1日雑記

2005年08月31日(水)


カキ氷食べてないなぁ

いや、何のことはないんですけど
ネット見てたらフラッペの話が。
昔「美味しんぼ」みてたらカキ氷の話があって
氷の味を楽しむには砂糖水が一番だ、とか。

で、ふと思ったんですけど
日本における最高のカキ氷を食べるならどうしたらいいでしょうか?


さて――

幸い日本には名水百選というものが存在するので
最高品質の水を確保するにはさほど困らないだろう。

純粋に水が最高のものであるなら氷そのものを楽しめるはずだ。
という事で別の名水百選の水に最高級の和三盆を溶かした水をかける。
同じ水でいいじゃないか、とも思うが
カツオだしと昆布だし、混ぜた方がより美味しくなるという。
きっと水も同じだろうと結論付けて
別々の水を使う事にしよう。
もちろん水の味の相性などを踏まえたうえで
ベストチョイスするほうがよい。
気持ちだけリッチなのがよければ
北は北海道、南は沖縄まで名水百選はあるのだから
日本をまたに駆けたカキ氷も作れるであろう。


だがここで問題になるのは氷の質だ。
空気が入っているような氷は論外だが
これについてはゆっくりと冷やして時々かき混ぜれば
家庭でもできる。

と、ここまでは誰でも考える事だろうが
一番の問題が存在する。

氷の口当たりだ。
まるで薄い氷の刃が沢山積み重なって出来ているようなカキ氷と
まるでボタン雪のような柔らかでフワフワとしたカキ氷。
これらは2種類存在すると思う。
どちらの方が美味しいのだろう?

いわゆる縁日などで食べられるかき氷は
大きな機械と鋭利な刃物で削るので前者だ。
一方、最近よく見られるカキ氷は後者であろう。

水を味わうならどちらか。

人類はこの問いに明瞭な答えを見つけられるほど
すばらしく、そして愚かしいだろうか?
われわれがカキ氷に抱えた問題は大きく、そして難しい。



2005年08月30日(火)


某月某日。

どういう経緯か、ムダ毛の処理で
豆乳ローションなどを使うという事を知る。

ついでに自宅で作れる豆乳ナンタラ。
毛の処理にいいとか。

某月某日+3日。
何故か豆乳を買っている私がいる。

いやね、髭がね……濃いんですよ。
流石にそろそろ切なさ炸裂するんじゃないかってくらい。
この髭のパワーなら
子供に髭ジョリジョリ攻撃したら泣かせられますよ。

まぁ、本来は塗ればいいのだけど
ムダ毛用に豆乳買ってきてそれを加工して
毎日頬に塗りたくるのは、なんとなく気が引ける。

で、健康にもいいから飲んでみる事に。
何日続くか分からないけれど。

しかしまぁ、ある意味この太い髭はアイデンティティなのかもしれん。
ゲゲゲ鬼太郎がもっとむさかったら
きっと毛針じゃなくて髭針を使ったはずだ。
そっちのが硬い。
間違いない。

正直焼け石に水という言葉が脳裏をよぎり
髭はムダ毛というレベルじゃないだろうと冷静な私が言っている。
おぼれるものはわらもすがるというけれど
豆乳じゃすがろうにも液体だ。

しかし豆乳には湯葉というものがある。
これを使って大きな風呂敷を作り
それに空気をいれて縛るわけだ。
もともと液体ですいぶんに強い湯葉は
中の空気を外に吐き出すことなく
風呂場に入れたタオルのように空気を溜め込むに違いない。
そしておぼれるものは浮きを得る。
これだね!
溺れるものは豆乳をつかめ!

と、バカバカしい話はともかくとして
少し髭生やしてダンディー……は、無理かなぁ、やっぱり。



2005年08月29日(月)


選挙が盛り上がってきたみたい。

私は比較的民主党に入れることが多いのだけれども
今回はどうしたものか。

結構無茶苦茶やってる小泉さんを見ると
昔の小泉さんを思い出すので
今回は自民党に入れてもいいかな?と少し思っている。
……正確に言うと思っていた。

ただ、自民党であっても結構早い段階で
小泉さんは退陣するというような事を言っているので
その後やっぱり昔の自民党に戻るのであれば
自民党に投票する意味はあまりないなぁ、と思う。

民主党はいまいちパンチが弱いし
共産党は個人的に好きじゃないし
社民党は党首がちょっと……力不足。

公明はちょっと……ノーコメント。
でも投票する事は間違いなくない。

どうしてもどんぐりの背比べ感が否めない状況下
誰に投票したものか。



2005年08月28日(日)


言葉の定義づけ。
相変わらず唐突に頭に浮かんだので。

「まやにんや」「みうぎ」「えよあば」
適当に言葉を羅列してみた。
テキストをパソコンで書いていると
変換には沢山の候補があることが分かる。
同音異義語、とでも言うのか。

英語などでもスペルが同じで意味が違う、
発音が同じで意味が違うものが沢山ある。
そういうのを見ると、とても分かりづらいと思うわけだが……。

日本語も負けず劣らず、
沢山の意味が同じ言葉の羅列で存在している。

言葉というのはつまりは組み合わせだ。
文字というものの組み合わせで意味を成す。
少し見方を変えると、文字の組み合わせに意味づけをしている。

最初にかいた適当な文字の羅列。
これらには(多分)意味が持たされていない。
そんな文字列など、いくらでもあるだろう。

なのになぜ、同じ言葉の羅列に違う意味をつけるのか?

