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1998年01月29日(木) そればかりは

生まれてからずっと親元で暮らしていて、式の直前まで働いていたこともあって、私は結婚するまでろくにお料理というものをしたことがありませんでした。
とはいえ、そこはさすがに女の子なので、気が向くとお菓子を焼いたり、母が料理をする脇で見ていたりということはあって、決して嫌いとは思っていなかったのですが、まあ、要は機会があまりなかったということです。
私の母はなんだかいつも忙しくしている人で、計ってる暇なんてないとでも言うように、お料理は全て目分量で作ります。
家にはお米を計る計量カップがひとつ。計量スプーンもなく、秤は滅多にお呼びがかからない、というありさまでした。さて本を見て作ろうにも計量するツールはお粗末で、他のもので代用するためにそれだけでずいぶん面倒くさいことになってしまったものでした。
だったら買ってもらえば、とお思いでしょうが、目分量がベテラン主婦の証、のようなところがあってなんとなく言い出せるものではありませんでした。

結婚して初めて自分の台所を持った時、迷わず計量カップの類を買い揃えました。憧れの3つ組の計量スプーン、500mlまで計れる耐熱ガラスの計量カップ、1グラム単位で表示されるデジタルの計量秤。保存容器やボウルに至るまで目盛がついています。

結婚して半年ほどはずっと家にいたので、この間に基本をマスターしようと、お料理の本を何冊も見比べてはきちんと材料を計って作りました。
案外お料理は性に合っていたようで、食事作りは苦にならず、ちゃんとだしをとったり野菜の面とりをして基本的なお料理本通りに作ってみたり、電子レンジを使えば早くできることは分っていても、あえてことこと煮込んでみたり、と、まあ期間限定だからできることですが、毎日が実験というか調理実習のようなものでした。
今は忙しいので、凝ったものは作らず、時間もかけていませんが、それでもお料理の本を見てその通りの分量を計ることは変わっていません。

ところで母から習ったお料理は数は多くないのですが、それでもこれは、という自信のあるものがあります。
そのひとつがコーンスープで、コーンポタージュという名前の方がポピュラーでしょうか、我が家では昔からコーンスープと呼んでいて、大きなお鍋一杯にホワイトソースからちゃんと作ってたっぷり飲むのが常でした。
さて、これの作り方ですが、これがまた 適当というか、目分量でしか作りようのない作り方です。

まず熱したお鍋にバターを 適当 に落して、融けたところに小麦粉を 適当 に入れて練る。牛乳を加えながらさらに練る。これまた 適当 な量になったところで、牛乳をドボドボといれて緩め、クリーム状のコーンの缶詰を一缶分入れる。空いた缶一杯分の水を加えて薄める。マギーブイヨンの素を2個剥いて入れる(これは絶対2個)。それから牛乳と水を味をみながら 適当に足して、 適当に塩胡椒して、タマネギのみじん切りを適当に加えて、 適当に煮込んでおしまい。

いくら私が計量フリークでも、そればかりは目分量と味見で作ることになります。さっき思い立って作ってみたのですが、あまりの適当 さに、作りながら思わず笑ってしまいました。
それでも味はしっかり母と同じ味に仕上ります。


1998年01月22日(木) その時彼らは

東京に住む友人からメールがきました。
先日の雪でいつもの路線が運休になってしまい、家に帰りつくのに何時間もかかってしまったという顛末が書かれていました。
その日、彼は夜7時に都内の会社を出て、平行して走る別の私鉄に乗り、いつまでたってもバスがこないので、仕方がないからまた途中駅まで引き返し、そこでしばらく待ったけれどらちがあかないので、結局ターミナル駅まで行ったもののその時点で夜中の1時。バスはとっくに終わっていて、 そこから歩いて家にたどり着いたのは午前2時だったというのです。
ニュースなどで知る限り、どこもそんなだったのかもしれません。テレビの画面には家に帰れず途方にくれる人々の姿や、駅員に喰ってかかって日本中に恥をさらしたサラリーマンなどの姿が映し出されていましたから。
「そりゃぁ大変でしたね。こっちの雪は…」などという通り一辺の返事のメールを出してから、お風呂でぼーっとそのことを考えていた時、もしかしたら違うかも知れないと思い当たりました。つまり、情報さえあればその友人はもっと早く帰れたのかも知れないということです。

