TENSEI塵語

2006年03月31日(金) コミュファの工事日

NTTに光ファイバー通信の申し込みをしたのは’03年の8月だった。
NTTからDMも届き、電話でPRするのでその気になったのだが、
この区域内での申込者がまだ少ないのでまだ工事ができない、
申込者が規定に達して工事できるようになったら連絡する、と言われてから
何の音沙汰ないまま2年以上経った。
いや、その間に1度電話があったが、、、勧誘の電話だった。
仮とはいえ、申し込んであるのに、とぼけた話だ。
それでその2年半前は、ISDNからADSLに変更するにとどめた。

去年の12月に中電からPRが来たとき、もうほとんど迷わず決めた。
1軒だけでもやってくれるという話だったからだ。
きょうの1時にその工事に来た。

ISDNとADSLと、今まで2回回線変更の工事をしてもらったが、
今回のはちょっと大がかりになった。
電話線の通っている管にケーブルを通さなければならないからだ。
しかも、一旦2階に引き込んで、さらに3階まで引き込んでもらわなきゃ
ならないので、そこまでで1時間近くかかった。
さらに、終端装置の設置がなかなかたいへんそうだった。
引き込んだケーブルを裂くと、青と黄の糸のように細い線が出てくる。
その青い線を、器具を使って表面を剥いたり、器具を使って接続したり、、、
で、通信状況を確認して終わりなのだが、もう3時近くになっていた。
細かい作業だと感心していると、それを、外で電線のところでもやるのだ
というので、ますますびっくりした。
雨降りの時はたいへんだとか、それより風の日の方がたいへんだとか、
工事に来た2人が言い合っていた。

さて、夕方、さっそく光に移行しようかなと思ったが、
まずはADSL回線のままソネットのコース変更手続きをしなければならず、
コース変更は翌月から有効になるということなので、体験は明日からである。
今までのようにNTTの線をそのまま使ったものでなく、
別の線を新たに並行して通したわけだから、工事によってでなく、
こちらとプロバイダーの都合で回線の変更ができるようだ。
私は、きょう工事が進む途中まで、工事の途中からNTT回線が
切れてしまうのだと、誤解していたのだった。


さて、この2、3日部屋の掃除に専念していたのは、この工事のためである。
とにかく、ひどい状態だった。
そこら中に物が山積みになり、普通に歩いて移動できるところはなく、
ところどころ飛び石のように床が見えているところに足を置くべく、
アスレチックでもやっているかのように移動するしかなかった。
何とかしたいと思っていても、手がつけられない感じで放っておいた。
実際掃除を始めてみると、何度も気が滅入って力を失った。
ちょっと物を整理して片づけると、紙屑の大群に襲われる。
やっとこさ物が減って床が見えてくると、埃にまみれて様々の物が散乱。
もっとも厄介なのが、ライターと乾電池と小銭である。
掃除機に吸わせるわけにいかないものがそこら中に落ちている。。。

・・しかし、今はかなり快適な部屋に戻った。
とにかく、入り口から奥まで、まっすぐに立って普通に歩けるのだ。
椅子に座ったまま好きな方向に移動できるし。。。
夢のような事態だ。
しかし、まだ整理し足りないところがいくつかある。
ぜひ、もう少しがんばって、新学期始まるまでにきちんとしたいものだ。
とにかくきょうのこの感動を大切にしなければ。。。

掃除前の写真を撮っておけばよかった、、、と後悔した。
今となっては、掃除前と掃除後の写真をここに載せると
おもしろかっただろうに、、、と思うのだ。
でも、しょうがない。
掃除前の惨状は、目を覆いたくなる、できれば見ずに済ませたいほどだった
から、写真におさめるなんて、考えもしなかったのだ。



2006年03月30日(木) 雪が降った

朝起きて、窓から見えた景色に驚いた。
「四月の雪」という題名にできるとよかったが、残念ながら2日早かった。




出かけようとして車の雪を落としたら、びしょびしょの雪だった。
とりあえず、とけきれなくて雪の格好のまま落ちてきた感じである。
しかし、もうとっくに見納めになったと思っていたのに、
思いがけず、雪の降りしきる中を走ることができてごきげんだった。
山の雪化粧が美しい。
幻想的な世界の再現である。
信号待ちの時にケータイで撮ってみたが、
今PCで見てみたらぜんぜん雪がかぶっている感じに見えないので、ボツ。

昼前に堤防を走っていたら、桜の花の上に雪がかぶっていた。
枝々の桜の花の塊の上に、雪がなだらかな山のように積もっているのだ。
車を走らせながら短い時間に見るだけでも、実に風情ある姿である。
そう、本来あってはいけないものが、何ともいえぬ趣向になっているのだ。
自然が作りだしたものでありながら、自然にそむいた美の世界である。

稀有な光景なのでこれこそ撮っておこうと思ったが、
信号待ちの場所でもないし、路側帯もないし、車を停めることができない。
やがて、そんな桜は見あたらない地域にはいってしまった。
惜しいことしたなぁ、、、と思っていたら、
朝日新聞の夕刊の1面に、花の上に雪の積もった写真がちゃんと載っていた。
そうだよなー、撮りたくなるよなー、不思議な光景だから。。。

ちょっと拝借してしまいました、、、反則かな?


私が見たのはこんな咲き始めの桜ではなく、八分ほどに咲いていたので、
淡いピンク咲き乱れているところにかぶさっている雪が実に不調和で、
それでいて何か美しい情緒を醸し出しているのだった。
生まれて50年目にして初めて見る光景だった。

それにしても、何という異常な天候であろうか。。。
ま、まさか、私が昨日から真剣に部屋の片づけを始めたから、、??



2006年03月29日(水) 部屋の片づけ

ちょいちょいはやらないでもなかったが、
大々的な片づけとなると3、4年ぶりかもしれない。
ちょいちょいやったのもいいかげんだし、特にこの1年は放ったらかし、、、
そんなわけで部屋の中はまったくひどい状態だった。
文字どおり、手がつけられない状態といっていい。
1、2時間片づけに時間を費やしてもほとんど変化がない、
そんな状態にまでなってしまうと、かえって何もできなくなってしまうのだ。

きょうは1日休暇をとっての片づけ日である。
何度か途方に暮れて気力が失せたりもしたが、何とか床が広くなり、
下の部屋で余っていた収納棚を設置することもできて、希望が見えてきた。
明日も半日休暇をとって片づけに専念しよう。

整理下手は、私の数多い欠点のうちで最もゆゆしき欠点である。
その根底にあるのが、いやなことは後回しにしたがる性癖である。
人生50年の中には、180度変えることのできた面もあるのだけれど、
整理能力の方は悪化の一途を辿っているようだ。
その代わり、整理上手の人たちには決して味わえない楽しみもある。
発掘の喜びである。
こんなところにこんなものがあった、という感動は、
几帳面な整理上手には決して味わえまい。


夜の10時過ぎまで片づけをしていたが、今夜も「Hero」を2話見た。
ホントにいいドラマだ。
コミカルとシリアスのバランスが絶妙だ。



2006年03月28日(火) 久々に「Hero」

キムタクが検事役をやった「Hero」のDVDが目に入って、久々に見た。
最初に見たのは、この塵語によれば2001年の9月らしい。
その時はレンタルビデオで、その後まもなくDVDを手に入れて3、4回、
ほとんど間を空けずに見続けていた。
きょう「ダーク・エンジェル」の2回目を中断して「ヒーロー」を見たのは
そんなことを思い出して、そんなにおもしろかったっけ?と思ったからだ。

第1巻が見当たらなかったので、きょう見たのは第3、4話である。
適度は笑いと適度な深刻、、、そして、やや悲哀を含みながらの
ホッとするラストの後に流れる「Can You Keep A Secret?」。。。



2006年03月27日(月) 新学期の始まり

きょうは朝から新年度の体制を決める校務委員会。
原案がよく練られていたせいで、修正はいくつかあったけれど、
それほど困るような難題にもならず1時間半ほどで終わった。
が、その後の、明日の職員会議のための予備会議の方にかなり時間がかかり、
全部で4時間ほどかかって、昼の1時前にようやく解放された。

