たりたの日記
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2008年03月28日(金) |
<命の息を語り歌う> コンサート終了 |
 <命の息を語り歌う>―朗読と歌とオルガン のコンサート、無事終了した。
そう、何を書こう、会場に向かう事から始めるとすれば、行きの電車の中で読んだ、サリンジャーの「フラニーとゾーイ」の事を書かなければならないだろう。
ゾーイが芝居を捨てようとしているフラニーに語る一連の言葉。 その最期の数ページを繰り返し読んで、そこからやってくるとてつもない力を感じていた。
誰のために演じるのかという問い。 それはすべての「太っちょのオバサマ」のために。そして「太っちょのオバサマ」でない人間はひとりもいないと。 そしてゾーイは言う。 「ああ、きみ、フラニーよ、それはキリストなんだ。キリストその人に他ならないんだよ、きみ」
この「太っちょのオナサマ」という合言葉に隠されている大きな秘密。その事を会場へ向かう電車の中で確認する事ができた事はとてもすばらしいことだった。
朝、文学ゼミの掲示板をチェックしたおり、仲間のTさんが、わたしが今日、本番を迎える事を励ましてくれ、暗示的に、この本のこのフレーズを指し示していてくれたのだった。
原宿教会の白い礼拝堂に、オルガンの音が響き、歌が満ち、言葉が流れていた。それを演じる側にあるのに、同時に高いところから、その会場全体を眺め、そこに起ることがらに目を凝らしている意識があった。 その音と言葉が流れる空間を心から楽しんでもいた。
朗読の師匠から言われ続けてきたこと。自分を見せるのではなく、そこに書かれている事がくっきり相手に伝わるように読むという事。そのためには、 書かれているその時間、そこにある「今」の中に読み手が入ること、そうすることで聴いている人にもそこにある「今」が見える。
聴いてくださっていた方にそれが見えたかどうかは、計りようもないが、少なくともわたしは、読みながら文字の向こう側に自分が入りこんで、はるか昔、はるかかなたのベタニアの地にあって、イエスとマリアの側にいるような心もちだった。また、空っぽになってしまったイエスの墓を見ていた。そして、かっこうの声がこだまする林の中に居た。
読み手でありながら、読んでいる自分が見えなくなってしまい、お話の中にすっぽりと包まれた不思議な感覚だった。
またわたしの立っているところから、客席にいらっしゃる方がたがはっきりと分ったので、おひとりおひとりのお顔を拝見しながら、来て下さり、こうして聴いて下さる事に、心の中で感謝をお伝えする事ができた。
180人ほどの人達で埋まった観客席の中には、久し振りに会うなつかしい方たちや従兄弟と夫も含め、知っている方たちの顔があった。30名ほど。 幼馴染、学生時代の友人、子育て時代の友人、教会でお世話になった方、文庫時代の仲間、隣の主婦(?)仲間、朗読仲間、ダンス仲間、ゼミ仲間、英語教室の生徒とお母さん、ネットで出会った方たち、そして朗読の師匠も! その事がしみじみと有り難く、暖かいものに満たされていた。
日記の中を検索しながら探し物をしていたら、 2003年の2月10日から15日まで毎日綴っていった、7つの愛のソネットがでてきた。
それぞれの愛のカタチをシェークスピアのソネット(14行詩)を真似て 書いてみたのだった。
しばらく、その時に立ち返ってみた。 そこにある文章も、その後に綴られた詩も、けっして過去のわたしというわけではなかった。 その時のわたしは変らずにわたしの中に生きている。 明日のステージのためにも、わたしの内なるエナジーを総動員したいところだったので、 良い再会だった。
