サーモンピンク・フラミンゴ
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2006年02月10日(金) バカ女に萌えるワタシ

萌えバカ女代表、タラ・リードたん。



今日、夕飯を食べながら久しぶりにDVDで映画「プッシー・キャッツ」を見まして。
ストーリーはまるでマンガであらすじが3秒で言えるようなアレですが、何も考えなくて良いのでたまに見ます。

主演のレイチェル・リー・クックの目玉見開き演技にはまったく興味がないんですが。
この映画のタラ・リードはおそろしくかわいいんです。

 オンナノコのドラマーって、なんか萌え。

最近はもう落ちぶれ感たっぷりのタラたんですが、プッシーキャッツのタラはかわいい。
一緒に見ていたきょんが「あたしまた髪伸ばそうかなー」と呟くくらいにかわいい。
髪伸ばしてもあなたはタラたんにはなれないんだよ、とは言えませんでしたが。

こちらは落ちぶれ始めてからのタラたん。



1〜2枚目と明らかに乳の大きさが違う上に、乳りn

いえ、なんでもないです。

で、写真だけでもおわかりのとおり、タラたんからは知性のちの字も感じられません。
プッシーキャッツでの役なんて、バカな上に天然で目も当てられないんですが、そこがかわいかったりして。
何しろ鼻の下が長くて(鼻の下が長い顔が好きなんです)いい体してるもんですから、ワタシはついこんな顔(´∀`)しながら見ちゃうんですが。
声もほどよく下品でエロかわいいんです。
見ているあいだ、ワタシの頭は「タラかわいいタラエロい」ばっかりになるわけなんですけどね。

ワタシ、実際に好きになる女性(男性も)は頭良くないとイヤ!というか、そもそもアンテナに引っかかってこないはずなんですけど。

ブラウン管を通して、グラビアを通して、スクリーンを通して見た場合、どうも「ルックス(とお色気)だけのバカ女」にムラムラくるみたいなんですよねえ。
理名タンもこのカテゴリですし(ごめんよ理名)、菜々子も別に頭悪かろうが性格悪かろうが顔とスタイルだけあればいいやっつー感じですし。
ジェシカ・アルバも知性より顔体、スカーレット・ヨハンソンなんかもこっち側かと。
アンジーも最初はそうだと思っていたので萌え萌えだったんですが、最近利口ぶっているのでイマイチ物足りなかったり。

なんかこう、夢の中でセックスするなら、断然こっち側の人とお手合わせ願いたい、という風情。
なんですが、実際にこれらの人たちがキャミとパンツだけで手招きしても、ワタシきっと逃げ出すんです。
怖じ気づいて、萌え萌えどころではなくなるんじゃないかと。
よっぽど相手が積極的に押し倒してくださればそれ以上抵抗しませんけど。
そんなエロエロ萌え萌えタイプに体いじられちゃったら、ねえ?(ねえ?じゃねえよ)

現実のワタシは、ちょっとシャイな女性と、小鳥のようにつつましく、そんな清純路線なわけですが。

…なはずなんですが、中3の後半にこの手の女の子に猛烈に「下半身的」(別に上半身的でもいいんですけど)にヤられちゃったことがありました。
そのときワタシ、ナナの他にもうひとり好きな女の子がいたんですが(地味で純情でお利口な子でした)、何か桃色的な部分でそのピンクちゃん(と勝手に命名)に一時身も心も持って行かれてしまいました。あ、ナナは別枠で。
運良くその子もワタシを好きになってくれたので、(以下略

で、ワタシはつきあったり好きになったりした女の子とは、その後のつきあいも大事にしちゃうんですが、ピンクちゃんにだけは
「できればもう会いたくないー」と思ってしまうのです。
どうしてかなーと考えてみた結果、たぶん、「相手の人格を無視した性欲丸出しな自分のマヌケ面」をアップで見せられるような、そういう嫌な感じがするみたいです。

好きなのは知的な(というか、頭脳がおもしろい)女性。
なはずが、桃色アンテナに引っかかるのはルックス(とお色気)だけの話もつまらなそうなバカ女。
だけど実際そのバカ女に迫られても逃げ出してしまう。なのに好きー。

という矛盾。

みなさんは、自分の中でこういうズレってありませんかね。

「心から愛した人に萌えます」とかつまらない答は脚下させていただきます。
そんなのあたりまへなので。
ていうか、好きな人ほど萌えられない!という独特な素晴らしい感性の人がいらしたら、ぜひ名のりを上げていただきたいです。


