1日雑記

2001年03月31日(土) そおです

高校の時の部活のメンツで遊びに行く。
ここも気兼ねなし。
いいかんじ。

僕は人間的に…
話を振られたり、同意を求めらると…
困るときが多々。
そのことに相当詳しい、自信がある、人前で語れる、
これらの要素があれば平気なんだけどね。
それ以外では、結構困るかな?



2001年03月30日(金) たかくたかく

目標となる地点は存在するはず。
そのレベルまで上り詰めたい…と思えるところ。
そこに棲んでいる人はもっと上を目指している。
どこまでいっても上がある。
少なくとも僕に言わせるとその上は想像できないのに。
それと同じラインは存在しても。
その人のいう上とはどこを指す?



2001年03月29日(木) ぐーるぐーる…

僕が好きなモノ――やる気のない実力者
僕が嫌悪するモノ――やる気のない実力者
双方は同じモノ
何が違うか―僕の立場
上が傍観者として
下が同じ土俵に立つ者として

同時に好きなモノ、それはなりたいモノ
同時にそれは自分の嫌いなモノ、
少なくとも人が見たら嫌がるであろうモノ

これは矛盾だろうか?
好きと嫌いが同時に存在する―おそらくは矛盾
それはよくないか―分からない
物理的な、又理論的な意味での矛盾は
存在しない方がいいのかも
が、精神的な意味での矛盾は…あっても、少なくとも
認識されてもいいんではないかと

葛藤―それはすでに精神的な矛盾も示している?



2001年03月28日(水) 団子もいいけど

日記のクセに、今日のことではなく
昨日のことを書くのもどうかと。
まぁ書きたいから書くわけで…。

2日連続して飲み会とかあって。
それなりに疲れたり。
…帰りに通った道。
そこには桜が咲いていた。
電灯がそばにあったわけでもなく、暗めの桜を拝めました。
 綺麗でした、すごく。
少し疲れが取れたかな?

日本(人)にとって桜は特別なものっていう意識は
たしかに存在するんだろう。

綺麗なものを綺麗と思う、そういう考えができる。
その一方で悪いことを悪い、と考えられない人達。
寂しいですね。…他人事なんかではなく。



2001年03月25日(日) ぢゃすてぃ〜す

古今東西…金輪際、未来永劫
絶対的な正義(悪)なんてないな、多分。
でも、存在することだけならできると思うし
これから先、必要になるかもね。
これは同時に非常に危険な思想であるとも思うわけだが…。



2001年03月24日(土) 電波が…

言葉ってさ、最近どんどんこわれてるよね。
言葉の存在意義が意思を伝えるものだとしたら
行き着く先は意思伝達の不十分さ?
誤って(自分の意志とは違う風に)伝わっちゃうかな、相手に。
こわれててもそれなりに伝わるからいいんだろうけど…
細かい意思の疎通って難しくなるかねぇ…。
表面上だけの言葉で。
重みが薄れる?…ん〜なんか違うな…。



2001年03月23日(金) Think

こういう文章が日記かどうかはともかくとして、
こういう日記をつけ始めたのはいいことなんじゃないかと思う。
思春期という時期を過ぎて、いつのころからか
一つの考えが浮かぶようになる。
「こんなに考えないでいいのだろうか?」
今の時間―状況―のなかで流れに身を任せて、
何も考えずに生きている時間が多い。
多分僕は考えること自体は嫌いじゃないんだと思う。
ただね…疲れるんですよ、考えることって。
最近は考えずに生きる時間が多い。
ちょっと前(受験のころ)のころから始まったのかな、これ。
この考え、既成のもの(つまり答えの決まった、答えのある)
勉強とは又、違うところにあるんではないかと。
答えの定まらないものに対して思いを馳せる時間
…とでもいうんでしょうか?
かっこいいとするならば、
例えばぼ〜っとしながら喫茶店で考え事をする時間。
ちなみに僕は大学に入ってから週一で
―幸か不幸か―これに相当する時間を得た。
無論喫茶店で…などというものではないけど。
その講義を受けると必然的に考える時間ができた。
特にそのあとにそれなりの時間、
電車に揺られて過ごすのでそのときにね。
今は…こういう日記を書くことで毎日ではないにしろ
考える時間ができた。
もっともバイト中に考えたりしてるので
バイト先には迷惑極まりない話ですけど。
ああ、考える時間がなぜ必要だと思うか、
それはこの瞬間には思いつかない。
直感的なものです。でも確信めいたものもあります。
筋肉とかと同じかな?
とにかく使わないと頭がさびちゃう気がして。
…やっぱり人に考える時間は欲しいと思う…。



2001年03月21日(水) 日記かな?これ?

