TENSEI塵語

2004年06月30日(水) 「ポプラの秋」

きょう、明日の試験の印刷を終わって、ちょっと時間があいたので、
30ページほど残っていた湯本香樹実の「ポプラの秋」を読み終えた。
つい先日「夏の庭」を読んだときには、評判ほどの感銘を受けなかったが、
こちらのは、ほとんど主人公が6、7歳の子ども時代で登場していながら、
その内面が興味深く語られていて、心の深さを感じさせられる。

父の事故死(実は、母にとっては夫の自殺)の後、
母と娘は大きなポプラの木のあるアパートに移り住む。
アパートの大家にあたる老婆は、千秋には怖くて近寄りがたい不気味な存在。
けれども、病気療養をきっかけに、おばあさんとの交流が始まる。
おばあさんは、あの世に逝くときに、この世からあの世へ手紙を運ぶことを
自分の最後の使命だと思ってるのだと、千秋に打ち明ける。
千秋は、父宛の手紙をせっせと書き始める。
父親の突然の不在、母親の虚ろな様子のせいか、
外界との交流がうまくできなくなっていた千秋も、
父への手紙を書き続けるうちに、しだいに外界とのバランスを取り戻す。
やがて母も夫宛の手紙を書き、千秋を通じておばあさんのもとに保管された。

それから18年がたち、千秋はおばあさんの葬式に出かける。
15年前に、母の再婚によってポプラ荘を出ていた。
千秋は看護婦になったが、流産と恋の終焉のために看護婦もやめ、
睡眠薬を常に携帯して、明日死のう明日死のうを励みにして生きている。
葬式に行くと、思いがけないほど大勢の人が集まっている。
みな、おばあさんに手紙を託した人たちだという。
そうして、みなおばあさんに感謝の気持ちでお別れに来ている。
おばあさんの棺は手紙でいっぱいである。
千秋は、まだ棺に納められていなかった、母の書いた手紙を読むことになる。

結末で千秋は、何か新しい生きる方向への展望を持ち始めているに違いない。
読む者にもまた、何か吹っ切れたようなさわやかな感触をもたらしてくれる。

ちなみにこの本の帯には、こんな一書店員の言葉が書かれている。
「私は、この本を売りたくて書店員になりました」(店名・氏名つき)
こんな宣伝文は初めて見た。



2004年06月29日(火) 出張のお供

県大会関係の会議で岡崎まで行かなければならなかった。
去年は支部事務局を下りた気楽さからさぼらせてもらったけれど、
もう何年も出席している会議である。
以前は遠くても豊田止まりで、名古屋での会議が多かった。
それが、会場を取る難しさから、岡崎で行われることもしばしばになった。
時間的には大したことはなくて、昼間なら学校から1時間かからないし、
夕方混む時間帯に帰っても、家まで1時間半前後である。
けれども、3時間程度の会議のために、片道80キロはなかなか疲れる。
高速道路を疾走するのは、いろいろ駆け引きがあって疲れるものだ。

精神安定剤のように車の中で流しているのは、冬ソナのサントラと、
サラちゃんのアルバムである。
もう聞き飽きても当然なほど繰り返し聞いているのに、新鮮な魅力がある。



2004年06月28日(月) 昼のひととき

昼食にとんかつ屋に入った。
ランチでもそう安くないせいか、空いているのがありがたい。
湯本香樹実の「ポプラの秋」を半分までくらい読んだ。
これは「夏の庭」よりもいい雰囲気だ。
ランチからコーヒーまで、落ち着いたいい時間が過ごせた。
毎日こんな昼のひとときを過ごせたらいいのに。。。
試験期間中の特権みたいなものだ。
問題作りや採点で超過労働を強いられる見返りだと思っておこう。



2004年06月26日(土) ついつい冬ソナ、、

DVDを持ってることだし、吹き替えはつまらんと言ってることだし、
土曜日夜のNHKでの放映を見る必要はぜんぜんないはずなのに、
なぜかその時間になると、ついついNHKの画面を出してしまう。
そして、いつ中断してもいいはずなのに、ついつい最後まで見てしまう。

