こっそりと


生存報告をば。
ご無沙汰のお詫び代わりに(?)、友人たちと御題を出し合って書いた短編を置いていきます。
レギュレーションは「キーワード:幽霊・ヘッドホン」「12-18KB」「カッコ書き控えめ」。
めずらしく現代モノです。
よろしければ秋の夜長の暇つぶしにどうぞ。

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 それは、静かな夕方だった。

 男はいつものように休日の、夕食前の時間を居間でテレビと共に過ごしていた。テレビから聞こえてくる解説者の声と、台所から聞こえる調理の音を聞くともなしに聞きながら寛いでいるこの時間が、男には何よりの安らぎだった。

 昨夜は一人息子の誕生日祝いということで、妻は張り切って息子の好物を並べていた。疲れているだろうから今日は出前でもと男は申し出たのだが、夫婦共に店屋物は余り好きではないことを理由に、妻はいつも通り夕食を準備すると言ってきかなかった。ほのかに漂ってくる出汁の匂いからすると、今日は恐らく自分の好きな物を出してくれる積りなのだろう、と男は柔らかな笑みを浮かべた。
 テレビに映るスポーツ中継の中身に彼はさほど興味は持っていない。しかし、彼も妻も余り口数が多い方ではないため、二人きりの時にはテレビをつける習慣がいつからともなく身についている。

 男が暮らす家は、子供が生まれる前に購入したマンションの一室である。ゆとりのある広さのそれは都内にあり、新築である事も相俟って購入には相当の思い切りを要したものだった。しかし今では、ローンももう支払いが済んでいる。
 二十年程の年月が過ぎ、新築当初の輝きを失ってはいるが、妻の手入れが良いためか、部屋はその代わりにしっとりとした落ち着きと、独自の雰囲気を纏っていた。
 居間の壁には、妻が学生時代に描いたものだという水彩画が掛かっている。彼女が当時好きで、幾度も行ったのだという尾瀬の風景をスケッチし、簡単に彩色したものだ。湿原の中に淡い色合いで描かれた木道が遠景に溶け込むように消える構図は、直線的なものでありながら何処か儚げで、夏の景色にもかかわらず物寂しい風情を漂わせている。物静かではあるが意志の強い妻の作品らしい、と彼はその絵がとても気に入っていた。
 定年までは未だ十年程間があるが、現役を退いた暁にはいずれその地へ、妻と二人で旅行をするのが彼のささやかな望みだった。水芭蕉の花が咲くという梅雨時や日光黄菅の季節だという夏は老いの坂を上り始めているだろう二人には辛いだろうか、紅葉時はやはり混雑するのだろうかなどと話す度、妻は気が早いと笑うが、彼はそんな他愛もない未来への展望を思い描くのが好きだった。そうして、その妻の笑顔を見ながら、旅行する度に彼女の絵が増え、壁一面が思い出で埋まっていく様子を想像すると、和やかな気持ちになるのだった。



  降り積もる、立ち昇る



 真夏の容赦ない日差しに照らされ、灰白色をした石造りの外壁には長年の風雨の爪痕が色濃く陰影を刻んでいる。
 表を飾る、ヨーロッパの建築を模したものであろう刻まれた装飾や円柱は、ただ薄汚れたと評することを躊躇わせる程度には威厳があるが、時代を経たもののみが持つ風格を持つには未だ至らない。
 現在は博物館として使われているその建物はそのどうにも半端な姿を、昔は洒落たものであったであろう一面のショーウィンドウがやや時代遅れな風情を漂わせる洋品店と、形は新しくともどこか品のない雑居ビルの間に晒している。


