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2007年02月28日(水) 博士論文公開審査会のお知らせ

3月2日(金)18時より

お茶の水女子大学生活科学部1階125教室において、岸野麻衣さんの博士論文公開審査会があります。

タイトルは『小学校の授業における学習者アイデンティティに向けての指導ー低・中学年の授業観察と教師インタビューから』です。

面白そうな題名ですね。この論文の一部は、教育心理学研究の優秀論文賞にも選ばれたものです。全編にわたって、フィールドワークとインタビュー調査から浮かび上がってきた知見がおりこまれています。

教師の実践的知識、文化的道具に媒介された学び、日本型の授業のあり方、、、などなど魅力的なキーワードがならんでいます。

それだけにとどまらず、現代の教育界にとって喫緊の課題でもある特別支援教育にも示唆的な内容がおりこまれているようです。

ご興味とご関心のある方はドーゾ。


2007年02月26日(月) わかりやすいことは書かなくてもわかる、書くべきことはわかりにくいからこそ書かねばならぬ

発達109号に松本光太郎さんが「なぜ古野さんのコーヒーを飲む姿に僕は魅了されたのか」という小論を書いていらっしゃる。

これは松本さんが参与観察していた高齢者施設で出会った古野さん(仮)というおばあさんとのやりとりを描いたもの。古野さんという方は、すでにかなりのご高齢であるにもかかわらず、コーヒーをたしなまれる。親類の方の配慮もあって松本さんとその古野さんは一緒に散歩中に缶コーヒーを飲むことになる。で、そのコーヒーをぐーっと両手をそえて力強く飲む、その姿に松本さんがとても魅かれたのだという、まあ、言ってみればただそれだけのことをこれでもかと書いたのが、この小論である。

うーーーん、デ、ドウナノ?というつっこみは当然あろう(いや、むしろそれがまっとうな受け取り方であろう笑)。あろうが、まあ、そんなことはこの際、どうでもいいのである。というか、おそらくその「デ、ドウナノ?」とつっこむ私たちの納得の構造といったものを逆照射してくれる小論ではないかと思ってみたり・・・。

おりにふれ、松本さんの文章を読んでいると、少しばかりグッとくるものがある。以前にも、松本さんのなにげないポスター発表をみて、内容はもうすっかり忘却されてしまっているのであるが、たしかにその後、僕は祖母のことを思ってどうしているだろうなーと思ったのをおもいだす。松本さんのお師匠の南先生が、昔、澤田先生と著された「記念の作業」という小論も、僕にとってははじめて読んで感動した論文である。たぶん、自分自身の個人的な関心というか、なにかに共鳴するものが記述にあるからなのだろう。今回もそうだ。

質的研究の評価基準として、知的に頭でわかるというのではなく、わかるという前に、なにか身体が動いてしまうような、そういうわかり方があってもいいのではないかと思うわけですな。というのも「デ、ドウナノ」というつっこみに、どう答えたら僕らは納得するのだろうと考えてみる。それは古野さんがコーヒーを飲む姿が象徴しているものがこれこれだと指示し、それがどのような動作やエピソードから導かれるのかが記述され、私たちにとって了解可能なgood storyに落とし込まれた時に、われわれは「なるほど、そういう意味があるのだな」と納得するのだろう。

でも、おそらく古野さんのコーヒーを飲む姿に、松本さんがひかれたことに、そんなにはっきりした理由なんかないのだ。ただ、「そんな感じがした」としかいいようがない、なんともいえない感じこそが表現されるべきことなんだろう。誰にでも理解可能な、一般的な記述になった瞬間に、松本さんが古野さんに魅かれたその感じは失われてしまうんじゃなかろうか。思えば、クライエントとセラピストのなかでつむがれる物語なんてものもそうなんじゃないか?。北山修先生が黒木先生との対談のなかで次のようにいっている。