それでも毎週それでおしまいにしてしまうのであるが、
今夜はついついDVDを取り出して、続きを見始めてしまった。
TV放映は第12話だったが、第13話を見てしまったわけである。
そして、それで終わることもできず、ついつい第14話まで。。。

第14話は、ユジンが、ミニョン=チュンサンということに気づき、
空港に追いかけて再会するが、それでも去ろうとするチュンサンを追いかけ、
そのためにチュンサンが2度目の事故に遭い、意識不明に陥り、
ユジンが懸命の看病をする中、ようやく昏睡から覚めるまでを描いている。

既に数回見ているというのに、なぜこうも泣かされるのだろうか?
いいや、何度も見ているから、心のより深くまで入り込んでしまうのだろう。
ユジンの泣き顔も、見る回数が嵩むにつれ、ますます微妙に多彩になる。



2004年06月24日(木) 初めの一歩

職員会議で、提案事項をひとつぐじゃぐじゃにしてやった。
2、3年前から研究指定で取り組まされているとかいう
学校評価制度の研究の一環らしいが(これ自体去年の成果は笑いもんだ)、
生徒に授業評価をさせて、そのまとめを全員が提出する、という提案である。
確か予備校などが始めて、大学などでもやるところがぽつぽつ出てきて、
東京都などの公立高校でも行われ始めたとかいう授業評価である。

教員の選別や進退に関わる資料がほしいのならこの方法は意味があるが、
そうではなくて、授業改善のためであるなら、この方法は意味がない。
授業改善のための資料なんてものは、日常的にいろいろな場面で得るものだ。
教科によっても違うし、同じ教科でも内容によって違う。
だから、たとえば、7月の時点で生徒にこんな項目に5段階の評価を
つけてもらったところで、いったい何がわかるのであろうか?
「私はこの授業を関心をもって受けた」
「私はこの授業を理解することができた」
提示されたアンケート項目は、みなこのような大ざっぱなものである。

また、こんな、誰のための質問かわからないものもある。
「先生はいつも授業開始時間よりも前に教室に来ている」
「先生は授業中私語をしている生徒や眠っている生徒を注意する」
これは教員の自己点検のためというよりは、管理職のための資料であろう。
どっちかというと、生徒に、そうしてほしいかどうかを聞いてみたいものだ。
私が高校生だったら、5分以上遅れて来い、と答えるだろう。
そうしてまた、こんな曖昧な問いもある。
「先生の授業をするときの声は適正である」
「先生の授業を進める速さは適正である」
この問いに否定的な評価が返ってきても、
声が大きすぎるのか小さすぎるのか高すぎるのか低すぎるのか、
授業が速すぎるのか遅すぎるのか、わかるわけではないのだ。
ちなみに、隣の教室で授業する立場でアンケートに答えたい気持ちのある。
声がでかすぎて迷惑でしょうがない教員が何人もいるからだ。

要は、どれをとってみても、
誠実に授業改善を願う人が考えたアンケートとは到底思えないのである。
ただそれらしい体裁を整えてみたいだけか、
こんなことを先進的に採用してみました、と自慢したいだけのものである。
後々のことまでしっかり考えているとも思えない。

とにかく、授業の反省のための生徒の反応の吸い上げ方から始めて、
アンケート項目ひとつひとつの無意味さまで、3、4度意見を言った。
他の観点からも意見を言う人もいて、用意していた半分も言えなかったが、
アンケートは作り直すことになり、あえてそれを使わなくてもよくなった。
粉砕するところまでは行かなかったが、敵も必死である。
学校評価研究にもうひとつ色をつけたいという思いで必死である。
手柄に逸る学校長のわがままにすぎないのだが、
今度、学校長講話についての生徒のアンケート用紙を作って贈ってあげよう。

