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職業柄、出版社の人と会ってお話しすることが多くあります。
なんちゅうか出版社の編集者の人って、下手な研究者(←わたし)よりもその研究がおかれている大きな流れや、その研究を進めていく上で抜かしてはならない大事な点について気づいておられんじゃないかと思ってます。もちろん、編集者だから売れるためにはどうするかを考えてのことなんでしょうが。そういう編集者の人とお話するのは勉強になります。
そんな編集者のお一人がこのたび独立され、新たに出版社を立ち上げられたそうです。発行人の山内さんは、以前、某学会のシンポジウムを通じてお知りあいとなり、その際、怖いもの知らずで渡した拙論に丁寧にコメントを書いてお返事をくださいました。直接あってお話したのはその時だけですが、大変、鋭く、きれる方だという印象をもちました。
書店の名前は遠見書房。「臨床心理学や精神医学、福祉学を中心とした、実践家に役立つ本と、その周縁にある「人間って何だろう?」という問いを命題に孕んでいる学際領域の本と、この二つのスペクトラムのなかで、しっかりとした本づくり」「書き手と読み手の距離を狭め」て、読み手は書き手となり、また書き手は読み手になっていけるような、そんな相互作用を起こせるような本作りを目指しておられるとのことです。
実は少し前にお知らせのお手紙をいただいていたのですが、このたびホームページが開設されていたので、ここでも紹介します。まだコンテンツはないみたいですが、これからどんどん豊かになっていくんじゃないかと楽しみにしています。
2008年12月13日(土) |
目を開けて夢をみていたのだと気づくための一冊 |
有元典文・岡部大介(著)『デザインド・リアリティー半径300mの文化心理学』北樹出版。
著者の先生方からご恵送いただきました。日頃から、その研究をみてひそかに勉強させていただき、尊敬している先生方です。ありがとうございます。大変勉強させていただきました。
本書では、いわゆる「状況論」とか「社会文化的アプローチ」とか「活動理論」とか「アクターネットワーク理論」とかいった考え方が扱われている心理学の専門書である。
もうかれこれ10年以上前、私がこうした考え方(の一端)にふれて興奮していた頃、状況論とは小難しく、初学者が容易に近づくのを拒むような雰囲気をもった学問だったように思う。難解な用語、独特の文体といったものが、本書の著者らの言葉を使うならば、初学者を遠ざける「デザイン」をつくりあげていたといったらよいだろうか。
もしかしたら今でもそうかもしれない。けれど本書は違う。難解な理論や用語がわかりやすく、題目にあるとおり半径300mにある実践(コーヒー店、焼き肉店など)身近な題材を用いて、説得的に論じられている。しかも、わかりやすくしようとして、内容まで「そこそこ」になってしまう専門書とは違う。内容もまた、現在、まさに議論されていたり注目されていたりする動向をふまえたものになっている。
私が理解したかぎりでは、著者いわく「文化」とは、現実の見え方のデザインである。いかに自然に、それ自体があるかのように見えても、人間はこの世の中を徒手空拳で生きてきたのではない。もしそのようにみえるのだとしたら、それはスピノザが「目をあけて夢をみる」といった状態に近い。むしろ、人間は世界と関わるために道具をつくりだし、それを蓄積ー継承し、自分たちが衝動のままに生きても不都合がないように、現実のデザインと再デザインを繰り返してきたといえる。これは現実の変革を可能にするという意味では、非常に夢のある世界観だし、私たちがデザインしていくしかないのだという意味では、非常に厳しさを感じる世界観だと思う。
本書を読んで、僕は10年ほど前に私がはじめて状況論にであったときと同じように知的興奮を覚えた。その証拠に送られてきた当日に読み終えてしまった(レポートの添削も、出さなければならなかった資料もあるのに!!)。
本書は、もちろん知識が増えるということもあるのだが、それだけではなく、むしろ世界の見え方が変わっていく本である。本書の主張になぞらえていえば、この本自体がこれまでの心理学が提供してきた世界観=現実のデザインを変更する力をもっている。本書を読んで多くの人がこの知的興奮を覚えてくれたらいいなと思う次第である。
2008年12月01日(月) |
『軽度発達障害:繋がりあいながら生きる』金剛出版を読んだ。 |
著者からご恵送いただきました。どうもありがとうございます。しっかり勉強させていただきます。
