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1998年09月27日(日) Conversation Exchange(2)

紹介された女性から電話がかかってこないまま、数週間が過ぎた。
やっぱりそんなにうまく行くはずはないのかなぁ、などとすっかり諦めモードに入りつつ、例の親切な日本人の女性に別件で電話をかけた。ご主人が電話にでる。日本語が分かる人とは知りつつ、英語で、しかも「さん」付けで彼女が在宅かと尋ねる。へんてこりんなのは百も承知なのだが、いくら英語とはいえ、日本人だと思うと年上の女性をやはり呼び捨てにはできないものである。
ほどなくご本人が電話口に出、おかげさまで日本人会に出席したこと、頂いたパンフレットを見て近所のオープンスタジオを訪ねたこと、近況などを報告する。世間話をひとしきりした後「そういえば日本語の話し相手のことはどうなりました?」と、水を向けてこられた。実は連絡がないというと、電話の向こうで訝しんでいる。その話を彼女にしたときは、ずいぶん楽しみにしていたようだったのに、という。
それでは、ということで近所にある彼女の勤めている店を訪ねて行ってみることにした。ケム川のほとりにある小さなアクセサリーショップである。

あらかじめ彼女の容姿は聞いていたのだが、店を覗いてもそれらしい女性はいないようだ。
少し店の前をうろうろしてから意を決して店の中に入る。店員の女性に「ポーラさんにお会いしたいのですが」というと、「イアリングが欲しいんですか?」と聞き返される。「いえ、そうではなくて」というが今度は「それともピアスですか?」といわれる。
…ここで働いているポーラさんという人が日本語を勉強していて、私はその日本語の先生に友達になるように紹介されたものなんですが…とやっとの思いで伝えると、「ああ!」と合点がいったような顔をして「それではあなたはポーラの日本語の先生ですか?」という。どうもうまくいかない。
そのやりとりを横で聞いていた店主らしい男性が見かねて「ポーラは確かにここで働いていますが、毎日は来ません。明日の朝11時以降だったらいますよ。」といってくれる。はぁ、やっと話が通じたようだ。

次の日、店を訪ねると果たしてポーラさんらしい人がいた。背の高くてスレンダーな魅力的な女性である。名前を告げるとはっとしたような表情をして、「ごめんなさい。あなたの連絡先をもらってから私は休暇に入ってしまって、帰ってきたらメモをなくしちゃってたのよ」という。オヤオヤである。だったらもう一度聞けばいいのに、と思うが私の訪問を心から喜んでいるようなのでよしとする。
週に一回我が家に来てもらうことにして、早速初回の日取りを決めて心も軽く店を出る。なんだ、やればできるじゃない。叩けよ、さらば開かれんだっけ?という気分である。

さて、いよいよポーラさんが我が家にやってきた。日本語は初級を終わった程度だという。「Conversation Exchange」の考え方自体はポーラさんは賛成なのだが、日本語だけでおしゃべりをする程度にはいっていない。彼女が使っていたテキストを使って復習しがてら進めていくことになった。時間はとりあえず一回2時間。英語と日本語を1時間ずつである。ポーラさんがテキストを使うので、私も手持ちの想定会話集の本をやらせてもらうことにする。
始めてから驚いたのだが、ポーラさん、実に熱心なのである。時間に正確に現れる。ノートをこまめに取る。私に質問するだけでなく、英和辞書を使って再度確認をとる。これが私の連絡先をなくしてバックれた人かと思うほどである。聞けば自宅には留学生をホームステイさせていて、フランス語も話せるという。好奇心が旺盛なのである。
果敢に日本語の表現に挑んでみては時に失敗し、豪快に笑い飛ばす。かと思うとしきりに自分が日本語ができないことを恐縮する。「私の日本語は赤ちゃん程度だから、きっと欲求不満になると思うわ」というのだが、そんなことは何ともない。私はただ彼女のような人柄に知り合えただけで大収穫なのだ。

こういう女性を引き合わせてくれた親切な日本人の女性、さらに彼女を引き合わせてくれた巡り合わせというもの感謝するのみである。


1998年09月26日(土) Conversation Exchange(1)