私たちの相手は、患者さんひとりだけなわけで、作家のように、沢山の人たちに評価され、面白いと言われるようなことをやっているわけではないんです。確かに小説家と似たようなことを我々はやっているけれども、決定的に違う部分は、そこですね。手間ひまかかるけれども、小説家のように報われることもなければ、簡単に面白い物語が得られるわけでもない。二者物語と三者物語の違いというのかなあ。ふたりだけで紡ぎ出した物語と、第三者に分かってもらうために紡ぎ出した物語とは違うんです。この二者物語というのは、臨床の場面にしかなくて、誰もがすぐに読んで喜んでもらえるものでもないね(北山・黒木, 2004)


その論文にどんな意味があるのかといわれて、簡単に言葉にできる、というか、読者に受け入れてもらえるような言葉になるのであれば、おそらく古野さんのような高齢者へのケアに対するスタンスといったものはとっくの昔に変わっただろう。

いやいや別に、すぐにケアへと結びつけなくてもいいんだけど、我々が高齢者の問題をみる目というものも自ずからかわっているだろうと思うわけである。松本さんが古野さんの缶コーヒーを飲む姿に魅かれたさまを分厚く記述して、でも、デ、ドウナノ?という感想を大方の人がもつのだとしたら、それは私たちの高齢者をみる目の貧困さをあらわしてもいるのだろうと、そんなことを思った。

もっとも、だからこそ相手に届く言葉をつくりだすのも研究者の仕事だとは思うのだけど・・・・.







2007年02月25日(日) what is (suppose to be ) scientific.

面白そうな研究会の告知です。僕はあいにくいけそうにないです。みなさま、どうして質的研究でなければならないのか、質的研究で、どんな未来を想像するのかなどなど、考える会にもいきましょうね。

ただ、コード化して、まとめて、方法には「○○○法を用いて、○○的○○に至るまで分析を繰り返した」と書いていっちょあがりじゃないですよ。

そういえば実は、第1回の質的心理学会では、僕が企画者で「質的心理学はいかに「科学的」たりえるか」というワークショップをやりました。その時は、結局、答えは出ずじまいだったと反省しています。

登壇者のお一人が終わったあとで『「科学的」というテーマをみたときに、自分の立場はむしろ「(近代)科学」を否定するところから始まっているものから、どんな話題提供をしようかと悩んだ。』とおっしゃってました。むしろ、自分は科学じゃないという立場が、いかなる意味で、新しい科学となりえるかを問いたかったというのが企画趣旨だったのですが、説明不足でしたかね。

そういういきさつもあり、このワークショップは面白くなってほしいところです。先日の質的研究セミナーでも、佐伯先生が「科学」というトラウマから心理学は逃れられたのかというテーマでご講演されました。これもまた科学という意味を新しく問い直そうよというご提案だったと思いますが、それとはちょっと違う立場から、その先をいきたいというワークショップだと思います。

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「心理学における質的研究と科学:その包摂と境界」
日時:2007年3月3日(土) 14時〜17時半
場所:名古屋大学VBLミーティングルーム 
http://www.vbl.nagoya-u.ac.jp/
登壇者
(趣旨説明および司会) 
  松本光太郎(名古屋大学エコトピア科学研究所) 
(話題提供)
  村上幸史(大阪大学人間科学研究科) 
  荒川 歩(名古屋大学法学研究科)
(コメンテーター)
  伊勢田哲治(名古屋大学情報科学研究科) 
  サトウタツヤ(立命館大学文学研究科)
企画趣旨
 「君の研究は科学ではない」,そんな言葉を投げつけられ気持ちがふさぎこんだ経験はないだろうか。質的研究が科学であるか否かという議論は,未だに決着していない課題である。そしてこれらの課題に取り組む際には,一つに科学という枠組みをどのように見立てるのか,二つに科学という枠組みにこだわるのか否かという二つの検討の方向性がとり得る。心理学あるいは質的研究は科学であるのか,仮に科学であると考える場合,その時に想定する科学という枠組みはどのようなものであるのだろうか。また,科学という枠組みにこだわらない場合,心理学あるいは質的研究はどのような知的生産の学問でありうるのだろうか。
 本企画は,科学という軸をめぐって質的研究はどの位置にいるのか,もしくは科学という軸は質的研究にとってどのような位置にあるのか,大風呂敷であるが,そのような問いについて具体的な実践を基にした話題提供から議論を広げ深めていくことを狙いとしている。
 企画の進め方は,まず心理学における質的研究の現状について松本が概略をお話しする。次に,村上さんから,「運」を研究することを通じた疑似科学の位置づけに関する話題提供をしていただく。そして,荒川さんからは,社会の要請に対する応答の問題と質的研究が産出する知識の適用方法について話題提供をしていただく。
 コメンテーターは,お2人の先生にお願いした。1人目は,『疑似科学と科学の哲学』をはじめ科学哲学・科学社会学に関する著作を公刊し科学の線引き問題に詳しい伊勢田さんから,話題提供を踏まえたうえで,科学全体からみた質的研究の位置づけについてコメントをいただく。2人目に,性格・血液型・知能指数など「科学っぽい」心理学的知に関する著作や心理学のこれまでの軌跡(心理学史)に関する著作を公刊しているサトウさんに,心理学の内部から見た質的研究と科学との関係についてコメントをいただく。その後,フロアからの反応を含めて議論を深めていきたい。
                        (文責:松本)
参加申込
 会場設営の関係上,事前に申し込みいただくようお願いいたします。当日参加も受け付ける予定ですが、できるだけ事前申し込みをお願いします。