ちょっと計算してみよう。
もしも日本語が50音ならば(厳密には違うし、濁点などあるけれど)
3文字の日本語があったとしたら
50×50×50通り、つまり125000通りの
文字列が存在する事になる。
3文字の羅列だけでも、可能性としては125000通りの
意味を付加することが出来るのだ。

可能性があるのに使われないのは悲しい。
スペースがあるのに使われないのはやはり悲しい。

言葉とは本当に効率的な道具なのだろうか?



2005年08月27日(土)


一応学生。
9月の20日くらいまで休みだなー等と能天気な事を考える。

が、研究室の関係もあり
夏休みとはいえ学校へ行く事も多くなっている。
当初の予定ではお盆の頃いくらか連続した休みを取り
残りは毎週水曜日を休みにするとても楽なスケジュール。

ふと思い返すと、全然水曜日に休んでない事が判明。

来週からも色々忙しく
やっぱり休めないと思う。
大学生の夏休みらしい夏休みって
3年くらい前に終わってたかもしれない……。

長期の休みがあっても多分もてあますだろうし。
とりあえずたっぷり寝れる土日に感謝。



2005年08月26日(金)


取り合えずである。
結論から言うとあまり変わりませんでした。

今日私は一つの発見をした。
きっかけは単純な事だった。
あの、上から読んだら「やまもとやま」
下から読んだら「まやともまや」の山本山が発売している
ペットボトルの
『日本橋のお茶屋 ほうじ茶』
を買ったことだ。

私は冷たいお茶を飲みつつ、
研究室で薄いコーヒーをすすっていた。

で、唐突にひらめいたのだ。
混ぜたらどうか、と。
何の裏づけもなかったのだが
私の味覚には二つの味が、似ているように思えた。
ほうじ茶とインスタントコーヒーなど
似ても似つかないと思えるのだが、確かに似ていた。

それで決行したわけだが……
結果は冒頭に書いたとおりである。


敗因を考察してみた。
同じ味に同じ味を混ぜても変わらない

当たり前といっちゃ当たり前なのだが……
でも味があまり変わらなかったというのは
両者の味が似ていたという私の感覚を裏付けるものであった。

残念だ。至高の美味しさになるかと思ったのに。

仕方ないので次は
紅茶コーヒーほうじ茶ウーロン茶
を混ぜてみようかと思う。

で、それを誰か知人に飲ませてみようと思う。
色は変わらないしばれないよね。
きっとそこにあるのは究極の美味しさだ。

それはともかく一度山本山のほうじ茶をご賞味あれ。
あれはきっとインスタントコーヒーだ。



2005年08月25日(木)


私は人をみているだろうか?

私は人の本心を察する事が苦手だ
……と、自分では思っている。

表面と内面というような言い方をするけれど
内面が全然分からないというか
表面の裏を知ろうともしない。

そう考えたとき、私は人をちゃんと見ているだろうかと
改めて考える事になる。


例えば輪廻転生なんて言葉もよく聞かれる。
魂という言葉がそこに使われていたかは覚えていないが
少なくとも『その人』は繰り返し生き続けるということだ。

人とは何ぞや?と誰しもが考えるような事であるのだが
魂や霊魂というような言葉が言葉として存在するように
肉体と心を別々の概念として考える事は少なくない。

心=脳みそというような方程式を目の前に出され
「何、当然のことをいまさら……」と考える人よりも
「理屈では分かるけど少し違和感が……」と考える人のほうが
多いのではないかと私は思う。
……というか私は後者なのでそう思うだけなのかもしれない。

ならば、と。
人は何かと問われたとき
その本質は肉体にあるのか心にあるのか。
肉体よりも心に愛着を持つ人の方が多いのではないか。

もしも肉体と心をばらばらに考えるのであれば
両方をさして私は人と定義するだろう。
あまり意味のない仮定ではあるが
もしもどちらか一方しか選べないといわれれば
恐らく心と言うだろう。

別に統計を取ったわけでも
周りの人に意見を求めたわけでもないが
多くの人はこのように感じるのではないかとなんとなく思っている。

考えてみれば人を人と定義するには肉体が必要なので
『人』という言葉の意味からすると肉体の方が正しいのかも。
『その人』という言葉の定義を考えるなら
心と答えるのはもっとしっくり来るかもしれない。

それはそれとして、少なくとも種としての人ではなく
普段私たちがイメージする人というものの本質に
心の方が近いのならば
表面(肉体)を見ている私は人を見ていないということになる。

幸い、心と体は直結している事が多いので
心が喜べば顔がほころぶし
心が悲しめば涙も出てこよう。

一方で喜びながらも涙を流せる人もいるし(嬉し涙じゃなくて)
悲しみながら笑顔を浮かべられる人もいるわけだ。

要するに表面だけを見ていても人を見ている事には
ならないわけで――。

これが顔じゃなくて言葉になればいっそう分かりにくいし
文字ともなればますます分からない。


しかし、と。
人に裏表、心と体が存在するなら
その事に何か意味があるのでしょうか?
喜んだときに笑って
悲しい時に泣いて
それが裏表さかさまになるような行動に
何か大切な意味が本当にあるんでしょうか?



