たりたの日記
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2008年01月31日(木) |
逆さに貼られた「デミアン」の感想画のこと |
最近、もうすっかり記憶の底に沈んでいた事が、ふっとした事から浮かび上がってきた。今日はその記憶の事を書いておこう。
その記憶は中学生の時にまで遡る。中学校3年間、わたしは恋の他には読書感想文と読書感想画にはとりわけ情熱を燃やしたような気がする。文芸部と音楽部に掛け持ちで入っていたのだが、文芸部の顧問の女性教師はあまり笑わない、凛としたそして静かな人で大好きだったが、彼女はわたしの書く読書感想文に、わたし以上に情熱を燃やしているようだった。図書室に呼び出しがかかり、何度もディスカッションをし、そして何度も書き直しをさせられた。しかしそれが苦痛でなかったのは、彼女がわたしの意見や考えをまず尊重し、彼女の考えを押し付けたり、誘導するという事がなかったからだろう。 この文ではうまく気持ちが伝えられていないとか、こちらの内容とこちらの内容はまとめた方が良いのでは、この記述はもっと詳しくといったアドバイスをくれた。そして入選した時には、けっして笑顔は見せなかったものの、とても喜んでくれた。これまで文学を専攻して勉強する事もなかったのに、今文学に親しみ、こうした駄文を書き続けているのも、もしかするとこの時の影響があるのかもしれない。
しかし、わたしが書こうとしたのはこの事でなく別の事。 中学校2年生の時だった。わたしはヘルマン・ヘッセの「デミアン」の感想画を描いた。それは画面の下半分に青白いいくつもの手が下から上へ何かを掴もうとするように描かれていた。そして上半分は冷たい炎。濃い青やグリーンの燃える炎のようなものを描いていたような気がする。、その小説のどこにもそのような描写は出てこない。しかしながらそれは、わたしがその小説から受け取った情景だった。その絵を描き終えて提出する時、自分の心の中にある事を絵にすることができた事に深い満足を覚えていた。
ところがその絵を提出した次の日の美術の授業の時、美術の教師はにこやかに笑いながらわたしの絵の前に立つと、「この絵は入選するよ。でもここはこうした方がいい。」と赤い絵の具をあたかも滴る血のようにその白い手にくっつけ始めたのだ。「違う!違う!」わたしは心の中で叫びながらも、されるがままになっていた。その教師が入選させてあげようという親切心から手入れをしてくれた事は良く分かったし、なるほど、もっとドラマティックでなければ入選しないんだろうなと思ったからだ。 しかし、かといって、わたしの絵に赤い絵の具を乗せるわけには行かない。わたしはそうは感じていないのだもの。赤い絵の具は嘘になる。悩んだあげく、放課後の美術室に偲び込み、後ろの棚に他の絵と重ねて置いてあったわたしの絵を抜き出し、その赤い血をすっかり上から塗りつぶしてしまった。
その教師からは呼び出しも受けず、その後何も言われなかった。善良な教師だったのだ。そしてその絵は県入選し、巡回展示がされ、大分市の書店でも展示された。電車で1時間かけてその絵を見に行ったのだったが、掛けられているわたしの絵を観てがっかりした。絵はわたしが最後に修正したそのままだった。ところが上下が反対に掛けられていた! 学校に行ってその事を別の美術の教師に話すと彼は事もなげに、「あぁ、あの絵は逆さにした方がいいよ」と言うのだった。返す言葉がなかった。
わたしの絵に赤い絵の具を塗った教師も、「逆さの方がいいよ」と言った教師も、そんな事はすっかり忘れているのだろう。わたしにしてもそんな事は今まで全く忘れていた。ところが心はこの時の事を忘れないでいたのだった。 わたしが子ども達に発するひとつひとつの言葉の中に、あの教師達と同質の言葉や行為がなかっただろうか。ある、きっとあるに違いないと思う。悲しいけれど・・・。その事に気付く事もなしに、彼らの自尊心を傷つけているのだろう。小さい彼らは何も言わないが小さい心にその事はしっかり刻みつけられるのだろう。 心しなくては。
ところで今夜は満月じゃないよね。
今日も仕事の前後は金子光晴だった。 自伝の「詩人」、エッセイ「どくろ杯」、マレー蘭印紀行、などからの抜粋を読む。
詩人のことは、写真で見るその風貌も表情も、また哀しさも、まるでずっといっしょに生きてきた父親のようによく分かる。 彼の弟子にあたる梅田智江氏が、金子さんの後ろ姿ほど寂しさを感じさせるものはなかったと言っておられるが、その後姿がわたしにも見えてくる。