「Conversation Exchange」という言葉をなんと訳したらいいのだろうか。「会話交換」ではあまりにそのまんまである。
この言葉を初めて知ったのは大学の語学センターのWebページだった。要は母国語を異にする人同士がペアを組んでお互いの母国語で交互に話すいうものだ。ケンブリッジは留学生が多いのでこうしたニーズが満たされやすい。たとえばドイツ語を勉強しているスペイン人とスペイン語を勉強しているドイツ人などの組み合わせである。前半の一時間はドイツ語だけで話し、後半の一時間はスペイン語だけで話したりする。お互いに勉強したいもの同士なのでもちろん報酬は無料、しかもネイティブの話す生の言葉に触れられるというメリットがある。

語学センターの説明によると、「Conversation Exchange」の鉄則は二つある。一つはどちらかの言語で話しているときは、決してそれ以外の言葉を使ってはならない。もし分からない単語がある場合はそれがどういうものであるかをその言語で相手に伝えなければならない。もう一つはそれそれの言葉で話す時間をきっちり半分ずつにすること。もしどちらかが多く話したり、ある時は片方の言語だけで次回はもう片方の言語、というようにすると、相手はなんとなく騙されたような気分になる。というものである。
この鉄則はきびしすぎる気もしたが、こんないいものがあるなら是非やりたい、と思った。

ケンブリッジには英語学校がピンからきりまでそれこそ佃煮にするほどあるのだが、授業料はやはり高い。しかも個別レッスンとなると相当の出費を覚悟しなくてはならない。早速語学センターのConversation Exchange担当者に電子メールを送って申し込んでみることにした。それが6月の初めだったろうか。とにかくケンブリッジに来てかなり早い頃に申し込んだのである。
ところが、返事がこない。全然こない。そうこうしているうちに学期が終わってしまうので、実際に語学センターに様子を見に行った。
語学センターはケンブリッジの学生が外国語を勉強するためのところのようで、英語学習のサポートはあまりしていないようである。センターの事務所自体はすでに休みに入っていたが、壁にはConversation Exchangeを求める紙が所狭しと貼ってある。これはずいぶんとポピュラーな手法のようである。ところが英語とのExchangeを求めているものが意外と少ない。日本人女性の張り紙もあったが、なんだか望みが薄そうである。とりあえず私も手元の紙で日本語と英語のExchangeを求める張り紙をしてきた。
これで誰かが連絡をくれればラッキーである。

日本でも街中で人が集まる場所には張り紙がしてあるものである。こちらでは雑貨店の片隅で郵便業務をしている小さな郵便局が多くあり、個人的な売り買いやお稽古事のお知らせなどはそういう郵便局の窓にぺたぺたと貼ってある。散歩の途中で郵便局の窓をのぞくと、英語のレッスンを希望する日本人の張り紙があった。謝礼は安い代わりに日本語を教える、とある。要は報酬付のConversation Exchangeである。しかしこの張り紙の古さから考えるとどうやら「日本語−英語」の道は険しいようだ。

ところで縁というものはどこに転がっているか分からないものである。
どこからも何の連絡がないままさらに数週間経ち、今の家に引っ越してほどなくの日曜日のことである。道に面した庭で花の苗を植えていると、家の前を通り過ぎる品のいいご婦人と目があった。思わずお互いに「こんにちは」といって会釈する。日本人だった。こういうタイミングは自分でも不思議なのだが、お互いそれと名乗らなくても日本人と分かる場合、無意識にお辞儀をしてしまうものである。お辞儀をし合ってから「日本の方ですか」などと確認しあうことがある。
その女性は我が家と同じ通りに面したほんのご近所さんだそうである。英国人のご主人とともに長らく日本に住んでいたのを、数年前にご主人の引退に伴って戻ってきたのだという。彼女自身も少し前まで日本語を教えていたという。引っ越して間もない私たちのために、ケンブリッジで行われる催し物などについて教えてくれる、と約束してくれた。

