人権〝一日100質〟
〆よろしければ、相互リンクをお願いします。


2006年02月27日(月) おもろいお話 『あなたへ』

朝日新聞「生活欄」(2006.02.27)より


『あなたへ』(もっと楽しもう、アメリカ人のぼくはつぶやく)

日本人はまじめだね。行動は丁寧だけど、遊びがちょっと少ないかもしれない。でも、大豆商品の食べ過ぎのせいか、僕も最近日本人の感覚に近づいているらしい。今は逆にアメリカに帰るとそのストライクゾーンの広さにとてもビックリする。

 先日驚いたのは米国内戦の機内アナウンス。
離陸前に副機長のアナウンスが普通に始まったが、途中で変な方向へ。「ポン!シートベルトは緩まないようしっかり締めて下さい。下っ腹のお肉に食い込むくらいで、ちょうどいいのです」と。
 乗客がちょっとざわめきだした。アナウンスは続く。「荷物は前の座席の下、または頭上の棚にしまって下さい。なお、上に入れるものは20キロまたは4歳までとなっています」。この時点で、彼の冗談に気づいた乗客が上機嫌で笑う声が聞こえる。
 さらに続く。「まもなく離陸します。携帯電話を持っている方は必ず電源をお切り下さい。機長のペースメーカーが心配です」。ここで、この飛行機はライブ会場と化した。
 飛び立った後も「機長がシートベルトサインを消しました。どうぞご自由になさって下さい。本日は空席もあるので、近くの窓側の席が空いていたら、どうぞ移動して下さい。ライバル航空会社から満席に見られるよう、ご協力お願いします」。
 そして、「ご存知の通り、弊社は今、倒産中ですので、こうした戦略をとっています。赤字対策として、誰かクレジットカードを貸していただけますか?」と、フリートークに発展していった。着陸したら、僕も弟子入りを申し込もうかなと思うぐらい面白かった。


 でも笑いながら、「仕事でそんなにふざけちゃだめだろ」と心の中の日本人がつぶやきだした。やはり『出る杭は打たれる』精神になっているのだ。外国人で芸人である僕が12年でこうなっているのだったら、日本で育ったみんなはその何千倍もまじめだろう。
 もちろんそのお陰でサービスも丁寧だし、頼り甲斐もあり安心できるわけ。でもちょっともったいないかもしれない。仕事でも遊びでも、人生は楽しいものであるはず。周りをそこまで気にせず、もっと気楽に、自由に、自分ならではの生き方で生きられるともっと充実するのでは? 心の中のアメリカ人はそうつぶやく。

パトリック・ハーランさん(コメディアン。70年米国生まれ。大学卒業後来日、吉田眞とお笑いコンビ「パックンマックン」を結成)



2006年02月19日(日) 春よこい、こい





春よこい、こい


せんじつ、お天気のいい日に外をそぞろ歩きしていて、(桜の)木の
枝間を飛びかう鶯をミッケしました(花粉症のみなさまはご自愛をー)

 
ごあんない
HP『うたごえ喫茶・のび』の日本のうたごえ-平和の歌-のページから
狭山事件の歌「差別裁判うち砕こう」がお聴きになれます。

ワタシがお世話になっている「狭山事件」関連のHPです
石川一雄さんのおつれあいさん早智子さんのHP『冤罪 狭山事件』
徳島の弘瀬さんのHP『鮎喰人権サイト』狭山事件の真実
狭山茶さんのメルマガ『狭山の風』登録サイト
豊中・狭山事件研究会さんの『ストーン・リバー』


 
よかったら、足跡代わりに、どぞー。

いくつかの部落差別事件と差別問題に関するアンケート


次のうち、ご家庭・学校・職場等で、学ばれたり耳にされたりした項目
についてお答えくださいねー(複数回答可)
(ご自身で学ばれたものについては除いてくださって結構です)。

大阪府住吉結婚差別事件(1971年)

「ふるさと」という解放詩(丸岡忠雄さん作/2003年逝去)

「部落地名総鑑」事件(1975年発覚)

狭山事件(1963年事件発生)

「オールロマンス事件」(1951年)

行政書士、戸籍謄本不正取得(2005年4月)


結果だけをみる




2006年02月18日(土) 石川一雄さんの上告棄却 “ソンナバカナコト差別ダゾ”亀井兎夢さん(1977年)


婦人民主新聞縮刷版第六巻(婦人民主クラブ発行/1977 年 8月 19日号より)
石川一雄さんの上告棄却に
“ソンナバカナコト差別ダゾ”亀井兎夢さん
 
 「上告棄却の後、新聞には解放同盟、弁護団、文化人の案として、不意打ち、意表外の感などとあったが、私はそうではない。・・・たとえ科学的、合理的な弁論、大衆の世論の三拍子がそろっても、警察の面子を保つため、科学、理論を押し切り、権力の強引な屁理屈で、おかしな証拠を平然と合理的だ、正しいといっのは十四年前の一審、三年前の二審の判決と同じで、政治的判決が先行、差別、社会的抗議を無視しているのは、一、二審の仕上げといえる。当然黒の判決が出るところで、予想外れではない。司法の反動化というが、これは今始まったものではない。それは六〇年代から徐々に進行してきている。経済成長の破綻から大衆の生活はひどくなり、これに向けて予防的反革命反動は諸方面にある。けっして司法が先端を切ったものじゃない。もし万が一、白になれば、司法権力、警察はガタガタになってしまう。これを防ぐためのじつに悪質な権力犯罪なのだ。部落差別と一体の大犯罪である。・・・私は前からこの事件は部落差別だと言ってきた。無知無学につけこんでデッチ上げ、権力側にとっては一般的な差別裁判である。・・・デッチ上げ、エン罪を権力のない人に押し付ける権力犯罪は、誰かを告発しなければと、権力が部落青年を犯罪者につくり上げようとした。・・・私は“ソンナバカナコト差別ダゾ”とか、裁判官の表情もかきこんだものだ・・・」(亀井兎夢さん)




2006年02月17日(金) 『狭山裁判』野間宏さん(1980年)


婦人民主新聞縮刷版第六巻(婦人民主クラブ発行/1980 年 2月 15日号より)
狭山裁判 再審請求棄却決定に怒り
野間宏さん
 
 高等裁判所の再審請求棄却の決定の全文を読みましたが、事実調べをすべきと言っていた脅迫状の四月二十八日.二十九日の日付の問題です。十六年間、二十八日と読まれてきていた。警察官、検察官、裁判官、弁護人もそのようにいってきた。
 問題の脅迫状が、電子顕微鏡により、二十八日ではなく二十九日だと判明した。脅迫状というものは、それを書いた脅迫者にとって、日付、場所、金額はもっとも重要なものです。・・・
 
 私は、検察意見書の中で仮定法ばかり使っていることを指摘した。“仮に二十九日であろうとも”と仮定法ばかりをいっている。これは弁護人の提出した補充書に写真があり、二十九日と明確にわかるのである。・・・真実を追究する意志を持たない。こういう検察官は辞職すべきである、と私は書いた。
 しかし、こんどは高裁の方は、日付は認めたとするが、記憶違いとしている。脅迫文における日付の重要さを認めていない。この裁判官も同様に裁判官の資格を持たないものである。・・・
 この裁判は差別裁判であり、差別裁判は憲法違反である、と私は書いているが、現在それは議論になっていない。しかし、狭山裁判に対する関心は全国的にふえていて、その証拠に私が書いた“狭山裁判”は売れ続けている。・・・




2006年02月16日(木) 『スコップ鑑定(狭山事件)』生越(おごせ)忠氏(1976年)


婦人民主新聞縮刷版第六巻(婦人民主クラブ発行/1976 年 8月 20日号より)
土壌が無罪を立証
生越(おごせ)教授のスコップ鑑定
 ・・・十一日婦民ホールで「両者(スコップの土壌と現場土壌)に類似性は認められず、まったく異質なもの」と新鑑定書を最高裁に上告した地質学者生越忠(和光大教授)は表を書いてわかりやすくその相違点を説明。・・・

「おかしいのは十一日の夜、スコップが発見され、それについていた赤土と、死体が埋められていた穴の赤土の土質がほとんど一致すると十二日の午前中に警察が発表したということ、土壌の鑑定は半日やそこらでできるものではない。目で見て色や外観が一致したということだが、これはクジラは哺乳動物なのに、海に住んでいて形が似てるから魚と同じものであるというのと同じ。
 さすがにこれだけではまずいと思った警察は、埼玉県警察本部の鑑定課に鑑定を依頼、星野正彦警察技師が二ヵ月かかって検査、鑑定書を書き上げた。
 
 土壌の鑑定の場合、第一の基準になるのは土壌構成粒子=粒の大きさによって砂・シルト(微砂)粘土とわけられる=の組み合わせ、第二が鉱物成分。色や形など外観は主観的なもので第三次第四次的なもの。星野鑑定はいちおう七項目の分析をやっているが、全資料について検査したのは比重だけ。また発表した分析表に空欄があったり抜けていたり。これは発表すると都合が悪いデータがでているということだと思う。
 そして一番重きをおかなければならない土壌粒子の重量構成比についてみれば、星野鑑定によっても、両者に明らかな違いがある。スコップについていた赤土は“シルト質植壌土”であるのに、死体を埋めてあった穴の付近(なぜか警察は死体のあった穴の土を使っていない)の赤土は“シルト質植壌土”とまるきり質の違うもの。それをとりあげず、二次、三次のものすべてを同一平面内にならべ、同じウエートにして総合的に合わせ「類似性が高い」と発表した。
 だいたい、“似ている”おされている成分のところは、片方が赤土、片方が黒土のところで、これでは肉眼鑑定で色も形も似ていると発表したことまで、まってうのでたらめになってしまう。星野鑑定は、分類学の基礎を知らないおよそ非科学的なもので、警察側が一度作り上げた筋書きを動かしたくないということからのこじつけ鑑定であろうと思う。・・・」