昨日の日記で、わたしが泣いてしまったという詩は詩集「愛情69」(このタイトル、ちょっと過激だけれど)の中のその表題の詩だったが、その詩をまた味わって今日は眠りにつこう。しばらく一人だった寝室に今夜は相棒が戻ってきた、その安心と共に。
愛情69 金子光晴
僕の指先がひろひあげたのは 地面のうへの まがりくねった一本の川筋。
外輪蒸気船が遡る ミシシッピィのやうに 冒険の魅力にみちた その川すぢを 僕の目が 辿る。
落毛よ。季節をよそに 人のしらぬひまに ふるひ落とされた葉のように そっと、君からはなれたもの、
皺寄ったシーツの大雪原に ゆきくれながら、僕があつめる もとにはかへすよすがのない その一すぢを その二すぢを
ふきちらすにはしのびないのだ。 僕らが、どんなにいのちをかけて 愛しあつたか、しつていゐるのは この髭文字のほかには、ゐない。
必死に抱き合ったままのふたりが うへになり、したになり、ころがつて はてしもしらずすべりこんでいつた傾斜を、そのゆくはてを 落毛が、はなれて眺めてゐた。
やがてはほどかねばならぬ手や、足が 糸すぢのすきまもあらせじと、抱きしめてみても なほはなればなれなこころゆゑに 一層はげしく抱かねばならなかった、その顛末を。
落雷で崩れた宮観のやうに、 虚空に消えのこる、僕らのむなしい像。 僕も 君も たがひに追ひ、もつれるやうにして、ゐなくなったあとで、
落毛よ、君からぬけ落ちたばかりに 君の人生よりも、はるばるとあとまで生きながらへるであらう。それは しをりにしてはさんで、僕が忘れたままの 黙示録のなかごろの頁のかげに。
2008年01月29日(火) |
金子光晴の詩との出会い 「かっこう」 |
火曜日は朝から仕事なので、早朝より夜まで家でゆっくりする時はないのだが、今日は午前中のクラスが休みなので、朝遅くまでベッドの中にいた。 眠りからは7時には醒めていたのだが、同居人もいない。布団にはいったまま朝の読書というめったにない贅沢をさせていただいた。
で、何を読んだかと言えば、ちくま日本文学全集「金子光晴」 激しく心を揺すぶられるものがあり、涙が溢れた。 詩人73歳の時の詩集「愛情69」の中の詩に。
なぜこの詩人の詩を素通りしてきたのだろう。そして今頃になって初めて出会ったように泣いているのだろう。 すべてにのことに時があると考えるなら今この時がこの詩人に、その詩に出会う時という事なのだろう。 70代の詩人の詩が心に強く響くそんな年齢を迎えたという事なのだろう。
3月28日のコンサートの中で読む詩を金子光晴の「かっこう」という詩にしたのは、たまたまプログラムにあるパイプオルガンの曲が「かっこう」という曲だったからだ。かっこうの事を歌った詩がないものかと探していた時見つけた詩だった。 「かっこう」というその詩に打たれるものがあったので、この詩人の事をもっと知りたい、もっと別の詩を読みたいと思ったのが、きっかけだった。 こんなささいなきっかけが思いもかけない大きな出会いになりそうな予感がある。 そのきっかけになったかっこうという詩はこういうもの。
かっこう 金子光晴
しぐれた林の奥で かっこうがなく。
うすやみのむかうで こだまがこたへる。
すんなりした梢たちが しづかに霧のおりるのをきいてゐる。
その霧が、しずくになって枝から しとしとと落ちるのを。
霧煙りにつづいてゐる路で、 僕は、あゆみを止めてきく。 さびしいかっこうの声を。
みぢんからできた水の幕をへだてた 永遠のはてからきこえる 単調なそのくり返しを。
僕の短い生涯の ながい時間をふりかへる。 うとうとしかった愛情と うらぎりの多かった時を。
別れたこひびとたちも ばらばらになった友も みんな、この霧のなかに散って 霧のはてのどこかにゐるのだろう。
いまはもう、さがしようもない。 はてからはてへ みつみつとこめる霧。 とりかへせない淋しさだけが 非常なはやさで流されてゐる。
霧の大海のあっち、こっちで、 よびかはす心と心のやうに、 かっこうがないてゐる。 かっこうがないてゐる。・・・・・
2008年01月28日(月) |
<黒い森>のこととか「可愛い女」のこととか |
さて、今日は月曜日。 文学ゼミのある日はだいたい家に篭って、家事やその週のクラスの準備を済ませ、課題の読みや感想書きに集中するのだが、今日はゼミがないので、一日時間が空いた。月曜日の朝にジムへ行く事はないのだが、今日の月曜日は珍しくジムへ行く気になった。