友人は耳が聞こえません。だから駅や車内の案内放送の内容を知ることはできません。放送も聞こえず、皆が途方に暮れイライラしていた状況で、多分周りの乗客にも駅員にも尋ねることをせず、自分の知識だけを頼りに、あっちに行きこっちに行きしていたのではないかと思われます。
彼にはそれが当り前だからです。

マスメディアが映し出した首都圏の混乱は、深夜のカラオケボックスで夜を明かす人々、行き場がなくて苦笑いする人々、そしてさらに振袖にブーツを履いて成人式にでかける女のコ達の姿を映し出し、「新しい流行か?」などと時ならぬ珍事を面白がってさえいるようでした。
かくいう私もテレビで雪に転ぶ人を見ては笑い、雪に強い地方に住んでいる者として、あまりにも無防備な首都圏の人々に対して少しばかりの優越感さえ持ったのでした。

すっかり街の様子が変わってしまったあの雪の日。
街中で、入場制限で混雑する駅のホームや階段で、目の不自由な人はどんなに怖い思いで歩いたでしょうか。聞こえない人達は目で見る以上の情報も得られず、あきらめて自分の足で帰路を模索したのでしょうか。

東京の人達もやっと雪かきすることを覚え、殆ど雪は残っていないといいます。けれども、
歩道の点字ブロックの上に雪は積まれてやしないだろうか。
雪で車椅子が通れなくなってやしないだろうか。
足もとがおぼつかなくて外出できなくなっている、お年寄りや体の不自由な人達はいないのだろうか。

彼らにとって普段通りの道が使えなくなったことが死活問題となることは、マスメディアからは伝わってきません。

追記:確認したところ、冒頭の友人は駅員に筆談で質問はできたそうです。


1998年01月13日(火) 雪・ゆき・ユキ

先日所用があって東京方面に行ってきました。ええ、大雪が降った翌日です。
当初の予定では朝一番の飛行機で東京に行くことなっていました。前の晩から関東地方は大雪だと聞いていたので、心配はしていたのですが、当日6時に起きてテレビをつけて見ると案の定関東地方の交通はガタガタでした。
空の便も壊滅的で、午前中の便は40〜50本欠航ということで、小松発の一便も欠航です。天気はその頃にはすでに回復し始めていたので、これは羽田空港の問題というよりは飛行機のやり繰りがつかないためのようでした。つまり前の晩の小松着の最終便が欠航したのだと思われます。小松は自衛隊が基地を作るくらいですから雪の影響が少なく、羽田もその時間にはかなり除雪が進むはずでしょう。

朝一番で航空会社に電話して、二便に変更することができました。東京からの到着が遅れたため、小松発も15分程遅れたものの道中はスムーズで、結局は定刻通りに羽田着でした。ええ、文字通り「飛ばした」んでしょうね。

羽田行きのの空のルートは何通りかあるようですが、その日は小松から名古屋に向かい、浜松上空を経由して伊豆から木更津上空を回って羽田に入るというルートでした。
なんとかと煙は高いところが好き、といいますが、私は上から景色を眺めるのが好きで、飛行機ではできるだけ窓際の席をとります。
翼の上あたりの左側の席でしたが、雪が降ったためか空気が澄んでいて、飛行機の窓からふと横を見ると、日本アルプスの山々の向こうに一際高くて白い富士山の頭がのぞいています。こんなにも綺麗に富士山が見えたのは初めてです。
名古屋から左に旋回したあとは、今度は太平洋の向こうで雲の上にそびえる富士山がくっきりと見えます。
父に似て私も富士山には並々ならぬ愛着をもっていますが、雪のおかげで思わぬ至福の時をもったことでした。

飛行機はその後も順調に飛び続け、ちょうど富士山が真横に見えた時に伊豆半島通過、その後三浦半島を越え、木更津上空で再度旋回します。
飛行機の窓から見える地形はまさに地図通りで、機内誌の巻末の地図と首っ引きです。京浜工業地帯のコンビナートが煙を吐き、東京湾には細かく白い波頭がたっています。房総半島にはところどころゴルフ場があり、雪をのせた枯れたグリーンが見てとれます。対岸には横浜のランドマークタワー、横浜ベイブリッジが望めます。