それで帰れるわけではなく、それから明日の分掌会議の準備がある。
長年いる司書兼任の実習助手と相談しながらその案を作るうちに、3時過ぎ。
もう遅くなりついでだから、かねてから考えていた作業を始めた。
もう何種類もある百科事典などは倉庫に片づけてしまって、書架を空ける。
何種類もの百科事典は、調べものを可能にする図書館のシンボルだろうが、
実際百科事典の利用者が稀すぎる。
英語版の百科事典が2種類も入っているが、誰が要望したのだろうか、
英語の先生でも、10年にひとりくらいぱらぱらめくる人があるかも
しれないが、もうほとんど無用の長物だ。
何十年にひとりくらいのマニアが要望して購入に及んだのだろう。
無駄な買い物だ。
図書館や倉庫にしまっておくのでなく、英語科の教材棚に並べたら、
ひょっとしたら、教材として使ってもらえることがあるかもしれない。
「これをどう英語で表現するか?」というサンプル集だからである。

私はもっと図書館の現実を見て、蔵書を活かす工夫をしなければならない。

・・・そんなわけで、去年も新学期は、処分されずにたまっていた
新聞・雑誌の処分のために、激しい筋肉痛が心配なほどの肉体労働で
始まったのだが、今年もまた、肉体労働で始まったのだった。



2006年03月26日(日) 白鵬、優勝を逃す

きょうは部屋の片づけに専念する予定だった。
ところが、目覚めはすっきりしていると感じたものの、
身体の方は何となく重たくだるく、動く気になれない。
起きてから1時間半ほど経ってから朝食をとったが、その後がよくない。
身体がだるくてしょうがないので、横になったら、
昼も過ぎて3時まで眠ってしまった。
途中で2度ほど目を覚ましたが、とても起き上がれず眠りに戻って行った。
普段はめったに見ることのない夢を見まくっていたようだ。
3時に起きてからは、身体全体も快調だったので、
そこから片づけに専念してもよかったのだが、きょうは千秋楽で、
白鵬と朝青龍の優勝争いの日でもある。
相撲の中継を見ながら、机の上や周りの片づけをぼちぼちやることにした。

白鵬は魁皇に負けた。
魁皇相手ならこういう負け方は十分あるだろうと思われる負け方だった。
この時点で私は白鵬の優勝を諦めた。
朝青龍が栃東を破るに違いないと思っていたからである。
ところが、朝青龍の方は、思いがけず、一方的に栃東にやられてしまった。
朝青龍らしからぬ負け方で、微かな虚を衝かれた番狂わせである。
白鵬と朝青龍の優勝決定戦となり、白鵬の望みはつながった。
この決定戦は実によい取り組みだった。
互いがしっかり組んで、しかけ合いながら耐え合いつつ勝負していた。
こういう相撲が見たいのだ。
輪島と北の湖が展開していたほどの迫力はないが、これが相撲の手本である、
そんな取り組みだった。
結局最後は、白鵬が引きつけて出たところを朝青龍が投げた。
一瞬の明暗で、白鵬は初優勝に届かず、朝青龍は賜杯を奪還した。
朝青龍は落ちた土俵際に顔を埋めて泣いているようだった。

白鵬が優勝を逃したのは残念だけど、充実した場所だった。
白鵬は今場所ほどの注目を浴びるべき逸材であって、
1年間ほど道草を食ってしまったけれど、大関昇進を確実にした。
脚に大けがを抱え込みながらの琴欧州の健闘もすばらしかった。
最後の2、3日はもうぜんぜん脚の踏ん張りがきかない状態だったけれど、
最後まで関取としての義務を果たした。
(この無理が、再起不能へと導かなきゃいいけど、、)
そしてまた、十両にすごい奴が現れた。
把留斗とかいうリトアニア出身の力士で、十両全勝優勝、
2度ほど見たが、体つきといい取り口といい、実に強そうだ。
相手が十両だからまだ何ともいえないが、このまま成長すると、
来年あたり、白鵬や琴欧州にも脅威の存在になりそうな感じだ。
こんなところにも注目できた今場所だった。



2006年03月25日(土) 市吹で新曲に入る

定演後の最初の練習日というのは、何か心がときめくものである。
定演まであと3、4カ月というころからは、新曲で遊ぶわけにはいかない。
プログラムに加える曲でない限り、新曲はない。
今度の定演とは関係ないけど遊んでみましょう、というわけにはいかない。
一方で、次年度の曲探しを随時やっているから、
いい曲を見つけるとやってみたくてしょうがない。
けれども、定演までは、ひたすらプログラムの曲を繰り返す。
練習に完成ということはない、どう転んでも定演での演奏が完成なのだから、
それまでは時間の許す限り執拗に繰り返し、追求するしかない。
定演を終えた喜びの内容を説明し尽くすのはたいへん難しいことだけど、
1年間の曲目から解放される喜びも混じっていると思う。

新たな自由を得た1曲目に選んだのは「ミス・サイゴン」メドレーである。
これのヨハン・デ・メイ編曲版は去年から聞いていたけれど、
18分ほどに及ぶ充実した内容のメドレーながら、
全体を聞いた後での印象があまりよくなかった。
その原因が、前半の方でメロディーが不明瞭な部分が2カ所ほどあるのと、
最後の曲のせいだと思った。
その曲自体は、ミュージカルの中で聞いてみたらいい歌なのだけれど、
こうして長大なメドレーの終曲としては、どうも、、、と思って却下。
それで、この曲はしばらく候補曲から外れていたのだが、
今年の1月に何度か、宍倉晃編曲版の練習をする機会があった。
7分ほどもない、実にすっきりまとまった編曲だ。
名曲「The Movie In My Mind」があっさりしすぎててもの足りないが、
後半がたいへんおもしろく、ラストも第1部の終わりにふさわしい。
この2つの編曲をくっつけて、第1部のメインにすることに決めた。
メイが「サイゴンの陥落」をメドレーに入れなかったのは不思議だ。
またどちらの編曲も「私の命をあげる」を入れてないのも不思議だ。

難しい曲だし、一般によく知られた曲というほどでもないから、
初日に1時間ほど試奏しても混沌としている。
簡単な曲なら2度目にはほとんど演奏になってしまい、
ほんのちょっと修正するだけでステージに乗せることも可能だが、
こういう曲はそういうわけにもいかない。
打楽器の入りどころも複雑だ。
ヘリコプター音を打楽器でどう表現するかという課題も抱えている。
しかし、我々の定演は1年に1回きりだし、
その間に出番はあっても、こういうレベルの曲は演奏しない。
1年間の練習に耐え得る曲でなければならない。
この初見からしばらくの間は、めきめきと曲が形になっていく期間である。
そういう意味でも、楽しみの多い時期である。



2006年03月24日(金) 松岡圭祐「千里眼」

これは、先月17日の「催眠」より何倍もおもしろかった。
このおもしろさはダン・ブラウン的なおもしろさだ。

ヒロインの岬美由紀が一種の超人だ。
元優秀なる自衛隊員、現在は子どもたち相手の臨床心理士、、、
防衛上の知識に通じ、武術にも長け、武器も扱える一方で、
催眠療法や読心術にも精通して使いこなせる。
こういう破格なキャラには、今まで出会ったことがない。

そういう二方面の知識を総動員して推理をめぐらし、謎を解き、
カルト教団の大規模なテロを、絶望的なギリギリの攻防で粉砕していく。
単に推理するだけでなく、大胆不敵な行動力によって、、、ついには、
自らジェット機に乗って単身で戦闘を繰り広げる。。。

このごろは、こういう超人的な、それでいて人に対する愛情深いヒロインに
恵まれているようだ。
長く接すれば接するほど、どうしようもなくかっこよく美しく見えてしまう。


今朝は焦った。
何となくいやな予感とともに目を覚ましたら、すでに7時35分。
いつも出かける時間の平均値の時間だ。
たいてい寝坊をしても7時15分前後である。
大慌てで、7時47分ごろに出かけ、始業の10分前には着いたが、
きょうは合格者登校日という特別行事の日なので、
車を走らせながら、集合時間がいつもより早いのではないかと、
気が気でなかった、、、実際着いてみたらそういうこともなく、平穏だった。