 (1)参加費 500 円(当日支払い) 定員50 名
 (2)参加ご希望の方は、氏名・( もしあれば) ご所属・E-mail アドレスを記入の上、下記お申し込みください。

参加申込先・問い合わせ先
  松本光太郎 k-matsumoto@esi.nagoya-u.ac.jp
  主催:てんむすフィールド研究会
  共催:ボトムアップ人間関係論の構築
     ( 日本学術振興会 人社プロジェクト)


2007年02月24日(土) 質的研究法は教育研究をどう変えるか

金城学院大学を会場にしておこなわれた日本質的心理学会研究交流委員会企画セミナーの『質的研究法は教育研究をどう変えるか』に出席してきた。250名もの参加者がいて、事前にはどうなるんだろうと不安もあったものの、指揮をとってくださった長谷川さんの完璧な用意のおかげで、大きなトラブルもなく無事終了。私はほとんど出る幕がなかったが、研究交流委員として、ちょっとだけお手伝い。

最後の佐伯先生のご講演しかちゃんと聞けなかったのだが、いつもの佐伯節で、元気がでるお話だった。先生がアメリカに留学された当時の、認知革命の様子。そこから日本に帰ってきて、とにかく独立変数と従属変数をきめ、結果がでればそれでよし、理論なんてどうでもよいという「なんでもあり」な当時の日本の状況への幻滅。そして、本当におもしろい研究をやらねばならないという危機感から『認知科学選書』をだすにいたった経緯など。

まあ、状況論やナラティブ・アプローチにとりくみ、それをふまえつつ、乗り越えていこうとする身からすると、いままでに語り尽くされた話題というふうにもとれるかもしれない。けれど、一般向けのワークショップに何か新しいことを求めてはいけないという気もするし、なにか新しい手法が普及していく段階では、つねに原点にたちもどって説教モードで語る人も必要なのかもしれない。

ひとつ新鮮だったのは、認知科学選書の著者の執筆時の年齢。僕は修士論文のころは茂呂先生の『人はなぜ書くのか』や、佐々木正人先生の本をよく読んだものだが、茂呂先生がこの本を書いたのは32歳、佐々木先生も35歳の頃なのだそうだ。そうか、当時、僕と同年代の著者によってこれらの本が著されたのかと、あらためてすごいことだな〜と思えてくる。僕も20年たって、まだまだ若い人に読んでもらえるようなそんな本を書いてみたいものだ。


2007年02月13日(火) エマージェンス人間科学:理論・方法・実践とその間から

北大路書房から新しい本がでました。その名も『エマージェンス人間科学:理論・方法・実践とその間から』。西條さん、菅村さん、斉藤先生を中心に、11日に最終回をむかえた『次世代人間科学研究会』のメンバーで編みました。

