1日雑記

2001年04月30日(月) よく書くが

母方の実家に帰省してきたり。
特に何も変わらない。
少しずつの変化はあるけれども。
それ以上の変化は僕の中。
感じ方が変わってしまった。
そう痛感した今回の帰省。
家族とどこかに行きたいと願う子供。
どこにも、こと、家族と旅行をしたがらない思春期、青年期。
子供ができ、振り回されながらも
幸せな日々を送る親としての時代。
そしてまた、家族と出かけたいと思い
美しい景色を楽しみたくなる頃。
孫という、我が子のような
ある意味我が子以上にかわいがる…
そういう存在を得る頃。
孫という子が来てうれしく思い
また、帰って欲しくないと感じる頃。
子は子で帰りたくないと感じていた頃。
「そこ」は幸せでした。
意識の変化とともに…
帰るときの空しさは得たりもすれど
昔ほど楽しめない自分。
自己嫌悪に陥るような思考の自分。
後々後悔をするだろう。
今の自分。
けれども意識を変化させることは容易ではなく
それは考えただけで直せるものではない。
いや、考え方そのものを変えるわけだから不可能に近い。
それは日々の生活の中でだんだんと…ゆっくりと
形成されていくもの。
後悔のない「生き方」を…。
単発的な後悔ではない。
生き方は長い…「方法」。単発ではなく。
そういうことを含めた…後悔のないもの。
望む。…もとい、創る。



2001年04月27日(金)

だめだね…
学のないこと、発想の乏しいこと、思慮の浅いことをうらむ。
何かのことを知る。
それはTVやラジオといった物を通してだけど。
ま思いい過ごしかもしれないんだけどね。
そこで表現、表示、…情報の伝達。
その表面的なことはわかる。
それなりに単純だったかな。
その下にあるもの、
僕なりの解釈で――僕なりの理解の仕方で――情報を受ける。
それは僕のもつ考えに近いと受け取る。
近いように受け取る。
――本人、情報を伝える側に
  その意思があるかどうかは別として――
うん、多少そこにある意味を曲げても。
だけど、その下にもまだなにか伝えていることがあるような気がする。
偶然できたものかもしれない。それがどのようなものかわからない。
そんなものはないかもしれない、
あるような「気」がするだけだから。
確かめられないんだよ。それがもどかしい。
いや、確かな意味は必要ない。
今僕の考えていること、それより深いところまで考えたい。
それだけの知識がほしい。
中途半端な知識より、偏った知識でも深い知識のほうが
「興味深い」と思いませんか?
上記のようなことがあると常々思う。
悔しいんだよ、わからないと。面白みも薄れるし。
頭の中での思考とか。
退屈なときに考えたりするでしょ?
知識がなくてそこでとまるんだよ。
中途半端な生き方に何か意味が存在するのかね?



2001年04月25日(水) 雨の中、買い物、裾、濡れる濡れる…

そして慣れていき、見え方が変わっていき
同時にひいき目となり、本質を見失って
それでもそのとこに対し心地よさを覚え
それを壊すことに対し抵抗を感じながら
壊すでもなく中途半端な状態でずっと。
その行為のどこがいけないかと聞かれれば
どこも悪くなくて、それが普遍的であることに気づき
結局のところ何も変わらずに流れていく。
主体的であるよりは受動的な要素の方が強いことから
流されていく、といったほうがいいのか。
行き着くところは皆同じであっても
それまでの過程に――少なくとも自分には――
ものすごく重要な意味があるのは誰もが知っていて
それに対し今のままでいいかと問い掛けること、数多
結局のところ何も変わらないことがほとんどであろうとも
それに対して後悔の念をいだかなければ
それが一番○○かな?



2001年04月24日(火) 一日…ゆっくりと…おやすみ…

――上を見よう
  空を見る
――風を受けよう
  手を広げる
――違う世界へ行こう
  くるくる回る
――闇の中へ…
  目を閉じる
――自分に気づこう
  意識を自分に
――中から解放しよう
  そして…そこにあなたはいますか?



2001年04月23日(月) 年々

昔から水泳やってるんですけど。
時々思うわけです。
そこには小さい子からおじさん、おばさんまで通ってます。
んで、なんとなく泳いだりするわけで、俺も。
ふと、隣のコースを見ると小さい子が一生懸命水と格闘してたり。
ふと思い出す。始まる前の時間、走り回っている子も。
――おれ、やる前から疲れてて…入る前には水がつめたいとだらだら。
泳ぎはじめればそれなりにあったまるんだけど。
考える。おれ…弱くなった。精神的に。
成長したと思ってた。結果は子供に負けている。
泳いでるとき、つらいと言い訳を考える。
ドルフィンキック(バタフライの足)、腹筋がつらい。
「ああ、飯なんて食ってくるんじゃなかった。気持ち悪いよ」
――違うだろ?気持ちの問題だ。
「水が冷たいよ」
――となりのコースではずっと小さい子が上がったり、入ったり
  おまえはあの子達より弱いのか?
  先生だって使ったままだよ?
  気持ちの問題だ。
「今日は運動して疲れてるんだ」
――始まる前に走り回ってた子達が頑張ってるよ?
  そんな理由で泳ぎがつらいなんていっていいのか?
その昔、高々10年前。つらいことを知らなかった。
つらく考えなかった。
知らなくていいことはたくさんあって
知りたくなくても知ることがいくつもあって
少なくとも純粋ではなくなった。



