたが、最後の頭蓋骨のかけらで 「蓋をするように入れて下さい」と言われたから、 あぁ、足の方から順々に入れて最後は頭なんだな、とわかった。
それからまたマイクロバスで葬儀会館に戻り、 そのまま葬儀をやったホールに導かれて、初七日の法要。
読経が始まるとすぐに焼香を始めた。 でも、何か、今回は気が抜けた焼香のような印象が拭えない。。
その時にやっと理解できたのだが、 要するに、1週間後にまた親族を集めるのはたいへんなので、 まだ親族が残ってるこの機会にやっておこうということなのだろう。
それから食堂に入り、初七日の食事をして、4時半ごろ終了。 ここまで参加していたのは、兄と私の家族と母・妹で10人の他、 親戚が10人。 後で、葬儀屋の担当者と雑談していたら、 20人も最後まで残っていただけるのは、最近珍しいですよ、 と言っていた。
彼に言わせると、各務原のあたりでは、 朝の「おとき」の方がにぎやかだそうである。 東に行けば行くほど、当然のようにして親族が集まってくるそうだ。
我が家の親戚は、一宮から名古屋にかけて住む人たちと、 岐阜県の東の方にある可児郡御嵩町のあたりに住む人たちだが、 そういう習慣がまったく残ってないらしいので、 われわれ家族10人だけだった。 あと、受付の係に来てくれた人たちと僧侶のために用意した。
2009年03月30日(月) |
この地方の「おくりびと」 |
葬儀屋の友人から、湯灌師とか納棺師とかいう語を初めて聞いて、 そういう専門職があることを初めて知って驚いたとき、 湯灌というのは、深めの木の盥に入れてジャブジャブやるのかな? と想像していた(笑) 映画の「おくりびと」では実際に湯に入れたりせず、拭くだけだった。
きょう納棺に来た男女は大がかりな道具を積んで来た。 浅めの丈の長い、上から見ると長方形の盥(これは見たことがある)。 車の中には発電器やタンクもある。
準備の最中に、よく墓参りなどで使われる木製の桶を渡され、 水を少し入れた上に、風呂の温度くらいのお湯を半分まで入れるよう 指示されて、そのお湯を入れて渡しておいた。
準備が整うと、その浅いバスタブに、入ってしまってるのでなく、 そこにハンモックみたいな原理で浮かせて寝かせられた父がいた。 青いタオルケット状のものが体を覆っている。
桶を右手に持ち、左手に柄杓を持ち、桶の湯をすくって、 柄杓を左に傾けながら足から胸にかけて少しずつかける、、 これをまず家族4人が順々にやった。
それから男性の方が洗髪から始めた。 ひげ剃りも入念に。。。 それまで布団の方の準備をしていた女性の方が、 スポンジに石鹸をつけて足の方から洗い始めた。 頭も体もシャワーで洗い流す、、、シャワーの湯は車から供給される。 排水もちゃんとホースでできるようだ。
大がかりなものだなぁ、、、と感心。。
湯灌が終わると、布団の上に移して仏衣を着せるが、 仏衣はすでに布団の上にセットされていてその上にのせるので、 映画でやっていたようなややこしい手続きは必要ないようだ。 その代わり、美しい所作もなし。。。
しかし、とても丁寧な作業には変わりなし。 顔も、口がかなり閉じて、顔にできていたいくつかのできものも 自然な化粧で隠されて、見違えるようなご遺体に変貌した。 棺に納めるときに、私は薄布団の頭の方を持ったのだが、 今にも目を開けて笑って何か話しかけて来そうな気がした。
棺に納めてから、棺にいろいろな詰め物をしながら、 棺の中の形を整えて、、、それら一連の作業のみごとさに、 あぁ、専門職だなぁ、、、という思いを新たにした。
葬儀屋の友人から話を聞くまでは、 こんな手の込んだ仕事だとは思いもしてなかったのだった。
2009年03月29日(日) |
初体験の1日を振り返る |
今朝、7時過ぎに電話が鳴って、妹から病院に呼ばれた。 昨夜眠ったのが遅く、熟睡のさなかだったので、朦朧としていた。 なかなかすっきり目覚めない体と意識を何とか回復させて、 8時過ぎに病院に着いた。
父は、私が着くちょっと前から目を閉じてしまったそうだ。 最近見に来た時のようなゼーゼーした息の音は聞こえない。 何の機械かよくわからないが、 モニターの数字が30台から50台を行ったり来たりしている。 その数字が20台に落ちてからが早かった。