 この星野鑑定書に、埼玉大の地質学者や、科学者が手を貸している事実に「お上がやったものだから駄目。大学教授(すべてのとはいわないが)がやったからあやしい」という考え方も身につけようという話も出た。科学の名を借りた非科学性が警察の発表したデータから解明されるおかしさ、この他の六つの鑑定書も同じように石川さんの無罪を裏書きしている。なんとしてもこれら新鑑定書を含めた上告書を読ませ、最高裁に口頭弁論・事実審理を行わせるよう世論を高めようと決意を新たに会を終えた。 



2006年02月15日(水) 『石川君と脅迫状』 国分一太郎さん(1976年)


婦人民主新聞縮刷版第六巻(婦人民主クラブ発行/1976 年 5月 14日号より)
石川君と脅迫状
国分一太郎
 「吉展ちゃん事件」というのは「中○善枝さん事件」の二ヵ月前くらいだっただろうか。そのとき電話で脅迫した犯人の声紋が問題になった。方言学者の柴田武氏が山形県中部から以北のものといい、国語学者の金田一晴彦氏が福島県以南の者と想定した。私は山形県のその辺の出なので、・・・金田一氏の方に分があると思った。そのとおりであった。・・・「吉展ちゃん事件」が言語学的に取りざたされたということで、その後に起こった「狭山事件」に関しても私はある種の関心を持った。十三年前の今頃のことである。
 私は何も知らなかった。・・・学習院大学の大野晋氏が、七二年一一月号の「世界」に、石川君の学力ではあの脅迫状は書けないとの意見を書いた。続いて死刑を言い渡されたあとの第二審では、その旨をハッキリと示した鑑定書を弁護団の依頼を受けて提出した。・・・
 
 それによると石川君は、小学六年間を通じて欠席が多く、国語の成績は・・・「マイナス2」(いまの五段階評価の1)であることがわかった。大野晋氏の鑑定では、漢字を使いこなす能力は小学校二年生程度というのだった。そこからカナで書くのが自然なところに、作為的な技巧による漢字使いはできるはずがなく、また「で」をわざと「出」、「き」をわざと「気」のように画数の多いものにしたり、「え」を「江」と教育用漢字にない古風なものにしたり、こういう能力はないはずというものだった。そのほか、句読点のつけ方も、脅迫状では全くよくできていて、石川君の学力ではとうてい書けず、むしろこの脅迫状は誰か別のものが書いたものであることを、くわしく示唆したものだった。

 私はこれらを読んで、自分がうかつだったことにおどろき、こういうしごとは、私たちのような国語教育の研究にあたるものなどがしなければならないことだったと恥じ入った。そしてこの大野鑑定書一つをとっても、石川一雄君には無罪の判決がくだるだろうと考えたりした。脅迫状では「警察」を「刑札」などと書いているのにも異様な感じをもった。
 ところが、第二審の寺尾判決では無罪とはならず、逆に無期懲役になってしまった。それに問題の脅迫状がむしろ有力な証拠とさえ断定されているというのである。

 さて、今年に入って二月六日号の「朝日ジャーナル」を見ると、いまいった大野晋氏が「脅迫状は被告人が書いたものではない」との題で、またまた委曲をつくした所信の公表をしているではないか。そのなかで裁判所は「誤まった判断によって人を罪に陥れてはならないと私は思うのである」とハッキリ明言しているではないか。私はその学者的良心につよい感動をもった。
 こんなことをいってよいのかどうかわからないが、もともと大野晋氏は、いわゆる「進歩的」といわれるような学者ではない。古代日本語の音韻や語源などの研究に勤しむ言語学者であって、ある場合は、近頃の「日本語ブーム」をつくりだした人のひとりなどともいわれている。そして、いま評判の悪い国語審議会のなかでは、むしろ保守派と目されているようなひとである。・・・そのひとが国語学と国語教育の観点から、石川一雄君は「中○善枝さん殺し事件」の真犯人ではないといいきるのである。・・・私は、この大野氏の所説の前に頭をさげているのである。

 それにしても、いま私たちが石川一雄君のかつての「低学力」を根拠にして、その無実を証明しなければならないとはなんと悲しいことであろう。もし彼が部落差別も受けず、その家が生活にも困らず、学校にも普通に行けたのであれば、このような事件の被疑者としては引きずり込まれなかったかもしれない。現在、その後の獄中の独学で、りっぱな文章も書けるようになり、周囲の部落民と共に自己の位置を冷静に見つめて闘う姿勢をかためていることを思えば、なおさらのことである。人間としての可能性はりっぱに存在していたのだから。
 しかし事実は事実である。幼い日から事件発生ごろまでのかれの「低学力」を冷静に見つめつつ、その事実のうえに立って、その無実を、私たちは主張しなければならない。この五月二十三日は、石川一雄君逮捕の記念日で、部落の同胞たちは同盟休校の抗議をするという。(新日本文学会会員)




2006年02月14日(火) 講座「部落差別とは何か」柴田道子さん(1973年)


婦人民主新聞縮刷版第五巻(婦人民主クラブ発行/1973 年 9月 14日号より)
講座「部落差別とは何か」柴田道子
狭山差別裁判と私たち
無実で勾留11年

 昭和三八年五月一日、埼玉県狭山市でNさん(高校一年)が誘拐された。二日に家族に対して身代金が脅迫され、四日には死体となって発見された。
 この事件は吉展ちゃん事件から二ヵ月しか経ておらず、吉展ちゃん事件についで、身代金をとりにきた犯人を目の前にして取り逃がすという警察のあいつぐ失態となった。警察権力の大失態はマスコミによって大いにさわがれた。・・・そして五月二十三日に被差別部落出身の石川一雄青年(当時24歳)が、事件と無関係の別件で逮捕された。この別件はそれ自体で起訴することの不可能なものであった。・・・今日この部落差別を最も具体的にかつ最も象徴的に、私たちにつきつけているのが、無実の石川さんに死刑を宣告した、狭山差別裁判である。

 狭山事件は・・・権力犯罪による差別裁判である。捜査段階から 石川さんの別件逮捕、自白の強要、物証のでっち上げ、一審の内田裁判とその判決、二審の井波裁判の訴訟指揮にいたる、今日までのすべてが、部落差別でつらぬかれている。

 石川さんは部落差別のため小学校五年で中退して、農家の子守奉公に出された。在校中は家の手伝いで長欠児童であった。・・・逮捕された当時、石川さんは裁判とは何か、弁護士は誰のためにつけられるのか、さらには警察とはどのようなところかさえ自覚しなかった。・・・

 警察権力がさしむけたインチキ弁護士やニセ狭山市長があらわれ・・・警察は本当の弁護士の接見を妨害し・・・石川さんの真実に対する信念の固さを知った警察は、狭山から川越分室の特設調べ室に石川さんの身柄を移す。ここでも石川さんは一週間のハンストをもって犯行を否認しつづけたが・・・

 傍聴席にでっち上げの張本人である長谷部らが見守る中で、石川さんは一審の内田差別裁判中・・・イエスを繰り返していた。死刑をよぶこのような犯行をどうして容認できたのか。石川さんは(長谷部刑事課長の)「十年で出してやる」の甘言を信じきっていた。一審中、彼は警察だけが味方であると思っていたという。・・・当時の石川さんの社会認識の無自覚こそ、部落差別によるものである。

 二審の法廷の冒頭、「オレはYちゃんを殺していない」と、検察官、弁護士にはじめて石川さんは顔をしゃんとあげ、裁判長に宣告した。・・・「人間の血は枯れずにあった」・・・石川さんの偉大な飛躍は、部落三百万兄弟の運命を一身に担っているという自覚と認識であった。・・・

 権力の差別犯罪であることがつぎつぎと露呈されている。石川さんにはアリバイがある。
イ)殺害時刻(五月一日PM四時~四時半)には荷小屋にいた。ロ)犯人がN家に脅迫文と自転車を届けた時刻(PM七時半~七時四十分)には自宅にいた(増茂三郎さんの証言)。ハ)家についた時の石川さんはあまり濡れていない(犯行時間、雨が降り続いている)。二)一日に帰宅して(PM六時半~七時、妹の証言)から翌日二日の一時まで自宅におり、その後友人と映画を観に行き六時に帰宅している(犯行の事後処理の時間がない)。ホ)三日のAM零時十分に犯人が佐野屋の前に現れた時には自宅で寝ている。

 「物証」はすべて権力のでっちあげであった。それは
イ)三大物証の時計・カバン・万年筆はYさんのものでなく、どの物証からも指紋ひとつ出ていない。時計は警察発表の品ぶれと違うものであり、二ヵ月もたった七月二日に七十八歳のO老人に発見された。発見現場は六月二九~三十日に捜索した場所である。発見される前に時計は警察の手元にあり、石川さんは二八日に問題の時計を見せられ腕にはめてみた事実がある。警察がO老人を工作したことは、老人の義姉の証言で明らかにされた。・・・また万年筆も二度にわたって(十二人の捜査官が二時間かけた)古井戸さらいから屋根の瓦まではぎとって捜査したが、何も出てこなかったが、二度目の捜査(三人の捜査官十五分)で、勝手口のかもいから出てきた。このかもいは目で見える高さであり、前回の捜査でかもいの奥のねずみの穴につめたぼろ布まで引き出していたのである。・・・三度目の捜査の前々日、関巡査が工作しにきたことが判明している。
ロ)脅迫状は石川さんが書いたものではない(筆跡の一致性、文章力に大きなへだたりがある)。ハ)足跡の不一致(石川さんは十文半、足跡九文七分)二)教科書発見と「自白」のくい違いホ)五月十一日のスコップ発見の不自然さ。