次世代人間科学研究会というのは、4年半ほど前に発足して、異領域にある人々のコラボレーションによって、新たな何かがうまれることを狙った会といえるかと思います。僕も最初のころからメンバーに加えてもらってやってきました。研究会もさることながら、メーリングリストが特に活発で、そのなかでの刺激的な議論からいろいろな見解がうまれていったと思います。

さて、この本は、そういう研究会の最後として、いろいろな人がコラボレートして何かが生まれる(エマージェンス)ことをねらって編まれた本です。

僕は第7章の「臨床心理学実践のフィールドワーク:エビデンスによる臨床の組織化」というのを書きました。これも次世代研の議論から着想をえたものです。みな、それぞれに面白い論考がそろっています。

ただし本書の特徴としては、個々の論考だけではなく、2人の編者同士がくんで互いの章にコメントをつけあい、さらにそれへのリプライを掲載することで、ひとつひとつの章をたたき台として、そこからたちあがる議論そのものを読者に届けたいという意図があります。「和して同ぜずを地でいくスリリングな対論」という池田清彦先生のオビはそういうところをうまく表してくださってると思います。

こういう議論を編者のあいだだけで終わらせるのはもったいないと思いますし、多くの読者に手にとってもらい、さらなる議論の渦をつくっていただけるといいなーと、思ってます。





『エマージェンス人間科学:理論・方法・実践とその間から』
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2007年2月発売(北大路書房)

【共著者】
西條剛央・菅村玄二・斎藤清二・京極真・荒川歩・松嶋秀明・黒須正明・無藤
隆・荘島宏二郎・山森光陽・鈴木平・岡本拡子・清水武

【目次】

はじめに 西條剛央

セッション1 理論
 1章 菅村玄二:人間科学の意味するところ
     清水 武:人間科学を考える動機とその経緯
      菅村玄二:人間科学と私

 2章 西條剛央:理論とは何か〜構造構成主義アプローチ
     京極 真:構造構成的可謬主義の定式化
      西條剛央:原理的欠陥とは何か?

セクション2 理論と実践の間
 3章 京極 真:探求主義という新たな認識論の構想
     西條剛央:探求主義のさらなる探求のための基礎づけ
      京極 真:他者問題に対する構造構成主義的見解

 4章 無藤 隆:理論と実践の対話を目指して〜10の方法
     岡本拡子:理論と実践を往還する中間人
      無藤 隆:理論的生成の場としての現場

セクション3 実践
 5章 岡本拡子:実践のための実践〜保育者養成における「学び」
     無藤 隆:「反省的実践者」モデルの深化に向けて
      岡本拡子:反省的実践者の「学び」

 6章 山森光陽:学校における実践研究覚え書き
     松嶋秀明:子どもの姿が見えること,見えないこと
      山森光陽:教育実践研究における制約

セクション4 実践と方法の間
 7章 松嶋秀明:臨床心理学実践のフィールドワーク〜エビデンスによる実
践の組織化
     山森光陽:了解可能性,許容可能性,そしてエビデンス
      松嶋秀明:エビデンス・ベースド・アプローチのレブレクシビティ

 8章 黒須正明:ユーザー工学に至る道〜僕の精神的遍歴を通して
     荘島宏二郎:黒須論考(ユーザー工学に至る道)へのコメント
      黒須正明:荘島評について

セクション5 方法
 9章 荘島宏二郎:現像論スケッチ
     黒須正明:荘島論文「現像論スケッチ」について
      荘島宏二郎:黒須コメントを受けて

 10章 鈴木 平:全体性の科学としての人間科学〜方法論と可能性
     荒川 歩:方法論の輸入の方法と意義
      鈴木 平:全体へのアプローチと部分へのアプローチ

セクション6 方法と理論の間
 11章 荒川 歩:誰のための人間科学?〜Narrative-based knowledges (NBK)の発想
     鈴木 平:人に優しい科学の可能性
      荒川 歩:Narrative-based knowleges(NBK)と「科学」

 12章 清水 武:方法と理論の重要性を考える〜知覚研究の一例から
     菅村玄二:ダイナミックタッチ研究の人間科学的側面
      清水 武:菅村コメントへのリプライ