自分の役割のない時間には、図書館の倉庫にずっと眠っていた
去年退職した先生が寄付していったという本棚を3つ組み立てた。
どれも組み立てる構造が違っているが、組み立て方の図はない。
部品をにらんで、組み立て方を推察するしかない。
今までにいくつもの棚を組み立ててきた経験がなかったらお手上げだった
かもしれないが、今までにない構造のばかりだったけれど何とかわかった。
この本棚を倉庫に置いて、誰にも見られることのなくなった何種類もの
百科事典をここに片づけて、館内の空いた棚に、
この先生が寄贈していった本や、館内の奥にある文学書を並べる予定だ。

この作業を、夏休みにやろうとしたら暑くて挫折したし、
冬休みにやろうとしたら、寒くて挫折した。
きょうは適度な陽気だったので、思い立ったら躊躇なく取りかかれた。
精神面でも肉体面でも、適度な涼しさや暖かさは重要である。
ちなみに、昨日は暖かい風が吹いて、これから一気に暖かくなり、
すぐに桜が咲き誇る、、、などと予想させたが、きょうの風は冷たかった。
何となく冷え冷えした感じで、桜を見られるのはもう少し先のようだ。



2006年03月23日(木) 「ダーク・エンジェル」見終わる

最後の数話は、心が怒りで満たされる。
権力ある者の、実に身勝手で狡猾なやり口。。。
真実を見ようとしないでマスコミに踊らされる市民。。。
この両者がうまく共鳴し合うといかに恐ろしい状況になるか、
それが実に執拗にうまく描かれていて、そら恐ろしさと怒りが渦巻いた。
群集心理というものは恐ろしいものだ。

シーズン2は、希望も仄めかしているが、絶望も仄めかして終わる。
ぜひ、マックスたちの未来を保証するシーズン3を描いてほしいものだが、
噂によればもう制作はうち切ったということである。
無責任な話だ。
我々にとって、マックスはもう友人であり、心の恋人だというのに。。。



2006年03月22日(水) マックス〜〜、、(T_T)

「ダーク・エンジェル 2」の第18話まで見た。
実に、実に深刻な事態になってきた。
ジェネティックたちすべてが、陰謀により人間の敵という烙印を捺され、
追いつめられつつある。
彼女らには何の罪もないし、実際には人間の味方もしてきたのに。。。
彼女らを追いつめる奴らめ、いい加減にせんかい!! と思うのだが、
非情にもあらゆる冷酷な手段を駆使して彼らを追いつめる。。。

追いつめる奴らの中枢にいるのは政府の要人らしい。
つまり、DNA研究を極秘に進める中で彼女らを産み出させておきながら、
国費をつぎ込んだその事実が明るみに出ることを阻止しようと目論む。
そのためにマスコミを利用して庶民を煽動する。
非難は罪なきところに集中し、庶民は政府の罪を見過ごすのだろうか、、?
考えてみれば、これも現実世界の縮図なのではないか。


白鵬vs朝青龍の全勝対決は、白鵬が勝った。
対応がすばやいので定評のある朝青龍よりもすばやい対応で勝った。
TV画面に、全焼白鵬、1敗朝青龍、2敗若の里と表示されるのを見て、
あー、とうとうこういう白鵬がトップに表示される日が来たなぁ、と
実に感慨深かった。
大関昇進も間近になってきた。
期待していた力士が、一度は低迷しながらそれを乗り越えて力をつけてきた。
嬉しいことだ。
リアルタイムではラジオでしか聞けなかったが、
ニュースやダイジェストで3度その取り組みを見て、白鵬の勝利を祝った。



2006年03月21日(火) 白鵬10勝0敗!!

きょうは共に定演をめざしてきた高校との定期演奏会で朝から出かけた。
準備とリハだけつきあって、午後は副顧問と交代して帰った。
帰ってからは、のんびりするつもりだったが、
塵語も市吹の活動日誌も日曜日から空欄のままだったので、それを書いた。
何だか、わざわざいらん仕事を増やしているような感じがした。

5時からのんびり相撲の中継を見た。
1場所に1日でも生中継で見られる日があれば幸福な方である。
今場所は最大の期待の白鵬が、いつも負けやすい序盤も勝ち続けて10連勝。
先場所からの通算16連勝だということだ。
最初注目しはじめたころの、型の鮮やかさはあまり見られないが、
力や機転はかなり身につけて来ているようだ。
琴欧州も、かなりひどい怪我をしていながら7勝にまでこぎつけた。
昨日はこの2人が大接戦で、白鵬が勝った。
鵬欧時代の到来が楽しみである。
白鵬は輪島を連想させ、琴欧州は故二子山親方の現役時代を連想させる。
しかも若い、まだまだこれからという2人だから、ますます楽しみである。



2006年03月20日(月) 首痛、肩痛、腰痛、、、

一夜明けてみると、首も痛いし肩も痛いし、腰も痛い。
ま、昨日だけでなく、蓄積された疲れがここに来てどんと現れたのだろう。

いや、昨日の後遺症かもしれない。
昨日、実は本番中にひとつ事件があった。

プログラム最後の曲の前に団長挨拶があるのだが、
今回は、ぜんぜん練習に参加できず本番も下りることになった代表のSが
挨拶をすることになった。
その挨拶の間、暗くなったステージを私ひとりこっそり抜けて
楽屋でひと休みさせてもらうことになっている。
ところが、団長の挨拶は大体の流れがもう読めるのでいいのだが、
代表挨拶というのははじめてで、どうも流れが読めない。
挨拶が終わるころにはこっそりと指揮スペースに戻らなきゃいけない。
例年はこれが非常に余裕をもってできるのだが、昨日は少々慌てた。
で、急ぎ足でステージの扉から出て、3歩4歩と歩いたところで、
いきなり足が頑強な物体につまずき、かなりの勢いで転びかけた。
しかし転倒してしまうわけにはいかないので懸命にバランスをとって耐えた。
その時の後遺症が首や肩や腰に来ているのではないだろうか。。。

その物体は、指揮台である。
例年、第2部のポップスの前に片づけておいてもらう手はずになっているが、
昨日はなぜか、第2部の最初に片づけてなかった。
それで、まだステージが暗転のうちに、自分で引きずって行って、
舞台の袖のところに置いておいたのだ。
自分で置いておいたその指揮台につまずいてしまったわけだ。
しかし、観客からは見えないところで起きた事件でよかった。
かなり大きな音がしたらしいけれど。。。

それできょうは、朝2時間の休暇を予め取ってのんびり出勤したが、
1日中どうも体調が冴えない感じだった。
また、きょうも昨日と同様、風の強く吹く寒い1日だった。
いかにも体調を崩しそうねイヤな予感が漂っている。。。



2006年03月19日(日) 定演が終わった

市吹の1年間の総まとめが終わった。
演奏曲目がかなり多くの人に気に入っていただけたようで、
今年も選曲の並々ならぬ苦心が報われて嬉しい。
初めて聞く人にも、そして吹奏楽に無縁な人にも、心に入りやすい曲を
厳選しているつもりだが、実際に聞いてもらうまではわからない。
そしてまた、決して単純で明快な曲ではなく、
いい加減に演奏したらぐちゃぐちゃで何やってるかわからなくなるような
曲ばかりなので、演奏上の演出もなかなかうまく行ったということだ。
実際昨夜ホールでの聞こえ具合をチェックしたが、
ほとんど打楽器のバランスを修正する練習で進んで行った。
まぁ、あんまり細かい点まで修正するほどの時間はなかったし。。。

さまざまな不安材料を抱えながら、無事に1年の総まとめを終えたという
その嬉しさもさることながら、これから新しい曲に取り組める嬉しさもある。
終わりは新たな始まりである。
1カ月ほど前に次の曲を3曲ほど決めた。
そのひとつが、「ミス・サイゴン」のメイ版と宍倉版を組み合わせて
17分ほどのメドレーにして演奏するというものであり、
またひとつが、「パイレーツ・オブ・カリビアン」のメドレーである。
打ち上げのスピーチでのこの2曲の予告は、団員たちを大騒ぎさせた。
もう今さら引っ込めるわけにはいかないほど、賛同者が多かった。
また来週から楽しい練習が始まりそうだ。



