1日雑記

2005年10月31日(月)

さて、先日とある検定試験が機器のトラブルで
試験が延長されたというなかなか貴重な体験を日記に書いた。

まぁ1度くらいならそういうのも、
まぁ笑い話になるかなとちょっと思えてきたこの頃。
滅多にあることじゃないからね。

うん、2回もあると思わなかった。

流石に温厚で通している私も切れそうになりました。
しかも2回とも前日のドタキャンですよ。

試験勉強した時間。
学校での試験なんだけど事前にシステム入れなきゃいけなくて
それを見守って終わるの待たなきゃいけない関係で
学校に居残りした時間。

この貴重な時間を返せと言いたい。
実際ミニ四駆作ったりして時間つぶしてたので
貴重だったかどうかは甚だ疑問だが
格好いいので貴重な時間を返せといいたい。

しかしなぁ……企業としてそれってどうなのよ?



2005年10月28日(金)

最近は0時過ぎに寝るようにしている。
少し疲れもあって、寝る。

最近どうも寝つきが悪いがそれはそれとして睡眠。

で、やっと寝たところで携帯に起こされる。
目覚ましかと思ったら携帯でした。
何事かと時間を見ると2時過ぎ。
前だったらおきてる時間だったし、まぁいいんですけどね。

内容見たら妹からで気持ち悪いから迎えに来いとのこと。
駐車場の位置が変わって
機械式の駐車場になってからまだ一度も運転していない。
でもしゃーないので車を出す。

悪戦苦闘しながらも無事任務達成。
帰宅後寝ようと思ってもやはり眠りづらい。
そのときになって、タクシー呼ばせれば良かったと気づく。
駐車してるときにも目の前にタクシーいたのになぁ。
貧乏性で普段利用しないからか。
……無駄足。

眠い頭で論文発表の練習、ティーチングアシスタント。
のど痛くなってきてるし。
明日発表だというのに風邪引いたらどうするのか。
まぁすでに風邪気味ではあるけれど。

あー……明日無事に終わって欲しい。



2005年10月27日(木)

社会人と学生。
そして時間の使い方。

自由になる時間という言葉はよく聞くし
話としては理解できるが
本当に知ることはできない。
時間の大切さはそのときになって見ないと
なかなか分からないものだと思うから。
……と、思ってきたのだけど。

今日たまたま遅くなりました。
朝もいつもより少し早い時間。

帰宅して大体10時半。
社会人に比べればまだ楽なほうだとは思いながらも
寝る時間が12時過ぎだということを考えると
食事の時間を含めて自由時間は1時間。
娯楽の品を買ったのだけど
いつものように一気に楽しむ事ができない。
つまりはそういうことなのだろう、と少し分かった。

それにしても、と思う。
通勤に1時間10分かかる人は珍しくないと思う。
もしも会社の近くに家があれば……10分でつけば
計算の上では行きと帰りで2時間違う。

1時間10分の人に比べて朝出る時間が1時間遅いというのは
1時間遅く寝ていられるということだ。

1時間、寝る時間までに時間を取れるというのは
1時間自由に使えるという事だ。

そう考えると、お金云々はともかくとして
とにかく近いところに家があったらいいなぁ、と思う。
まぁ転勤、長期間の出張などを考えると
そんな事も言っていられないのが実情だろうけれど。

とはいえ、時々見かける一日4時間しか寝ないという
ベンチャー企業の人とか。
一日8時間寝ている人と比較してみる。
どう考えても4時間の人のほうが働いているように思えるのだけど
もしも通勤にかかる時間が片道2時間違えば
仕事している量は2人とも変わらない可能性だって
あるということなんですよね。

近いことの利点に今更ながら気づき
うらやましいと思う今日この頃。



2005年10月26日(水)


さて、男女の関係にはとんと疎い私です。

ちょっとした知り合い。
久しぶりに話を聞いたら
振られた回数が2度ほど増えたと。
私の知っているだけで2回は聞いていたので
聞いただけでも4回。

これはつまり、綺麗だけど性格が悪い、ということなのか。

友達付き合いだと気にならんようなそぶりも
恋人関係だと許せないとかあるのかもしれない。
なんか理不尽な気もするのですが
逆にこれを認めないと友達と恋人の境界が
曖昧になりすぎるような。