今までの習慣で、父はきっとまた持ち直すに違いない、と そういう意識が安易に心の中に住みついてしまっていたので、 モニターの数字が0になってしまうなんて思いもよらなかったし、 聴診器を当てていた医者から宣告を聞いたときも、信じられなかった。 それが8時20分。
母と妹が葬儀屋への連絡と座敷の用意のために帰宅し、 私が、病院との連絡と葬儀屋を待つために病院に残ることになった。
9時ごろに遺体の処置が終わったと看護士が言うので、 父と遺体と一緒に病室で待った。 葬儀屋が何時に来るかの連絡を待っているのに、葬儀屋が先に着いた。 家に電話すると、片づけがたいへんなのであと30分待って、と言う。 葬儀屋にも待ってもらって、結局10時過ぎに搬出した。
我が家の座敷に寝かせて、ドライアイスや枕飾りをセットしてもらい、 ようやく我が家の座敷に静かに横たわった父の傍に、 母がしばらく小さい体を丸くして座っていた。 母は、今年に入ってから家に連れて帰りたがっていた。 生きてるうちは結局連れて帰ることはできなかったけれど、 やっとうちで寝かせてやれた、という思いもあったに違いない。
葬儀屋と具体的な打ち合わせ(つまり商談)に入ってからが長かった。 実に順序だった丁寧な説明には感心するばかりだが、 遺族にとっては、考えること選ぶことが多すぎる。 弔問客の数ひとつ取ってみても、見当がつかないので 考える気にもならないのに、順序立てて見当つけなきゃいけない。
きょうの我が家の場合は、ある程度覚悟できていたことだったけど、 急病とか事故とか災厄とか、突然死に遭った人の家族などは、 いったいどんなたいへんな思いなのだろう、、とつくづく思った。
その葬儀屋との打ち合わせが終わって時計を見たら1時半。。 それから軽い昼食をとりながら、叔父も交えての相談。 そのうち、リフォームで親しくなった職人がやって来た。 母は、とにかくうちで納棺して出棺したいという気持ちで、 そのための障害になる座敷の外の竹を全部伐ってしまおうと、 朝、葬儀屋に電話した後でこの職人に依頼したようである。 (座敷の縁側の外に一列並んでいただけの竹なのだが)
3時過ぎにいったん帰宅して、、、 家では息子の礼服がまだないことに気づいて、私を待っていたが、 その買い物の付き添いは妻に行ってもらった。
6時に再び妻も連れて行き、6時半から枕経。
6時に着いたころには、喪主になる兄も勤務が終わって来ていて、 親戚から頼まれた供花の割り当てやら、親族の出席のまとめやらに 取り組んでいた。 8時過ぎまで兄の相談にのって、帰ってきた。
明日の職場は新年度の体制を決めるための各会議があって、 本当は教科会と図書部会は仕切らなきゃいけなかったのだが、 先週末に教科の授業配当案を作って次期教科主任に渡してあるし、 図書部会の方も要項を作って置いてあるので、 こういうわけだから明日はよろしく、と電話して任せてしまった。 こういう場合に備えたわけではなかったのだけれど、 木曜と金曜にそれだけはやっておいてよかった。
先日、「相棒」のDVDのスリム版が出ているのを知って、 ちょっと迷ったけれど、結局予約注文した。 スリム版は安価だし、省スペースだからありがたいけれど、 買い始めたらシーズン7まで買い続けなきゃいけなくなる、、、 それで迷ったのだけれど、結局手に入れることに決めた。
スリム版が発売されたのは、きょう公開の映画 「鑑識・米沢守の事件簿」にちなんだ企画のようで、 発売されたのはシーズン1(12話)・2(21話)と、 それらに先立つ土曜ワイド劇場で放映された3話とのことである。
昨夜と今夜で、そのプレ・シーズンの3話を見た。 (大相撲ダイジェストが2時過ぎなので起きてなきゃいけないし、、) これらはたぶん、いわゆる2時間ドラマの枠のもので、 正味90分余のドラマである。
特命課というのは、窓際部署というか、はみ出し部署である。 右京がなぜそこに追いやられているのか、まだよくわからなかった。 とりあえず、有能すぎるがゆえに邪魔にされてるらしい、、 ということぐらいしかわからなかった。