いわゆる「発達障害」を専門としておられる田中先生が、これまで発表してきた論文の集成というかたちをとりつつ(ただし1、5、9、10章は書き下ろし)、発達障害をとらえる新たな視点を提示しようとされている本。具体的には、発達障害を生物学的に、個的能力に還元するのではなく、彼(女)らに関わる私たちとの関係性を含めてとらえよう、障害のみを注視するのではなく、障害がある人々の人生をも視野にいれようという主張に貫かれた本だという印象をもちました。
「軽度発達障害」という用語は、一時期頻繁に使われて教育界に与えるインパクトは強かったが、最近では(少なくとも私の周囲では)もはや使われなくなってしまった。「軽度」という言葉が、知的側面のみをとらえた言葉であり、広汎性発達障害のように知的側面からだけでは測れない生きづらさを抱えた子どもにとっては、総体としての障害自体が「軽度」だとの誤解を生むという批判も多く、そのことも使われなくなった理由であると僕は認識している。
というわけで専門家であれば、避けて通りそうな用語を、本書ではあえてタイトルとしている。本書によれば、著者のこれまでの関わりが「軽度発達障害」という言葉と同様に、障害とそうでないもの、生物学的な原因とその人の人生といったような境界をいったりきたりする曖昧さをもってものであり、そのような関わりを志向したいという著者の願いがあらわされているようだ。
著者は発達障害(彼らがもつ発達の課題)を、生物学的なものとしてのみ、すなわち個人のなかに存するものとしてみるのではなく、常に時代的、思想的、社会的に彩られつつあらわれる課題であるととらえたいという。「彼(女)らはどのような問題なのか」と問うのではなく、むしろ「どうして問題にみえるのか」「誰にとっての問題なのか」といったように、問題をみいだす人と見いだされる人との関係性の問題とするということだ。これは私が『関係性のなかの非行少年』で、非行少年を対象として試みようとした視点であり、したがって著者の主張には全面的に同意したい。
と同時に、著者が医師であることを考えれば、心理学者や社会学者が学問的アジェンダ設定の流行にのり、「学校の医療化」とか「実在論から関係論へ」などといっているのとは気合いの入り方が違うようにも感じられる。それが感じられるのは、例えば、医療が教育現場に浸食しているという批判をひきつつも、それを「『発達のアンバランスさは存在する。しかし、それは障害ではない』という反精神医学の主張に準拠した論にしてはならない」というくだりである。ここには現実に困っている人の人生へとコミットしようとする視点がある。
本論でも、発達障害の内面世界の理解のための論考(第5章)や、児童自立支援施設の実践(20章)をはじめとして、近年、発達障害との結びつきが盛んにいわれるようになった非行臨床についても複数の章が割かれている(8,15章)。また、学校現場で「発達障害」といえばすぐに連想される「特別支援教育」(21-22章)についても、ノウハウを提供するような論考というよりも、むしろ特別支援教育とはどのような実践なのかを反省的にとらえなおそうとするような主張があり、とても印象に残った。最終章にて、著者は「エコロジカル生育精神医学」という新たな視座を提示されている。これは生物学的原因のみに注目するのではなく、生物ー心理ー社会のそれぞれに目配りをして、心理臨床やソーシャルワーク、学校教育といった実践はもちろん、文化、歴史といったものまで包括するとても大きなものだ。
これは僕の意見だが、子どもの問題を、子ども自身の生物学的根拠にのみ帰属せず、関係性の問題としてとらえる視座をもつと、必然的に子どもの問題は大人の関わりを、子どもの行動に影響を及ぼす外的変数としてのみ扱うことを許さなくなるように思う。子どもを中心としつつも、大人同士がどのような関係をもてるのかということが、「問題」の重要な一部分になってくるように思う。著者は、こうした枠組みを提示することで、大人同士の関係(=連携、協働)の質を変化させていこうとしておられるのだと思う。
ともかく田中先生の著作がこれまで多くの人から注目を集めてきたのは周知のことだが、これからはもっともっとその重要性が認識されていくことだろうし、されなければならないと思う。精神医学のなかでは異論も多いときくし、いろんな考え方があるのは当然のことだとは思うが、先生の考え方がもっともっと理解されるとよいと思う。たしかに、これまでの精神医学を「破壊」するものだと思うが、それは単に「ぶっこわす」というネガティブなものではなく、多くの子どもを生きやすくさせるために、創造的な再生をうながすものであるのだから。
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