2005年08月24日(水)


最近少し、株に興味が出てきた。

別に、積極的に行動を起こしているわけではなかったので
何も進歩はなかったのだけれど……。
今日、たまたま母親が分かりやすい株の本を買ってきた。

さて、私は漫画を結構買ってます。
最近はあまりテンポが速くないけれど
一昔前はかなりのテンポと量で購入していました。

そんなとき、例えば私が面白いな、と思った漫画が
アニメになったりすると何故か得意げになったものです。
アニメになるより先に面白い漫画を知っていたんだよ、と。

そういうことも最近は特になく、生活していたのだけれど。

株というのは、どうも良し悪しを見越してやるというのが良いらしい。
という事は、面白そうな漫画があったら
それに関連する株を買えばよいのではないか。

別に人一倍、どの漫画が面白いとか判断できるわけではないけれど
少なくとも一般の人よりは分かるんじゃないかなと。
こういう無駄みたいな感覚が無駄にならないなら
株をやっても面白いのかなぁ、と考えます。


余談ですが、もしも株を上手く運用できる人がいたなら
フリーターよりも上手に時間とお金を
確保できるんじゃないかなぁ、と考えたりしました。
まぁ、株なら株で、それに関連する知識をつけるだけでも
それなりの投資が必要になったりするわけで……。
競馬新聞みたいな?
情報誌って結構高いし
儲けが出てもそういう情報代で結構お金かかってるんですよね。



2005年08月23日(火)


1+1= 田

1たす1は田んぼの田 なんてやり取りを小学校の頃してた。
なんか、改めて考えるとこれは正しいのだ。

漠然と考えていたのだが0.8と0.1。
どちらが1に近いかといわれると0.8である。
でも、ぱっと見ると0.1の方が1っぽい。
0.11111111ならますます1っぽい。

これは直感として正しいはずだ。
8という文字と1という文字を見たとき
8という文字の方が1に近いと答える人がいたら
それは眼科に行ったほうがよい。

例えば錬金術というものがある。
内容は結構複雑っぽいので専門のサイトでも見てもらえばいいとして
錬金術というのは物がなければ成り立たない。

現在の科学力で、錬金術(金を作り出す)事は可能であるらしいが
何もないところから金が湧き出てくるわけではない。
金に近い材料に細工をして金をつくるわけだ。
(やった方が損をするので誰もやらないだけで)

成長するというのは細胞分裂であるが
細胞がないところで細胞分裂はできない。

つまり、基本的には何もないところから物はでてこない。
何もないところから急に物が現れた、なんて言ったら
きっとバカにされる事だろう。

では、改めて1+1をみる。
1+1は2であるが、2という数字はどこから出てきたのか?
何もないところから物が現れているのではないだろうか?
そういう意味で、1+1= 田のほうが納得いくのではないだろうか?
0.8よりも1に近い0.1なんてものがあっても
良いのではないか?

1というものと1というものが形を変えて2という形になった。
そう考える事は出来るかもしれない。
……が、中学生くらいの数学になると
右辺と左辺を別々に考えるという事はよくある。
1というものと1というものが形を変えて2になったのなら
形を変える前の段階のものを2以外に変形するなど
言語道断ではあるまいか?

0.8よりも1に近い0.1というのはバカバカしいか?
そんな数ありえないと思うかもしれない。
が、もう少し考えを広げると
複素数というものが存在する事に気づく。

簡単に言ってしまえば2乗すると-1になるというものであるが
マイナスとマイナスをかければプラスになるというのは
小学校でもやることではないか。
つまり、本来数として存在しないものを数として
考えている学問も存在しているという事だ。
(複素数を『数』として扱うのは問題あるかもしれないが
 とりあえず分かりやすいので……)

このようなものを多くの人が学んでいるならば
0.8よりも1にちか0.1なんてものも
存在していいのではあるまいか?

……というように、人の直感という事からいうと
0.8より0.1のほうが1に近いのだろうな、と。
1+1= 田なんだろうな、と。
何もないところから2を置くなんて荒業、誰が考えたのか。



2005年08月22日(月)


最近どうも、引っ張られる。

と、言っても別に幽霊に引っ張られるとか
そういう事ではなくて……。
気持ちが引っ張られる。


私は比較的『今』を肯定することが多い。
肯定のために、理由を考えたりする。
そんな事を考える事も多いので
比較的納得できる事が多かったわけだが……。

就職という節目など、相変わらず色々考える。

ただ、気づいたのだが理由をつけて今を肯定しているのは
今以外の可能性を否定したいからなんだな、と。

もしも〜ならば……
と、際限なく考えられる。
今に満足しているか、と問われ
満足していると答えられるのは
他の可能性を考えていないからなのだろう。

正確に言うと考えている事はいるが
真剣に考えていない、という事か。
まぁかんがえても仕方のない事ではあるのだけど。


とはいえ、そういうことに気づくと気持ちがぐちゃぐちゃになって
少し調子がおかしくなってしまう。

まぁ、こんな事を考える時間が増えるのは
何かに集中する時間があまりないからなのでしょう。
あー……頭がふやけてる。



2005年08月21日(日)