今週末は同居人が宮崎に帰省しているので、土曜夜のラテンにも出なかったから今日ジムへ行かなければ、1週間空いてしまう。せっかくRMI(註1)の数値を22以下にしようと頑張っているのだし・・・。 ちなみに本日のRMIは21・96。 幸い、良いお天気。自転車こぎこぎ20分。これでもかなりの運動量。初めてやるシンプルステップ。名前の通りシンプルで適度な汗をかいた。二つ目はビランクスヨガ、ジムでのヨガは一ヶ月ぶり。インドの瞑想的な音楽が流れていてその中でアーサナ(ヨガのポーズの事)を取るのはずいぶん気分が良かった。今日の運動は行き帰りの自転車も入れて3時間というところか。
帰り道、うっかり本屋に立ち寄ったら、衝動買い。 一冊は週間日本百名山の創刊号<富士山 丹沢山>400円 付録に携帯できる山の地図がついているので実用的だ。今年は富士山に行けるかも・・・ ま、これは暮から創刊号が出たら買おうとは思っていたのだが、二つ目の本は予定外。<世界の車窓からDVDブック、ドイツ、南部黒い森、ローカル線の旅>1,470円。
黒い森、シュヴァルツヴァルトはヨーロッパの旅の中で一番印象的で、忘れられない土地。もう15年前になるだろうか。あの時は電車ではなくてレンタカーを借りてmGの運転でアウトバーンを走ったのだった。目的地のバイロンの修道院を探し、探し、その日の宿の予約も取っていない冒険じみた旅だった。 本屋でこの本を開くや、南ドイツの地図が目に入った。ドナウエッシンゲン!ドナウ河の源流があるところ。子ども達(当時10歳と8歳)とこの川で水遊びをしたのだった。その時地元の子ども達数人がそこで遊んでいて東洋人は見慣れないのだろう。不思議そうに我々を見ていた。身振り手振りで話した思い出はいまだに色あざやかだ。その後、バイロン修道院の夕方6時の晩祷に出た。というより、この修道院の修道士達の歌うグレゴリオ聖歌を聴くのが目的だったから、その時間を待って、ドナウ河や近くの赤い花(たぶんコクリコ)が咲く、草原で遊んだのだった。 あぁ、あの時のグレゴリオ聖歌はそれまでレコードで聴いてきた親しいものであったが、レコードの百倍は素晴らしかった!!
パリでも、フィレンチェでもミラノでもなく、あの小さな町にもう一度行きたい。立ち読みで地図を見ながら心はすでに旅をしていて、わたしはフラフラとその本をレジに持っていったのだった。 このDVD,実はまだ見ていない。一日のもろもろがすっかり終わってからと思っていたらまたまたこんな時間。
家に戻ってからはゼミのテキスト、チェーホフの「可愛い女」を3回に分けて朗読し、録音した。何箇所かつっかえたところがあるからアップするわけにはいかないけれど、そのお陰でかなり集中して読む事ができた。面白い作品だと思う。中学生の時に読んで感想文を書いたモーパッサンの「女の一生」がふと頭に浮かんだ。男次第でどうにでも人生が変わってゆくその主人公の女性を可愛いい女性だとは思うけれど、そういう生き方はしたくないと書き、シャーロット・ブロンテ(だったかな?)の描く、ジェーン・エアと対比した。そして女の一生の主人公はは男性だから描け、一方、ジェーン・エアは女性だから描けた女性なのではないかとませた事を書いた。あの時はそんな気がするほどの事だったが、それは真実だと思う。女は子どもでもこういう事には敏感なのだ。
そんな昔読んだ本の事を思い出したのは、何か同質なものをチェーホフの作品に感じたからだ。 これは紛れもなく真実なひとつの女性の典型を照らし出している。確かに、彼女は可愛い。善良でひたむきで人を愛する事で生き生きと生きる事ができる愛すべき女性だ。チェーホフの言うように男からも女からも「可愛い女」と呼ばれるに値する女性なのだろう。けれどもわたしは同じ女として同じエッセンスがわたしの内にも流れているからこそ、どこかでそれを遠ざけたい、見ないでおきたいと思う。 「可愛い女」と言われたくはない、みたいなへそ曲がり根性が顔を出す。
さて、またまたこんな時間。30分だけ<黒い森>への旅へ出かけるとしよう。白ワインは一人ですっかり飲んじゃったから梅酒を飲みながら・・・。
註1
BMI(Body mass index)は、身長の二乗に対する体重の比で体格を表す指数です。 BMI=体重kg/(身長m)2 このBMIが男女とも22の時に高血圧、高脂血症、肝障害、耐糖能障害等の有病率が最も低くなるということがわかってきました。 そこでBMI=22となる体重を理想としたのが標準体重です。 標準体重=22×(身長m)2
と、これからするならBMI22をキープするのが理想なのでしょうが BMI22というのはち太めです。病気はしたくないけれど、何とか21くらいを目標にしたいところです。