2001年04月22日(日) 日記になってない

よくあるんだよね、僕の性格上。
裏切られることが。
いや、人にじゃなくて、自分の考えに。
すぐ天狗になるもんだからね…。
結論を急いだりして痛い目にあったり
余計なことを考えすぎたり。
何が嫌いって、人に笑われるのが一番耐えがたい。
今まで自分の考えに裏切られ、人に笑われたことは
ほとんど無いけど。
…自業自得なんだろうけどさ、そういうことが起こったら。
そういうことの少ない環境にいられるのは幸せなんだろう。

自分を責めることで何かを得られるなら…それはよくないことかな。
負の産物はやっぱり負じゃない?
独善的な、自己中心的な正の産物も厄介なんだけど。

完璧な人間というものがあったとして
それになろうと努力して。
結局遠くからよく見てみれば
たいして魅力的な生き方でもないことに気づく。
見たり関わったりするのはいいとして。
無論、同じ陣営の人間としてなら。
反対の陣営なら最悪。
自分が完璧に振舞えたとしても面白くないんじゃない?
目標や魅力(あこがれ)としては存在しても。
肩こるよねぇ?きっと。いや、抽象的、精神的な意味でも。
例えば自分の癖を考える。
完璧な人間を目指しそれをなくそうとする。
非常に苦しい。
そこまでしてなりたいか?
なりたいならそれでもいいんだけど。
なった先は…人にもよるだろうけど…
妬まれるか、尊敬されるか―あとは―。
人との距離が開いてしまったり?
目指した上でも欠落なら
おおむね好意的に受け止められるだろうかな。



2001年04月21日(土) 久しぶりに

文章を書くことによって
アイデンティティを確立していくとかなんとか。
正直なところはよくわからない。
アイデンティティということ自体
日本語にはしづらいと考える人、多数。
アイデンティティをこういうものと分かる人、
少数―日本において。
感覚的なものとして考えれば
―これがあっているがどうかはともかく―
僕は確立していけていない。
…ちゃんとした文章を書いてるわけでもなけどね。
むしろこの日記(?)を書くようになって
少々分からなくなってきた。
うーん…イメージとしては
牛乳の入ったコップを海に入れたら
牛乳が拡散して見えなくなったというか…。
今までは考えたことを自分の頭の中に入れていただけなんだよね。
それはほとんどの場合自分の頭の中で完結していて
人が知ること、人に知られることは少なかったし。
同時にそれは自分の考えの「壁」みたいのを
形成していた感じがするんですよ。
自分だけの考え(無論同じ考えの人も多数いるだろうけど)を
頭の中”だけ”においておくことで自分で在れたような。
で、最近こういう場に自分の考えを書くことで
そういう「壁」がなくなっちゃった(薄れた)気がするんですよ。
結果、自分の思考が海の中の牛乳のごとく、
世界(物理的な意味だけでなく)という広い海の中に放り込まれて
自分の考えが薄れる、拡散してしまう、消えていく…
そんなイメージが少々。
自分の中で壁を作っていることで
井の中の蛙で”在れた”っていうんでしょうか…。
少なくともそれでいることで自信を持っていられたというか。
広い世界の中に入ってしまえば自分の身の程を知ってるが故に
つらくなるのを知っていて、自分の殻の中にいつづけようとした。
所詮自分も多数の中の一つでしかなかったことを
知るのが嫌だったというのか…。
この辺はよくわかりません。自分のことだけど。
少なくとも日記を書くようになってから
考え方が変わったような気がする。
…いや、変わったというか微妙な違和感というか…
何かこれを表すいい語彙が見つからない…
思考のしかた自体は何も変わってないと思うし。
とりあえず何かが前とちょっと変わった気がする。
今の僕にはとりあえずこの要素がマイナスに思えるんですが。
でもここに書くことは何か(ストレス?)の発散にはなるし
うじうじしなくてすむ。
少なくともこの考えを自分の中にだけ入れておく必要がなくなって
開放感のようなものも感じたり…。
拡散する恐怖と同時に開放感を得られたというのだろうか?
何がいいことなのだろうか…
けど…とりあえずのところ、今の自分に後悔はほとんどない。
ひとまずこれでいいかな、っと。ね?



