たりたの日記
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2001年12月31日(月) 大晦日の台所

大晦日は一年に一度朝から夕方まで台所に立ちっぱなしで過ごす日だ。
めんどうだなあ、デパートから豪華版のおせちを買ったり、暮れからお正月にかけてどこかに泊って上げ膳下げ膳のお正月をしてみたいなあと思う。私さえその気になれば、家族のものは誰も文句を言わないだろうし、むしろ「そうそう、それがいい。」と喜ぶくらいのものだ。そう思いながらこうやって1日がかりでおせちを作るのはやはりそれが好きなんだろう。昆布やかつお節の煮立つ時の匂いや紅白なますの美しい色、ぱあっと広がるゆずの香り、そういった食材との関わり合いが好きなんだと自覚する。これまではそういうことに気が付かないでいたような気がする。楽しむ心のゆとりがなかったのだろう。

一番大変な野菜の下準備は家族の助けを頼む。夫と次男が野菜を洗い、皮を剥く。私は煮物用、なます用、飾り用と野菜を切り分ける。野菜の下準備が終わったところで大きな鍋にたっぷりと水をはり、昆布とかつお節でだしを作る。このだしは煮物、なます、年越しそば、お雑煮と大活躍するのである。ちなみに私は日常的には味噌汁も煮物も粉末だしのお世話になっている。味は歴然と違うものの、家族のメンバーの味覚はあまり敏感ではなく、何でもおいしいといってくれるからどうせ分からないのならと簡単な粉末だしを使うことになってしまう。

まずはなます。細く切った大根とにんじんを3パーセントの塩水にだし昆布を入れたものにしばらく漬け込み、一時間ほど置いたところで軽く絞って、酢と砂糖と出汁を加えきざんだゆずを混ぜ込む。今年は体に良いといわれる黒酢を使ってみた。砂糖も三温糖。料理の本によれば2日目から食べると書いてある。そういえば、なますと黒豆は30日に作っていたのに今年はうっかりしていた。

次は豚の角煮。圧力鍋があるのでやわらかな角煮が簡単にできる。ねぎとしょうがをいれた水に三枚肉の固まりを1キロ分入れて圧力鍋にかける。おもりが回りはじめて30分煮ると脂肪がすっかり煮解けて、肉はくずれるほど柔らかくなる。再度圧力鍋に戻し、醤油、みりん、酒、煮汁を加え、10分煮る。その後蓋を空け煮汁がとんでとろっとした煮汁が肉にかからまるようになったところで火を止める。
煮汁は冷めると脂肪が白く固まるのでそれを除くとよいスープになる。いつも使いそびれてしまうので今年はさっさと冷凍してしまった。

おせちの定番の煮物、我が家は筑前煮だ。私の両親の出身地の佐賀の郷土料理筑前煮だが、母は作ったことはなかった。母の煮物は祖母がやっていた通りにまず鯛を煮て鯛を引き上げた後、えび、しいたけ、大根、ごぼう、れんこん、里芋、人参、たけのこ、こんにゃくなどを調味料を足しながら一種類づつ順番に煮ていくというもの。紅白歌合戦が始まっても煮物は延々と続いていた。はじめのうちはこのやり方で一品づつ煮ていたけれど、これは果てしなく時間がかかり、疲れてしまう。その割に子どもも夫もそんなに食べてはくれない。いつのまにか母の煮物のやり方をやめて本に載っていた筑前煮を作るようになった。鶏肉、干ししいたけ、たけのこ、人参、ごぼう、れんこん、こんにゃくを大きな無水鍋で炒り煮にし甘辛いたれで煮からめる。油を使うのでこってりとした味で子ども達も比較的良く食べる。それにしても4人家族だというのに大きな鍋いっぱいに作るのでいつも最後まで食べ切れなくて残ってしまう。今年はおせちに飽きた頃、カレーを作ってその中に残った筑前煮を入れて正月カレーという新メニューにしようと密かにたくらんでいる。
カレーの中に家族が食べなくて残って困るものを入れるのだがそれが思いがけなくヒットすることがある。たとえば熟して柔らかくなりすぎた柿。わざわざそのために買ってきたいほど柿入りのカレーはおいしかった。使いみちに困った大根葉を小さく刻んでキマカレーに混ぜこんで煮たものもおいしく、体にいいという感じがした。

昨日のうちに黒豆とかずのこは作っていたので松前漬を漬け込むと今日計画していた調理は早々と終わってしまった。まだ時間がある。予定してはいなかったが暮れに鹿児島に住む叔父が送ってくれていたさつま芋と紫芋できんとんを作ろうと思い立った。みりんで甘く練り上げたものより、砂糖を控えた茶巾絞りの方が良いだろう。芋を別々に茹でて砂糖と塩を加えハンドミキサーでクリーム状にする。紫芋は一本しかないがかなり濃い紫色なのでふつうのさつまいも2本分と混ぜ合わせるときれいな薄紫色になり量も増えた。黄色のきんとんと紫色のきんとんを半分づつ合わせ茶巾代わりのサランラップで絞ると模様入りの茶巾絞りがたくさんできた。さて誰が食べるかが問題ではあるが正月らしい楽しい一品ではある。

一年の最後の日記が食べ物のことで終始してしまったがこれで今年の日記をお終いにしよう。


2001年12月30日(日) 大掃除

日々小掃除をまめにやっていれば大掃除なんて必要ないはずだ。それをやらないでいて見てみぬ振りをしているからもう少しで今年が終わるというところにきてなんだかあせってしまう。

小さい頃、私の家は日本の伝統的な風俗習慣からは程遠い暮らしをしていたのに、どういうわけか正月だけは様々な決まりごとがあった。大掃除を済ませて見違えるように清々しく片付いた部屋に、母はお供えのおもちをあちらこちらに飾り手を合わせ、その後、花器の前に座り新聞紙の上に松や菊を並べ、神妙な顔付きで花を生けるのだった。私たちが紅白歌合戦を見る間、母だけ台所に立っていつまでも煮物などを作っていた。父や子ども達のくつろいだ気分と対象的に正月を迎える母には何か近寄りがたい厳しさのようなものがあった。主婦にとって正月とは何と大変なものだろうと私は遠い将来の自分の姿をそこに重ね合わせて、そんな日が来るのはあまり有り難くないなと思ったことだった。そして我が家の決まりことといってもいいくらい、31日の夜には父の機嫌が悪くなり、時には火山の噴火のごとく爆発が起こることもあった。それもこれも非日常の儀式を執り行おうとする緊張が親たちの中にあったからなのだろう。

そんな儀式めいた正月の準備が私の体の中に否応無しに残っているのだろう。全くの掃除嫌い、掃除下手な私がぞうきんを握り締め、すぐに休憩を取りたがる息子どもに罵声をあびせつつ、ぴりぴりと働くのである。彼らにしてみれば、日頃ほおっておいたことをなぜ今日は許せないと顔を険しくしているのだろうと思っているのだろう。それでも部屋の掃除をしなければ小遣いは渡さないと脅されて、なんとか
きれいにしたようだった。

午後、教会から帰ってきた夫と交代で長男は出かけ、次男はきれいになった自分の部屋にひっこんだ。2階からごとごとと物音がするのは夫が自分のテリトリーの掃除をしているのだ。家中に黒豆を煮る匂いが立ち込めている。正月用の花が生けられるばかりになってテーブルの上に用意されている。我が家はお供えのおもちは飾らないけれど、普段と違うぴりりとした空気は子どもの頃のものと同じだ。


2001年12月28日(金) 年賀状

結婚した当初から8年間くらいは年賀状はもっぱら私の担当だった。12月に入ると年賀状のデザインを考え、手描きの原稿を作り、プリントゴッコで印刷をした。版を2枚、3枚と作り多色刷りの手の込んだものもあったし、それぞれの家族の似顔絵のデザインのシリーズもあった。狭い部屋中に印刷したての葉書をずらりと並べてともかく年賀状は暮れ一番の大仕事だったのだ。