詩の部分だけ載せておくとしよう。
< 愛のソネット 1> 魂から魂へ
わたしがわたしの言葉を愛するように わたしはあなたの言葉を愛する わたしがわたしの時を愛するように わたしはあなたの時を愛する
お互いを見つめ合うのではなく 遠いかなたに目を注いで あなたとわたし、異なる空間で呼吸し それでも共に生きている
あなたがあなたの音を愛するように あなたはわたしの音を愛する あなたがあなたの場所を愛するように あなたはわたしの場所を愛する
ある時、それは身を切るような痛みを伴うとしても 強靭に愛し続けていくことをわたしたちの魂は知っている
< 愛のソネット2 >
Anniversary
愛を探した日々があった 進むほどに道は狭く、迷路に閉じ込められるのはわたし 愛を捕えようとした時があった 手にしたものは抜け落ち、独りでたたずむのはわたし
ある日、ひだまりの中に愛は座っていた 「少しだけそのひざを借りてもいいかしら」 初めて眠りを知った者のようにわたしは眠った 探さなくても愛は変わりなくそこに居続けた
ある日、わたしの体の中で愛は動いた 「もう何も欲しいものはないわ」 生き始めたばかりの命にわたしはわたしを捧げた 捕えようとしなくても愛はいつも腕の中にあった
一人が二人になり、三人は四人となって命は育まれていった この豊かな実りに感謝を捧げよう Anniversaryの今日
< 愛のソネット3 >
とらわれ
愛はときおりデュオニソスを伴ってやってくる その香りは甘くあらがうことはできないゆえ 見えない力にただ引き込まれてゆく 足は地上を離れ心は果てもしらぬ空をうつろう他ない
愛は人を命からひきはがし洞窟の中に閉じ込める 歓びと苦痛はくりかえし訪れ 目は何も見ず、耳は何も聞かない そして死は喉元に鋭いナイフを突きつける
どうかここからわたしを出してください この死の淵から生還させてください この試みに会わねばならない理由は何ですか 人は思わず彼方へ向かって叫ぶ
彼方へ向かった声を聞くものがそこにいる 人はその叫びの故に死から命へとまた移される
< 愛のソネット4>
その愛
はじまりは言葉だった 男は女の綴った言葉の海へ恋に落ち、女へ言葉を届けた 女は言葉を受け取る、そこにある優しさも情熱も 日に何度も届く手紙、二人の間に降り積もりゆく言葉
5年が過ぎた時、これから人生を始めようとする若者は これから人生を閉じようとする老女のもとへと向かった 言葉ではなく手で愛撫し 言葉ではなく目で見つめる
男と女は愛し合い、また傷つけあう 歓びと苦渋、高揚と絶望、愛とはそういうもの 女の口は物語を再び語り 男はその声を指先で打ち込み文字へと変えた
その愛の話を人々は読み継いでゆくことだろう その愛の形をわたしも今日、深く心に刻もう
* 映画「「デュラス 愛の最終章 」を観て
< 愛のソネット5>
チョコレート応援歌
バレンタインデーにチョコレートをあげるのだったら 手作りにしましょうよ 上質のチョコレートを使うのよ なめらかでけっして甘すぎないものを
チョコレートはあなたの心の熱さで溶かす 想いをそこに混ぜながら 溶けて流れ出す前に考えておくことを忘れずに 作りたい愛のかたち
ラッピングはあなたを表す色と形で カードにはあなたの心から取り出した言葉を添えてね 渡す時にはきりりとした目を向けて アイ ラブ ユー と テレパシーで伝える
それで「ホワイトデーには君が作ったクッキーがいいわ」と言ってみる 男の子にもレッスンのチャンスをあげなくちゃ
< 愛のソネット6>
愛を歌うあなた
ビョーク、あなたはわたしを知らないにしても あなたはすでにわたしの中に棲みついている それは音、それは言葉、それは息づかい あなたがどれほどこの世界を愛しているか、それが見える