2006年03月18日(土) 定演前日

去年の定演前日は、朝校長からの電話で起こされて、
図書主任を頼まれて、こんな時にそんな電話寄こすなと立腹したようだ(笑)

今朝は、それよりも早い時間に、団の会計担当からの電話で起こされた。
前日はゆっくり寝たいのに、寝かせてもらえないと決まっているらしい。
楽譜の領収書が2つしか出ていない、あと4、5枚あるでしょうと言う。
楽譜を買っても、団で使うことに決まらないうちは請求しないものだから、
試奏を長く続けているうちに、請求を忘れてしまうのだ。
幸い5月に買った分の2枚の領収書、約4万6千円分は、
封筒に入れてかばんに入っていたし、2月に買った分の8千円分のは、
まだ財布に入ったままで、簡単に見つかった。
しかし、確かにあと2枚あるはずの領収書はどこにあるかわからない。
1枚は去年の3月だったから、もう請求するのはやめておこうと、
捨ててしまった可能性が高い。
まぁ、1年間、私もこの曲の練習が楽しかったし、団員も喜んでたし、
中にはエレクトーンの曲に編曲する団員もいたりして、
いろいろ楽しんでもらえたわけだから、金が戻らなくても本望である。

領収書探しは諦めて、午前中は高校の定演の練習を見に行った。
今週の月曜日から来週の本番まで、その学校の卒業生が指揮している。
だから、ちょっとようすを見に行くだけである。
先週は1度も行けなかったし、明日も明後日も行けそうにない。
だから、きょう2時間くらいは様子を見ておこうというわけだ。
行ってよかった。
1曲、スコアなしで難儀しながら練習をしていた。
これは、スコアがないというので、私がまた別の学校で借りてきて2度ほど
練習を見たのだが、先週そのスコアを置いてくるのを忘れていたのだ。
今週ずっと忘れていたことを果たせてよかった。

今午後3時ごろだが、ここからの25時間が長いのだ。
今ごろ団員たちが楽器を運び、舞台の設営に入っていることだろう。
たいてい4時ごろに会場に行くと、それらが済んで静まりかえっている。
ロビーでは何人かがパンフの整理をしている。
十数年も続けていると、そういう光景もしみじみした風情に映る。。。

さぁ、そろそろ出かけないとね。



2006年03月17日(金) はばにされた〈国技〉

毎日相撲を見たいのに、特に白鵬の取り組みを見たいのに、
生中継はたいてい終盤の3番くらいをカーラジオで聞けるだけだ。
きょうは仕事がさらに遅くなって、それすらかなわなかった。
平日に0時15分からやっているNHKのダイジェストを見ようと思ったら、
今夜はNHK予算審議中継録画をやっていて、相撲は4時過ぎからだと言う。

何考えとるんだーー!!(`ε´)
そんなに大事なら6時くらいからやらんかい!!
こんな夜中に好きこのんで見る人がどれだけいると言うんだー!!
夜中にやるにしても、たった25分間の大相撲ダイジェストを先にして、
それからゆっくり長々と虚しい会議を放映すればいいじゃないかー!!!
少なくともこれだけの事実からよくわかることは、
NHKの予算案や事業計画についてできるだけ国民の理解を得たいが、
ゴールデンタイムを犠牲にする勇気はないけれど、国技よりは大事だ。。。

民放のスポーツニュースを探し回った。
もちろん、ニュースよりもバラエティーの方が尊重されている。
世界のスポーツニュースをかなり細やかに報道している番組があったので、
諦めることなくその番組を映し続けて待った。
やっと終わりがけに日本のプロ野球のオープン戦の話になり、
それから相撲のコーナーがやってきた。
ところが見せてもらえたのは栃東の数秒の取り組みだけ、
後は取り組み結果をざっと提示して、20秒足らずで終わってしまった。

なぜこれほど相撲が軽んじられるのか、理解しがたいところだ。
人気がないとか、視聴率が悪いとか言われれば、それはそうかもしれないが、
このマスコミの姿勢が相撲ファンを一層冷めさせるのだ。
相撲を生中継で見られるような労働者はほとんどいないはずだが、
生中継を見られなかった人は明け方4時ごろ起きてなさいとはひどい話だ。
日常の0時15分からにしたって、遅すぎる。

相撲の不人気が問題になったこともあった。
若貴騒動で相撲界に嫌気がさして離れた人も多いようだ。
また、日本人力士が低迷してるからだという意見もあった。
そういう国粋主義的な理由でおもしろくないという頑固な人もいるだろう。
そんなこととは無関係に相撲の取り組みを楽しんで見たがっている者もいる
のに、相撲が日常生活から遠いのが一番の問題だ。
プレーを実際に見られないスポーツなんて、おもしろくも何ともないものだ。



2006年03月16日(木) サラちゃんのアルバム「FLY」

きょうは昼から雨になり、時折強い風も吹いたが、暖かい風だった。
小型の春の嵐というか、春の嵐の予告編のような感じだ。
2、3日前は雪まで舞ったというのに、、、
季節の変わり目は意外なことが多いものだ、特に冬から春への変わり目は。

2カ月以上前に予約しておいたサラちゃんの新譜「FLY」が届いたので、
さっそく聞いてみた。
うーーん、かなり安上がりに作った感じ、、「Dive」時代に戻ったような、
、、ま、「ハレム」があまりにも内容濃すぎたから、
それと比較しちゃいけないかな、、、と、解説を読んでみたら、
10年前のアルバムの再発売らしい。
サラちゃんのものは手当たり次第買い集めているので、よく調べなかった。
しかし、10年前のアルバムで今まで手に入っていないものなら大歓迎だ。

「A Question Of Honor」が10年前のアルバムに入っていたとは。。。
うれしいことに、このアルバムの中のヴァージョンは、
いつも聞いてるのとは少し違っていて、中間のユーロ・ビートになってから
しばらくの間、アリアの声での声で前後のアリアのメロディーが歌われる。
つまり、アリアと中間のロックの部分との関連がわかりやすくなっている。
これがこの曲の完璧ヴァージョンなのだ。
実にみごとに作られた名曲だ。

明日からしばらく車の中の音楽はこのアルバムだ。


「ダーク・エンジェル2」第7話は、思いがけないザックとの再会。
ほとんどサイポーグ化され、記憶もほとんどない状態で現れる。
マックスの努力で記憶の多くがもどり、平穏な仲間生活が始まる。
しかし、記憶のある部分が強調され、ある部分は欠落したままで、
彼は思いがけない行動に出る。。。
結末はマックスがいい決断をして、哀しいが安らかな結末になった。



2006年03月15日(水) 「ダーク・エンジェル」シーズン2へ

きょうは入試予備日で、休暇を取ろうと思えば取れる日だったが、
午前中に3時間がかりの会議があり、昼から休みをとって帰った。
帰って、とりあえず、残りの2話を見た。

な、な、なんという結末だ! というか、結末じゃないのだ。
通常の1話1話の方が一応完結している。
この第20話と最終話が、次回に続くという終わり方である。

だから、シーズン2の方を見始めないわけにはいかなかった。
第1話2話を見て、ようやく第20話からの混乱がとりあえず収まった感じ。
どうも20世紀 FOX のドラマは、登場人物にも視聴者にも意地悪だ。

片づけもしなきゃいけないし、定演に向けて曲の勉強をもう少しするべきで、
ドラマばっか見てちゃいけないと思いつつも、やめられなかった。
今もまた、続きを見たくてウズウズしているところである。

ジェシカのインタビューを特典映像で見たけれど、ちっとも美人でない。
なのに、マックスはなぜあんなに美人なのか、、、?
カメラの上手さもあるだろうが、
役柄によって、俳優というのは生きもし死にもするものなのだ。 