アメリカにいた4年間は年賀状の作成は止め、クリスマスカードを送った。美しいカードが一箱に30枚くらい入っているものが5ドルから10ドルくらいで買えた
のでシーズンの度に何箱か買って、もう手作りする必要もなかった。クリスマスカードはそのままクリスマスのデコレーションとなるようで、どこの家も工夫してドアや壁に飾っていた。日本の年賀状がこのクリスマスカードに由来しているということを聞いたことがあるが、クリスマスカードは葉書に印刷されてあるシンプルな日本の年賀状とは随分赴きを異にするものだと思った。すっかり年賀状がクリスマスカードに取って変わっていたが帰国して日本でお正月を迎えるようになるとそれまでどうでもよかった年賀状が「必要」なものにと変わり、クリスマスカードは毎年来るのも出すのも少なくなってきている。

さてかつては私の仕事だった年賀状がコンピューターの導入と共に夫の仕事となった。夫は最初のうちはデジカメでそれぞれの顔写真を撮り、言葉といっしょにレイアウトしたものを毎年作っていたが、当然のことながら子ども達が自分達の顔を年賀状に載せることを嫌がるようになり、そうすると年賀状のデザイン集から良いと思うものを選んで組み合わせるというものに移行した。しかし、ここの場面でなかなかぴったりするものがなく、このあたりから私は不機嫌さが募ってくる。当たり障りのない、無難なデザインのものを夫が選ぶのが気に入らない。夫は夫で私の選ぶ絵柄が気に入らない。喧嘩のあげく、別々のデザインのものにする。差し出し人がそれぞれの知人や関係もものであればそれで問題ないのだが、親戚や共通の友人ともなれば、どちらの葉書を連名で出すかで悩むことになる。

今年は我が家にスキャナーという文明の利器が導入されているので、デザイン集に頼らなくてもオリジナルの葉書を作ることができるというもの。画用紙とパステルを取り出し、好きな3つの色を取り出し、しゅっ、しゅっ、しゅーっと3秒でデザイン画とおぼしきものを描き、ささっと文字を入れる。何にも考えないで手が動くままに描くという私の得意技はしかし万人受けするものではないようで、夫は「この色付きのなめくじは何なの。」と価値を認めてくれる気配はない。私的には自分らしさがあってデザイン集からそれらしい絵をいただくよりも気分がいいんだけれど。夫は完成度が低いと主張する。完成度ってなんなの。オリジナリティーの方が大切じゃあない。へたでもいいんだという私流は大抵の場合認めてくれるものの年賀状には彼なりのポリシーがあるようだ。それでも夫は私の名前だけ入れた色つきなめくじの年賀状を必要な枚数だけプリントしてくれた。そして我が家の公式な年賀状には馬の絵が描かれている年賀状を自分で作った。

さてさてすったもんだのあげく、例年通り喧嘩のひとつやふたつをおまけに付けて今年も無事年賀状書きが終わった。


2001年12月26日(水) 忘年旅行

その昔、教員をしていたころ暮れに泊りがけの忘年会というのがあった。新卒の頃だったし、先輩の先生方との飲み会は苦手だった。やはり教員をしていた母はクリスマスイブがこの泊りがけ忘年会で、私は家族のためにクリスマスイブの食事を用意しながら、この忘年会を恨めしく思っていた。忘年会にあまり良い思いではない。専業主婦となってからはこうした宴会ともすっかり縁がなくなってしまった。

子育てを中心に1日が回り、1年が過ぎ、クリスマスの後は年賀状に大掃除、正月の準備と追い立てられるように年の暮れを過ごしてきた。しかし、そんな時期がそうやら新しいステージに移行してきたようだ。この暮れの忙しい中、年賀状も大掃除も後回しにし、夫と箱根へ出かけた。忘年旅行ということにしよう。温泉に入るというだけの予定なので朝は洗濯などもし、ゆっくり出かける。幸い高2の次男はバスケット部の合宿中だし、長男は大学生になってから夕食も家で食べないことが多いから子ども達の心配はない。会社の契約保養所のホテルに宿泊すれば、宿泊費は随分安いし、平日は予約が取れやすい。夫の提案で急に思い立ったことだったがこんなうまい具合に行くこともあるもんだ。仕事を残してきたものの家から出て走る車に乗っていると開放感に包まれる。箱根に向う車の正面に真っ白な富士山が美しかった。夫からのクリスマスにもらったチェリーピンクのセーターに友達の0さんからのクリスマスプレゼントのワイン色のアニマル柄のスカーフを合わせると華やかな感じになって気持ちも晴れ晴れとしている。

さて車の中でおにぎりとバナナケーキの昼食を取り、午後2時近くに箱根ホテル小涌園に着くとさっそく温泉へ。ここは森の中の静かなホテルで、離れにある温泉は
ガラス越しに林があり、露天はまさに木々に囲まれていた。サウナに入っていると後から入ってきた方がににこりと微笑まれた。この土地の習慣かしらと思って、「林がきれいですね。」と話しかけると"I don't speak Japanese."と帰ってきた。どうりでにっこりと笑いかけたのだ。香港から家族で旅行に来ているということだった。香港には温泉がないので日本に温泉に入りに来るのだという。日本人は礼儀正しくて、静かで、日本に来るととてもリラックスするのだというのを不思議な気分で聞いていた。彼女は去年ここを訪れすっかり気に入り今年は3泊し、その後大阪と京都へ行くとのことだった。彼女が出ていった後、中国語と英語で話しをしている若い女性の3人組みが入ってきた。タオルをお湯に浸けているので「日本の温泉ではタオルをお湯に浸すのは良いマナーじゃないのよ。」と話しかけると驚いてタオルを引き上げ、それがきっかけで話しをした。香港生まれだが今はオーストラリアに住んでいるという。どうりで中国語と英語がちゃんぽんになっていたのだ。彼女たちも出ていって、しばらく目を閉じてじっとしているとにぎやかな歓声に英語が混じって聞こえる。見ると黒人の親子らしい3人組みが水着で露天風呂へやってきたのだった。シャワーをあびているところへ従業員の人がやってきて日本語でここでは水着を脱いで下さいと言っているし、彼女たちはどうもそれが不服のようだ。水着を脱がなくてはならないことは理解したようだが抵抗がある様子だった。温泉では水着をぬぐのよとお母さんらしい人に言うと、”It's bad."と不満な顔をして見せたので「水着をぬぐと気持ちがいいわよ、やってごらんなさいよ。」と言う。やがてしぶしぶと水着を脱いだが、やがて広い内湯で泳ぎ始めた。「温泉は泳ぐところじゃないのよ」と言おうとしたが止めた。水着を脱ぐだけでもかなりがんばったのだから、人も少ないし、泳ぐくらいは大目に見てあげようと思ったのだ。

車で4時間近くかけて箱根の温泉まで来るなんてと自分たちの事を思っていたが、香港から、オーストラリアから、そしてアメリカからも、温泉を求めてやってくる人がいるのには驚きだ。最近、温泉がブームになっていると聞くがそれは日本だけにとどまらないのかもしれない。観光地の温泉に行く度に必ず外国人に会う。温泉で様々な国の人々と文字通り裸の付き合いをするのはなんとも愉快なことのように思える。

ホテルの中には家族向け、宴会系、和食、洋食といくつかのタイプのレストランがあり、一通り見てまわった後、人のあまりいない静かな洋風レストランに決める。ガラス窓の外にはぼんやり光に照らされた夜の木々が見えていていい雰囲気だ。テーブルの上のアルコールランプの光に気持ちがなごむ。食事もサービスも丁寧で行き届いており気持ちが良かった。