最近、警察小説をいくつも読んできたのだけれど、 手柄をあげる、ということについてのこだわりが想像以上に強い。 自分が手柄をあげなきゃいけない、自分の部署でなきゃいけない、 手柄を横取りされないように注意しなきゃいけない、、、 そういう思いでしのぎを削り合う姿が描かれている。 いくら懸命に働いて、捜査に貢献しても、 自分が手錠をかける、ということがまったくなかったら、 それが理由で左遷させられるようなことが書いてあるものもあった。 情報は共有しなきゃいけないが、手柄のためには、 慎重に情報を交換しなきゃいけない、、とも。。。
このドラマにも、そういう面は描かれている。 右京を目の敵にしているような捜査一課の連中は、 捜査一課の面子だけで捜査を横取りしようと四苦八苦している。 ある小説にも書いてあったけれど、真実追求のためとはいえ、 他の部署の領域を侵すのはタブーなのだそうである。
しかし、右京にはそんなことはまったく関係ない。 捜査一課に証拠品を横取りされて憤る相棒の薫に対して右京は言う。 「手柄ですか? 手柄を立ててどうしますか?」 「手柄を立てたいんだったら、君は降りた方がいい。 徒労に終わりますからね」
要するに、真実のためだけ。。。 立場や面子には一切かまわず信念で活躍する、、、これは、 「HERO」や「24」などに強く感じて来た魅力と一致する。
年金の支給が65歳からになったことに伴い、 60歳で定年退職した後で再任用を希望すれば仕事できることになった。
年金をそんな風にしか支給できなくなった以上、 再任用制度に反対するのも酷なことなので、 しょうがないなぁ、、、と思うしかないのだが。。。
(そもそも、年金の運用を誤って資金を減らしてしまったのが悪い。 そのことに対する反省も詫びもなく、 責任もって補填する努力も何もない。 定年退職後はちゃんと年金で暮らせるようにしてくれなきゃいけない)
3〜4年前から私の職場にも再任用の教員が配置されている。 勤務時間は正規教員の半分だから、2人1組で配置される。
この2人も正規教員1人分として数えられるから、 現場はたいへん迷惑である。 時には、正規教員と同じ気持ちで働く人もいるかもしれないが、 今のところわが職場で見る限りでは、まったくご隠居気分である。
退職の2〜3年前から、そう年寄りに働かせるなよ、てな具合に できるだけめんどうな仕事は避ける人が多い。 そういう意識の人が、小遣い稼ぎみたいに再任用されたら、、、 勤務は週に2日半だから、ますます中途半端な意識になるのだろう。 しかも、1年契約で、次の年度は別の職場で採用に決まってるから なおさら一時的な腰かけのような気分になるのだろう。
はっきり言えば、職場には邪魔だ。 再任用分、もっと若い教員を採用してやってほしい。
年金問題が、教育現場にも迷惑をかけているなんてねぇ。。
もちろん私は再任用なんてご免である。 定年まで仕事を続けるかどうかも自信がない。 もともとそう思っていたが、あのご隠居たちを見ているうちに、 ますます遠慮しなきゃいけない、という思いを深めた。
2009年03月26日(木) |
ふざけてませんか!!?(`ε´) |
今場所優勝争いに残っている白鵬と朝青龍、 きょう、朝青龍が2敗目を喫し、白鵬は全勝。
それを、夕方の帰宅中のラジオで聞いた。 通常勤務よりも早く帰れる時でも、ラジオでやっと聞ける実状だ。
これを見たい。 見たいのは両横綱の取組だけでなく、全部見たいのだが、 ダイジェストをNHKでやるのは、今夜は夜中の2時過ぎだと言う。 昨日は、やりもしなかった。
早いときでたいてい1時15分である。 それが、もっと早い時間になることは稀で、 2時過ぎになったり、未明の4時ごろになったりもする。
ほんとに、ふざけるな!!! と言いたい。 ダイジェストでも見たい、と思う人たちは、 遅くまで仕事をし、朝早く仕事に出かけなきゃいけない人たちだ。
それ以上にふざけてる!! と思うのは、民放のニュース番組。 報道ステーションでも、まったく相撲を取り上げなかった。 ニュースZERO も、いろんなスポーツを短く取り上げてたけど、 相撲はまったく無視。。 サッカーの練習風景の方が、相撲の真剣勝負より大切らしい。