最終章 斎藤清二:次世代人間科学の挑戦〜私と世界とを結ぶもの

あとがき 西條剛央
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2007年02月08日(木) 転移はおこるのか、それとも視点なのか

水曜日は「転移」についての研究会@茗荷谷。学習科学サイドからは白水さん、状況論サイドからは香川さんが発表された。

転移といっても「転移/逆転移」のあれではなく、学習心理学でいう転移、簡単にいえば、ある場面で学んだことが、状況を超えて別の場面にいかされるという現象のことである。この概念は、教育場面はもちろん(そもそも「学校」は転移を前提としている)、心理療法でもとても重要になる。面接室のことは面接室のことで、外のこととは関係ないというのであれば、その意義は人々に理解されにくいだろう。

とはいえ、実のところ、面接室内でおこることよりも、それ以外の場面でクライエントがやっていることの方が、症状の変化に寄与しているというのが最近の妥当な見解だろうと思う(心理療法においても)。そこで、面接室外でのクライエントの行動を、どれだけ考慮にいれ、それにどれだけ影響を与えるように面接室内での会話をデザインするかということが議論されているのだと思う。

ただし、ある状況論の人にいわせると、例えば欧米の研究などでは、学習科学の成果は、そもそも学校文化に親和的な家庭を背景とする生徒を相手にしており、Willsなどの研究にあるような反学校文化にすむ生徒、あるいは、教室談話へのアクセスに失敗するマイノリティの問題などをどうするのかという問題はいまだ十分に解決されていないということになる。

そういったそもそも学校での勉強にリアリティも意義もみいだせない子どもに何を提供するのかということを考えなければ、学校での授業内容が、あるテストで測られた学力によって「転移したといえる」といってもむなしいのではないかということになる。

そもそも、状況論サイドから転移をとらえれば、転移というのは実際におこるとかおこらないという問い方ではなく、人々の変化をみるときの視線のありようであるし、その変化を可視化する道具(例えば、全国統一テストとか、学校間での連携など)の配置のあり方として問いをたてようということになる。つまり、その視線の妥当性自体を問い直す研究も必要なのではないか、ということだ(香川さんの研究もその流れであった)。

非行少年のSST研究でも重要になるのは、いかに少年にとってリアリティがあり、少年にとって学ぶ価値をみいだせるスキルをいかに社会規範にそわせたかたちで設定するのかということだ。つまり、非行少年は一般的に、社会的スキルが乏しいから非行をおこすととらえられることもあるが、それは、例えば人付き合いが苦手で非社交的な子どもにとってのそれとは全く違う。彼らはある意味、とても社会的である。過剰に、といってもよい。だから、ただ単に社会的スキル(大人がいいと思うようなもの)を教えてみても、彼らはまったくのってこないし、ただ単に「その場でうまくやる」ことに長けてくるだけで、いっこうに認識がふかまったようには思えないということになる。当然、社会に戻れば失敗して逆戻りしてくる。で、最低限、社会に適応的で、なおかつ彼らにとっても切実な問題をさがしあて、うまくデザインして提示することが必要になってくる。

ただし、その一方で、彼らが社会にでて再び失敗するという時、その失敗の様相というのはひとくくりにして論じることはできない。「失敗」というと簡単だが、きわめて具体的な状況のなかで、一回一回の逸脱・問題化はおこっている。こういった生々しい状況を捨象して、罪が1回、再び1回と数えれば、たしかに、立派な「再犯」なのであるが、それを同じ「罪」1回と呼ぶことが実践的に有益とは思えない。

そして、施設なり、家庭なりが唯一の「悪い影響」のインプット先であり、少年の逸脱がそのインプットの発露(転移先)と人々に信じ込ませてしまえる社会構造というのもまた、相対化していく必要があると思う。処遇の「効果」という視点を超えて、そのときそのとき、彼らが適応的にやっていくことを支援するネットワークのデザインをすることが必要だとも思う。