アイスランドという土地を訪ねたことはないにしても その土地の空気はすでにわたしのなつかしいもの それは岩、それは氷、それは草原 どんな命とも、どんな自然とも結びつくあなたの不思議
あなたの歌はすべての命へ向かう愛 だからとても近い、命のみなもとと 愛とはもともとの自分に帰ること 自分の心の声に聴き従うこと
創り出す行為とはこうしたこと ひとりのあなたという存在が広がり続けていくということ
< 愛のソネット7 >
時空を超えて
2000年を遡り あなたの時をわたしは生き 2000年を超え わたしの時にあなたは生きる
はてしない命のひろがり わたしの外へ また内へ 今をつきぬけて つらなる 永遠へ
あなたという愛のみなもとに あなたという命のみなもとに 抱かれるという 至福 生きてゆける
繰り返し問いつづけるあなたの眼差しに 挑むように返すわたしの愛
2008年03月26日(水) |
福永武彦「愛の試み」をボイスブログに |
ここはちょうど1週間ぶりだ。
日記は書かなかったものの、ボイスブログは二つアップした。
福永武彦著「愛の試み」より最初のエッセイ「孤独」、そして四つ目のエッセイ「星雲的」。
若い頃に出会ったこの作家のこのエッセイ集は、これまで繰り返し読んできた。その時々に受け止め方は違う。
今回は朗読する事ができて良かったと思う。 その思索の深さ、言葉の美しさが心地よかった。
さて、コンサートは明後日。 後はコンディションの調整。 即刻、ベッドへ。
前に書いた日記の日付を見るとちょうど1週間ここを留守にしてしまったことになる。 たったの1週間? もっとたくさんの時間が流れたような感覚があるのだが・・・
どこに行っていたという訳ではない。 でも、あまりにも様々な事があった。 様々な扉が開き、また閉じた。 心の振幅も激しかった。 そういう意味で、心はひとしきり旅をしてきたのかもしれない。
14日、カフカ原作「流刑地にて」のオペラを観に新国立劇場へ行く。 その地では、特殊な機械によって罪人の死刑が執行される。上から降りてくる針と振動するベッドによって身体に刻まれるその人間の罪状。はじめの6時間が過ぎると罪人は恍惚としてさらに6時間を過ごし、死刑が終わるというなんとも残酷な話なのだが、曲と歌い手、そして舞台美術と演出の完成度が高く、すばらしい緊張が漲っていた。 そこにある死は、夢の中のそれのように、不思議なカタルシスに満ちていた。 わたしの内的なニーズにぴったりだったとも言える。あたかも、そういった「死」を欲していたかのように。
15日、長谷川氏の朗読講座。辻井喬「幽かな梅」。先生を囲んでの食事会には失礼して、そのままの足で県民活動センターへ。、翌日のイベントの会場設定のため。県活から家までずいぶん歩いた。浅い春の夜の散歩というにはあまりに早足で歩いたのだったが。
16日、自治会の総会の司会。午後から「こども夢未来フェスティバル」で県活へ。「英語で遊ぼう」のタイトルで、歌、指遊び、ヨガ、絵本の読み聞かせなど60分の英語パフォーマンス。不特定多数、年齢もその時になってみなければ分からないから、その場でいくらでも変更が効くよう、いろいろなものを用意して出かけた。ハイテンションで乗り切った。子ども達をひきつける事には成功したかな。しかし、かなり消耗した。
17日、コンサートのリハーサルで原宿教会へ。オルガンと歌と朗読のコラボなのだが、わたしはオルガンと歌にうっとりとなっていた。彼女たちの演奏は素晴らしい。その音楽の中で朗読ができるというのは、なんとも贅沢で幸せな事だ。28日のコンサートが楽しみだ。 帰り道の靴店で、衣裳に合った靴を見つける事ができた。
