I create you to control me
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朝からバレンタイン通りをめざす。きつい坂を登ってむかし住んでいたところにいってみる。住んでいたマンションはなにか違う会社の社宅のようになっていたが、色が塗り替えられているだけでそのままそこにあった。周囲の建物もそのまま。
次に小学校に行ってみる。小学校もまた僕が通っていた頃、そのままにそこにあった。休み時間になって子どもが校庭にとびだしてくる。昔の僕らもこうやって遊んでいたんだろうなと思って感慨深い。
その後、校庭をみながら急な坂をくだってショードロンまででる。ここで僕は週に1回語学研修をうけていたのだが、そこは残念ながらなくなっているようだった。遊んでいた公園はきれいに改装されており、語学学校があったところにはマンションが建設中であった。やっぱり微妙にいろいろなものが変わっている。でも、大部分は変わっていない。昔のままだ。
昼からはリュミエール宮と、カテドラルをみてまわる。カテドラルはとても美しい。中に入れるようだったのでみにいく。修学旅行なのか、社会科の見学なのか、多くの小学生か中学生かといった子たちがいる。彼らが塔の上に登っているのをみて、僕らも登ってみようということになり、2フランはらって塔にのぼる。一番上からみるローザンヌの景色はもう最高。レマン湖にもやがかかっていて、エビアン山脈まで見えなかったのが惜しかったが、それでも十分に楽しめた。
食事して帰ってから彼に電話をかける。彼はでるとすぐに僕だとわかってひとしきり話す。たいしたことは話していないが、終始にこやかに話が進む。正直言って、直接に話すまでは多少、緊張していた。なんせ最後にあったのは25年前であり、それから彼も僕もだいぶん変わった。あの頃のように会えるだろうか、もし変わっていたらどうしようという気持ちがあったのだ。でも、彼の笑い声をきいたら緊張もきえた。英語がけっこう上手で助かった。明日はいよいよ彼に会える。楽しみだ。
朝、ホテルをでて駅をめざす。とりあえず荷物を預かってもらったところでジュネーブ観光。いちおう、ジュネーブ大学の構内でPiagetの銅像をみつけて写真をとる。レマン湖畔の景色はとても奇麗。前からそうだったのかどうかわからないが、イスラム系の人や黒人がかなりいる。駅付近は特に多い。マクドナルドやスターバックスコーヒーも進出していて「グローバリゼーション」を実感する。
4時ごろにジュネーブをでて列車でローザンヌへ。駅前もリポンヌ広場もけっこう変わっていて道が広くなっている。イスラム系の人も、アジア系の人もけっこういる。まあ、それは変わるわな。なんせ25年以上たってるんだもの。日本だってこの25年でどれだけ景観が変わったことか。そういうなかでトロリーバスがまだ走っているというのがすごい。
サン・フランソワ寺院もそのままだ。トロリーバスにのってリポンヌ広場までいき、そこから無事、クリスタルホテルにチェックイン。
無線LANは使えるのだが、2時間15フランとバカ高い。日本では無線LANが使えるところじたいがそんなにないから比較しようがないが、どんなもんだろうか。というわけで更新はぼちぼちになります。
明日からローザンヌのいろんなところを探索してみるつもり。それから彼にも電話をかけねば・・・。
朝10時にNHホテルをでてセビリア空港へ。かなり早くついてしまって、出発まで3時間以上ある。しかたなくぶらぶらしていると、しばらくして北海道からきているK先生と、Kさんがいるので一緒にしゃべる。そうこうしているうちにジョゼフがやってくる。これまで彼の専門を聞いていなかったのできいてみたら、CSCLのようなことのようだ。それでGoodwinのクラスをとっており、そこで細馬さんをみかけたようである。まったく"it's a small world"である。
ロンドンにいくというジョゼフとわかれてチェックインゲートにいってみると、UCSDから来ている2人に出会う。同じ便だという。彼らはフィンランドのPenti Hakkarainenのグループと日本と共同で遊びの研究をしている。そのうちの一人のロバートは大学院にいくまえにAETとして大阪で2年間暮らしたことがあるということで少しだけだが日本語がしゃべれる。日本が気に入っているようで、いまでも日本が恋しくなると日本人街にいってお菓子を買うのだという。フライトが遅れたので4人でいろいろ話してとても楽しかった。
なかでも二人は僕の研究が"reflexivity"に関するものだとしって興味を示したようだ。<フィールド研究においてもこちらの枠組みでものをみてしまうことが多いよね>といったら、遊び研究においても、子どもと遊んでいると自分たちは感情的に影響をうけるし、子どもからいろんなことを学ぶことになる。そのこともあってobserverのlearningはとても重要だという。そして、(自前で)答えを知っているということになるんだよねと同意していた。
面白かったのは、彼らは「あの」コールの指導生だという。それで<彼はとても有名だね>といったらば、「この学会にきてはじめて知ったよ」といっていたことか。まあ、灯台下暗しというか。だいたい自分の指導教員がいかに偉大かどうかなんていうことは、指導生にはあまり関係ないのかもしれないね。自分が学びたいことを与えてくれるかどうかとか、自分と相性があうかどうかということのほうが大事かも。
さて、イベリア航空は例によってすごく遅れたので乗り換えに間に合うかとても心配だったのだが、たまたま自分たちと同じところにいくということもあったのだが、ロバートは自分のことのように電光掲示板をみてくれて案内してくれる。おかげで無事に乗り換えに間に合い、いまジュネーブのホテルでこの日記を書いている。ジュネーブ行きの航空機にのりこんだのは、出発の5分前。まさに間一髪であった。あまりにいそいでいたために彼らに最後の挨拶ができなかったのが残念だ。