今日も日記らしい日記を書く気分。 あまり私的な事をここに書くのはよそうと思った事もあったが、せっかく何にも囚われない、自由に書くという立場が与えられているのだから、その事に感謝して気分の赴くままに書いていくとしよう。
朝9時半より教会学校。今日はひとりでオルガンと司会とお話をまとめて担当。聖書の箇所は荒野でのイエスと悪魔の対決の場面。イエスの役と悪魔の役を迫真(?)の演技で演じる。
だいたい子ども達は闘いだの、対決が好きだから、目が輝いている。けれども一番受けたのが、わたしの山登りの話だった。いったいイエスが40日間断食した後、悪魔と対決した荒野とはどういう場所なのだろうと、そのイメージを子ども達に喚起するために、高千穂峰に一人で登った時の事、その火山口の荒涼とした風景について話した。すると子ども達から「あ、天孫降臨!」とか「天の逆鉾だ!」と声が上がる。 「ええっ、どうしてそんな事知ってるの〜」と驚くのはわたしの方。だいたい、わたしは「天の逆鉾」の事は山を降りてからガイドブックを見直して知ったというお粗末さ。 「テレビでやってたよ〜」 そうか、わたしはめったにテレビを見ない。そんな番組があったのか・・・ それにしても子ども達の情報をキャッチする力は見事なものだ。
しかし、話題がしきりに「天の逆鉾」に向かう。まずい、教会学校で天孫降臨の話はないだろう。そこで、子ども達の質問をかわし、悪魔とイエスに話を持っていったのだが、それでもあきらめきれない子がいて、ネットで調べるからその逆さに剣が刺さっている山の名前を書いてくれと紙を差し出す。もう、こういう事には熱心なんだから〜と苦笑しつつ「高千穂峰(たかちほのみね)」と書いてやる。牧師の子のTくんはすぐにパソコンで検索して画像を手に入れたらしい。 「ほんとに山の頂上に剣が刺さってた!」と報告してくれた。
礼拝では聖書朗読。礼拝の後、一年に一回の教会総会。この一年の活動報告や会計報告があり、新年度の活動計画や予算案が決められ、新しい年度の役員や様々な役割が決まる。 で、わたしの役は教会学校の責任者。つまり校長センセイ。全くそんな柄じゃあないのだが、今まで校長を務められた方が高齢で他にも大切な役目を担われているので、次に古株のわたしが引き継がないわけにはいかなくなった。 決まったからにはやらなくちゃ。なかなか行けなかった遊山倶楽部の山行きはますます遠い夢となってしまうが、しかたない。リタイヤまでの数年間、社会的な働きをする時期を迎えているのだろう。保育園の代表理事もしかり。
たっぷり仕事した後のお酒がおいしいようにしっかり仕事した後のリタイヤは心地よいものかもしれない。さてわたしのリタイヤは何歳なのだろう。小学校の教員をしていた母は55歳で早期退職し、ようやく長年の仕事から解放された。そこでわたしも55歳までとどこかで思っていたのだが、そうもいかないようだ。有給の仕事も無給の仕事も後8年はがんばるか。この4月から入ってくる4歳児が小学校を卒業するまでだな。
と、こんな長期計画を漠然と考えながらも、一人暮らしの親達の状況が急変すれば、何もかもうっちゃって故郷に帰らなくてはならない事態もありうるともう一方の頭は考えている。 先の事は分からない。ともかく、この一年の事を考えて4月からの方針や計画を立てるべし。
教会の帰り、閉館間際の図書館で金子光晴の詩集や著作集、詩人について書かれた本などザックに詰めるだけ借りて来る。 さて、これから30分くらいは読書に当てるとしよう。
深夜1時20分。明日の朝は早いから1時30分には寝なくては。 そこで10分だけここに。
買い物を兼ねて近くのショッピングモールまで散歩。 スーパーとツタヤとダイソーへ立ち寄る。
家に戻って昼食。スパゲッティーが食べたくなって、そうするとワインも飲みたくなって、グラス1杯のワインと共に。 ところが困った。顔が真っ赤になってしまって酔っ払い状態。 仕事ではないけれど、今日は3時から子ども達集めてのカルタ大会。 わたしはだいたいアルコールに弱い。とりわけワイン。
何とか3時には顔の赤みも引き、ほっ。 お出かけの子が多く、集まったのは小2から小4までの5人のみ。それでも英語カルタと百人一首を楽しんだ。5人のうち4人は百人一首は初めてという事だった。2回目は慣れてきたのか、すばやく取れるようになった。わたしも久し振りに読んで楽しかった。でも200首読み上げたわけで、よく声を出したもんだ。 スナックタイムも入れてちょうど1時間半。
そのすぐ後、つくしんぼ保育園のママやパパたちと公演会の時に手渡すおみやげ作り。久し振りに折り紙を折る。節分なので、鬼と福と角箱の折り紙と大豆の小袋を1セットにして。