2001年12月25日(火) クリスマス

子どもの成長に伴って我が家の恒例のクリスマスが形を変えてくる。去年から今年ともう恒例が恒例ではなくなってきている。
そのうちすっかり無くなってしまうのだろうから我が家のクリスマスをアルバム代わりにここに残しておいてもいいだろう。

まずはアドベントに入ると同時にクリスマスツリーを飾る。オーナメントは手作りのものだったりいただいたものだったり、また年ごとの家族写真や友人家族の写真だったりとひとつひとつが思い出深いものだ。一番古いものでは私の独身時代、小学校で教えていた頃、生徒がお別れに作ってくれたフェルトの飾りものがある。アメリカに住んでいたころにおとなりのおばさんからいただいたものや教会のファミリーの集まりで作ったものもなつかしいオーナメントのひとつだ。

ドアには緑のリースに赤いリボンを巻いたものを飾る。以前はどこからかひばをもらってきて生のものを作っていたがここ数年間は同じ作りもののリースにしている。
今は庭に月桂樹やローズマリーの枝があるからもらわなくても作れるというのに。
後はヨセフとマリアと飼い葉桶の中の赤ちゃんのイエスの置きもの。これはペルーかどこかの素朴なテラコッタだ。団地で文庫をやっていたころ文庫仲間のOさんが
「ここにあるのがふさわしいものを見つけたから」と下さった。その人形のそばにろうそくを置き、部屋が暗くなると火をともした。

送られてきたクリスマスカードが次第に増えていく。ツリーの下にはプレゼントの箱がひとつ、またひとつと増えていく。送られてきたり、いただいたりしたプレゼントもまた家族がそれぞれに用意したプレゼントもきれいにラッピングし、25日の朝までは開けないでツリーの下に積まれている。
24日の夜は家族そろって教会のキャンドルライトサービスに出て帰りにレストランで食事をする。
25日の朝はみんなパジャマのままツリーの回りに座りこみ、ひとつづつプレゼントを開いていくのである。いただいたお茶やお菓子、用意していたフルーツケーキなどを朝食にいただき、夜はクリスマスのテーブルセッティングをし、とっておきの皿に料理を盛る。お客を招いたこともあった。

ほとんど毎年同じように過ごしてきたクリスマスが今年は様子が違っていた。ツリーや飾りものを箱から出さないままだったこともあるが、24日は長男が別行動で、今日はクリスマスのディナーにも間に合わないと電話があり、次男は今朝早くからバスケット部の合宿へ行った。
私は夫子どもたち、友人や兄弟からもらったプレゼントをテーブルの上に並べ、いただいたクリスマスのCDを聞きながら、チョコレートの缶やクッキーの缶を一人占めにして贅沢なひとりのクリスマスをすごすという具合だった。家族の形がちょうど変わる時になったのだろう。それはそれでいい。別の過ごし方楽しみ方を見つけるまでだ。
明日、明後日と夫と2人で箱根に出かける。会社の保養所を利用するのは初めてのことだ。夫は勤続20周年の休みがもらえたので少し早く年末年始の休みが取れた。
来年のクリスマスはどんな具合になっているだろう。子ども達といっしょに過ごせないのであれば、年寄りだけで暮している親のところへ帰省するか、こちらへ来てもらっていっしょにすごすのはどうだろうなどと来年のことを早々と考えている。


2001年12月24日(月) クリスマスイブ

クリスマスイブの朝、頭が痛い。風邪をひいたのかな。今日は入院している伯父のお見舞いに世田谷まで行き、そのまま教会へ行キャンドルサービスの準備をする予定だった。でもここで都内まで出かけると夜まで身体が持たない。またここでダウンすることになっては年末の諸行事にも支障をきたす。昨日の反省もあり、今日はマルタをやめてマリアに徹することに決めた。子ども達を送り出し、洗濯と掃除をざっと済ませると、ノニジュース、生姜とカボスとはちみつを熱いお湯に入れた特製風薬を飲み、念のため風邪薬も飲んで聖書とバッスーラの「神のうちの真のいのち」の3巻を持ってベッドに潜り込む。ベッドの中でイエスの言葉を聞くというのは不謹慎のような気もするが何にも煩わされることなく集中するのにはこの方法が一番いい。電話も来客も無私させていただくのだ。そういうわけで私は風邪をひくというプレゼントのお陰でマリアに徹してイエスの言葉に浸るという最高にクリスマスらしい日を過ごすことができた。

いつのまにか風邪も退散し、すっかり気分が良くなった。「ちいさな声」のメーリングリストのメンバーの坂東さんに送っていただいていた中村哲医師が語るNHKの「心の時代」のビデオを見る。何度も見たい聞きたい言葉とその人の持つエネルギーがそこにはある。中村医師にこのように力をいただく人は多いことだろう。宗教を超えて彼の内にある真実に多くの人が反応する。中村医師がアフガニスタンの山奥に新たな診療所を開設するにあたってその土地の長老たちと話し合い、彼らのイスラム教の儀式にのっとり診療所の建設のための祈りを奉げる場面があった。彼はクリスチャンである。その彼がイスラム教の人たちの中で彼らの宗教や生き方に敬意を払っている。自分の宗教や価値観を押し付けることなくその人たちを愛している。アフガニスタンの人達と同じように手を挙げている中村医師の背後にイエスを見る想いがした。込み上げてくるものがあった。

今日読んだヴァッスーラにイエスが与えた預言の中にこのような個所があり衝撃を受けたがそれがビデオの場面となぜか重なる。その預言はこのようなものだ。
イエスを知っているとする者たち、イエス自身の者たちであると考えているクリスチャンが実は最もイエスから遠いということを漠然と感じてきたが、そのことをイエスがはっきり指摘している言葉に出会うと虚構がガラガラと音を立てて壊れ、そこに残った真実だけが残されるというはっきりとしたイメージを描くことができる。何が偽りであり、何が真実であるかは神の目にのみ明らかである。

「ああ ヴァッスーラ、、、、同情と深い憐れみにより、注意を与え 死から救いだそうと、私はやって来た。私自身の者たちに あなたを遣わしたが、彼らは私の声を殺してしまった、明るみに出て、己の非が露になるのを恐れて。私の声を押し殺し、真理の霊を迎え入れないので、私は彼らの罪を よそ者たちによって暴かせる。あなた方の家の屋根の上で ラッパのように我が声を響かせよう、、、、私のことを全く知らない よそ者たちによって わたしは受け入れられた。戸を叩くと 中に入れてくれた。貧しいながら彼らの糧を分かち合い、その貧しさゆえに、わたしを探し求めてはいなかったが、それでいて、私を見出した。(中略)、、、、私の声は よそ者に運ばれて行く、そのこだまを聞いたなら 私から発せられたと知るように。私を求めたことのない よそ者によって 私は高められ、それまで私を知らなかった人々から 栄光を受ける、そして私は彼らの師となり 教えを説く、彼らの欠点を私は消し去り、道理を説き、彼らは私を理解するであろう。」
(神のうちの真のいのち�� /天使館出版 03−5465−1007)

日も暮れて夫が宮崎から戻ってくる。長男は自分の大学の教会のミサに行くといって出かけた。カトリックのミサは初めての体験だ。彼は彼で導かれるものがあるのだろう。次男と夫と私の3人でキャンドルライトサービスに出かける。お茶の用意をし、ケーキを切って準備をする。昼間とは違った静謐な空気が漂っている。馴染みのクリスマスの讃美歌を多くの人と声を合わせて歌うことの喜びがある。夫と私の間に私たちよりうんと大きい息子がはさまっている。隣の席には今年から私の生徒になった一年生のS君がお父さんとお母さんに挟まれて神妙に座っている。私が初めてキャンドルサービスに参加した8歳の時のクリスマスイブを思い出す。父に連れられて出かけた。父も私も初めてのことだった。真っ暗な礼拝堂の中でろうそくの光が美しかった。燃えているキャンドルを用心深く手に持ちながら讃美歌を歌い、教会学校で練習したとおりに聖書の暗唱もした。あの時ひとりで暗唱した個所は今でも空で言うことができる。前の席にはTさんが連れていらした職場の同僚という方が初めて教会の礼拝に出席されていた。いつも隣の机で仕事をしているTさんの歌う讃美歌をどのように聞かれてたことだろう。こうしてイエスは外の人をご自分のところへと招かれる。