18日、5クラス分の授業参観とその後の中学生クラスでのピザパーティー。朝9時半から夜9時半までの超ハードな一日。 しかし、一年の仕事の締めくくりだもの。残すは後3クラス、木曜日に。
19日、今日。昨日喉を使い過ぎたためか、のどの調子がまた悪くなったので、病院へ。本が読めるから病院行きは嫌いではない。 今日は自転車には乗らずに歩いて行ったので、あちこちで咲いている梅やレンギョウの花を楽しんだ。 どこかに薔薇が咲いていないかしらと探してみたものの、薔薇は見つける事ができなかった。いったいこの季節に咲く薔薇はどんな薔薇だろうと思いつつ。 そうそう、12日、英語学校での最期のクラスの日、素敵なフレームに入った子ども達の写真といっしょに、みんなから薔薇を一本づつもらった。深紅の美しい薔薇。今もテーブルの上で咲いている。
その忙しい1週間の間に、心は嵐に見舞われたように忙しかったと言える。 28日のコンサートで読むマグダラの物語の事も考えていた。 マリアはイエスの死を予感して、彼女の持っているものの中で、最も価値のあるナルドの香油をイエスの頭に注いだ。そうせずにはいられなかったマリアの激しい心の傾きと痛み―。ナルドの香油は彼女の存在そのもの。それをイエスに注いだ時、その事を常軌を逸した行為と非難するイエスの弟子達たちとマリアの行為を受け止め、その行為に意味を与えたイエス。そこにあるマリアとイエスの魂の出会いのこと。
そんなこんなな1週間は、受難節に相応しい一週間だったとも言える。 しばらく日記は書かないつもりでいたけれど、ここに来て下さる方が心配する場合もあるかもしれないと、まとめ書きをした。
*28日にモードを合わせるためにひとつところに集中したいので、ここ休む事になると思います。
このところ、体調不良に加えて、不眠が続いている。時折りこういう事があるので、医者から軽い睡眠導入剤をもらっている。ところがこの薬を飲んでもぐっすりとは眠れない。 頭の奥がきりきりと冴え切っている。それなのにどこか浮遊感がある。目の前に迫っているイベントやオープンクラスや、コンサートの事が緊張のためか、それとも医者からもらっている風邪の薬のためなのか、自分でもよく分からない。
昨夜は12時にはベッドに入ったものの、2時になってもまだ眠れないので、あきらめて起き出した。喉を痛めていたために、課題になっているテキストの練習もやっていなかったので、深夜に朗読をし録音した。夜中だと外の物音が入らないし、電話やドアベルの妨害もない。こういう長文を一息に朗読するには、今がチャンスだと思った。というより、朗読する事ができるのか、試してみたかった。
まだ声は鼻声で、低めだけれど、この作品はかえって、このくらいのくぐもった声が合うのかもしれないと勝手に理由をつけ、辻井喬著 「故なくかなし」より「幽かな梅」をボイスブログにアップした。
長谷川氏の朗読講座で1月からこのテキストになり3ヶ月、6回のクラスでこの作品を読み味わい、声に出してきたわけだ。前回の講座の時、朗読を誉められた。初めてそれとわかるように誉められたので嬉しかった。その場がそこに見える、その時が読みに出ているというような評価だった。確かに、あの時は、わたしそのものがその教室を抜け出し、梅の香りのする丘の上にいたのだった。不思議な感覚だった。登場人物がわたし自身であるかのような。きっと、そのストーリーの時間の中にわたしが居たのだろう。そしてその「時」が聞く人にも伝わったのかもしれない。
さて、この夜中の朗読は、あの時ほど、うまくいったという感じはなかったが、今回、このテキストでの学びで、一歩前で出ることができたような自覚はある。
