ゆりあの闘病日記〜PD発症から現在まで〜

 

 

治療と仕事 - 1999年04月30日(金)

3ヶ月に1度の割合で病院へ行って薬を貰う。もう殆ど薬で症状を抑えられるようになっていたから、高野先生と世間話をして薬を貰うためだけに病院を訪れていたようなものだ。
そうはいっても発作は急に止まらない。僅かな前触れの後に、突然それはやってくる。慌てて薬を飲んでも暫くは苦しい。気が遠くなりそうな、身体がバラバラになりそうな鈍痛と痺れ。言い表せない恐怖感。30分から1時間も経てば薬も効いて、すっかりなんともなくなるのだが、それまでが辛い。そして次また何時やってくるのかわからないことへの不安と危惧。
それに薬の副作用。肩こりはもう恒常化して、老人並に筋肉の質が衰えていた。そして偏頭痛。食欲減退。眼痛。不眠。吐き気。痺れ。今日は体調がいいと思える日は月に1度もなかった。

しかし不思議なことに、営業でクライアント企業の担当者と交渉している時や大勢の人の前でプレゼンテーションをしている時、そして夜の仕事の時には決して発作は起こらなかった。
一番辛いのは朝会社へ向かう電車の中と、社内で仕事をしている時、そして打ち合わせや会議の最中だ。原因が明白なだけに、なんとも情けない話だ。私は仕事は大好きだけれど会社が嫌だったのだ。この病の要因と、どんなに営業成績を上げても体調不良を理由に昇格させてもらえない状況に、潜在意識下で理不尽な思いを抱いていたのだろう。
だが、ここで病気が公になって仕事を外されることだけは絶対に避けたかった。私の仕事はこの会社の営業だからこそ成り立つ。余所では通用しない。だから必死に元気を装い取り繕って我慢し続けた。

バイトもNo.1になって時給もそこそこ上がった。しかし私は単なる自動昇格。自力で勝ち取った地位ではない。だからこそ人の数倍働かねばならない。頼まれたせいもあって勤務日も週4日に増やした。
常に店の動線全体に気を配らねばならない。退屈そうなお客様がいれば付いている女の子とチェンジする。伝票の記入漏れをチェックする。水割りは薄すぎても濃すぎてもいけない。女の子たちの手元を細かくみる。お客様ごとに財布の中身を推測して、それに応じた接待をする。その日の空気を読んで盛り上がったり落ち着いた雰囲気を作り出したりする。様々なことをママと目配せでやり取りする。

所詮アルバイトの私にできることは限られている。しかし店の中ではバイトも専業もない。店に入った瞬間からプロでなくてはならない。特に一部の隙も許されないのがNo.1の役目だ。とはいえ私は私に出来ることを精一杯やるしかない。偏頭痛だろうが吐き気がしようが関係ない。とにかく常にプライドを持って姿勢を正し堂々と振舞うだけだ。飛び立った蝶のように華麗にはなれなかったけれど。
結局、一身上の都合でD.L.L.を辞めるまでの1年半なんとか勤め上げられたのは、ママと沢山の女の子たちと盛り立ててくださったお客様のお陰だ。特にNo.2のナオミちゃんは、最初はただの気の利かないシングルヤンママだったのに、私が辞める頃にはしっかりとしたプロの接客ができるようになっていた。逆に彼女が成長しなければ、私はいつまでも仕事を辞められなかったかもしれない。

初めての体験だったし仕事は興味深いものだった。しかしいつまでも続けるわけにはいかない。会社にはバレたくないし、借金も少しは減った。しかしそれ以上に、昼夜の長い労働時間に身を置くことに疲れてしまっていた。そう、この頃の私は前向きな姿勢を取り戻した代わりに疲労が溜まっていたのだ。
最後の出勤日はお客様には内緒だった。井上さんたちだけは知っていて、驚くほどのご祝儀をいただいた。ママは帰りの車の中で、淋しくなるといって泣いてくれた。

こうして私の二重生活は終わった。非常に貴重な経験をさせていただいたことを今でも感謝している。
それから数ヵ月後、営業帰りの駅のホームで偶然に小林さんと会った。私は慌てて会釈した。小林さんは遠くからにっこりと微笑んで、でも決して普通の会社員である私の方へ近寄ろうとはしなかった。改めて徹底したプロフェッショナルの意識に感じ入った。

処方薬 : セパゾン・デパス・リーゼ・ロプレゾール

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