・・・・・・というようなことをふまえて、上記の2つのサイドの議論をきいて、自分の非行少年研究とむすびつければ、両方の視線の緊張関係をもたなければ、有効な研究になりえないし、もっと両サイドの対話をすすめるべきだということになる。まあ、当たり前だ。その意味では、今回の研究会が設定されたのはよかったのだが、もう少しかみあった議論になるとさらによかったなーと思った。

そのためには?。いろいろあるだろうが、ひとつには研究者の立場というものを明確にするということはあるのかなと思った。学習研究として、どちらの立場が上等かということを競うのではなく、相補的なものであり、緊張関係をもって協働するようになるのがよいと、僕は思う。おそらく、およそ学習科学というものは、教育者(に近い)的スタンスをもっているように思う。その視点からすれば、どう教えたら賢くなるのかと考えるのは至極当然ではある。100%でなくても、少しでもその問いに近づける努力があればよい。

状況論サイドはどうか。別に、その研究がいかに実践に寄与するかなどと生真面目に考えなくてもいいけれど、少なくとも教育研究なのであれば、やっぱり自分のスタンスが実践とどのような関係にあるのか、ということをレフレクシブに問うていくのは必要だろう。まして、状況論というのは、研究者が単なる「壁の花」的観察者であるとは考えないわけだから、よけいに。自戒をこめて。


2007年02月06日(火) 次世代人間科学研究会(最終回)「次世代の学知構築システムを考える」 

次世代人間科学研究会の最終回のお知らせです。

僕も第1部の司会させてもらいます。すでに、継続的な研究会は行われなくなって長いですが、この研究会のおかげでいろいろなこと学ばせてもらったと思っています。だから、フェードアウトになってしまうより、こうやってちゃんと最後の会をするのはいいことだと思います。

次世代の次世代につながる会になればと思います。ご興味のおありになる方は、是非!。


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次世代人間科学研究会(最終回)「次世代の学知構築システムを考える」 

日付 2007年2月11日(日)

場所 早稲田大学西早稲田キャンパス19号館3階311教室
http://www.waseda.jp/jp/campus/index.html



第一部 学会の現状と展望(13:00〜14:30)
 司会 松嶋秀明(滋賀県立大学)
 話題提供 無藤隆(白梅学園大学)
 話題提供 菅村玄二(日本学術振興会)

第二部 次世代型学術媒体モデルの提示(15:00〜16:30)
 司会 荒川歩(名古屋大学大学院)
 話題提供 京極真(江戸川医療専門学校)
 話題提供 西條剛央(日本学術振興会)

第三部 さらなる議論に向けて(17:00〜18:10)
 司会 荘島宏二郎(大学入試センター) 
 総論 池田清彦(早稲田大学)
 総合ディスカッション

【企画趣旨】
 もともと研究は個人的な営みである。研究によって個人の疑問を解決できればよかった。しかし,研究に公共性が求められ,何らかの学界システムが必要となった。それゆえ,現在は,各種学会や学術雑誌が学界の発展を担っているのは疑いようがない。そしてこれからもそうした役割を果たし続けるであろう。

 しかし、改善すべき点は多く指摘されているのも事実である。さらに、業績重視の傾向やインターネットなどの急速な発展によって時代は大きく変化している中で、学会や学会誌,学術誌も新たなあり方が求められている。それゆえ,次世代の創造を志した次世代人間科学研究会の最終回では、次世代の学知構築システムを建設的に考えてみたい。

 現実を踏まえない理念は虚妄に過ぎないが,理念なき現状肯定しているだけではシステムは硬直化していく。システムを維持すればいいというものでもないが,変えれば良いというものでもない。現実を踏まえ,変えるべきではない点,変えるべき点などを精査しつつ、斬新なアイディアを取り入れることによって,学知発展の基盤を支える新たなシステムについて皆さんと一緒に考えていきたい。

 第一部では、数多くの学会の運営に携わってきた無藤隆氏に、これまでの学会の長所と限界、そして現実的制約を踏まえながら,これからの学会システムに求められることを語って頂く。次に,世界40ヶ国以上が参加している国際学会である"Society for Constructivism in the Human Sciences"の編集委員を務め,現在,ケネス・ガーゲン氏らと共に,新しい学会の構想に取り組んでいる菅村玄二氏には,国際的な学会や学術誌の動向を報告してもらう。