「ごちる」なんて言葉。

ひとりごちる、とか。
言葉として存在するのか辞書で調べてみるも見つからない。
ネットで検索してみると結構引っかかる。

そういうところで検索してたりすると
言葉について書かれたサイトが結構あることを知る。

識者とかたいそうなことじゃなくて
正しい言葉をしって、正しい言葉で書きたい。
しゃべりたい。
そういう欲求はあるのだが……。

でも、ごちるって言葉を使ったとき
誰しもが共通の言葉の意味として捉えられるか。
分かりやすく、かつ語呂のよい言葉。
そんなものを使いたい。

日本語なんて日本で共通の概念かとおもいきや
そういうものでもないんだなぁ、と改めて。

そういえば方言なんて私さっぱり分からないや。



2005年08月20日(土)


とりあえずビーフシチューを作ってみる。
……いや、ルーのやつなんで簡単なんですけどね。

まず、問題点としてビーフシチューだけど
牛肉じゃなくて豚肉を使った。
ポークシチューになった。
……まぁいいか。

たまねぎの炒め方が足りなかったのか
形が存在していた。
形が見えなくなるくらいまで炒める方が私の好みだ。

あまり分量は考えずに、適当に鍋に野菜を突っ込んだ。
たまねぎとか。

たまねぎは甘い。
大量にたまねぎを突っ込んだら
そういう事実を改めて認識する事になった。

ニンジン。
包丁は時々使うので、別に苦手でもない。
小学校の頃は滑らせなきゃ切れないからといって
包丁の刃をつかんで見せたものだ。
驚く周りの反応が結構楽しかったと思う。
……今考えるとバカだ。
と、それはいいとして
私が包丁を使って皮をむきづらい野菜No1がニンジン。
どうもあれだけは上手く皮がむけない。
包丁の背を使って皮をこすり落とすという手もあるし
皮剥き器なんてものもあるし、買ってくればいいのかもしれないけど
とりあえずは包丁で皮をむく。

あの形状が苦手。
とても切りづらい。

ジャガイモ。
新ジャガということで、皮を洗ってそのまま突っ込もうかと思ったけど
どうも泥が落ちる気がしないので皮をむく。
……どれが芽だか良く分からない。
とりあえず芽と思しき物をえぐり取る。

で、料理を作ったのだがどうもつめに匂いがこびりついている。
この匂いがなかなか取れずに悲しい。

結局まずくはなかったが、美味しくもなかった。
料理は楽しいので出来るようになるといいのだけど。
食べる事は生きる事そのものだ。
食べ物を作る事は生きる事だ。

でも料理と政治が一緒というのは良く分からん。
なぞです、カリスマ主婦。



2005年08月19日(金)


アンパンマンの顔にはネジがついている

……と、そんな仮説を立ててみた。


つまり、毎回顔を交換するときにすごい勢いで回転する理由だ。
今日見た限り、あの回転方向はネジを締めるときのそれであった。
昔見たとき、どんなに新しい顔が勢いなく転がってきても
古い顔と交換されたとたん、急激に回転をしていた。

なぜ回転するのか?
そしてなぜ高速で回転させなければならないのか?

その疑問に対し、アンパンマンの顔にネジがついていると仮定すれば
疑問は解消されるのではないかと思うのだ。

ご存知のようにアンパンマンの顔は着脱可能である。
が、簡単に外れてしまってはパトロールなど出来ない。
当然、ストッパーのようなものがついているに違いない。
そこで、ネジである。
顔にネジが付いているのであれば
回転する事で体に固定される。

ちなみに顔を外すときには
雌ネジ部分を広げればいい。
あらかじめ雌ねじを分割しておき
ボタンひとつで広がるようにしておけば簡単に外す事が可能だ。

また、高速に回転する理由であるが
アンパンマンの顔を交換する状況がほとんどの場合
危険が及んでいるからすばやい交換が必要になる。
すばやい交換が必要であるにもかかわらず
毎回回転するのには理由が存在するはずだ。

もしもネジでとまっているならば、回転させなければ頭は付かない。
そして、緊急を要するのだから高速で回転しなければならないのだ。


ではどうやってネジを回転させているのか?
これも普段の状況から判断できるであろう。

貴方はUSBを知っているだろうか?
フラッシュメモリでもいい、少し接続部分を見てほしい。
内側に4本の金属線が見えるだろう。
そして、そのうち2本が数ミリ長いことに気づかないだろうか?

あの2本は電源用の導線である。
あのように金属線をつけることでどのように取り付けても
先に電源がUSBに供給される仕組みになっている。
そして機器として認識させた後
内側の2本で情報を交換するわけだ。

これと同じ事がアンパンマンでもいえる。
アンパンマンの顔には電池が内臓されているのだ。
恐らく鼻の辺りに。

これにも根拠がある。
アンパンマンは顔が濡れると力が出ない。
何故か?
なぜ、水に弱いのか?
パンが水に付くことがマイナス要因であるというのなら
この世にベーグルなんてものは存在しないはずだ。

味が落ちる→力が出ないというのも科学的ではない。

しかし、もしもアンパンマンの顔に電池が内臓されているなら
濡れる事で漏電し、力が出なくなる事も納得できるのではないか?