昨晩ようやく到着したというEmgestromのセッションにいく。このセッションはドイツのRuockriemさんの発表と、Kangasojaさんが指導教員であるEngestromとやっている研究が発表された。このセッションはめずらしく2人で1時間半を使うというもので、詳しいプレゼンと議論を期待するとEngestromがいっていた。・・・のだが、ドイツの人はまるで時間を気にすることなく1時間10分かけてフルペーパーを読みあげた。内容的には壁に落書きをするという活動がもつ意味について社会文化歴史的観点から分析してみるというものだったのだが、ともかく長いのが気になって後半はよくわからず。
残り20分になったところでようやく読み上げが終了し、その後、Engestromの発表となった。Engestromはかなり早口で発表したが、15分くらいの発表の方がよっぽどにインパクトがあった。
Engestromはスケートボードや、バードウォッチング、Linuxのオープンソース、あるいは災害時の赤十字隊のような活動をとりあげていた。つまり、たしかな実体が固定してあるわけではないし、いつも草の根的に始まるのだが、ドゥルーズのリゾームのように働き、結果的にすごい力を発揮するような活動を分析する必要があるという発表をおこなった。彼はこういった活動を"wildfire activities"とよぶ。そこではrunaway objectsなるものが想定されている。
彼がこのような活動システムのメタファーとして提案しているのは、ボトムアップにぐんぐんとひろがり、なにか別の活動に寄生して発展し、すごいネットワークをもっているけれども傷つきやすい性質(vulnerable)をもつという意味で、切り株に共生している「菌糸」である。
これまでのかたい三角形をすてて、もっと柔軟にさまざまに形を変えるネットワークを射程にいれようとしているということらしい。聞いたところによれば、Engestromはここ数年、自身の研究のありきたりな展開に嫌気がさして、枠組みを根本から変えるようなことをしたいと思っていたらしい。今回の発表はその狼煙火のようなものかもしれない。
で、それはたしかに有効なのだろうけど、しかし、そうなってしまうとこれまでやってきた実践の良さはどうなるんだろうかという気もちょっとする。インターネットメタファーのように、さまざまなところがくっついてさまざまな変化がそこで創発されるのはいいけど、骨抜きのポストモダンなアプローチになってしまってはつまらない。従来のDWRがもつ「抵抗」によって相手の自由をひきだすという方法論の魅力もまたあるわけで。
最後はJerry Brunerの講演の予定だったのだが、やっぱりというべきか体調が思わしくなくて来られないということになったらしい。で、かわりに講演のビデオを上映することになった。ビデオとはいえ、動くブルーナーをみるのははじめてなので興味深かった。みんなビデオ上のブルーナーが冗談をいうたびに笑い、講演終了時には拍手でこたえた。まるで向こう側でブルーナーがみているかのようだ。
その後、Seth Chiklinの司会でISCARは閉会した。次回は3年後、オルガ・ヴァスケスを委員長として、アメリカの南カルフォルニアで開かれる。3年後、この会にくるときには自分もまた別のプロジェクトをたちあげていたいものだ。
朝はMike Cole がチェアをつとめる"Intervention Research as a Theoretical Tool of Cultural-historical Activity Theory "に参加する。Engestrom目当てに会場は一杯だったのだが、肝心の彼は所要でキャンセルになって不在。
ともかくセッションでは、アクションリサーチを実践している研究者がそれを発表していた。なかでもMary van der reitのHIV/AIDSのpreventionに関する発表はわかりやすかった。HIVがいくら恐ろしいからといって、人間の性的活動を一定に制約することは難しい。すくなくとも個人レベルでそれをするのはとても難しいだろう。煙草をすわなくなったのが、長い間にわたる公共的な合意の成果であるように、集合的にそれに働きかけることが必要になる。
ただ、そこでも昨日からの関心でいえば、「具体的に入っていってこんなよい変化が起きました」的な報告はそれはそれでいいのだが、もうちょっと具体的になにが起こっているのかを知りたいという不満はのこった。もちろん、それは求め過ぎなのかもしれないけれども、集合的に変わっていかなければいけないと強調するのはもちろん大事なことだけど、だからといって個人的には犠牲者が増えていくのは仕方がないというのとはちょっと違うのではないかと思った次第。
夜はこれまた学会のツアーでアルカサール宮殿を見学。その後、昔、煙草工場だったというセビリア大学の講堂のようなところにいってパーティーが開かれる。その場で2日目のyoung scholor meetingで出会った4人と再びあう。で、誘われて食事にいく。アメリカの高校で日本語をならったという人や、夫が日本語を勉強しているという人だけあって、日本のことにとても興味を示してくれる。日本のマンガもアメリカではずいぶん人気があることがわかった。あいにくドラえもんはやっていないらしいのだが、"ruroh-ni-kenshin"やtakahashi rumikoがでてきたのにはびっくりしたし、"Cromartie highschool"の名前がでたのは爆笑であった。
