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2003年07月29日(火) 留学日記:アサインメント/履修登録



UPENN. Wharton School付近のキャンパス

住居や銀行口座など生活環境が十分整わないまま、プレタームの授業が始まった。最初からアサインメント(割り当てられる宿題)の量が多い。明日までに89ページものcaseを読んでいかなければならない。最近のUS Supreme Courtの、Copyrightの存続期間を延長した法律に関連したかの有名なELDRED v. ASHCROFTのケースだ。ソクラティック・メソッド(教授による質問と生徒による回答という対話形式で進む授業の方法)の授業なので、容赦なく当てられる。しっかり読み込んで意見を固めておく必要がある。

履修登録も明後日までに考えなければならない。Payment SystemというRubin教授の授業がある。内容は、私の関心領域のインターネット上の決済や証券の決済制度などであり、これを履修しないわけには行かない。ただ、問題は、一般向けのBulletinには載っていないことだ。存在するのは確からしいが、2L、3L(JDの二年目、三年目のことを指す)向けのハンドアウトだけに掲載されている。LLMに限らず、学生がよく利用するのは、ネット上の履修科目情報なので、このままだと、誰にも存在を知られないまま、私ともう一人、日銀から来られた方の2名のみが履修することにもなりかねない。そうなってしまったときの重圧を考えるとやや気が重い。

その他は1L科目のContractやCorporationsなどの民事系の科目、加えてIT系の科目(Cybercrime)を中心に登録する予定。Law & Literatureという科目もあるが、今回はさすがに趣味に走るのは見送る。

大変だろうが、楽しみである。






2003年07月27日(日) 掌編:僕の場合、その一つはウェンディーズだった。


言い古された言葉で恐縮だが、人は多かれ少なかれ、何らかの心的な傷に由来するこだわりを抱えて生きている。そして、他人から見るとそれは奇妙なものに見えることが多い。例えば、ある種のコンディショナーの匂いに街中で遭遇すると、急に暗い表情になる男が僕の友人にいる。特定の煙草の銘柄の煙に過剰に反応する友人もいる。その女性は、他の銘柄の煙草の煙は全く気にならない。これらの例はまだわかりやすい。ある種のドーナッツがどうしても食べられない者もいる。穴の開いていないドーナッツはどうしても駄目だという。ここまでくると、他人には、これらの物事の本質を理解できないことがしばしばある。その物語が本人の口から語られない限りは。しかし、語られる機会はそう多くはないし、それが語られたところで、完全に理解することなどそもそも可能なのだろうか。そもそも本人ですら、自分の抱えているものを正確に把握することなどできないのだから。

僕の場合、その一つはウェンディーズだった。そして、それを理解したのは、東海岸のある都市でクオーターパウンドのハンバーガーの一口目を食したその瞬間だった。

20年前、いやもう少し前のアメリカ西海岸の小都市で、ウェンディーズがどんなハンバーガーショップであったのか、僕は知らない。僕の持っている知識は、おそらく日本で普通の暮らしを平穏に営んでいる人々が、ウェンディーズに対して持っている知識とそう大差ないだろう。クラシカルなハンバーガ(と称するもの)を出すファストフードショップである。アメリカが発祥地だ。日本でもアメリカでもさほどメジャーではないが店舗数は多い。太っ腹にもケチャップは無料でついてくる。旨くもないが不味くもない。が、他のフランチャイズやチェーンのファストフードに比べれば、いくぶんましな部類である。三つ編みの女の子がトレードマークだ。店員のかぶっている帽子が気に食わない。それくらいである。

けれども、今から20年少し前のアメリカのある都市で、秋深まる週末の午後、ある小さな女の子が家族に連れられて、この名前のハンバーガーショップに来たことを僕は知っている。そして、その女の子は、日曜日になると、ここのハンバーガーを食べさせてもらえることを楽しみにしていて、店内に入るとポテトを油で揚げる香ばしい匂いに、心の高揚を覚えただろうことを僕は知っている。

さて、僕は今、この街で、高揚など覚えることなく淡々と空腹を満たすためだけにハンバーガーを食べている。ケチャップが手を汚しても、官僚的なペーパーナプキンで事務的に手を拭うだけだ。そこにどれほどの隔たりがあるのだろう?ハンバーガーに特権的な地位が与えられていたあの時代はどこへ消えたのか。彼らの栄光はもう戻ってこないのだろうか?

残念ながら、その女の子が、そういった喪失に対して、どんな感想を持つのか、僕はもはや知りようがない。過去への手がかりは、すでに失われて久しいのだから。

そして今、僕はアメリカの東海岸の中規模都市の同名のハンバーガーショップでクオーターパウンドのハンバーガーを、コカコーラ片手に食べ終えるところだ。街を歩く人々の表情は、週末ということもあってかリラックスしている。家族連れで来ている7歳くらいの黒人の女の子が、店員の頭の上のメニューを指差している。そんな週末の昼下がりに、記憶の底の、沈殿した深い部分にアクセスしてしまうのは、これからNYに向かい、旧知の友人に会うことになっていることと関係しているのかもしれない。

コーラが空になったので、立ち上がる。






2003年07月26日(土) 留学日記:SEPTAの地下鉄の駅を上り


SEPTAの地下鉄駅36th St.の階段を上り、Penn Bookstoreのある通りに出る。朝日が眩しい。雲の流れは速いが、この好天は今日一日くらいは持つだろう。

IDを見せて、Silverman Hallに入る。指定された教室を探していると、守衛の黒人女性に、LLM Studentか、と訊かれる。少々判りにくい場所だからと、親切に教えてくれる。銅像が置かれた立派な階段を上る。


Silverman Hall

学生が集まりだす。軽い朝食が用意されている。予想したよりアジア人が多い。学長(Dean)の挨拶。本学の歴史から話は始まる。Founderはベンジャミン・フランクリン。全米最古のロースクールの一つであること、独立宣言、合衆国憲法の起草に関わり建国の理念がここで生まれたこと、と続く。勿論、他の諸国よりも歴史は浅い国家ではあるけれども、と前置きして、Deanがその連綿と続く歴史を語ると、その延長上に彼が、そして我々が居るのだということが実感されてくる。