こういう文章を書くとき、非常にその日の心理が重要だったり。
気分がダークなときは(マイナス思考なときなど)は
書くことが重くなったり。
気分のいいときはくだらない文章になったり。
…どっちに転んでもよくないですね…
そういった点では今日は気分がよかったり
いらついてたり。

HERO最終話をみる。
キムタクの目の下にくま。
そうとう疲れてるんだろうなぁ。
正直な感想。

最近空っぽなんですよ。
ドラマも音楽も絵も小説も。
感動したりすることができなかったり…
何かに感情を覚えることが…ね。
いや、もちろん笑ったりはするんですけど。
心のそこからっていうのは…。
特に感動っていうもの。
ここしばらく感じたことがない気がする。
風景を見ても何を見ても。
自然が作り出したものも然り…当然人工的なものも。
映画や…曲…。で、何が悪いかって。製作側がわるいのか?
…いやいや、原因は別にあるはず。
多分僕自身。多分って言うかほぼ間違いなく。
ああ、そういえば生まれてこのかた、感動したことってあったかな。
この事態を人のせい、社会のせいにするのは…できなくもない。
情報というものが発達するにつれ、
実際に近い(実物に近い)モノを目にする機会が
―幸か不幸か―増えまして
それにともない、Only Oneという…(以下略)
…こんな感じでさ。本当の原因は自分にあるんだろうけど
うん、悲しむって感情は結構あるかな?
1年位前に結構ないた気がする。自分をころしすぎて。
ちょっと爆発したんだね。
あとは…何年前かな…かわいがってたハムスターが死んだとき。
正月の初めに泣いてたな。
一方で、余りあってない人の死に対する悲しみの感情がわかなくて
自己嫌悪に陥ることも。それに加えて
自分から自己嫌悪に陥るような考えを
わざと考えることも多々。
多分自分の存在を確認してるのか…嫌悪感によって。

他力本願ということも知っている。
無責任ということも知っている。
それでもそれを超えて、感動できるような作品を
作り出してくれる人はいないかな…。
いや、既存の作品の中でないだろうか…。



2001年03月19日(月) 公人と私人

最近さ、新聞とかを結構読むようになったんですよ。
特に政治欄。いわゆる総理関係の話に少し興味があって。
それでってわけでもないんだけど、ちょっとね。
今の総理の批判は、主に神の国発言から始まってるかと。
その後、失言の連発一気に信用を失い
その上、えひめ丸などの問題もあり
朝日新聞の調査では支持率が一桁に落ち込んだ。
その一方で不支持率が70%ほどに上がっており
何でこれで総理が続けられるのかはっきり言って不思議です。
まぁ、支持率の話はおいといて…
例えば神の国発言。
イロイロ釈明してたけど重要なのはそんなことじゃなくて
もっと直感的に、それを聞いた人間がどう感じるか。
おとなとかだとなんかイロイロ小難しい理論を持ち出したり
よくわからない理論展開をして話をそらせたりと。
そんなんじゃなくて、例えばもし子供とかが聞いて
それをどう理解するかっていうことが大事なんじゃないだろうか?
わけのわからん理論を展開して無理にごまかすなら
最初から非を認めるか、そのことを自分は信念を持っていえる、
位のことをいって欲しいもんだ。
そもそも、ハイ、イイエでこたえられることを
長ったらしく説明する必要がどこにあるのか…。
うん、もしも自分で天皇中心の神の国だって考えるなら
それもいいとは思う。
でもそれは「私人」としての考えとするべきだよ。
「公人」と「私人」。この区別を今の総理は
できてないんじゃないかと思う。
えひめ丸の際、ゴルフ場に居続けたのも
私人として賭けゴルフをしていたからなんではないかと。
断言なんてできないけど。
一説によるとチョコなんて賭けながらゴルフはしない。
賭けないゴルフの試合もない。
それはそれとして「私人」なら問題ないかと。
タテマエはともかくとして、本音の部分がね。
賭けはよくないだろうけど、そこはみんながやってる
暗黙の了解として。
が、事故があったなら公人として対処するべきではなかったのか?
総理という職業、私人を捨てろとは言わないけど
公人としての自分を優先することが必要ではないかなぁ…。
総理という職についてるならばね。
私人から公人に切り替えるタイミングを間違えるべきではないと。
それができないなら(嫌なら)さっさとやめればいい。