 さらに犯行方法に関して・・・
ロ)死体の足首を細引きでしばり、いも穴に逆さ吊りにして近くの桑の木に結びつけた(死斑に逆さ吊りの症状は出ていない。犯行の残酷さを印象づけるためのもの)。ハ)死体の埋め方は、この地方の埋葬習俗を知っている者の犯行(石川家は火葬で、石川さんは玉石、こん棒の両墓制の習俗を知らない)。二)死体を埋めた後の多量の残土が無くなっている。お茶葉を一緒に埋めてある(一人では不可能、また犯人は農業を営む者の知識を持っていた)。ホ)Yさんの死体は全然濡れていない(自白は野外の犯行。天候PM三時~四十分、四時二十分、雨が降り続いていた。事実は屋内犯行)。

 狭山事件が部落差別に貫かれていることは
イ)I養豚屋の『スコップ紛失届』を強制し、これをもって被差別部落に対して集中的に見込み捜査をしたこと。・・・ハ)一審の内田判決文は、石川さんの生い立ち環境、貧困、未就学、転職など部落差別によって強制された生活環境を強調し、犯行の必然性を述べたてている。

 警察・検察・裁判所の一貫した部落差別にさらに輪をかけて、控訴趣意書が差別性に満ちていることである。
イ)石川犯人説にたち、部落が生んだ犯罪であると展開している。ロ)部落を名ざしで差別する。ハ)石川氏は「精神異常」であり、強姦に夢中のあまりに殺害したとし「法令適用の誤り」(量刑不当)を主張している。・・・

 こうした何重もの差別の壁を突き破って石川さんは今十一月の再開公判にむけて不屈の闘いを日夜獄窓でつづけている。・・・
 石川さんの生命がかけられているこの狭山差別裁判闘争は、一人石川さんにとどまらず三百万の部落兄弟の運命が問われている。
 同時に、部落差別を許してきた一般民の責任が問われている。石川さんをこのように追いやったのは国家権力であるが、そうした権力の理不尽を許してきたのは私たち一人ひとりなのである。
 
 最後に、部落差別を許さないたたかいは、私たち個々の人間の問題として問われていることを記し、八回にわたる連続講座を終わる。
(児童文学者)



2006年02月06日(月) 「典子は、今」の白井のり子さん、講演活動専念へ





「典子は、今」の白井のり子さん、講演活動専念へ 
台に載せた原稿を足で操り、一言一言をかみしめるように話す白井のり子さん(福岡県那珂川町で)
 
 サリドマイド児の日常を描いたドキュメンタリー映画「典子は、今」(1981年、松山善三監督)に主演後、約21年間取材を断ってきた白井のり子さん(44)(熊本市在住)が、読売新聞のインタビューに応じ、3月いっぱいで勤めている熊本市役所を退職し、講演活動に専念する準備を進めていることを明らかにした。

 白井さんは、サリドマイドの影響で両腕に障害を持って生まれた。右目の視力もほとんどない。80年、サリドマイド被害者として全国で初めての公務員になった。その後、松山監督から「多くの障害者が、あなたを見て元気になるような映画を作りたい」と申し出があり、「自分に与えられた使命かもしれない」との思いで承諾した。

 ところが、映画出演後、全国から寄せられた手紙が1か月3万通にのぼるなど生活は一変。いわれもない中傷も投げかけられ、結婚して子どもが生まれたこともあり、講演、執筆、取材などの依頼をすべて断ってきた。

 しかし、子育てが一段落した40歳過ぎから心境に変化が現れた。自分を客観的に見つめられる余裕ができ、「映画を見てくれた人たちの感想を素直に受け入れられるようになった」という。「映画の典子じゃなく、今の“のり子”を知ってもらえばいいのかな」と、昨年8月、初めて講演依頼を引き受け、これまでに九州で7回講演した。白井さんは「これからスカイダイビングなど新しいことにも挑戦したい」と話している。
(読売新聞) -2006年2月6日23時19分更新






2006年02月05日(日) 「狭山事件」の新聞記事②

☆資料(差別事件としての部落 3.冤罪)狭山事件





婦人民主新聞縮刷版第六巻(婦人民主クラブ発行/1976 年 8月 20日号より)
土壌が無罪を立証
生越(おごせ)教授のスコップ鑑定


『スコップ鑑定(狭山事件)』生越(おごせ)忠氏

http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=18156&pg=20060216





婦人民主新聞縮刷版第六巻(婦人民主クラブ発行/1976 年 9月 3日号より)
狭山現地調査 「石川さんは無実」の確信あらた
 
 ・・・用もない関巡査部長が、無断で勝手口から上りこんでいるのをお母さんに見つかり、「一雄君に届けるものがあれば私が持って行ってあげるから」とつじつまをあわせ、お母さんが届け物を取りに行っている間にさっさと帰ってしまった---ということがあってから数日後に、にせの万年筆が出てきた---と。・・・
 佐野屋へ履いていったとされている地下足袋、じつは当時石川さんはひどい魚の目で、長ぐつの底に紙を入れ、魚の目の所だけ切り抜いて履いていたのだという。・・・
 石川さんの当日の行動範囲も、Nさんを殺害し、二百メートルもあるいも穴まで運んで行き、縄を二百メートル離れた人家まで取りに行き、死体をくくって逆さ吊りにし、脅迫状を書き直して自転車でN家へ届け、自転車を小屋に置いて歩いて帰る途中、スコップを盗み、穴を掘り、死体をいも穴から出して埋め、残土を処理して家へ帰る---大雨の中の夜の一人だけでの行動---人間わざではおよそ出来ない行動である。
 警察ははじめ共犯説をとりながら(犯人が確定しない時期に部落に見込み捜査をはじめ、共犯の証拠が危うくなると)石川さんの単独犯行として安易にデッチ上げていった。・・・

 警察犬の方向と反対方向に、石川さんの逃走路があったこと、その他・・・・





婦人民主新聞縮刷版第六巻(婦人民主クラブ発行/1976年10月8日号より)
 差別語うんだ生活実態
 森田 益子さんの話

『差別語うんだ生活実態』森田 益子さん




婦人民主新聞縮刷版第六巻(婦人民主クラブ発行/1976 年 11月 12日号より)
石川さんに届け十万の歌声
寺尾差別判決から二年


・・・最高裁の上告棄却のたくらみを打ち破って、事実審理、口頭弁論を行わせるため、十一月末には弁護団、鑑定人が心血を注いだ意見書が提出される。石川さん、ご両親の訴えにこたえ、弁護団の努力をみのらせるため、休みなく運動をふくらませてゆかなくてはならないと思う。・・・
会場には、韓国青年同盟、たたかう「障害者」、アイヌの代表も参加し、差別され、抑圧されているものとして、ともにたたかう決意を述べた。・・・
 



婦人民主新聞縮刷版第六巻(婦人民主クラブ発行/1977年3月11日号より)
新潟日報社の差別報道
裁判長も「被差別」を「非差別」と
 狭山最高裁決戦のたたかいは重大な時を迎えていますが、マスコミがこの権力犯罪に果たした役割は無視できません。「新聞は警察より先に一雄を犯人扱いして報道した」と父富造さんは糾弾しています。私たちの働く新潟日報社(発行部数約30万、朝夕刊)も例外でなく、狭山事件当初から石川氏に対し「中学も行かず遊び歩く」「人間性一片もなし」等、犯人キャンペーン差別報道を展開。一方、二審冒頭無実が宣言されるや、沈黙、一片のニュースも流さない差別姿勢をつづけています。この日報社の差別姿勢・報道を許さず、当時看過した反省の上に、マスコミ内部から告発、糾弾することこそ石川氏を取り戻す道であり、私たちの姿勢と立ち上がりました。・・・

 二月十五日第十九回公判で証人調べの段階です。検察側証人の公安刑事の口から、日報社にスパイを置いているとの重大な事実が暴露されましたが、三好清一裁判長は公判調書に「被差別部落」を「非差別部落」と記載、認印まで押して公開しました。・・・「エタ・非人」の「非」をあてるという三好裁判長の部落差別。裁判長は「誤記だ。被差別部落民と会い声を聞く必要などない」と居直り、法廷内外に怒りを呼び起こしています。・・・




婦人民主新聞縮刷版第六巻(婦人民主クラブ発行/1977 年 8月 19日号より)
石川一雄さんの上告棄却に
許せぬ最高裁の“暴挙”
当日 怒りの抗議集会開く
 最高裁第二小法廷(吉田豊裁判長)は九日、一九六三年五月、埼玉県下でおこった女子高生殺し「狭山事件」の被告、石川一雄さんに対し「被告が犯人であることに合理的な疑いをさしはさむ事実は認められない」として、同氏の上告を棄却する決定を下した。七四年十月末の寺尾高裁判決から二年九ヶ月、弁護団から強く要求されていた口頭弁論もなされぬまま、書面審理だけのぬきうちの決定であった。これにより、石川さんの二審判決で受けた「無期懲役」が確定するが、・・・各方面から大きな非難をあびている。・・・