 初老の男が一人、アーチ窓のついた玄関を潜り、建物の中へと入っていく。皺のついた麻のサマージャケット、どこか草臥れた印象のワイシャツ、折り目の消えかかったズボンといった服装は少々手入れの悪い状態ではあるが、どれも元はしっかりとした良い製品ではあるようだ。色の合っていない黒い革靴は、使い込まれた形跡こそあるが服とは不釣合いなほどに磨かれている。
 ホールの、昔は深緋色であったであろう絨毯は、天井から吊り下げられた鉛ガラスのシャンデリアが放つ黄色味のある光で辛うじて毛羽立ちを隠し、上品な印象を保っていた。中に漂う空気は、総じて柔らかく温かみのある色合いに似つかわしくなく、空調によって鋭いほどの冷ややかさを帯びている。

 男はシャンデリアをちらり、と見上げた。桐の葉をモチーフにした鏝仕上げのレリーフから下がるそれは、乱反射で漆喰天井に複雑な模様を描き出している。外の強い日差しに慣れた目はまだその光を眩しいとは感じないようだった。
 視線を下に戻すと、彼は生成色のサファリ帽を取り、ハンカチでやや前髪が後退しかかった額を拭った。髪に手をやり、張りがなくなった白髪交じりのそれが乱れている事に気付いて再び帽子を被る。

 絨毯から外れ、床と同じ大理石で作られた受付カウンターへと向かった男の靴と、退職金で買ったスネークウッドのステッキが硬い音を小さく響かせる。
 男は傷で曇ったアクリル板越しにチケットを頼み、財布から丁寧に折り畳まれた千円札を取り出した。受付の女性職員は慣れた手つきでそれを受け取り、プラスチックのトレイに数枚の硬貨とチケットを入れて返した。
 青いプラスチックの繊毛にぞわりと撫でられるような感触を指先に感じながら彼は釣銭を取り、ゆっくりと小銭入れへと仕舞った。ごゆっくり御覧くださいと決まり文句を告げる職員に軽く目礼を返し、絨毯へと戻る。


 博物館を廻るのは男の、十年程前からの趣味だった。退職前は混雑する休日に通わざるをえなかったのだが、有閑の身となった今ではこうして平日の昼間という人の少ない時間を選ぶことができる。
 彼は展示室へと繋がる階段をゆっくりと上っていった。磨耗し、薄くなった絨毯越しに伝わる衝動に軽く眉をしかめ、空調で冷え切った手摺に手を伸ばす。かつては金色に輝いていただろう真鍮の手摺は手入れが行き届いていないのか、酸化している溝と幾多の人が触れた為にやや剥げかかった平面では随分と違う色合いに変貌していた。

 特に大掛かりな催しもない、常設展示のみの展示室に他の客の姿はなかった。展示棚の隙間に僅かに覗く、間接照明に照らされた漆喰壁は灰汁色の濃淡に染めあげられている。
 男には取り立てて何が目当て、というものは無かった。彼の興味は何らかの展示物ではなく、ただそれぞれの上に降り積もっている年月にのみある。
 どんなに丁寧に手入れされた物でも、古びた物には経年の跡が残る。それを眺めるのが、彼の趣味だった。


 漂う埃の匂いに、男は僅かに鼻を蠢かせた。彼の妻は、博物館は黴のような匂いがするから嫌なのだと言っていた。そんな彼女が出て行ったのはつい去年、男が定年退職した年である。
 一緒にいると一人でいるよりも寂しいのだという彼女の言葉は、何故かすとん、と腑に落ちた。不自由や窮屈な思いをさせたつもりもないが、良い夫であった自信がさしてあった訳でもなく、定年までは煩わせずに仕事に集中させてやろうという、彼女の昔気質の優しさに感謝こそあれ、怒りがある筈もなかった。
 彼は、幾度も謝罪の言葉を繰り返す彼女に今までの人生を共に生きてくれた感謝を伝えたが、どこまでその真意が伝わったかはわからない。

 勿論引き止めたいという気持ちがなかった訳ではなく、お互いの間に通い合う穏やかで静かな愛情が消え去った訳ではないこともわかってはいた。
 しかしそれがあってもなお共には居られないのだということも。