夜、Wiifit1時間ほど。 明日の聖書朗読と教会学校のお話の準備。 さて、1時30分を過ぎてしまった。 おやすみなさい。
2008年01月25日(金) |
一日のこと、Tさん風に |
文学ゼミのTさんが、ゼミの掲示板に毎日その日の生活の有り様を詳しく書いておられる。やったこと、食べたもの、聴いた音楽、掃除の事なんかも。自分とは違う人の生活の様子を読むのはおもしろいものだと思う。
今日はTさん風に一日の事を、その事柄だけをすっかり書いてみるのはどうだろうと思った。
朝7時起床。「グッド大宮」の「田舎パン」(最近はここのパンしか食べなくなった。天然酵母のとてもおいしいパン)をかりっとトーストしたものにKiriのクリームチーズと栗とバニラのジャムをつけて。このジャムは初めての味。イグレック・プリュスというブランドのもので、弟の家からのクリスマスプレゼントの小包に入っていた。ここのあんずのジャムもおいしかった。
コーヒーはネスプレッソというコーヒーメーカーで作るエスプレッソに泡立てた暖かいミルクを入れて、カプチーノ。 このコーヒーメーカーは長男Hがクリスマスのプレゼントに送ってよこしたもの。カプセルに入った16種類だかの豆は別売りで一杯70円と安くはないが、この手軽さと香りの高さにすっかりハマってしまって、1日に2杯は飲んでいる。同居人はカフェインがだめで、そのためモーニングコーヒーも飲めなかったのだが、有り難い事にこのネスプレッソのカプセルには3種類のデカフェがある。それでいっしょにコーヒーが飲める!
10時前、つくしんぼ保育園へ。 彩の子ネットのSさんと会うため。無認可保育園の認可へ持っていくためのアドバイスや、子育て支援のネットワークについての情報をいただく事ができて良かった。もっと町の行政に関心を持って、積極的に関わっていかなくてはと思った。 まずは行動。3月の子どものフェスティバルには英語の手遊びや歌遊びで参加させていただこうと考えている。明日、計画書を作ってファックスする予定。
11時過ぎ、つくしんぼの10周年記念の田楽座公演のチラシをポスティング。 家から歩いて配れるほどの近隣なのだが、通った事のない道や、見た事のない表札が多いのに驚く。いかにわたしが地域に住む人達に関心を持っていないか、関わろうとしてこなかったかという証拠だと思った。反省。今年と来年は自治会の副会長という立場なのに・・・。
昼食はフルーツミューズリーとわたしが呼ぶ健康食。ほんとはこれは朝に食べているのだが、今朝はあまりに寒くて、冷たいものを口にする気がしなかったので、昼食と朝食を入れ替えたのだ。 今日のフルーツはバナナと柿、この柿は母が送ってくれた福岡の富有柿。 これに自家製のカスピ海ヨーグルトをかけ、ミューズリーを加えて食べる。 意外にも柿とヨーグルトの相性はいい。 そういえば、このフルーツミューズリーヨーグルト、ほぼ毎朝、この日記を始めたくらいからずっと続いている。もう6年経つかしら。 飲み物はハーブティーのジンジャーブレッドスパイス入り。これもクリスマスの残り。
午後から朗読の練習。3月28日のコンサートのものを中心に。金子光晴の「かっこう」という詩、読むほどに好きになる。他の詩も読みたいから日曜日の教会の帰りに図書館へ行って借りてこよう。 レギーネ・シントラーの「聖書物語」(福音館書店)の大きくずっしりした絵本を初めから声に出して読み始めた。この本の中から二つの話を朗読するのだが、初めから終わりまで通読はしておきたい。しかし、ずいぶん時間はかかりそう。今日は17ページまで。 レギーネ・シントラーの絵はすばらしい。わたしの好きなルオーやシャガールにも通じる宗教性がある、土の匂いのする絵。
うっかりしていたもう4時半だ。今日はmGの帰りが早い。 洗濯物を取り入れ食事の支度にかかる。夕飯は鰻の炊き込みご飯と大根と昆布の煮物。北海道の知人から送られてきたおいしい煮昆布を料理したいと思っていた。大根の他にこんにゃくと油揚げも入れてみる。 この煮物を酒の肴にしたいところだが、今夜は夕食をさっと済ませ、ジムに行く事になっているので、珍しくアルコール無しの夕食。 5時半にmGが帰宅。ちょうど夕食の支度もできたところ。 ジムへ行き、30分くらい走って汗を出した後、1時間くらいお風呂。これはわたしの場合。