2001年03月18日(日) うん

それなりに講義は受けているわけで…
一応教育原理なるものも受けてます(受けてました)
で、エゴグラムもやったんですよ。
今の自分と理想の自分の両方で。
理想の自分というのは
この設問に対して、実際はこうだけど、
本心ではこうしたい、っていう風に答えるやつ。
んで、教授が「理想の自分に近づけるように…」
うんたらかんたら言ってたんです。
この教授ってのは過去、自分がとても嫌いで
自分を変えるためにいろいろやったみたいなんです。
睡眠学習みたいのとか。
それで一応変わったみたいです。
理想の自分になれたかどうかは知りませんけど。
僕の場合、自分が好きではないけど
極端に嫌いでもないんですよ。
現状で満足しているって言う感じですか。
時々嫌になることはありますけど。
でも、だからといって理想の自分になりたいかというと…
実はそういうわけではないんですよ。
多分僕の性格は内向的なんだと思います。
それで理想の自分とはもっと積極的なんだと。
ちゃんというと積極的ですが
要は「わがまま」に生きたいんだと思います。
子供でありたい。
例えば理想の自分が目の前…別の人間としていたとしたら…
多分今の僕には苦手なタイプでしょう。
多分すきにはなれません。そう感じること、
それは結果として今僕は理想でありながら、理想の自分になりたくない、
といった矛盾を生み出し、その中にいます。
何が理想で何が本心、何が現実で何を目指すのか…。
本当に最近は葛藤が多いです。(このことに限らず)



2001年03月17日(土) 深く…浅く

きっと僕は底が浅い人間なんだと思う。
だから文章を書くときわざと分かりにくく書いて
「わりにくい」ようにしている。
分かりにくいということは
文章からその人の人柄を感じ取れなくすることができると思う。
思っていることを全部書くときっと
僕はつまらない人間だということに気づいてしまう、僕が。
この自由に時間の使えるうちに…
今までの時間が…
…いずれ、死を迎えるときに…
僕は、時間に見合った何かをできるのだろうか?



2001年03月16日(金) 書くのに時間がかかるなぁ

言い訳にしかならないけれど一応最初に書いておきたくて。
もともと文章などや物語を書くことはおろか
ろくに読むことすらしてこなかった。
無論近年よく言われる、
若者の活字離れといったものと同質だろう。
読むこと、読解することを怠ってきたので、
これから書くことに反論されても困るってこと。

文章、特に物語を書く人は主に二通り
いるんじゃないかと思う。
物語を通じて自分の意見を伝えたいひとと、
純粋に物語として楽しませるひと。
本来もの書きっていうのは前者なんじゃないかと思う。
が、最近は結構後者が多い。
仮に僕が何か書きたいと思ったとき
それは後者だろうし。
物語として楽しませる方法にもいくつかあって、
自分の創作と既存のものを自分なりに書くという方法がある。
前者はともかく後者の場合は、
その既存の世界観を無視することはできない。
どちらも書く側にとっては結構楽しいんじゃないかとは思うが。
…本とドラマなどの違いってなんだろう?
第三者の存在なんじゃないかと思う。
原作が存在して、それをドラマとかにするとき
第三者(つまり傍観人の意見―作者自信の意見が多い―)
の表現をどうするのだろう?
本などにおいて第三者はとても重要です。
物語を構成するにあたって物語りの中に世界が存在するがぎり
その世界には悪役
(敵対するものや意見の違うもの)が存在するでしょう。
一つの世界に一つの思想では物語が面白くない。
というか、物語を書く意味がない。
同時にその世界を現実(あくまで物語りの中での)とするなら
当然主人公にとって理不尽なことなども存在するんではないかと。
現実がそうだから。
例えばいくら理想的な政治論を語る人がいても
実際に行われることは少ない。
それは政治家が人で、私利私欲にはしりたくなるからなんですが。
滅私奉公なんてしたがる人は少ないし
(特に政治家くらいまで上り詰めた人は)
いたとしても民主主義という多数決の世界では
その人は社会的に殺されます。自分自身の利益の妨げとなるから。
一方理想論を語る人は直接政治に関わらないひとがおおいです。
つまり自身は政治家でない人。
ちょっとひどい言い方をすれば無責任な人。
(純粋に責任を負う義務のない人)
でもこういう人たちは必要なんですよ。きっと。
責任を負わないからこそ、理想を語ることができるわけで。
で、物語を書いたとき、それと同様に
理想を語る、目に見えない第三者の存在が欲しくなります。
それは読者に語りかける人なわけですが。
そしてそれは主に作者の思うところでもあるわけです。
作者の(自分の)思想を人に伝えようとして
物語を書くならば第三者の存在ははずせない。
それをどのようにドラマで表現するのだろうか?
そこには当事者達しか存在しないのに。