2001年04月20日(金) …かなり長いきがする

僕は大学で教職(教員になるためのもの)とってるんですが
そうすると普通の人より講義がその分増えるんです。
今日はその関係の講義を受けたんですが…
まぁ先生自体は嫌いじゃないです。
講義内容も結構面白いかな?
…講義によっては頭を回転させることになるんですな。
それは嫌いなことじゃない。楽しんでるし。
そういう面でなかなか好きかな?
今日も考えたんですよ。
最初の出だしが「学級崩壊」にかんする話題(?)だったんで
僕の頭もそういうことについて考えてたんです。
―ふと
実のところぼくは教師になりたいって訳でもない。
なりたくてもなれないような状況だし。
大体の先生たちはなる気が無いならとらないほうがいいし
とって欲しくないとおもってるようだ。
どうも僕はひねくれたところがあるようで
なる気も無いのにとってます。
こういう人間がいてもいいんではないかと。
結局のところ講義の数か増えたので
自分が大変になるだけだし、いいことは一つも無いんですが。
…でも、真剣になりたい人はいるでしょう。
そのとき今日の講義はちょっとだけ納得がいかなかったんですね。
その先生はなるべく分かるように、生徒が興味を示すように、
あきないように、と講義をしていました。
その思想自体は嫌いではないです。
退屈な講義は聞く気が起きないし
何も身につかない。
分かってる、分かっているんですけど…
学級崩壊の話をするときに(今の?うちの学校の?)大学生には
難しいところがあるからなるべく簡単に説明をしていたんです。
…で。
例えば学級崩壊を防いだりするのは当然のこととして
先生が行わなければならないでしょ?
そういうことをする人間に
難しいからといって説明が十分にならなかったら
先生としてやっていく意味が無いでしょ?
…誰に限らずの話として
教員になるための講義というものがある。
その講義を単位が取れた取れないで考える。
取れたらうれしいと。
…たしかにそれはとうぜんの感情でしょう。
でも違うでしょ?
単位が問題なんじゃなくて学んだことが問題なんだよね。
たしかに単位というのは成績だから
それだけの知識(学んだ知識)が不足していれば
単位はもらえない―建前になっている。
現実は出席して試験を受ければ受かるものがほとんどだ。
学級崩壊を語るとき少なからず問題となる教師の知識が
不足したまま社会に送り出す…それは学校にも問題がある気がする。
なぜ起きるのか?などといったことを真剣に説くことはあれど
身についた人間は少なく、それを理解したかを知るのに
試験やレポート…というより
年、二、三十回の講義では少なすぎる。
むろん教員になるには公務員試験などがあるし
未熟なままでは先生になれないようにはなっている。
けどそれだって十分なものではない。
テスト1回何時間かでしょう。
それで教師としての資格があるか無いかの
すべてを判断はできない。
その手の知識の無いまま教師として社会に出たり。
結果は火を見るより明らか。
でもそれがまかり通っているし
社会(世論?)は教師を非難することはあれど、
問題の学校の方針を批判することはあれど、
…肝心の大学を問題視することは少ないように思う。
崩壊の原因が何であれ、それに向かっていく人材は
これから育つはずなのに。
少なくとも大学生という時間の中では
それを学ぶだけの時間があるはずなのに。
それは既存の教員のもつ時間よりも遥かに大きな時間。



2001年04月19日(木) 寝不足でね

以前あんまり面白みがないと書いた先生の講義があった。
内容的にも、まぁ興味を引かないものだったんだけど。
それはともかく雑談。
基本理念はともかくとして、あることに対する考えが
僕とほとんど同じだった。
…明確なこととして判明するような
内容じゃなかったんだけど、ね?
まぁ、「存在について」みたいな感じのこと。
驚いたのは似た考えだったからじゃない。
髪の毛の具合から見てもそれなりの歳だと思うのだが
それだけの経験をした人間だろうに…
とりあえず俺みたいな若輩者と同じ考えというのが。
結論…というか、その先のことも僕は一応考えたが。
その先生は理系だけどね。
だから専門外だろうし、個人個人の意見は尊重できるが。
…もし俺がその先生と同じとしになったとき
同じ考えでいるだろうか?
何にも進歩せずに?
たかだか100年前後しか生きないわけだし
そのうち考えることに意義を覚えるのは
半分くらいかもしれない。
そんな中で答えの出る(出たように思える、それに満足できる)
ものだとは思ってもいないが。
…なら、考えことは無意味か?
意味はともかく…面白いよ。
面白いならそれも一つの理由じゃない?
…それにしても…眠かったなぁ…この講義…。
最前列に自ら座ったわけだし、寝るわけにもいかず。