2006年03月14日(火) 昨日の続き

昨夜は、早起きした上での終日の入試業務に疲れた。
しかも今朝も早起きしなければならなかったので、早めに酔い潰れ、
書きかけの塵語を、普通は保存してUpしないで中断するのだが、
昨夜は朦朧とした頭で「つづき」と記して翌日回しにする決断をしたようだ。
自分の決断ながら、なぜそうしたのか、ぜんぜん覚えていない。
どうせ明日も見るだろうし、明日の話題もこれなのだ、と考えたのかも。。
実際、昨日の塵語の続きに書き足そうかとも思ったが、
今夜さらに2話見たら、そうする必要もないように思った。
いずれにせよ、昨日もきょうも、ダーク・エンジェルのことを除いたら、
入試の話題しかないのだが、入試の内幕を書くわけにもいかないのだ。


マックスは、回を重ねて見るごとに魅力的になっていく。
もう、この表情はあまりかわいくない、などと思うこともなくなった。
これは、私にとってたいへん危険な兆候だ。
このDVDは誰にも貸しゃない(抱え込み)!とならないとも限らないから。
橋本さんが嘆くことだろう(笑)

マックスを苛酷な闘いに赴かせているのは、もちろん殺人欲のためではない。
仲間の危機を見捨てておけないという思い、あるいは、
社会正義を追求するローガンに対する愛情のためである。
人間的な感情であり、闘えるだけの能力を持っているから闘ってしまうのだ。
その代わり、銃のような凶器は持たないことを信条にしている。
それは、人を殺してまで闘いたくないという思いの現れである。
できることなら、闘いのない平凡な生活をしていたいのだが、
次から次へと襲ってくる〈闇〉が、マックスを闘いへと駆り出すのだ。
その〈闇〉とは、社会の不正であり、DNA研究所からの追っ手であり、
研究所の成果を盗もうとするさらに悪辣な連中である。
回を重ねるごとにわかってくるのは、彼女が〈闇〉に取り巻かれ、
逃げ場のない状態にあるということだ。
いったい、彼女にいつか平穏で幸福な生活というのが訪れるのだろうか?

それでも彼女は、安住の地を求めて逃げようとはしない。
なぜならシアトルにはローガンもいれば、
シンディーたち、純粋な人間の仲間たちもいるからだ。
そうして彼女はますます人間的に成熟し、危機からも回避できないでいる。
そういう哀しい運命が、彼女をますます美しくしているわけだ。

今夜見た第19話は、普通の男と結婚して子どもを生んだ仲間の物語。
絶対仲間を救おうと立ち上がったマックスは、
結局、子どもを救うために、仲間が連れ去られるのを容認してしまう。
苦汁の決断である。
母を失った子供をなだめ励ますマックスも実に魅力的である。




2006年03月13日(月) 「ダーク・エンジェル」(3)

第17話は、マックスのDNA研究所から脱走した仲間のひとり、
ベンにまつわる物語だった。
マックスが人助けに奔走して修羅場を生き延びているのに対し、
ベンは殺人を繰り返している。
研究所で訓練を受けていたときの、殺戮の快感が忘れられないのだと言う。

ベンは〈異常〉で〈例外〉だろうか?
よく考えてみれば、ベンの言うことにも理がある。
殺人マシーンとして生み出され、訓練された彼らにとって、
殺人は自己実現であり、アイデンティティーの確立と言えるかもしれない。
それが彼らの生まれてきた目的であり、存在理由なのだから。。。

しかし、脱走を企てたということはその存在理由を捨てたと言うことなのだ。
だから、マックスは普通の人間として生きたがっている。   (つづく)



2006年03月12日(日) 葬式なるもの

今夜は娘の大学のサークルの弦楽合奏団の演奏会だったので、
夕方に出て、花だの差し入れの洋菓子などを買いに寄りながら、新栄へ。
昨日の暖かさとはまたうって変わって、冷たい風が吹いていて、
思わず、寒い!! と何度もつぶやかねばならなかった。
この時期は、こういう点ではまったく油断がならないのだ。

この演奏会は、大半が大学に入ってから弦楽器を始めた初心者の集まりで、
去年も一昨年も、音程からして実に怪しくて、憂鬱な演奏会なのであるが、
今年は何としても行ってやらなきゃいけなかった。
娘の、現役としての最後の演奏会でもあるし、
小学生の時に習いに行っていたがためにコンミスとして出演するからである。
そんな立場にふさわしい子ではないのだが、運命というのは不思議なものだ。
これで行かなかったとしたら家族のつきあいとして実に不義理なことになる。
この義理は絶対に果たさなければならない。
幸い、今年からパート指導者を雇って、演奏にも加わってもらったせいか、
過去2年に比べると見違えるように安定した音が聞こえていたので安心した。

ところで、今朝、訃報の連絡が回ってきた。
同じ職場の先生の義理の父親(つまり配偶者の父親)が亡くなって、
今夜6時半から通夜、明日12時から告別式、という連絡である。
明日は、職員全員が学校に缶詰になって仕事をする年中行事だから、
行くなら通夜に行くしかないわけだ。

もちろん、娘の演奏会に行かねばならないから、この通夜は論外である。
親しい友人かその家族の突然の死だったら、さまざまな算段をするだろう。
単なる同僚の家族と聞いても、迷いはするが、おそらくは行かない。
義理の父親ていどとなれば、暇でも迷わず行かない。
おそらくこれは、世間の、おつきあい事典なるものでは、
失礼な行為として注意されるべき態度なのだろう。
(唯一の例外は生徒の家族が亡くなった場合で、
 これは学校の規定でもあるし、生徒のためにも葬式に出ていく)

しかし、へぇ、そういうもんなの? と鵜呑みにできるならともかく、
考えれば考えるほど、おかしな風習だと思うのである。
連絡網で回さなければならないことか、という疑問さえあるのである。
いわゆる〈世間〉の精神構造というものが、実に不可思議なものに思われる。
行く方も虚しいし、来てもらう方も虚しいに決まってるではないか。

ま、世間の流儀などは、空虚の土台の上に成り立っているようなものだが。。



2006年03月11日(土) 何してたんだか。。。

昨夜はダーク・エンジェルを見始めたのだが、すぐに睡魔に負けて中断。
早々に眠ったせいか、朝4時ごろにすっきり目が覚めた。
それから昨日の分の塵語を書いた。
そして、ダーク・エンジェルの第10・11話を見た。
それからまたひと寝入りした。
起きてからまたダーク・エンジェルの第12・13話を見た。
それから昼食を取ったりすると、2時を過ぎていた。

それから市吹に出かける5時ごろまで3時間ほどあるのだが、何してたのか?
頭では、3時間もあれば何かまとまったことができそうに思われるが、
案外そうは行かないものだ。
思い出すと、メールチェックをしたり、風呂に入ったりしていたようだ。
土曜日の午後のように、夕方から縛りのある時間を活用するのは難しい。
私はどうも、こういう、何時までしかない、という時間の使い方が苦手だ。


実に暖かい日になった。
市吹に出かける道中、車が多いのに参った。



2006年03月10日(金) 再び、サラちゃんと帰った夜

今夜は飲み会で、飲み会としてはうんざりするほど遠い金山まで出かけた。
明日は休みだし、二次会にも出る心の用意はしていたのだが、
タクシーでどこそこまで行って、場所はよくわからない、カラオケつき、、、
と聞いて、めんどくさく煩わしくなって、さっさと帰る組になった。
カラオケなどという迷惑この上ないものは、好きな人だけでやってくれぃ。
そのプランが出た瞬間に、それはもう昨日の飲み会の二次会ではなく、
私的な集まりの趣味の飲み会に変わってしまうのだ。

共にさっさと帰った同行者と途中で別れてから、ナノを取り出した。
選ぶのは、どうしてもサラちゃんのアルバムになってしまう。
ずっと「Dive」を聞きながら帰った。
最高のアルバムではないが、もっとも新しく気に入りになったものだ。
いつも書いていることだが、これだけ何度も(少なくとも100回以上は)
聞いているのに、「またかぁ」という感じがしない。
よく知っているお馴染みの曲だという意識は常にあるのだが、
新鮮でこころ洗われるような雰囲気に包まれる。
カラオケ騒音を避けて、この最高級の音楽に包まれていられるのは幸運だ。