事務方のオリエンテーションが行われたのち、他の学生と歓談しながらランチを取る。ESLという英語のプログラムを取っている人々は既に仲がよく、それに混ぜてもらう。日本や台湾の法律事務所から来たという方や、日本の官庁から来た方などと話をしていると、間接的な知り合いが多く居ることに気づく。アカウントのアクティベーションなど、IT関連のところで、皆躓いているようだったが、そこは既に試練を終えているので、色々アドバイスができた。

さて、来週からはプレタームのクラスが始まる。既にアサインメントが30ページほど出されているので、週末にNYに行く折にでも読むことにしよう。






2003年07月25日(金) 留学日記:ロースクールまでの長い長い道のり(2)


さて、宿を決めたあとは、部屋探しとペンシルバニア大学への登録、学生証の発行、コンピュータアクセスのためのPINの発行などが待っている。

まずはその日に3件ほどアパートのマネジメントオフィスや不動産業者等を回り始めたが、結局あまりいい物件は見当たらず、翌日以降に持ち越しになってしまう。スイートルームを一人で占領するという贅沢な夜を過ごすが、あっという間に眠りに落ちる。

翌日、ロースクールのアドミニストレーション・オフィスで、様々な手続きを済ませる。ここでも、PIN番号が発行されなかったり、担当者がよくわかっていなかったりで、相談、交渉につぐ交渉を経て、別の建物を4往復くらいする羽目になる。そのあと、何はともあれ、インターネットアクセス確保する必要があるので、ITのヘルプデスクに行き、セットアップをする。


ロースクールのエントランス

丸一日かけて、これらを何とか終え、そのあとセンターシティに戻り、携帯電話を購入。しかし、アクティベートされるまでに最低24時間がかかるという説明であったのに、順調にはいかず、このあとさらに交渉をすることになる。一事が万事、こうである。アメリカでは、タフでなければ生きていけない。

さらに翌日はPNCというリージョナルバンクに銀行口座を開設し、不動産業者に良さそうなワンベッドを見せてもらう。家賃がかなり高いので、現在の居住者に連絡を密かにとって、聞いてみると、最初に提示された値段より50ドルほど安いだけだった。正直言って高いが、周辺の環境はこれ以上望めないほどで、また眺望も素晴らしい。不動産業者によれば、ここと同じ間取りは1年に1回か2回しか出物がない部屋で、ユーティリティも込みの値段だから、お得だ、といわれる。とりあえず、今の居住者と同じ値段で契約することを目標に、低めの値段を提示しオーナーと交渉してもらうことにする。

何はともあれ、プレタームの授業が始まるまでに、アパートとSocial Security Numberを除いては大分片付いた。数日の間で、ここまで漕ぎ着けることができたのは、本当に良かった。







2003年07月24日(木) 留学日記:ロースクールまでの長い長い道のり(1)


NYのPenn Stationからフィラデルフィア(長いので以下、「フィリー」という。)へ向かう電車で、フィリーが近くなるに連れ、北部フィリーの廃墟のような街が見えてきて、まずは戦慄する。本当にこんなところに住めるのだろうか。

到着してからは、まずホテル探し。30th street駅からタクシーに乗るも、トランクが開かない車に運悪く回されてしまう。この時点でかなり不穏ではあったのだが、頭の悪い運転手が、こちらの指定したホテルでない別の同名のホテルまで車を走らせてしまい、口論をする。すったもんだのあげく、なんとか指定の場所にたどり着く。

さて、ここまでは序の口。ここからが大変。大きなトランク2つを抱えながら、色々回るも、なぜかどこも満室との返事。事情を聞いてみると、ちょうど今日、一年でもっとも大きなコンベンションが開催されるということで、「市内はたぶんどこも空室はないよ」と気の毒そうにホテルの受付に言われる。(教訓:予約はちゃんとしておきましょう。)July 4th前後は混むと聞いていたが、これを聞いて愕然。

プリペイドカードを使って、めぼしいホテルに電話攻勢をかける。しかし、どこも案の定満室との返事。ようやく翌日からのB&Bを確保するも当日の宿が決まらず。一つだけ300ドルの部屋があるといわれたが、ただ寝るだけの部屋に300ドルというのも躊躇して、しばらくしてからかけなおすと、そこも満室になってしまった。この時点で、午後4時。このままだと、行き場をなくして初日にして野宿か?と悄然とする(教訓:野宿は危険です。絶対止めましょう)。

幸い、4時をまわったころになって、Fairmount Parkの方に、「スイートなら空いている」というホテルが見つかり、そこに落ち着く。やれやれ(続く)








2003年07月23日(水) パリ放蕩日記(最終回):訣別の意味


やや話が前後するが、パリ放蕩日記の最終回の補足として、少し長めの文章を書かせてもらうことにする。

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Parisを去る際、ソルボンヌの教授をしている大家から、アポリネールの詩の朗読のCDやテクストを餞別として頂いた。予期せぬ贈り物に驚きつつ、この間サイトに訳を載せたばかりのミラボー橋が入っていることにある種の感慨を覚える。代表作「アルコール」も勿論入っている。空港までのバス乗り場まで送ってもらう途中で、シャルルヴィルに行ったが、Manuscritには触れられなかったと話したところ、BN(国立図書館)にあるはずという話になった。BNは行ったのだが、残念ながら書庫に入れなかった、と言うと、次に来るときに、BNにリサーチャーとして入れるようレターを書いてくれるということになった。人の縁はつくづく不思議なものだ。

***

以前の日記で、前置きなしに不用意に「訣別」という言葉を使ってしまったために、多少誤解を与えかねない表現になってしまっていた。そこで、この場で補足説明をさせて頂くことにする。