2001年03月14日(水) えっとね…

よく聞くっていうか…よく言うっていうか。
「僕は理系だから文章は苦手だ」
…なんで?
文系の人は文章が得意、と
文系じゃない人は文章が得意じゃないは
イコールじゃないでしょ?
たしかに理系、文系って大きく分かれてるけど
理系だから文章の構成能力が低いって言い訳にはなんないよね。
理系の人だって文章を構成する力は必要だし
逆にいえば文系だからって
文章を構成する能力が必ずしも高いとはいえない。
文系の人間は物語を書くってわけでもないだろうし。
大体それなら理系の人間は何が得意なのさ?文系に比べて。
「僕は文系だから〜が苦手だ」っていう場合、
〜には数学とかそういった言葉(教科)が入ると思うんだけど。
これを理系に当てはめると国語っていう教科なんだろうが。
国語が得意でも文章を書くことが得意ってわけじゃないでしょ?
国語が苦手な人の文章は
たいした文章になんないことも確かかもしれないが。
でもそれは突然書かされた場合かと。
普通は好きでやってるわけだし、それなりの下地があるかなって。
最初は誰でも下手かなっと。
一方国語得意といってる人間にいきなり文章を欠かせても
やっぱりたいしたことないんじゃないかと。
文章を構成する力って言うのは
理系とか文系とかとは別のところにあるんじゃないかと。
あとはさ、主に高校で理系文系に分かれると思うんだけど
数学とか科学系とか、そういうのが苦手な人っていうのは
文系を選ぶことが多いんだよね。
逆に国語が苦手だから理系って人は結構少ない。
ついでに目的意識のないひとは結構文系を選ぶことが多い。
目的もなく数学を選択する人は少ないってこと。
そんななかで理系文系だからって枠は
文章を書く上では必要ないんではないかと。
文章を書くと対になるのは
絵を描くって能力なんじゃないかなっておもったり。
例えばさ、音楽っていうのは
芸術として主に美術と対で考えられるけど
音楽って言葉じゃん。
表現するための手段として考えると
言葉で伝えるっていうのと
絵で伝えるっていうのが、おもな手段かなーっと。
どんな方法でも根底にあるものが。映像と音とか。



2001年03月13日(火) もっと気楽に書こうかな?

なんでこんなに重い(よくわかんない)話ばかりなのかなぁ…。

クローンてさ、人間に使うのは倫理上の問題とかで嫌われるよね。
その具体的なもんだいってなんだろうかなって。
例えば、自分と同じ人間を作り出しておいて
いざというときに必要な部分を取って使うとか。
考えたくもないような話。
認識として同じ人間がいるのは許せないって人もいるかな。
…双子、一卵双生児ってさ、どう思うかって。
よく似た人のこと?
クローン、どう思うかって。
同じ人間?
正直、こういう考えが頭の片隅にあったんだよね。
この話は調べてないし、どっかで聞いたくらい程度しか
覚えてないんだけどさ。
理屈からすると同じだっていう話。
一卵双生児はクローンだって。
いや逆か、クローンが一卵双生児なのかな。
同じ人間…遺伝子的には。
どう考えるもんだろうね。
クローンが双子を作るなら…何のために?
食用の牛とかをたくさん作るためか?
僕、よくわかんないんだよね。

あとは…なんだろう、人は神になれるかってことかね。
日本は政教分離って話。多分目的が入れ違ったんだろうって。
本来の目的は政治と宗教が結びつくことを恐れたはずなんだ。
結果、日本は宗教そのものを政治から切り離した。
宗教を切り離すんじゃなくて結びつき、
つまり、その宗教のお偉いさんが政治にまで影響力を持つこと、
それを防ぎたかったんじゃないかって。
結局いまの日本は無神論者がおおいってこと。
神を信じたら多分クローンに関しては、もっとしり込みするかも。
抵抗があるだろうかって。
神ってその人にとって永遠不可侵だろうから。
科学的に…人の進化を自然の流れと考えると
人が人を作り出すもの自然の流れか?
一ついっておくと別に僕はクローン技術に賛成してるわけじゃない。



2001年03月12日(月) なぜこんなに長くなる???