最後は皆が帰った後、後始末をする。誰かがマルタの役を引き受けなければならないことも確かだ。今夜は教会を出るまでイエスが傍らにいて「ご苦労様」と言ってくれている気がした。教会の帰り、レストランに立ち寄り3人で遅い食事をいただく。良いクリスマスイブの時だった。


2001年12月23日(日) マリアなのにマルタをやってる

教会暦では今日がクリスマスだ。クリスマス礼拝には礼拝堂の椅子にぎっしりと人が詰まる。礼拝の後は恒例のポットラックのパーティー。持ち寄りのお料理がテーブルいっぱいに並ぶ。どれもいただきたいがあまりにたくさんの種類があるからお腹と相談しながら何を食べるか注意深く選ぶ必要がある。そのほかに生徒のお母さんがせっかく作ってきてくださったものはいただきたいし、私の作ったバナナケーキをおいしいといって下さった方にはお返しというわけではないけれど私もいただきたいと思う。またこの時くらいしかゆっくり話せない人もいるのだから食べてる場合じゃない。お話しなくっちゃと思うからあせって食べる。でも役員なんかをしてると食べることも話すこともそこそこに子どもたちを遊ばせたり、プレゼントを配ったり、はたまた明日のキャンドルサービスのろうそくを準備していない(指摘されてから、あら私の仕事だったのと思ったのだ)ことに気がついたりと気を回すことがいっぱいなのだ。
実のところ私はまったく気が回らない。私はマルタのタイプではなく、マリアのタイプだ。

マリアとマルタの家にイエスがやってきた時、イエスをもてなすために忙しく立ち回るマルタをよそに、妹のマリアはイエスの足元で一心にイエスの話しに聞き入っている。頭に来たマルタはイエスに手伝いをしないマリアに何か言ってくださいと頼むのだがイエスはこう答える。
「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。

私はイエスのこの言葉をその通りだと思っている。にもかかわらず、まさにマルタのように多くのことに思い悩み、心を乱している。そしてマルタのように「なぜ私ばかりがこのように悩まなければならないのですか」と心の中で訴えている。イエスがこのような猥雑なことを何も望んでおられないことを知りながらそこに身を置いている矛盾。このポジションははっきり私に向いていないと思う。マルタをやりたくない。心底マリアでありたい。教会全体がマリアになる訳にはいかないのだろうか。だれも「もてなし」をせずにただイエスの言葉に耳を傾けることに徹するという具合に。それを妨げているものがあるとすれば何なのだろう。それはイエスから遠いものなのではないだろうか。


2001年12月22日(土) 困った時の、、、、、

水曜日からまとめ書きをし、やっと今日に追いついた。
今日は大掃除パート1。家には私しかいない。グレゴリアンチャントを聞きながら気がねなくやれるというもの。
まずはテーブルに紙と鉛筆を出して計画から。
掃除は下手だし嫌いだから紙に書き出さないとあれもできないこれもできないと気が滅入ってしまう。かき出したものをひとつづつ今日やれるところまでやれば良い。
10項目のうち3項目までクリア。台所まわりがなんとか終わった。掃除は嫌いだけれど、きれいになるとすごく気分がいい。毎日この状態をキープしさえすればいいんだけど。
今日掃除の真っ最中に掃除機が作動しない事態が生じあせった。そもそも私がペットボトルのプラスティックのふたを吸い込んでしまい、ホースのカーブしているところにみごとにひっかかったのが始まりだった。菜箸をつこんだり、針金ハンガーをつこんだりしてみたが取れない。ちょうどのれんを洗っていたのでのれんのぼうをつっこんでやっと入り口までふたが出てきた。悪戦苦闘のあげくふたはとれたが
どういう具合か掃除機のスイッチが入らなくなってしまった。かなりらんぼうにあつかったから何かの接続がいかれてしまったのだろうか。掃除の途中で掃除機が壊れてしまうなんて全く悪夢のようだ。しかも夫は24日までいない。これから掃除機を買いにいったところですぐには配達してくれないだろうし。この物入りの時期に新しい掃除機なんて買いたくない。腹立たしく、情けなく、パニック状態になる。効くかどうかは別としてこういう場合はヒーリングしかないと気を取り直した。掃除機に手をあててなんとか治っていただこうとする。また掃除機には自己治癒能力はないとも考えられるので機械に強いフェアリーをよこしていただけるようお祈りする。
結果、掃除機は作動を始めた。神様ありがとう。今度ペットボトルのふたを見つけたら横着して掃除機に吸い込ませたりするのはやめます。


2001年12月21日(金) おせち

朝から天気悪し。
夫は今日から4日間宮崎に帰省。私の実家への帰省は見合わせ、春か夏に長めに帰ることにした。
12時半には生協のトラックが来るのでそれまでに正月用品の注文書を書かなければならない。レシピなどを貼り付けているノートを開き、例年の正月料理を参考に今年の計画を立てる。
手作りするものは黒豆、紅白なます、数の子、筑前煮、松前漬け、それに今年は次男のリクエストで豚の角煮を一キロ分。修学旅行で沖縄に行ったのだがそこで食べたラフティーがすっかり気に入ったようだ。一度ラフティーを作ったことがあるが確か泡盛で長いこと煮るのだった。泡盛がないので圧力鍋で角煮にすることにした。
かまごこ、伊達巻、昆布巻き、田作りは買う。栗きんとんは私しか食べないし、母が送ってくれた栗の渋皮煮がたくさんあるからそれにしよう。後は年越しそばとお雑煮の用意。
これが最低のライン。余力があったり、張り切る気が出てきたときは品数や手間暇が増えることになるだろうがここ数年はこのラインを上回ることはあまりない。年とともに簡単になってきているような気がする。料理することに意欲がなくなってきているのは何のせいなのだろう。正月の2日前から料理の本と首っ引きで殺気立って台所に立っていたことがむしろ普通ではなかったとも言える。あれはいったい何だったのだろう。


2001年12月20日(木) ヨガ/中学生の英語

このところヨガの日は8時40分ごろに家を出て会場まで20分の道のりを早足で歩く。誰も歩いていない草地の横を歩く時などには発声練習をしながら歩く。ヨガは10時からだが、ヨガをやるリハーサル室は9時から使えるので、50分間みっちり発声と歌の練習をする。6月のミュージカルの練習が中心だ。壁が鏡になっているので猫の動きを様々にやってみたり、かってな振り付けで踊ったりもする。

ヨガの方は長くやっているものの少しも身体が柔らかくならないが深い呼吸とともに身体を動かすのはほんとうに気持ちが良い。運動というよりは身体の瞑想という感じがする。ヨガの合間のシャバッサナ(死体のポーズ)の時はわずか10分かそこらなのに熟睡してしまう。毎回眠らないようにがんばるのだが気がついたら眠っている。イビキだってかいているかもしれない。

ヨガの後、みなさんが帰った後で20分ほどまた歌い、歩いて帰る。なんて健康的だろう。さて朝は何もしないで出てきているので昼食後、掃除機などをかけ夕方のクラスの準備をする。英語学校の仕事納めは昨日だったけど、家での久ラスは冬休み中もある。今日は恒例のクリスマス会だ。といっても4人とももう中学生なのでケーキを食べ英語のゲームをしてクリスマスのプレゼントをもらって帰るというだけのものだが。今年は クリスマスのキャンディーや小物の他にA CHILD'S CALENDARという絵本をプレゼントにした。1月から12月までその月を詠った12の詩でできている絵本だ。詩は韻を踏ませるために、けっこう難しい英単語や言い回しが使われている。