そういえば、この前の「死者の書」の時も、冒頭の部分、そして、わたしが好きな13章を朗読させていただいた。有り難い。 良い学びの場をいただいている。
2008年03月10日(月) |
折口信夫「死者の書」を読む② |
今日の文学ゼミでは前回に引き続き、折口信夫「死者の書」11章から20章までをテクストに学んだ。そして前回同様、それぞれの様々な角度からの考察が面白く、興味深かった。いつか、個々の感想に出て来た事を調べたり、読んだりするつもりではいるが、ここではわたしがどう読んだかという事にとどめておこう。
前回は1章から10章までの読書メモ1という形で感想を書いたが、今回は最も好きだった13章を中心に読んだ。わたしがここで注目したのはこの作品の中に見出すエロスについてである。それについてフェミニズムの視点で捉えてみた。 敢えてフェミニズムの視点からと書くのは、どうやら男と女は同じ「エロス」という言葉でも、それへ反応に大きな違いがあるように感じるからだ。わたしは女性だから男性の生理は分からない。当然男性の持つエロスに関しては理解のゆかぬところがあるのだろう。同様に、女性には女性の性的感性というものがあるのだが、これがなかなか男性には理解されていない。
ところが男性の作家によって書かれたこの作品の中に流れるエロスは女性の領域のものだと感じる。それは作家自身のセクシュアリティーに起因するにしろ、文学作品として特異な位置にあり、そこには見逃せないものがあるからだ。
さて、前置きが長くなった。以下はわたしが今日、ゼミに出かける前に駆け込みで書いたレポート。ちょうど、姫野友美著「女はなぜ突然怒り出すのか?」を平行して読んでいて、そこからなるほどとヒントのようなものを得たので、かなり強引な事を承知でここに引用した。
折口信夫「死者の書」 13章を中心に
< 折口の多層的なエロスへの洞察 > 「死者の書」十三章では郎女の天若御子(山の上に見た俤)への恋愛感情と宗教的エクスタシーとが渾然一体となっている。その心理状態が様々なメタファーを通して、文学的、印象的に書かれていて興味深い章だ。
十三章に限らず、「死者の書」で見られる、郎女の一連の行為や心理、例えば、身体が衰えるほど根を詰めて写経するという行為、内側の迫りに誘われ夜を徹して彷徨うという行為、また山の中にある時の至福感、、夢の中で体験する一体感、この章全体を支配しているある種の恍惚感、これは女性が恋愛感情に支配された時の行為と心理状態そのものだと読む事ができる。
とりわけ13章はそれが特徴的に現れており、で夢の中で浪に漂い、白玉と一体になり、やがて白い珊瑚になるという描写は、エクスタシーに支配された時の心理的、身体的状態を書いていると読む。また夢から覚めた郎女の口から「なう、なう 、阿弥陀ほとけ」という言葉が出るあたりは、写経に没我したり、山を見て幸福感に包まれる状態と同様な宗教的エクスタシーの下にある心の状態といえよう。
折口氏の試みは、性的エクスタシーと宗教的エクスタシーの限りない接近にあるのではないだろうか。さらには、女性の性がどういうものかという、探求が試みられていると感じる。折口氏が男性の側からではなく、自分の内側にある女性性、もっと極端に言うならば、女性の性向を持つ折口氏が自己を表現した部分ではないかと思うのだ。そうするならば、試みとか探求とか言う以前に、自らのセクシュアリティーの解放であったかもしれない。