9時前に家に戻り、夜の仕事は生協の注文書き。最近はネットで注文しているからパソコンの前に。 10時過ぎ、Wiifitの操作の仕方を習う。この運動をするゲーム(?)は今年の我々のクリスマスプレゼントという事で買ったしろもの。ゲームとか機械は弱いので、同居人がやる時にしかわたしも使っていなかったが、彼は明日から宮崎の実家に帰省するので、わたしが一人でも運動(?)できるようにということで。大丈夫でしょう。ただやるかどうかは分からない。ヨガや筋トレ、燃焼系の運動もこれを使ってやれるし、データーや体重なども細かく出てくるから便利なのだけれど。
さて、こんなところかな。一日の生活を記録するってなかなか大変だ。 わたしはとても毎日はできそうにないな。 さて1時15分。明日は同居人の飛行機が早い便なので6時起き。 さ、寝よ。 ようやく、おやすみなさい。
子どもの頃、よく百人一首をしていた。 父か母が独特の節をつけて朗々と、読みふだを読み上げ、それを残りの者が取るのだが、わたしも弟も何枚かは覚えているものがあって、競い合って取っていた。歌を覚えている親達がさっさと札を取ると、こども達は悔しく、今度は新しく覚えて、勝ってやろうと目標を定めるのだった。 小学生の頃は、歌の意味はまったく分からず、富士とか雪とか鹿とか、知っている言葉の入っている歌を選んで覚えていた。それでも、外国語のように聞きなれない響きがあり、ふつうのカルタよりはよほど面白かった。
ところが中学生なって、百人一首の本を買い、歌の注釈を読んでみると、何とほとんどが色っぽい大人の世界の事ではないか。なんだか親といっしょにそんな恋の歌でカルタ遊びをしていた事が急に恥ずかしくなってしまった。その一方で、恋愛の歌の札だけを取り出し、繰り返し読んでは覚えた。当然、その色っぽい世界の事を心に描きながら覚えるのだから、相当にませた中学生だった。 恋の歌はすっかり覚えてしまったから、それでは季節を歌った歌をと覚え始めたものの、こちらは少しもおもしろくなくて覚える気にならなかった。興味がないものは覚えられないものなのだ。
今、英語学校で、シニアクラスのおじいちゃま相手に百人一首を英語の詩に翻訳したものをテキストに、毎週ひとつづつ読み味わっているのだが、こちらでは自然と色っぽい歌はあまり選ばない。お陰で、中学生の時に覚えそこなった歌にも次第に馴染んで、その世界も味わえるようになった。
そんなこんなで百人一首には子ども時代から今に至るまで、思い入れのようなものがあるので、英語クラスにやってくる小学生達と、一年に一度は百人一首をやりたいと思っている。 去年は6年生のクリスマス会の時にやったのだが、なかなか好評だったので、今年は3年生から6年生の子ども達にカルタ大会の案内を出した。それが今週の土曜日なので、「土曜日、カルタ大会だからね」と声をかけたのだが、どうやら男の子達は興味がなさそうな様子。いったい何人集まるかは分からないが、久し振りのカルタ、わたしは楽しみにしている。
ところで歌の意味は教えるか、どうするか・・・教えたところで大人の恋心は彼らにとってはちんぷんかんぷんに違いないから、ここは音の響きだけで楽しんでもらう事にしよう。 「意味はそのうち、中学校や高校で教えてもらえるから、その時までお楽しみに!」と言っておこう。今は分からない秘密を内に秘めた言葉に触れることも楽しい事ではないかと思うのだが、どうだろう。
今日、昭和さんの日記に筒井康隆の『裏小倉』の事が書いてあって、爆笑してしまった。昭和さんの日記にあるように、元歌を知っていると確かに可笑しい。 「基本を勉強しておくと楽しみが増える」その通り。 わたしは一人でこっそり百人一首の恋の歌を覚えたりしたけれど、中学生の時に、授業できちんと歌の意味も教えてくれるような国語の教師に出会えていれば良かったのにと思ったことだった。
2008年01月21日(月) |
木津直人詩集「記憶祭」によせて |
今日は正津勉文学ゼミの日だ。 テキストは木津直人詩集「記憶祭」。 ここ数日間、20篇の詩を繰り返し朗読してきた。 声に出して読むことで、薄皮を剥ぐように僅かずつでもその作品の内部に入ってゆくことができる事を最近知ったからだ。自分の声がその作品の深さまで降りていっていない時、あるいは違った解釈をしている時、録音したものを聴くと良く分かる。 朗読は難しいが、とりわけ詩は難しいと思った。
木津直人詩集「記憶祭」によせて
たりたくみ