 最高裁の決定は被告・弁護側が上告趣意書で強く無罪の根拠にあげていた①被差別部落民に対する差別捜査②捜査官の強要による任意性のない自白③違法な方法で収集された証拠能力等についても、「差別的捜査の証拠はない」「被告の自白には犯人でなければ知りえない内容があり、真実性はきわめて高い」「総合的に評価すると被告が犯人であることに疑いはないとした(高裁)判決は正当である」として、弁護側の言い分を退け二審判決を全面的に支持した。

 この決定に対し弁護団は緊急の記者会見を開き、「寺尾差別判決を全面的に追認したものにすぎない。・・・」と・・・
 松井やより委員長(婦人民主クラブ)は・・・「上告棄却の理由では、差別捜査だったという証拠はないと言っているが、部落差別の形態は物的なものだけではない。差別は差別されるものがハダで感じるもので、この観点が最高裁の決定には完全にぬけおちている・・・」
 
 棄却決定の知らせを受けた直後に石川さんに面会してきた弁護団の中山武敏さんは、石川さんは冷静で思いのほか元気、「こんな不当な判決には決して負けない」と力強く語ったことを報告。また、「獄中で無罪を勝ち取るまでたたかいぬくので皆さんによろしく伝えてほしい。これで確定犯になるので、手紙も今までほどに自由にかけないかもしれないが、そのことも伝えてほしい。これからの闘いでは最高検がもっている足跡の連続撮影のスライドの開示を要求してもらいたい」との伝言を伝えた。

 「報告を聞いた時には思わず目頭が熱くなった。次に来るのは、残り一年の特別措置法による補助金の打ち切りだろう。私たち婦人は、極限の苦しさの中でこそ必ず先頭となって立ち上がる」(森田益子部落解放同盟中央委員)

 「まさかぬきうちに、こんな決定が下るとは思わなかったが、自分たちの運動の足らなかったことを反省しながら、最後の血の一滴までたたかう覚悟です。そうしなければ私たちが産み育てている子どもたちが今後いつ何どき、こういう目にあうとも限らないからです。権力の暴挙は絶対に許せない」(宮沢志津子長野県連婦人部長)




婦人民主新聞縮刷版第六巻(婦人民主クラブ発行/1977 年 8月 19日号より)
石川一雄さんの上告棄却に
“ソンナバカナコト差別ダゾ”亀井兎夢さん

“ソンナバカナコト差別ダゾ”亀井兎夢さん
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=18156&pg=20060218 






婦人民主新聞縮刷版第六巻(婦人民主クラブ発行/1977 年 8月 26日号より)
上告棄却への怒り
八.一二 大阪府民集会
 ・・・府連書記長からたたかいの基調が述べられた。「・・・地名総鑑が、今まだはびこっている社会であることをわれわれは認識し、必ず勝利することを確信したたかう」と・・・ 



婦人民主新聞縮刷版第六巻(婦人民主クラブ発行/1978 年 3月 24日号より)
同じ人間なのになぜ差別が
狭山映画と討論の夕べ
 
・・・映画は「狭山の黒い雨」と、亀井トム作「差別と権力犯罪」を二本上映しました。・・・「差別と権力犯罪」は、元所沢警察署長 細田行義の証言により、五月一日隠しが明るみになってゆくものです。石川さんを犯人に仕立て上げて来た権力犯罪こそが真犯人であり、その権力に手を貸して来た民間協力者と、Yちゃんを殺した真犯人たち、そういう犯罪の総体こそが真犯人であるから、それを徹底的に暴き、告発してゆこうという内容のものでした。この映画を観て私たちは一人の人間を部落差別というもので抹殺することを平気で行い、その上でしか成り立たない権力というものに対する怒りを新たにしました。・・・いろんなところで活動している読者が三十人ほど集りましたが、なかでも「尚司くんの富中入学を実現し教育を考える会」の尚司くんのお母さんの梅谷さんはじめ、“奈良青い芝の会”の方たちが車椅子で参加してくれた意義は、私たちにとって大きいものとなりました。・・・これらのたたかいの基礎には、自分の身の回りから差別をなくしてゆく活動がなくてはならない。・・・




婦人民主新聞縮刷版第六巻(婦人民主クラブ発行/1978 年 11月 17日号より)
“父母が生きているうちに”石川さんを取り戻せ
狭山再審要求中央集会

 ・・・無実を主張する石川一雄さんに無期懲役の判決が下りて、ちょうど四年目。・・・裁判の不当性を訴えた『造花の判決』の鑑賞者は百万人。作家の野間宏さんは「世界」に狭山裁判の批判論説を書き続けているが、野間さんが倒れるか、石川さんの奪還が先かという決意で勝利の日まで書き続けている様子を、次々と登壇者が報告。・・・決議文が採択され、狭山再審弁護団の青木英五郎主任弁護人が「われわれが提出した九項目の新証拠によれば無実は明らかで・・・どうしてもみなさんの強い決意と支援が必要。・・・」と報告。・・・
 



婦人民主新聞縮刷版第六巻(婦人民主クラブ発行/1979 年 10月 19日号より)
改めて無実確信
狭山現地調査
 
・・・寺尾判決の「背の低い人には見えにくく、人目につき易いところとは言えない」という理屈は、現場を知らないからこそくっつけられるのである。多くの人に現場を見てもらいたい---つくづくそう思った。




婦人民主新聞縮刷版第六巻(婦人民主クラブ発行/1980 年 2月 15日号より)
狭山裁判 再審請求棄却決定に怒り
野間宏さん

 『狭山裁判』野間宏さん
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=18156&pg=20060217
 




婦人民主新聞縮刷版第六巻(婦人民主クラブ発行/1980 年 5月 23日号より)
四度目の現地調査
雨をついて

・・・有罪の判決を出した裁判官は全員、ドシャブリの雨の日、現場に来て、二時から夜の十時まで、石川さんのウソの自白のとおりに、ぜひ、歩いてみるべきだと思った。
 



婦人民主新聞縮刷版第六巻(婦人民主クラブ発行/1980 年 6月 6日号より)
闘いはこれから
---5.23狭山中央集会---
 
・・・弁護団の中山弁護士は、日付訂正問題にふれ、「この発見事実を石川さんに伝えたとき、石川さんは『大丈夫か、弁護士の見間違いではないのか』とビックリしていた。これは、石川さんが(脅迫状作成に)関係していないからこそ出た言葉である」と“本人の記憶違い”としてゴマカしている四ッ谷決定を批判し、「検察庁の隠し持つ全証拠開示の運動を大きくもりあげてもらいたい」と訴えた。・・・石川さんは今年もメッセージで集会参加。一日も早く、壇上でアピールする石川さんの姿を見たいもの。・・・十七年の獄中生活に、ひるむことなく闘いつづける石川さんのメッセージである。・・・今集会では、「韓国」で立ち上がった闘う学生・民衆との連帯が強くアピールされ、・・・




婦人民主新聞縮刷版第六巻(婦人民主クラブ発行/1980 年 11月 14日号より)
10.31寺尾差別判決6ヵ年糾弾
狭山再審要求中央総決起集会
 
・・・現在、異議審段階で闘われている狭山裁判は、九月二十日、弁護団の補充書提出により東京高裁はいつでも決定が下せる状況下。・・・中山弁護士は「・・・新関裁判長は、補充書を全力を上げて検討し、必要性があれば改めて連絡すると発言したが、その後まだ連絡がない。裁判所が、早い段階でなんらかの判断を下す恐れがある。・・・」。

 政党、総評、文化人、宗教界、全同教など各界からの発言の後、韓民統からも・・・連帯のあいさつが・・・。アイヌ解放同盟からはメッセージが。全障連の八木下さんは・・・「石川さん、赤堀さんのデッチ上げはまさに屈辱だ。刑法改『正』を絶対許さない闘いとともに、二人を取り戻す闘いを」と力強く訴えた。

「私が解放への捨て石になれればと、日夜がんばっています」
 と、石川さんは、今年もメッセージの集会参加。




2006年02月04日(土) 「狭山事件」の新聞記事①

☆資料(差別事件としての部落差別3.冤罪)狭山事件






婦人民主新聞縮刷版第五巻(婦人民主クラブ発行/1971 年 6月 4日号より)
「差別」によって殺される
狭山事件と暗黒裁判
偏見と予断で捜査

 ・・・浦和地裁(内田武文裁判長)で行われた一審の裁判はわずか半年の審理で石川さんに死刑の判決を下す。検察は全国注視のまととなった事件だからということでスピード審理を裁判所に申し入れ、裁判所はこれをうけたわけだ。そして証人調べも、検察側請求の証人一四四人中、四十五人、弁護団側の証人十三人中の四人しかみとめていない。
 
 この事件で部落差別の根深さをしめすのは、弁護団までが、裁判の過程で、警察のデッチ上げをかなり鋭くつきながら、石川さんの無罪を見通すことができず、・・・一審第八回公判で石川さんの精神鑑定を要求し、さらに控訴趣意書でも、
「I養豚屋での五ヵ月間は、それまでうちにひそんでいた被告人の性格の歪みや精神的偏奇を顕在化したのだろう」と述べており、部落即ち悪の温床とう予断につらぬかれてしまっている。