サービス精神をしめしてくれたというか、アメリカ人からみたらアジア人には親切にするのが美徳とされるようなところもあるのだろうが、まあ、そういうことをいうとnegativeになってしまうのでとりあえずよしておこう。ともかくとても楽しい時間を過ごすことができた。そして、ブラジルにいった時はこのような若い人はあまりいなかったことを前に書いたが、大学院生の時にこのような人たちと出会えていたらもっと楽しかっただろうかとふと思ったのでした。
ああ、そうそう。それにしても世界は狭い。UCLAから来たというジョゼフは、僕の大学名をみて、君の大学からはhiroなんとかという人、えー、ジェスチャー分析と、マンガに詳しい人が来ていたよというではないか。おお、それは私のcolleagueですよ。ジェスチャー分析とマンガが並列して語られるのがまたすごいですよね。
この学会ではEngestromのDWRをはじめとして、アクションリサーチを中心にセッションをまわってみた。この学会の大多数はいわゆる社会ー文化的アプローチの枠組みのなかで進んでいるし、僕自身もこれまで明確にアクションリサーチを標榜してきたわけではない。が、自分でやっている臨床実践のこともあるし、今後はアクションリサーチのような実践に深く関わる研究スタイルが流行るような機運もある。まあ、これは時代の流れなんだろう。
午後のセッションではバーミンガムのアンエドワーズのLearning New "Ways of Being" in Professional Practice: working in the boundary zones .にでる。エドワーズはイギリスでエンゲストロムのDWRを実践している人。この一連発表では、イギリスで彼女らが進めている学校間連携の実践が報告されていた。すでにこの業界ではgivenなのかもしれないが、アンのいう"Knowing how to kinow who"という台詞はなかなかよいフレーズだ。
夕方の最後のセッションではEngestromのセンターのHasuさんがチェアーをしている"Participation in Complex Change Processes: Activity Theory and Reflexive Ethnography "に出席した。冒頭に企画者からこのセッションについてのintroが話されたのだが、そこではATの研究者は単に現実を客観的にみる人ではなく"more than"なのだということ、そして、ATがこれまでこの"more than"をうまく扱ってきたとはいえない点が指摘されていた。
今回の学会にきて思うのは、このようにATについてreflexiveに考えようという会があることである。ただし、発表のなかで誰かがいっていたようにethnographyを単なるmirrorとみなしたり、フィールドワーカーを客観的な観察者とみなしたものであるとまとめてしまうには、現在のethnographyは多様すぎるのではないだろうか。クラパンザーノの対話的エスノグラフィーや、日本では古賀先生の<教えるということ>についてのエスノグラフィーなど、すぐれた社会構成主義的なエスノグラフィーがすでにある。こういうものをどうとりこんでいくかということが大事だろう。
夜は学会主催のディナー。学会会場からチャーターバスにのり、1時間ほどいったところに昔のお城を改造してつくったというレストランがある。立食形式で飲み食いした後、コースのメイン料理を食べ、その後はエンドレスで庭で飲み続けるというものだった。Seth Chiklinは「これまでこの学会はヴィゴツキーやレオンチェフのことを勉強するのに精一杯で、なにが正統なのかといったような研究が多かった。でも、最近になって現場から発した問題を扱い、理論が後からついてくるような研究が多くなってきた。これはいい傾向だ」といっていた。これもまた今日の印象をつよめるものである。
20050921 朝の2番目のプログラムで、いよいよポスター発表。ところで昨日の夜、ホテルに帰ってみると、なんとポスターが到着している。やったー!!。ということでポスターを貼る。ポスターの奇麗さにひかれてか、みなさんけっこう立ち止まって読んでいってくれる。親切にも協力していただいたスペインの先生方の努力を無にしてしまったが、しかし、やっぱり急場でつくったポスターに比べれば明らかに次元の違うクオリティーである。で、用意したハンズアウトは完売とはいかなかったが、それでも17-8人が来てくれた。
日本では説明するためのツールとして使っているので、ポスターにあまり字を書き込むことはないのだが、今回は事前に用意したペーパーをかなり引用したこともあり、ポスターそのものを読んでもらってもなんとか意味がとれることがわかった。わりと読んでくれるので、説明せずに読んでくれるのを見守ることに徹する(しゃべるとボロがでるので)。
まあ、当たり前だがみな"interesting"といってくれる。社交辞令なのはわかるが、単純にそういわれるとうれしい。あるブラジルの研究者は、自分もとても近いことを考えているといってくれたし、英語で論文にすることをすすめてくださる方もいた。
最近は、NGOでの活動を研究にしたり、EngestromのDWRや、5thディメンションのような、フィールドにでていって何らかのプログラムをたちあげ、そこから研究をはじめようとする人たちが多いので、そういう意味では実践者と研究者との関係性というのは世界的に関心があるということなのだろう。
で、これはいろんな解釈の仕方があるだろうけれども、この研究を"brave"といってくれる人もいる。普通、専門家として研究者が以前の研究結果をひっくりかえしてよくわからないドロドロしたものをだすことは忌避される。これは僕も意識はしていて、だから楽屋裏の話みたいにはしたくないということで、理論的な方向性を指し示す論文として位置づけることにこれまで腐心してきた。
