人権〝一日100質〟
〆よろしければ、相互リンクをお願いします。


2001年03月29日(木) ミキ・ママの部落問題2001



ミキ・ママは 28の歳に 部落研の先輩と いっしょになり 33で 一児(ダブルっち)の 母になりました。ミキ・ママは 部落出身者では ありません。36(年女)の Birthdayを 目前に だめもとで「ミキ・ママの手作り部落問題ホームページ」の準備を始めました

ミキ・ママのプロフィール

1964年9月5日大阪府生まれ。小中高は奈良の学校を転々とし、中学受験の失敗や家庭崩壊ののち鬱々とした子どもになりました。大学で部落解放詩集「太陽も俺たちのものではないのか」を部落研の人に借りて読み、一発で目から鱗が落ちました。身長162.5Cm、体重41.5前後(自称胃下垂です?)。性格はもろに3人きょうだいの真ん中(次女)的。好きな食べ物はヨーグルト、バターロール、なんきん、なんきんまめ。好きな作家は高橋源一郎氏と吉田健一氏。現在の夢は「日記で、ダブルっち」をゆくゆくは「物語で・・・」にできたらいいなと・・・



掲示板より

2667 【満開待ちきれず先取り(笑)】


★ 2004/03/29(Mon) 22:26




ワタシは「アザ」
いまでは「シミ」に。

化粧
皮膚移植
・・・
当時からいろんな選択肢があるものではあった

母と一緒に
全部ご専門の方の話を伺って回るうち
最終的にどうでもよくなった

そして
数少ない「幸福」の想い出のひとつになっていたんだよね

以来、言いたい人には言わしておく

ワタシが強い人になれたのは
母のおかげ
みんなそうなれるとは限らない
だから

>「みんなちがって みんないい」と言える社会に…

んとにそう願います。




by 姫だるま



ワタシは、父が絵を描く人のパトロンを長いことやっていて、額縁代だけでもかなり高価そうなその人の絵が 隙間なく家の壁に飾られてありました。自分の相手をしてくれない妻子への当てつけにやったと思っています。父が別居に踏み切った晩、ワタシは母のために良かれと思って絵を全部外しましたが 翌日学校から帰ると 絵は全部元の位置に戻っていました。「あんな人でも親は親だから」が母の言い分だったと思います。それから5年して、離婚が成立した時に母は「今日を一家離散の日と決めるよ」と言い きょうだい3人はそれぞれ一人暮らしを始めなければならなかったのですが、それ以前から独居していたワタシだけ 勝手にアパートを引き払って母について行きました。引越しトラックの助手席にドライバーさんのご好意で乗り込ませてもらった時に、車酔いする母の背中をさすりました。そしたら母に反対向かれてしまいました。これが10代~20代前半のワタシ。子どもはいつの時代も、親に対して何かしてあげたくてしょうがないものだけれど、今思えば、親の思いは「あんな人でも子どもにとっては親」という価値観を 人間として身につけておいてくれればそれでよかったのでしょう。

例えば、お風呂を覗くというのも限度がある
思うのですが、何分以内と法で決まっているわけ
ではないですし
 鏡を見ている・髪を長く伸ばすという行為に 
目くじらを立てるというのも気持ちはわかりますが、
「女、みな悪女」とか「伸ばして、下の毛と結ぶの
か」というような言葉の暴力が出ることは許される
のかという疑問がありますし、
 性教育に関しても、「女の子はなぜ後ろから前に
拭かなければいけないか」と図解で示されても 
同性の母がいるのになぜ父がとか考えると 不信
に思いますし、
 血穢をもって「女はけがれている」という話は
日常的に 耳にしましたし・・・

 いろんなことが「娘を持つ父親の気持ち」とか
 「軽い気持ちでやったこと」とかいう言葉で
 正当化されてしまう現実が
 たぶん一部の家庭にはあるんですよねぃ。

 怪獣ダブルっち(胎児)の姿がモニターに映るのを見てからというもの 部落問題について考えない日はなくなりましたが 身近にいる部落出身者の夫、義父母にはよう尋ねず 上記のサイトにいつもお世話になりに行くのが現実です。ダブルっちとは 部落問題を正面から語り合う関係を築くことが今のミキ・ママの理想です(2001)