 狭山事件は、ことしで八年目、石川さんや多くの部落の人たちの闘いによって、ようやく真実が知られ始めてきている。・・・




婦人民主新聞縮刷版第五巻(婦人民主クラブ発行/1971 年 7月 23日号より)
司法、警察のなれあい
狭山裁判二審
証人、要点をぼかす

 さる十五日、東京高等裁判所で狭山事件の二審判が行われた。・・・
 警察側証人として狭山署のヒシオダ元警部が証言に立った。・・・
 荒縄については忘れた、記憶がないなどの答弁、ひもの結び目(Yさんの死体のしばり方は“ひこつくし様”という特殊なしばり方がしてあり、石川さんはこのしばり方を知らなかったことは警察の調書でも明らか)、石(Yさんの死体と一緒に発見された玉石のことで、よそから運んできたものである)、万年筆(既に徹底的に家宅捜索された石川さん宅から、一人の巡査が訪れたあと、再度の捜査で発見された)についても同様、・・・
 午後も、脅迫状の指紋(警察はN家に届けられた脅迫状の指紋採取を怠っていた)、時計の発見状況(石川さんの「自白」によって発見されたというもので、Yさんの時計と側番号がちがっている)、重要な承認の自殺(この事件では、関係者、証人が四人も自殺している)、死体を埋めたあとの土の始末(埋めたあと、余った土はよそへ運ばれている)について、・・・証人は気がつかなかった、忘れたなど、午前中と同じように進められていった。・・・
 各地の解放同盟、支援団体が挨拶、高裁にむかって、糾弾のシュプレヒコールを行った。・・・




婦人民主新聞縮刷版第五巻(婦人民主クラブ発行/1971 年 11月 19日号より)
くずれる検察の論拠
新証言にろうばい
狭山差別裁判 結審は来春に

 十一月十一日高裁で狭山事件二審公判が行われた。・・・
 論争の焦点は、死体のしばり方と自殺した証人の関係、スコップ、時計の発見状況にしぼられた。・・・・この事件は石川さんの逮捕の前後を含めて四人の自殺者が出ており・・・そのうちの一人が野犬狩りをしており、野犬をつかまえるとき縛り方が“ヒコツクシ様”であることから、関係があるのではないかと弁護団は追及した。警察、裁判所はいずれも・・・終始一貫無視している。
 また、犯行に使われたというスコップ(「I養豚屋のもの」となったために、部落へ捜査が向けられるようになった)について、I養豚屋の主人は、事件後だれかからもらったか、持ち込まれたものであると証言。検察の論拠の一つがくずれた。
 時計の発見について、警察が「石川はうそばかり言っていたのでまさか、その通りの場所にあるとは思わなかった」と言っていることに対して、弁護側から「時計の発見の前に万年筆が石川さんの『自供』に基づいて自宅から発見されている。その『自供』が本物だったのなら、時計の『自供』も真実となるのが普通ではないか。またそのとき、指紋がつくといけないというので、ビニールの袋まで用意している。それをわざわざかくし場所の鴨居の穴から父親にとらせたのはおかしいではないか。あきらかにデッチ上げではないのか」と追及されて、検察側は激しく怒った。これはかなり追いつめられたことを示す。しかし、・・・上杉佐一郎解放同盟書記長も「井波(裁判長)が佐藤のカイライとなって、われわれにかけてきている弾圧をはねかえすものは、人民の団結以外にない。・・・」




婦人民主新聞縮刷版第五巻(婦人民主クラブ発行/1972 年 8月 11日号より)
狭山差別裁判
デッチあげられた脅迫状
二千人余が支援に結集

・・・二十七日午後の公判では、死体の逆づり等についての五十嵐鑑定の正否を明らかにする鑑定、玉石、コン棒、残土、筆跡に関する鑑定申請とその理由説明が行われました。
 
 残土の問題では、死体の埋められていた場所は手でなぜられたように平らであった(一審の橋本供述)といわれているが、穴の大きさからどんなにふみ固められても二百七十キロ以上の残土は残り、うめられた人体分を加えればさらにそれを上回る残土が自然になくなることはあり得ない(東大農工学部八畑博士)。真犯人があらかじめ大量の残土を処理したことは明白です。

 また筆跡については、石川氏の筆跡が脅迫状と一致するとした高村鑑定人は今日も出廷せず、民間鑑定人である学習院大学大野ススム教授は・・・。京都大学のアノ教授も・・・。
 さらにおどろくべきことには、石川氏は脅迫状に合わせ、字を書く練習を五百回以上も強制された事実がばくろされました。




婦人民主新聞縮刷版第五巻(婦人民主クラブ発行/1973 年 9月 14日号より)
講座「部落差別とは何か」柴田道子
狭山差別裁判と私たち
無実で勾留11年

講座「部落差別とは何か」柴田道子さん
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=18156&pg=20060214




婦人民主新聞縮刷版第六巻(婦人民主クラブ発行/1977 年 9月 9日号より)
狭山に賭けた柴田道子さん
二周忌をむかえて

 ・・・道子さんの処女作『谷間の底から』の読者の中に、部落の少女がいたことから彼女の暖かいまなざしは、被差別部落へと焦点がしぼられていった。彼女が二十五歳の時であった。三歳の時からアレルギー性気管支炎にとりつかれながら、道子さんは考え、話し、歩き、調べ、書き、行動する作家になった。一九七五年の春、夫横田弁護士と共に狭山市に移住した。・・・監視されながらのもどかしい面会の日、金網の向こう側であきらかに糖尿病におかされている一雄さんの不安は、道子さんの注射と投薬の副作用に悩みつつ病む苦しさに直接ひびいてくる辛さであったろうと思う。咳き込みながら、夫横田弁護士にしかられつつ、高熱で倒れ入院しては退院し、かすれる声を整理しながら家人の目の外側で電話し、面会し、連絡しつづけた道子さんを支えていたのは、真実の愛であり、ウソへの激しい怒りであったにちがいない。・・・一九七五年八月十四日、一雄さんもまた獄舎で泣くことしかできなかった。・・・一人でも多くの方に真実を凝視し、道子さんの果たされなかった愛と怒りを持って欲しいと思い、祈り続けている私である。(山下修子)




婦人民主新聞縮刷版第五巻(婦人民主クラブ発行/1973 年 10月 12日号より)
狭山現地調査に参加

・・・「出合い地点」とされている場所は、見通しがよく、畑仕事をしていた人が、誰も通らなかったと証言しています。・・・
「二審では一審の判決文と控訴趣意書を読めば、事実審理はしなくても判決は下せる」という寺尾裁判長に対して、まわりの人々に石川さんの無実と真実を訴え、でっち上げ裁判の差別性を訴え、石川さんに十一年目の冬を獄中で迎えさせないよう運動を広げていかなければならないと思います。




婦人民主新聞縮刷版第五巻(婦人民主クラブ発行/1974 年 10月 11日号より)
狭山裁判 結審公判闘争
石川青年の無罪釈放を

 九月二十六日、狭山裁判公判廷で、石川一雄さんの意見陳述が行われた。・・・午前中は、弁護団から、・・・「物的証拠」である地図が筆圧痕の鑑定によって、下書きであることが判明した。午後、一時間以上におよんで石川氏の最終意見陳述が行われた。・・・検察側は三日に予定されていた論告求刑をこの日に移し、わずか十分で石川氏に、再度有罪論告と、死刑求刑を行った。・・・「戦前の高松差別裁判闘争は、治安維持法下という厳しい中で、全国水平社の孤立した闘いが強いられた。しかし今日の狭山闘争にこれだけの労働者人民の結集をみたことは、部落解放と全人民の解放に大きな前進をもたらすものであります」と解放同盟の基調報告があり・・・十月三十一日が判決。その日までの「今日を上回る大結集を」と誓い合って全国各地へ散った。
  



婦人民主新聞縮刷版第五巻(婦人民主クラブ発行/1974 年 11月 8日号より)
無期懲役 
狭山差別裁判判決公判 

 十月三十一日、狭山第二審の判決公判が行われた。東京高裁寺尾裁判長は、事実審理を一切せずに、・・・石川一雄さんに対し「無期懲役」という判決を下した。無実を明らかにする証拠を無視し、デッチ上げの「自白」と「物的証拠」のくいちがいを「自白の信ぴょう性を示すもの」と片付けてしまった。別件逮捕を「合法であった」と認め、この判決は国家権力のなりふりかまわない人民への挑戦である。・・・日本共産党は、寺尾裁判長について「民主的な、ものわかりのいい裁判長だ。公正な裁判が期待できる」として、石川一雄さんや部落解放同盟を先頭とする万余の大衆的な公判闘争に敵対してきた。このように寺尾裁判長を美化する動きのあることは、有罪判決を出そうとする側に有利に働いた。
 今回の裁判が司法の権威を絶対化するために、差別による偏見を利用してデッチ上げられたものである・・・。だとすれば、一般民の中に巣くう差別意識を助長し、たたかう部分に敵対し分断していく日本共産党のやり方も、同じく予断と偏見にみちた利敵行為といえるだろう。
・・・石川さんを一日も早くとりもどさなければならない。




婦人民主新聞縮刷版第五巻(婦人民主クラブ発行/1975 年 11月 14日号より)
石川さんの即時釈放を
有罪判決から一年
糾弾の集会開かれる
 
 昨年、十月三十一日、狭山差別裁判第二審で、東京高裁寺尾裁判長は部落青年石川一雄さんに対し「有罪=無期懲役」という差別判決を下した。これは一審浦和地裁の「死刑」判決と本質は何も変わらない。・・・
 一年前、判決を聞くやいなや、「そんな事は聞きたくない」と叫んだ石川さん、「裁判長、それはペテンだ」と立ち上がった山上弁護士。・・・「われわれがここに集ったのは屈辱を思い出すためではない。ひとり獄中でたたかう石川君をはげまし、たたかいの決意を固めるためだ。石川君を取り戻すまで広く大衆を結集してたたかい続けよう」この日の集会宣言の結びである。最高裁の密室審理を許さず、口頭弁論、全証拠の開示を求め、石川さんの無実を絶対にかちとろう。