一昨日朝青龍が1敗目を喫した時は、 朝青龍の負けた取組だけを報道ステーションが放映していた。 これが、今場所、私がニュース番組で見ることのできた唯一の相撲。 もうひとりの横綱の勇姿は無視。
相撲は、国技としては認定されてないかもしれないけれど、 いろいろな意味で、日本文化のひとつなのだ。 日本人力士がふがいなくて、外国人力士が出過ぎているかもしれないが 外国人力士が支えてくれてることに感謝すべきなのだ、 というか、そういう外国人が日本文化に入り込んでくれたのである。
モンゴル人白鵬は、伝統的な横綱精神を継承してくれてるのに、 TV局はそういうところにはまったく目を向けないで、 相撲界の不祥事ばかり報道している。 アホ! としか言いようがない。
今、私の部屋のTVはすぽると(スポーツニュース)だけれど、 まだ横綱戦を見せてくれない。 この、頑ななほどの相撲拒否は、いったい何なのだろう??
今夜も夜更かしするしかないようだ。
あ、、、、 今、朝青龍戦だけ、途中カットで見せてくれた。
・・・なぜ、これだけなのか!(`ε´)
最近、やらせや調査不足問題で放送倫理が議論されてたみたいだけど、 放送倫理とはそういうものだけじゃないんだよ。 善きものを伝える、、、それも放送の倫理なのだ。
今朝はたしかにちょっと冷えてはいたのだが大したことなく、 昼間は風もなく強い陽射しで暖かい感じ、、、 天気予報は脅しだけだったのかよ、と思ってたら、 3時過ぎからだんだんと風が強くなり、 その風がだんだんと、いかにも無情に冷たくなり、 6時過ぎの帰宅時には、冬に戻った! と断定できる寒さに。。
数日こんな寒さが続きそうな予報だ。 開きかけている桜もちらほら見られるのだが、 開花はこのまましばらくおあずけになりそうな気配だ。
そういえば、3年前は3月30日に雪が降って積もった。 ほぼ満開に近い桜の上に雪が積もって、初めて見る光景に感動した。
どちらかというと、咲いてから冷えてくれる方がいいんだけどなー。 開花が長持ちするから。。
2009年03月24日(火) |
「Moira ミラ」のライヴDVD |
歌や演奏だけでなく、演劇要素も採り入れているのが特徴の サウンド・ホライズンのライヴだけれど、 今回は出演者も増え、演劇部分が増えている。 映像や照明の効果も、ますます充実した。
昨日かきょうが発売日で届いていたので、さっそく見てみたわけだ。
前回の「ロマン」もいわゆるノリのいい曲が少なかったと思うが、 今回は、女声合唱的な女声アンサンブルが多用され、 しっとりした味わいの部分がかなり多い(なかなか美しい)。 つまり、観客が立ち上がって手を上げて振るような曲が少ない。
しかも、曲間の流れを大事にしているらしく、 拍手にもろくに応えず、次の曲へと入って行く。
そういう意味では実にサービスの悪いライヴかもしれないが、 集まってくるファンはそんなことは覚悟の上なのだろう。
前々作の「楽園幻想曲」からDVDでライヴを見ているけれど、 今回のがもっとも物語の連続性を表現していて、 演出も明快になっている(それでもわかりにくい所があるけれど)。 ステージ上の映像や照明も、ますます進化しているようだ。
これは、しばらく何度か見返しそうだ。 まだしょっちゅう聞いているアルバムでもあるし。。
女声の歌い手が8人いるけれど、ゲスト的な扱いされてるのが 井上あずみ、とか呼ばれていた。 誰だっけ、、、聞いたことある名前のような、、、 あー、、「ラピュタ」や「トトロ」歌ってた女の子か! (もちろん、今はおばさんみたいだけど) 前作の「ロマン」でも1曲歌っていたようだ。 女性陣みんなしっかり歌えるのを集めてるけれど、 確かにひとつ格が違う、って感じはするなぁ。。
観客サービスは、アンコールに入ってから。。。 出演者紹介も、随所で笑わせてくれる。
そしてここのライヴでおもしろいのは、 一番最後は、ステージにはもう誰もいなくて、 会場に演奏だけ(たぶんカラオケ)流れる中で、 観客がみんなで歌を歌って終わりになるというところだ。