だいたいフィールドワークではいろんなことがおこるのであって、そこで人が変化したことの因果など本当のところはよくわからないものだし、いわゆる「よい話」におさまりきらないよくわからない話が多いものだと思う。参加者の1人とも話したことだが、昨日のMary Crawfordの話はとてもスマートで美しいものだったが、おそらくその話のなかにおさまりきらないものがたくさんあったはずである(別にそれをださないのが悪いとはまったく思わない)。例えば、Crawfordはネパールにおける女性を"bictim"として物語ることに成功しているけれども、おそらくネパール女性のすべてが彼女の呈示する「犠牲者としての女性」という考えに共鳴するわけではないだろうし、NGOスタッフとの会話もあるだろう。
先日の日本心理学会のあと「研究者と対話することの意味」について、「しどろもどろさ」がないというご意見をいただいたことがある。ここでの「しどろもどろ」というのは神田橋先生のいうところの「しどろもどろ療法」からきた言葉だと思うのだが、要するに、きれいな1つのストーリーにしてしまうことで覆い隠されてしまう多くのものを抱えなければならないということである。上記の話とつながるところが多いんじゃないかと思う。
午後のセッションはでてみたものの、午前中3時間たちっぱなしだったのと、時差ボケで睡眠不足なのとであまり集中できなかった。個人的にはVygotskyに理解があってsocioculturalなパースペクティブから心理療法を実践しているルー・ホルツマンと、たまに論文をよむArtin Goucuを生でみれてよかった(と、ミーハーなことをいっておく)。
19:00からのyoung scholor meetingにでる。でてみるとけっこう多くの学生が参加している。5年前に僕がブラジルにいった時は、(むろん、そのとき僕はD1だったのだが)学生で参加している人はそう多くなかったし、僕より年下の人というのもいなかった。今回は、明らかに「このひとたち院生だなー」と、発表を聞いていて感じる人がいる。みなの前で自己紹介しあって、今後はweb上で若い研究者のフォーラムをつくりましょうということになる。
夜は、またセビリアの中心街にくりだしてバルで食事。それにしてもセビリアの夜は長い。というか8時すぎてもまだ明るい。日本では6時くらいの感覚である。みんな12時近いというのに家族連れで食事に来ている。誰かが「シェスタで2時間寝ているから、12時といっても10時くらいの感覚なのかも」といっていたが、そういうこともあるのかもしれない。とにかく2時や3時というのは、暑くてとても長く外を歩けない。それから、セビリアは思ったよりも治安がよい。
20050920 朝からregisration deskにいってポスターの顛末を話す。Cuberoさんが自分の研究室に案内してくれて、無事に原稿をうちだすことができた。とりあえず、これでひと安心。親切な対応に感謝。で、後にわかったところによれば、大学の玄関をでてすぐのところにネットカフェがあり、そこでは1枚1ユーロで印刷してくれるらしい。1ユーロって高いよね。
午前中はMary Crawfordのネパール女性のジェンダー実践のレクチャーを聴く。ネパールでは、カースト制の影響であったり、貧困であったりといった要因がかさなって、若い女性の売春なども頻繁におこる。これをCrawfordは3つの次元にわけて考察していた。ひとつひとつの研究結果はきれいで面白かった。
だが最後に、では、これをどう変えていくのか(変えていけるのか)という話になった時には、ネパール人女性がおかれている状況の重さを考えざるをえなかった。というのも、結局、カースト制度であったり、構造的にうみだされる貧困層であったりを変えていくという指針が示されていたからだ。そういうことはおそらく、多くの人がわかっていて、それをどうすればいいのか、NGOが関わるといってもそこでどうすればいいのかというのが問題になるのだと思うのだが、そこまで問題はすすんでいないということなのだろう。
午後からはKris GuttierrezとColett Daiuteのセッションにでる。グティエレースは「第三空間 (the third space)」で有名な人。マイノリティーの英語教育に関心をもちつづけている。彼女自身もプエルトリコ出身だったらしく、ただし、とても恵まれて大学教師になったことから、このような関心にいきついたとのことである。
ダイユートはこのまえ科研の読書会で読んだ"Narrative Annalysis"を編集した人。今回はナラティブを語ることにまつわる問題について話していた。裁判や学校教育場面において、子どもは自身の経験を、一貫性や正確性といった基準をみたしながら語らなければならないといったこと。これは日本の供述分析などにも通じる話だ。彼女はさらに、フィクションを語ることがもつ効果についても話し、自らの体験ではなく、(その影響をうけているのだが)主人公の体験として語ることによって、自由に語る余地がうまれることがとても重要であると述べる。僕は臨床心理学の授業におけるロールプレイでは、必ずフィクションを語ることを求めているが(別に僕が考えだしたものではないが)、これも上記の観点からみれば説明できるということかもしれない。
とにかく自分のポスターの心配(内容以前に、物質的に)でバタバタしていてあまりゆっくり聞けなかった。でも、聞いてみると他の日本人参加者でもポスターが紛失したという人がいたし、それに会場はしばしばパワーポイントの設備がおちまくるので、ほとんどの発表者が原稿を読み続けるということが続いて、みているほうもかなりタフだった。日本語だって、前でひたすら原稿をよまれると聞いていてつらい。
