* 婦人民主新聞縮刷版第五巻(
婦人民主クラブ発行/1972年 12月 1日号より) *
* 人間らしく生きたい *
障害者差別と女性差別 施設の中から訴える みんなは自由に選べるのに 入浴のせわは男性職員が
(十一月三日アジア婦人会議シンポジウムにて)
東京府中療育センター在所生有志グループ にったきぬこさん
わたしは、にんげんであると、どうじに、しょうがいしゃであるとどうじに、おんなである。
にんげんであるならば、いきることをぜんていとし、きょういくは、とうぜんのごとく、けっこんなど、そくばくをうけず、じゆうにせんたくできる。
おんなであるならば、みなりにきょうみをもったり、はじらいをもつのが、とうぜんであろう。
しかし、わたしは、にんげんとしていきることをひていされ、したがって、おんなであることもひていされるのである。これが、けんぜんしゃと、しょうがいしゃのちがいである。
わたしは、げんざい「ふちゅうりょういくせんたー」というところにはいっている。いきることをひていされたにんげんは、いまのところ、しせつしかないのだ。いや、しせつしかないとされているのだ。
しょうがいしゃだからといってなぜ、しせつへ、ほうりこまれなければならないのか。あなたたちはこれを、どうかんがえているのか。
わたしたちしょうがいしゃを、「やっかいもの、じゃまもの、やくにたたないもの」として、しゃかいのすみへ、すみへと、おいやってしまう。それは、こっかけんりょくだけではない。それは、あなたたち、けんぜんしゃなのだ。
にんげんというげんてんからみれば、わたしたちだって、おなじにんげんなのだ。なのに、どうして、これほどまでに、さべつされなくてはならないのか。
しょうがいしゃは、しせつでくらすのがとうぜんだと、しせつにはいっていれば、おなじようなひとがいて、ともだちもできるからしあわせだと、よのなかのひとはいう。たにんのいしによっていれられて、なにがしあわせなのか。よのなかのひとは、しせつのなかはしらないのだ。
しせつのじったいとは・・・・・・、わたしのいるせんたーでは、きしょうは5じはん、それからはじまり1にちじゅう、じかんでこうそくされ、たべて、ねて、だす、それだけでおわってしまう。
すこしでも、じぶんのいしをだすと、「あんたたちは、たべるしんぱいもないし、ねるところのしんぱいもない。わたしたちは、いくらはたらいても、そのほしょうがない。それなのに、もんくをいうなんてぜいたくだ」とか、「わたしたちのぜいきんでいきているのに」とか、「くにはどうして、むだなぜいきんをつかうのかしら、はたらくのがいやになるわ」といわれる。なぜに、こうまで、しいたげられなければならないのか。
また、せんたーでは、にゅうよくのとき、かいすいぱんつひとつのだんせいが、わたしたちをだしいれする。からだをあらわれるときもある。いじわるなしょくいんは、わざと、そうしむける。わたしは、そういうひとのきがしれない。もし、じぶんが、わたしたちのたちばでそうされたなら、ないてもなききれないだろう。
わたしがにゅうしょして三かめ、にゅうよくびだった。かいすいぱんつひとつのだんせいが、たっていた。ふしぎにおもっていた。はじまったらでていくのだろうと、おもっていた。そのうちはじまり、二~三にんに、うむもなくぬがされ、だいのうえに、あおむけにねかされてしまった。
わたしは、としごろになってからは、ちちおやとだって、はいったことはない。それなのに・・・・・・。わたしは、そのひ、しょっくでねこんでしまった。しょくじなんてのどをとおらない。
それから、わたしは、にゅうよくをきょひしつづけた。と、どうじに、にゅうよくかいごを、じょせいにしてほしいといいつづけた。
しかし、しょくいんは「あなた、いれてもらうだけでも、ありがたいとおもいなさい。はずかしなんて、わがままよ」という。おんなとして、はじらいをもつことは、わがままなのであろうか。
にゅうしょして、やく一ねんぐらいたったあるにゅうよくび、しゅにんが、わたしにむかって、「きぬちゃん、もうなれた。もうなれてもいいじきよ。あなたはひとよりものわかりがいいんだから」といってきた。
「なれたってどういういみ」かと、ゆびもじでききかえすと、「そっそれは・・・」とにがわらいして、いってしまった。「なれた。なれろ」とは、いったい、どういうことなのだろう、おんなとしてのかんじょうや、いしきを、すべてすてろと、いうのだろうか。それでは、あまりにもひどい。
しかし、なおも、それへのこうげきがかけられる。おんなとしてのしるし。ははとなるためのあかし。せいり。わたしにも、それがある。あって、とうぜんなのだ。しかし、しょうがいしゃ、とくにじゅうどのじょせいに、せいりがあるのが、おどろきであるらしい。
「なんで、こんなからだにあるのかしら。おまけにながくて・・・。とってしまえばいいんだよ。そしたら、こっちだってらくだし、じぶんだって、きをつかわなくってすむ。だけど、やだねえ・・・」とまいつきのようにいわれる。あんまりいわれるので、いちじ、なやみになやみ、とってしまおうかとも、おもったことがあった。
わたしは、かていにいたとき、おんなとして、とうぜんあるものと、おしえられた。しかし、せんたーでは、きいだとしかおもわれない。しせつとは、だんじょのくべつをなくし、ひにんげんあつかいし、なにがしたい、なにかがほしいという、どんなちいさなようきゅうでも、すべて、うばいさられてしまう。
ながくはいっていると、じぶんのいしをあきらめきって、ださなくなってしまい、ただ、たべて、ねて、だす、それだけのせいかつになってしまい、いかされたにんげん、いきたにんぎょう、にされてしまう。
わたしは、かずしれず、そういうひとたちをみてきている。わたしも、そのうちのひとりになろうとしていた。しかし、わたしにはそれが、がまんできないのだ。
はいじんどうようにされてしまうのが・・・・・・。わたしは、しせつのなかで、にんげんとしていきるため、おんなとしていきるため、むこうからいわせれば、はんこう、わたしからいえば、とうぜんのようきゅうとして、たたかってきた。しかし、しょうがいしゃにはとうぜんのことが、なにひとつとして、なされていないのだ。
なぜに、ここまで、わたしたちしょうがいしゃは、さべつをされなければならないのか。しょうがいしゃさべつされ、なおも、じょせいさべつをされている。
わたしはうったえたい。じょせいかいほうとは、なんなのか。じょせいさべつとは、いったい、なんなのか。あなたたちは、おそらくわたしたちしょうがいしゃの、おかれているげんじつなど、しらないだろう。