翌日彼女から「月に一回行われる日本人会が近いので、そのことをお知らせしようと思って」と電話を頂いた。なんと親切な方だろうか。色々教えていただいたついでに、実はConversation Exchangeの相手を探していると言うと、ちょうど元の教え子に話し相手を紹介してくれないかと頼まれていたのだ、という返事である。うーむ、言ってみるものである。それにしてもなんという幸運なのか。あの日あの時あの場所で庭いじりをしていなかったら、いくらご近所さんとは言え彼女に会うことは叶わなかったかもしれないのだ。
翌日外出から戻ると、映画やギャラリーのパンフレットと共に彼女の手紙がポストに入っていた。6月7月はケンブリッジ内のあちこちのアトリエが無料開放されるので、そのパンフレットである。そして手紙には、早速話し相手候補に連絡を取ってきたのでそのうちに電話が来るかもしれません、と書いてあった。話は急展開である。話というのは進むときは進むものなのだなぁ、と感心しながら、あとはそのポーラというその話し相手候補から連絡を待つだけとなった。

…しかし、連絡がないのである。(後半へ続く)


1998年09月24日(木) 学問の秋

学問の秋である。味覚の秋ともいうが、残念ながらあまり食指の動くものがここにはない。
長い夏休みが終わって、9月から新学期(Michaelmas Term)である。夏の間街を闊歩していた観光客や各地からの語学研修生は姿を消し、大学の新入生達が大きな荷物を持って次々とやってくる。
街には「Back to School」というキャッチフレーズと共に、学用品や図書が売られている。

ケンブリッジはまことに学ぶには便利なところで、地元のコミュニティカレッジ(Community College)を始め、様々な団体が主催する教室があり、訪問研究員やその家族のためにも語学教室などがある。いずれも格安なのだが、私がここに来たころはちょうど春の学期(Easter Term)の中盤で、行事や教室はほとんど終わっていて残念な思いをしていたのだ。
それなら夏の間は語学学校に通って英語力をつけて、今度の新学期からは現地の人に混じってここでの生活を楽しもうと決めていた。英語の進捗状況は予定より大幅に遅れているが、何を勉強するかは夏の間から虎視耽々と狙っていたので準備は万全である。

9月に入ると訪問研究員用の催し物が始まる。週一回大学会館で「訪問研究員の妻あるいはパートナーおよび家族のためのコーヒーモーニング」というのがあるので、できるだけこれに参加することにする。これはタダ。それから週一回の訪問研究員用の会話教室に通うことにする。
それから英語手話(British Sign Language)。ここ数年ずっと日本の手話を勉強していたので、この機会に是非英国の手話を勉強してみたいと思っていた。ここに来た当初から探していたのだが、7月ぐらいにやっと見つけてすぐ申し込んであったのだ。これはケンブリッジの聴覚障害者団体と「働く人のための教育機関」のようなものが協賛していて、大学内の古い音楽室でやるらしい。

それからコミュニティカレッジである。ケンブリッジには5つのコミュニティカレッジがあるが、その中で一番近いのは自転車で5分とかからない距離にある。ここでフランス語とヨガをとることにする。
ヨガは人気が高い。ヨガや瞑想、アロマテラピーはこちらではポピュラーなストレス解消法である。夏の間に別のコミュニティカレッジでヨガのサマーコースを取ったのだが、これがなかなか乙なものだった。当然説明は英語なので、はじめは聞き取りに精一杯で全然リラックスできなかったのだが、それも慣れてくればなんとなく分かるようになってきた。もう少しやってみたい。
フランス語に関しては英語の上達も捗々しくないので気分転換にフランス語でもとってみるか、というところである。大学の第二外国語はドイツ語だったので、フランス語は初めてである。社会人になってから一度「公文式フランス語」というのをやったことがあるが、数週間で挫折。しかし、なんとなくあの響きは憧れである。例のデルフィンとお互いにフランス語と日本語を教えあったりしたし、フランスに遊びにおいで、といってくれたので今回は大丈夫かもしれない。

というわけで9月のある日、コミュニティカレッジに申し込みに行った。その日は申し込みの初日なのだが、事務所に行くと早くも人が並んでいる。電話で申し込む人もいるようだ。うらやましい。私の場合何かと行き違いがあるのでてくてく出かけて行くしかない。受付の人は申し込み一人一人に丁寧に対応しているので時間がかかる。ケンブリッジに限ったことなのかもしれないが、イギリスの人たちは本当にやる気を起こさせるのがうまい気がする。申し込みを心から喜んでいるように見えるのである。
たとえば「ええと、フランス語に申し込みたいのですが…」というと、「フランス語!それはすばらしい!もちろん大丈夫ですとも!」といった答えが返ってくる。これが料理教室だろうと、体操教室だろうと、同じである。もし定員一杯だったりすれば本当に残念そうな返答をするのである。
訪問研究員用の会話教室の申し込みも同様で、にこやかに手続きをしてくれた上に「とてもよく訓練をつんだ先生が教えてくれるから、きっととてもためになると思うわ」と言い添えてくれる。
申し込んだだけで気持ちが明るくなってくる。前途洋々である。