Only One なんと不便でなんと魅力的な言葉か。



2005年10月23日(日)

パソコンの起動時に部屋の片付けをするようになって
部屋がずいぶん片付いた。
でも綺麗過ぎると気分が悪くなりそうだ。
貴方はハムスターの小屋を見たことがありますか?
乱雑な中でこそ得られるものもあるのです。
乱雑、混沌をカオスと呼び
私はカオスについて大学院で研究を行っている。
部屋が乱雑なのは必然なのだ!
私の研究の目標はQOL(生活の質)の向上にあり
そのために部屋が汚れているのである。
私は研究熱心だ。
(半分くらい嘘ですけど)

と、それはそれとして。
私は普段ベッド使ってるんですよ。
これがなかなか曲者。
いわゆるベッドメイキングなんて毎日続けられるほど
私は器用じゃない。
ともすれば、丸まった布団がベッド上に点在する中
器用にその隙間を縫って寝ているわけです。
(片付けたときはちゃんとして寝てるけど)
で、最近片付けているのでベッドも綺麗になっている。
でもこれって毎日寝るものだから毎日やらなきゃならない。
ベッドメイキングってかなり時間とられるんですよね。

そういうわけで、なかなか継続してメイキングできないんですけど
今日1つのことに気づいたんですよ。
きっちりするから時間がかかるんだ。
掛け布団を畳むくらいでとどめれば時間がとられない!

そんなバカバカしい事に今更ながら気づいて
とりあえずしばらくは掛け布団を畳む習慣をつけようかと。
敷布団だと毎日しまわなきゃならないけど
ベッドだとどうも。

まぁ私のことだから敷布団でも
万年床になってそうですけどね。



2005年10月19日(水)

現状。

ミニ四駆切断完了。
接着剤では弱かったのでハンダゴテで溶かして溶接。
なんとか前輪&後輪の2基がけモーターの仕組みは完成。
試走も完了。

ただし、全体的に溶接しているので汚い。
また、想定していなかった問題が何点か発生。
更なる進化を目指して仕組みの考案中。



2005年10月16日(日)

雑音と聞いて、良いものを連想する人は少ない。
雑音である以上、そもそも意識する事も少ない。

さて、この前街を歩いていると
何歳くらいだったろう、男の子が嬉しそうに言っていた。
「がたんごとん」
橋の下には電車が通っていて
新宿駅ということもあってよく電車がやってくる。

なるほど、ガタンゴトンと音がしている。

ふと、私にとってガタンゴトンは雑音だという事に気づく。
そして、その男の子にとってガタンゴトンは雑音でない、と。

雑音の定義は色々あるかもしれないが
自分に興味のない音は雑音だと考える。
すると、その定義はとても曖昧なものということになる。

私にとっての雑音は男の子にとってとても楽しい音だった。

少しショックを受けました。
私たちの周囲にはいろいろな音が存在します。
そして、それぞれに意味があります。
成長した、といえば聞こえはいいけれど
私たちの周囲にあるいろいろなものに
興味をもてなくなっているのだと。

例えば今、外の音を聞くと虫の音。
でもそれがどんな虫だか分からない。
一応東京に分類される私の所在地、
一体どこで虫が鳴いているのか分からない。
虫が鳴く以上、そういうことのできるような場所があるはずなのに。

そういう一つ一つのことにいつの間にか興味を持たなくなり
多くのものを雑音として分類するようになっていた。

そういうことが必然なのかと考えると
なんとなくその意味を考えたりする。


全然話が違うのだけど
私のパソコン起動までに結構時間がかかる。
ついでに私の部屋は汚い。

これらから導き出した1つの方策。
パソコン立ち上がるまで、ちょっと片付けしてみるか。

これが結構効果的。
ごちゃごちゃしていた机が整頓されて
ぐちゃぐちゃのベッドがきっちりしてる。
時間って使いようなんですねぇ、つくづく。



2005年10月15日(土)

時計を直しに行った。
……というのは口実で、ミニ四駆を探しに行ってきました。
東急ハンズやヨドバシカメラを見ても見つからず
デパートのオモチャ売り場などを探してもないだろうなぁと思いながら
他にすがるところもなく、デパートに向かい
とぼとぼと歩いている矢先。