大学に入った当初、フランス文学を研究し、文章もものするというのが生涯の目標だった時期があった。すなわちそれは、大学院に残り、フランスに留学して研究を重ねるという研究者への道である。もちろん、人には向き不向きがある。傷口を拡げないうちに撤退した判断は間違っていなかったとは思っている。

しかし、法律の実務家になることを志し、そして実際に実務家になった後も、その傷はなかなか癒えなかった。未練たらしく個人のサイトに色々書き続けて来たのは、これが原因の一つである。

今回の留学に際し、フランスに留学して帰国した同期たちに会う機会があった。Parisで生活している間も、ソルボンヌで学んでいる友人達に会う機会が何度かあった。彼らの研究テーマは多様であるが、その研究内容を簡単に聞いただけでも、いずれも魅力的であることが判るようなものばかりだった。

そのたびに、疼痛を伴う苦い後悔のような羨望を感じている自分が居た。フランスで一流と認識されているランバルディアン(ランボーの専門家)であるソルボンヌの教授に学んだ友人や先輩から、その教授の研究テーマや姿勢を聞いたりもした。ソルボンヌ大学の校舎で、これを聞いたとき、多少眩暈を覚えた。一歩間違えば、傷口が開きかねないものだった。

蓮実重彦(旧字体が出ないので申し訳ない)が、ある方面で有名な自作のフランス語の教科書「フランス語の余白に」の冒頭で、大学の学部卒業後に使用することもないフランス語への志向を潔く破棄することの重要性を(彼一流の皮肉を込めて、しかし真摯に)述べている。中途半端にこだわりを残すことは、ある局面においては非常に危険である、ということである。この態度は一面においていくばくかの真理を含んでいる。パリ滞在中、その種の危険に晒されていたためか、蓮実氏のこの文章が頻りに思い出された。

今回の留学のため推薦状を頂いた教授に、趣味としてランボーを追い続けているということを告げると、それはいい、と背中を押してくださったことを思い出す。研究者への道だけが研究の道じゃないからね、と。

別の道に未練を残すようなことがあってはならない。欠片も残してはならない。それが「訣別」という儀式めいた言葉を使わせるに至った理由である。シャルルヴィルへの旅行に、そのような色彩を纏わせることは、自分にとっては必然であったと思う。

***

今、ここ遠く離れたアメリカ建国の地で、振り返って考えてみる。実際のところ、訣別できるほど気持ちの整理がついたわけでもないのであるが、シャルルヴィル訪問は、一つの区切りにはなったと思っている。今後、振り返るたびに、戒めのための里程標くらいには役に立つであろう。そして、それで十分だ。

少々長くなってしまったが、フィラデルフィアの長い夜に、自分の心の整理のためにも、追補させていただいた。興味のない方にはこんな「痛い」文章を読んで気分が悪くなった方もおられると思う。予めお詫び申し上げておく。






2003年07月20日(日) アメリカ留学日記:SohoのBarで


無事飛行機はNYに到着し、JFKからバスでNYC入り。ツインタワーの見えないNYに来るのは、これが初めてである。それにしても、行き交う車がみな新車に近く、磨き上げられているのを見て、近年のアメリカは好景気だったのだということを思い知る。今は不景気といいつつも、黒塗りのリンカーンが何台も並行して走っているのを見ると、到底信じられない。

NYはPenn Stationのそばに宿を取る。その後、友人に連絡。Prince St.のイタリアンレストランでパスタを食べながら、友人達の近況などを語る。たまたまNJに居る別の友人が日本へ帰国するとのことで、来週会うことを約束する。

その後、SohoのBarへ。



PEEPという名前からして怪しいBarであるが、照明がそれ風なだけで、全く普通のBarである。10年前に来たときは、Sohoとは言え、こんな洒落たbarはなかったように思う。友人に言わせると、もう4年ほど前から、ここは芸術の中心ではなくなっているとのことだった。

ジャクソン・ポロックが専門の彼と語るうち、いつしか、アクションペインティングの手法の詳細や、シュールレアリストの文学における手法の試みと芸術におけるそれという話にも及ぶ。偶然の結果についても責任を取るという態度についての議論が酒の肴になった。

さて、これを書いている現在は、フィラデルフィアのKinko'sに居るのだが、その翌日から待ち受けている様々な苦難を、その時点では全く予見しているはずもなかった。(続く)







2003年07月19日(土) パリ放蕩日記:街を去る日


約一ヶ月のパリでの留学を切り上げて、まずはNY、そして、フィラデルフィアに向かう。8時間強の旅路だ。NYでは、現代美術を研究する学生時代の友人に会う予定。

ネットに繋ぐまで、時間が掛かるかもしれない。落ち着いたらフィラデルフィア留学日記として再開するので、しばしお待ちを。


深夜、モンテーニュ通りにて






2003年07月18日(金) パリ遊学日記:シャルルヴィル紀行



Portrait of Arthur Rimbaud

アルチュール・ランボーの故郷、シャルルヴィルからランスに向かう列車の中でこれを書いている。列車は、次第に速度を緩め、ルテル(Rethel)という聞いたことのない名の駅に到着しようとしている。

今回の旅は、130年前に詩人が見たかもしれない光景を訪ねるものだった。シャルルヴィル行は、わざわざパリに滞在することを決めた理由の一つでもある。学生時代に研究対象として選んだ詩人の故郷を訪ねるのは、端的にいえば、「訣別」するためだ。そして、今、シャルルヴィルから戻る途中の列車でこの文章を書いている。

