たりたの日記
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パソコンが突然壊れてしまった。 ひと月ほど前にバックアップを取ってもらっていたので、それほど大変というわけではなかったが、新しいパソコンを購入してそれに慣れるというのにはエネルギーがいる。
初めてのPCはオレンジ色のりんごの形をしものだった。連合いがクリスマスプレゼントくれたのだが、当時はひどいPCアレルギーで、家にあるPCのスイッチすら入れたことがないほどだったので、いくら見た目が可愛らしくても 仲良くなれる自身はまるでなかった。
ところが、このPCでこのWeb日記を付けるようになり、HPがわたしの生活の中心にまでなってしまった。次なるPCはソニーの白いVAIO、そして今回壊れてしまったのがTVも見れるということで選んだ東芝のQOSMIO。
さて、この日からわたしのPCとなったのは富士通のFMV−BIBLO。 この夏、長期間九州に帰省することもあるので、とにかく持ち運び可能なものをと考え、決めた。 電子辞書が組み込まれているのも便利な気がしたし。 しかし、Windows7、WordとExcelは2007版。これまで使っていたPCもその機能の10パーセントも使っておらず、圧倒的に知らないことが多かったのに、そしてそれを何とかマスターしようとしていたのに、それを使えるようになる前に、さらに新しい機能を知らなくてはならなくなった。
今度こそは、最初の設定のところから自分でやらなくては。 箱の中からPCを取りだすところから始め、取扱説明書を丹念に読み進めながら半日がかりで、何とか初期設定を終えたところ。
しかし、その便利な機能とやらが、まだ良く分からない。 人に聞いたのではいつまでも身に付かないから、iPhoneが使えるようになった時のように、自分で取扱説明書を読み取り、試行錯誤しながら学習するというステップを踏まなければと自分に言い聞かせる。
2010年06月06日(日) |
押入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして |
教会へ。 今日は聖書朗読の担当だった。
エレミヤ書7章1〜7、コリント15章12〜20、ルカによる福音書6章37〜49を読む。
その中で「押入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして」という言葉が、初めて目にしたように新鮮だった。 説教も、この言葉が中心に据えられ、神がわたしたちに給うた、あふれるほどに盛りの良い秤、そのあふれるほどの恵みという内容だった。 その「押入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして」というイメージと、今、いただいているあふれるほどの恵みが重なった。 厳しい物差しで計られるなら、断罪され、切り捨てられてもしかたのないわたしが許され、このように生かされているという、そのこと。
聖書 :ルカによる福音書6:37-38 「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」
2010年06月05日(土) |
朗読講座で「坑夫」を読む |
昨日は朗読講座に久しぶりに出席した。今学んでいるテキストは夏目漱石の「坑夫」の冒頭の部分。 わたしの順番が来て読んだ箇所はこんな部分があった。
<のみならず歩けば歩くほどとうてい抜ける事のできない曇った世界の中へだんだん深く潜り込んで行くような気がする。>
<この漠漠のうちへー命のあらん限り広がっているこのこの漠漠のうちへー自分はふらふら迷い込むのだから心細い>
この感覚は決して今は持っていないが、若い頃いつも気持ちの底に流れていた気分だったと思い出した。 あの当時は、いつまで行っても変わらずに続く松原しか見えなく、まさに漠漠のうちへ迷い込むという思いがあったが、今はすでにその松原の終わりが見え、その向うに広々とした青い海が広がっているのさえ見えている感覚がある。 あくまで自分勝手な感覚で、実際は老後というさらなる山や峠、漠獏たる荒地を歩むことになるかも知れないが。
5月は一度もここに書くことなく6月を迎えてしまった。 忙しい。けれども仕事は二年目となれば、かなりやりやすく、不安も少ない。 通勤時間は仕事とは無関係に自由な時間として過ごすこともできる。電車の中でiPhoneをタッチしながらここに書くことだってできる。それなのにそれをしていないということはどういうことだろう。自分自身に気持ちを向けるということができないのだろか。あるいは、日本語で文章を綴るということが気持ちから遠いのだろうか。実際通勤の間はビジネス英語や英語のストーリばかりを聞いている。仕事とは無関係に過ごしたいといいながら、気持ちは仕事、あるいはその背後にあるものに引っ張られているのだろう。
しかしバランス。書くこと読むことがない生活はどこかで行き詰ってしまうような気がする。 6月は何とか、ここと繋がっていたい。
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