 思い描いていた将来が突然の風に吹かれ、きらきらと光る砂のように音もなく、呆気なく消え去ることは彼の人生において幾度もあった。いつだって砂は、元の位置に戻ることもなく、積み上げてきた過去の上に積もることもなく、思い出の塔の周りを華麗に、しかし虚しく舞い、何処かへ去っていくだけなのだと、彼は痛いほどに知っていた。その塔は歪で飾り気も無いかもしれないが、彼が確かに生きていた証である。例え輝かしい未来が実現せずに舞い散り、降り積もって美しい層を作らなくとも。そして勿論それは一人で積み上げたものではない。しかし共に作り上げてくれた妻と別れたとしても、その塔は姿を変えることもなく、男の心の中に黙って立っているのだった。

 男は、軽く頭を振って、廻りだした思考を追い出そうとした。比較的新しい博物館には無い、計算されていないほの暗い薄闇には彼に過去を想起させる力があるようだった。
 慌てて低いガラスケースに視線を落とした男は、そこに草書の手紙を見て小さく息を吐いた。そこに確かに存在する過去に生きた人間の生活は彼の興味を惹くものだが、解説を読むことなしには理解できないからである。印字された解説越しでは、息吹のようなものに欠ける。草書を学べば直接その空気を嗅ぎ取ることはできるだろうが、しかし彼はそこまでの気持ちになったことはなかった。故に彼は、今の所余りそういったものが好きではない。
 解説を読む限り、手紙の内容は些細な礼状であるようだった。偉人の日常を窺わせるその内容には満足しつつ、彼は顔を上げた。壁に沿って作られた展示ケースの、薄卵色の照明に照らされた掛け軸へと視線を移す。

 写実的で繊細な絵柄と、大胆で華やかな構図という組み合わせに、男はしばし見とれた。この絵に使われているのは付立てという技法だっただろうか、と彼は首を傾げて記憶を探る。作家や技法等には興味がない為、博物館に通った年数の割にそういった方面に関する彼の知識は薄い。記憶を探る際に彼は、この技法を用いたことで有名な画家で、足のない幽霊を初めて描いたといわれている人物がいるという事を思い出し、深い溜息と共に俯いた。


 男の息子は交通事故に遭い、今はもうこの世にいない。トラックに轢かれた息子の腰から下は潰れて形もなくなっていた。酒に酔っていたのだという運転手がどれだけ詫びようとも、息子はもう帰っては来ない。
 妻の希望で生前のままの状態を保っている部屋の机には、事故の時、それだけが無事に残ったヘッドホンがおいてある。男が、息子の誕生日に買い与えたものだ。

 誕生日に欲しい物はと尋ねてヘッドホンと息子が答えた時と、店頭で、伝えられた型番のメモを片手にようやく探し当てたそれの、誕生日の贈り物に相応しい程度ではあるが、男の考えるヘッドホンというものにしては破格の値段を見て、男は二度驚いたものだった。
 当日は彼女とデートだからという息子に、男がそれを渡したのは誕生日の前日だった。親と距離をとりたい年頃の息子の礼は無愛想な口調であったが、いそいそと包みを開ける様子はとても嬉しそうで、気に障るような事はなかった。
 そして誕生日当日、出かけようとする息子の頭にはそのヘッドホンがあった。外にしていくのかと男が尋ねると、彼は相変わらず無愛想に、彼女に見せたいんだと独り言のような調子で答え、出掛けていった。
 照れているのねと妻は笑い、彼もまたそうだなと笑った。息子の不在で静かな時間の流れる居間はまるで、老後二人で生活するならばこうなるだろうという未来像を映し出しているようだった。こうして少しずつ、緩やかに、穏やかに変化しながら年を取っていくのだとその時の彼は実感していた。
 いつもより少し早い夕食の席で、電話が鳴るまでは。