***



シャルルヴィル=メジエール駅に降り立つ。降りてすぐ肌で感じるのは、現在のシャルルヴィルには、ごく控えめに言って、あまり活気がないということだ。奥まった地方の、小さな、寂れた街である。主要な産業は農業である。このようなベルギー国境の小さな街をわざわざ訪ねる観光客の目的は、彼の生きていた痕跡を見ることだけであると思って間違いない。アルデンヌの高原は古戦場であり、それはそれで観光スポットなのかもしれないが、もし、この19世紀末の早熟な詩人が生まれていなかったら、人々はシャンパーニュと大聖堂に惹かれてランス(Reims)まで足を運ぶことはあっても、さらにその先にある、シャルルヴィル=メジエールなどという聞きなれない地名の街にまで、往復で5時間も掛けて旅行するとは思えない。



***

鈍い鉄の擦れ合う音が響く。列車はルテルを出発し、ランスへと向かう。列車が揺れ始める。シャルルヴィルから遠ざかる。

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シャルルヴィルの話に戻る。まず、街の中心であるデュカル広場に面したツーリスト・インフォメーションで、ランボー所縁の地はどこか、と大まかに尋ねる。すると、10種類ものパンフレットを出してきて説明してくれる。ランボー記念館は、正午から午後2時までは閉まっているとのことだったので、まずは適当に街歩きをしてみることにする。デュカル広場から、しばらく歩いていくと、偶然彼の墓のある傍まで来たことが判ったので、最初に見ることにする。

街の雰囲気と同じく、墓地もまた寂れている。長年放置されている墓が目に付く。彼の墓は意外に簡素である。墓地には他に人影もないが、彼の墓には、深紅の薔薇の花束が手向けられている。花びらがまだ瑞々しいところを見ると、今朝方あたりに誰かが手向けたものに相違ない。



その後、ランボーが幼少の頃家族と暮らしたという川沿いの家を見る。現在も使われているのかどうかは不明であったが、ここから川や水車小屋などを見ていたのかと思うと、感慨深い。この川辺で幼い彼も兄弟や友人たちと戯れたのだろう。Aube(暁)という有名な詩がある。

「僕は夏の暁を抱いた。
宮殿の前では、まだ何も動いてはいなかった。水面は静まり返っている。影の一団は森の道を去っていない。生き生きとした暖かい草いきれの中を、僕は歩いた。すると、宝石達は眼を見はり、鳥達は音も立てずに飛び去った。」(抄録)

ともすれば素直すぎる、純粋すぎると評されることもある、彼にしては珍しい詩であるが、詩人が生活していたこのミューズ川の水車小屋の風景を見ると、このような自然の中で生活していたからこそ生まれた素朴な詩なのかもしれないと思えてくる。



ここまで書いたところでランスに到着する。ランスでは、1時間しか時間がない。大聖堂のシャガールのステンドグラスを見るのが目的だ。後ほど追記する。

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先ほどまで晴れていた空が掻き曇り、少量の雨が窓ガラスの表面に付着する。ランスから列車が出発した。これからGare de l'Estへ向けて1時間30分の旅だ。大聖堂では、ステンドグラスがどれも素晴らしかったが、やはりシャガールは一際輝いている。

ランスは、ベルギー国境に程近かったため、ドイツ軍による徹底的な爆撃にさらされた街である。それを復興し、再び、以前のような古い街を再現したそうである。ここでも、古さにこだわる西洋の考え方を垣間見ることができる。それでも、他の街に比較すれば、なお新しいように思えてしまう。それなりに風情のある街であるが、私がランスを訪れることは、僥倖に恵まれない限り、今後ないであろう。

***

再び、シャルルヴィルの話。

その後、デュカル広場で昼食。Salade Repasという野菜中心のPlatを注文する。食べ物が偏りがちなので、こういう食事はありがたい。コーヒーを飲みながら、しばし、彼の見た光景と広場の風景とを重ね合わせる。例えば、マルセイユのコンセプシオン病院で、脚を切断され、ベッドに横たわる彼の脳裏に去来した光景は、この広場の賑わいであったかもしれないのだ。



ランボー記念館は、彼の住んでいたミューズ川沿いの、向かい側の水車小屋を改造して作られたものだ。重い扉を開くと、すぐに受付がある。入って右には、ランボーに関する書籍が多数展示されており、これらは販売もされている。受付で入場料を払い、中に入ると、ランボーの姿を再現したようなポスターが貼られており、有名なファンタン・ラトゥールの筆になるランボーを含めたパリの文壇の面々を描いた絵画を大きく引き伸ばしたものがある。次の部屋には、ランボーの遺品やmanuscritがある。しかし複製も多く、ほとんどは資料的価値はない。たとえば、Correspondenceを含めた様々なバージョンの全集や、さらにはイヴ・ボヌフォワやピエール・プティフィスのランボー論などを参照すれば事足りてしまうようなものばかりである。彼の学校の成績表(成績は良いが、必ずしも最優秀ではない)などがあるので、興味本位であればよいかもしれない。唯一、手紙で原本と思われるものが展示されていたのが救いであった。



記念として、ボヌフォワのランボー論と、渡米後、手元で参照するためのヴェルレーヌの序文付き「イリュミナシオン」を購入する。

その後、近くの図書館に向かう。時間がなかったため、余り展示をじっくり見ることはできなかったが、ランバルディアン(ランボーの研究者・愛好者のことをこう呼ぶ)のrevueが売られていたので、一冊記念に買い求める。

その後、ランボーの生家を駆け足で見て回り、そのまま駅に駆け込む。何とかランス行きの列車の時刻に間に合った。記念館自体は期待はずれであったが、詩人の見たであろう光景を体感し、同じ風、同じ陽光を感じるということはできた。その「場所の記憶」を頼りに、彼の詩を読むことができるような、そんな微かな期待が生まれたことをもって満足する。

***

そろそろ、列車がパリ市内に入ったようだ。筆を止めることにする。






2003年07月13日(日) パリ遊学日記:お気に入りカフェで/革命記念日前夜


天気の良い三連休の中日。昼下がり、住んでいるところにほど近いCafé de l’Almaに行く。洗練された、感じの良いカフェなので、時折ここに足を運ぶ。今日は、PCを持ち込んで紀行文を書く。ピエール・エルメのチョコレートケーキが美しい。