婦人民主新聞縮刷版第六巻(婦人民主クラブ発行/1975 年 11月 7日号より)
長期拘束が健康奪う
本も読めない石川さん


 昨年十月、東京高裁寺尾裁判長による「無期懲役」という不当判決から一年、石川一雄さんはいま、十二年にもわたる長期拘禁のためこわした体の状態が悪化・・・狭山弁護団や医療連(大阪府同和地区医療施設連絡協議会)はただちに石川さんを拘禁状態から解放し、総合病院での加療を東京拘置所に要求。・・・その病状経過は
 一九七三年<口内炎>・・・
 七三年八月<動機、立ちくらみ、周期性四肢麻痺>・・・
 七四年五月<異常口渇、多尿、息切れ>・・・
 七四年七月<腰痛>・・・
 七四年九月<倦怠感、息切れつよくなる>・・・
 七五年一月<体重減少>糖尿病のため、体重が著しく減少。夜間排尿十回、口渇ひどく夜間に水をヤカン一杯分も飲む。・・・
 七五年二月<四肢麻痺発作、息切れ増強、口渇増強>松本弁護士との接見後、廊下で三、四回転倒。
 七五年七月<低血糖症状、排尿障害、尿失禁>・・・
このほか・・・本を読んでいると五~十分で字がぼやけて見えなくなる。・・・





婦人民主新聞縮刷版第六巻(婦人民主クラブ発行/1976 年 5月 14日号より)
石川君と脅迫状
国分一太郎
 
   
『石川君と脅迫状』 国分一太郎さん

http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=18156&pg=20060215




婦人民主新聞縮刷版第六巻(婦人民主クラブ発行/1976 年 5月 21日号より)
石川さん別件逮捕から13年
無罪判決めざし 
最高裁へ口頭弁論の要求


 五月二十三日は十三年前狭山事件で石川一雄さんが不当逮捕された日にあたる。狭山事件はその後「狭山差別事件」とよばれ、その裁判は「狭山差別裁判」としてあり方を問われることになった。・・・もう一度「事件」をふりかえってみたい。

犬は風邪をひいていた

・・・三日朝、警察犬を使ったところ、石川さんは畑のアゼ道を右に逃げたことになっているのに、警察犬はみな左に曲がって反対の方向に向った。公判ではこのときのことを「犬が風邪をひいて鼻がバカになっていた」と証言したという話は、権力に握られている裁判というものがどんあものであるかを如実に語っている。

四十人も張りこんでいたのに金をとりにきた犯人を逃してしまったという佐野屋の前は、県道で車がひんぱんに通っていたが、あたりは家は少なく、見渡す限りの畑で、お茶、葉っぱ、ネギぼうずが風に吹かれていた。当夜は雲一つない月夜の十二時。石川さんが家から佐野屋まで金をとりに歩いたという道順も、はじめの“自白”からまったく違った道に変更されて、石川さんが警察のいいなりに“自白”を変えさせられていることがわかるが、これは警察官が立っているところは通らなかった、つまり警察は張り込みをトッパされたのではないことの証明にほかならない。・・・






つづく



2006年02月03日(金) 「差別事件としての部落差別」冤罪事件


冤罪事件


 

☆資料3冤罪




「五番町事件」京都新聞(1956年4月8日) 
真犯人、地検に自首。検察庁黒星。公判中の少年は無事
刑事が暴行、自白を強要。苦痛のあまりウソ


 「五番町事件」事件は、①警察の捜査が被差別者に集中した、②一般の人びとも「被差別部落のものは、殺人ぐらい平気でやってのける」、「在日朝鮮人は乱暴だ」と警察の捜査を後押しした、五〇年前の象徴的な差別事件(冤罪事件)です。
 
 警察は、被差別部落出身のY君と、在日朝鮮人のS君を含む少年四人を犯人としましたが、一九五六年四月四日に真犯人のAが自首し、四人の少年たちは無罪になりました。

「あそこで、真犯人が名乗り出てこなかったら、わたしたちは調書を信じて、少年を有罪にしていたでしょう」(佐古田大阪弁護士会会長、1983年3月28日付け毎日新聞夕刊「そのとき私は」より)という背筋の寒くなる記事も残されています。






「村田巡査事件」朝日新聞(1966年8月30日)
警官射殺される。京都
ピストルを奪われて、夜間パトロール中。残り四発?疎水の中に死体
三千人の警官動員

 京都市左京区若王子の「哲学の道」に村田巡査の「殉職の碑」が立っていますが、いまは「村田巡査事件」を語る人はほとんどいないと思います。

 この事件では、ある被差別部落の十六歳から三十歳までの青年ほぼ全員がアリバイを調べられましたが、事件現場に最も近い町内の青年はほとんど捜査を受けていませんでした。

 「村田巡査事件」を京都府警は一九六六年十月二十一日に「殉職」と認定し、事件そのものは迷宮入りしています。 

 「被差別部落の人間が犯人にちがいない」という人びとの悪意が後押ししたこの捜査で、四〇年前の被差別部落の青年ら数十名が心に傷を受けていたということを、事件と共に忘れたくないと思います。





 2006年2月1日の大阪での新たな「部落地名総鑑」発覚を契機に、これまでに起こった「差別事件としての部落差別」(1.結婚差別事件 2.部落地名総鑑事件 3.冤罪事件)を、過去の新聞記事から掲載させていただきました。



2006年02月02日(木) 「差別事件としての部落差別」結婚差別事件


このたび、2/1の大阪での新たな「部落地名総鑑」発覚を契機に、これまでに起こった「差別事件としての部落差別」(1.結婚差別 2.部落地名総鑑 3.冤罪)を、過去の新聞記事の抜粋から、アップしました。

☆資料1結婚差別事件




「地名総鑑」事件発覚に先立つこと四年前、大阪府では住吉結婚差別事件が起こりました。

 1971年1月31日、大阪の住吉区のアパートで、浅野佳代さん(20歳)がガス自殺をしました。佳代さんの彼を女手ひとつで育ててきた母親は、「同和」教育の教師でしたが、二人の結婚に反対し、そのころ佳代さんは、徳島の実家に「結婚のことで、家のほうに興信所の人が調べに行くかもしれへん」と電話をかけていたそうです。1月30日の夜、彼の家でふたりの結婚について家族で話し合いがなされ、31日の昼頃、彼が喫茶店で家族で話し合ったことを佳代さんに伝え、それから数時間後に、佳代さんはアパートで亡くなっていました。その枕元に置かれていたのがつぎの遺書です。
 貴方に私は今まで嘘をついてきました。実は私は部落の人間です。私はかくしとおせるならば死ぬまでかくしたい、だから徳島へ一緒に帰るのがいやで、貴方と一緒に帰りませんでした。十日前から私は二人の間はもうだめだと思いあきらめていました。この十日間は私の最後の人生だと思って楽しんだつもりです。(略)私は何もいらない。ただ貴方が、私のそばにいるだけで幸福でした。
 十七の時に知り合って二十の時まで三年間、本当にやさしい恋人だったと思います。でもこれ以上私がいると、いつまでたっても貴方は幸福になれません。どうかこのつぎ女性を愛する時は健康で家柄の良い、お母さんに気に入ってもらえる人をお嫁さんにして下さい。お幸福に。

 結婚差別によって、これ以上尊い命が奪われることにはなりませんように。佳代さんのご冥福をお祈りします。



婦人民主新聞縮刷版第五巻(婦人民主クラブ発行/1970年5月25日号より)

 ”部落差別とは何か”柴田道子さん招き第一回講座
婦民ホール。参加者三十名。
年間三十名もの部落青年男女が、結婚差別によって命を絶っていく現実。
「おれは、夢と人間を奪われた。人間のしあわせが粉砕されない社会は、いつやってくるのだろう。おれにはわからない。おれはただ部落民であるということのみをのろい悲しむ。何といわれようがおれにはだめだった。二人の愛情がどんなにかたくても”部落”という二文字には勝てなかった。また二人でどんなに努力し、苦しみもがいても、このカベだけは破れなかった。
部落の青年男女のみなさん、まちがっても一般の人たちを愛人にもつな、そして恋をするな。その愛情が深ければ深いほど・・・差別、部落とはそんな生やさしいものではない。おれは身をもって体験した。
部落へはお嫁にやれないという人たちや、そういう社会に対し、おれは死をもって抗議する。おれは恋に破れて死ぬのではない、恋には少なくとも勝利した、しかし社会の古い封建制には破れてしまった。(中略)
同じ国の人間が同じ国に生まれて税金を納め、あらゆる義務をみんなといっしょにつとめているのに、おれたちの部落の何が悪くてこんなにきらわれるのであろう・・・おれにはわからない。
生きていたい、K子と晴れて結婚したい・・・だがいまはもう生きる頼りの糸さえ切れてしまった。泣くだけ泣いた。やさしかったK子の顔が浮かんでは消えてしまう。(中略)
もし許されて二度生まれてくることができたなら、どんなところでもよいから部落でないところへ生まれてきたい。」
女性の差別を許さず、女性解放を闘う私たちは、あらゆる差別を許さず、自らの人間的感性を洗い出し、研ぎ澄ましてたたかいを前進させたい。



婦人民主新聞縮刷版第六巻(婦人民主クラブ発行/1976年4月23日号より)