それにしても、こんな案のまま、校務委員会も通ってくるとは、
学校の運営委員会たる校務委員会のあまりの杜撰さに呆れ返るばかりである。
毎週月曜日に2時間も時間を取って、いったい何を検討しているのか。
校長のわがままが素通りしてくるなら、職員会議で攻撃するしかない。
校務委員も甘えて何も考えなくなってしまうからだ。
去年は1年目で遠慮して様子を見ていたけれど、そういうわけにもいかない。
きょうはそういう意味での初めの一歩である。



2004年06月21日(月) 台風の1日

6月にこの近辺に台風が来ることは珍しい。
たいていは大陸の方に行ったり、九州の西の方を通ったりして、
ほとんどこちらには影響のないことが多かったような、、と思ってたら、
テレビの天気予報でその理由を説明してくれた。
普通は、梅雨前線が日本列島の南にあって、その南を高気圧が支配している。
だから、台風が日本列島に向かうことができない。
ところが今回は梅雨前線がうんと北の方にあり、高気圧が東に位置していた。
それで、今回の台風はその高気圧の西側の境界を辿るように進んだそうだ。
高知に上陸し、兵庫あたりから若狭湾に抜け、新潟の海上を北上している。
このあたりでは、午前10時過ぎから風雨が始まり、
昼から夕方まで、直撃かと思われるほどの激しい風雨に包まれた。
かなり遠くを通っているはずだったが、それだけ大型だったのだろうし、
台風の進路の右側にあたる方が左側よりも影響が大きいそうである。

警報が出たのが午前10時である。
それまで時折強い風が吹いていたけれど、雨はほとんど降ってなかった。
警報が出て、職員が集合したころから雨が降り始めた。
生徒たちに帰宅するよう指示したころには、風雨が強くなっていた。
朝から心配していたとおりになった。
何度この過ちを繰り返すのだろうか?
警報が出たらすぐ帰宅させることになっているけれど、
多くの場合、それは、危険になるのを待って外に放り出すようなものだ。
びしょぬれで帰らせるためにわざわざ学校に待機させるようなものだ。
日ごろは、生徒の安全第一、と言いながら、なぜこうなのだろう?

生徒がまだ自宅にいる状態で、登校するかどうか判断する基準として、
暴風警報が出ているかどうかというのは、これは妥当な判断基準だと思う。
一人一人に指示できないから、個々に判断してもらうためにはわかりやすい。
けれども、登校してきた生徒に指示するのに、警報にこだわる必要はない。
それはこちらで状況判断して、生徒に伝えればいいことである。
きょうなどは、警報が出ることも暴風に見舞われることもわかりきっていた。
そうして風雨が荒れるのを待って、そこへ生徒たちを放り出したわけだ。

教育委員会のお役人たちは現場を忘れた怠けもんの集まりだから、
警報が出たら速やかに帰宅させなさい、と指示して、
最適な指示ができているつもりでのほほんとしている。
現場の生徒の安全については、現場の学校の責任である。
何かあったら、学校の対応に非がなかったか、責任を問うだけである。

妻の勤める一宮の小学校など、最悪のケースである。
センター給食だもんだから、それをなしにするわけにも行かないのだという。
警報が出てからも、授業は取りやめたものの、給食が届くまで待機、
そして、給食を食べてから集団下校なのだという。
集団下校のために体育館で地域別に集合・点呼しているさなかに、
子どもを迎えに来た親のために子どもの呼び出しなどをして更に遅れ、
昼過ぎの暴風の中を、教師引率で集団下校である。
給食を食べさせてからと言うのは、市教委の命令なのだそうだ。
作った給食を全部余らせたりすれば、給食センターが黙ってはいないからだ。

ホントにもう、お役所的形式主義にはあきれることばかりだ。
一宮市教委は、昨日までのうちにセンター給食をストップして、
今朝の時点で警報が出てなくて児童が登校しても、
すぐに帰らせるように指令を出さねばならなかった。
万一、一夜のうちに台風が消滅するとかとんでもない遠くに進路を変えても、
午前中に帰らせれば済むことである。
その、ほとんどあり得ない可能性のために、給食の用意をさせるとは、
何という判断力の鈍さであろうか。
愛知県教委だって、給食の件を除けば同じである。
こんな上司のもとで右往左往していることが、ほとほと情けなくなる。
今回に限ったことではないけれど。。。