2001年04月18日(水) うーん

久しぶりに暴挙…っていうか金の荒使いをしてきました。
本当に久しぶりだなぁ。
忙しかったこともあるんだけど。
これでストレス解消になったかどうかはともかく。
だいたい解消しないといけないほどストレスたまってないしな。
のんびり幸せに思ったように気ままに気にせず気楽に生きられれば…
それで満足。
…ものすごく贅沢なこといってます。



2001年04月17日(火) 覚悟

バイトなんて本当はお金目的でやってるわけで。
タテマエで「社会勉強で…」とかって言ったりするけど。
今日は本当に社会勉強しちゃったよ。
つまりさ、大学のときの話でも書いたんだけど
俺って甘えてるなぁって、社会に。
正直なところ、自分ではしっかりしてるつもりだったんだよ。
それが自惚れといわれようとも。
学校でも優等生ぶってるし。
まぁ、それでも今いるバイト先がいい人ばかりだからまだよかった。
こういうところで免疫が作れるというのは幸せなんだろう。
これから先、自分に非が無くても文句を言われたり
責任をとったりする理不尽な事が無いとは言い切れない。
…いや、多分あるだろう。
そういう世界は知ってはいても僕には関係ないと
漠然と考えていたんだろうね。
もう二十歳になる。
ここらでけじめをつけたり
覚悟をしないとな…。



2001年04月16日(月) 講義って

大学に行くようになるとどうしても日記の内容が
講義のことになることが多くなうようで。

流体についてやったんだけど。
やったというよりは説明程度のものだったけどね。
気体と液体の違いが表面があるとかないとか。
聞いた直後は
「ああ、水には表面があるけど、確かに気体に表面ってないな」と。
でももう少し考えたんだけど…
たとえば風呂の中で息を吐くと空気が出るよね。
それって球みたいな形してるでしょ?
その空気には表面に相当するものがあるんではないかと。
それは水の表面でもあるんだけど…。
だから表面って言うのは接触部分であって
どちらのものということはないんではないかと。
一般に大きなものの中にあるものに主観をおいて
かんがえるベクトルみたいのがあるんじゃないかなぁ…。
あとは目に見えないから考えないっていう…。
空気が目に見えたり、「実感を得て」触れるなら
空気にも表面という言葉が適用されたんではないか。
たとえば人が水の中で生活していたとしたら
水が回りにあるもの、目に見えているけれど
自分の回りにありすぎるゆえに
認識されないものとして捕らえられ、
逆に空気というものが触れ(実感を得られ)
また目に見えるものとして、
表面という言葉ができていたんでは…。
…でも、水には表面張力といわれるものがあり
宇宙空間でも表面ができるなぁ…。
空気を宇宙空間に持ってたら拡散しちゃうよねぇ?
あ、水も拡散していくんだっけ?
水玉の球を形成してたりするよね…
宇宙船の中継とか見てると。
けど表面張力という言葉は
表面という言葉があるから成り立つわけで…。
でも確かに存在するから…。
…う〜ん……卵と鶏の話……?(違う)

ふー…こういうの考えてると…
時々自分の無知ぶりをのろいたくなりません?
いや、勉強しない僕が悪いんだけど。
疑問に思っても調べないし。


学校である講義の説明受けて
いかに自分が甘えてるかを知ってさ。
でも世間一般ではそれがまかり通ってて。
何だろうね?

大学の講義受けててちょっとやりたくなったこともあるんだよ。
でも講義が多い上、その講義1年のときしかないんだよ。
たった90分の授業で何が得られるのかな?
どうせやるならやりたくなったことを
週4回くらいはうけたいよなぁ…。
学校講義多すぎ。4種類くらいあれば十分だよ。
…多いおかげで、面白く思ったものも見つかったんだけど。
見つかった後にも特にやりたくない講義を受けるってつらいね。
たしかに僕がやってるのは全部専門的に必要であろう物だけど。
そんなかでも1つか2つ極められればそれでいい気もするんだよね。
…こんだけ言っといても、自分で勉強しないんだから
結局そんなに興味が湧いてるわけではないということか?
は〜…やりたくなったら自分でやってるよなぁ…。
だめじゃん、おれ。