ところで医学博士・心療内科医、姫野友美氏はは著書「女はなぜ突然怒り出すのか?」の中で(P79)このように述べている。男性がセックスによって得るエクスタシーは、「発射する快感」、「ドーパミン的」である一方、女性がオーガズムに達した時に得るエクスタシーは「満たされる快感」、「一体感」、「多幸感」、「包まれる快感」と語る。そうしてこうした快感は βーエンドルフィンによってもたらされる刺激で、βーエンドルフィンは、また、何かに満たされたとき、陶酔してしまうような麻薬的多幸感を脳にもたらすとある。 こうした感情が人間の体内で分泌される物質に支配されていると考えるならば、恋愛時にも宗教的高揚時にもドーパミンやβーエンドルフィンといった同様の物質が分泌されるのだろうから、この郎女の一連の行動や心理状態は大変納得がいく。
またここでは恋愛の最終目的が男女の性的結合ではなく、異なる魂と魂との一体感にあるという折口氏の恋愛観が出ているのではないかと思う。その部分をわたしなりに考察した。 エロスは人間の生殖本能に働きかけ、恋愛感情を引き起こし、異性間の肉体的結合にまで導く力があるが、また一方で、この世で肉体を持った一固体が宇宙の摂理との繋がりや一体感を見出し、そこに取り込まれたいという欲求もまた起こす。その欲求は生殖本能とは無縁なので、愛の対象は必ずしも異性である必要はなく、同性でも、また山や海といった自然のものでも、また真理を解き明かした宗教的経典や言葉を自分の内に取り込むことでも満たされる。 そういった折口の多層的なエロスへの洞察が「死者の書」を内側から美しく艶やかに照らし出しており、一定の読者には深い充足感をもたらすのではないかと思うのだ。
青空文庫で読めます。 ↓ 折口信夫著・死者の書
わたしの記憶の一番古いところに、保育園の記憶がある。教会の敷地内にあった木造の園舎。大きな積木、お昼寝の布団とお昼やおやつをつくってくれるシノザキのおばちゃんがいつもいる台所。かくれんぼする時にうっかり入って怖くてたまらなかった倉庫、ザクロの木と宝石のような赤い実。
学生の時、教員資格の他に、一夏を潰して保母資格を取ったのも、そんなわたしの古い記憶の中の保育園と関係があったのかもしれない。 保母の資格を使う事はなかったものの、気がつけば、無認可の保育園の理事などをしている。
今日は毎週火曜日の午前中ボランティアで行っている「英語であそぼう」の日。2歳児、3歳児が20名くらい。そこに地域の親子が10組ほど加わる。 (4歳児、5歳児は午後からの英語教室に加わるので、ここにはいない)
わたしは絵本や指人形やカードなどを詰め込んだバッグとギターをかかえてそこへ行く。今日はいつもより30分ほど早めに行ったので、子ども達と保育者に混じってリズムをする。保母の弾くピアノに合わせて、素足に優しい檜作りのホールいっぱいに動く。荒馬になったり、アヒルになったり、金魚になったりするのだ。
わたしがリズムに加わると子ども達は、英語のセンセイがリズムしてる~。 センセイ、そこのところは上を向くんだよ。手はこうやって動かすんだよと3歳児が口々に教えてくれる。子ども達の絵顔には欠けがない。
さて、10時になり英語の時間。 まずは身体を動かす事から。英語のヨガ、今日は10のポーズ。例えばこんな具合。
山のポーズを取りながら
Irise from the earth.
わたしは地面から出ています。
I am strong and stable.
わたしは強くてしっかりしています。
I am tall and wide.
わたしは背が高くて広いです。
I am a majestic mountain.
わたしはとっても大きな山です。
飛行機の時はこんな具合に。
Iprepare to fly.
わたしには飛ぶ用意ができています。
I lift off and blanced.
わたしは足を浮かせて、バランスを取ります。
I climb into the sky.
わたしは空に向かって昇ってゆきます。
I soar on open wings.