その街は私が中学校くらいのときに時々訪れていました。
というのもB&Dというスポーツ用品店があったので。
駅の反対側にも店があって、時々行っていたんです。

いつの頃からか、そのスポーツ用品店はなくなり
その店のビルに模型屋ができたんだなぁと
興味もなく思っていたものです。

……というわけで、偶然思い出してその模型屋に行ってみると
丁度欲しいものが1つだけありまして
無事ミニ四駆5台セットを購入する事ができました。

しかし、まぁ……。
中学校の頃から進歩してないような錯覚(だよね?)に陥り
ちょっとだけ何やっているんだろうと
空を見上げてみたり。

少しずつ組み立てしてますが
まだぶった切りまではいっていません。
色々やることがありまして。


ところで、私は基本的に気が弱いです。
知人の何人がそれを認めてくれるか分かりませんが
多分事実でしょう。

というのも、何気ない事から時々自分の性格を考えます。

私は時々話を書きますが
その中でよく
「少し」「ちょっと」「思う」
という言葉を使います。
気づくと使っているので
見直したときに修正したりしています。

私の場合、文章を書くとき
まず頭に風景や人物の動作を思い浮かべて
それを文章化します。
一度文章化すると今度は情景を進めるのではなく
文章を文字として書き進めます。
(時々は進んでいる情景を描きますが)

情景を抜きにして文章だけを書いているとき
「少し」や「思う」などという言葉が自然に出てくるのですが
「少し」という言葉にしても「思う」という言葉にしても
思い切りが足りないんですよね。
多分これは自分の性格に起因していると思うんです。
断言のできない気弱な性格が
無意識に書き進めたとき文章として反映されるんじゃないか、と。

「少し」という言葉を修正するたびに
そんな事が頭をよぎります。

……まぁそれでも平均的な日本人と
同じ程度の気の弱さという事になるんでしょうが。
最近どうも平均的という言葉が頭にこびりついて。
ものすごく嫌なんですよね、平均的。



2005年10月12日(水)


私も小学校くらいのとき
ミニ四駆に結構はまっていた。

さて最近、当時のマシンが
5台セットになったやつが発売されているらしい。
色々なセットがあるらしいけれど
その中でも憧れの(?)前部モーターのミニ四駆2台と
普通の後部モーター3台とかいうセットがあるらしい。

これはもう、真ん中でぶった切って
モーター2つ搭載したマシンを作るしかあるまい、と。
加速力抜群のマシンになるんじゃないかと妄想中。
一方でミニ四駆は加速がもともとすごかった気がするので
あまり変わらないだろうと冷静な私が答えを出していますが。

で……
久しぶりにデパートのオモチャ売り場などを見てみたが
残念ながら売っていない。
京王アートマンという色々変なものが売っているところで
模型売り場を見てみたけれどやっぱり売っていない。
楽天かなにかで送ってもらう事はできるのだけど
まだそういうのやった事がないので二の足を踏んでいる。

こうなったら新宿は東急ハンズまで行くべきなのか?
それでダメなら秋葉原か。


……というわけで私はモーター2基がけのミニ四駆を応援しています。



2005年10月11日(火)


昔からゲームは教育上、良くないといわれることが多い。

例えば、残虐な映画は年齢指定が入ることも多い。
有害な情報から子供を守ろう!というような
すばらしい言葉がいろいろなところから聞こえてくる。

有害な情報とは一体なんなのだろうか?

国は子供に歴史を教えようとする。
歴史の教科書を紐解けば
その多くは戦争や対立で埋っている。
私のように歴史が嫌いで全然学んでこなかった人間だって
太平洋戦争とか、第二次世界大戦とか
そういう言葉は記憶の中に存在している。

多くの人は戦争に否定的だ。
政治家のような人たちも、本音はともかく建前では平和を謳っている。
単純になぜ戦争が否定されるかと考えると
そこにあるのは悲惨なものだからだ。

ふと考えた。
もしも残虐で、生々しく、多くの人が血を流しながら死んでいる絵を
子供が見たらどうなるだろうか?
トラウマになるだろうか?
トラウマ、つまり精神的に傷を負うかもしれない。
そしてそういう傷から子供を守るために情報は規制される。

なぜ、それがいけないことなのか、と。

要するに、トラウマになるくらい悲惨なことだからこそ
戦争や殺人などは否定されるべきである。
そういう悲惨な現実を文字だけで説明して
本当に理解ができるものなのだろうか?