2001年04月15日(日) 共存共栄するとなお

―さくら―
花の色も好きだけど
新緑(若葉)の色も好きかな
あ〜ぁ、べん♪べん♪



2001年04月14日(土) 無駄な空間や時間というか…

機械の基本的理念がなにかは知らないけど…
とりあえずより効率的に動かすことも
目標になってるんではないかと。
いや、何でこんなこと書くかって言うと
漫画読んでて、機械の「迷いがなくなるのが…」
とかって書いてあってさ。
無論これは漫画だし現実とは関係のないことであるのは
重々承知してるんだけど。
ふと考えてみて
…例えば機械にファジーというものが存在したとしたら。
ムラとかそういうものが存在したとしたら…
―人為的にね―
多分もっと愛着が湧くんじゃないかなぁ?
最近は人がコンピュータの手足に成り下がってるとか
人はモニターを見てるだけの仕事とか
そういう単調な仕事は人間の本質に反するとか。
もしも本当に機械にファジーというものがあったとしたら
それを補うために人ががんばるという構図ができたりして(笑)。
自ら進めたものに歯止めどころか好んで不便さを植え付けるんて
普通の考えじゃないんだけど。
もちろん精密機械加工のとか
とても細密な機械に対してそんなものを
植え付けるわけにはいかないけど。
僕はファジー的な要素のあるほうが
人は気に入るもんだと思ってます。
そのほうが…うまくいったときの達成感とか
その機械の「味」みたいなものを感じるのではないかと。
機械に関することばかりじゃなくて。
いろんなことについて、ファジーということ。
…洗濯機かなんかであったっけか?



2001年04月13日(金) 書くことないからずるずると

また別の講義の話。
今度の先生はつまらなかった。
講義ばっかりやるからとか
話の内容が面白くないからとか、そういうことじゃなくて。
確かに講義はどんどん進むし
内容も特に興味のあるものではなかったけど。
その人の場合、思想的に。
もしかしたら講義を受けた何人かは感銘でも受けたかもしれない。
多分講義なんてものは雑談のほうを聞いている人のほうが
多いだろうし。
そりあえず僕にとっては面白みのない、
共感できない思想(考え方)でした。
だからこそつまらない人間に感じたのかもしれないですが。
人はそれぞれ考えをもっているだろうし
それに共感できてこそ、その人を面白いと感じられるのか…。
自分と違う考え方の人の思想を受け入れようとするとき、
または一方的に聞くとき(受け入れる気がなくても)
相手側に相当の説得力がないと受け入れがたいのではないかと。
去年、たしかにすごい、面白いであろう、いろいろなことを知っている
という先生の講義を受けた。
…何でだろう?反感は覚えても好きにはならなかった。
心の中で少なくとも嫌いでありたいと感じた気がする。
ほかの連中はかなり洗脳…
(言い方が悪いかもしれないが)
取り込まれていた。
で、その人は教育系の講義をやってたんだけど
同時に教育系のサークルの顧問もやってて。
多分その講義のおかげで入部した人が多数いるんではないかと。
ただ……
つまるところ今年の新入生の勧誘をしているところを見ていたんですが
顔の系統が…。
人を顔で判断するきはあんまりないですが
顔の系統っていうのはあると思うんですよ、
いくつかの分野において。
で、そのサークルの人たちは
少なくとも僕から見てその先生と同じ系統の顔をしていたわけで。
…僕はその系統の顔が嫌いな人間なので
かなり反感を覚えたのかなぁ?
顔に系統なんかないって言う人もいるかもしれないど…
とりあえずのところ、やってることによって
顔が変わってくるっていうことってあると思うし…。
まぁそのサークルの人たちはもともとそういう顔してましたけど。
類友ってことか、さもなくば呼んだあとに形成されたか。
…僕も人間なわけだし顔だけで好き嫌いを語ったっていいよね?
「万人を愛せ」なんて器用なことできないし。
話してみて嫌いじゃなければ結果として友達になるかもしれないし。
…もっとも未来永劫話す気はないんだけど。



2001年04月12日(木) うるさかったよ

本当に切れそうになった。
何がって講義。しかも先生にじゃなくて受講生に。
うるさすぎる。
先生の声が聞こえない。
入っているところは3流大学。
特に期待もしていないし、最近の大学の欠点はすべて
持っているといっても別に驚きはしないだろうけど。
この講義は必修じゃないし、受けたくてうけにいったんだけど。
ここまでうるさいとやる気がなくなる。
先生によっては注意とかしないことがあるのは知っているし。
本当にうるさかった。
しかも厄介なことにそいつら受ける気ないのに
そこにいるんだよ。
話しながら。
受講する気がないなら帰れっていいたいよ。
ここまで邪魔な人間たちは久しぶりだ。
前期の最初に講義を受けるときは
「履修カード」っていうのをだすんだけど
やる気のないやつらは
それを出して途中退室していった。
…なに考えてるんだろう?
途中退室するのにもかかわらず
「これから先も講義受けます」って言うきか?
よく言われるけど、最近の大学生(それにしたって1部は違うだろうが)
って大学生である必要あるのかね?
はっきりいって何の意味もないばかりか
害しかなさない。
これからの日本を考えると…ってわけでもないんだけど。
そいつらが背負っていくわけじゃないだろうし。
けど、そういう連中が大半を占める日本って
だめになるっていうよりもうだめになってるんじゃないのか?
立場が変われば自分がどんな風に考えるかは考えたくもないけど。
きっと自己嫌悪に陥る。