読み返して気づいたんですが、ナナは桃色枠な気がしてきました。
いや、バカだとは思ってないんですけどねもちろん。
あー、まりあも頭いいけど桃色枠かもー。
って、フォローしたところでこの文章のあとに桃色枠として指名するのは微妙に失礼千万ですが。
本人見てないからイイヤ(°▽°)


2006年02月02日(木) 一人称に振り回されたワタシ

ワタシの現在の一人称は「私」です。
もうずっと「私」。
ちなみに「わたくし」ではないです。「わたし」です。わかると思いますが。

ワタシったら実は、この一人称というものが長いこと苦手でございました。
今ではめっきり女らしくなってフェロモンむんむん振りまいているワタシですが

スミマセン、見栄を張りました。

昔と比べたらめっきり女らしくなってキュートな魅力を振りまいているワタシですが(まだ見栄を張ってます)、小さい頃は「お母さんのお腹に大事なもの忘れてきちゃったね」と年中言われるような、男の子みたいな女の子だったのであります。
なもんで、たいていの女の子が使う「あたし」という一人称が、恥ずかしくて使えませんでした。
何か、自分には似合わないー、と、かたくなに思っていたのです。

では自分のことをどう呼んでいたかというと、本名出すわけにいかないので「じょりぃ」であてはめて考えた場合、

じょーちゃん

と呼んでおりました。
「これ、じょーちゃんの?」とか、「じょーちゃんはこっちが欲しい」とか、そういう感じです。
これがワタシの一人称の歴史の第一歩。
小学校にあがる手前くらいまで「じょーちゃん」と言ってました。

小学校に上がる頃から、友達からニックネームで呼ばれるようになりまして。
これも「じょりぃ」で置き換えてみると・・・うーむ・・・「じょり」とでもしておきましょうか。
微妙にニュアンスが違いますが。
6年生の1学期いっぱいまで、自分で自分を「じょり」と呼んでました。
友達もワタシを「じょり」と呼んでいました。
このころは既に、一人称に性別が介入してくることに煩わしさを感じておりました。

別にFtMとかではないと思うのですが。
「女らしいもの」を身に纏うのが、服にせよ言葉にせよイヤだったんですね。
かといって言葉使いが悪ガキ男子のように乱暴ということもありませんでしたが。
言葉が悪いのを母親が極端に嫌ったものですので、田舎の子どもの割にきれいな言葉で話しておりました。
「ふざけるんじゃねえよ」の「ねえよ」とかはいいオトナになってから使うようになりましたし、「てめえ」とかも使ったことありませんでしたってフツウですかそうですか。

両親は何度かワタシのこの「ニックネームで一人称を使う」習慣を矯正しようと試みました。
ワタシも「そうだよなー、不便だし。良くないよねー」と思いつつ、
「じゃ『あたし』って言ってごらん?」と言われると、その場で固まって、にへらにへらするばかりで母親のため息とともに呆れられておりました。

6年生の2学期に隣町に転校しまして。
当然親は「良いきっかけだから『あたし』に直してみようか?」と持ちかけます。
ワタシもいつまでも先生の前でも「じょりはこう思います」とかも言ってられないしー、と思い、承諾。

ワタシは転校当日から、「じょり」から「あたし」に変わりました。
なんてことないよー。友達にからかわれることもないし(転校前に挑戦してみたときに、案の定さんざんからかわれたことがあったのです)、これで自分を呼ぶときに卑屈にならなくて済むしー、と思い、ワタシは晴れやかな心もちで「あたし」デビューしました。

のはずだったんですが。

家に帰ってから、悲しくて悲しくて、部屋でひとりでしくしくと泣きました。
転校当日から友達からはとっても良くしてもらい、歓迎される形でクラスにとけ込めて、そのへんでは悲しさはなかったのですが、自分が「あたし」になってしまったのが悲しくてしかたなかったのでした。
親は当然心配しました。いじめられたわけでもない、初日から友達が家まで送ってくれて転校初日としては上出来だったのに、この子はなんでまた・・・前の学校に未練があるのかな?てな具合です。
泣いている理由を聞かれましたが、どうしても答えられませんでした。

なんとなく、大袈裟かもしれませんが、初めての「アイデンティティーの崩壊」みたいなものを味わったのです。
ワタシがワタシでなくなっちゃったー、えーーーん、みたいな感じです。