いつだったか、父の容態が悪くなって、ケアセンターから病院に戻り、 かなり持ち直したのだが、このところまたかなり悪いというので、 久しぶりに夕方様子を見に行った。
肺炎は嚥下ミスで、肺の方に入るべきでないものが入ったためらしい。 そこに、若いころからの持病の喘息が重なった。 この喘息は、私たちが子どものころからたびたび父の生命を脅かした。 症状がひどくなると、もう、次の一息の後には息絶えてしまうのでは、、 と思わされたものだ。 そんな危機を、10回以上もくぐり抜けて生きて来たのだった。
でも本当にかわいそうだと思うのは、 警察官を定年退職後、自動車学校の副校長として仕事を続け、 (定年退職してから働くことない! って言ったんだけども、、) それも退職して、優雅な老後を送る時期になって、 何年も経たないうちに呆けてしまったことだ。 取り立てて情熱を傾けるほどの趣味も持たなかったせいか、 いとも簡単に呆けてしまった。
やっと自由で気楽な生活を手に入れたのに、 人間らしい精神が損なわれて、喜びを充分に味わえない、、、
今、喘息と肺炎で苦しい息を繰り返している父を見ながら、 父にはこの苦しさがあるだけで、 自分が今どうなってるのかもよくわかってないんだろうな、、と思うと ほんとに哀れでしょうがなかった。
看護師がやってきて、喘息緩和用の吸入器(らしい)をセットして、 その管を引き受けて父の口元にずっとあてがってやりながら、 そして、だんだんと症状が落ち着いていく様子を見ながら、 どんな風に死なせてやるのがいいのだろうとか、 どんな風に(自分が)死ねたらいいのだろうとか、、、 いろいろなことを、複雑な思いで考えてしまった。
妻が、dodge ball のdge は「ヂ」を書くのか「ジ」を書くのか、 と言い出したので、「そりゃ『ヂ』に決まってるがね」と言ったら、 辞書には「ドッジボール」しかないと言う。
何で? 子どものころは聞き伝えで「ドッチボール」とさえ呼んでたのに? サッカーかドッチかどっちにする? なんてセリフもあり得た。 最初に「ドッヂボール」と表記していたのは、 綴りに「d」が絡んでいるからだろう。
そういえば、いつごろからか、 「地面」は「じめん」、「地震」「地神」は「じしん」と かなをあてるようになっている。 「地」は「ち」だから「ち」に点々じゃないと混乱するじゃないですか、 と思うのだが、いつからか、これが統一表記になっている。
「ぢ」はもう使わない、すべて「じ」に統一、ならわかる。 でも、「ぢ」はまだ使われていて、 「間近」「鼻血」「縮む」などは「じ」を振ってはいけない。 こちらはもちろん、自然に受け入れられるんだけどね。。
統一してしまうのでないのだったら、 本来「ぢ」「ヂ」であるはずのものを「じ」「ジ」にしたのはなぜか、 その必要性は何だったのか、甚だ疑問だ。
ちょっと検索してみたら、goo の質問&回答コーナーで、 こんな説明をしている人がいた。
************************************ まず、国が内閣告示・訓令で定めた「現代仮名遣い」(昭和61年 全文は文化庁のHP=下記URL内にあります。)では、「ぢ」「づ」を使うのは次の二つの場合(例外)に限り、それ以外は原則としてすべて「じ」「ず」を使うことになっています。
例外1)同音の連呼によって生じた「ぢ」「づ」 例 ちぢむ(縮む) つづく(続く) つづみ(鼓) 例外2)二語の連合によって生じた「ぢ」「づ」 例 はなぢ(鼻+血) そこぢから(底+ちから) たけづつ(竹+筒) みちづれ(道+連れ)
以上のことから結果的に(現象的に)、 「語頭には『ぢ』『づ』は来ない」 ということになります。
なお、次のような語は「二語の連合」ではあるけれども、「現代語の意識では二語に分解しにくい(元々の言葉を想起しづらい)」という理由で、当初(昭和21年の内閣告示・訓令)は「じ」「ず」と書くことになっていました。 例「世界中(せかいじゅう)」「稲妻(いなずま)」