この本の最後にある4行づつ6連からなるDecemberという詩を紙に書き写し、一行づつばらばらに切り離し、2人組みになって詩に組み合わせるというゲームをした。
2行目と4行目が韻を踏んでいるというのがヒントだ。しばらく考えさせた後に詩を日本語に訳したものを次なるヒントとして渡す。並び終えた詩を詩のリズムで読んだりラップ風に読んだりする。このゲームは私としては大満足だったが彼らにとっては「お勉強」の域を出ていない。その後にやったscrabbleという英単語を綴っていくボードゲームはポイントがついて勝ち負けがあるので思わず盛り上がり、予定の時間を30分オーバーしたところでやっとお開きとなる。

中間テストや期末テストの英語よりもこういう活動の方がずっと英語と仲良くなれると思うのだが、これではテストの点は良くならない。昔に比べ教科書は会話が中心になってはいるがテストの形態が昔のままなので、勉強方法は昔のまま、構文や単語の暗記が中心になる。でもこんな勉強法では英語を自分の言葉として引き寄せることはできにと思う。中学生の久ラスにはジレンマを感じるばかりだ。


2001年12月19日(水) 仕事納め

今年の英語学校の仕事が終了。3歳児とお母さんのクラスのみなさんと昼食会も持った。子どもたちは意外とおとなしく、私たちは12時から1時半までファミレスで過ごすことができた。我が家の子たちが3歳の時はとてもこんなことはできなかったなあ。家族での外食ですらかなり大変で少しもゆっくりなどできなかったように思う。

最近加わったK君は恥ずかしがっておかあさんの後ろに隠れる感じだったが、食事会の後にやったクラスでは今まで見せたことのない打解けた表情をしていた。クラスの中ではお母さん方と話すゆとりはあまりないのいで、こういう機会は貴重だ。遠くカンボジアから日本にお嫁にきているBさんからも話しが聞けた。Aちゃんはお母さんが出産を控えているので春までお休みになるのだが、今日はジンマシンが出ていて昼食会とクラスに参加できなかった。お母さんは楽しみにしてくださっていたので残念そうだった。Mちゃんも風邪をひいていたのだが、病院帰りに昼食会には参加してくださった。帰り際、クラスに出たいと泣いていてかわいそうだったが、泣くほど久ラスに出たいと思ってくれるのはほんとに有り難い。私の一年も大きいが子どもたちにとっての一年は大人の何倍も大きい。一年間の変化はめざましいもの。来年も良いクラスを目指してがんばろうと思う。

6年生のクラスが5時半に終わった後、15分ほど歩いてJRがやっているスーパー銭湯へ行く。一年間の仕事納めと理由を付けて自分をねぎらうためだ。ゆっくり3時間ほどそこで過ごす。今年の仕事を振り返って来年のことをいろいろと考えてみるのに風呂はいい。こんなほっかりした気分でいられるのも昨日、来年度のネイティブの先生が見つかったからだ。ほんとによかったと心の中で何度も感謝を繰り返していた。

朝の打ち合わせ通り夫が仕事帰りに銭湯に迎えに来てくれ、いっしょにすぐ近くの映画館へ行きハリーポッターを見る。長風呂の後だったからかうつらうつらと夢ごこちで見ていた。ハリーポッターはまだ翻訳が出ていない時にアメリカ人の友人がおみやげに本と朗読のテープをくれたのが最初の出会いだった。前半はわくわくしながら読んだのにハリーが魔法使いの学校に入学してからの場面はあまりおもしろさを感じなかった。同じファンタジーならナルニア国物語や指輪物語の方がずっといいと思ってしまった。でもこれほど人気があるのだからそこには私が見落としている魅力があるのだろう。三冊目は手元にあるのにまだ読んでいない。お正月の休みに読んでみようかな。ところで映画の予告で知ったのだがトルーキンの指輪物語が映画になっている。イギリスでは大ブレイクでハリーポッターを凌いだらしい。ぜったいに見たい。日本に来るのは3月くらいなのだろうか待ち遠しい。

昼食会、クラス3つ、銭湯、映画と豪華版の仕事納めだった。


2001年12月18日(火) ネイティブの先生

今日は文字通り飛び上がって喜んでしまった。私がかかわっている教会付属の英語
学校で来年の春から教えてもらえる専任の外国人教師が決まったのだ。
教団の英語学校はアメリカから送られてくる異国での宣教の使命を持つ若いクリスチャンで成り立っている。ところが、様々な事情から来年度はそれが望めない見込みが強く、下手をすれば新学期を前にして閉鎖ということにもなりかねない。そこで独自で英語教師を見つけるということになり、実はここ2週間ほど、かなり頭を悩ませていたのだ。営利目的でやっている学校ではないがかといってボランテアではない。生徒さんに対して気持ちの届くきめの細やかな暖かいレッスンが売り物の英語学校であるだけに、その趣旨を理解し、しかも教会の活動にも参加してもらえるようなネイティブの先生を見つけなければならない。いったいどこからどう当たっていけばいいのか頭を抱えているところだった。

この秋から教会に来ているアメリカ人のAさんは大手の英語学校で働いているなかなか素敵な青年で、真っ先に彼のアプローチしたが、教会の会員でもある彼のワイフは今の仕事の契約が終わるとアメリカに戻り大学院に行くという予定らしい。せめて夏まででも教えてもらえないかと頼んでいたのだった。
いったい何が起こったかは知らないが彼らが予定を変更して少なくともあと一年は日本にとどまってくれることになった。

必要な人や物は備えられる、祈りは聞かれるということを深く知った日だった。


2001年12月17日(月) ベークセール

この忙しさの真っ只中、長男が明日のベークセールで売るケーキを焼いてくれないなどという。学校のファンドライジングのためにケーキやクッキーを焼くことはアメリカの小学校ではしょっちゅうあったけれど、まさか大学の催し物のためにケーキを焼くことがあろうなどとは考えてもみなかった。おかしなもので、バザーと言われればケーキを焼こうなどという気は起こらないのに、ベークセールと言われれば焼かなくてはという気になる。これは言葉から来る条件反射だろうか。それともバザーとなると上手な方たちが店で売っているようなりっぱなケーキやクッキーを出品するという感じがあり、一方ベークセールは子どもたちが御小遣いで買ってその場で食べるという感覚なので子どもたちのおやつという気楽さがあるからだろうか。
英語に来る子どもたちにブラウニーズを焼くつもりでいたからそれをたくさん焼けばいいかと思い引き受けた。ところがブラウニーズを2台焼いても四角に切ると18個くらいにしかならない。そこで家でいちばん大きなケーキ型で小麦粉400グラムの分量でバナナケーキを焼くことにした。これだとひとつの型から25切れほどとれる。
焼きあがったブラウニーズとバナナケーキを切り分け、クリスマス用の包装紙でツリーの切り抜きや小さなクリスマスカードを作りケーキの上に飾ってラッピングした。ケーキを焼くだけでいいといったが、不器用に包んだのでは見た目がおいしそうではないので、ラッピングまで引き受けることにした。手間はかかったもののなかなか楽しい作業ではあった。

夕方、珍しく息子が学校から電話をかけてよこした。
「ケーキは最初の15分で完売、人気だったよ。ほんとにありがとうございました。大学いつ来てもいいよ。案内するから。」
ぜったい来るな、もし見かけても声なんてかけないでなんて言っていたので、全く調子がいい。
忙しくはあったけれど、ちょっといい気分だった。バナナケーキは家族の分に少し残しておいたので朝みんなで食べたが、夫が帰省する時におみやげに焼いて欲しいという。金曜日に帰省するので木曜に焼くとしよう。日曜日の教会でのポットラックパーティー用には土曜日に焼く予定。ケーキ屋さんになった気分だ。