更にもう一点。
アンパンマンは古い顔のときにバイキンマンにやられ
新しい顔でリベンジするというのがパターンである。
が、毎度思うのだが
なぜ古い顔のときにあっさり倒せないのか?
顔が濡れて力が出ず、倒せないのは分かるとしても
古い顔とはいえ、濡れてないのに時に
ほぼ毎回倒せないというのは明らかに不自然である。

これはつまり、電池が消耗しているからではあるまいか。
新しい顔になると同時に、当然電池は新品になる。
それにより、消費量の多いアンパンチを
使えるようになるのではないか。

そう、こう考える事でアンパンマンの顔が説明できるのである。
そしてこんな事を書くことによって
私が普段どんなにつまらない事を考えているか
改めて認識する事になる。

……ほんっとに何つまらない事を考えているんだろう、この頭は。



2005年08月18日(木)


『滑舌』って読めますか?

かつぜつ、であっていると思うんですが
広辞苑にも載ってないみたいです。
ちなみにパソコンで変換しようと思っても
私の使っているパソコンでは変換出来ません。

かつぜつ、という言葉は頭の中に残っていたのですが
変換できずに不安になったので
ネットで調べてみたら、こういう話が沢山ありました。

誰でも考える事は一緒なんですね。



2005年08月17日(水)

夢の中でなきそうになる事がある。
一度ではなく、何度でも。

子供の頃、何かがきっかけで泣いたとき
泣きながら何かを一生懸命主張しようとすると
息が絶え絶えで言葉にならない事がなかっただろうか?

泣いているからか、息を吐き出しっぱなしの状態で
肺にあまり空気がなくて大きく叫べないのに
叫ぼうとして叫べなくて、絶え絶えで悲しくて……。

と、そんな状態に夢の中で陥ることが何度もある。

もちろん夢の中ではそれが現実なので
一生懸命訴えようとするが訴えられない。

今日、唐突にそれに対する回答が夢の中に出てきた。
あるいは寝ぼけてた状態なので
夢というよりは空想空間だったのかもしれないけれど。

もしもあの状態で叫んでいたら
寝てるときに大声で叫んでいるに違いない。

私は色々と人目を気にする人間で、しかもシャイなので
奇声を上げたくても我慢するタイプである。
(当たり前といっちゃ当たり前)
後は部屋でなかなか声を大きくして歌えない。

そういう遠慮が心の中にあるから
夢で何かを叫んで、現実でも叫んでしまうのを
防いでいるに違いない、と。

夢を深層心理で見るならば
そういう心理が夢に働いても不思議ではないわけで。

……しかし、逆に夢の中で叫べてしまったら
現実にも叫んでしまう可能性があるわけで。
寝言くらいあるかもしれないが
夜中に叫び声はあげたくないなぁ、と思うこのごろ。



2005年08月16日(火)

以前から少し考えていて
相変わらず結論の出ない事がひとつ。
そもそも問いですらないようなものなので
結論というのは不適切かもしれない。

障害者、あるいは欠点という言葉から始まって。

例えば片手がなくて生まれる人もいる。
足が悪く車椅子でないと動く事が出来ない人。

そういう人を見たとき障害者と考える。
対して、五体満足な人を健常者と考える。
(必ずそうということではないが)

少し視点を変えてみて
欠点という言葉について考えてみる。
欠点がない人などいない、と言うのは
多くの人の共通の認識といって間違いがないと思う。

欠点と言うのは、読んで字のごとく
欠けた点の事である。
悪い点、というように解釈される事が多い言葉だが
(あるいはそういう風に定義されているかもしれないが)
欠けている点を示す、というように解釈しても
間違ではないのではないか。

そういう風に考えると、人は誰しも欠けた点を持っており
例えば右手のない人は、右手が欠けた点になるのではないか。
もちろん、五体満足な人に比べ身体的な部分が欠けている場合
生活に支障が出る。
それは多くの人間が両手足を自由に扱えるため、
そのように文明が進化したからである。

ところで、身体障害者をその人のせいにする人はいないと思う。
生まれながらの事であり、本人の意思ではどうにもならない。
これも多くの人の共通の認識だと考えて間違いないと思う。

次に、精神的な問題について。
先日『境界例(境界性人格障害)』と言う言葉を知った。
具体的な説明は専門のサイトを見ていただいた方がいいと思うが
例えば
・ 自分の生き方がわからない。
・ 自分のすべてを受け入れてもらいたいと望んでいる。
・ 愛し方が不十分であるという理由で相手を責めたてる。
・ 他人への評価が極端から極端へと揺れ動く。
・ 自殺未遂を繰り返す。
(引用:http://homepage1.nifty.com/eggs/)
というようなこともあるらしい。

原因とメカニズムと言う項目を見てみると
どうも赤ん坊の頃から始まるということらしい。
情緒や、人格を形成するのは環境だとおもうのだが……
さて、赤ん坊に責任を負わせる人がいるだろうか?
考えるまでもなく、赤ん坊に責任能力はない。
つまり、境界例などについは当人の能力だけで
回避できるものではないということになる。

それでは、当人が回避しえる場合というのは
どういうものなのだろう?
先ほど言ったように、情緒や人格というのは
環境によって形成されていくものだと思っている。
また、人は判断をするときに経験から判断する事がおい。
経験をする、というのもまた、環境である。
これらが事実であるならば
当人の性格から始まり、判断基準など
それら全ては環境によって決まるものである。
そして環境とは、生まれた『場所』によって定まるのだから
生まれる場所を自分で定められない以上
それらは自分では回避しえないということになる。

例えば勉強が出来ない、運動が出来ない。
それは何によって決まるのだろうか?
もちろん先天的なものもあるだろうが
努力によってある程度は底上げする事が可能である。
では、努力が出来る出来ないは何によって決まるのだろうか?
環境か、あるいはその個体特有の性質か。
環境であったら生まれる場所を自分で指定できない以上
その人に責任はない。
個体特有の性質であれば、やはり自分でどうにかなるものではない。
身体障害者と同じように。
自分で選んだわけじゃないのだから。

そう考えたときに、
当人が回避しえる……問題を選んだり、避けたり、解決したりする
『自分の責任』という言葉に意味は成立するのだろうか?
たとえ成人してからの判断であっても
判断するための基準が子供の頃の環境などであるならば
それをその人の責任とすることは出来ないのではなかろうか?