なにがあっても動じずにやれなければこの学会は厳しいということか。T先生はこのような事態を予想してOHPしか用意しないという(でも、ある部屋ではOHPも動かなかったらしいのだが)。これはこれですごい。サッカーではないが、アウェーでの戦いを心得ているということか。
2005年09月18日(日) |
lost baggage |
いよいよやってきました。スペイン。いまバルセロナのホテルで書いてます。
タクシーの運ちゃんに「え、日本からきたの?。東京?上海?」ときかれ、<いやいや、上海は中国だから>と思いつつ、"ah tokyo!"とかあいまいな笑顔でいう俺。高速でもないのに120kmだして、路線バスをあおる運ちゃん。たのむ、たのむからゆっくりいってくれ。他の車もクラクションならしまくりで荒っぽいことこのうえない。大阪なんかめじゃないです。海外で車にのるなんてとんでもないと確信しました。
さて、待ち合わせの時間もふくめて、名古屋ーフランクフルトーバルセロナと、15時間かかりました。ま、それはいいのです。終わりよければなんとやらで。なのに、なのに、なんと私のポスターを入れたバゲージがなくなったorz。
おいおい、なにやってんだよう。ル○トハ○ザ(まるわかりだって)よう。 もー。
さいわいハンズアウトは無事なので、いざとなったらこれを拡大コピーでもして貼るつもり。学会にもかけあってみるつもりだが。 しかし、せっかくのあのポスターをなんとか貼りたいですわ。
これからセビリアにむけていってきまーす。
2005年09月17日(土) |
マック君ふたたび・・・ |
明日から海外出張。こういうときに限ってMac君がクラッシュorz。
気分は「ああ、私の神様」である。
朝、電源をつけてみたらビュイイィイーとただならぬ声をあげてっきり、マック君はたちあがらなくなってしまいました。
おお、あわれ。うんともすんともいわない。
いやしかし、どうも立ち上がっていないわけではない。表面上はなんの変化もないが、どんどん機体が熱くなっていく。そして、なかでウィィイイーンと微妙な音をたてているではないか。ああ、気持ち悪い。なんだ、この症状は。
とりあえず途方にくれて家族に電話をしてみる。電話したところで相手が対処法を知っているとは到底考えられず、こういうときカウンセラーの「聴くことしかできません」は無力である。
とりあえず、クラッシュの原因となりそうなことを反芻して対処を試みる。最後の手段でOSからセーフモードで立ち上げることを決意。「パワーボタン押してもたちあがらないものがセーフモードにできるんかいな」という一抹の不安をかかえつつ、CDをいれてたちあげてみると、なんと!、たちあがるじゃないですか。
数回再起動を繰り返して、おそるおそるCDをとりだしてみると完全に復活した。 おお、初期画面のつや消しシルバーのなんと美しいことよ。 背景色の青のなんとすがすがしいことよ。 おもわず天に向かって手をあわせてみる。
あわせても天の神はなにも言わないで「沈黙」したままである。 でもいい。踏み絵で殺されそうなときは沈黙されたままではこまるが、こういう時は別に黙ってても全然問題ない。勝手なもんだな、人間って。
で、冷静に考えてみるにどうも、昨日、ポスターを作ったときに長時間、マックをフル稼働で使い続けたためではないかと思われる。
とりあえず、スペインにいってからでなくてよかった。
2005年09月16日(金) |
社会構成主義のふにゃらら |
日心の1日目の午後WSは『社会構成主義のプラグマティックス』に参加。
社会学のA先生、N先生が社会構成主義について論評された。
共通していたのは、次のようなこと。まず「社会構成主義」といってもいろいろな立場がある。全てを言語的構成だといってしまうようなラディカルなものも、私たちは言語的相互作用なしにはなにも知ることはできないという、一種の不可知論としての社会構成主義とにわけることができる。そのうちで後者のように穏当に使うならば、社会構成主義はよいアプローチである。例えばナラティブ・セラピーのなかではアンデルセンやWhiteの立場は穏当な立場に属するといってよい。Andersonのコラボレイティブアプローチはラディカルである。
N先生はそのうえで『<界>恊働連関モデル』を呈示された。例えば、手術室においてはいろいろな見えがある。電子顕微鏡あり、各種計器の指標あり、肉眼での見えあり。このように様々な<界>がある状況は、人々の関心によっていくつもの見えが構成されるという状況にあたる。
この状況のもとで、ひとつひとつの<界>が他との連関をたもちつつも独立自存しているという場合、N先生の言葉でいえば<混在郷>の状態、ひらたくいえば「なんでもあり」の状況といえる。社会構成主義に対する痛烈な批判として知られるオントロジカルゲリマンダリングへの応答として、コンテクスト派がとっているのはこの戦略である。
他方で厳格派がとっているのは、文脈を厳しく制約することでたしかな社会的構成をとりだそうとするアプローチであるが、これはあまりひろがりのある戦略とはいえない。
<混在郷>的状況も、ひとつひとつの<界>が孤立するという状況も望ましくはなくて、それぞれが恊働連関をなすことが必要となる。例えば、競争状態におかれたときに相対的に説明力の弱いものが淘汰されていくと考えておられる。実に面白い。
A先生はガーゲンらの自己物語論は、自己言及性を隠蔽することでなりたっているという。自己言及性とは、語る対象となる世界は、語る主体を含むということである。
自己物語論のもとでは、人は語ることによって自己をたちあげる。ところが、この自己をたちあげるために語ったのは、ほかならぬ自分である。ではその自分はどうやって作られたのかといえば、それは語られることによってであり、その語っている主体は誰なのかといえば、それは自分であり、、、。ここに循環関係がおこる。普通、私たちはこのような循環関係をどこかで断ち切って、そのことを隠蔽することによって断定的に語ることができている。