 その後しばらくの事は、男の記憶の中で朧げに翳んでいる。思い出そうとすると、まず先に浮かぶのは通夜の日のことである。
 事故に遭ったのは音楽を聞きながら歩いたりするからだ、所詮不良息子なのだとしたり顔で言っていた親戚の事を、男が許すことはないだろう。それまで深い付き合いがあったわけではなく、今はもう親戚ですらないその老人が、彼が聞いていた事に気づいて酒焼けした顔に浮かべたへらへらとした笑いを思い浮かべると、男は未だに吐き気すら覚える。
 忘れられない相手はもう一人いた。事故当日、息子が会っていた恋人である。小柄で、少女然とした印象の彼女は、始終俯いて黒いワンピースの肩を震わせていた。何故か自分の状況をよそに、申し訳ない、可哀想な事をしてしまったという感想を抱いてしまったのは、その震える細い身体が余りに痛々しかったからだろうか。

 事故から暫くの間、これだけは無事に帰ってきたヘッドホンを見つめて、息子は死ぬ間際どんな曲を聴いていたのだろうかと思いを廻らせるのが男の習慣だった。息子が持っていたプレイヤーは捻じ曲がり、中に入っていたディスクは粉々になって道路を煌かせていた為、彼にはそれを知る術はなかった。
 息子の気配を色濃く残す部屋は、しかし持ち主の不在という事実だけで酷く寒々しく見えた。几帳面な性格の息子らしく、整然とした様子であることもそれに力を貸しているのかもしれない。

 息子がアルバイトを頑張って購入したのだというオーディオセットとは別に、まだ幼い頃にプレゼントしたラジカセが部屋の隅にそっと置かれているのを見て、堪えきれずに嗚咽を漏らしたこともあった。
 事故の後、男と妻は申し合わせでもあるように、同時に息子の部屋に入ったことはなかった。そうすることで、何かが壊れてしまうのではないかと男は考えていた。恐らく妻もまた同じではないかと、彼は今でも信じている。


 ふ、と他人の気配を感じて男が顔を上げるとつい先ほどまで無人だった展示室に、数人の客が増えていた。別段話し声がする訳でもないが、それでも複数の人間がいれば当然生じる雑音に気づかないほど考え込んでいたのだろうか、と彼は自嘲めいた感慨を抱いた。
 先ほどまで見ていた掛け軸は、見物客が増えたことなどお構いなしの、変わらぬ静かな佇まいで男の前にある。
 足のない幽霊画は反魂香を焚いている図であるという説が、男の脳裏を過ぎった。もし反魂香を焚いたら、息子は帰ってくるのだろうか、その息子はどの時点の息子なのだろう。妻も子もそのままで、静かで、平凡で、しかし幸せだった家庭のまま年を経ていれば、初顔合わせが葬式の席であった息子の恋人は嫁に来てくれただろうか、今頃は孫の一人も抱いていただろうかとそこまで思いを馳せたところで、虚しい考えに至っている事に気づき、男は薄い苦笑を浮かべた。
 どれだけ願っても、風に吹き払われた砂は塔の上には積もらないものなのだ。
 展示室にあるものたちは、その美しさは見事だが、古び、色褪せたその様子は描かれた当初とは違う。どのように技術が進んで復元が可能になったとしても、元の姿を完全に取り戻すことはありえない。作り手が吹き込んだ生気は、どのような手段でも蘇ることはないだろう。
 時は戻らないものなのだ、といつも通り過去を心の片隅にある靄の向こうへと追い払うべく、男は静かに息を吐いた。


 新たに入ってきたグループ客の、場には少々そぐわない賑やかな声に背中を押されるようにして、男は出口へと向かった。相変わらずホールの気温はやや低めではあったが、人が増えてきたことによっていくらか和らいでもいるようだった。

 扉越しに見える表は影が焼きつきそうな夏の午後。舗装が直されたばかりなのか、濡れたように黒々と熱されたアスファルトにさえくっきりと街路樹の陰が落ちている。ガラス扉の向こうを、男の息子が生きていれば同年輩であろうサラリーマンが、汗を拭いながら足早に過ぎて行く。

 アスファルトから立ち昇る熱気で反魂香の煙さえ瞬く間に何処かへ去って行きそうだ、と男は小さく笑い、自分もまた影の一つになるべく外へ出た。

2008年09月12日(金)



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