まぁ人並みには考えた時期って言うのはあるつもりです。
大体中2くらいのときかな。
死とか自分とか人間についてとか。
だいたい朝の登校中に考えてたなぁ。
んで、あるとき気づいたのが
「俺なんかが考えて答えが出るなら
 とっくに他の人が答えを出している」
これのせいかどうかは分からないけど、
この答えに辿りついてから内面的というか
そういった考えをする時間が減った気がする。
これも一つの事実だとは思ってます、今でも。
ただ同時に今は別の考えもあったりするんですよね。
これも事実ではあるけど、じゃあ他の人は誰か?って。
その誰かはこういう考えを重ねていった人かなっと。
当然ひとりで完結しないで他の人との議論もしたりして。
…正直なところ、悩みはしても(絶対的な)答えは出ないだろうと。
PCみたいに1か0じゃないし。
最近のDNA・PC(だっけ?)はともかく(笑)。
出ない答えを出そうとする努力は無駄か。
例えば報われない努力は無駄になるかな。
いやいや、過程が大事。…「が」じゃなくて「も」かな?
ああ、更に。
仮に絶対的な答えが存在したとして、そのとき人はどうするかな。
すべてを悟った人がいて、その人はどうするだろう。
何を得る?何も変わらないと思う。
結局、目の前にあるものがすべてかなって。
…正面は見えてるけど後ろは見えない。
後ろには存在がある。それは知ってる。
正面は目で世界があることを確認できるけど
後ろにも常に世界があるってどうして分かる?
もしかしたら自分の見ているもの以外はないかもしれない。
自分の目をむけたところがそのときに作られているだけで
見えないところは何もないかも。見えないんだから。
こんな言葉―「コギト・エルゴ・スーム」(スペルは知らない)
      「我、思う故に我あり」(和訳)
例えこの世界のすべてが幻でもそう考える自分は確かに存在する…
とかそんな感じの意味だったかな?
でね、思うんだよ。
仮に世界のすべてが幻でも、それがどうしたって。
そんななかで生きているならそれはそれでいいんじゃないかって。
幻と分かっても何変わるわけじゃないかなっと。
知っても意味ないこと。知る必要のないもの。
知った上で割り切って存在を続けること。
存在自体はあやふやでも、いるんだからいいじゃないか。



2001年03月11日(日) 読みにくいのは…

余裕のない人は心がすさむ。そんなことを聞いたり。
何の余裕だったか。時間かな?
うん、時間として話を進めようか。
時間的に余裕があるということは…
自由な時間があるということ。
自由な時間とは…
何をするのも自分次第。
多くは、自分の好きなことをする
―それは心を潤すことになったり―…くさいけど…。
それはともかく自由な時間のない人は
実に楽しむことが少ない…のかもしれない。
一概にはいえないけど。
で、勉強を考えてみたり。僕は物理が結構好きかな。
高校のとき(受験のとき)結構楽しんでやってたし。
でも大学に入ってから
物理の講義がなかった(取れなかった)わけで。
そんなこともあって少しやりたくなったり。
だからこの前本を読んだ。
正直ビックリしたのが、間違いではないけど
高校のものとは考え方が違う。
最初の数ページでそれに気づくほどに。
受験のため、それが高校の一つの勉強方針。
あとは基礎を教える。
一つ。受験のための勉強は無駄が必要ない。
…無駄は敵でしょう。
受ける学校(大学)のレベルによって
求められる到達学力は違う。
当然偏差値の高い学校はそれに見合った学力を求められる。
高い学力とは広い範囲のことを指すのではなく
深い範囲を指すのだと思う。
どの高校も基本的には無駄なく教えるというのが必要。
ちなみにここで指す無駄とは意味のないものではない。
受験では役立たないという観点から無駄という表現を使う。
この場合「物理に関するまめ知識」といった語句に置き換えても。
ゆとりのない人生はすさみ、つまらない。(個人的偏見?)
無駄のない授業はつまらない。
悪いとは言わないけどね。悪いとすれば
深く知ろうとしないその人かな。
基礎を学ぶというのはいいかな。
基礎がないと本を読んでも面白くない。
いきなり難しいのはやっぱりやる気もなくなるしね。
基礎を知った上で自分で学びたいと思う。
そういう考えはあって欲しい、というか僕が欲しい。
何か好きなことを考える。
ある程度知るともっと知りたくなるでしょう。
それが受験なんかじゃなく自分のためならどんなに幸せか。