サラ・ブライトマンを聞き始めてから、
他の歌い手たちの声が色褪せて聞こえるようになってしまった。
ポップスの世界の歌手はもちろんのこと、
クラッシック界の名ソプラノ歌手の声も魅力が薄れてしまった。
それは比較してどうこうという次元の問題でなく、
歌という表現手段の、彼女の表現力の多彩さに圧倒されてしまったのだ。

同じ曲を、一昨日トイレ掃除をしながら、ナノで聞いていた。
トイレ掃除をしていても、サラちゃんの歌声に包まれていると、
トイレ掃除をしているという感じがしなかった。
身体は便器を洗っているが、心も歌声に洗われているという感じである。
以前もよくサラちゃんを流しながらトイレ掃除をしたものだ。
イヤホーンを使って耳元で、というのは初めてで、
作業が作業だけにさぞかし煩わしいのではないかと予想していたが、
寧ろ、鮮明に聞こえるのでうれしかった。

で、今夜バスに乗っていても、夜道を歩いていても、ラーメン食べていても、
最高級のBGMだなぁと痛感したのである。
声や歌い方がソフトだということももちろん大きいが、
サラちゃんの歌の大半は、中庸のテンポのロックリズムである。
それを、じっくりと丁寧に歌い上げている。
1曲1曲が平坦でなく、必ず高揚するように歌い上げている。
だから、耳に優しく、BGMとして聞き流していながらも、
耳はその上巻を追いかけて、さりげなくその情感を味わい続けるのだ。

今夜ラーメン屋を出て、家にたどり着く直前に聞いていたのは、
「ア・クエスチョン・オブ・オナー」である。
これは、前後にオペラのアリアを置いた珍しくアップテンポのロックである。
トヨタ・ゼロクラウンのCMで、中ほどの絶叫部分が流れている。
ライヴのアンコールで宙づりになって、紙吹雪の中で歌う曲である。
これはBGMとして聞き流すにはうるさい曲だが、
歩きながらでもついつい真剣になって聞いてしまうおもしろい曲である。
アリアの前唱が終わって、ペースがブンブンブンブン、、、とやり出すと
わくわくして音楽の中に引き込まれてしまう。

そんな風に今夜の飲み会への長旅が終わったのだった。



2006年03月09日(木) 「ダーク・エンジェル」(2)

夕食後はとにかくまず「ダーク・エンジェル」を見ないと気がすまない、
という日課になってしまった。
マックス役のジェシカも、可愛くてかっこいいエンジェルになってしまった。
特に、第6話で雑誌記者を装ったときは、こんな美人だったのかと驚いた。
その可愛くてかっこいいエンジェルが、大胆ながら余裕の闘いを展開するの
だから、それはそれは魅力的なドラマなのである。

割とリラックスして見ていられたのだが、
きょうの第6・7話は緊張がかなり高まった。
何しろ、ライデッガーと直面し、彼がいる場所での闘いだったのだから。。。
しかし、マックスは余裕を失わない。
ゴルゴ13のような、沈着冷静なゆとりとはちょっと違う。
あだち充の漫画に漂う情緒のような、さらりとしたゆとりである。
もちろん、友のために泣き、助けたい人のために懸命になる。
自身の身体的欠陥や過去の思い出には苦しめられ続けている。
しかし、大胆で強情な行動力にこめられた潔さが快いのだ。
DVDの1枚1枚に、マックスの写真が1カットずつ印刷されているが、
取り出して機械に入れる前にうっとりと見つめるようになってしまった(笑)

ダーク・エンジェル サイト



2006年03月08日(水) 「ダーク・エンジェル」を見始めた

全42話のドラマである。
昨夜第1話だけを見て、今夜第5話まで見た。
第1話は通常の2倍の長さだったらしく、通常は1話完結45分進行である。
しかし、完結する1話も、決して単純な1本道ではないようだ。

ドラマの時代は2010年代の、かなり近い未来らしい。
遺伝子操作で戦士として実験的に生み出され訓練を受けた少年少女たちが
脱走し、その中で生き延びた娘マックスが主人公である。
DNA研究所の訓練士だったライデッガーはマックスたちを追い続けている。
マックスは、身を隠しつつもかつての仲間の消息を懸命に求めている。
マックスの前に、反政府運動を展開するサイバー・ジャーナリスト、
ローガンが現れ、マックスは仲間の情報をローガンに頼る代わりに、
ローガンと共に人助けと悪者退治をする。

そのマックスの手法が、行きあたりばったり的ながら、実に鮮やかである。
別のタイプのドラマだが、計算され尽くした「スパイ大作戦」と同等の
爽快感がある。
会話は軽妙洒脱、次の台詞が楽しみになるほど気が利いている。
話の展開も、回を重ねるごとに充実してきているし、
主役のマックス役のジェシカ・アルバも、最初は品のない表情を見せるので
それほど気に入らなかったが、その多彩な魅力に嵌り始めている。
普通の人間とは異なる生い立ちゆえに、平凡な一庶民として生活したい、
しかし、嘗ての同僚や、自分を救ってくれた人のことは忘れられない。
冷めた目で世を眺めながら、辛い人を放ってはおけない。
実に複雑な心情を抱え込みながら生きているヒロインなのである。

このドラマについては、まだまだ何度も書きそうである。



2006年03月07日(火) 中学校の卒業式

きょうは朝から憂鬱な出張で、近隣中学校の卒業式に出た。
なぜ憂鬱かというと、2時間以上もの退屈な時間に煙草がすえないことも
あるが、それ以上に、儀式というものが大嫌いだからである。
ばかばかしい猿芝居の一種くらいの感覚しか持っていないからである。
卒業式なんて、やってもいいけど、卒業証書を手渡ししたら、
校長が一言まとめの挨拶をして終わればいいのである。
空疎な挨拶を入れ替わり立ち替わり、本音でもないことをくどくどくどくど、
まーホントにつまらない時間を端座して畏まっていなければならないとは。。

自分の受け持ったかわいい生徒たちの卒業式でさえ、
式場からちょっと外れた放送室で参加するのを好む私が、
中学校の卒業式に列席しなければならぬとは、皮肉なものである。
それで、もうひとつ、この出張のつらい理由を思い出した。
控え室でも、式場の来賓席でも、整髪料の匂いが充満してきついのだ。
来賓にはポマードを愛用するおっさんやじーさんが多いのだ。
久々に鼻炎に悩まされそうで、ビクビクしなければならなかった。

ところで、前任校でこの役を仰せつけられた時は、
礼服に白ネクタイで行く必要はないと指示されたし、
実際そういう礼服姿の人は来賓のトップの2、3人だけだったが、
今回は礼服で行くよう指示されたし、来賓の全員が礼服だった。
ほんの十数キロ程度の違いで、この地域的な風習の違いは何だろうか、、?
もっとも私は、式典であれば礼服を着ればよい、その方が楽だから、、
と思っているので、今回の風習の方がわかりやすくてありがたい。

中学校の卒業式は高校に比べて長い。
卒業証書をひとりひとり手渡しするケースが多いし、
来賓祝辞も多いし、生徒の歌も多い。
他の中学校に行った先生の話では、歌が何曲も延々と続いた挙げ句、
卒業生と在校生のイヴェントもあって、もっと長かったと言う。

私は儀式は嫌いである。
けれども、やるな! というほどの理論的根拠は持っていない。
しかし、卒業式をやるなら、あくまでも、生徒と保護者が主人公である、
という企画にしてほしいものだとつくづく思う。



2006年03月06日(月) 「コープスブライド」

「シザーハンズ」ではそれほど大きな感銘を受けなかったものの、
「チョコレート工場」でティム・バートンとジョニー・デップのコンビが
気に入ったので、この映画も見てみることにした。
ただし、これは人形劇というかパペットアニメーションというか、
人形の動きを一コマずつ撮って構成したアニメーションなので、
ジョニー・デップは主役の声優である(実は見るまでよくわかってなかった)

