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2004年03月30日(火) 掌編:霧で街灯の光が拡散している


霧で街灯の光が拡散している。車の列のテールランプが赤く滲んで路面に反射する。あの店の不自然な色のネオンだけがベールを貫いて輝く。舗道を歩く。幅のない舗道。「知らされた事実」を呑み込むための言葉がまだ見つからない。馴染みのない人々が流れてゆく。傘を差している人は稀だ。誰もが霧雨を顔に貼り付けて歩いている。誰もが無言だ。日暮れにはまだ早い。しかし、街は暗い。まだ濡れていない路面も次第に黒ずんでいく。まだ、探し続けている。無責任だからこそ、発することが許される言葉がある。だが、その言葉はたやすく失われ、損なわれるだろう。遠くで霧笛のような音が繰り返し響く。おそらく自動車盗難防止用の警報の誤作動だ。街は霧の中に沈黙している。その街で、中途半端な心を抱えて、苦行のように足を先に進める。

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2004年03月22日(月) 留学日記:連邦最高裁訪問



DCに、連邦最高裁見学のために行く。

連邦最高裁の建物に入ると、ケースブックの中で何度も見た名前が、ずらりと9人並んでいる。弁護士が次々と9人の裁判官の前に立たされ、矢継ぎ早に質問を浴びせかけられている。かなり意地悪な質問や、まるでロースクールの教授がするような「なぜ我々がこの問題を修正五条の問題ではないと言っているのは何故か、あなたはどう考えているのか」などの質問。ロースクールで用いられるソクラティックメソッドそのものだ。どのLawyerも、緊張しているようであるし、思いも寄らぬ方向から攻められ、十分な反論をするのは容易ではない。それでも何か主張しなければ負けである。

口頭弁論が終わった後、今回の訪問メンバーが別室に通され、しばらくするとスカリア判事が入ってくる。法廷での厳格な表情と変わって気のいいおじさんという印象である。彼は最高裁判事としては非常に若い部類に入る。日本なら考えられない若さである。誰かがチェイニーとの狩りの話をすると思ったが案の定質問が飛んだ。今週のNYtimesを見てくれというのが彼の答え。まあ当然か。

その後、WorldBankへ。Legal DepartmentのLawyerに話を聞く。正直退屈であった。特筆すべきことは何もない。

友人の友人に会ったりして食事を取る。アカデミックなバックグラウンドを持っている方との話はなかなか楽しかった。

まだDCは桜には早すぎるようだ。

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2004年03月19日(金) 留学日記:冬に逆戻り


昨夜はSecurities Regulationの教授と夕食をともにした。翌朝、予習のため早めに起床すると昨晩の雨が雪に変わっていた。



かなり寒い。冬に逆戻り。

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2004年03月18日(木) 留学日記:Clifford Brownとフィラデルフィア


19st. & Samson St.の夕暮れ

最近、友人に10曲ほど代表的なJazz Artistsの演奏を紹介した。そのうち一曲は、Clifford Brownの演奏で、若き日のSarah Vaughanが歌う"Lullaby of Birdland"。少々解説を付した。以下はその抜粋。

「Clifford Brownは若き天才トランペッターで、歌っているのは若かりし日のSarah Vaughan(サラ・ヴォーンと読みます。彼女はVelvetの声を持つといわれた僕の最も好きなJazz Vocalistです。)です。Cliffordは、若くして誰もから認められる天才的な音楽センスを持って登場し、有名なJazz Artistたちからも引っ張りだこだったのですが、26歳の若さでPennsylvania Turnpike(注)での自動車事故(道路から飛び出したらしい)で夭折しています。このとき、Bud Powellの従兄弟のRichie Powellも一緒に死んでいます。」

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現在はそうでもないが、フィラデルフィアは、かつてはJazzと縁の深い土地であった。フィラデルフィアとJazzとの関係を考えるうえでClifford Borwnは非常に重要であり、無視するわけにはいかない。ほんの少しではあるが、書いてみることにする。

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Clifford Brownは、1930年10月30日、フィラデルフィアからほど近い、デラウェア州ウィルミントンに生まれた。ハイスクール卒業後、最初の自動車事故に遭うまでの1年ほどフィラデルフィアで演奏活動をしていたが、このころ、ウィルミントンで演奏したDizzy Gillespyに見出された。18歳の時にすでにMiles DavisやFats Navarroとフィラデルフィアで演奏していたようである。