2001年03月10日(土) 今ここに在る…

今ここにいる可能性…というか
この場所で書いていることの確率というか。

今…うん、例えば席替え。多分多くの人が経験してる。
じゃあ、その席になったときの確率って…。
40人いたら(今はもっと少ないのかな?)
簡単に考えて40!(40の階乗)分の1なわけ。
つまり40×39×38×………×3×2×1。
大体8×10の47乗。(計算が間違ってなければ)
つまり8のあとに0が47個つく。
そんな中でたった1通りが…決まる。
1回の席替えならね。
2回やったら4×10の47乗。まぁすごい数だよね。
たった1回の席替えですらここまでの可能性があるわけで。
いままで生きてきた中で分岐を数えると―数えられるならばだが―
とんでもない数、少なくとも表現できないほどの数あるわけ。
そのうちの1つを通って今ここに在る。
結構すごいことだよね。

例えば今、二者択一をせまられたとする。
そのとき一方を選んだとして、その中で人生が先に進む。
例えこれがたいした選択でなくても。
するともう一方は…選ばれなかったものとして
一生、選ばなかったものとして、記憶される。
だけど、その選ばなかった方を選んだ世界も存在する。
自分のいる世界とは別に。
この選択がたいしたものでなくても
違った世界として別に存在する。
(無論見えないし、行けない。存在の可能性だけはあるが)
各々の人において、このように可能性ごとの分岐を作れば
次の瞬間には数え切れないほどの世界が存在するわけ。
そんななかの一つにいるわけだからやっぱりすごいと思う。
その一方で…これらの世界に自由に行くことができたら
人生をやり直したいっていう
願望もかなうんじゃないだろうか?
正確に言えばやり直した後の世界を見ることができる、
行くことができる。
でも、今ここに在るのは偶然だけじゃなく
必然によるところが大きい。
もう一度同じ選択を迫られたら
やっぱり同じ答えを選ぶんじゃないだろうか。
例えそのとき違った答えを選んでも
結局来るところ(行き着くところ)は
そんなに変わらない世界なんじゃないだろうか。
そうすると、ここに在るのは…必然かな?
多少の違いはあるにしても。

結局僕は何を言いたかったのだろう?



2001年03月09日(金) いせり

と、まぁ分かってるんです。
文章なんて普段書かないし、今までだって書いてこなかった。
時々満足のいくものは、何回も同じ文を直したり。
それでも変なものの方が多いわけで。
結局1発書きだといいたいことが前後したり
書いてる途中で考えが変わったり…
読みにくいこと、この上ない。
しかもだらだらと…なおかつ締めがない。
書いてるうちに治るかというと…
だれも治す人がいないんだから
悪い方へ進むかもね。
ま、それで誰が困るかといえば
俺しか困らないからまだいいか。

最近…欲求不満だったり。イロイロ。
まぁ、この辺はどうとでも。
で、ふと考えたんです。人間に理性がなかったらどうなるか。
考える力があるから理性もある。今、僕はそんな考えだけど。
―考える力があるが本能(むしろ欲望)に身を任せると―
悲惨この上ない世界になるだろうね。
例えば人は他の動物より優れているって話。
そうじゃないと考える人もいるだろうけど。
俺にどう思うかと聞かれたら…どう答えるかな…。
動物保護とか愛護という言葉。
保護って言うのは、その保護対象物よりも
保護する側が優れていないと成り立たないんじゃないかと。
保護する側が無力…というか保護対象物より
その保護する理由(暴力だったり虐待だったり)において
優れている(暴力をはねのけたりする力)が上じゃないと
なりたたないんじゃないかと。
そうじゃなければ保護する理由がない。
だから他の動物よりは人間が優れている…っていうのが
全体的な意見なんじゃないかと。個人の意見はともかくとして。
優れた個人の意見より、全体的な意見の方が昔から優先されるしね。
地動説と天動説とか。これはどうでもいいことだけど。
とりあえず何が他の動物より優れているか。
―考えられる―。
無論…他の動物も考える。この場合、程度の差が問題なんで。
あとは手が使えるとか…あると思うけど…
これは今の社会を見て
そんなには決定的な違いではない…と思ってるが。僕は。
だから…人が理性を失ったら…特に自ら失うような
つまり一般常識では考えられないような行動をとったら…
その人は何において他の動物に勝るのだろう?