では、この自己言及をあらわにするのは何か。そのひとつはトラウマ的記憶である。過去の出来事でありながら、うまく過去の自分にとりこむことができずに、現在の語り手を拘束してしまう。トラウマ的な出来事は、自己物語のただ中で、物語ることが失敗してしまうということにおいて姿をあらわすものである。これもまた大変に刺激的。
おもしろいだとか刺激的だとか、なんかまともな意見言えんのか俺は。
歯磨き粉のチューブがなくなりかけると、それを半分で切ってつなげると残っているのがとれやすい。マヨネーズがなくなりかけると、レジ袋の底をちょっとだけへこませて、そこにキャップの部分をはめこみ、レジ袋でブルンブルンと振り回すと、遠心分離機の要領でマヨネーズが下にあつまってくる(by伊東家の食卓)。
しかし、内容物の総量がすくないのにはかわりがないのでそうそう続かない。どう効率化しても、満足に歯磨き粉も使えないし、マヨネーズも使えない。こういう状況を前提にした生活をどれだけ満足のいくものにするのか、というようなことを考えた1日。
2005年09月14日(水) |
介入研究は誰のため? |
いよいよISCARが迫ってきた。最近、某MLでもISCARの話題でもちきりである。というわけで次の日曜日にはわたしたちスペインへと旅立ちます。しかし、「異文化を体験するって大事なことだよねー」的な、この周囲の浮かれムードとは正反対に、私はいま非常に追い込まれております。 ああ、ポスターできあがるのだろうか。日心でも原稿すすめるつもりでいたのだが、いかんせん、学会は誘惑が多いでござる。
そんななか、某MLでは、Mike Cole がISCARの見所のひとつとして「介入研究 (intervention study)」のことをあげている。いわく・・・
介入側と、「援助される」側との権力関係がどのような影響を与えているのかをどうやって知ることができるだろうか?。そこに何が生じるのだろうか? これは、つまり「誰が介入研究の主体であり、誰がそこから利益をえるのだろうか」という問いといいかえられる。
これは僕が今度、スペインで話そうと思っていることとも関わっていると思う。
臨床実践についての事例研究は別として、僕は介入研究というのをしたことがない。でもフィールドワーク研究っていうのは少なからずフィールドへの影響を与えるものだし、またこちらは大なり小なり相手の役にたちたいという欲望をもっているものだ。そういう意味ではフィールドワーカーと対象者との関係にも置き換え可能な話だと思う。
先日の学会で指定討論として話したように、対話とは「ああ、その話か」とすぐに位置づけられてしまうような会話のことをいうのではないと思う。もちろん、そのときそのときでは、相手の話を自分なりに理解しているのだろう。けれども、そういう一貫した物語をくじくような<出来事>にであい、その度に自分がいままで見えていなかった世界へひらかれていくことが対話なんではないかと思ったりする。
いわゆる「研究者倫理」なんてものは、テキストになった倫理集を守るというよりも(もちろんそれは大事だが)、このような関係をいかに続けられるかってことではないかな、と。
ああ、日本語でもなかなか伝えられないこの話を、英語で伝えられるのだろうか。そして英語もおぼつかないというのに、スペイン語なんかようしゃべれるんだろうか。とりあえず、「カードで支払いたいのですが」「おいくらですか?」「〜行きのバスはどこからでますか?」くらいは覚えていきたい。
学会の飲み会で、学校の防災を専門とされている工学系の研究者とご一緒することがあった。 少しだけしかお話できなかったのだが、とても面白かった。
学校防災というと、最近ではやれ監視カメラをつけろ、オートロックのシャッターをつけろといったような、ハード面に力をいれる論調が多い。もちろん、そういうことも必要なのだろうけれども、そういうものは乗り越えようと思えばいくらでものりこえられる。カメラをつけたって忙しい教師たちの誰がそれを見て、対処するのか?という疑問がある。
それに良きにつけ悪しきにつけ、日本の学校というのは生徒の生活の多くの場面を含み込んでいる。なかには貧困家庭の生徒に食事を食べさせてやる教師もいる(是非はともかく、そういう先生はたくさんいる)。普段は怠学傾向だけども、先生が親身になってくれることを知っていて、フラフラとやってくる生徒。たまにおもいたっておそるおそる学校にきてみる不登校の生徒。中学校や小学校を卒業してからも、フラフラと学校にぬくもりを求めてやってくる元非行生徒たち。こういう人たちは学校が完全な防御をしたときに、どこにいってしまうのだろうかと考えると、ハード面だけにたよってセキュリティーを高めることには賛成できない。そういう生徒は学校の中で事故にあわないかわりに外で事故にあうだろう。
ハードをいかに整えるかという話とセットにして、いかに教師が日頃からカメラに不審者がいたときに迅速に対応したり、子どもを危険から守るために神経を使えるかということを徹底する必要がある。もっといえば地域にそのような目を育てていく必要がある。
こちらの固定観念もあるのだが、こういう発想を工学系の方がしているのを聴けたのが大変印象に残った。
今日はいままで見られなかったポスター会場を少し見て、昼頃に退散。そこから海外旅行の準備をして、新幹線にのってかえる。つかれた。
ところで伊藤美奈子先生には、はじめて声をかけてWSにきていただいたが、とってもよかったし迫力がある。「こういうふうにかたちにできるのを知ってよかった」といってくださるのだが、僕はもうちょっと現場の人に違和感をもたらすようなものの方がもしかするとよいのかな、なんて思ったり。
