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2008年10月15日(水) |
センスメーキングの選択肢 |
教育心理学会のシンポでは、加藤さんから社会構成主義的な現場介入の哲学として「選択肢を増やす」ことが貢献として語られました。例えば、こんな例です。
パニックに陥った子が机をふりあげていまにもそれを投げ出そうとするとき、教師がすかさず近寄って机をおさえつける。そして「よく我慢した」という。こうすることでパニックに陥ったことは同じでも、「暴れた」問題児ではなく、「我慢した」子という結果を導くことができるというわけです。
なかなかトリッキーな例で、すぐに真似できるものでもないでしょう。でも、とても勇気づけられる例だと思いました。ところが、僕は「選択肢を示す」という言葉にひっかかりを覚えてしまいました。その時、うまく言語化できなかったけれど、いま考えるとこういうことです。
選択肢を示すというとき、しばしば、なされるのは「いまだないもの」をひきあいにだして、「実現したいま」をダウングレードするやりかたです。「ちょっと気をつければわかるはずなのに、あなたはまだ気づかない」というのでも「あの子の発しているSOSに気づいてやれば救いの道をひらくこともできるのに、あなたは気づいていない」でもいいでしょう。
いずれにしても「いまだないもの」、すなわち、実現するかどうかわからないものをひきあいにだして、今あるものを批判するという構図です。これをすることは簡単です。社会構成主義というのは、AをnotAをひきあいにだすことで相対化するやり方です。ですからAをやるのは当人であり、研究者はそこに足りないものなんでも(なにしろ、notAとはA以外の全てなのですから)指摘すればよいのですから。
これに対して「すでに実現している」結果をみつけるのは簡単ではありません。研究者もまた、その問題状況にコミットしてそれを見つけ出さなければならないからです。ここで見つけられているものは、だから「あなたの目の前にはAとBという道があります。Aにいくこともできるし、Bにいくこともできます」と未来にむかって呈示するものではない。
むしろ「あなたもひょっとしたら気づいていたかもしれないけれど、あなたにはAとBという選択肢があったのです。あなたはAにいく危険性もあったのにそうはしなかった。それで今があるのですね」という形で、つまり過去形で呈示することではないでしょうか。
そんな過去形の呈示がなされてなんのメリットがあるのかという人もいるかもしれません。選択肢とはAとBがあって、それを選べるタイミングでなければ意味がないではないか。すんだことを蒸し返してなにになるのだ、と。たしかにそうかもしれません。
しかし、意義もあると思います。思うに、それはいまある一方の道の意味をより豊かなものに生きるためにあるのだと思います。矢守先生の言葉を借りるなら「デシジョンメーキング」ではなく「センスメーキング」のための選択肢といえるのではないでしょうか。
上記の加藤さんの示した例で重要なのは、選択肢は「いまだないもの」として研究者によって現場に示されるのではなく、「すでに実現している」ものとして示されるということではないでしょうか。
2008年10月14日(火) |
フィールドワークは現場を変えるか? |
最終日の最後にKさんの企画する「フィールドワークは現場を変えるか」というテーマに関するワークショップ。
何を「変化」とみなすかという問題もあるが、変わるか変わらないかといえば「調査する対象に影響を与えない」という調査の前提がfakeなのは、それこそずっと以前から議論されていたことであり、その意味では影響を与えないわけがない。
そして現場が変わると同時に、自分も変わっている。学校コンサルテーション研究をしていても、コンサルテーションをして学んでいるのは学校の先生だけではなく、それを通して私(フィールドワーカー)もまた学校の困難、歴史について「知っている」のを超えて学んでいる。お互いに変わっているのに、どうして一方が変わっているという感覚が得られるのかというのも面白い問題だ。
「誰が変えたのか」というエージェンシーの問題もある。他のWSでも話題になったが、学校に入ってみると実にたくさんの専門家が互いに知らないままに同じ学校に入って仕事をしている。学校の先生だって専門家がいうようなことは、それと知らずに試していることがある。このような状況で、学校に入っていって「(自分が)変えた」という感覚をもてたとすると、それは誇大妄想なのかもしれない。