しかし、しばらくしたらそれにも慣れまして。

そして不思議なことに。

一人称が「あたし」になってから、ワタシは転校前より女の子らしくなりました。
転校前は女の子の遊びというものをほとんどしなくて、いつも男子とボール遊びとかしていたのに、転校後は女の子がするおしゃべりを楽しそうにし、男の子の話をしたり、女友達たちと女の子っぽさ炸裂めいた交換日記なんかもしちゃったりして。
隣のクラスの先生がカッコ良かったので、初めてマフラー編んでみちゃったりして。(渡せなかったんですが)

なんか、変なの。

と、自分でも思いつつ、ワタシは「あたし」に変わった時点で、「フツウの女の子」に同化しようと努力を始めていたのでした。
そういう意味では、本当にある意味、それまで築いてきたワタシのアイデンティティーはいったんチャラになってしまったのかもしれません。

中学の3年間も「あたし」を使っていました。
この頃にはもうハッキリと自分のセクシュアリティを自覚していて、ワタシは男子も女子も好きになる、しかもどうも女の子のが全然好き、ということを自分でわかっていました。
そのことで一番悩んでいたのもこの頃だったと思います。
とにかく、このことがバレたらワタシはもう学校にいられなくなる、と思っていたので、ますます「あたし」寄りな上っ面を磨きました。
男の子の話ばかりして、彼氏もつくって、男性アイドルにきゃーきゃー言って過ごしていたわけです。

ただ、「あたし」を使って大いに違和感を感じなければならない状況が2つありました。

ひとつは、転校前の友達に会ったとき。
「あたし」とも「じょり」とも言えず、会話に大変苦労したのを覚えております。

もうひとつは、好きな女の子と手紙のやりとりをしているとき。
・・・と言っても、その子に気持ちを伝えたわけではなかったのですが、それでも手紙を書きながら、書き終わって読み返しながら、「あたし」という文字はワタシの中でものすごい違和感を放っておりました。

なんというか、「女なのに、女が好きなんだ、ワタシ」という、そのことがクローズアップされる気がしてイヤだったんです。

ワタシの中では「あたし」というのは、ものすごく女性名詞なのでしょうね。
ちなみに、現在のワタシは自分のことを「あたし」と言う女性が一番グッときます。

が、「あたし」を身に纏い、男の子大好き!を身に纏うにつれ、逆に安心して心の中では女の子を追いかけることができたのであります。
大丈夫、これならバレないから、という具合に。

そして高校生になって。
ワタシは女子高でした。
4月から高校生、という春休みに先輩から「部活に遊びにおいで」という勧誘がかかり、高校では勉強も部活もしないと決めていたワタシだったのですが、かつての先輩には絶対服従の体育会系代表・ソフト部だったので、しぶしぶと出かけました。

そこで2つ上のケイ先輩に出会いまして。
ケイ先輩はすらっとしてボーイッシュでにこにこしておちゃらけている人でした。

男の子を好きになるような感覚で、ケイ先輩を好きになってしまいました。一目で。カッコイー!きゃー!ってなもんです。

部活は2回ほど顔を出し、あとはサボってしまったのですが、春休み中はケイ先輩のことで頭がいっぱい。

結果、ワタシはソフト部に入ることに。あらあら。

ケイ先輩に憧れまくったワタシだったんですが
ケイ先輩、抱いて☆という気持ちもなきにしもあらずだったんですが(抱いてくれっこありませんが)、ワタシのケイ先輩への愛情がどのような方向に向かっていったかというと。

ケイ先輩との同一化、でございました。

とにかくケイ先輩になりたかったのです。
笑い方も、話し方も、髪型も、歩き方も走り方も投げ方も打ち方も、友達のからかいかたもからかわれ方も、何から何までケイ先輩のマネをしまくりました。
先輩たちからも「この子ケイにそっくりだよね」なんて言われて、やったー!とアホのように思っていたのです。
ボーイッシュで気さくでなおかつシャイなケイ先輩は、同級生からも下級生からもモテモテでした。
なのでワタシもモテなければなりませんでした。モテませんでしたけど。
視聴覚室の机に「ケイ大好き(はあと)」と彫り込んであるのを見つけて、ワタシも誰かに、机にこのように彫ってもらわなければ!とバカなことを本気で思っておりました。