この詩集に4年前に出会った時、強い衝撃があった。 詩や文学、そういう視点からではなく、心理学的に。 わたし自身の中に存在するインナーチャイルドが強く反応した。子どもしか持ち得ない、子どもだから持ってしまう痛みや虚無や不安を、わたしはその詩の中の少年と共有した。 その時、大人のわたしの中に押し込められて言葉を見つけられなかったインナーチャイルドが自分の言葉を見つけられそうな予感を持ってしきりにわたしを突くのだった。 <コトバ、コトバ、コトバガアルナラ、コノショウネンノヨウニ、デテクルコトガデキル・> わたしはその心の動きのようなものを確か木津さんにメールでお伝えしたと思う。 けれども怠惰なわたしはせっかく動き始めたインナーチャイルドの声にいつか無関心になってしまった。いえ、怖かったのかもしれない。そこから何がでてくるかが。忘れようとしている子どもの頃の痛さを思いだす事から逃げ出したのだ。まだ準備ができていなかったのだろうか、それとも、もうその必要が無くなってしまったのだろうか。最近は子どもの頃の夢をさっぱり見なくなった。それはまたどういう事なのだろう。
今回、この詩集をわたしは声に出して繰り返し読んだ。最近はそうすることがわたしにとって最も作品の内側へと入ってゆく良い方法だと思っているからだ。最初に読んだ時と印象は変化していた。同じような子どもを見つけたと、あの時は共感しか感じ取れなかったが、今度はわたしのインナーチャイルドさえも入って行くことのできない、見知らぬ少年が見えてきた。透き通った固く厚いガラスの中に少年の姿が見える。そしてその少年は別に誰も内側へ入ってきてほしくないのだとそんな気がした。完結した孤独、よりかからずそれ自体で立っていることのできる孤独が少年と共にあると。
この詩は声にするのが難しい。ずいぶん深いひそやかな部分から汲み上げられている削がれた言葉なので、わたしの発するどのトーンもそこまでは降りてゆけない。 いつか、これらの詩を、その世界を損なう事なく声に現すことができたらと思う。
2008年1月21日
ここに書かないうちに様々な出来事があった。 宮崎でひとり暮らしをしている義母が脳梗塞で入院した。どうなる事かと気をもんだが大事には至らず、手術の必要もないという事でまずは安心した。義姉が仕事を休んですぐに夜行で駆けつけた。二週間ほどの入院になりそうだ。この週末、また様子を見に帰ってくれるという。義母の息子であるところの同居人は、退院の時に宮崎へ飛ぶ事にしている。
親と離れて暮らす事がそれほど特別の事とは思ってなかったけれど、こういう事があると、この遠さが恨めしい。 いよいよ始まるか遠距離介護。 航空会社がやっている遠距離介護割引に登録しようとしている。
山には出かけるものの、都会にはあまり足を向けないわたしだが、Mさんの案内で、原宿教会
Mさんはパイプオルガン奏者だが、彼女のオルガンとわたしの朗読でコンサート<マグラダのマリアをテーマにしたもの>をしないかと有り難いオファーをくださった。 会場は原宿教会というので、会場の下見と彼女のオルガンを聴かせてもらう目的で出かけたのだった。 斬新なデザインの明るく美しい教会だった。
3月28日、この礼拝堂で朗読する・・・ プロのオルガン奏者と声楽家と共に・・・
身が引き締まる。 その世界がきちん表現できるように、これから読みを深めていこう。徹底的に。また言葉を声に出すということ、耳で聞く言葉というものに、もっと真摯に心を留めていこうと、そんな事を考えながら帰りの電車の中でもテキストを読んでいた。
詳しい案内は後日。 今日、1月6日の山行日記をアップ。
1月5日の日記に高千穂峰の写真をアップした。 詳しい山行の日記は今日のところは時間切れで書くことができなかった。 短いコメントのみ。
午後から英語学校で2クラス。シニアクラスで老人向けの雑誌の取材あり。 記者の女性はクラスを見学しながら写真を撮ったり、メモを取ったりしていたが、どのような記事になるのだろう。 時間切れ。寝なくては。
昨夜遅く、九州から戻ってきた。 25日に大分へ行ってから、2週間あまり家を空けていたので、昨日は降り立った駅にも自分の家の中にも妙な感覚があった。
実際、家を出る前日の葬儀の白い菊はまだ白いままテーブルの花瓶に残っていたし、クリスマスの飾りもそのままだった。そしてカレンダーも12月。 そうか、この家にはまだ新年が来ていないのだ。
実家の大掃除はしたものの、我が家の大掃除はしないままに出かけてしまった。あの年が改まる時の澄み切ったような清々しさが訪れる事のないまま「去年」があそこ、ここに残っている。
今日は午前中、旅の荷を解き掃除をし、長男がクリスマスプレゼントに送ってくれた「ネスプレッソ」というえらく物々しいコーヒーメーカーを使ってみた。かなり本格的なエスプレッソが飲める。カプチーノも美味しかった。 別売りのカプセルは少々値が張るが、このコーヒーを味わう時の充実感には嬉しいものがある。