これを当人の責任だと非難できるのであれば
境界例の人や身体障害者の人にでさえ
その人が悪いと非難できてしまうのではないか。


……という言うようなトンデモ話が頭に思い浮かんでしまいました。
書いてて当初書こうとしてたこととは
違う方向に進んでしまう悲しさや。

問題と結論をちゃんと考えて書かないとこうなってしまいます。

書いててだんだん分からなくなってきたし
全然まとまってないので私自身後から読んでも何を書いたのか
さっぱり分からないかもしれません(笑

電車に乗る時間も増えたし
いずれ考えるときがあるかもしれません。
そのときはもうちょっと分かりやすく書けたらいいのにな。



2005年08月15日(月)


手の届く幸せ

とでも言えばかっこいいのだけど。
いや、何のことはない、お昼にマクドナルドで食べたんですけどね。

小学校くらいまではうれしかったなぁって。
親にねだったりもしていたような。
駄菓子やお菓子にしたって同じ。

でも今は、食べようと思えば食べられる。
買いたいときに買って食べてる。

いつの間にか、昔感じた幸せが
いつもかなうものになっていました。

いま、お菓子やマクドナルドを食べられるからといって
幸せですか?ときかれれば
素直にはいと言えない自分がいます。
(小学校でもはいと言えるかどうかはなぞですが)

そう考えると今まで幸せって何だろう?とか
そんな風に考えていた事が少しぐらついた、というか。

無意識のうちに唯一絶対無二のものとしての幸せ考えてたけど
時間とともにどんどん変わるんだなぁって。

幸せって何だろう?って考える事は無駄じゃないと思うけど
その時々によって変わるものだと認識していなければ
今日の幸せが明日の不幸になったとき
耐えられないんじゃなかろうか、と。

幸せは〜歩いてこない、だーから歩いていくんだよ〜
って常に目的地変わっていくわけですから歩き続けるんですね。
だから方向変わって二歩後ろに進んだりもするんですかねぇ。



2005年08月14日(日)


何のことはない、
ネットしてたらなんとなく暇だったので
グーグルで検索かけてみた。
「生きるのに疲れた」

生きるのに疲れた の検索結果のうち 日本語のページ 約 5,820 件中 1 - 50 件目 (0.31 秒)


6000件近く出てきました。
考えてみればありきたりな単語ではあるんですよね。
しかし、こういう理由で命を絶った場合
いかにもありきたりな理由で死ぬみたいで
あまり面白くなさそう。
面白い、面白くないで判断するような事じゃないだろうけど
そういう価値観がある程度大事である事もまた事実だと
私は思います。

そう考えてしまえば、天寿をまっとうするなんて
それこそありきたり……と考えられなくもないのですが。
老衰とか。
この際それは置いておいて。

変な話ですけど、自殺(死)は美化されます。
美化されるが故に、後を絶たないし
美化されるからこそ、実行できると私は考えています。
不可逆。
一方通行。
だから魅力的にさえ映る。

んで、ありきたりな美談は美談じゃないんですよ。
そんな風に考えるから
私にとってありきたりかありきたりかじゃないかって事は
重要なんです。

ありきたりな顔と性格してるから
なんか一点、ユニークなものが欲しいと思いまして……。
ユニークな死に方なんてしたくないけど
ユニークな何かを持ってみたい。
そんな風にちょっと考えます。



2005年08月13日(土)

なんとなく、唐突に頭に浮かんだ言葉。

中途半端。

なんだかんだと理由をつけて
結局中途半端な生き方しているのかもしれない。

趣味を突き詰めるでもなく
ある程度技術を持っていることを仕事にするわけでもない。
今から仕事は楽しみなんですが
結局それも「仕事」という位置づけなんですよね、私にとって。
仕事は当然、知識と技術をもってプロフェッショナルを
目指すべきだとは思うけれど、仕事だと考えているうちは
多分限界があるんだろうな、と。
好きでなければ。
その「好き」、あるいは趣味にしても
突き詰めて技術を習得したということはあまりない。

就職活動でよく使ったフレーズとして
いろいろなことに興味を持ち……っていうのがあったんですけどね。
色々興味を持ったのは事実だし
その一つ一つにはまって、
ガーって一気にやったりとかしたのも事実です。

でも最近わかり始めたプログラムつかって何か作ろうとしても
結局完璧にすることは出来なかったし
そういうスキルも、運動にしても、知識にしても
なんとなく出来るけど、ある程度の領域を抜け出ない。
それでも、私の周りに居る人の中では
一番うまく出来ることだってあるから満足してしまっていたんですね。
だた、冷静に考えればそれはいわゆる「井の中の蛙」であり
振り返れば中途半端なんだなぁと結論付けてまして。