Pierre HermeのChocolate Cake

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ランボーの生地であるCharleville(シャルルヴィル)に行く計画を立てている。情報が少ないので、調べものをしている。BNで購入したランボーの全集に載っている手紙を読む。ジョルジュ・イザンバール宛の手紙(1870年8月25日)で、彼はシャルルヴィルを口を極めて悪罵している。「あなたはもうシャルルヴィルに住んでいなくて幸せですね」「私の生まれ故郷(シャルルヴィル)は、田舎の小さな村々のなかでも極め付きのidioteです。」等。どんなところなのだろう。

***

ピエール・エルメのチョコレートケーキは美しいが、その美しさを保ちながら食べるのは難しい。ランボーが晩年の夏、マルセイユから妹イザベラに宛てた手紙を読みながら、そう思う(1890年7月20日)。彼は、その翌年の夏、脚の腫瘍のためマルセイユの病院で右脚を切断されている。



これから、quatorze juilletの前夜祭。のちほど追記。

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追記1:

その後、自転車で、高級住宅街であるパッシーを経由してミラボー橋方面へ。「ラスト・タンゴ・イン・パリ」で見たような記憶のあるビル=アケム橋の半ばまで行き、「白鳥の小道」と名づけられた中州を通過して、自由の女神像を間近に見る。

ミラボー橋について多くを語る必要はあるまい。



Sous le pont Mirabeau coule la Seine.(ミラボー橋の下、セーヌは流れ)
Et nos amours (そして私たちの愛も流れる)
Faut-il qu'il m'en souvienne (思い出さなければならないのか)
La joie venait toujours apres la peine(いつだって哀しみの後に歓びが来たことを)

意外に、この詩を訳すのは難しい。第1文で切れていると見るべきか(アポリネールは文を切らないから)。その場合、第2文と第3文がつながる結果、「私たちの愛を思い出さなければならないのか」になり、愛が過去の思い出になってしまうことへの悔恨に満ちた倒置表現とも読める。しかし、やはりつながりが悪い。また、第3文のfalloirの意味も多義的で訳しにくい。というわけで、いまの感情に任せた意訳。正確性はひとまず措く。つくづく堀口大学は偉大な翻案者である。

***

追記2:

前夜祭で人が集まるところは、エッフェル塔の周辺とバスティーユ広場である。花火が上がると聞いていたので、エッフェル塔がよく見える橋の上に陣取って見ることに決める。陽が落ちると、次々にサーチライトが点灯し、夜空に幾筋もの光線が交差する。



しかし、遠くのブーローニュの森方面から、花火のような光が見えるものの、こちらでは一向に花火が上がらない。痺れを切らして塔の下の公園に行くと、相当混雑している。あちこちで爆竹を鳴らしている若者たちがいる。スピーカーから聞き取りにくいアナウンスが流れ、それによると今日は花火はなしで明日10時30分からであるということのようだった。残念に思いながらも、自転車でシャイヨー宮の前まで行き、ぐるっと回って帰宅。

その後、軽くシャワーを浴びてくつろいでいると、友人から連絡、バスティーユ広場まで行くことになった。時間はすでに0時45分。帰りの足を考えると、自転車で行くしかない。真夜中のBoulevard St.Germainをかなりの速さで疾走する。夜風が爽快である。驚くことに、わずか20分足らずで到着する。

バスティーユ広場は革命勃発の地であり、そのモニュメントの塔が建てられている。午前1時を過ぎると流石に人は少なくなっている。それでも、裏通りから激しいドラムと手拍子の音がするので行ってみると、若者たちが集まって踊り狂っている現場に出くわす。



参加しようとするが、余りのハイテンションについていけず。年を感じる。帰りは、深夜の誰も居ないルーブル美術館の広場などを通る。静まった空気に照明の消えたガラスのピラミッドが馴染む。真夜中のパリを自転車で出歩く機会はなかなかない。

明日は、早くから革命記念日パレードがある。戦車がシャンゼリゼ大通りを通過するのを是非目撃せねばなるまい。






2003年07月11日(金) パリ遊学日記:シャルトル紀行


晴れたら大聖堂を見に行く。そう決めて目を覚ますと、これ以上望むべくもない快晴である。モンパルナスの駅に着くと、三連休の初日とあって、本日のTGVは全て満席であるとの掲示がされている。

シャルトルはTGVが停車しない駅なので、普通列車で行くことになる。レンヌに行ったときと同じ17番線で列車に乗り込むと、2等はほぼ満席である。補助席に腰を据える。

1時間10分ほどでシャルトルに到着。シャルトルの駅からはすぐに大聖堂の2つの尖塔が見える。照りつける陽光の中、駅から5分ほど歩き、ノートルダム大聖堂の正面に到着。外形だけ見てもその大きさ、荘厳さに圧倒される。大聖堂の正面は、ゴシック様式(向かって左)とロマネスク様式(向かって右)という二つの異なる様式の尖塔により構成されているが、アシンメトリであるにも関わらず、調和している。右の塔の方が古いので、本来は、右の尖塔と同じものが左にもあったはずである。しかし、今のほうがむしろ落ち着きがあるように思う。元の姿を再現せず、非対称で良いという結論を出した建築家に敬意を表する。



朝、昼と何も食べていなかったことに気づく。クレープリーに入り、シードルとクレープを食する。パンフレットを見ると、9世紀にビザンチン皇帝より禿頭王シャルルに贈られた聖母マリアの着衣という聖遺物があるとのことであるが、そんな貴重なものは、おそらく観光客には見せないだろう。パンフレットにあるIllier-Combrayという名に眼を引かれる。マルセル・プルーストの所縁の地が近いらしい。今回は時間がないのでパス。案の定、プティット・マドレーヌが名物とのことである。実に判りやすい。