2001年04月11日(水) かってしまいたい 様々

言葉の重み、とか。
いろんな人が書いたりいったり。
いまさら僕が何を書いたところで
人に感銘とかを与えることはできずに。
これは期待してないけど。
大体、目的はそこにないし。
ただ、気づいて欲しいのが。
よく聞く言葉。陳腐な言葉。それは意味があったり
重要なことだったり。
それ故によく言われ語られる。
また、それ故に軽視される。
そこには馴れにも似た感覚があるのではないかと。
「作業」というものを連続して行ったとき
無意識の内に(意識はあるが)
「流れ作業」というものに変わっていないだろうか?
意識とは、思考とは別のところで体が動いてる。
例えば結構な量の洗物。
例えばマラソン、ジョギング。
例えば小説。
例えば音楽。
で、その途中、ふと自分に返る、我に返る、
自分のしてることに気づく…
そういったことはないだろうか?
僕はある。そのとき
「ああ、僕は洗物をしているんだなぁ」とか
「あ、今僕は本を読んでいるんだ」とか。
知りながらやってるはずなのに
そこでまた気が付くということ。
言葉も同じなんじゃないかなって。
よく使われる故に誰も気にとめなくなってしまう。
よく使われるほど重要であるにもかかわらず、それ故に。


学校が始まり講義を受けた。
なかなか面白そうだ。
同時にその人柄をみたり。
ちょっと偏った人間で。
…多分何かの分野において
マニアとかオタクとかいった人との話は
面白いんじゃないかと思う。
その分野に少しでも興味があるなら。
中学の国語の先生が
「一つの分野を極めれば他の分野もある程度できるようになる」と。
これが正しいかどうかは知れないけど。
今日の感想は少なくとも
オタクといった人はどこか他の点で欠落してる部分があるんではないかと。
人間的に…とか。
生活の上で…とか。
他の分野にまったく興味を覚えなかったり…とか。
また、視野も狭くなるのではないかと。
いや、視野というよりも思考の幅が。
視野は広くなるかもしれない。
が、そのものを神格化するあまり
他者を排除する流れが少なからず流れているように思う。
内面的にね。
気づいていないかもしれないが。
そこには自分のすべてがあるわけだし。
それを否定されたりすることは
自分をけなされるよりも屈辱を感じて。
また、「一般的な」価値観との違いがそこには存在するわけで。
それは一般的な社会から見れば非常に危険なものかもしれない。
例えば「美のために人を殺す」とかね。
しかものめりこんでいるから…
当然そこには一般的価値観より
その分野における価値観の方が強く。
無論理性や、良識といったものは備えているはずだろうけど…。
でも、俺は別にそういう生き方を否定する気も無いし
俺がそういう風にならないとも言い切れない。
何を望んで行くべきで
どこを目指して行こうかねぇ?



2001年04月10日(火) さーふぇいす

考えることはそんなに変わらない。

例えば成長するにしたがって表面の付き合いって言うのが増えた。
いや、それはそれでいいんだけど。
そういう社会だろうし。
表面って言うのは上っ面。
つまり内面から(本音で)の付き合いってのが減ったかなっと。
それが人との接触を恐れるためか
人を傷つけるのが嫌だからなのか
無難な生活をしたいからなのか…
よくはわからないけど。
本音を語れるとき、そのときは酔っていたりとか
興奮していたり(頭に血が上っていたり)とか。
得体の知れない人と付き合いたくないっていうのはあるだろう。
結局のところ本音のわからない人間って
得たいが知れない…ことばかりでもないかもしれないけど、
まぁそういう要素があることは否定できず。
どこまでが本音なのか知るすべは無いけど。
偽善にしたって被害者(?)が本音の方で
だまされた、と感じたらそれで成立するし。
言い合えることは幸せなのかねぇ?



2001年04月09日(月) 〜〜〜

のーんと。
のほほーんと。
肩の力を抜いて。
空を見上げて。
適当な路を。
迷子になりたく。
芝があったら根っころがって。
深呼吸を。
眠ってもいい。
風呂に入ったときに出るため息ついて。
そこには木があって。
桜も散るころ。
たまには忘れて。
考えずに。
のーんと…したい。
それは気持ちのいいこと…おそらく。
それは…必要なこと?