好きなことでも、周りを見て立ち止まってしまったり
少しつらくなると逃げてしまったり。
ただ、やっていく過程で知識や技術は確かに付きました。
実際それらが役立つことも多いのだけど……。

役立つからといって、ずーっとこの生き方だと思うと
なんかものすごく自分がさびしくなる。
そういう色んな事をやったり、興味持ったという今までのことに
後悔はしていないのだけど、
それはそれとして一つくらい何かを突き詰めておかないと
多分先々後悔すると思うんですよね。
精神的な部分で。


色んな経験を通してひとつ気づいたことは
私は作り手(技術者)になりたいのだということ。
そういう人間にとって中途半端は致命的。

就職先が、技術者的な仕事をするところであるというのは
まだ幸いだったかもしれない。


最後の学生生活とか、長期休暇とか言われ
そのころにしか出来ないことをしろとよく言われる。
それが何だろうかと、しばらく悩んでいたけど
中途半端じゃなくて、
とことんひとつを突き詰める時間に出来たらなぁ……と、思う。



2005年08月12日(金)

一応大学生。
夏休みとか、春休みとか
2ヶ月近い休み。
まさに何をしようにも好き勝手。
遊べ、遊べ、遊べ〜

……って誰の話だろう?
休みのはずなのに今日も学校へ。

で、学校ついたんですけど、骨の人が居ました。
目の前歩いてた女性、痩せすぎ。
肩から肘にかけて、かすかな丸みを帯びているのが
普通だと思うんですよ。
なのに、なんか窪んでるんです。
へこんでるんです。
筋肉が見えないっていうか、骨と皮にしか見えなかったんです。

病気なのかなぁ?とも思ったけれど
そういう人が決して少ないわけでもないので
病気じゃなくてやせているだけなんだろうなぁ。
体全体的に痩せていたので細く保っている人なのかも知れない。

しかし、あそこまで痩せなくても良いんじゃないかと思う。

私、皮の上から骨に触るの嫌いなんですよ。
なんか、気持ち悪い。
自分の体のそういう部位でも
なんかモヤモヤとした気持ちになる。
耳の裏の付け根の突起とか。

あまりに細くて見てたら少し気分が悪くなりました。


パソコンが調子悪くなったので
一度空けていた蓋を元にもどす。
熱を逃がすために空けていたのだけど
安定性がなくて調子悪かったので……。

それで蓋をしたら熱暴走だと思うけれど、電源が落ちる始末。
仕方ないので保冷材を使って
外側のケースを冷やしながら、これ書いてます。
役に立っているようなたっていないような……。



2005年08月08日(月)


ソフトボールなんかやってきた。

おかげで足が痛いという、運動不足があからさま。
技術とか体裁とか無視して
大振りできるだけ大振りしてきました。
4打席中、1二塁打1ホームラン1三振1四球。
守りではエラーも経験してきました(笑
全部体験できたから良しとしましょう。
(ホームランといってもすごい狭い距離での話しですよ)

全力でボール投げたのなんて久しぶりなので
腕がしびれるくらい。
遠心力でびりびりするんですよねー。

気合入れるために昨日服も買ってきたのですが
着てみてびっくり、ぴちぴちの服でした。
競泳用の水着みたいなピチピチ。
試着しなかったのでしばらく恥ずかしかったですよ。
慣れると確かにスポーツ用だけあって
すごい着心地が良い。
はまりそう。


いろいろ話も出来て、有意義ではありましたが……
明日から筋肉痛になるし
学校で予定が入ってるし
家族も2日間くらいいない。
おきられるだろうか。



2005年08月07日(日)


最近インターネットの調子が良くないので
ルーターを新しく買ってきました。

で、つないでみたわけですが……
よくわかりません。

これでも学校でいくらかネットに関連する作業をしてきたので
多少の知識はあるかなと思っていたのですが
ちょっと環境が変わるとさっぱりわかりませんね……。

例えば学校ではIPアドレスは当然のように使用しますが
自宅ではIPアドレスを自動で取得したりします。
そういう違いがあったりして
いろいろ混乱するとやっぱりわからないわけで……。

別にネットワークは専門じゃないし……
と、言い訳をしてみるも
ネットワークの専門家にかなり近いところにいるわけですから
この程度のことができないとお話にならないかも。

好きでやってるだけじゃやっぱり足りないんですよね、色々。
好きなことを仕事にするのは怖いって
こういうことも含めているのかなぁ。
好きなものの中であることに特化しても
ほかの部分もちゃんとやらないと
仕事にはならないわけだし。

好きなこと以外って頭の覚えが悪いんですよね。
そのくせ興味ないと全然やろうとしない私です。

そういえばフォトショップの使い方なら自信あるけど
画像理論に関してはめんどくさくて
ぜんぜん中身覚えてないなぁ……。
紙一重の部分のはずなんですけどねぇ。



2005年08月06日(土)


日本に住んでいても相変わらず日本語が分からない。

例えば今日困ったのは
「いずれ」と「いづれ」

私は「いづれ」を好むのですが
「いずれ」じゃないかと言われて迷ったりします。
結論から言うと、今の時代使うなら「いずれ」の方が良さそうです。
「いづれ」は昔の言い方みたい。