歴史の教科書では原爆を悲惨だといい
写真や資料がいくつも載っている。
あるいはその惨状を言葉で書き表している。

昔の人は言っていた。
「百聞は一見にしかず」
間接的な説明でどれほどのことが分かるのだろうか?

子供を守るという言葉に隠れて現実を教えない。
戦争という言葉や知識だけがつき、
それがもたらすものがどういう事か、本質的には理解していない。
それがとても怖いことに感じるのは気のせいなのだろうか?

全ての情報を子供に伝えろとは言わないが
過剰な規制こそが現実感をなくし
ゲームをゲームとして成立させている要因の一つなんじゃないかと思う。
爆発で片腕がもげて泣き叫んでいる人や
体から腸がはみ出てそれを必死で押し戻そうとしている人。
ばらばらになった体の傍で泣いている子供。
そういう悲惨な現状を知っている上で
戦争ゲームに関わるゲームをやろうとする子供が
そこまで多いとは私は思えない。

日本人は戦争を拒否、あるいは恐怖する。
それは現実として悲惨な現状を見てきたからだ。
だが世代が変ると共にその現実感は希薄になっていく。

必ずしもその状態を続けることが良いとは思わないが
今の教育というのは、戦争を口では否定しながらも
むしろ戦争という行為そのものを
ぼやかしているように思えてならないわけだ。

……という事が寝るときに頭に浮かんだので書き記しておく。



2005年10月10日(月)


インストールとコピーの違いが分からない。

とりあえずイン・ストールと考えてみる。
直訳すると『ストールの中で』。
とりあえずストールで検索。
ストールとはマフラーのようなものだから
基本的には羽織ったり、首に巻いたりするものだろう。
すると、ストールの中にいるのは人である。
まさかストールの中にアルマジローは居まい。
人間が使う事を前提にしているわけだから。

そうすると意訳を加え
『ストールの中で人が』
となる。
問題は動詞がないことである。
これでは困るので考え方を変える。

stole
つまり、steal,stole,stolenと
不規則変化をする動詞だ。
過去形なので盗みました。
in 盗みました。
『中で盗みました?』
明らかにおかしい気がしなくもないけど
その動作の意味からはあまりずれていない気もする。
パソコンの中で盗みました。
何を?
CD−ROMの中身を。
おぉ、意味が通る!

そう、つまりインストールとは盗む作業であり
これは海賊版の多い某国の市場に対する警鐘に違いない。
あたかも一般に利用されるような言葉だと思わせつつ
その実、盗んでいることを人に常に意識させようとした
深い意味があるに違いない。

だが問題は過去形である。
『盗みました』なのだ。
きっとこれは裁判を見越してのことに違いない。
「わたしはインストールしました」
というと、盗みましたと自白したと見られるようになっているのだ。

……さて、バカな事書きました。
忘れてください。

まぁ、調べてなんとなく違いは理解しましたが
最初コピーとインストールの違いが
良く分からなかったのは事実です。
こんな私がコンピュータに関わる仕事をしていていいものでしょうか。



2005年10月09日(日)

年をとることで幸せだと思える事はあるのだろうけれど
生きているとどうしても時間の事を考えてしまう。
まぁ、その一方で無意味な時間や
本当に無駄な時間を過ごしていることが多いので
考えるだけで意味があるとも思えないのだけど。

そういう時、私が無駄ではなく、
生きている証ってなんだろうと考えると
何かを作ったりする事なんですよ。

……そのクセ、作るものといえば
もっぱら電子系(パソコン系)のものなので
なかなか心境としては複雑。
パソコンで何か壮大なプログラムを作っても
ハードディスクが壊れたらそれですべてパーだから。


それ以外に自分の生きている証ってなんだろうかと思うと
結局のところ人にどれくらい
覚えてもらえるかなんじゃないのかな、とも。

結構疎遠になった人も沢山いる。
小学校の友人や中学校の友人。
あれだけ毎日のように楽しげにしていたのに
ちょっとやり取りをしなくなれば、ほとんど連絡を取ることもない。