 部落差別を裁け
  久世結婚差別事件 京都府協議会
「久世結婚差別事件」とは部落女性中村道枝さんが、六年間結婚を前提に交際してきた高木信夫から結婚の意志がない上、口ぎたなくののしられ、ナイフで高木をさし、結果高木が死んだというものです。
この公判闘争を始めてから、いろんな事実を知り、信夫と高木の家族、道枝さんの勤めていた日本板ガラスKKの差別に対し、怒りがこみあげました。「結婚するまでは・・・」と九回もの中絶をさせられたこと、毎月道枝さんの収入の中から何万円も信夫が使っていたこと、その上いざ結婚の話になると母親と家族の意志で、他の女性との見合い、結婚話が進んでいたなど決して許せないものです。さらに公判廷で高木の母と姉は「部落はこわいと世間は言っている。差別したつもりはない」と居直りました。
公判闘争は部落差別を裁かずして道枝さんを裁くことはできないことをかなめに、差別糾弾をかかげて闘っています。公判では解放同盟婦人部長川本さんによる部落差別の結果としての結婚差別の実態、そのたたかいについての特別弁論がありました。婦人民主クラブは水平社以来の解放同盟に学び、日本の婦人運動を新たな質に押し上げる意気ごみです。

  *判決日1977年3月30日
   主文 被告人を懲役二年に処する。
       未決勾留日数中三〇日を右刑に算入する。
       この裁判確定の日から二年間右刑の執行を猶予する。
       押収にかかる小型刺身包丁一丁を没収する。



婦人民主新聞縮刷版第六巻(婦人民主クラブ発行/1979年2月2日号より)

「部落青年とはダメ」
 本籍地に戸籍照合 親が仲を引き裂く 品川結婚差別事件
 
 解放同盟品川支部 差別性を暴く
これは、自分の娘の交際相手が部落青年であると知った品川区に住むY家が、その青年の本籍地に、差別的な戸籍照会の要求を出したことに始まりました。請求を受けた和歌山県田辺市は手紙の内容に問題があると市町名で返信を出したところ、昭和五十年五月六日付けで次のような手紙が入って再度の請求があったのです。
 
 家中で縁談に反対
Y家の手紙の内容は次の通り(原文のまま)
「わたくしの長女、M子二十四歳がA殿三男、B殿二十一歳と、昨年八月ハワイ旅行の折に知り合い両方で結婚したいと申しましたので、わたくしどもで大阪へ嫁入りとなればA殿の敷地の中に長男次男三男と同居と聞き、昭和四十九年十二月、東京より身元調査を依頼しましたところ、B殿より父が部落出身と電話があり、わたくしどもでも大変驚き、家中で悩みました。
B殿は十七歳のとき、自分の家柄に興味を持ち調べて知ったとのことです。それより悩みに悩んで一生結婚はしたくないと心に誓ったとの事です。
娘は私立の初等科、中等科、高等科、私立女子大(四年)と進み何不自由なく大きくなり、わたくしどもも花嫁姿のみれる日の一日も早い事を願い、いつくしんでまいりました。
家中の相談の結果、この縁談は反対と娘より伝えさせましたが、それより二人は親にかくして交際を始め、昭和五十年三月、失意のあまり(娘は)ロサンゼルスへ行ってしまいました(六ヶ月ほどお互いの心をみつめるため)
先方の長男のお嫁さんから、四月電話で何が気に入らないか言ってほしいといわれましたが、わたくしどもではとてもいえません。B殿は父及び二人の兄達も、この話はしたこともなく、兄達は知らないと言っております。
今は手塩にかけた娘は口もきかず、親子断絶のため家中重苦しい毎日です。
わたくしは(富山県出身)小学校の頃にクラスに部落出身の子が五名ほどおりましたが、口もきかず手もつながずという事ですごしてまいりました。
もし娘がB殿と家を出る事になりますと、A殿は義父となりますので知りたいと思います。
つたない文ではありますが、よろしくお願いいたします。
                    父 Y夫五十四歳、母 Y妻五十一歳
田辺市長 水野忠晴殿」
 
 氷山の一角の差別
 調査は万一の親心?
田辺市は部落解放運動が活発に行われており、市当局の対応も積極的で、事態を重視した田辺市は総務部長以下五人がY宅を訪問すべく上京したが、Y宅がわからず品川区に連絡した。品川区では助役以下同和対策の関係職員が積極的に対応、五月二十四日(土)田辺市の職員と品川区同和対策室副主幹が立ちあってY宅での話し合いとなったが、その時のY妻の話した内容は、
「わたしたち(祖母、母)は富山県能登半島の氷見の出身で、幼少の頃から部落差別を知っていた。学校の頃には、部落出身の生徒に対して差別待遇が行われていた。部落は二百戸位あって、近隣の交流はなかった。結婚に興信所を依頼するのは当然でしょう。先日は田辺市に行って見てきましたが、若い者がぶらぶらしていた。大阪の生野区もみてきたが、あの土地は生活が低いと感じた。調査をわたくしどもがしようとするのは、万一にでもという親心からでむしろ親切だと思います。B君のためにも・・・。長女がそういうことになったら、二女や三女の結婚にも支障ができる。万一、娘がB君と一緒になっても、わたしたちは絶対に認めません。親子の関係を絶ちます。子どもができても抱きません」などという差別的なものだった。

 差別の自覚がない
田辺市ではこの事件を結婚差別事件と断定して、品川区と共に行政による啓蒙が半年余り続いたが、解放同盟品川支部の知るところとなり、地元の運動体ぬきにやるのはおかしいと抗議して、以後、ともにこの問題を考えるようになったという。
品川区役所同和対策担当の島田職員は「わたしがこの問題で強く感じたことは、Y夫妻に自分たちが重大な差別をしているのだという事を納得させるのが、いかに大変かということでした。本人は、B君がどんなに金持ちでも学歴があっても部落だったら絶対に許しませんとのっけからいっておいて、なぜわたしが差別してるのですか、B君が家へきたとき、ケーキを出しお茶を入れて接待しました。差別なんかしていないですよといいはるんです。差別している方がそれが差別であるということを自覚していない。この間一年近く、部落の歴史や基本的人権の問題などで話をしてきましたが、差別をみぬく力をつけるという事は大変な事です。そしてひびを入れられた二人の若者の幸福は元に戻ることができませんでした。解決したのではなく、終わってしまったんです」と語る。
確認会(差別した本人と、解放同盟側と関係行政が入ってやる)でも何回も話し合いが持たれたが、高橋篤子さんは若い頬を紅潮させて「確認会で、部落出身から行政のワクをはずれた具体的な差別についての怒りをぶつける、そういう中ではじめて分かってくるんです。これからも寝た子を起こすな式の考えでなく、差別と対決しうる意識と姿勢で不当な差別を糾弾したい」と語る。




婦人民主新聞縮刷版第五巻(婦人民主クラブ発行/1975年発行号より)
氷山の一角の差別 大田差別事件
解放には百年かかる

大田区役所の同和対策室であった大田区在住の浦口守一さんは、「結婚と職業の差別は、まだまだ根深いです。部落民が、あいつはチョウリンボじゃないかと部落民を差別することもしばしばです。部落の娘さんは部落外の男の人との結婚を望み、結婚した人は優越感を抱いて差別する。差別が差別を生むんです。わたくしも子供の頃から悪口を言われて育ってきました。解放同盟の仕事はやりがいがあると思い、今は生活相談員をしています。よく仲間と話し合うんですが、まだまだ解放には百年はかかる。肌で感じる差別の実態は長いと思います」と語り、柔和な顔をむけて「貴女ももし結婚相手が部落の青年だったら躊躇なく結婚できますか」と問い掛けた。

 糾弾要綱より(部落解放同盟品川支部・南部地区共闘発行)
「・・・いいようのない怒りや苦しみを味わいながらも東京には誰も知った人がなく、どこへいっていいかもわからず、どこかに差別と闘う組織がないかと思っていた時に、たまたま新聞を読んで部落解放同盟東京都連に連絡することができたのです。・・・今妥協したら差別は拡大するだろうし、周囲の人間も差別したってたいした事ではないということになるので、最後まではっきりさせていく必要があります。・・・わたしも表立ってこのように大げさになっても、闘っている人は別として知らない人には自分が部落出身だということはあえていいません。・・・身にふりかかった火の粉は払うが、知られないでいたいというのが偽らぬ気持ちです。だから部落の問題は自分がそうだという形ではなく、そういう差別はいけないんだというふうに一般の人には啓蒙しているんです。・・・今ではどんな差別にも敏感になり、しょうがい者の人が白い杖を持って歩いていたりするとハッとします。まあわたしの事は氷山の一角で、その下に数知れない差別の事実が明るみに出ないままうずまいているのです。・・・人の意識はなかなか変わるものではありませんが、痛みを感じる者たちでコツコツとやるよりほかはありません」(今村辰蔵さん 昭和四年 滋賀県河瀬村)



2006年02月01日(水) 「差別事件としての部落差別」部落地名総鑑事件

☆資料2部落地名総鑑





 部落出身者の家人は、日常生活においてむやみに出生地を問わない人権感覚を自分で身につけた人を、親友に選びます。

 (このたびの『結婚差別事件』や『部落地名総鑑』の事件を知ることを通して)

まだ、誰もが、自分の生まれ故郷について話せる社会、話しても不利になったり苦しい思いをしたりしない社会になっていない以上、そのような人権感覚を身につけた人がひとりでもふえることを望みます。自戒をこめて。