2004年06月19日(土) 「ホテリアー」

一昨日は13〜16話を、昨夜は17〜20話をと、見過ぎてしまった。
最初のうちは1話ずつ、2話ずつ、しかも1日空いたり、、とおとなしく
見ていたのだけれど、第10話あたりからようやくハマり始めた。
ブロードバンド配信で、1話分が週315円だから、約6000円の出費。
でも、まぁ、そう悪い出費ではなかったと思う。
結局は、私好みの大筋だったから。
ソネットの配信だと、5話セット800円程度で見られるのだが、
マックには対応していなくて、それだけが悔しいくらいである。

このドラマは、何となく見始めた。
第1話はほとんどが慌ただしいソウルホテルの裏の労働場面である。
そこにホテル買収の暗雲が漂い、社長が病死する。
ホテルの危機に、社長の遺言に従い、3年前辞めざるを得ない事情があって
アメリカに渡ったハン・テジュンを探しにソ・ジニョンが渡米する。
テジュンとジニョンは3年前まで恋人同士だった。
ジニョンは苦労してテジュンを探し出し、説得してソウルに連れ帰る。
総支配人として迎えられた彼は、さまざまな障害に手腕を発揮し、
信頼厚き総支配人となっていくが、、、物語の本筋は、ここではない。

物語の本筋は、ホテル買収問題と、5人の恋の進展である。
ホテル買収をもくろむ実業家キムは、シン・ドンヒョクに工作を依頼する。
この冷徹な企業ハンターを、ペ・ヨンくんが演じている。
ドンヒョクが仕事を引き受けて、韓国へ渡ろうとしているころ、
ラスベガスのレストランで見たジニョンに強く惹かれてしまう。
ドンヒョクは買収工作の拠点として、ソウルホテルのヴィラ室に陣取り、
冷徹なビジネスの一方で、ジニョンの心を射止めようと懸命である。
この様子がかわいくて、ついつい見続けてしまったのである。
一方、キム会長の娘のユンヒは、ソウルホテルの社長の一人息子からの
求愛を避けつつ、テジュンを一途に愛する。
父親の妨害に遭っても、ソウルホテルで働いて勉強しようとする。
ユンヒはテジュンに一途、ドンヒョクはジニョンに一途、
そうして第一主役のテジュンとジニョンは、互いの思いを断ち切れないまま、
ユンヒやドンヒョクからの求愛に揺れ動くという四角関係である。

おもしろいことに、この第二主役だったはずのユンヒとドンヒョクが、
回が進むにつれて主役のようになって行く。
愛することについてのいいセリフはジニョンにはなく、ユンヒ専用である。
ドンヒョクはジニョンの心をとらえ、妹とも出会い、それとともに、
孤独で冷徹な闘いの世界から、新たな世界に目を開くようになる。
それまで見えてなかった、ホテルの従業員の姿や表情が見えるようになる。
そして、危険を冒して契約を廃棄し、命がけの策略を仕掛け、
全財産を投じてソウルホテルを守ることに尽力する。
これは、「やまとなでしこ」の男版ではないか。



2004年06月15日(火) サラちゃんのコンサート

サラ・ブライトマンのコンサートに行った。
会場は、名古屋南区のレインボーホールである。

実は、私が演奏会に行くというと、劇場でのナマ音のものばかりだったので、
体育館でのマイクを使ったコンサートに行く意味については疑問があった。
それは、リアルタイムで作られつつあるという点では生演奏だけれど、
楽器の音も歌い手の声もナマではない。
CD聞いたりDVD見たりしていれば、それでいいものではないか。。。
しかし、結局は、溺愛する歌い手と時間を共にする魅力に負けたのだった。