もっと一人でこつこつやらねばならんなと改めて思った今回の学会でありました。
2005年09月11日(日) |
語りだされた子ども「問題」へのナラティブアプローチ |
2日目。僕の企画したワークショップの日。何度練習しても時間通りに終われない。ただまあ、うーとかあーとか言って聞き苦しくなかったのはよかったかな。
『教育のアカウンタビリティ』に負けて(と言い訳しておく)、大きい部屋のわりに入りはいまひとつであったが、それでも3-40人は来てくれたし、僕としては他の発表者の発表も、それをうけての指定討論も、いずれも最高に面白かった。
このWSでいいたかったことは、子どもの問題を、子ども「だけ」の問題にしないということ。大人の問題でもあると思って子どもの問題を考えようということにつきる。ただし、それでは大人がひたすら反省すればいいかというとそうではない。やっぱり子どもの問題を、大人は語らざるをえないし、それを前提にして、ではどうしたらいいのかを考えなければいけないんだろうと思う。
状況論や社会文化的アプローチがとりいれる談話分析は、授業場面や討論場面のように、一定の枠組みがあるところを分析するのにはとても強いツールといえるが、その一方で授業にならないような場面にはなかなか辛いものがある。学校は1人で全てを知ろうと思うには広すぎて、下手するとこちらが現象の多様さに飲み込まれてしまいそうである。でも、やっぱりそこはこれからやっていかなければならないところだし、今後もこんなシンポなり研究会なりを続けていきたい。
の1日目。朝から、『脳と他者と私』と題するセッションにでる。このセッションは数年前から北海道大学の石黒先生が中心になっておこなわれており、北海道にある高次脳機能障害の会である「コロボックル」と研究者チームとの共同研究の成果を発信するものである。
能智先生、恵介さん、石川先生のご発表。いずれもおもしろかったし、石川先生の話はなんとも心にせまるものであった。
中心となったテーマは、脳の問題を生理学的実体としての脳にとじこめて考えるのではなく、むしろ、脳が私たちの生活にもたらす<意味>について考えようということであったように思う。
クオリアの茂木先生は、「脳」をなにか中枢としてではなく、大きな対人関係のシステムのなかに位置づけようとされている。が、私たちの通俗的な理解としての「脳」は、まだまだ人間を中心で操っている特別なものである。その意味で、今回のシンポはこうした通俗的な「脳」の理解に対して一石を投ずるものになるかなと思った。
しかし恵介さんはいつもいつもスリリングですごい発表ですわ。
午後は『社会構成主義のプラグマティックス』東京学芸の浅野先生や、「いじめの社会理論」で有名(一部で?)な内藤朝雄先生、と臨床心理学サイドから佐藤先生が話題提供された。
いずれのご発表もおもしろかったが、とりわけ浅野先生のご発表のなかでは、物語化を失敗させるものとしての<出来事>という言葉が印象に残った。それから内藤先生の<界>連関モデルも面白い。これからちょっと勉強してみたい。
最後のセッションでは『研究成果について研究協力者と対話することの意味』と題するワークショップで指定討論をつとめた。話題提供者は安田さんと、荒川さん。
安田さんは、僕が大学に赴任して1年目に、質的論文を書くことを支援する研究会にコメンターとして参加したときからの間柄であるので、研究についてはよく知っている(つもり)。
発表のなかでは、誠実に研究協力者に成果を返そうとされていて、そこで肯定的な反応のみが得られたことに対して、ありがたく思いつつも違和感を感じていることが語られた。
対話にはいろいろな定義があるだろうけど、僕は「これまで考えもしなかったようなものの存在に気付くこと」が対話なんじゃないかと思っている。つまり「ああ、これはこの話か」と受けとる枠組みをすでにもっている話ではなく、この発話をどう位置づけてよいかわからないような、そんな体験にふれることなんじゃないかなって思う。
つまり研究者側はいつまでたっても対象者のことをわからないとウロウロしているのが実はよかったりするのではないか、と。
朝5時起きで新幹線にとびのり東京大学の学会会場へ9時過ぎに到着。 朝一番から、ディスコースや会話分析についてのシンポジウムが行われた。 桜井先生、茂呂先生、森岡先生がお話になった。
桜井先生のお話はしばしば聞いたことがあるものだったが、とても分かりやすく、もっと聴いていたいところであった。
茂呂先生のは状況の定義のお話であった。つまり、私たちはしばしばなにか人が行動している場面をみて、それを「〜している場面」といってしまうのだが、それはそれでいいんだろうかという話。例えば、教師が授業をしていると思っていても、子どもにしてみればひたすらに黒板をみつめているだけかもしれないといったようなことである。ただ、こういった状況の定義というのはAかBかというようなものではなくて、時間のなかでAだったのがひょんなことでBになったりというように移り変わるものであるというような内容だったと思う。
また、森岡先生のお話は去年の臨床心理士ワークショップでのお話とかぶるものだったが、面白く聴いた。ケース記録というのは、そこで何が起こっていたのかをあらわす資料としてはかなりあやしい。ただし、それがセラピストとクライエントの関わりの総体をあらわしたものだとしたら話はかわっておもしろいデータとなる。エスノメソドロジー研究でも、病院のカルテが事実の記載という点ではあんなにいい加減なものはないのに、流通しているのはなぜかというのを扱った研究があるが、それを思いだす話だった。
2005年09月06日(火) |
なんかいろいろ大変ですわ |
1日中、学会発表の準備(英語)。