 「部落地名総鑑」事件では、結婚差別事件や冤罪事件とは違い、「『部落地名総鑑』と同様の差別図書『日本の部落』を購入した企業各社が、部落差別によって差別図書を購入したこと、企業内に被差別部落出身者の採用を拒否する差別体質があったことを認めた」(1980年2月5日付け毎日新聞)と、報道されています。
 
 にもかかわらず、このたび、2006年2月1日に「新たな地名総鑑発覚」のニュースが新聞、ラジオで報道されました。



2006-02-01朝日新聞夕刊より
「新たな『部落地名総鑑』  ~大阪市内興信所に 大阪府、調査へ」

 全国の被差別部落の所在地などを記載した差別図書『部落地名総鑑』が大阪市内の興信所で見つかったことが、部落解放同盟大阪府連合会の調べでわかった。法務省は75~78年に8種類の地名総鑑を確認し、89年に調査を終えたとしていたが、今回見つかったのは別の種類だという。大阪府人権室は、結婚などの身元調査に使われていた可能性があるとして、条例違反に当たるかどうか調査に乗り出す。

 同連合会によると、発見された部落地名総鑑は、手書きをコピーしたものでA4版、330㌻。全国の被差別部落について、地名や所在地などを記載。大阪府下の被差別部落は、最寄り駅からの距離や道順を記し、地区の範囲を特定している。市電の駅名などから60年代に作られたらしい。同連合会は、行政書士らが不正に取得した戸籍謄本などが興信所に売り渡され、身元調査に使われていた問題を調査しており、昨年12月に調査先の興信所で見つけた。

 地名総監については、企業などが就職者の身元調査用に購入していたことから法務省が調査し、89年に、発行者や購入者らに勧告して事実の解明を終えたと宣言。大阪府は85年に「部落差別調査規制条例」を施行した。しかし、その後もコピーが出回る差別事件が起きている。

 今回発見された地名総鑑を所持していた興信所の経営者は朝日新聞の取材に対し、「今は、結婚の身元調査はしていない。地名総鑑を使って出身地を調べるのは、どの業者もやっている」と話している。


 北口末広・部落解放同盟大阪府連書記長の話
発覚から30年たった今も部落地名総鑑が残っているのは、結婚などの身元調査を依頼する個人が後を絶たず、根強い差別意識がある表れだ。こうした状況が事実上放置されていることが問題だ。


 再度反省をうながす意味で、一九八一年の段階で、差別図書を購入した企業(二〇〇社以上)の業種等も明らかにします。
 業種は機械、器具、金属工業、化学工業、建設、土木、電力、ガス、食品工業、医療、教育、運輸、通信、金融、保険、証券、ホテル、水産、自動車・車体などです。









差別図書の名称発行所発行者発行数販売価格販売時期購入者資料入手先購入者に対する処理状況判明時期
1.人事極秘『部落地名総鑑』企業人材リサーチ企業防衛懇談会坪田義嗣5003万~4万5千円1975年4月~10月53労働問題研究所処理済1975.11.18
2.『全国特殊部落リスト』労政問題研究所調査中(北沢隆)(加藤昭三)仮名不明2万5千円1975年2月~5月末11不明処理済1976.2.13
3.『全国特殊部落リスト』労政問題研究所鈴木守立(死亡)田中靖造352万~3万円1970~72年 1974~75年55朝日通信社処理済53 啓発中11976.11.28
4.『大阪府下同和地区現況』労政問題研究所鈴木守立(死亡)田中靖造352万~3万円1972~73年 1975年35大阪府同対室作成資料処理済33 啓発中11976.12.24
5.『日本の部落』労政問題研究所調査中調査中5千円1970末~72年頃49不明啓発中1977.9.2
6.『特別調査報告書』サンライズ・リサーチ・センター布上義之1万円1974年春頃2鈴木守立処理済1977.9.2
7.『○特 分布地名』本田秘密探偵社代表取締役 本田治(詰めている)調査中2万円1976年3月~8月143~4年前に関西方面処理済6 啓発中81977.11.15
8.『同和地区地名総鑑全国版』調査中調査中(加藤美智雄)仮名2003万5千円1975年10月~11月13~4年前に関西方面若干部数 回収(本人)1978.5.12
9.いわゆる『投書のリスト』調査中調査中調査中調査中調査中調査中調査中 1977.11.11

(1989年6月) 『部落問題資料と解説』部落解放研究所編より引用  (購入冊数 計220) 


 上記資料は「よく知らないからコワイ」という状況は解決したいとの気持ちもあり、掲載しました。

『部落地名総鑑』をはじめとした差別図書が、現在確認されただけでも九~一〇種類あり、それらのコピー版か何かが、いまだに闇でひそかに販売されていたというのはコワイことです。

 しかし今は、初めて発覚してから三〇年もの時が経過しており、『部落地名総鑑』はよく知られていないままにコワイという現状です。


 その三〇年間、大人は“『部落地名総鑑』がコワイ、陰湿である”ことを、“『部落』がコワい、陰湿である”と取り違えるだけだったのかもしれません。

 ですから、このたびの『部落地名総鑑』の事件で身元調査の対象とされる青年層をはじめ、すべての次世代の人たちに、ただ「コワイ」で済ませないことを望みます。

 web上でも、『部落地名総鑑』事件はたくさん紹介されています。

 購入企業には、自動車、家電メーカー、銀行、電力、電鉄、生命保険会社等の一流企業名が並び、業種は学校、病院、ホテルなどさまざまにわたり、販売地域は、大阪・東京を中心に全国各地に及び、個人が購入して身元調査に悪用した事例もあったことを問題視するサイトがあります。

 部落や在日・アイヌの人々の差別を金諸けの手段とする行為を問題視するサイトがあります。

 購入企業側の購入した動機(「今後の雇用に必要な資科であると考えた」「就職の際、被差別部落の人々をチェックしようと思った」)や差別行為に対する自覚のなさ(「ほんの軽い気持ちで買った」「差別するつもりはなかった」)を問題視するサイトがあります。

 あとはご自身で関心を持ち、どんどん調べてくださいね。

 
 大阪府が市内興信所に調査にのりだすそうですが、綿密な調査の上、結果はすみやかに情報公開してほしいと思います。

『部落地名総鑑』に関して相談や告発をされたい場合は 部落解放同盟大阪府連書記長の北口末広さんをお訪ねくださるとよいかと思います。




資料)三〇年ほど前の古い新聞記事より抜粋

婦人民主新聞縮刷版第六巻(婦人民主クラブ発行/1977年3月11日号より)
「東京にはもう部落差別はない」か
「地名総鑑」「部落リスト」ぞくぞく購入
 「東京にはもう部落差別はない」という言葉をよく聞く。また「私は差別をしていない」という人も多い。本当にそうなのだろうか。・・・東京都連書記長は挨拶の中で、「地名総鑑」「部落リスト」を購入した企業は都内で五十社にものぼることを報告、東京の差別の一端をのぞかせた。・・・

 練馬ではたたかいの歴史も長く、解放センター「厚生文化会館」の中の保育園で、部落の子のみならずあきがあれば一般の子も入れて保育しているが、足立はいま公立「同和」保育園建設を区に要求中。荒川では用地も設計も決まった段階で「ねむっている子を起こすな」式の考えから、「同和」と名のつくものは困ると反対の声があがり、話し合って条件つきで建つことになったが、保育内容をどうするかがこれからの課題だという。
 子どもたちは高校の文化祭に「狭山の黒い霧」上映運動をおこし「差別」という言葉を使わないなら等の条件つきで上映したこと、その際、部落民宣言をした子どもに「あとで後悔しないか」「自分から言うことはないじゃないか」等、先生に言われ、部落全体の問題として確認会の要求を都教委に交渉、五ヵ月たったがまだもたれていない。が、その交渉の中で、一般の親が部落の人たちに多い職業を子に教えたり、企業が雇用差別をし、学校もそれに答えて就職差別をしたことを知ったという報告がある。

 足立では十二人の小、中学生が同盟休校したが、親の方が「冷たい目で見られるから」と動揺、子も悩んだが、子どもの強い態度の中で親も変わって行った話。東京で婦人の立ち上がりが遅れているのは最も苦しい差別を受けてきた経験が、子どもの就職、結婚を考えることで、自分から部落民であることを前面に出し切れないのだと思う。地方のように地区がはっきりしていればその中で連帯も組めるが、そうならないのが東京の実情。また教育を奪われ、職も奪われて生活が貧困なため、働くことに追われ運動に参加できないこともある、と差別の現実がうきぼりされる。
 また、「オレがやるからお前は家にいろ」など“女差別”のまでまだ行き着かない実状もあり、その点でも共通のたたかいが組めることなどはっきりした。

 長野県連の宮沢志津子さんは、「同和」保育とは何かの質問に答え、「石川一雄さんがあのような状態になったのも、元をただせば教育を奪われていたからで、それを考えてもわかるように、部落のお母さんたちは部落差別の結果、教育の機会均等を侵され、子どもを産んでもどう育てていくかわからない。仕事が忙しいから保育所に預けるのではなく“集団の中でキチッと育てる。親が文字や言葉を奪われているから親に代わって集団の中で教育的に育てる”ことが「同和」教育の第一のねらいだということをわかってほしい。・・・部落民宣言し、なぜ宣言しなければならないかを学級の中でとりあげていくことは部落の子どもだけが強くなることではない。解放教育、同和教育は、最終的には一人一人の子どもたちに本当に目をそそがれるような教育、学級づくりを展望している。・・・」宮沢さんの言葉を胸に散会。
 


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