最初の自動車事故(注)により一年間の入院生活を余儀なくされたが、その後再びフィラデルフィアを中心に本格的にプロとしての活動を開始する。Memorial Album (Blue Note BST 81526)のLiner notesによれば、フィラデルフィアで、彼はKenny Dorham, Max Roach, J. J. Johnsonといったビッグネームたちと演奏をしていたとのことである。

その後、演奏旅行のため北欧からフランス入りし、フランスのアーティストたちとの演奏を残している。演奏旅行から帰った後、しばらくの間、活動の拠点はフィラデルフィアではなくNYになったようである。この期間に多くの録音を残している。そして、最初の自動車事故からわずか4年後に、あの悲劇が彼を襲い、もう新しい録音がされることは永遠になくなった。

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Clifford Brownは、責任感が強く、しかも温和で誰からも好かれる性格だったようである。誠実な演奏と絶妙のハーモニーをもったアドリブを聴くと、何となくそれが判るような気がしてくるから不思議だ。数多くのArtistが彼の夭折を心から悼み、様々なコメントを残している。彼へ捧げる曲も作られている。

ここに来てから、彼が、フィラデルフィアのどの店で彼が演奏したのか調べているが、まだ見つからない。おそらくもうその店は残っていないだろう。何しろ50年近く昔の話なのだ。

彼が、1956年6月27日に古巣のフィラデルフィアでの演奏を気の合う昔の仲間たちと終えた夜、雨の降るPennsylvania Turnpikeに消えて以降も、フィラデルフィアの街中ではトランペットの音色が絶えない。休日ともなると、どこからか時に哀調を帯びた、時に陽気な音が響いてくる。その決して上手ではない演奏を聴くたびに、私は彼のことを想うのだ。

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(注:彼はその短い生涯に二度も自動車事故に遭っている。)
(注:Pennsylvania Turnpikeは、フィラデルフィア郊外のハイウェイで、私も何度か通ったことがある。)






2004年03月14日(日) 留学日記:休暇は終わり。



短い休暇は終わり、明日からは再び厳しい授業の日々が始まる。厳しいとは言え、もちろん日本での仕事より厳しいことなどありえない。それを考えると、学びたいことを学べる現在の環境はなんと素晴らしいことか。

司法修習に入ったとき、これが最後の学生生活のようなものだと思った。が、幸いにももう一度チャンスがあった。今回は本当に最後の学生生活だ。あと2ヶ月、悔いが残らないように知識を吸収していこうと思う。

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2004年03月12日(金) 留学日記:コーヒーショップにて(2)


フィリーの朝

コーヒーショップで昔書いた小説を少し手直ししたりして、引き続きのんびり。この街にもだいぶ馴染みが深くなってきた。あと2ヶ月足らずで卒業してしまうことが残念に思えてくる。卒業式のキャップとガウンを予約した。

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2004年03月11日(木) 留学日記:いつものコーヒーショップで



Spring Breakは、たまっていた雑事を片付け、のんびり休養をとることにした。確定申告も代理人を通じて出し終えた。

よく近くのコーヒーショップに行く。開店当初から通っているせいか、何も言わなくても、いつものようにカプチーノを出してくれる。PCを持ち込んで、Flashの使い方を一歩一歩検証したり。

のんびりした休日。

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2004年03月06日(土) 留学日記:NYでKaraoke



過酷だったSecurities Regulationのmidterm examは無事終わり、短いSpring breakに入った。

金曜日に提出のassignment(これも難しかった)のため徹夜し、そのまま友人たちとNYへ。以前から約束していた「NYで朝までカラオケ」企画のためだ。NYでは何軒か朝までやっているカラオケボックスがあり、今回はそのうちのひとつ、Duetに行くことになった。

内装も日本のそれと同じで、入っているのは日本の通信カラオケで、置いてあるメニューも全部日本語である。店員も日本語ができる。今回のメンバーは日本人オンリーで、日本にいるような錯覚にとらわれる。

日本の法曹が私を含めて4名、官庁からの留学者が1名。法曹は、修習生のときによくカラオケに行くためか、歌好きが多い。みんな上手いしレパートリーも豊富だ。朝まで約9時間歌い続けたが、さすがに最後の1時間ほどは寝てしまった。朝になってコーヒーショップで時間を潰し、フィリーのチャイナタウン行きのバスに乗って帰途へ。

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