☆一番最初の日記(20000812)
とっても、とっても、とっーても、取っーーても、水いぼは増え、それがつぶれてとうとう、とびひになりました(2歳4ヶ月の一人息子のことです)。じゅくじゅくしていない水いぼは保育所のプール可である。とびひは登園できない疾患の一つである。保育所のルールが一つ頭に入りました。とびひ休暇で、文字通りの親子水いらずで暮らすことになりました。(8/12土)ども、ども~、ママ・ダブルですー、改めまして。ダブルっちは本日、私営のプールを初体験しました(登園はまだではありますが、とびひが出来なくなってかれこれ一週間以上経過しています。念のため申し上げました)。お盆の保育所は人影まばらと聞きましたので、登園日はお盆明けにと決めました。実は~、うちはバスと徒歩で1時間弱かけてよその地の同和保育所に通っており、かれこれ1年4ヶ月が過ぎようとしています。(8/13日) #  ありゃー、女の人の作る部落問題ホームページは カラフルやねー。 はいな。
  ママは専業主婦でも~、3歳以下の子どもを同和保育所に預かってもらえている。よかった。ダブルっちが地区住民でない点でも~、友人の尽力と恩師の推薦状により入園をOKされました。これは迷惑に当たるのかしら?パパとダブルっちに・・・なんて冗談。これは二人とも何も言わないからわからないという話でじたー。繰り返すと、ダブルっちの同和保育所入所の手続きをママはパパに相談せず一人でやりました。(8/14月)大学の部落研にいる時、ママはパパの後輩として指導ー被指導の緊張する間柄でした。夫婦としてはあまり干渉し合わない間柄になったけれど、ダブルっちが生まれたとたん、彼に関することに限りパパはまたその時の緊張感を彷彿させるようになりました。そうそう、ダブルっちの爺ちゃん婆ちゃんはパパに部落研をやらないように願っていましたが、パパは部落研をやりました。その代わり、そこでパパははじめからしまいまで爺ちゃん婆ちゃんの弁護をしていたと思います。パパは爺ちゃん婆ちゃんを否定しない人だったから、ダブルっちにも将来部落研を「やれ」というようなことはおそらく言わないだろう。今日はお盆。(8/15火)



2001年03月28日(水) ミキ・ママの「ハーフではなくダブルだっつーの」

 
2694 【部落と部落外のママさんパパさん集まれ(笑)】


★ 2004/04/14(Wed) 03:41




LANの配線で二分されたような
おうちに暮らしていたパパとママ。

そのLANの裏の
両面テープを剥がして
LANを手繰り寄せて
縄跳びしようなどと目論むダブルっちちゃん。

まだハイハイもできない頃は
ママが強制抱っこで
LANのこちら側に連れてきて
ムラへの発信をしていたのに。

LANのあちら側から
パパが一人寂しく
マチへと出勤していたのに。

”部落と部落外の子どもダブルっち”

「マチに住めば マチの子として育てるのが 自然じゃないかなぁ」
(パパの個人観)

「部落と部落外の子どもは やっぱムラの子かなぁ」
(ママの個人観)

パパは昔から
「私は一人で大きくなりました」
という顔をしてないところが
スゴイよね。

きっと
ムラのオジイチャン・オバアチャン・ご近所の方たちの愛情につつまれて
すくすく 育ったんだね。

ダブルっちちゃんにも
それは きっと受け継がれる(マチにいても)。
”パパのようにすくすく育って欲しい”
という気持ちが、ママにあるから。

だから、ママは
「部落と部落外の子どもは、マチにいてもムラの子」
とこだわるのかも。

パパは99%
ムラの親たちの子育てに満足している。

残りの1%
ダブルっちちゃんを
マチの子として育てることが
ムラの親である自分が 子どもにしてやれることだ
(自分はしてもらわなかったが)と思っていると思う。

1%というのは
無意識のレベルなのだから
ダブルっちちゃんは
そのことを指摘しない方がいいかもしれない。

ママとのお約束にしてもいいかな。
なぜか 
まるで 
マチの子どうしの結束(!?)。






by 姫だるま



部落と部落外の親から生まれた子どもを「ダブル」と呼ぶことについて
 混血児が「ハーフ」と差別されることに抗議し、我々は「ダブル」であると世論に訴える運動は今も続いている。 当時、部落研主催の講演会、学習会等の講師を時々お願いしていた解放同盟T支部のT氏は、同僚との会話の中に、部落と部落外の親から生まれた者をさして「ハーフ」が使われたことがある例を出して、彼らも「ハーフ(半人前)ではなく、ダブル(2つの文化を合わせもつ者)だっつーの」と繰り返し提唱されていた。自身が「ダブル」の親であられた。彼以外に提唱者はなかった。それを15年以上経て、ここのホームページの副題に無断で使わせていただいた。