2001年03月08日(木) 少し困ったもんだ

今、日記を書こうとして少し困った。
バイトが終わるのが遅くて
その日の日記を書こうとすると次の日になってるんです。
今は8日の日記をかいてますが実際には9日です。
編集とかも比較的簡単だし
別に問題ないといえば問題ないんですけど。
ちょっぴり、ホントに少し手間が増えるだけですが…。
んー…バイト前にかくのもいいんだけど
そうすると18時くらいになっちゃうんだよね…。
それで日記を書くといってもねぇ…。
最近は午後に起きる感じだし。
5,6時間の出来事を書くのも面白みがないね。

で、今日は何か書くことがあるかといえば…
特にないんだけど。
バイトが疲れたよー。
…これじゃあ面白みがない、というか
ほぼ毎日おんなじことだしねぇ…。

18時に書こうとすると6時間程度のことしか書けない。
じゃあ23時に書いたら…
せいぜい11時間だね。
つまり起きてる時間が全体的に短いのか?
1日は24時間あるわけですが…
ある事をやろうと思うと
普通に10時間くらいかかるんですよ。
これってすごいですよね?
今僕は19歳です。比較的に考えて若いでしょう。
正直なとここのことに10時間かけるのは
もったいない気もするんです。
一方でもっと時間をかけたいと思う気持ちもあります。
例えば大学生にとって有意な時間とはなんでしょうか?
つまりあとで後悔しない時間の過ごし方ってなんなんでしょう?
―今してることは、あとで絶対後悔する―
そういう考えはあります。
でも今それを切り離そうか…と言えばそれはしないです。
他の一般的な同世代はどんな時間を過ごしているのか。
それは後悔しない時間のすごしかたなんだろうか。
例えば…しっかりした路で考えてみる。
学生は勉強が本分。
とはいえ勉強ばかりしていたんでは
これまた後悔するんじゃないかと思う。
少なくとも僕の場合は。
…好きでやっていたならどうだろう。
今、使える時間はたくさんある。
とても貴重な時間だというのはわかっている。
それが…好きなことをやっていられるならそれでいいか。
…いいかもしれない。
もともと後悔は先に立たない。
…ならやりたいことをやろうかな…。



2001年03月07日(水) いろいろと

友達からペンをもらったり。
ICQを取ってみたり。
CDを買ってみたり。
ICQは今の段階ではごちゃごちゃして多分上手く使えない。
上手く使えるようになったらナンバーを公開しようかな。

日記書くのって寝る前が理想的だろうか?
多分今日はあと7〜8時間は起きているだろう。
その間の出来事は日記にかけない。
もしかしたらこの日記も、あとから付け足すこととか可能かもしれないけど。
よく知らない。
日記については…模試だったろうか?国語の問題で
日記について書いてある文章を読んだことがある。
おぼろげにしか覚えてないが。
でもなかなか面白いことが書いてあった気がする。
思い出したこととかを書いていけたらいいのだけれど…。

例えばこの日記のルールに限らずだが、
誹謗中傷する文は書いてはいけない。例えばBBSでも。
じゃあ、政治批判とかもいけないのだろうか?
非常に難しい。少なくともいまの僕にとっては。
批判と誹謗中傷は違う?(批判が否定的な意見として)
それとも政治家個人に対する批判はだめで政治に対する批判ならいいとか?
主義主張ってどこまで認められるものなのだろう?
いわゆる表現の自由はどこまで…ってはなしなんだろうけど。



2001年03月06日(火) 最初の日記

最初の日記を実は翌日の早朝に書いてるあたりがなんとも。
が、今日(3/7)の分の日記を書くのもねぇ?
日記ってその性質上、1日の終わりに書くもんだろうし。
まぁ一度は挫折した日記ですが…
前のはこういう風にレンタルしてなかったから…。
いちいちアップするの面倒だったし。
こういう風にやれるならそれなりに続けられるかと。
のんびりやってみますか…。


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