学問の秋なのである。文化とゲージツの秋なのである。スポーツの秋である。

しかしこれに前からやっている週一回の「病院のピアノ弾き」と、英語と日本語の教えあいっこ(Conversation Exchange)を足すとなんだか忙しいのである。カルチャースクールやお稽古事で忙しい奥様のようである。ってまったくその通りなのだが。


1998年09月02日(水) 野次馬

再びロンドンに行った。
故ダイアナ妃の一周忌(とはいわないか)だったのである。去年のダイアナ妃の事故で英国中が大騒ぎだったのをテレビで見たので、今年はどうなるかとても興味があった。 命日にあたる8月31日はたまたまイングランドのバンクホリディ(bank holiday)で休みだったので、野次馬根性を発揮して出かけたのである。ちなみにバンクホリディのときは特に行事もなく、そっけなく休みになる。

ダイアナ妃の人気は未だ根強い。絵葉書の種類の多さは他のロイヤルファミリーの比ではないし、雑誌や新聞への露出度も高い。もはや醜聞の類は鳴りを潜めたようだ。7月のダイアナ妃の誕生日にあわせて生家のスペンサー家が建てたダイアナ記念館は、観光シーズンも相俟って連日にぎわっているそうだし、書店に行けばダイアナ本(と勝手に呼んでいるが)のコーナーがあって、写真集や生い立ちを綴った本などが平積みになっている。余談だが長男ウィリアム王子の写真集もよく売れているようである。母譲りの面差しをもった「将来王になる白皙の美少年」、母を失った悲運が余計に人々の関心を誘う。各地に追っかけのファンがいるらしい。

命日の前日にあたる日曜日、テレビは各局とも当然ダイアナ妃特集である。ニュースでもダイアナ妃の弟であるスペンサー伯のコメントが流されたり、一般視聴者から提供された秘蔵映像や、ダイアナ妃と恋人のドディ氏の晩年の日々を描いたドラマなどが放映された。ホームビデオで撮影されたものは、ダイアナ妃が各地の個人の家やお年寄りや体の不自由な人の施設を訪ねたときの映像が中心である。それについて関係者が登場して、どの人も目を輝かせてダイアナ妃のことを語る。そこに映し出されるダイアナ妃は生き生きとして、その訪問を心から楽しんでいるように見える。実に魅力的に動いている。
再現ドラマのほうは、高価な宝石をプレゼントされた彼女が「どんな高価な宝石よりも私が欲しいのは愛、あなたよ」などとクサイことをいうシーンもあるのだが、いたるところでパパラッチに追いかけまわされる日々の再現シーンは、本当に同情を禁じ得ない。

ロンドンへはバスで行くことにして、朝バスステーションに向かう。途中の百貨店で半旗が掲げられているのを見かける。ここは百貨店のくせに日曜日と月曜日が休みという不届きな店なのだが、バンクホリディの月曜日、営業せずに旗を掲げているのだろうか。
いつもならロンドン行きのバスはロンドンに入ってから渋滞で時間がかかるのだが、バンクホリディとあって車の流れは順調である。閑散とした街に半旗が掲げられている。国会議事堂を始め主要な建物も半旗になっている。バスはウエストミンスター寺院の前を通る。ここはダイアナ妃の葬儀が行われたところである。周囲の広場が悲嘆にくれる人々でいっぱいになったのだった。