2001年12月16日(日) キャロリング

私が初めてキャロリングに参加したのは小学校5年生の時だった。参加は中学生からということだったがどういうわけか、同級生のチイちゃんと私はその年のキャロリングの参加を許されたのだった。夕方家に中学生のお姉さんや高校生のお兄さんが向えに来てくれた。そもそも日ごろ弟たちを引き連れて長女をやっている私にとって年齢が上の人達というのはそれだけで魅力的だった。妹分でいられるというのはずいぶん気持ちのよいことだった。

さて当時、私の行っている教会ではメソジスト教会の伝統だったのか、キャロリングは深夜の12時に教会を出発し、信徒の家や警察署、消防署、郵便局、老人ホームなどの施設を回り、夜明け前に教会に戻り最後に牧師館で歌うという具合だった。早朝の礼拝堂にはだるまストーブが勢い良く燃えていて、暖かいお汁こなどが用意されている。そうこうしている内に人が集まり午前6時から早朝礼拝が始まるのだ。イエスが深夜馬屋で生まれ、そのことを天使から告げられた羊飼いは山を下り、ベツレヘムの馬小屋を目指して歩いていった。その羊飼いのように夜更けの道をイエスに会うために歩くということをクリスマスの度に再現してきたのだろうか。

小さい頃から参加するのを待ち焦がれていたキャロリング、私は行く先々で大きく口を開け精一杯大きな声で歌った。一晩中冷たい空気を喉に通したためかあるいは歌いすぎて声帯を痛めたせいか明け方教会に戻ってきた時にはうんともすんとも声が出なくなっていた。同級生のチイちゃんは途中で疲れたからと自宅の近くに来た時そのまま家に帰ってしまっていた。私はこんなに楽しいのにどうして帰るんだろうと不思議に思ったがチイちゃんの判断は正しかった。私はクリスマスの夜の祝会の劇でマリアの役をやることになっていたのに、夕方になっても声が出ないのでチイちゃんに代わってもらうことになった。せっかく練習していた劇に出られないことと、本番でキャロルが歌えないことが残念でしかたなく口だけパクパク動かしながら涙が出そうになったのを覚えている。

その時のキャロルから故郷を離れる24歳の時まで毎年クリスマスイブにはキャロリングに参加した。高校の時や大学の時はその頃親しくしていたクラスメートや友人、あるいはボーイフレンドを誘って参加した。夫も結婚する前だったが2回ほどキャロリングに参加している。あの時は同じ大学に通うSさんもボーイフレンドを連れてきていた。深夜にスタートして明け方までというハードなキャロリングは私が始めて参加した翌年からは時間が変更され、午後7時に出発して深夜の12時まで回り、その後教会に泊って早朝礼拝に参加するという形に変わっていたが、キャロリングの後、お菓子や飲み物を囲んでのだべりんぐも楽しかった。

楽しい行事ではあるもののしんしんと冷え込む冬の夜、何時間も歌いながら歩くというのはそう簡単なことではない。いつも歩き始める時、最後まで歌えるかな、身体は大丈夫かなと不安が過るし、実際終わり近くにはかなりへとへとになるのだが、小さい頃、私の家にキャロリングに来てくださった人達が笑顔で「クリスマスおめでとう!」といってくださったことが思い出され、しっかり声を出さなければ、喜びを伝えなければという気持ちにさせられた。また暗い道を歩きながら、ろうそくの炎のぼんやりしたあたたかさを感じながら、一年間の過ぎた日々を回想する大切な時でもあった。こんなに長い時間星の明かりに照らされて歩くことはこの時を置いて他にない。キャロリングを続けた13年間、私は想像以上に大きなものをいただいてきたような気がする。


2001年12月15日(土) クリスマスキャロル

月に一度の賛美と祈りの会、今月は英語学校と合同の「クリスマスキャロルナイト」という催しものがあった。およそ20名ほどの参加者があり、私が教えている小学校1年生のS君はお父さんとお母さんに連れられ、また幼児クラスのNちゃんもお母さんに連れられて参加していた。
牧師のリードであらかじめプログラムに印刷されているキャロルをはじめにネイティブの先生の後につけて、英語の歌詞を読み、その後フレーズごとに練習をし、その後英語と日本語で通して歌っていった。歌の合間に牧師によるクリスマスのメッセージ、聖書朗読、祈りがはいる。祈りはそれぞれがリクエストしたものを牧師が祈り、最後の祈りでは戦火の中にある人々への祈り、世界の平和への祈りがなされた。

クリスマスキャロルにはたくさんの思い出があり、歌っていると様々な場面がまるでスクリーンに映し出されるように蘇ってくる。
一番古い記憶はちょうどNちゃんくらいの頃5歳か6歳のころのこと。クリスマスイブの夜更け、多くの人の歌声で目が覚めた。私が母にあれは何なのかと聞くと母はクリスマスだから天使が歌っているんだと言う。歌の声の中に保育園のO先生の声が混ざっているような気がした。
S君の年になるとそれは天使の歌声ではなくて、隣の家の前で教会の人達が歌っているのだということが分かった。私は小学校2年生の秋から教会学校に通うようになっていたのでその年のクリスマスイブには私の家の前でも歌ってくれた。だいたい深夜の2時とか3時なので、私は親に起こされ眠い目をこすりながら玄関へ出るのだが、大勢のひとたちがろうそくを持って歌う前に出ていくのがはずかしくて母の後ろにかくれていたような気がする。歌が終わるとみんなが口々にクリスマスおめでとうございますと言うのだ。牧師先生や保育園の先生や教会のお兄さん、お姉さんと知っている人もいる。声をかけられるとますます隠れたいような気持ちになった。それなのに大勢の人の歌声とあのクリスマスおめでとうございますという明るい響きが強烈な印象として残っていて、それから毎年、クリスマスイブの深夜の歌を私はわくわくする思いで待っていたように思う。いつまでサンタが来ていたかどうか覚えていないが、サンタのプレゼント以上に胸が躍ることだったことは確かだ。


2001年12月14日(金) まとめ書き

またまた日記に穴ができてしまった。というか、よくこれまで毎日のように書けたものだとそちらの方が不思議な気がする。
ともあれ、今日はここへ向える。自分の場所へ戻ってきたような安堵感がある。義姉のお古のPCもいろいろな機能は分からないままだけれど、それでも随分慣れてきた。マックはまだ修理に出していない。

さて、火曜日、月曜日にフェアリーかあるいは私か息子が食べてしまったジンジャークッキやプレゼント用の外国のお菓子などを翌日、駅ビルの中にある成城石井で買う。この店が好きだ。アメリカに住んでいたころの雑貨屋を思い出す。英語学校や家に英語の勉強に来る子どもたちにはハロウィンやクリスマスの度に、ここで珍しいキャンディー類を買い、小袋に詰めてプレゼントにする。甥っ子たちへのプレゼントにも外国のお菓子をいっしょにいれる。

この日は英語学校の仕事に行く前に久しぶりにNさんと会ってお昼をいっしょにする。Nさんは声楽家でボイストレーニングのインストラクターをし、またコンサート活動もしている。しかしNさんとの出会いは音楽関係ではなく、以前高尾のTさんのところへヒーリングの勉強に行っていた時にお会いした。今日も話題は健康のこと身体のことが中心だった。ヒーリングからはすっかり遠ざかってしまったがあの時に学んだことがいろいろな意味で発展してきているように思う。身体と心の関係を学べたことは大きかった。Nさんはボイストレーニングに生かしておられるようだ。私も表現する上で、またクラスを通して異なる人とのエネルギーと交流する上で助けられている。

水曜日は幼児とお母さんの英語クラスのみなさんとの昼食会だった。今までクラスの中でのお付き合いはあってもクラスから離れて子どものことや家族のことなど自由に話す機会はあまりなかった。みなさんがこういう時もいいですねえとおっしゃっていたので一年に2.3回は計画しようと思った。その後のクラスが今まで以上に良い雰囲気だったような気がする。来週はまだ幼稚園に行っていない幼児とお母さんといっしょの昼食会となる。いったいどんな感じなのかちょっとおそろしくもある。