英作文しんどいですわOTL。思い起こせば5年前、けっこう準備してブラジルいったもんだす。あの頃に比べて明らかに準備が追いついていない。ああ、気が重い。
と、そしてレジュメはさっぱり進まないので名刺作ったりしてしまう。自分でデザインして作れるやつ。ああ、こんなことしてる時は楽しいのになあ。って、いったい何しに学会いくんだ。>自分
明日から東京じゃ質的心理学会ですな。僕は非常勤なのでいけません(2日目はなんとか頑張って行く予定)。スタッフの皆様、がんばってくださいませ。盛会をお祈りしております。
しっかし、あれですな。去年みたいに500人以上も来て、時計台付近まで続く長蛇の列を見るとクラクラ来ますわね(ふと「感情労働(by ホックシールド)」という言葉がおもいうかぶ・・・)。でも、少なきゃすくないでちょっぴり残念な気もしますしね。難しいところですな。
2005年09月05日(月) |
人をあやめる青少年の心 |
学校にいってみると、ぶあつい電話帳とともに一冊の本が送られて来ていた。封をあけてみると北大路書房の『シリーズ荒れる少年の心:人をあやめる青少年の心』であった。
編者は名古屋大学の河野荘子さん。僕もコラムを2つ書かせていただいた。河野さんは僕が名古屋大学の大学院に入ったばかりの頃、博士課程の最上級生だった方である。臨床ではいろいろ鍛えていただいたし、研究でも研究会を開いて、僕らの面倒をみてくださったのであった。いろいろな意味で、僕の研究の出発点にある人である。
さて僕はこの本のなかで、佐世保でおこった、いわゆる「駿ちゃん」事件と、その前に沖縄でおこった中学生が一日中仲間にボコボコにやられて殺された事件についてのコラムを担当した。
いずれもけっこう大きなニュースになったし、いい加減なことは書けないので緊張しながら書いた。佐世保の事件には「軽度発達障害」が、沖縄の事件には「怠学傾向の少年」が関わっている。学校臨床に携わっているものとしては見過ごせないテーマである。
全般的に「連携」ということを意識して書いたつもりである。まあ、僕なりの見方だし、字数も少ないのでひょっとすると分かりにくいかもしれない。ご一読いただければうれしいです。
あ、もちろんその他にもためになる箇所ばっかりでございますよ。
立命館にアーサー・フランクの講演会にいく。質心にも来るのであるが、僕は参加できないので今日聞きにいっておいた。講演、そしてその後のシンポジウムを通して印象にのこったのは、ナラティブの探求を通じてつくられたモデルはいったい誰のためのものなのか、という問いかけだった。
ところで、昨日、『積み木崩し、その真相』とかなんとかいうドラマをみて、これがけっこう印象に残っている。『積み木崩し』というのは僕が子どもの頃にたいへんはやった小説である。中学生になる娘が突如非行にはしり、父母が一生懸命たちなおらせるために頑張るというような話であり、親が頑張ったおかげで娘に更生のきざしがみえたというところ終わっている。いわゆる「ええ話」である。
ところがその一家の人生にはその後があって、実はそんなにハッピーエンドではなかったというのが昨日の話である。内容は省略するがとにかく悲惨であった。主人公の娘は、「私は大丈夫だから」が口癖になるくらいがんばって、自ら病気と闘いながら病床の母を助け、最後には死んでいくのである。そして、その娘がグレた原因が死後にのこされたノートによって明らかにされる。
これはナラティブな探求にもあてはまるような話だなと思いながらみた。ある物語を語ったその背後には、決して語られなかったいくつもの経験がある。これは単にその人が語らないというだけではなくて、語ってもそれが聴きとってもらえないという意味で言葉にならないものである。あるいは、周囲は語られるべきことがあることがわかっていてもそれを聴くことができないというような事情もある。
ある人が語れるということが背後にもっている他者の力がよくわかる話であった。
ドラえもんの生誕107年前の誕生日でした。生きているうちに試作品くらいみてみたいねえ。
2005年09月01日(木) |
みんなやればできるんだ |
最近、鯨岡先生の『エピソード記述入門』を読んでいる。鯨岡先生が実際にやっておられるらしい実習などにも触れられていて参考になる。 ともかく本書では、エピソード記述というものが、誰にでもすぐにできるようなものではないし、統計処理などができないからやろうといったものではないということが強調されている。こういう書き方ができるのは、鯨岡先生が必死でエピソード記述の方法論の構築にとりくんでこられたという歴史もあるのだろうが、昨今の質的研究が流行っているという状況もあるのだろうなと思う。すこし前であれば、「こんなに面白いことができる」みたいな記述ではなかったか、と。
さて、あとがきをよむと一連の作品を著された頃、本に対する高い評価がよせられるのはもちろんのことだったが、同時にその方法論について「鯨岡先生だからできること」というほめ殺しをいろんな人からうけてきたのだという。そこで、それなりに複雑な心境であったことが綴られている。なによりも、自分の方法をとりいれている学生たちがそれで苦労しているという現実があったからよけいだったようである。
そういえば、と。それは名大で鯨岡先生が集中講義されたときだったが、初日だったか、鯨岡先生が「昨日、指導生から連絡が入りまして、論文が採択されたということなんです」と非常にうれしそうに語っておられたのをおもいだした。そのときは指導生の成功が余程うれしいのだなあと思ったくらいだった。のだが、このあとがきを読むと、そのことが鯨岡先生自身にとってもとても大切な出来事だったことがあらためてわかり、あのとき、あそこであのように発言された意味が多少ひろがったような気がしたのであった。
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