羽田空港に入り周囲を見てみると、確かに雪がありました。
が、雪国歴3年の私の感覚からすると大したことないな、というのが正直なところで、たったこれだけの雪で交通がマヒし、大勢のケガ人が出たのか、といぶかしく思えます。
でも、考えてみればこちらは雪が降れば一日中除雪車が稼働しているし、道路には融雪装置がついてるし、車はとっくにスノータイヤにしてあるし、靴も滑べり止めつきだし、つまり、そういう対策があれば大したことがないけど、備えがないと悲惨なことになるってことですな。
カラ雪の北陸から来た我々のほうが、東京で雪に苦しんでいる人達より重装備で歩いているというのも不思議な情景でしたが、東京の人達は軽装でしたね。特に足回り。あれじゃぁ転びますよって人が多かったように思います。


一年おきぐらいに大雪で首都圏がマヒしたり、 怪我人が出てる気がするんですけどねぇ。まあそれだけのことのために、人も交通機関も大がかりな設備投資はできない、ということなのでしょう。だったら、いっそ大喪の礼の時のように全部休みにしちゃったらどうでしょうね。およそ700日にせいぜい1日か2日なのだから、休んでも大したことないと思うんですが。
…いや、気まぐれで言ってみただけですけど。

東京の雪はこちらに戻る時にも残っていました。
今度は羽田を発って、多摩川沿いに北上し、飯能、八が岳、松本上空を抜けて小松に向かうルート。これは天候がいい時しか通らないようですが、最短距離だと思います。今度は白山が見事に見えました。
小松上空の雲が厚かったのか、高度を下げるためにずいぶん沖まで旋回したようでしたが、日本海の向こうに厚い雲があり、その上にぐっと盛り上がった白山がそれはそれは雄壮な姿を見せてくれたのでした。


1998年01月02日(金) 1997年12月29日(月) 年の瀬に

今年も暮れようとしている。
といっても今日の次は明日であり、明日になればまたその日が「今日」という日になることそれ自体に変わりはないのだけれども、この時期になると一年の締めくくりとしてしんみりしたり、また新たな年に向けて決意したりを繰り返す。
さて今年はどんな一年であったか。
一番大きい出来事は、研究なるものに着手したこと。ホームページ作成、電子メールのやりとりなど電脳的生活の占める割合が大きくなったこと。他にも手話の活躍の場が広がったこと、カメラを始めたこと、ネパール行きが人生観を大きく変えそうな予感があること。数えあげればきりがない。

それにしても、なにより自分が驚くのはこの年齢になっても日々未知の経験と迷いの積み重ねであるということである。何をその年でそんなことを片腹痛い、と思われるかもしれないが、もっと若い時、例えば十代の頃は大人は迷いがないものだと思っていたのだ。
ある意味でこの命題は正しいのかもしれない。いまだ迷ってばかりいる自分は大人ではないのだろう。
人間三十代ともなれば経験豊富で迷いもなく日々しっかりと歩めるだろうと思っていた。と、同時にきっと未来への希望も減っていくのだろう、と思っていた。しかし今の私は日々新たなことに遭遇し、大いに迷い、いつになってももう少し大人になったら、と甘い夢を抱いている。

確かに十代、二十代の頃に比べて体は着実に年をとっている。記憶力も落ちているだろう。昔できたことができなくなっていることも多い。けれど、知恵がついたおかげで昔できなかったことができるようになっていたり、昔あきらめてしまったことをひょんなことからもう一度やる機会に恵まれることもある。何かを始めようとするとき、何かをやり直そうとするとき、いつだってそれが遅過ぎるということはないのだ。結局は自分のためにすることなのだから。
今年はこんな当たり前のことがやっとわかってきたように思う。

来年はどんな年にしよう。
いや「しよう」というのは不遜なのかも知れないけれど。
来年は、私の身に起こるさまざまなこと、いやなこともよいことも逃げも隠れもせず、かといってがむしゃらに立ち向かうこともせず、学ぶことをやめず、柔軟な心と感性をもって愉快に過ごしたいと思う。
そう、愉快に暮らす。これを来年の座右の銘としよう。