2001年04月07日(土) 学校でひまだから長くなっちゃった。

どうもここに物を書くと
マイナス思考のようなものばかりになりがちで。
別にマイナス思考にしようとしてるわけでもないし。
プラス思考のほうがいろいろといい面が多いのも知ってるし。
どうにも性格が出るみたい。
「文は人なり」ってか?
とりあえず最近…小論文の書き方みたいのを読んだけど。
いろいろ興味深いものが。
とりあえず…僕より大きいこと考えてたな。
視野の大きいこと、包み込むようなもの。
うーん、僕よりも達観してるっていうのか?
ある分野については祖俺に関することを見てたりすると
「僕はこの人よりも達観してるな」
みたいなことを感じることはある。
それがうぬぼれか、事実はかはともかくとして。
まぁそれが本を読んでたらこの人は俺より上の次元で
ものを考えてるなって。
…あたりまえなんですけどね。そうじゃないと困るし。
なんつーか自分の行動っていうか
思考回路を解析されると悔しいっていう感じはあるけど。
手のひらから逃れられない孫悟空みたいな?
どこまでいってもこの人の予想を(いい意味で)裏切れない。
自分か人の思考回路を考えるのは楽しいんだけど。
しかもその人(僕がこの人ならこうするなってかんがえた人)が
予想を裏切らない行動をとると「ああ、やっぱり」って
自尊心やうぬぼれを持たない人は少ないし
表面的なことはともかくとして内面的に
心のどこかではそう思うことってよくあるんだろうと。
うーん…つまり他者に対する優越感?
正直自分が敗者側に回ると
勝者は憎悪とかの対称にしかならない感はあるけど。
基本的に人に嫌われるのって嫌いだし
嫌われるよりは好かれたいと思うから
そういう思考をする自分に嫌悪感を感じることもあるけど。
でもこれも人間の本質みたいなものとして、受け入れとくとして。
劣等感が強い分、勝者でありたいと思う自分がいるのは
よく知ってる。
さらにそのための努力をしない自分も知ってるし。
成り行きで行き着いた先で
少々の優越感は感じるものの
所詮は「井の中の蛙」っていうことも知ってるからやりきれない。
たとえば今の環境に満足か?と問われれば
それなりに満足しているって答えるだろうし。
入っている大学に不満かと聞かれたら
不満とこたえるかな。
でもたとえば人生のやり直しがきいたとしても
やっぱりそんなに変わんないことやってるかなって。
それだけの力があるなら今のとこでも十分できることを
去年一年かけてわかったし。
だから不満は不満としてその上で在ることにした。
不満も負のエネルギーも全部わかった上で
その上に一枚の板を置いて
その上に新しいブロックを積み重ねようかと。
…テトリスでよくやったなぁ。
下のほうがぐちゃぐちゃになったら
テトリス棒を横にして
一回仕切りなおすって。
ハンデ(といっても因果応報だけど)はあるけどね。
できないとこじゃないんだろうかなって。



2001年04月06日(金) ずっとおもう

ずっとコンプレックスのようなものを感じてるんだと思う。
なんというか…劣等感。他者に対して、昔から。
幼なじみに始まり小学校、中学校。
それぞれ親しくした時期が長い。
それぞれについて語る気はない。(各人ばらばら)
どの人に対しても強い劣等感をもつ。
それは表面的な面だけなら…大学とか。
ただしそれは「極度の」というほどではない。
もっとも偏差値だけ見ればそれぞれ20以上離れてると思うが。
偏差値とかではなく、この場合人間的に。
人間的(思考的)に劣等感を感じる。
中学校のが一番強いかな。
そいつはいつも俺より2つ以上先のことを考えることができた。
発想ができた。
で、そいつと話すのは楽しい。
正直妬みも感じたがそれ以上に話していてたのしい。
僕は昔から人に頼る生き方をすることのほうが多かった。
これは楽な生き方でもある。
けど高校、大学と進むにつれ頼ることが少なくなった。
だんだん、できなくなった。
高校のときは同じような人が多く…頼ると言うよりは共存。
持ちつ持たれつ。それはそれで楽しかったり。
大学は逆に頼られることが多い。
頼られるというよりは利用されるという方が正しいか…。
それはそれでもいいんです。
ただ望んでいる方向ではない。
どちらがいい傾向かと聞かれれば多分頼られる方がいいだろう。
人間的に。
それは知ってるし、ぼくが頼れば頼られる方が苦労する。
それも知っている。
でも歯がゆい。
もっとすごい人間を僕は知っている。
彼らも知っているかもしれない。
無論「遠くの親戚より、近くの他人」ってことはしってるが。
ぼくは頼りない人間でいいし、無責任にいきたい。
怠け者。