ただ、IMEを使っていると「いずれ」でも「いづれ」でも
「何れ」と変換できるし、
どちらが正しいかで迷う人も多いみたい。

言葉が変化しているし、それを受け入れればいいのだけど……。
いづれという言葉は、時間を表すじゃないですか。
「いづ・れ」というように分ければ
「いつ、なんどき」というように解釈できるので
私は「いづれ」を好むわけです。

濁点をはずして考える、というのは
日本語で困ったときによく私が使うからというのもあります。
例えば「かたづける」。
「かた・つける」と考えれば意味は分かりやすいと思いますが
「かた・すける」と考えると意味が分かりにくいと思います。
そんな風に考えるので、分かりやすい「いづれ」がいいな、と。

濁点だけじゃなくて
「こんにちは」と「こんにちわ」なんてものも。
あとは「こんばんは」と「こんばんわ」。
いづれも(そういえばこの「いづれ」は時間じゃないですね)
前者が正しいらしいのですが
なんとも、グーグルなどで検索すると
「こんにちは」と「こんにちわ」は
どちらも100万件以上検索結果が出てくるし
「こんばんは」と「こんばんわ」に至っては
「こんばんわ」の方が多く検索に引っかかります。


間違えていない、きれいな日本語って誰が知っているんでしょうか?



2005年08月05日(金)

さて
北半球では冬の方が太陽に近いらしい。
熱源に近いはずなのになんで夏が暑くて冬が寒いのだろう?
当たり前の季節に少し疑問が浮かんだそんな日。
(ネットで調べると答えは出てきますよ)


テレビ見てたら、原爆の話が。
少しみてたら「あの時原爆投下は止められた」
だったか、そんなフレーズが何度か流れていた。

どうにも、この言い方は大嫌いだ。

何で、といわれてすぐに理由が思いつかなかったのだが
まず、疑いようの無い一点。
もしも日本が原爆をもっていたら
間違いなく使っていただろうという事。

確かに歴史において日本は原爆を唯一体験した国ではあるけど
それは結果的にそうなっただけだと考えている。
だから、この物言いはあまり好きじゃない。
被害者としての弁だから。

もう一つ。
今この国が、こういう豊かな状態にあるのは
原爆が投下されたのが一つの要因であると私は考える。

敗戦の結果、アメリカ側が考えたような草案となり
それが元になって憲法が作られた。
元々日本側が提出した草案は
昔のものとほとんど変わっていなかったというから
和平交渉でまとまっていたら今の国の状態にはならなかっただろう。

また、国の状態などを考えても
これ以上戦争を続けることは困難であったと思う。
決定的な負ける要因ができなければ
和平交渉のような道を辿ったのではないだろうか。

歴史のifを考えてもしょうがないかもしれないけど……
例えば北朝鮮は戦争しているわけではないが
将軍といい、昔の日本に近いと思う。
今の状態で交渉が進んだとして
現在の日本と同じような立場、位置づけに来るだろうか?
私はそうは思えないのだ。

敗戦は一つのリセットになっていて
方向が変わったからこそ今の国の状態があるのだと思う。
色々好きに報道できる自由も、そういうことがあったからだと。
だから、今のこの状態を利用して
今のこの状態を作り出した出来事を否定しているように思えて
どうも好きになれないのだ。

原爆投下がいいとは言わない。
けど、結果的に世界は核の恐怖を知った。
あれがなかったら、もう少し歴史が変わったと思う。世界の。
で、やっぱりどこかで核が使用され
それによってやっぱり核兵器は使用しないという
そういう流れになったんじゃないかとおもう。

そういうわけで、どうもあのフレーズは嫌いだ。



2005年08月03日(水)

http://www.muratec.net/jp/kohsan/company/philosophy/index.html

とある会社のURLである。
経営理念に感動いたしまして……。
是非是非、と。


まぁ、これに限らず
例えば戦隊ヒーローのような紹介をしてる会社とか
そういうのもあったと思いますし。

ちょっと前に流行った
日本ブレイク工業社歌にしてもそうですし
悪ノリできる会社っていうのはときどきあるみたいですね。

対外的に面白そうだと思える書き方したりして
印象付けたり、好感を持たせたり……
広告の方法としてはこういうのもありなんでしょうね。
ただ、こういう冗談めかした書き方だと
働く会社としては不安になるなぁ、というのが正直なところ。

まさか経営まで冗談交えて運営してるわけじゃないだろうし
ことさら心配するようなことでもないのかもしれないけれど。

うん、趣味としての悪ノリなら面白いだけですむけど
会社として悪ノリさせちゃうと、ちょっとね……って事なのかな。



2005年08月02日(火)


ヤフーのニュースみてたら
イチゴ味の魚肉ソーセージが発売されるとか。

広報曰く、意外と合うらしいのですが……。
食べてみたら意外と美味しい=まず食べようとは思わない
という方程式が成り立つわけで。

っていうか私からして買いたいと思いません。
魚肉ソーセージといわゆるイチゴ風味を掛け合わせると
想像の中に広がる味は、なんていうかギャラクシー?
想像するのもはばかれる味だと思うんですよ。

……いや、スーパーで見つけたら
怖いもの見たさで買うかも分からんけど。

とりあえず売り上げの伸び悩みということで
商品化するらしいのですが
そういうときに出す商品が
イチゴ味の魚肉ソーセージってどうなんだろう。
売るためにはパッと見て買いたくなる製品に
するべきなんじゃないかと、素人なりの考えです。

……しかし、イチゴねぇ。


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