まず、照明などの演出に驚かされた。
DVDは見ていても、会場全体の中での効果まではわからないものである。
オペラ座の怪人の場面で、白い照明をいきなり輝かせるのが定番だが、
DVDを見て想像していたよりも、うんと眩しかった。
確かに照明というのは、大工道具を使って嵩張る大道具を作らずとも、
ステージの上だけでなく、会場全体に大道具を作ることができる。
1曲歌ううちに、舞台を千変万化させることもできる。
この演出が実にうまく計算されて効果を出している。

それから、音量の大きいことにも驚かされた。
重低音が床から体に生々しく伝わってくる。
家や車の中ではなかなかこんな音量で聞けないものだ。
これもライヴの魅力のひとつであろうか。
ただ、曲によって、ミキサーの調整によるものか、
サラちゃんのマイクに高音が効きすぎていて気になることがあった。
もう少し柔らかい音色で調整してほしいものだと思った。

また、DVDで見ている「ラ・ルーナ」「エデン」のコンサートは、
CDで発表した演奏とほとんど変わらなかったが、
きょうのコンサートでは、かなりのアレンジがされていた。
それは、おもしろい楽しみでもあるけれど、
必ずしもよりよいアレンジとは限らない、、、実際、
派手になってかえってもの足りないという演奏もあったりした。

・・なんて、いろいろ気になったりするのも、
いつも完成度の高すぎる歌に酔っているからだ。
S席とはいえ、顔も見えず、姿も小さくしか見えない位置だったが、
いつもと違って、今そこで歌っているのだと思うと、不思議な幸福感がある。
暇な身分だったら、きっとコンサートの追っかけをしてるなぁ、と思う。



2004年06月13日(日) 改めて「博士の愛した数式」

17年前の交通事故で、80分間しか記憶できなくなった元数学者と、
その男の世話をする家政婦とその子どもの、3人の交流を描いた物語である。

これといってドラマティックな事件があるわけでもない。
全体としては、淡々とした物語である。
ドラマティックといえば、私のような数学知らずにとっては、
博士(元数学者)によって語られる、数に秘められた真理の説明と、
博士が子どもというものを異常に大切にしようとする言動だ。

全編に温かさが感じられる。
数の世界の不思議も、人間的な血が通っているかのごとくに描かれている。

博士の数への愛と、子どもを慈しむ気持ちとに共通点があるかのように。
主人公も数の世界への関心を深めていくが、
私自身も、もっと知りたいという欲求に駆られたことは言うまでもない。
高校時代に、こんな数学を聞いた記憶がない。
実は習ったのに忘れたのだろうか、それとも、
こういうおもしろい数学を、中学・高校では扱わないのだろうか?

めったに登場しないが、博士の義姉にあたる未亡人の存在が意外と大きい。
主人公(家政婦)を雇ったり解雇したりするときに登場し、
終始冷ややかに、依頼内容を説明するだけの役柄である。
しかし、実は博士が事故にあったときの同乗者であり、
博士が当時書いていた論文は、彼女に捧げられたものであった。
「永遠に愛するNに捧ぐ あなたが忘れてはならぬ者より」
そして、博士の記憶が80分維持できなくなって施設に入ることになった時、
主人公と博士の義姉との間でこんな会話がある。

「施設にお世話にうかがってもいいんです」
「その必要はありません。何でも向こうでやってくれます。それに、、」
一度言い淀んでから、彼女は続けた。
「私がおります。義弟は、あなたを覚えることは一生できません。
 けれど私のことは、一生忘れません」

穏やかでほのぼのした温かい世界を、義姉−義弟の悲恋がきゅっと引き締め、
なおかつ、読後に深い余韻をもたらしてくれたようだ。



2004年06月12日(土) 「博士の愛した数式」

小川洋子「博士の愛した数式」を半分ほど読んだ。
たまたま貸してくれる人がいて、手元にあったから読み始めてみた。

メモしておこう。こんな感覚。。。

見てご覧、この素晴らしい一続きの数字の連なりを。
220の約数の和は284。284の約数の和は220。友愛数だ。
滅多に存在しない組み合わせだよ。
フェルマーだってデカルトだって、一組ずつしか見つけられなかった。
神のはからいを受けた絆で結ばれあった数字なんだ。楽しいと思わないかい?
君の誕生日と、僕の手首に刻まれた数字が、
これほど見事なチェーンでつながり合っているなんて。 (P27)