木曜日、ヨガの後、みなさんと食事会。ヨガはだいたい黙々とやりその後はみなさっさと帰るのでこのようにゆっくり顔を合わせて食事をしたり話したりすることは
珍しい。昨日は私より15歳くらい若い人達といっしょで、今日は私よりも年配の方々とごいっしょしている。昨日はもう年のいった先輩になって話しをし、今日は若輩者になって先輩の話しを聞いている不思議。

金曜日、つくしんぼ保育室での「英語の歌とあそび」。昨夜は夜遅くまで歌や絵本の読み聞かせなどのシュミェーションをして咄嗟の時にも臨機応変にできるようにいくつも余分な活動も用意した。毎回違ったお母さんと子どもが集まってくる。子どもの年齢やお母さん方の英語への興味の度合いも顔を合わせるまで分からない。そこでどの活動がうまくいくのか予想がつかないのである。そこでレッスンというより即興のパフォーマンスをやるようなスリルがある。子どもたちがてんで集中せずにお母さん方も少しも歌ったり声を出したりしてくれない時には困ってしまうが、今日は45分が短く感じられるほど楽しく時間が過ぎて疲労感もなかった。今回で6回目、ようやく慣れてきたのだろうか。
その後ここをステーションにしている生協の班での昼食会。

書いてみて気がついたが今週は4日連続で昼食会だったのだ。つまり圧倒的に人といっしょに過ごした時間が多かったということだ。さすが12月。こんなことは他の月にはない。英語学校も転換期にあり、来年度の講師のことや運営のことなどで話し合ったり電話で問い合わせたりと忙しない。日記を書けなかったのもなかなか気持ちが内へと向わなかったからだろう。

とにかく今夜はまとめ書きができてよかった。


2001年12月10日(月) ジンジャークッキー

気が付かない内におそろしく時間が過ぎてしまっている。
日記の日付は水曜日のまま。今日は実はもう火曜日に突入している。
いったいどうしていたんだろう。
日記のことがすっかり飛んでしまっていたんだろうか。
だから12月は心やすまらない月なんだ。いくらクリスマスツリーを出さなくっても、クリスマスカードを書かなくってもこうなんだから。
気が付かない内になくなってしまうのは時間だけではなかった。
土曜日に買ってきて日曜日に空けたジンジャークッキーの缶の中身がいつの間にか2枚になってしまっていて、私と次男で「どうしちゃったの」とおもわず叫んでしまった。トールペイントのすてきな丸い缶の中にうすいジンジャークッキーがぎっしりつまっていた。蓋を開けた時にはクリスマスまでになくなることはないように
思われたくらいだ。昨日の段階ではずいぶん減ったけどまだまだたくさんあったし、今朝もまだまだあった。今日は次男がテストで午後に帰ってきて、コーヒーテーブルの上のクッキーの缶を通りかかるたびに開けてはいたものの、本人も私も取り出す時にはちゃんと残り具合を確かめながら取っていたのだ。
しかも私は前のようにひたすら食べたいという状態ではなく食事をしないでいることに気が付かないくらいになっている。ところが夕食の後缶を開けた次男が
「おかあさん、クッキーどうしたの、後2枚しかないよ」
というのである。二人して、あの時はどのくらいあって、ついさっきまで少なくても20枚以上はあったと話しながらどちらも嘘を言っているのではないことは分かる。さりとて私たちの他猫の子一匹いるわけではない。
それとも全く無意識の内にどちらかが、あるいはどちらとも食べてしまったのだろうか。実際そう考える他ないのだが。
夫にそのことを話すと「ジンジャークッキーを食べるフェアリーがこの家にいるっていうのは楽しいじゃない」と意外なことをいう。
実は次男も私もなんとなく薄気味悪い気分でいたのだ。
そうかフェアリーなら許せるな。
一番最後帰ってきた長男いわく。
「二人してクッキー食べちゃったいい訳かあ。フェアリーが食べたんだったら僕の分のイワシの煮物も食べてくれればよかったのに。」
彼は魚が嫌いだ。
とにかく缶を開ける度にクリスマスのいい香りのするジンジャークッキーがなくなってしまったからには明日また買ってこよう。今度は「気が付かないうちに、、、、」なんてことにならないようにきちんと数を数えておこう。


2001年12月05日(水) ダイエットその後

この8月にダイエット宣言をしてより4ヶ月、まだそれなりに続いている今年中にマイナス5キロという目標はなんと達成できたので後はリバウンドしないように気をゆるめないようにしている程度。朝はヨーグルトとフルーツが基本だが、時にはトーストやサンドイッチも食べるし、昼食会などの時はデザートをあきらめたりもしない。この前などはインド料理屋さんで8種類のカレーバイキングなんかもやった。そして夜は普通に食べる。いわば普通の人のノーマルな食生活をしているだけのことだ。今が普通とすれば、これはやばいと危機感を持った時はやはり異常だった。今思えばあきらかに過食症だったのだ。お腹が空くことが不安で、たくさん食べなければ満足感がなかった。

この4ヶ月の内に食に関する態度が変わったような気がする。お腹が空いている状態がそれほど不快ではない。逆にたくさん食べた時には身体がだるくて後で後悔する。頭もボーッとしてやたらと眠くなる。絶食はしたことがないが、絶食することで意識がクリアになるというのが分かるような気がする。

今までのヨーグルト、フルーツ、ビール酵母、タヒチアン・ノニジュースに加えて、今日から黒砂糖をダイエット食品に加え、朝、昼、晩とひとかけずつ食べてみている。前にも本で黒砂糖ダイエットを読んだことがあるが、それは黒砂糖入りの澄まし汁を飲むというもので、あまりおいしそうではないのできがすすまなかったが昨日、英語学校のお母さん方との食事会の時、若くてスラリとしたお母さんが毎回食事の前に黒砂糖をひとかけ
食べるというダイエットを続けているという。確かに白砂糖を使った甘いお菓子よりは黒砂糖の方はずっとヘルシーだがそれ以上にその後に食べる食物を吸収しにくくする働きがあるらしい。黒砂糖を食べるからか、甘いものを食べたいという気持ちがあまりおこらない。これはいいかもしれない。何事も実験、しばらく続けてみよう。

さて春が来るまでに理想体重にまで減るかどうか。ダイエットだけでは無理かな。運動もしなくては。台所仕事の合間にと台所に置いたダンベル2日坊主に終わっている。縄跳びなどは買っただけ。運動嫌いが治ると、人生変わるだろうなあ。


2001年12月04日(火) 外国の方々との関わりの中で

今日は、英語学校に子ども達を通わせているお母さん方からランチのお誘いがあり、久ラスの前に近くのパスタのお店に行く。その中に8年ほど前に上海から日本に来て暮すようになった中国人のEさんがいる。小学校一年生のS君は中国人のご両親を持つ日本生まれの少年だ。ゆくゆくは中国に帰ることになるので中国語も教えなければならないけれど、なかなか思うようにいかないという。
彼女はアクセントから外国人ということは分かっても、日本人の井戸端会議には普通に入ってこれるし、言い回しに苦労しながらも自分の考えや中国ではこうだという事を臆することなく話そうとする。特に積極的なタイプとも見受けられない。臆することなく相手とは異なる自分の考えを口にするのは国民性なのかなあと思う。

