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2006年04月21日(金)  書き散らす

今思いついたことも、唐突に思い出したことも、
みんな書き散らしてやる!

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でもとりあえず偏頭痛。痛い。
昨日は、右の耳だけ水が入ったみたいな感じになってた。
今日は後頭部から首にかけての血流が変な感じがする。


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昨日、
寝たらいけない寝たらいけない、でも寝たらいけないって思いながら寝るのってなんて気持ちいいんだろうホントこれ以上の幸せはないよ、でもきっと自分みたいなタイプと、正反対の、全部片付けて何の迷いもなく全力で寝に入る方が幸せだっていう人もいるんだろうから、そんなところで意外と性格がわかるなぁ、なんてくだらないことを考えながら結局そのまま寝たらしい。
今日、
朝まで爆睡。目が覚めてみると、着替えすらしていない。
とりあえず起きてシャワー浴びて・・・なんて考えてたら、いつものところに眼鏡がない。
眼鏡は寝る前に外したら、必ず枕元の眼鏡ケースに入れるのが習慣だ。
夜中に地震が来たとき、なくて一番困るのは財布よりスリッパより眼鏡だから。
で、その眼鏡ケースに眼鏡がない。
前に一度、ソファーでうたた寝して気づいたら眼鏡を敷いて寝てて、
華奢なフレームだったからぽっきり折れてしまったっていう悲しい事件があって。
それを思い出してとりあえずベッドの上をそろーりそろりと探索して、
見つからないから半ばパニクったけど、慌てても仕方ないと思い直して。
二段ベッドだから、床に落としてる可能性もあると思って、はしごをまた一段一段慎重に降りて。
で、床もそろりそろりと探ったけど、手応えがない。
眼鏡を探すってのは、本当につらい。眼鏡がないってことは、視覚がアテにできないってことだから。
そういうわけで、家族に応援を頼もうと思って、
とりあえず顔でも洗うかと思って洗面所に行ったら、
鏡に映った自分の頭に眼鏡が乗っていた。

朝から一人でベーシックなコントを演じてしまった。
こういうコントって、本人が真剣なほど面白い。そういう意味では客がいないのが残念なくらいだった。
いま思えば、おでこのメガネでデコデコデコリン写真、一枚くらい撮っておけばよかった。


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朝の連続テレビ小説に出ている劇団ひとりをこっそり応援している。


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さっき友人の鼻血写真を見て、
「ナイスの森」の、激烈かわいい女の子の鼻血を思い出した。


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来週、浦和裁判所で傍聴できることになった。
こういう機会はできるだけ逃したくない。
陪審員制度についての質疑応答なんかもあるらしい。
楽しみ。


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明日は徒歩で行けるMOVIXで「プロデューサーズ」を観る。
最近観た映画は「寝ずの番」と「エミリー・ローズ」かなぁ。
どっちもそれぞれ考えることがいろいろあった。
あとは、昨日BS-2でやってた「ニューヨークの恋人」。なんていうか、良かった。
個人的には、SF要素がもっとあってもいいと思った。説明省きすぎ。
ひとつの作品としてはきれいにまとまってるし、SF映画じゃないから文句はないけど。
NHKはCMもないし、エンドロールまで観せてくれる。BSさまさま。


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そういえば高校時代の地学の先生(直接は教わってなかった)に、
上野で回らない寿司をおごってもらったことがあったけど(・・・卒業の時?)、
「おいしい」とか「すごい」とか、そんなことばかり言ってたら、
「感想になってないっ。もっとちゃんと表現しろよ」というようなことを言われた気がする。
本当にいい先生だなぁ。好楽か誰かの独演会にも連れて行ってくれたし。
自分の言葉を大切にしないなんて、ほんと、馬に蹴られたうえで豆腐の角に頭ぶつけて逝っちゃえばいいんだ!
そういうわけだけど、本気を出さずに言葉を投げ出す悪い習慣は直っていない。いかんなぁ。


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ついさっき、友人が書いた日記を読んでいて、ちょっと涙が出そうになった。

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大学時代の同居人の勤めてる会社が合併して、
その合併した会社のCMを昨日あたり初めて見た。
元気にしてるかなぁ。

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友達って、一人思い出すとつぎつぎ思い出されてくるなぁ。
友達が少なくて、ある意味助かった。


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会社が、年に一度あるかないかの暇な時期。
しかも、夜のバイトはない。
それなのに、家に帰る足取りが妙に重くて、
帰りたくない症候群のサラリーマンみたいだと思う。
昨日も今日も。
でもそのおかげで、
車道脇の白いツツジが咲き始めてるのを見たり、空の青いのを気に留めたりできた。

いろんな日があっていい、と思うことにしよう。


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今読んでる小説。
主人公の日常の中での連想で成り立ってるような話なんだけど、
その連想が奇妙に生々しいというか、現実的というか。
現実的なのに哲学的というか、その哲学的なところがまた現実的というか。
特徴的なのはその文体?で、とにかく一文が長い。
特に大きな出来事が起きるわけでもないし、一文があまりに長くて同じ文の中で話題がいくつも出るような感じだし。
久しぶりに読み進めない小説が出てきたのかと思った。
でも、慣れてくればそんなに理不尽なつながりや連想はないし、
半分も読む頃にはだいぶ読みやすくなっている。
『カンバセイション・ピース』、保坂和志。
今知ったけど、‘ほぼ日’に糸井さんとの対談が載ってた。長い。長いけど面白い。


2006年04月08日(土)  安楽死にもいろいろあるらしい。

仕事の関係で、安楽死をめぐる議論をいろいろ調べている。
今回はとりあえず、詳しい話はここに載せない。
勉強不足だし、時間もないし、仕事を先に済ませなきゃいけないから。


人が死ぬということについて、いろんな分野で専門家が真面目に話し合っている。
一般化させた「人の死」について。個別の「人の死」について。
宗教や信念の観点から、医療倫理の観点から、法の観点から。

ついこのあいだ話題になっていた、富山の外科部長の問題も難しい。失礼を承知で言えば、興味深い。
患者および家族と医者との信頼関係や、東海大学での安楽死事件の判決とのかかわりも出てくる。

専門家が熱心に話し合っている一方で、この情報化社会においては、特に知識もない一般人の意見交換も活発だ。
(僕も一般人の一人として考えている、ただし残念ながらというべきか、公の場で誰かと意見を交わしたことはない。)
自殺は自由か否か、とか、そんなこと。他愛もない、けれど今生きている個人にとって予想以上に重要かもしれないこと。


如何に死ぬか(死ぬことができるか)、なんていうのは、実に現代的、現代日本的な議論だと思う。
QOL確保に飽き足らず、生きることが権利ならば死ぬことも権利なのか、なんて、
何もしなければ明日も生きていることが前提だから考えられるのだ。
こんな裕福で腐った社会を批判するつもりは特にないけれど、こんな社会だからこそ、
命の重さとか人として生きることの意味とか、併せて考えていかなきゃいけないかな、なーんて、俺様、道徳的〜。


真 |MAIL