普段使っている言葉が、数学に登場した途端、
ロマンティックな響きを持つのはなぜだろう、と私は思った。
友愛数でも双子素数でも、的確さと同時に、
詩の一節から抜け出してきたような恥じらいが感じられる。
イメージが鮮やかに沸き上がり、その中で数字が抱擁を交わしていたり、
お揃いの洋服を着て手をつないで立っていたりする。 (P87)




2004年06月11日(金) そこはかとなく書きつく

なぜ1週間ほどさぼってしまったのか、、何となく、としか言いようがない。
何となく書く気がしなかったというだけのことである。
新しい年金法案が議会の騒乱状態の中で強引に可決されるわ、
小泉クンはまったく独断で自衛隊の多国籍軍参加を約束するわ、
教育基本法に愛国心を盛り込む案が着々と作られつつあるらしいわ、
他にもまだあったような気がするが、アホらしいことばっか。。。
年金法案の際の自民党の強引さに対する有権者の批判から、
民主党への政権交代の〈希望〉もあるそうだが、
それこそ、政権交代の美名に覆われた最悪のシナリオだし。。。

何がアホらしいかといえば、もう何もかも、と言いたくなるほどなのだが、
とにかくもう、まず第一に、国会審議というのは、何だ??
審議以前に、もう賛否の票数は決まってしまっている。
どんな批判があろうと、答弁がぜんぜん答弁になっていなくても、
そのためにおおぜいが審議拒否を表明しても、
時間が来たら、あらかじめ約束した連中が賛成票を投じて、おしまい。
何十年も繰り返してきた、国家の頂点でのアホらしい茶番劇の数々。。。
その茶番劇が庶民にもたらす影響は、これは決してアホらしいものではなく、
深刻な事態へと追いつめるのに、多くの国民はそれをいつも許してきた。
そうして馴らされてしまうのである。
だから、日本の軍国化も着々と近づいてきてしまったのである。
もう、自衛隊はこのまま駐留すべきだという人は決して少数とはいえないし、
自衛隊が国際的に協力しやすいように憲法を改めるべき、という人も、
増殖し続けているのである。
こんな状況だから、小泉クンも何ものをも恐れる必要なく、
多国籍軍への参加を独断で約束することができたわけだ。
何言われようと何とでもなるという味をしめてしまったからだ。
小泉クンが首相就任時に、ヒトラーみたいになるんじゃないかと、
どこかに書いたが、実は彼はブッシュの家来でしかなかった。
こんな奴のために写真集まで売られてフィーバーした国民の愚かさ。。。
ブッシュのご機嫌とるために、善意の日本人を排斥することも厭わぬ、、、
それにまた追随してしまった人々の何と多いことか。。。
改憲は、頂点の茶番劇だけでは決まらない、国民投票を経るとはいえ、
もう昨今では、この国民投票というのがかえって恐ろしいものに感じられる。

・・・ま、要するに、とりとめもなく、アホらしさに包まれていたわけだ。



2004年06月05日(土) 小6女児殺害事件

佐世保の女児殺害事件に関する井上防災相の発言が非難されているそうだ。
女の子がやったというのは初めてじゃないか、と言って、
「最近、男、女の差がなくなってきたんだね。ま、元気な女性が
 多くなってきたということですかな、総じて。どこの社会も」
新聞を読む限りでは、男女平等になったから起きた事件、と解釈されて、
とんでもない発言として訂正を求められているようだ。
しかし本人は、そんな趣旨での発言ではないと、撤回の意思はない。

うーーん、私にはどうもこの発言トラブルがピンとこない。
このコメント自体が、事件とまったく無関係なコメントに思われるのだ。
料理の味についてコメントを求められたのに、
シェフの容姿についてコメントしているような感じである。
おまけに、記者が再現したこの口調は何だ?!