 第二部では,蛸壺化した学界に一石を投じるため,著者に印税を支払うなどの画期的システムを備えた新たな学術媒体『構造構成主義研究』の創刊に編集者の一人として関わり,現在もなおその発展に尽力する京極真氏には,『構造構成主義研究』を創刊するまでの経緯や,そのモチーフ,システム上の工夫点などを語ってもらう。西條剛央氏には、次世代人間科学研究会の中核メンバー等によって,斬新なアイディアをいくつも組み込んで編纂した『エマージェンス人間科学』の魅力と語ってもらい,さらなる学知構築システムの構想を語ってもらう。

 第三部では、第一部、二部を踏まえ池田清彦氏に指定討論的に総論を行っていただく。その上で,会場のみなさんと一緒に次世代の学会や学術媒体のあり方についてディスカッションしていく予定である。

[参加費] 無料
[懇親会] 19:00ー21:00 (2500〜3000円程度を予定)
[申し込み先] 西條剛央: saijo@akane.waseda.jp

参加者数を把握する必要があるので2007年2月10日(土)までに,件名を【次世代研参加】として下記の情報を記入してお送りください。当日参加,懇親会のみの参加もオッケーです。みなさんお誘いあわせの上ご参加ください。

●参加者氏名(複数可):
●懇親会参加:有・無(該当する方を明記)


2007年02月02日(金) エビデンスとナラティブ・実証主義と質的研究

臨床心理学のなかで研究を重視する流れのなかでは、エビデンスベースドアプローチを重視する立場はみのがせません。これらはしばしばナラティブという概念とは相容れないか、あまり関連しないものと受け取られているように思われます。しかしながら、エビデンスとナラティブは相補的なものであり、エビデンスベースドアプローチをきわめれば、きわめてナラティブ的な実践にいきつくのではないかという実感ももっています。そもそも、エビデンスベースドアプローチが目指すものは、旧来の<専門家ー素人>間にある権力構造をそのままに、専門家と称される人々の見解を真実としてうけとらせてきた治療に対するアンチとして提示されてきたのですね。臨床心理学という言葉を最初につかったとされるウィトマーは以下のようなことをいっているそうです。

「医学においてclinicalは、単に場所を示す言葉ではなく、それ以前の哲学的・説教的な医学から脱却する時の方法を示していた」

臨床心理学とは、その最初から、実証を志向していたといえるわけですね。これはナラティブの発想にも、質的研究の発想にも通じるものでしょう。・・・・・というような問題意識にもとづいて小論を書きました。北大路書房から2月に西条剛央さんをはじめとしたメンバーで編んだ『エマージェンス人間科学』という本がでます。そのなかで「臨床心理学実践のフィールドワーク:エビデンスによる実践の組織化」と題して、上記のテーマにもとづいた1章を書かせてもらってます。興味ある方はぜひ手にとってみてくださいませ。

さて、そういう宣伝をかこうと思っていたら、ぴったりの以下のようなシンポジウムが開催されるとのお知らせをいただきました。下記の問題意識のうちでは、臨床心理学実践についての研究がそれほど盛んになっていないという現状をなんとか変えていく必要があると、私も、考えています。で、質的心理学会研究交流委員会では2年前に臨床心理士を主な対象として、質的研究法のワークショップを開催したことがありますが、そのとき下山先生にもご協力いただいたのですね。そのときのお話も今回のシンポと共通する問題意識のようにおみうけしました。おもしろそうですね。



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シンポジウム『心理療法・物語・文化』

■ 日時:2007年3月18日(日曜日) 午後1:00−5:00
■ 会場:東京大学(本郷)医学部教育研究棟13階鉄門講堂(赤門から2分)
■ 主催:東京大学・臨床心理学コース下山研究室
■ 後援:東京大学教育学研究科・心理教育相談室 質的心理学会  

第1部:講演(通訳付)