わたしは翼を広げては羽ばたきます。
その後は指あそびを4つ。
ギターを弾きながら歌う歌を2つ。
英語の絵本の読み聞かせ。
円くなってやるゲーム「Who took the cookie from the cookie jar 」
英語のダンスを4つ。
子ども達の反応を見ていると、先週わたしが体験したライブの事が思われた。ライブハウスで演奏されたあの歌やパフォーマンスをこのホールでやるとどうなのだろう。 わたしのしょぼいギターではなくて、もっとわくわくするいい音を聞かせてあげたい。 子ども達の顔が輝くのが容易に想像できる。 こうして考え始めたからには、いずれ実現するのかもしれない。
2008年03月03日(月) |
一年振りに高橋たか子を読んでいる |
今、高橋たか子の新刊「ライサという名の妻」という本を読んでいる。小説ではない。フランスの、ほぼ二十世紀全体を生き抜いた、ジャックとライサという相思相愛の夫婦について高橋氏が試みた伝記だ。
まだ読み始めたばかりだが、男と女が共に生きていくという事、夫婦とはいったい何なのか、そこにある厳粛なものが早くも伝わってくる。
高橋たか子を読むのはちょうど一年振りだ。去年のこの時期は高橋たか子に没頭していた。その時の結晶「ロンリーウーマンを読む」を読み返してみた。あれほど、様々に調べて根を詰めて書いたというのに、いったいこの日記のどこにあるのか探せないほど、その存在を忘れていた。 今日のミーティングの中に、この小説の話や、マグダラのマリアの話も出てきたので、ここから飛べるようにリンクしておこう。
↓
「ロンリーウーマン」を読む
午後の礼拝堂にトラッシュ・ボックス・ジャムの音と言葉が満ちていた。 今日はアメリカ人の若い宣教師、アンバーが中心になってやっている英語学校のイベントに、バンドのメンバーやファンの方達が大勢で応援に来てくれたのだ。
繊細で優しいエナジーはここちよく、心身に染み渡った。 弾き語りをしていたり、バンドで歌っていた高校生の時のわたしになって聴いていた。 こっそり彼らの歌にハーモニーをつけながら、こんな風に歌い続けていたかったとふと思った。 この前のライブで出会った優しい若者達がいつもの礼拝堂の椅子にいることが、何か不思議でうれしくもあった。
このバンドのリーダーのしんぐさんはライブの前にすることは「祈り」とどこかに書いてあった。そうだろうなと思う。彼がそこから出発しているのは彼の音楽や人柄に滲んでいる。祈ることは愛すること。
今日が最期となる(ずっと続けて欲しいのだけれど)昭和さんのボンゴとウインドチャイムは良かった。路上やライブハウスで聞くよりも、風や野原の響きがあって、この場所には会っているように思われた。
それも、これも、アンバーがアメリカから日本へやってきて3年間、このバンドやスタッフやファンの人達と、友情を育んできたからだ。すぐに一人の世界に篭っては、仲間との間にそんな関係や友情を保ち続けるのが難しいわたしには真似できない事だなと思う。 そうそう、そういう事も今、わたしが解決していかなければならない宿題。
日々身辺に起る出来事や心の中で起る出来事を注意深く見てみると、そこに驚くべきつながりが浮き彫りになる事がある。いったいなぜ?と思えるような唐突な振る舞いや、コントロールの効かないような感情の乱れすら、そこを通ってゆかなければ次へと事が運ばない必然の「線」が見えてくる。そしてそれらのつながりは、深いところで未解決なままでいる人生の宿題と深くかかわっているという気がする。
何かに促されているような時には不思議と、それを解決に導くような言葉やサポートも与えられるものである。今朝書架をつらつら眺めている時、もう何年も開いていない一冊の本が目に留まった。 そこにあった事は、今まさに、わたしが考えている事だった。 記しておこう。
大切なのは、人生を秩序のもとに観察し、ふさわしい仕方で原因と結果を関連づけることです。その観察の仕方を徹底させることができれば、秩序の下に進行する一連の事件が、一人ひとりの生活の中から姿を現してきます。無秩序と思われる人生の諸事件も、鼻がくっつくほど近づいて観察するのではなく、広い視野の下に観察するなら、不思議な関連をそこに見つけ出すことができるのです。現代人は残念ながら、せいぜい数年の幅でしか人生の関連を見ようとしません。まして、人間生活のはじめと終わりを一定の関連の下に見ようなどとはしません。けれどもこの関連こそが、特別に多くの事柄を語ってくれるのです。
シュタイナーのカルマ論 <カルマの開示> よりP13
ルドルフ・シュタイナー著 高橋巌訳 ( 春秋社)
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