そういえば、ニュージャージーにいた頃長男の同級生に台湾から来たばかりの女の子がいてその子のお母さんのマリッタと随分親しくなったのだが、アメリカに来たばかりの頃はほとんど英語をはなせず、学校でも英語はあまり勉強しなかったということだったが、みるみるうちに上達して、その町の郵便配達の資格を手に入れるまでになった。同じカレッジに通っていたが、文法などの知識がないので全くの初歩久ラスにいるのだが、とにかく臆さずに誰とでも話すし、どうも白人コンプレックスのようなものもないようだった。彼女と話しをするとお互いに下手な英語をまくしたてながらの議論となった。私についてまた日本人やアメリカ人についてもずばずば批判ずる。私もカッカとなって応答する。側に誰かいたらそれは随分こっけいな様子だったかもしれない。彼女は今は中国系アメリカ人として仕事もこなし、社会的な責任も引き受けて逞しく生きていることだろう。

今日の3時からの幼児とお母さんのための英語久ラスには2年前に韓国からいらしたkちゃんとお母さんのUさんが参加するようになった。2年間でよくここまでと思うほど、日本語にも日本の社会にも溶け込んでいる。そして同じアジア人の顔をしながらやはり日本人とは違ったスピリットを感じる。その受ける印象はやはりこれまでに出会ったアメリカで暮す韓国の女性たちのパワフルな印象とだぶる。キャンパスのカフェテリアで韓国人のクリスチャンの女性と議論した時、彼女のパワーで私の内にすっかりねむりこんでいるものが目覚めさせられたような印象だった。負けずと主張しながらずいぶんエキサイティングな時間だった。人目を気にしないおおらかさや逞しさは日本人からすると違和感を持たれる類のものなのだろうが、そして実際韓国や中国の女性と付き合う日本人は少数派だったが、私は自分の本来の気質ととても相性が良く、いつでも彼女たちと話しをする時、なんともいえない小気味よさを感じていた。

明日の2時からの久ラスにはカンボジア人で日本人と結婚し、日本のお嫁さんをやっているBさんが来る。カンボジアの方との接触は初めてで、中国や韓国の方ともちがった民族性があるように思う。優しく控えめでそれでいてまっすぐな強い眼差しを持っている。子どもの中には見ることができるこの眼差しは私も含め大方の日本人にはないものだ。カンボジアのことなどいろいろ話しを聞きたいと思う。

そういえば、先週の礼拝にはバングラデシュからいらしたご夫婦が出席されていた。バングラデシュでキリスト教の布教活動をして国を追われたと伺ったが一目で伝道者と感じるオーラがあった。この教会に必要なものをもたらしてくださる人達なのかもしれないと思った。

ハンバーガーショップで隣あわせたトルコ人の若者との会話もその人柄もわずかな時間の接触だったにもかかわらず心が触れる場面があった。たまたま隣の席でハンバーガーをかじっている人と印象に残る話しをしたり、まして心が触れ合う体験をするなどちょっと考えられないのだが、外国人との間にはそういう出会いが起こることをいつも不思議に思う。彼らがオープンだからだろうか、私が外国人に対してはオープンになれるからだろうか。

私たちが「こういうものだ」とみなしている日本人特有の人と人との接触の仕方はしかし、昔とはまた違ってきているはずだ。どこか自然な人間性から離れた不自然な関係を私たちは身に付けてしまっているのではないだろうか。そこにある冷えた関係、閉ざされた関係、それはそれで煩わしくなく私自身それほどいやじゃない。いえその中に居心地のよささえ感じているような気がする。でもそういう関係が良い社会を築けるかと考えると疑問が生じる。そこには人と人とが接触することでぶつかり合うことで生起するダイナミックな関係はのぞめないから。

私たちが失っているなにか大切なものを外国の方々とのかかわりの中で知らされる今日この頃である。


2001年12月03日(月) こういう日もある

クリスマスカクタスが今年もあざやかな赤い花をつけた。
4年前、パンジーーやビオラの苗をたくさん買った店で福引きを引き2等かなにかで当たった鉢植えだった。それほど好きな花でもなかったが、少しも手をかけないのに、そして夏の間、鉢ごと外に出しっぱなしにしてその存在も忘れてしまっているのに、毎年アドベントの頃になると約束を守るように美しい花をいくつも付ける。今年はクリスマスツリーもその他の飾りのたぐいも出していないのでその赤い色がいっそうひきたつ。

今日は1日家事に没頭するつもりでいたがいろいろ心を遣う事柄があって電話で話したりメールをしたりという1日になった。いつ頃からだろう。自分の内に語りかけ自分の内に深く入ってはいくが、人の心や思いから遠く離れたところに自分を置くようにしてきていた。昔は良くやっていた長電話とも縁が無くなっていた。知人や友人に対してもそうだが、家族に対してもそんな調子だったような気がする。どっぷりと四つに組んで向かい会うことがしんどい、ちょっとした行き違いや誤解から相手を傷つけるのもまた自分が傷つくのもごめんだとそういう場面にでくわすことを極力避けてきたように思う。人は人、私は私と思えるのは楽だ。

でもそれを避けられない時もある。自分がのぞまないままに窮地に立つことだってある。さてそういうところからの回復の方法は?
揺れ動いてすっかり位置がずれてしまった座標軸を正しい位置に戻すことから始めなくてはならないのだろう。
そして待つ。からんでしまった糸をほぐそうとしてもかえって結ばってしまうし、短気になれば糸を切ってしまう。それではあまりにつまらない。
祈って待つこと。
遅くなってしまった。もう寝よう。






2001年12月02日(日) アドベントの朝

クリスマス・パストラルをかける
リコーダーの澄みきった素朴な音が空気を変える
アドベントの空気だ
待つ、よきおとづれを
待つ、心の中心をしっかりと見つめて
2000年の昔
イスラエルの人々は救い主を待っていた
世界がイエスを待っていた
2000年たった今
世界はやっぱり待っている
何かを
ほんとうの平和
ほんとうの豊かさ
ほんとうの喜び
待つことは祈ること
祈ることはあきらめないこと
待つ

御心の天になるごとく地にもなさせたまえ


2001年12月01日(土) 12月という月

12月1日という日はいつも特別という気がする。
12月だと考えるだけでふうっと大きな溜息が出るのはどうしたことだろう。
暮れの気ぜわしさの中にぽっかり空いた空ろな穴が見えてしまうのは私だけだろうか。一年間のご無沙汰を年賀状で埋め合わせしなければ、一年間さぼった掃除をまとめてしなければ、クリスマスやお正月をそれらしくしようと思うからだろうか。何も大したことをしているわけでもないのに。

そうか、12月というのは主婦の力量が問われる月なんだ。少なくても私にはそんなプレッシャーがある。でもいったい誰に対してのプレッシャーというのだろう。誰も何も言う人はいないのだが。うん、これはトラウマだな。
主婦というものに成り立てのころ、とにかく暮れと正月だけは「きちん」とやらねばと悲愴なほどに思いつめていた。手作りのクリスマスカードに年賀状。クリスマスの飾り付け。緑の枝を集めてリースを作るのもきまりごとにしていた。クリスマスツリーの下にはいくつもの箱が積まれるようにプレゼントを買い整える。教会ではコーラスだの劇だのクッキー作りだのとやたらといそがしかった。おせち料理のメニューと手順をノートに書き出し、3日前から取りかかる。大掃除は気ばかりせいていた。慣れないことをするものだから、だいたい暮れは体をこわし病院へ通うという愚かしさだった。
随分いい加減になってきたからここのところ暮れに寝込むこともなくなったがそれでも「やらなくっちゃ」という気分だけが残っていているのだろう。
毎年この季節が来ると、誰も知らない土地、できれば修道院のようなところで年の暮れと新年を過ごしたいと思う。子どもたちがそれぞれに独立したらそんな日も来るかしらと心待ちにしている。

でもね、気の持ちようではないかしら、今年の12月こそは気ぜわしくならないように心静かに過ごすことは可能ではないかしら。何もかもシンプルに、他の月と変わらないように。目に見えることでしめくくりや祝いをするのではなく心の中でそれをする。ひっそりと今年を終え、ひっそりと新しい年を迎えるそんな12月にしてみたい。



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