2001年04月05日(木) 寝たり…ボーっとしたり

性格というのは一つの立体と考える。
で、人によってそれの見る位置が違うから
その人の性格は見る人によって
様々な性格に思える。
こんな話を聞いた。
一方で性格を作ってる自分がいて。
結構疲れた。
どこでも一緒の行動を取ってれば楽なんだろうけど。
社会的にそういうわけにもいかないかな。
どこで気が休まるって訳でもないか…。
うん、ありのままの自分でいても。
それでどこに居ても。
結局一人が結構好きかな。
…話をするのは好きだし
人と一緒に居るのも好きだよ、もちろん。
一人は寂しいとき多いしね。
でも、いろいろ考えたり、いろいろ悩んだり。
のんびりと一人で居る時空。
他者を気にすること無い時空。
情報が拒絶されない限りは、望む。



2001年04月04日(水) 書いたような書かなかったような

時間の流れ。時として人を主観として語られる。
本人が主観であるのはしょうがなくもあるんだけど。
時間が最初にありき。
その中に人。
人なんてちっぽけなものが何したって
時間に影響を与えることは無いし。
それでも最初は平等に与えられるもの。
もらうもの。
…かってにもらってるだけか?
勝手に存在してるだけだし。
それでも人、一人一人に人生はあって
一つ一つが重い。
電車の中でホームをなんとなく見たら
人がいてそれら一人一人に
僕と同じ以上の重みがあって…
窓の外を見て家があって
その中に住む人も同じように…
とても支えきれるものじゃない。
でも長い目、歴史的な目で見れば
年表の塵にも満たないわけで。
でもそこには確かに存在して。
自分を満足させられることが目標なのかな。



2001年04月02日(月) なんかこんなんばっか…

これまた自分を含めての話なんだけど。
言ってる事とやってることの違う人。
…もとい、やってるのは自覚しながらそれに気づかない人。
―分かりにくいので説明すると…―
某ページをみてたら「○○は△△のまねだし、だめだ」
みたいな話(評価)があったんですよ。
で、その人のページの構成は明らかに
「この人の真似してるな」みたいのが。
一応普通には分からないように工夫(?)はしてあったんですけど。
知ってる人から見るとね…。
個人的に模倣とかは嫌いじゃないんですよ。
いいものを真似るのが、何が悪いって。
そのものをしっかりと認めた上で真似るならね。
そっから自分の味を出すなら。
ただ、真似るのはよくないみたいなこと言っといて
自分が真似てるっていうのが…。
直接的に真似がよくないといってるわけじゃなかったんだけど
意味を考えるとね。
多分そのことを自覚してないんじゃないかって。
似たようなことは僕にもあるんだけどね、多分。
自覚が無いってやっかいだなぁ…。

そんなこんなでいろんなページとか見てると
人による限界って言うのが分かるっていうか
分かってるつもりっていうか。
その人の日記とか主張みたいのが書いてあるのを読んだりすると
人によって面白いのとつまんないので差がはっきりするんだよね。
それに加えて他のコンテンツとか見てみると
この人はこの辺で限界かなって思うときが多々。
日記なんて書いてると、
その人の考えが垣間見られるもんだから…。
僕もこうやって日記かいてるのも自滅の第一歩かな(苦笑)?



2001年04月01日(日) 激突…軽傷。擦り傷のみ。因果応報。

ときどき迷うんですけど。
民主主義って言うのと社会主義って言うの。
なんとなく錯覚しちゃうんですよ、民主主義とついになるのが
共産主義とかって。
共産主義とついになるのは資本主義?
で、専制と社会主義とか。

なんだかんだで民主主義が結構多いのかな?先進国では。
どの政治体系がいいとはいわないけど。
専制って民衆が楽をしようと思うといい感じ?
一人の人に任せてしまえばいいわけだし。
この一人の人っていうのが優れていると
結構いい政治になったり。
じゃあ何でこれが採用されていないのかっていうと
その人を選ぶのが困難だから?
歴史の中では世襲制になってるわけで、主に。
で、無能な人のときにつぶれると。

ところでさ、理想論で政治って成り立つと思う?
無理ってこと。なんで?
多分個々人の利益とか思惑が絡むせい。
これは専制とかでもね。
人でないものが政治をつかさどったとしたら?
幸い理想論には不自由してないわけで。
例えばコンピュータに理想論を入れて
政治をつかさどらせる。
いくら優秀な人でも死は免れられず
世代交代も起こる。
が、コンピュータって、それ単体は壊れるけど
データというものにかんしては
広めてしまえば抹消する方が困難でさ。
理想論による政治支配。俺は否定しないけど。

これの行き着く先がターミネーターみたいなはなしだったりね。
ロボット三原則とかをちゃんと入れとけば平気かな?
まぁどちらにしても絶対はないけど。
結局この辺まで来ると
人の作り出したものに人が負けてしまうってことなのかな。
――神の作り出したもの(人?)に神が――
どこまで近づけるんだろうねぇ?


 < 過去  INDEX  未来 >


PITZ [MAIL]

My追加