それでは皆様よいお年を。


1998年01月01日(木) 1997年12月22日(月) サンタがやってくる

巷はクリスマスです。
毎年サンタクロースがいるかいないかなんてことが深刻な悩みとなって新聞に載る時期でもあります。サンタクロースが存在しないなんてことは、私はもう四半世紀も前から知っているのに、いまだに分っていない人々がいるとは、驚きです。これも親の教育が行き届かないせいです。(違うって)
その点うちの両親は明快です。
母は子供だましのことを真剣にやる人ではありませんでしたので、大体プレゼントを枕もとにそっと置く、などということはせず、買って来たものを「はい、クリスマスプレゼント」といって私に手渡して終わり。
父は私の憶えている限りでは、一度だけイブにクリスマスケーキを買って来たことがありますが、その時に「今日は本当のクリスマスじゃない」といいます。困惑して「じゃあ、今日は何の日なの?」と聞くと、「今日はクリスマスの予行演習の日だ」といい、母も「そうよ、本当のクリスマスは明日よ」などと言います。本当のクリスマスじゃない日にクリスマスケーキを食べるだなんて、釈然としません。
そのくせ家には本物のモミの木の鉢があって、クリスマスの近くになると父がそれを家の中にいれて、みんなで飾り付けをしたものですから、あながちクリスマスを軽視していたとは思えません。

ところで、私の通っていた幼稚園はカトリックで、園長先生は外国人の神父様でした。ローマから派遣された人だそうですが、はて、本当は何人だったんでしょうね。ともかくカトリックの僧らしく、長い僧衣をまとったでっぷりと太った人でした。子供達はみんな園長先生が好きで、先生を囲んでは「えんちょうせんせい、なんで、おなかがおおきいの?」やら「あかちゃんがいるの?」やら答えようのない質問をあびせたものでした。
カトリックですからクリスマスの行事はきちんとあります。本当のクリスマスは既に冬休みに入ってますから、世間より早めに、しかも幼稚園のある時間帯である昼間の行事としてやるわけです。
朝お御堂でお祈りして、イエズス様生誕のお話を聞いて、歌を歌ってその後お教室でじっと待っていると、ガラっとドアがあいてサンタクロースが「メリークリスマス!」と入って来ました。先生も「サンタのおじさんがきましたよぉ!」などと雰囲気を盛り上げるわけですが、どうみても、園長先生です。たしかに西洋人だけあって髪の色といい、瞳の色といい、サンタそっくりなのですが、日頃見慣れたあの体型や声です。
袋に入ったお菓子を配ると出て行きましたが、あれはサンタじゃありません。だってサンタならドアから出入りするはずないもん、というのが幼い私の論拠だったんですけどね。本物のサンタはクリスマスの夜煙突から入って来ると信じていたので、あれは偽物とふんだわけです。

もらったお菓子をもって家に帰って「今日、幼稚園に園長先生のサンタさんが来たよ。」と母に報告しました(本当のサンタさんはクリスマスに煙突からくるんだもんねぇ、という含意)。
あとからわかったことですが、この発言で母は、幼い私がもはやサンタを信じていないことを確信したそうです。だから小細工はやめたとか。
なんてせっかちな…。うううぅ、信じていたのに。
といっても私にはかなり年長の兄がいましたから、バレるのは時間の問題だと思っていたのかも知れません。

さて、その後幼い私リトル・レイコナは、サンタクロースが来ない事をどう受け止めていたのでしょうか。

多分私は、まだサンタクロースはいる、と信じていました。
サンタが来ないのは、家に煙突がないからなんです。いくらなんでも世界中を一晩で回れるはずがないので、サンタが来るのは煙突のある家だけなんでしょう。近所にマントルピースの煙突のある家がありましたが、あそこには来るのかも知れない。でも、あそこに住んでるのはおじさんとおばさんだけだし、あそこには来ても仕方ないだろう、なんて思っていたわけです。

しばらくして、家の旧式の風呂釜が変わって換気用の小さな煙突がついた時、これでサンタがくるかも知れない、と私が喜んでいたことなど両親は知る由もないのでした。


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