まったく面識のないビクターとビクトリアが結婚式を迎えるのは、
その両親たちが財産や身分を手に入れようとしているためだが、
実はビクトリアの家は没落貴族で、もうほとんど文無し状態である。
魚屋の成金であるビクターの両親はそれを知らずに、
結婚が成立すれば、自分たちも貴族の仲間入りができると思っている。
そんな親たちの思惑とは別に、結婚式のリハーサル前に対面した2人は、
すぐに互いの心を感じ、愛し合う。
ところが、リハーサルで失敗したビクターは、それを悔いて練習するうち、
花嫁姿で死んだ娘の、土中から出た手に結婚指輪を嵌めて誓いの言葉を言う。
そのために、コープスブライドと強引に結婚するはめになる。。。
まぁ、ざっとこんな風に物語が進展して行くわけだ。

特筆すべきは、生者の世界と死者の世界の描き方である。
見始めたとき、画面の色彩がひどく渋いのにまず驚いた。
青っぽいような、実に地味で渋いモノトーンのような色調である。
死者の世界を描くからこんな色調なのかな、と思いつつ見ていた。
ところが、死者の世界に入ったら、華やかなカラーに変わったのだ。
音楽も軽快で陽気なジャズが多くなり、ダンスやパフォーマンスに満ちる。
こちらでは、ほとんどのキャラが陽気である。

そんな点に興味を持って、見終わってから特典映像をいくつか見てみたら、
やはりその点は大いにこだわったところらしい。
生者の世界は、ビクトリア時代の閉鎖的で格式ばかりを重んじる世界、
死者の世界は、そこからの解放、というイメージで取り組んだようだ。
ビクトリアの母親は、結婚と愛は別のものだと言い、娘の自由を許さず、
グランドピアノを飾りながら、音楽さえも娘に許さない。
そう、、この映画の生者の世界では、生者は人間としては死んでいるのだ。
寧ろ、そこから解放された死者の世界で、骸骨たちが人間味溢れている。
ビクターはビクトリアへの思いも捨てられない一方で、
そんな死者の世界にも心惹かれて行く。

コープスブライドとビクターが結婚するためには、
ビクターも、毒入りワインを飲んで死者にならなければならない。
ビクトリアが他の男と結婚せねばならなくなったことを知ったビクターは、
それを承諾する。
しかし、コープスブライドの心に残っていた命への思いが、
ビクターを死なせることを拒否し、ビクターとビクトリアを結びつける。
ラストシーンは、コープスブライドが花びらとなって天に昇っていく。
実に美しいラストシーンである。



2006年03月05日(日) _(_ _)_バタッ

あーーー、疲れた〜〜〜。
昨日の午後は高校生相手の練習、昨夜ときょう1日は市吹の練習だった。
きょうの市吹での最後の2時間の通し練習で、心底疲労した。
この最後の通し練習は、私自身のリハーサルでもあるので、譜面を見ない。
だから、ややこしいところなど、実に集中して楽譜を思い浮かべる。
本番とほとんど変わらないほどの緊張を自分に課す時間なのである。

そうしてわかったことだが、前半の吹奏楽オリジナル曲の部の3曲は、
たいへん神経を使うところが多いけれど、例年と大差はない(当然)のだが、
今年の曲は、後半のポップス系の部が厄介な曲ばかりなのだ。
その2曲目のスイング・ジャズ・メドレーが終わったときに、
もう疲れ果ててしまったが、これは私自身が厄介な構成に仕立てたのだった。
4曲目の宮崎アニメメドレーでさらに疲れ果ててしまったが、
これもまた、私がそういう風に仕立ててしまった、、、その上、長すぎる、
が、今から変更するわけにもいかない。
そんなわけで、プログラムの全部を通した時には、
今年はもうアンコールもいらないんじゃないかと思ったほど困憊していたが、
昨夜から今朝にかけてもっとも時間をかけたのは、アンコールの準備である。
今さら、なし、と言うわけにもいかない。

とにかく、そういう精神的作業に加えて、私は立ちっぱなしなので、
あ〜、つかれた〜〜〜 _(_ _)_バタッ となるわけである。
先々週はここで、ホントにバタッと横になった。
にもかかわらず、今は何か映画を見ようかな、、と考えているところだが、
いつ睡魔に襲われてダウンするかわからない。



2006年03月04日(土) 「神よりも有名になる」という台詞

たまたまスマステーションという番組を見ていたら、
マドンナ伝説vol.1 ということで、マドンナがスターになる迄を追っていた。
ボストン郊外の平凡な中流家庭の、成績優秀でめだちたがり屋の娘が、
大学を中退してニューヨークに出て、ダンスの才能を磨きながら、
何ものにも妥協することなく、遂に世界的な歌手としてデビューする物語。

マドンナの歌で2、3曲好きな歌はあるけれど、
顔があまり好きではないし、声にもさほど魅せられてはいない。
寧ろ、なぜあれほどにもてはやされてきたのか、少々不思議な感じだ。
声・歌唱・ダンス、、、等の才能以外の要素も絡んだ名声であるのも確かだ。

しかし、いろいろなことがあったにせよ、
彼女が格別の努力家のひとりであることは、あの容姿を見ればわかる。
とても47歳の容姿とは思えない、スリムで筋肉質の容姿。。。
えらく老けちゃったなぁと思わせる要素がない。

番組では、彼女自身の言葉も引用しながら経歴を追っていた、
その言葉の中に、ニューヨークで苦労していたころの言葉で、
「神よりも有名になる」という驚くべき言葉があった。
何と大胆不敵な、執念にも満ちた台詞であろうか。
番組の進行役の慎悟くんも、再三引用して降参の表情をしていたが、
私もこの言葉にびっくりした。



2006年03月03日(金) 2つの〈謎解き〉映画

昨夜は、もうそろそろ寝なきゃいけない1時近くになって、
ディズニー映画の「ナショナル・トレジャー」を見始めた。
2、30分くらい見たら寝ようかな、と安易な予定で見始めたのだが、
余りに絶妙な快速テンポに乗せられて、中断する心の余裕がないまま、
見終わって時計を見たら3時を過ぎていて、焦った。

これは、子どものころに聞かされた祖父の話が忘れられず、
遺された言葉の謎を解きながら財宝を探す物語である。
そのために主人公ゲイツは、アメリカ独立宣言書を盗み出す。。。

とにかく、映画全体の軽妙さと快適なテンポに脱帽した。
主人公たちはなかなか財宝にたどり着けないが、そう危険な目にも遭わない。
どちらかといえば、するりとかわしながら飄々と進んで行く感じである。
独立宣言書を保管している国立公文書館の公文書管理者である女博士も、
盗まれたことよりも財宝に興味を持って主人公たちと行動を共にする。。。



今夜見たのは、ショーン・コネリー主演の「薔薇の名前」である。
こちらのは、昨夜のとは打って変わって、実にゆっくりしたテンポで、
じっくりと中世の修道院を描いている。
こちらはいわば連続殺人事件を解決する物語であるが、見ている間、
犯人探しや殺害方法の追及もさることながら、
映画の中の〈中世の世界〉への興味が尽きなかった。
権力を持った者の強圧的な仕打ち、閉鎖的な思考世界、、、もちろん、
そういった精神的なものばかりでなく、建物・道具・風物なども。。。
そして、この映画の中で聖職者たちがムキになって論じるのは、
キリストは笑いを許すか禁じるか、
キリストの衣は神の衣か、
修道院は財産を持つべきか手放すべきか、、、という類の論争。。。
これもまた、中世の神学の世界を具体的に垣間見せてくれるのだ。



2006年03月02日(木) やっぱりアホ教委

こういうのはマスコミにもちゃんと教えてあげて、
問題の本質を煮詰めてもらうべきではないだろうか。。。

現在、芸術を音楽1科目に限定していることに、
県教委からの〈指導〉が入ったそうだ。
なぜ1科目に限定したかというと、クラス数が減って、
音楽専科の授業時数が2単位×6クラスの12時間しかなくなってしまい、
これ以上書道なり美術なりの非常勤講師を雇うのはもったいないからである。
それで、県教委からの〈指導〉があった??
しかし、1年生のその音楽との選択をするには講師時間のロスが大きすぎる。
それで、苦肉の策を考え出した。
3年生の文系で、数学と保育の選択に書道の選択をつけ加える???