しかし、「現代語の意識では二語に分解しにくい」という理由が主観的すぎるなどの批判があってか、昭和61年の内閣告示・訓令では、上記のような語について、 「『じ』『ず』を用いて書くことを本則とし、『せかいぢゅう』『いなづま』のように『ぢ』『づ』を用いて書くこともできる」 と、規範が緩められました。
その規範の緩和がなければ(「中」を「ぢゅう」と読むことが許されなければ)、現象的に次のようなことがいえたのです。 「『ぢ』『づ』は、和語(訓読みの言葉・漢字)に限られ、漢語(音読みの言葉・漢字)には用いられない。」 ***********************************
ほー、な〜るほど。。 この経緯とか原則とかは、国語の教員なのに知りませんでした。 すみません!f^_^;
でも、ほんとに感心したのは、次。
「地(じ)」は「地(ち)」の濁音ではない。
ん? ・・・・・・そーいえば! 「地を出す」「地が白い」「地が厚い」「地の物」などを思うと、 「地(ち)」とはまったく別の独立した語に思われる。
だったら、、、地震を「ちしん」と言わず「じしん」と言ったり、 地獄が「じごく」であって「ちごく」ではいけない理由は何か? という新たな疑問も生じて来るのだが。。。
*********************************** さて、ご質問の「地震」の「じ」ですが、これは、上の二つの例外にあてはまりません。しかも、現象的な面(語頭には来ない・音読みである)から見ても、「ぢ」とは読めません。 つまり、もともと「地」には、「ち」「じ」という二つの音読みがあるのです。「省」に「せい」「しょう」という二つの音があるのと同じ事です。(ここらの経緯は、日本における漢字受容の歴史に関係しているのですが、煩雑になるのでここでは触れません。)
「地震」の「地(じ)」は「ち」が濁ったものではないのです。
ただ、ややこしいのは、「地震」をかつて(歴史的仮名遣いで)は「ぢしん」と書いていたということです。しかし、この「ぢ」も「ち」が濁ったことを表しているのではなく、かつては「じ」と「ぢ」の発音が実際に異なっていたことの名残なのです。 今では、全国的に「ぢ」「じ」、「づ」「ず」はそれぞれ同じ音で発音されますが、歴史的仮名遣いの定められた平安時代の共通語では、文字どおり異なった音で読んでいたのです。つまり、その当時「地」は「ぢ」という「じ」とは違った読み方をしていたのです。 **********************************
そうだよ、そうだよ、本来は発音が違ってたんだよ。 だから、今でも区別する方がいいと考えてたのに。。。
「ぢ」と「づ」くらい、歴史的仮名遣い残しても、 バチあたらないんじゃないっすか?
*********************************** しかし、江戸時代ごろまでには、ごく一部の地域(九州など)を除いて、「ぢ」「じ」、「づ」「ず」は、それぞれ同じ音で発音されるようになりました。つまり、「ぢ」「じ」は発音上区別されなくなったのです。
そのような表記と発音の不一致は、国民の言語教育にとって、大きな障害となります。そこで明治以来、仮名遣いの改革が論じられ続け、ついに戦後間もない昭和21年に、前記のごとく「内閣告示・訓令」が出されて今のような現代仮名遣いが行われるようになり、それが昭和61年に一部修正され、現在に至っているのです。
長くなりましたが、以上が「ぢ」「じ」にまつわる仮名遣いについてのあらましです。
「国語学辞典」(東京堂)「日本文法辞典」(有精堂)「日本文法大辞典」(明治書院)「日本語の歴史」(岩波新書)などを参考にしました。
種類:回答 どんな人:専門家 自信:自信あり
参考URL: http://www.bunka.go.jp/kokugo/frame.asp?tm=20061109114640 ************************************
またまた不勉強をいみじく反省させられ、、、 反省ばっかりがてんこ盛りになる人生でございます。
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