・アメラジアン AmerAsian とは

アメリカン(American) と アジアン(Asian) の間に生まれた子どものことです。

ここ沖縄でいうアメラジアンは、父親が米軍人・軍属であるケースが大多数です。
沖縄には、1千人とも2千人ともいわれるアメラジアンがおり、教育権が脅かされている子どもたちも少なくありませんでした。
 例えば、米軍基地内学校は、米軍人・軍属の子弟は無料だが、・母親一人で生活と教育を支えている場合は年間130万から150万円もの授業料がかかりました。
 そこで、同じような悩みを抱える母親たちが、1998年「ハーフではなくダブル」としての誇りをもち、 胸を張って生きていけるようにとの願いを込め開校させた多文化教育を目指すスクールを、アメラジアンスクール・イン・オキナワといいます。
 当初は卒業しても学歴として認められず、高校の受験資格がありませんでしたが、
 文部省は92年、激増する不登校児への対応策として、学籍のある小中学校長の裁量で「民間の指導施設」への通学をもって「出席扱い」にできるとの方針を打ち出しており、アメラジアンスクールをその「民間の指導施設」と認めた浦添、沖縄、具志川各市など5市2町3村でこれまでに小学生5人と中学生2人が卒業証書を手にしています。
 民家を改造した校舎での学習という教育環境も、2001年度、新しい校舎が完成し、改善される予定です。
<参考文献:「アメラジアン-もうひとつの沖縄」上里和美、かもがわ出版1998>

2002/09/08 (日) の日記より
題名:夜ダブ

 そうそう、

 ボクの「ダブルっち」は
 愛称みたいなものと思ってください。うん。
 
(20世紀後半は「ハーフではなくダブル」なる
 アメラジアンの人たちの運動が起ったが、
 解放同盟支部内では ボクのような子どもを
 旧態依然 ジョークで「ハーフ」と言いあっていた。
 T書記長さんが「部落問題だけやっていていいのか」と言って回り
 結果「ダブル」は一定 浸透した)。

 21世紀感覚だと
 「ダブルっち」と「純ブラ」の区別をことさら強調すると
 「子どもを序列化、優劣付けしてるみたいだよ」って
 やんわり たしなめられたりします。



2001年03月27日(火) ミキ・ママの部落問題2000

「部落問題」で検索してここを 訪れた方はのっけから「ダブル」だの「ダブルっち」だの聞き慣れない言葉の 羅列で混乱されたでしょうごめんごめん。二十歳前後にとても差別とたたかっていた 部落内外の夫婦間に子どもができたので親の目から見ればこの子は二人分のたたかいの文化を受け継いだ子「ダブルっち」・・・・・・・それはともかく同じように部落差別に反対する人と一日一度はまた 部落問題のお話がしたくなってタイトルは「ダブルっち ダブルっち」と幼児的ではありますがミキ・ママの"手作り部落問題HP"をこれからもどうぞよろしく(2000)
 *HN「ひめだるま」に改姓(2002.09.05)

ワタシの上の年代に、部落外で部落に骨を埋める人生を選択した方々が何人かいます。それを選択したところで、部落のために人生を棒にふるなんてと思う人は、自分の親を含め半分以上いますし、人権問題をまじめに考える人の少ないこの国ではなおさら、それがいいことなのかどうかわからなくなります。でも、ワタシはその方たちが好きなのです。そういう、ひとから理解されにくい人生を自ら選択をした人たちは、影を感じさせるようなことは言わない、部落問題を明るく語られるから、やはり好きなのだと思います。

 それから、そういう人たちは「人の役に立つことをしたかったから」ではなく、最初から「当たり前のことをしたかったから」と言って入ってきています。ある人は上回生が四月に、天王寺の歩道橋で「○○大学部落研」のゼッケンを付けてビラまきをしていたとき(今から二五~三〇年前はそれほど珍しい光景ではなかったのです)、入学式を済ませたばかりでまだ部員でもないのに、いきなり「私も手伝います」と言ってビラまきを始めたそうです。
 ワタシなどのボーっとした人間は、約一年くらい部落問題と関わってみて、年度末の「なぜ部落問題を選んだのか」の文集作りのために、初めて振り返るのです。すべて手作業でした。
 そこに書かれていた内容は不思議といまだに忘れないのです。
 ある部落外の学生は、母親が病弱なため、受験勉強と家事、妹、弟の世話の両立を迫られ、そんな苦労がない(かに見える)クラスメートを心の奥で嘲笑している自分を、とても差別的だと感じ、そんな自分を変えたかったと書いていました。
 別の、これも部落外の学生ですが、付き合っている人から「親の仕事が行き詰まって学校を辞めなければならない」と打ち明けられた時に自分は「大げさに言うな」と一喝しただけでしたが、相手は本当に退学してしまい、学校の勉強ばかりしていて世間知らずで来て、悩んでいる人の気持ちもわからない人間になっていた自分がすっかり嫌いになっていたことを書いていました。
 部落出身の学生は、高校の同和教育の授業でカムアウトして、以後、学習会の内容は彼にまかされるようになったのはいいのだけれど、生徒の何人かが「先生のよりも面白い」という感想を書いたのをきかけに、担任の先生の目が変わり、彼の通信簿の成績を下げるようになったという経験をして「つぶれて」学習会から手を引き、一時は退学を決意したけれども、浪人して大学へ入り、このままでは自信を失ったまま一生を送ることになるからと、大学の部落問題論の授業で再度カムアウトして現在に至ることを書いていました。
 もう一人、ある部落出身学生は、自分は被差別体験もなく、親友が差別を受けて悩んでいたので、地域の高校生友の会に足を運び、指導者に言われたので会長をつとめ、いろんなところでリーダーシップも発揮してきたにも関わらず、温室を一歩出たら、自分も差別されるかもしれない、そのとき親友のように立ち直れる自信がない自分を 親友に対してでも隠していた人間だったことなどを書いていました。
 