まずはケンジントン宮殿に向かう。ここはダイアナ妃の住まいだったところである。
駅に降り立つと花束をもった人々が目につく。子連れの人も多い。ろくな地図を持たずにきたが、この分なら花束を持った人の流れについていけば自然と宮殿につくだろう。駅の花屋が盛大に店を広げている。きょうはかき入れ時だろう。赤いバラを一本ずつ包んだものや、結びつけやすいようにだろうか、茎の真ん中あたりにリボンがついているものもある。
ケンジントン宮殿に到着した。すごい人出である。混雑というほどではないが、宮殿の正門前は人だかりがしている。テレビ局の中継取材もきている。日本のテレビ局もいる。
門の鉄格子には一面に花束やぬいぐるみが差し込まれている。花束だけでなメッセージを書いたダイアナ妃の写真や、手作りのカードも共に置いてある。門に差しきれなかったものは、門の前に置かれ、さらにそのまま左右の柵に広がっている。メッセージカードはかなり大きなものもあり、刺繍のもの、手書きのもの、手縫いのもの、などさまざまに趣向を凝らしてある。
人々はそれをひとつひとつ読んだり写真をとったりしている。中には「ドディ氏と天国で幸せに」などと書いたものもあり、場所が場所だけにちょっとチャールズ皇太子が気の毒になる。

当局の手によるお知らせが柵に貼ってある。
「故ダイアナ皇太子妃の死を悼む皆様へ。花束や贈り物は2〜3日中に回収され、状態のよいものは病院やホスピス、お年寄りのもとへ、おもちゃの類は子どもの施設に届けられます。」
それを承知の上なのだろうか、紙に包んだままの花束が多い。数は去年ほどではないようだ。まだ午後の早い時間ということもあるが、もっと熱狂的な人々はダイアナ妃が葬られているスペンサー家のほうに行くのかもしれない。泣いている人も見当たらない。
美しい公園に囲まれたこの宮殿で、ダイアナ妃は何を考えて暮らしていたのだろうか、とふと考える。伝えられている通り、彼女が敵(enemy)と呼んだ人々の中で孤独に過ごしていたのなら、この広さと壮麗さは残酷である。

野次馬は次はハロッズに行く。ハロッズのオーナーはドディ氏の父なのだ。
ここも当然半旗になっている。テレビカメラが追っている先を見ると、歩道に列ができている。列に沿っていくと記帳所があった。ショーウィンドウの一つに祭壇をしつらえて、その前で花束を置いたり記帳をしたりするのである。祭壇はダイアナ妃とドディ氏の写真をならべて飾ってあって、花や金の白鳥などをあしらった巨大なウエディングケーキのようなものである。中に噴水が仕込んであって所々水が湧き出している。先週来たときはなかったが、入念な準備をしたことが窺がえる美しいものである。
祭壇は内側からも見られるようになっていて、ここにも花束やメッセージなどがたくさん置いてある。ここに弔問に来た人たちはダイアナ妃とドディ氏の前途を祝福した人たちなのだろう、二人の写真や二人に宛てたメッセージが目につく。中にはハロッズの絵葉書にメッセージを書いたものもある。
店の内部は相変わらずの賑わいで、特に悲しみを表すものはない。そういえば従業員達の胸に赤い花が挿してあったが、それが弔意を示すものなのかどうかはわからない。

ケンブリッジに帰るバスの出発時間まで中途半端に空いたので、ついでにバッキンガム宮殿の様子も見て帰ることにした。バッキンガム宮殿の旗は女王陛下が在城時のみ掲げることになっているそうなのだが、去年ダイアナ妃が亡くなったとき女王陛下は避暑で不在だったため当然半旗を掲げず、それが「王室は冷たい」と批判されたのを思い出したのである。
今年のバッキンガム宮殿は半旗になっていた。数は少ないが花束やメッセージも置いてある。しかしケンジントン宮殿といい、一時の熱病のような人々の悲嘆は収まったらしい。
ここに持ってきた人たちはどういう人たちなのだろう?
ケンジントン宮殿ならともかくバッキンガム宮殿である。女王陛下の御住まいである。
ダイアナ妃はたしかに皇太子妃の称号を許されていたが、離婚して婚家を出た人である。婚家を出た人が出た先で恋人と客死したからといって、お姑さんの家に弔問にこられても当惑するだろう。
将来ここに住むはずの「人々の女王(People's Queen)」だったからという理由は違う気がするし、ケンジントンまで行く時間がなかったというのも違う気がする。結構凝った作りのカードも多いからである。

半旗を数えながらロンドンの街を後にする。そういえば、ケンジントン宮殿が半旗になっていたか確かめてくるのを忘れた。


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