食事を終え、大聖堂に入る。夏の陽ざしに灼かれていたためか、眼が順応するまで時間が掛かる。聖堂独特の空気の冷えを感じる。大聖堂の中央部まで進んで眼が慣れてくると、自分が文字通りステンドグラスに取り囲まれていることが判る。俗に「シャルトルの青」と呼ばれる157枚のステンドグラスである。青みの強いものほど、美しい。北のバラ窓を見ていると、突然聖歌隊の歌声が響く。何かの予行演習らしく、短い賛美歌が指揮者の指示により次々に歌われる。ただでさえ複層構造の合唱が、天井に反射して、さらに深みを増す。歌声によって、心なしか、聖堂内部の色彩が違って見える。


美しき絵ガラスの聖母

聖歌隊の歌声を聴きながら、ステンドグラスを見て回る。数ある中でも最も優れているのは、「美しき絵ガラスの聖母」であろう。そのほかにも、北の袖廊に最も近い青みの強いガラスが気に入った。これをじっくり鑑賞するため、北の大扉に近い椅子に腰掛ける。と、前触れもなく、背後の北大扉が修道士たちにより開かれ、眩しい光が取り込まれる。その光の向こう側から、盛装した子供たちに先導されて、老人に連れられたドレスをまとった女性が入ってくる。結婚式だ。



聖歌隊の歌声が一際高くなる。参列者が後に続き、中央の祭壇の前で軽く跪いて行く。聖職者の衣をまとった司祭が、やはり同じ衣を纏った二人の子供とともに登壇する。参列が終わると、説教が始まる。まるで歌うような説教だ。聞き耳を立てていると、「ここにおいて、二人は美しい家庭を、美しいフランスの家庭を築き・・・」とか普通のことを喋っている。

式の行われている内陣には、さすがに参列者以外は入れず、また、説教が相当長くなりそうなので、鐘楼に登ることにする。余り登っている者は多くないようだ。料金が6ユーロもかかるためかと思っていたら、実際に登ってみて、そうではないことが判った。螺旋階段が、人間一人しか通れないような狭さであることと、300段も急な階段を登らなければならないためだ。息を切らして途中で休んでいる人も多かった。聖歌隊の歌声が遠くなり、やがて聴こえなくなる。漸く鐘楼の上へ。絶景。鐘は今は機械で遠隔操作しているようだ。頂上は一周できるが、狭い上に手すりも老朽化している懸念があり、高所恐怖症の方にはお勧めできない。事実、下界を見てしまい動けなくなっている少年を見かけた。



再び300段の階段を下りる。遠のいていた賛美歌が徐々に近くなってくる。ステンドグラスの美しさをより堪能するために、聖ノートルダムの礼拝壇の椅子に腰掛け、心を落ち着かせるために祈る。私は無宗教なので、祈るというより、瞑想するという方が近い。



十数分もそうしていただろうか。ふと人の気配を感じて眼を開けると、隣で、件の新郎新婦が聖ノートルダムに祈っているではないか。参列者もここには来ていない。おそらく、式を抜け出して聖ノートルダムに祈りを捧げることが、予め決められていたのだろう。私のような部外者で、かつ無宗教者が、こんな場で近くに座っていることが憚られる。だが、遠慮しながらも、写真だけはしっかり撮影する。




結局、聖母マリアの着衣は立ち入り禁止の礼拝堂にあり、見れずじまい。エッセの家系樹というのが日本のガイドブックにあったが、全く跡形もない。

それでも、荘厳な雰囲気を十分堪能した。ノートルダム大聖堂の内部は、多数のステンドグラスの写真をのちほど整理してギャラリーに載せるので、是非ご覧あれ。

***

その後、市内見物。古い町並みを見て回る。少し離れたところに、陶磁器の破片で家を作ったというナイーブアートがあるということで、ピカシェットの家に行く。結構遠く、暑さも手伝ってうんざりする。道すがら、突然銃声のような乾いた音が響いて驚愕する。それも、極めて近い。立て続けに数発。火薬の匂いがする。やはり銃声だ。近所の人が数人、止めてあった車の方に向かって、何か大声を出している。撃たれてはかなわないので、足早にその場を離れる。

銃声を聞く前、その近くの歩道に、雀の死骸がいくつか転がっていた。それを見たときは、この近辺にはずいぶん雀採りの上手い猫がいるな、としか思わなかったのだが、今から考えると、車の中から空に向かって猟銃を発砲しているちょっと頭のおかしい人間がいるのだろう。

ようやく辿り着いたピカシェットの家は、期待はずれ。だが、いくら呼んでも管理人が出てこず、結局入場料を払わずじまいであったのでよしとしよう。

さすがに帰りは同じ道を通りたくないので、回り道をしてシャルトル墓地の中を歩く。広大な土地の中で、スプリンクラーで芝生に水が撒かれている。人は殆どおらず、静かである。小鳥の囀る声が聞こえてくる。こんなところを永眠の地に選ぶのはいいかもしれないと多少思った。

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古い街なみを歩く。小さな寺院があるので、覗いて回る。その後、再び大聖堂へ。夕べのミサが行われていたので、末席に参列する。無宗教者が居ていいものかと思いながら、寄付の要請にも応える。ミサの説教は歌うようである。合間に賛美歌が入る。聴衆の合唱も美しく、荘厳である。陽射しの向きが変わったのか、ステンドグラスも昼とは違って見える。


光の通り道

私としては、この小旅行は満足の行くものであった。もし、シャルトルに足を運ぶ機会があるなら、たっぷり時間を取っていかれたほうがより堪能できると思う。


二人に祝福あれ






2003年07月10日(木) パリ遊学日記:パリの街を自転車で疾走


夕刻、思い立ってモンマルトルまで自転車で行くことに決める。地図で見ると、7区のアパルトマンからはかなり遠く感じるうえ、モンマルトル界隈のあの坂を登ることを想像して躊躇するが、自転車で小道を隈なく回るという魅力に勝てなかった。