そういう意味では、先日幼馴染に会えたのは嬉しかった。
お互い変わったけど、変わってない。

ただ、やはり昔の親友と
ほとんど連絡を取らなくなったことを思うと
ちょっとだけ寂しい思いが胸にわく。

しかし、こんな事を言った人もいた。
年賀状だけの関係はゴメンだ。
……ニュアンスはそんな感じ。

本当に悲しむべきは連絡を取らなくなったことではなく
関係そのものが薄れたという事なのではないかと。
名前を出せば覚えてるし、あえば会話もするだろうけれど。
それで昔を取り戻せるかといえばそういうものでもないし
それは年賀状を年に一回送りあう関係だろうと
まったく連絡をとらなくなった関係だろうと
そんなに変わるものではないのかもしれない。



2005年10月08日(土)

車が昨日、修理から帰ってきた。
妹が扉をぶつけて、取り替えることになったんですけど。

で、今日見た夢が
早速私が車にのってぶつける夢。
……いや、速度違反で免停だったかな。
いずれにせよ、あまりいい夢ではありませんでした。

口に口内炎も数箇所できているし
精神的に少し荒れているのかもしれません。
いや、全然そうは感じないのですが。
もしかしたら胃が問題なのかな?
一日中ガムをかんでいるし、最近。
家と学校の両方に150グラムのキシリトールガムを置く生活です。


そういえば、私も小学校(中学校もかな?)時代
ファミコンを良くやりました。
その中で特に思い出に残っているのが
ファイナルファンタジー3です。

小学校時代から結構いい加減な性格だったので
箱にファミコンカセットむき出しで
入れていあるのがほとんどだったんですが
ファイナルファンタジー3だけはケースをしっかりとってあって
カセットも買ったときからついている袋に
いつも大事にしまっていました。
取扱説明書もちゃんと持っていたような……。

入手したときの事もなんとなく覚えています。
友達の家で見て以来、どうしても欲しくて
たしか誕生日に欲しいとねだり
どういう経緯でか、ランドセルの中から取り出した記憶が。
隠してもらったのか、親が隠したのか。
当時クリスマスプレゼントみたいに
目が覚めたら入っている……ってのが大好きだったので。


で、前置きが長くなりましたが
最近の携帯ゲーム機でリメイクされて出るという話を聞き
買おうかどうしようか真剣に悩んでいるところです。

やっぱり思い出に残ってるゲームって存在するんですよねぇ……。



2005年10月04日(火)


今朝、母親にそろそろ早く起きる習慣をつけたらどうか、と言われた。
確かに社会人と比べると4時間ぐらい遅い起床が習慣になっている。
これで社会に出たら確かに困る。

しかし、まだ眠っていたい頭は反論する。
もしも社会に出ることを前提として
早く起きる習慣をつけるなら
6時ごろに起きるようにしなければならない。
大学はどんなに早くても9時からなので
家からの通学時間を考えると6時はどう考えても早すぎる。

習慣化させるのであれば、社会に出たときに起きる時間に
あわせなければ意味が無いし、それをすると今の生活には早すぎる。

さて、今日は
22時を過ぎた頃、とても眠くなった。
昼寝(といってもほとんど夜だけど)が
結構習慣化している。
こういうのもよくない原因。
とりあえず我慢して起きている。

すると、0時を過ぎたあたりから頭がさえてくる。
習慣とはこういうことだと、理解する。

今私に必要なのはどういう生活なのだろう?



2005年10月03日(月)

なんだかなぁ、行きの電車の中では
今日の日記はこういうことを書こう……と思いつくのだけれど
帰宅後パソコンの前に座るとどうも覚えていない。


バカみたいな話を一つ。
貧乏揺すりってあるじゃないですか。
結構よく見かけます。
この前なんかは電車で見かけたのですが
気になってしょうがなかったので、見ないようにしていました。
幸い、私は長いすに座っていたわけではないので
揺れを感じて不快になると言う事はありませんでしたが
隣に座っていた人たちはどうだったんでしょうか。

一方で私も家に居る時など
時々このクセが出ることがあります。
後寝るとき。

よくないとは思うのですが、どうにも止らない。
外にいるときなどはしないので
体が相当落ち着いているときに限って発生するようです。
それにしてもいつまで持つのやら、と考えると
あまり歓迎できるクセではありません。