冷蔵庫に残っている豆や野菜をたくさん使ったミネストローネを鍋いっぱい煮てから午後の仕事にでかける。 3時から8時半まで、ぶっ続けにクラス。5時間半か。そういえば、一昨日、は5時間ずっと山の中を歩き続けたのだった。 5日に高千穂峰に登り、6日は眼の前に高千穂峰を見ながら、中岳、新燃岳、獅子戸岳と縦走した。 この冬念願の霧島山を歩いた事は年の始まりに相応しい得難い体験だったように思う。明日、この事を遡って書く事にしよう。
2008年01月06日(日) |
中岳、新燃岳、獅子戸岳へ縦走 |
二日目、今日こそはなんとか韓国岳に登りたいと霧島温泉駅でえびの行きのバスを待った。朝から林田バスに電話をするものの、繋がらない。JRの駅員さんは昨日から天気もいいし、今日はバスは行くでしょうと期待を持たせてくれる。 しかしやってきたバスは今日も手前の高千穂河原までしか行かないと言う。 乗客は昨日もわたしの他に3人だったが、今日も3人。これほどの乗客ではすでに赤字、その上チェーンまで巻いて登山口まで連れて行く気はないのだろう。しかたない。昨夜地図を見ながら作戦を立てていた通り、今日は高千穂河原から中岳、新燃岳、獅子戸岳へと縦走し、同じルートを戻ってこよう。そうすれば、11時から登り始めてちょうど午後4時のバスに間に合うはずだ。 それにしても無念。韓国岳は、獅子戸岳からは目と鼻の先。もし、えびの高原から戻ってこれるバスがあるなら充分韓国岳までの縦走ができるのに。
バスの中ではがっかりしたものの、この日の登山は文字どおり筆舌に尽くせないほど素晴らしいものだった。あまりによくて泣けた。 行きは目の前に現れる景色の美しさに泣き、途中では火山の淵に立った一人で立っている事の恐ろしさに泣き(ほとんど人がいなかった)、帰りはずっと側でわたしを見守ってくれていた昨日登った高千穂峰と分かれるせつなさに泣いた。 あきれるほどエモーショナルな山行ではあった。
今度宮崎に帰省する時にはきっとまた来よう。今度は同じルートを通って韓国岳まで縦走し、その付近の山や池も隈なく歩いてみたい。
< 中岳へ向かう途中、おそろしく見晴らしの良い場所に出て絶句! 青い幾層もの山の向こう、雲に頭を出しているのは遠く桜島、小さく開聞岳、そして大隈半島の山々だった。写真でそれをとらえる事ができなかったのは残念>
<中岳のすばらしさは、その見晴らしの良さだろう。昨日昇った高千穂の峰が堂々とすぐ脇に見える。この山を眺めながらというより見守られながら、山を越え、また戻ってきたのだった。>
<新燃岳はゆるやかなカーブを登っていく穏やかな山だったが、山頂に着いてみると、ダイナミックな火口がそこにあった。エメラルド色の水の不思議さ>
今回の山は霧島山の最高峰、韓国岳に登る事が目的だった。ところが、登山口になるえびの高原までの道路が凍結していて、バスはそのずっと手前の高千穂河原までしか行かない事が分かった。 その事が分かったのは1時間も朝の霧島神宮駅で登山バスを待った後だった。 さてどうしよう。翌日に高千穂峰に登る予定で下調べもしていたので、高千穂河原が登山口になっている高千穂峰に登る事にした。
ところが良かったのだ。この山。何をどう表現すれば言葉が見つからないのだが、言ってみれば、山から働きかけられたのである。 深い感動があった。 この山を歩く間中、心が燃えていた。
2008年、新しい年になった。 年末の25日から29日までを大分のわたしの実家で過ごし、その後宮崎の夫の実家で過ごしている。
わたしの実家では独り暮らしの母が溜め込んでしまった不用品やゴミの類いを片付け、弟の家族が正月に帰省して来るのに備える。いくつになっても長女へのわたしへの期待は変わらず、わたしの役割も変わらない。この暮れの大掃除を終え、母から気持ちが軽くなったと感謝されれば、一年分の親不孝の埋め合わせには至らないまでも、母以上に気持ちはすっきりとするのである。
そして同じ事は夫の実家にも言える。義母は全面的に義姉を頼り、義姉は何くれとなく義母を気遣い助けている。わたしはせいぜい義姉を手伝い、台所仕事をするくらいで、いわゆる嫁の大変さはない。また義姉とは気も合うので、昼はいっしょに走ったり、夜は宴会したりとここで過ごすのは楽しい。
こうして平和に年末年始を過ごす事ができて有難いが、一年ごとに老いていく親達を見ながら、これから始まる一年が親達にとってはどういうものになるのか、わたし達にはどのような展開が訪れるのか予測のできない不安も覚える。そして何とかこの一年も健康が支えられ、つつがなくすごさせていただきたいと願う。
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