アルマ橋を渡ってモンテーニュ通りへ。シャンゼリゼのRond Pointで一度停車。Quatorze Juilletの準備か、通りの両方に国旗が吊るされている。



Av. Franklin D. Roosveltをそのまま北上し、BD. Hausmannを横切り、モンソー公園の手前のLisbonneという名前の通りに入る。地図によれば、ここまでで、約2.4kmくらい。わずか20分くらいでここまで来た。

その後、Rue. de St. Petersbourgに沿ってクリシー広場まで。ここまでくればPigalleまではあと少しである。Pigalleは昔と同じく、風俗系の店が無闇に多い。そして、Pigalleとモンマルトルは近接している。



計4.5kmくらいの道のりを45分くらいで来た事になる。街角ごとに撮影しながら来たことや、自転車に慣れていないこと、地図を見ながら来たことを考えると、移動するだけならさらに時間は短縮できる。

これで、実感が湧いた。今までmetroを使っていて、点と点で結ばれていたパリの街が、曲りなりに立体的に把握できた。やはりパリは狭い。

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パリで自転車に乗る方のために一言。自転車は、基本的に車と同じ交通規制に服さねばならず、車道を車と併走することになる。歩道を走ることは禁止されている。一方通行規制も同じであり、留意する必要がある。

自転車は慣れないと結構危険である。パリでは自転車を余り見ず、代わりにローラーブレードを履いた人が多いのは、そのためかとも思われる。(ローラーブレードはスピードが出る割に、歩道を走れるので楽である。)私の仏文時代のフランス人の講師も、自転車が趣味であったが、パリで車同士の交通事故に巻き込まれて命を落としている。

また、雨の日は別だが、道路わきは極めて埃っぽく、喉が渇くので水のペットボトルはあった方がよい。

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さて、モンマルトルだが、坂は急勾配であるものの、昔から坂のある街で自転車通学をしていたので、大して苦にならない。



有名な壁抜け男の銅像を見たり、ムーラン・ド・ラ・ギャレットを見たりしつつ、坂を順調に登っていく。小道に迷い込むのも楽しい。



サクレ・クール寺院は二度目である。が、自転車で登るのは無論初めての経験である。中に入ると、黒人の司祭が説教をしている最中である。かなりの数の人が着席し、その美声(柔らかく、それでいて透る声であった)を熱心に聴いている。礼拝壇に凭れ掛かるように祈る人や(あれを使っているのを初めて見た)、鍵を持っているところを見ると12使徒の一人、ペテロであると思しき像の足に触れつつ、祈りを捧げている年配の女性などを見る。ステンドグラスが夕陽に映えて美しい。寺院内部は撮影禁止であり、これらの様子をお見せできないのが残念である。

帰りは、モンソー公園で休憩し、モンマルトル墓地を一周し、その後凱旋門へ。Passyの方に向かい、シャイヨー宮を回り込んで、セーヌの川沿いにアパルトマンまで。

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これで自信がついたので、色々見て回るつもりである。明日は、休みを利用してシャルトルに行こうかと計画中。さすがに自転車では行かないが。






2003年07月09日(水) パリ留学日記:Bibliotheque Nationale


BN(フランス国立図書館)に行く。建築家ドミニク・ペローが設計した4つの棟は、それぞれ開いた本の形を表現している。ウッドデッキが延々と続く。ガラスで構成された壁面で取り囲まれた中庭は、まるで熱帯の森のように木々が配置されている。



ソルボンヌで学ぶ友人に案内してもらったのだが、彼は、論文を書くためにBNにこもっていることも多いという。

BNの書店で購入したBouquins版ランボー全集で確認したところ、先日のランボーの詩の引用が間違っていることに気づいた。

正確には、「地獄での一季」Deriere II言葉の錬金術の
"Elle est retrouvee!
Quoi? l'eternite.
C'est la mer melee
Au Soleil."
で、「また見つかったぞ! 何が? 永遠が。それは太陽と繋がった海だ。」となる。過去の記憶と現在生成を続ける物事とは、その正確性がどうであれ、等価であるというのが私の認識であるが、再現の正確性が問われる場合、不変のテクストとの整合性を確認しながら進まねばならないのは自明のことだ。あらためて自戒。

友人たちと、BN近くのセーヌ河畔でお茶。会話は弾む。話題にすることはいくらでもある。時折セーヌを下る貨物船の航跡に、bateauxが揺れる。



ちなみに、これは全くの偶然であるが、この河畔の道にはこんな名前が付いている。



帰途へ。フォーロム・デ・アルの裏にあるレンタル自転車の店で、変速機付きの自転車を一週間借りる。パリにこれだけ長く滞在する機会はもうないだろう。そう考えると、悔いのないよう、少しでも多くのパリを見ておきたい。今週末から月曜にかけては、Quatorze Juillet(7月14日の革命記念日)だ。










2003年07月06日(日) パリ留学日記:モン・サン・ミシェル紀行


この週末にMont St. Michel(モン・サン・ミシェル)とSt. Maloというブルターニュ地方の二大景勝地を訪れた。前者は、もう一度渡仏する機会があれば、必ずこの眼で見たいと願っていた場所である。

朝6:40のTGVで出発し、Renne(レンヌ)へ。交通の便はかなり悪い。レンヌからモン・サン・ミシェルへのバスが一日数本出ている。これを逃すと、夕方になってしまう。レンヌでは慌しく1時間程度で観光。思ったよりも寒いことに気づき、プルオーバーなどを購入。バスの道行きはフランスの田舎の光景が続く。が、朝早かったためか、寝てしまったので写真は残っていない。

その僧院都市の独特のシルエットが見えてきたのは、正午を30分ほど過ぎたころであった。現地は、今にも雨が降りそうな曇天。そのためか、その影の境界が必ずしも定かでなく、やや鈍い色に溶け込んでいる。