最初この話を聞いたのは校務委員会だったが、私はその時は、
他の難題について考えていたので、何か変な話と思いつつ聞き流していた。
次に聞いたのは教科会だったが、この時はあまりにおかしな話なので、
さんざん質問して、教科主任会議で確かめて来るよう要請した。

本来、この問題に対する解決は簡単なのだ。
書道なり美術なりの講師の枠を確保するから選択制にしてくれと言えばよい。
それ以外の解決策はないのだ。
1年生のときには全員強制的に音楽を受けさせておいて、
3年生で他教科との選択で書道をとっても、それは芸術科目の選択ではない。
選択制にするようにと〈指導〉をした県教委がそれでOKを出すわけがない。
講師の枠を用意しないくせに、選択制にしろというのは、
いったいどのようにしろというのか、まったくわけがわからない。

再度の教科会を待たずして、きょうそれが職員会議に出た。
質問しようと思ったら、他にも質問がいくつか出て、
それらに対する校長の答弁から、いろいろなことがわかってきた。

各校で学級減のため、同様のことが起こっているわけだ。
すると、芸術は選択という風に謳ってあるのに、1科目強制であることに、
県教委に苦情がいくつも持ち込まれるようだ。
それで、さっきのアホな苦肉の策のような形でもいいから、
〈選択〉という様相を帯びた形を作ってくれぃ、と、これは〈指導〉でなく、
〈詐欺〉を持ちかけてきたらしい。

こんな一時しのぎを、決めたら動かし難いカリキュラムに盛り込むなんて、
まったく常識では考えられないことだ。
そのために、現場に予想される問題点もいくつかあるのだが、
これで苦情がなくなるとはとうてい思えない。
どう考えてもこれは、芸術科目の選択制とはまったく違うものだ。

これは、ひとつにはケチケチ教育財政に問題があるのだ。
大本の文科省からして、あれやれ、これやれ、と無理難題押しつける際に、
予算の保証はしないで、あとは工夫しろ、あとは知らんという体質である。
県教委としても、最前の解決はわかっていても金は出せないのだろう。

そこで、2つ目の問題は、県教委が苦情に対し、どう答えているかだ。
とにかく、金がないなら、それだけが真実なんだからそう言えばいいのだ。
きちんと説明しないで、〈申し訳ございません〉ペコペコに終始している
のではないだろうか。
だいたい他の場合でも、県教委の〈指導〉なるものはみな同じである。
世間がうるさいから、○○しろ、○○するな、
世間がうるさいから、給料下げる、夏休みを短くしろ。。。
現場を忘れたお役人たちは、一部の民間からの苦情や批判から我が身を守る
ために、せっせせっせと現場に理不尽な〈指導〉をもたらすのである。
今回のに至っては、一時しのぎの詐欺だ。
しかも、現場の指導的役割の者どもが、その詐欺を受け入れて、
まことしやかに職員たちを丸め込もうとしている。。。

まー、あきれて、返す言葉もないわ。
若いころ、学校ぐらいは健全な思考が通用するところだと思っていたが、
(生徒に正義を説く場所だから、そうでなきゃいけないのだ)
ホントにもう、さいきんいろいろ出てくる問題は、
平衡感覚を狂わせることばっかりだ。


ちなみに、職員会議にちらっと出てきた話題に、
来年度から教員評価制度「実施」か「試行」かというのがあった。
校長の説明によると、「試行」と言いながら実質「実施」ということらしい。
おやおや、今年の試行校の職員に何の説明もなく実施かよー。
実施に踏み切る理由と価値はいったい何なんだ?
何の説明もないし、批判に対する釈明も何にもないぞ。
ちゃんと県の担当者を連れてきて、質疑応答させろ。
実際は、このまま進展していったら、ますます教育界が暗黒になるんだぞ。
今年度は用紙を提出してあげた(皮肉も交えて)けれど、
来年度は断固として提出拒否をしてあげよう。
今年度は批判をはっきりとさせてもらうために提出したのだが、
今後こういうことに加担するのは犯罪に近いのだ。



2006年03月01日(水) 卒業式

残念ながら雨の卒業式になってしまったが、
久々に、少しは感慨の伴う卒業式を迎えた。
何しろ、転勤してから3年間、この学年でしか授業をやっていないのだ。
こんなことは今までの24年間になかったことだ。
3年間とも担任をして送り出すことはまたまた許されなかったが、
もともとそれにはこだわらないし、これくらいがほどよいようにも思う。
あんまり感傷的になりすぎても困りものだから。。。
前々任校に赴任したときに2年生の担任となったあの学年が、
3年でも担任をやって送り出した唯一の例だったけれど、
2年間のつきあいだったけどやられたもんなぁ。。。
ま、若かったし、今より格段に生徒のために一生懸命だったから。。。

さて、担任でなくなったおかげで、式典での指定席がなくなった。
儀式嫌いの私は、どうも式場内というのは居心地が悪い。
前任校では、ほとんど毎年放送室にいた。
1年目は警備係だったので、式場には入らなかった。
2年目から吹奏楽部が入場時と退場時の演奏をすることになったので、
指揮をするとき以外は放送室か舞台袖にいた。
関わりの深い学年の操業式の時には、2階の放送室の窓から、
斜め上方から生徒の顔を密かに眺めて、いろいろ思い出したりしていた。
吹奏楽部の人数が減ってしまって卒業式の演奏ができなくなったことには、
図書主任になり、視聴覚も担当したので、そのまま放送の係となって、
相変わらず、式場外で式典に関わり続けた。。。
おもしろいことに、非公式ながら、きょうは放送室に居座ったのである。

なんとなくそういうことになったのだ。
まず、去年、一昨年と、卒業生入場時の「威風堂々」を聞かされて、
どうしてもこれが気に入らない、なぜこんな殺伐とした騒々しい曲を
流すのだろうか、、、で、曲を変えませんか?と担当の先生に持ちかけた。
いつもBGMについて書くように、案外人は無頓着なもので、
そうこだわることでもないのだが、今年の生徒の場合は私がこだわるのだ。
こういう気持ちで送り出したい、という曲といえばやはりこれしかないなぁ
と、前任校の時に作ったCDを彼に渡して検討してもらった。
(この選曲については、’02年3月の5日と1日の塵語を参照)
また、答辞の指導を任されたので、一昨日の業後に体育館に行って、
答辞の声が小さくなりがちだからマイクの音量を上げなきゃいけない、
しかし上げるとハウリングを起こす恐れがある、、という話し合いから、
マイクの接続方法を変えて、放送室で操作しやすくした。
そういう操作の問題と、係の先生が曲を採用してくれたことが重なって、
自然と私も一緒に放送室に入って世話を焼くことになったのだ。

「菊次郎の夏」の「The Rain」などという題名は卒業式と関係ないけれど、
(奇しくもきょうの天気には合っていたことになるが、
 ついでに言うと、このメロディーは「Mother」という曲のものでもある)
この曲をバックに、私にとっては見慣れたアングルのから眺める、
自分が送り出すはずだった生徒たちが入場してくる姿は格別であった。
静かにじーんと来てしまい、いろいろなことを思い出してしまうのだ。
そしてそこには、本当は担任として送り出すはずだったのに、
という思いも、微かな感傷として忍び込んでいる。

卒業式の後、卒業生たちが昇降口に上履きなどを置いていかないよう見張る
当番の仕事にあたっていた。
鬱陶しい仕事だと思っていたが、これが案外楽しかった。
できるだけさりげなく言葉を交わしながら多くの生徒とお別れをした。
ついでのように、一緒に写真を撮って行く者も多かった。
写真に写るのが大っきらいな私にしては、もう大サービスしてしまった。
もう魂抜かれすぎて残ってないかもしれない。



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