そんな私ですが、時に思うことがあります。
貧乏揺すりって筋トレにならないのだろうか?と。

色々パターンはあると思いますが
太ももを揺らしたりしている事が多いじゃないですか。
あれって、つまりは運動ですよね?
然るにそれは、筋トレになり体脂肪率の減少に……
などと考えてしまう事がありまして。
バカみたいな話だとは思いながらも
無駄に運動している足を見ると、ついそんな事を考えてしまいます。

体を振動させてダイエットしようとか
通販なんかでもよく見るじゃないですか。
あれの応用だとおもえば……。

でもやっぱり周りが不快なんだからやるべきじゃないんですよね。



2005年10月02日(日)

サンデープロジェクトだったかな?
談合の告発するって人を追いかけた特集組んでて。
孤立無援な戦いを……って感じで放送されていました。

まぁ、その内容云々よりも
なんとなく感じた事を。

放送中の一場面、告発しようとしている人の娘が
テレビ出演を終えたその人に
「カッコよかった」
って言ったんですよ。
テレビ出演したけど言いたい事半分もいえなかったとか
そんな風に自分では言っていたんですけどね。

それ見たときには結構冷めた感じで見ていたんです。

ただ、特集はその後も続いて
談合である以上、発注する方……つまり役所の方でも
当然想定している価格を業者に
教える人がいるってことなんですけど。
刑事告発された後、番組の人が
そういう教えている人がいるかどうかとか
役所の助役の人にたずねていたんですが……。

なんというか、その助役さんの受け答えなどを見ていると
心底「格好悪い」と思ったわけなんですよ。

格好いいとか格好わるいとか
結構あいまいな価値観なんですけどね。
私自信はそういうのにあまり興味がなくて
幸せならいいかな?という心境だったんですけど。

珍しく、思ったわけです。
こんなに格好悪いのは嫌だなぁと。

なんか口癖になっているんですが
「それでいいんじゃない?」
結構投げやりに思える発言してます。
あいまいで、中途半端な決定の一助になっているわけですが
これ繰り返していると格好悪くなるのかなぁ。

社会に出ると多分色んなシガラミがあると思うんですよ。
そういうのを目の前にして耐えられるかなとちょっと不安。
嫌悪したくなるものが目の前にあると
どうもそれから逃げ出したくなってしまう私です。



2005年10月01日(土)

就職活動をして、就職や社会というものに
詳しくなったかな?と時々は思う事がある。

一方で、全然昔と変わっていない事に気づく。

いつ、そう思ったのか、もう覚えていないけれど
『就職するなら子会社は嫌だ』
と考えた事がある。

ずいぶん昔の話だと思う。
なんとなく子会社という響きが嫌いだったのかもしれない。
何より嫌だったのはその立場。
立場といっても、無知な人間が持つイメージのそれであるが。

漠然と言えば『親会社に使われる・親会社よりも下』
というイメージであろうか。

活動中も、子会社というような言葉を聞いたことはあるし
子会社を受けたりもした。
グループ会社という言葉を使っていて
子会社と何が違うのだろうかと悩んだ事もあった気がする。

実際の話として子会社の中にも
良い会社はいくつも存在する。
学生の中で人気の高い会社もあまた存在する。

結局私の持っていた子会社のイメージというのは
色眼鏡を通してみたものであり
偏見と、思い込みにより形作られていたわけだ。

ただ、昔の思い描いたイメージというのは厄介なものである。
わかっていはいても、相変わらず苦手意識が残っているのだ。

就職活動を振り返って
子会社と呼ばれるものは受けはしたが
受けた数から考えると少ないと思う。

結局のところ、仕事というのは誰かに使われるケースがほとんどで
親会社だろうがどこであろうが
独立している会社であろうが
それはあまり変わらないと解釈している。
扱いだけを考えると
子会社よりもずっと待遇の悪そうな会社も何社か見ている。

それでも相変わらず
昔持ったイメージというのは簡単には変わらないわけで……。

そんな事を考えていると、人を説得したり、
その人の持つ価値観を変えるというのは
容易な事ではないんだろう。


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