少なくとも、生徒指導や教育相談に関わる部分に限ってみても、自分がSCとして入っている学校は(私からみて)好ましい変化をしているようにみえるけれど、そこに自分の寄与がどれほどあるのかというと「うーん」と考えこまざるをえない。
このように考えてみると「フィールドワークが現場を変えるか」という問題は「変えるか変えないか」という問題ではなく、変わったようにみえたとしたら「その変化は、いかにみてとれたのか」「どうして他でもなく自分にその変化を帰属して考えられたのか」という問題なのかもしれない。
新しい本が出ました。
『スクールカウンセリングと発達支援』宮川充司・津村俊充・中西由里・大野木裕明(編)ナカニシヤ出版
私は13章の「非行少年とその更生」を執筆しています。 本全体の構成がどちらかというと初学者向けだと思うので、概論的なことが書いてありますが、そのなかでも最新の動向をふまえたつもりです。
「非行」については、スクールカウンセリングがターゲットになっているわけですので、少年院や更生保護施設での処遇と同じというわけにはいかないでしょう。例えば、発達障害をあわせもった非行少年への指導などを考えた場合、品川裕香(著)『心からのごめんなさいへ:―人ひとりの個性に合わせた教育を導入した少年院の挑戦』で詳しく述べられているような支援方法は多いに参考になりますが、では、学校を少年院みたいにするのか?できるのか?というと難しいのではないかと思います。
ただ、学校の先生にお聞きすれば、ある程度経験年数のある方ならどなたでもひとつやふたつのエピソードはお持ちなものですし、そのなかでどうしたらよいのかという自分たちなりの理論を言語化しておられる方もおられます。SCはそういう先生からもっと学ぶべきであると思います。
学校の先生とSCの、どちらが対処がうまいといっているわけではなく、相補的だと思います。SCが学校現場での協働をベースに活動するかぎり、SCの専門性とは、自分だけで決められるものではなく、どのような他者にとりかこまれているのかに依存しているからです。学校現場で先生方が使っている知識をふまえたうえでの、個人の内面理解なのではないでしょうか。
現役でやっておられる方にも少しはお役にたてるものになっているとしたら嬉しい限りです。是非、手にとってみてください。
加藤司・谷口弘一(編著)『対人関係のダークサイド』北大路書房
著者のお一人の澤田さんよりご恵送いただきました。ありがとうございます。 「ダークサイド」という書名のとおり、「浮気」「だます」「うらやむ」抑うつ」「人を苦手になる」「恋を失う」「暴力」「いじめ」「DV」と、これでもかとダークな内容がならんでます。そして表紙も心無しかダークな感じで、なかなかいい感じです。
ダークな部分には誰しも目をむけたくないところかもしれません。しかし、シャミッソーの『影をなくした男』にもあるように、人間、ダークな部分がなければ生きていけないものかもと思います。澤田さんは第三章の「うらやむ」をご担当。ここで嫉妬と妬みが扱われていますが、社会心理学の理論をもとにして、実証データから丁寧に論じられています。他の章も非常にわかりやすくまとめられていると思います。わが卒論生でも、妬みや暴力といったものにひかれ、それを研究したいと考える人がいます。そういう人にとってよい入門書となると思います。
ところで、後の方では嫉妬と妬みのダークサイドが扱われています。ということは、嫉妬や妬みそのものは必ずしもダークとはいえないのかもしれないですね。たしかに言われてみれば、「うらやましい」ことのなかには「羨望」もあると北山修の講演にあったのを想い出しました。
章の最後には妬みや嫉妬をのりこえるには、人をうらやんでいる自分の気持ちに気づきながら、それに流されずに暮らしていくこととあります。そういう気持ちがあると広言するのはなかなか勇気のいることだから言わないけれど、僕も「妬み」や「嫉妬」を感じないといったら嘘になります。まあ、妬んだって結局なんにも生産的でないわけだから、それなら生産的になるようにしっかり自分で頑張ろうと思うようにしています。・・・いつもとは行きませんけどね。
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