たりたの日記
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2013年02月05日(火) 天に一人を増しぬ

 2007年1月11日の日記にこの詩を記している。
あれから6年、ずいぶん沢山の方々を天にお送りした。
召されていった大切な方が多くなるということは、天に大切な方を増すということ、
だから、天が少しずつ近くなっていく。

天に一人を増しぬ 

セラ・ゲラルデナ・ストック作/植村正久訳


家には一人を減じたり 楽しき團欒(まどい)は破れたり
愛する顔 平常(いつも)の席に見えぬぞ悲しき
されば天に一人を増しぬ 清められ救はれ全うせられしもの一人を


家には一人を減じたり 歸るを迎ふる聲一つ聞こえずなりぬ
行くを送る言一つ消え失せぬ
別るゝことの絶えてなき濱邊に 一つの霊魂(たましい)は上陸せり 
天に一人を増しぬ


家には一人を減じたり 門を入るにも死別の哀れに堪えず 
内に入れば空しき席を見るも涙なり
さればはるか彼方に 我らの行くを待ちつゝ 天に一人を増しぬ


家には一人を減じたり 弱く浅ましき人情の霧立ち蔽ひて 歩みも四度路(しどろ)に眼もくらし
さればみくらよりの日の輝き出でぬ
天に一人を増しぬ


實(げ)に天に一人を増しぬ 土の型にねち込まれて 基督を見るの眼も暗く
愛の冷かなる此処
いかで我らの家なるべき 顔を合わせて吾が君を見奉らん
彼所こそ家なれまた天なれ


地には一人を減じたり 其の苦痛、悲哀、労働を分かつべき一人を減じたり
旅人の日毎の十字架を擔うべき一人を減じたり
されば贖はれしたましひの冠を戴くべきもの 一人を天の家に増しぬ


天に一人を増しぬ 曇りし日も此一念輝かん
感謝賛美の題目更に加はれり
吾らの霊魂(たましい)を 天の故郷に引き揚ぐる
鏈(くさり)の環更に一つの輪を加へられしなり


家には一人を増しぬ 分るゝことの断えてなき家に
一人も失はるゝことなかるべき家に
主耶蘇(イエス)よ 天の家庭に 君とともに座すべき席を 
我ら全てにも あたへたまえ


2013年02月04日(月) 父の召天日

今朝子ども達に「今日はお祖父ちゃんの命日だから気持ちをお祖父ちゃんに向けてね」とメールしたものの、「命日」という言葉はなんだかしっくりこない。いろいろ考えてここでは召天日ということにした。キリスト教の教会では亡くなった方々を召天者と呼ぶから。

所に寄っては「お立ち日」という言い方もするようだ。
命日よりも優しく、その人がふっと立ちあがり、あちらの世界に向かって昇っていくようなイメージがある。

召天を辞書で引いたら昇天しか出てこなかった。同じ音だが意味が違う。
本人が天に昇るのではなく、神が天へ召す。もう地上での命を全うしたよ。
わたしの元でお休みなさいと召して下さる。

長い長いベッドの上での生活の果てに、今父はどんなにか自由だろう。愛する母もいっしょというのだから・・・

一年前の今日のことを思い出す。
連絡を受けてからのこと、メメントモリでの葬儀のこと、書いてある日記を読み返してみた。その時が甦ってくる。
あれから一年。とても長い時間だったように感じる。
父がこの地上にいなくなって後の方が父が近くにあるような感覚があった。
母にしてもそうだが。

わたしのところにはお位牌というものはないので、父と母の若い頃の、出会った頃の写真をいっしょに写真立てに入れ、その前に花を飾ったり、好きな香りの香を焚いたりしているのだが、この夏、佐賀の父の故郷を訪ねた時、古い家の整理をしていたら出てきたと、父が描いた自画像を従兄から手渡された。20代の頃の、まだ母と結婚する前のものだ。わたしも知らない父の絵との出会いはとても嬉しかった。

その絵をこの日記にも残しておこう。




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