要するに、彼はこの問題について真剣に考えていない。
それをさも視野の広い評論家を気取って発言しようとするものだから、
軽率発言となってしまうのである。
内容がぜんぜんないという意味で、軽率きわまる発言である。
撤回しないと恥なんじゃないかと思うのだが。。。


さてさて、この事件で、以前から危惧していたことを思い出すことになった。
それは、こういう事件の解決策とか防止策とかいうものではない。
この事件を機に思い出した問題であり、直接には関係ない問題である。
そういう意味では、上述の防災相なみの話に過ぎない。

小・中学校でのPC情報教育は必要か、という問題である。
私は必要ないと思っている。
自分の子どもたちにも、自分でインターネットを許可したのは中卒後である。
小学生のころは、まだ触らせないようにしていたし、
中学生のころは、ワープロなどのソフトの使用までは許可していた。
稀にインターネットを必要とするときは、妻の管理下で許可、である。
タイピングくらいは、あくまで個人の趣味の領域で、早めに覚えてもよい。

けれども、あまり早くからネット社会に参入させることには反対だ。
調べ学習だとか、学校間交流だとか、良質な教育実践もあるけれど、
それはほんのわずかなおまけであって、
何も学校で大騒ぎして採り入れねばならぬ分野でもあるまい。
小・中学校の段階で必要なのは、本をめくって探して書き取らせたり、
ちゃんと自分の手で字を書いて手紙にすることであって、
インターネットによらない調べ学習や学校間交流で十分である。

私がニフティのパソコン通信なるものを始めたころは、
本にマナーが事細かに書かれていて、自分自身も不安だらけのものだから、
何度も熟読して、えいっとばかりに参加を決意したものであった。
それは主に、現在のBBSやチャットにあたるフォーラムに参加する上での
マナーだった。
あのころに比べると、いろんな手続きが実に手軽にできるようになった。
携帯電話もPCもごちゃごちゃのネット社会になって、
ますます手軽になり、ネット社会の秩序もぐちゃぐちゃしている。

BBSやチャットは、いくら参加者が仲良しのお友達とはいえ、
その場は公の場であるという意識なしに、彼女らは遊んでいたようだ。
そういうマナーを教えるためにも、学校での情報教育が必要だなどと、
私は思わない。
言葉で規則を教えるよりも、生身の人間関係の体験を重ねることが大事だ。


今回の事件でも、問題の本質はやはり、(ネット云々ではなく)
殺してやる、と思ったことが、その通りに実行に移せる恐ろしさだろう。
この問題はあまりにも深すぎる。



2004年06月02日(水) 「24」Season2 の欠点

「24」というドラマの画期的な点は、時間の進行にこだわった点である。
時間を飛ばしたり、引き延ばしたり、止めたりしない。
刻々と時間が進行して行くままに、登場人物もそれぞれ行動している。
こうしてDVDで見ていると、1時間分が正味40分くらいで進行するが、
CMが入ってないからで、その間も物語はそれだけ分進んでいる。
このリアルタイムの進行が、ドラマ全体にただならぬ緊張感を与えている。

実時間に合わせた24時間、丸1日のドラマ、これが売りである。
そして、その24時間に達するぎりぎりのところで、事件は解決し、
危機回避の安堵に包まれる。。。
ところが、24時間を超えることは許されない。
だから、事件解決、危機回避はしても、釈然としないものが残る。
24時間を超えるわけにはいかないし、後日談というのもふさわしくない。

今回は、戦争を企てたのは石油関係者だが、
政府関係者の誰gどんな風に関わり、加担していたのかがわからない。



2004年06月01日(火) 「24」Season2 終わる

あーーー、疲れた〜〜。
長い長〜い1日が終わった。
何と緊張に満ちた24時間(実際は16時間である)であろうか。
願いも虚しく、あれもダメ、これもそれもダメ、、、
次々にせっぱ詰まった状況に直面する。
ドラマの画面から解放されたとき、頭の中に疑惑の渦が巻いていたのを知る。
誰が信頼できるのか、わからなくなっている。

Season3もあるそうだ。
もうイヤだ。


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