 ワタシは「なぜ部落問題を選んだのか」は、部落も部落外もお互いに「自尊感情を失わないために」だったなあと思います。そのために、当たり前のことをして。当たり前のことができる人間になって。
 ご参考までにと書き始めたら、大変長くなってしまいました。お許しを(笑)。



2001年03月08日(木) 東京都の「障害」者問題について

『日弁連 人権侵犯申立事件 警告・勧告・要望例集』
日弁連 人権侵犯申立事件 警告・勧告・要望例集「2001年3月8日 知的障害者更生施設における暴行問題人権救済申立事件(警告・勧告・要望)」より抜粋

入所者に対する暴力

 相手方Cは、自ら入所者に対して殴打、足蹴り等の暴行を加え、入所者に肉体的にも精神的にも多大な苦痛を与えていたものである。

 1.一九九七年三月中旬頃、園内食堂において、配膳係をしていた入所者H(当三三年)、 I(当三三年)、J(当二二年)、K(当二七年)の四人に対し、配膳が遅いと文句をつけ、洗面器で水をかけ、更に右H、J両名の太ももを足で蹴るなどの暴行をした。
 2.一九九六年四月八日、同園訓練棟において、入所者L(当三三年)に対し、作業訓練と称して歩行させる訓練を行っていたところ、同人の態度が悪いと言って同人が誤るまで約一五分間にわたって追いかけ廻し同人の身体を殴打する等の暴行を加えた。
 3.一九九六年一一月一八日頃、同園居住棟において、入所者M(当三〇年)に対し、同人が障害によるこだわりのため水道の蛇口から水を飲み続けることを繰り返していたためこれをやめさせようと、火のついたライターを同人の身体に近づけて暴行を加えた。
 4.一九九七年一月一九日、同園居住棟において、右Mが着替えができないでいると、同様に火のついたライターを同人の身体に近づけ、更に同人の頭を手挙で殴打する等の暴行を加えた。
 5.一九九七年五月六日午前九時三〇分頃、同園農園ビニールハウス内において、相手方Cが、入所者Nとともに農作業中、同人がハウス作りに使用した部品を間違えてビニール袋に入れたことに立腹し、中腰で作業していた同人の体を足蹴りして暴行を加えた。

入所者に対する催眠剤、抗精神病薬の多量な投与

 相手方Cは、夜間における施設内での入所者管理を容易にするために午後五時から六時に入所者を就寝させ、その行動を抑制しようと、自らの判断で催眠剤や精神安定剤を多くの入所者に投与していたものである。例えば

 1.一九九三年三月頃から一九九七年八月頃までの間、入所者Nに対し、同人や家族に何ら説明もせず、また同意も得ずに、毎日、少なくとも朝昼夕の三回にわたり、ユーロジン(催眠剤)、レンドルミン(催眠剤)、セレネース(精神病薬)、ニューレプチル(抗精神病薬)、リーマス(抗精神病薬)、アキネトン(パーキンソン症候群治療薬)名の各薬品を多量に服薬させ、同入所者には薬の副作用と思われる倦怠感、行動意欲の欠如、下痢その他の症状を生じさせた疑いがある。
 2.前記と同様の期間、入所者Oに対し、同人や家族に何らの説明もせず同意もせずに、毎日少なくとも朝昼夕の三回にわたり、ユーロジン(催眠剤)、ニトラゼバム(催眠剤)、セレネース(精神病薬)、プロペチル(抗精神病薬)、ノバミン(抗精神病薬)、プロペリシアジン(抗精神病薬)、デパケン(抗痙攣剤)、フェニレン(鉄欠乏性貧血治療剤)、ビレチア(抗ヒスタミン剤)名の各薬品を大量に服用させ、同入所者に薬の副作用と思われる倦怠感、行動意欲の欠如等の症状を生じさせた疑いがある。



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