1 下山晴彦  (東京大学)
イントロダクション 「心理療法・物語・文化」

2 John McLeod (英国 アバティ大学) 
招待講演 西洋文化における心理療法の発展:ナラティヴの観点から   

3.北山 修  (九州大学)
招待講演 日本文化における物語と心理療法

第2部 シンポジウム(通訳付)
司会 下山晴彦
4.指定討論1 平木典子(跡見学園女子大学) 心理療法の統合の立場から
5.指定討論2 野口裕二(東京学芸大学)   社会構成主義の立場から
6.指定討論3 西平 直 (東京大学)     人間学の立場から
7.全体討論

■ 申込方法  名前/所属/連絡先住所/電話/ファックス番号を記載のうえ、メールにてシンポ係アドレス sympo@p.u-tokyo.ac.jp に申し込み。
■ 参加費:2000円(学生1000円) 定員:200名(定員になり次第締め切り)
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【シンポジウムの主旨】
世界の臨床心理学や心理療法は、エビデンスベイスド・アプローチによって科学的見解、そして認知行動療法の方向に進んでいます。ところが、日本の臨床心理学の世界は、科学的方法、あるいは認知行動療法には流れずに、独自の道を進んでいます。これだけ西欧や米国の最先端の動きに敏感で、直ぐに追従する日本にあって、心理療法の世界だけが世界の潮流とは違う独自な道を歩んでいることは、注目に値します。
 そこで、本シンポジウムでは、心理療法に関連するナラティヴ論や質的研究法の世界的なリーダーであるJohn MacLeod教授(英国)と日本における物語論の第一人者である北山修教授(九州大学)をお招きして、文化比較の観点を含めて心理療法と物語りの関連性を探求することを目的としました。

【シンポジウムの構成】
第1部では、まずMcLeod教授に西洋文化における心理療法の発展をナラティヴ論の観点からお話いただきます。McLeod教授西洋文化においては、近代以前の伝統社会では人びとは物語を語り合い、助け合って生きていたが、近代社会になり、自我、個人主義、そして科学的思考が強まりにしたがって、専門家に自己の物語りを語る心理療法が生まれ、さらに科学的思考によって機能的な認知行動療法などが評価されるに至っていると論じています。
しかし、日本では、近代社会になっても、心のレヴェルでは、自我や個人主義は育っておらず、ましてや科学的思考などは受け容れず、むしろ伝統的な物語を生きている面があるのではないかとも考えられます。日本文化は、源氏物語に代表されるように昔から物語親和性が強く、それが、日本人が心の問題を考えるあり方に影響を与えていることが考えられます。そこで、北山修教授には、日本人にとっての物語の意味、そして心理療法にとって(自己の)物語を語ることの意味について、お話をいただくことにしました。第2部では、心理療法の発展を統合の観点から論じている平木典子先生、臨床活動に
ついてナラティヴ論から積極的に発言されている野口裕二先生、人間学の観点から物語りの意義について論じておられる西平直先生に指定討論をお願いし、その後にMcLeod教授と北山教授にも加わっていただき、全体討論を行います。


【John McLeod教授の紹介】
英国スコットランドのDandeeにあるAbertay大学のカウンセリング学の教授。今回邦訳出版される「Narrative and Psychotherapy」(邦題:物語りとしての心理療法―ナラティヴ・セラピーの魅力― 誠信書房 近刊)と「Qualitative Research in Counselling and Psychotherapy」(邦題:臨床実践のための質的研究法入門 金剛出版 近刊)のほか、ナラティヴ、カウンセリングの技法、質的研究法などに関する著書や論文は多数にのぼる。特に最近は、ポストモダンの時代におけるカウンセリングや心理療法のあり方について、歴史や文化に関する深い造詣に基づき、積極的に発言している。また、実践家であるとともに質的研究法に深い関心をもち、臨床的な観点から質的研究法を実践している研究者でもある。
John McLeod教授の業績等については、http://www.sagepub.com/authorDetails.nav?contribId=522673 あるいは、personalhomepage: www.counsellingresearch.co.uk をご覧ください。


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