ここまで同一化を目指したのですから、当然一人称だってマネします。

高校一年から、ワタシの一人称は「ボク」になりました。

「じょり」から「あたし」になったことで崩壊したアイデンティティーは、ついに他者のそれにすり替わることに。
もう何やってんだかわかりませんねワタシ。

ただこれ、問題が。
女子高という閉ざされた空間にいるときはまったく問題なかったのですが。
家で彼女と電話しているときにうっかり親に聞かれ「おまえ、ボクって言ってるの?」と怪訝そうにされました。
ワタシは彼氏もいたので、彼と話しているときは急遽「あたし」に変えねばなりませんでした。
ダブルデートとか男子女子織り交ぜて遊びに行くときなどは、もうどうしていいのやらわかりませんでした。

要するに、男の子の前では女の子、女の子の前では男の子になっていたわけです、ワタシ。
分裂気味です。
一人称によって、人間性を振り回されるじょりぃ。一人称に支配され気味です。

ケイ先輩卒業後はケイ先輩熱も冷めて、しかしそのまま「ボク」でいっちゃって、今度は「ボク的」なじょりぃになっていったのですが。
上記のように振り回されていたので、当然、「ボク」もしっくり来ません。
英語ってうらやましいなー、なんて思ったりしました。どっちにしても「I」ですものね。悩まなくて済みます。
ていうか、自分で勝手に悩みを作り出していたんですが。でも当時はこれがいっぱいいっぱいでした。

高校を卒業して、専門学校へ進学することになりまして。
就職もイヤ、勉強もイヤ、の結果の情けない進路です。典型的なモラトリアム人間でした。

さて。
これからは「ボク」ではちょっと困ります。
閉じた世界からいくらか外に向かうわけですし。何しろ不便です。
どうしても自分のことをこう呼ばないと気が済まない、というわけでもありませんでしたし。 ということで

「なっちゃん、ボクこれから『私』って言うね」と、宣言するワタシ。
「うん。いいんじゃない?」
「変じゃない?」
「ボクのが面倒が多そうだし。変じゃないよ」
「なっちゃん、イヤじゃない?」
「(笑)慣れれば平気。すぐ慣れちゃうだろうし、たかが一人称だよ。名前が変わるわけでもじょりぃが変わるわけでもないし」

そうだ。たかが一人称だ。
安心して、「私」になったワタシ。
「あたし」でなく「私」を選んだのは、オトナになると男性でも「私」と使うし、どこで使ってももう何かを気にしなくてよさそうだったからです。もっとも一般的だったからです。
そして、ユニセックスな感じがしたからです。

もっとも一般的な一人称を手に入れたワタシは、それからやっと、ホントにチャラな状態になり、「じょりぃ」という人間と対峙できるようになって、少しずつ「自分らしさ」を確認しつつ、今にいたります。

たかが一人称なのですが、セクの問題と併せて、ワタシには常に重荷でございました。
なんであんなに振り回されたのか。

自分の自由を奪うのは常に自分です。ワタシの場合。
一人称の問題は、それが特に顕著でございました。
なーんてことを思い出して、久しぶりのサモピン更新となりました。おそまつさまです。


最後に余談。

ケイ先輩は、多分おそらく絶対  お仲間です。
3年ほど前に飲み屋で偶然会いましたが、まだ独身でしたし、雰囲気もまったく変わっておりませんでした。
「ケイ先輩!」と駆け寄っていったら、いつものようにへらへらと走って逃げられました。(いつもワタシから逃げるのはナゼ?ケイ先輩!)

ワタシもケイ先輩も社会人になってからもソフトボールしていた関係で(ケイ先輩は実業団に入ってました)、大会などではよく顔を合わせていたのですが、いつ会っても高校時代と変わらないケイ先輩。
そして「じょりぃ、この子、じょりぃのこと好きなんだって」と、自分のチームの後輩をワタシに紹介してくれたケイ先輩。
あたりまえのように紹介してくれましたが、ケイ先輩の後ろに隠れて恥ずかしそうにもじもじしていたあの子の様子は、「プレイヤーとして好きだ!押忍!」という体育会系のそれではなかったように思うのですが、もしやカムアウトだったのでしょうか。(違います)
そういう素敵な紹介は、隣りにきょんがいないときにしてくださいケイ先輩。 野暮なんだからもう。

ケイ先輩と女の子の話をしながら酒を飲み交わしたい。
ワタシのささやかな野望です。


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