曇天の僧院都市

着いてからすぐ、対岸の夜景が見えるホテルにチェックインする。その後、放牧された羊の群れの中、河岸を僧院都市に向かってゆっくり徒歩で進む。羊たちは、堂々と舗装された道を横切る。自動車は、彼らが渡り終えるまで待たねばならない。徐々に強い横風が雲を追いやり、切れ間から陽光が差し始める。


羊の群れ

島の内部に足を踏み入れると、入り口付近は土産物やレストランでごった返している。まるで昔訪れたことのある江ノ島のようだ、と場の雰囲気に相応しくない感想を抱く。道幅の狭い、急峻な坂道が続く。


Mont St. Michel入り口付近

坂道を登り、La Merveille(驚異)とも称される僧院の内部に入る。さすがに荘厳である。そもそもこのAbbayeは、8世紀初頭に、サン・ミシェルの夢の啓示を受けた当時の司教がこの地にベネディクト派の修道院を建立したのが始まりとされている。サン・ミシェルとは大天使ミカエルのことと言った方が、通りが良いだろう。後世には、旧教徒が新教徒に対し自らの版図を拡大するためには、ミカエルに率いられた天使の軍団が必要であるという思想が生まれたという。また、英国との100年戦争では、この都市がそのまま城砦となり、英国軍の侵攻を防ぐことに成功したという。


La Merveille

細い石造りの小道と坂道が幾重にも重ねられ、注意しないと発見できない道も多い。全ての道を歩きとおすのはかなり骨が折れる。しかし、時間もあったことから、全ての道を制覇することに成功した。

夕食は、かつてレオナール・フジタを初めとする有名人が食したという麓のPoulardという店で取った。名物というオムレツやカンカルの牡蠣は美味であったが、サービスはきわめて悪い。

そして夕暮れ。午後10時を過ぎるまで粘って夕暮れの僧院都市を撮影する。この黄昏の光景を見たくて、ここまで足を運んだのである。一枚だけ写真を掲載しておく。「また見つかった。−何が。 永遠が。それは太陽と番った海。」というランボーの詩の有名な一節を思わせる、陽が海に落ちていく姿を是非スライドショーでご鑑賞あれ。


No Title

深夜12時頃、ライトアップされた都市を見ながら、部屋でシードルを飲む。
明日は要塞都市サン・マロに早いバスで行くことになる。

***

翌日、詩の一部の引用を訂正。






2003年07月04日(金) パリ留学日記:ロワール紀行(3)トゥールの夜/ブロワという街

ロワール紀行もこれが最後の章。

実際には先週末の2日間のことなのだが、書くべき内容が余りに多いため、この日付で書いていることをあらかじめお断りしておく。

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一日目の城館巡りは無事終わり、トゥールに宿をとる。夜になって、ガイドのお勧めのレストランを探すため、旧市街へ。Place Plumereau(プリュムロー広場)という旧市街で最も活気のある広場に行く。土曜の夜だけあって学生や観光客で大賑わいである。建物は15世紀のころからの古いものが多く、戦災で焼けた後もあえて古い状態に修復したらしい。日本では考えられないが、歴史のある建物に対するこだわりは並大抵のものではない。この国に限らず、ヨーロッパの国民性かも知れない。

目指すレストランがなかなか見つからず、聞いて回ってようやく発見する。トゥールは学生の街だ。我々の席のそばでは、10名ほどの看護学生がナースキャップをかぶって、仮装して飲んでいる。どうやら募金活動をしているらしく、派手に仮装した看護婦が2、3人でテーブルを回っている。これは、という若い男性に近寄って行って無理やり頬にキスをして募金させているところを目撃する。



別の男子学生のグループが居酒屋の二階でコンフェデ杯の3位決定戦を観戦しているようで、大声で看護学生たちに盛んに声を掛けている。大変に騒がしいが、ほほえましい光景ではある。



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翌日午前中は、シュノンソー城とアンボワーズ城。
シュノンソー城は代々女主人が住んでいたことで知られ、6人の奥方たちの城館と呼ばれている。アンリ2世の寵姫であったディアーヌ・ド・ポワチエとその正妻カトリーヌ・ド・メディシスがそれぞれ住んだ城としても名高い。



そのようなエピソードを知らなくとも、この城からは女性的な印象を受けるように思われる。水上に浮かぶ大回廊と城の前に展開する2つの庭園が、繊細で、かつ温和な印象をこの城に与えている。なお、その2つの庭園には、アンリ2世を巡る二人の奥方の名前がそれぞれ付されており、今も美しさを競い合っている。

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最後は、アンボワーズ城である。この古い城館は、フランス代々の王に愛された城として有名である。城の内部に入ると、古臭さを感じる。それは、イタリアの建築様式が取り入れられていないことに起因するのかもしれない。レオナルド・ダ・ヴィンチがこの城に招かれ、ここにある礼拝堂に葬られていることを知ると、なお感慨深いものがある。



内部は、大して見るべきものはない。よりこの城を楽しむためには、対岸から見ることだ。実際に夜にはライトアップされるそうで、その際も対岸からの眺めが最高とされているようだ。

なお、城の膝元にある角の喫茶店のアイスは結構いける。

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午後、Bloisに向かう。ここは、ガイドのバスの中から遠景を見て、一目で気に入ってしまった街である。「坂が多く、古い町並みがある静かな街」と聞いて、路地裏歩き趣味がうずいたのである。



Bloisは、かつて6代にわたりフランスの宮廷が置かれた街である。小さな街で、中心を歩いても3時間くらいで見るべきものは見れてしまう。しかし、坂の多い起伏のある街で、思いがけない形に道が曲がっていたり、思わぬ小道を発見したりと、趣のある場所だった。一葉の写真のみで伝えるのは難しいので、是非スライドショーで鑑賞あれ。

***

さて、これで長いロワールの旅は終わりである。最後にトゥールに戻り、そこで早めの夕食をとったのだが、そこでも心暖まる交流があった。満足してTGVでパリに向かい、さらに、コンフェデ杯の決勝戦を観戦するため、サンドニのスタジアムへ。Allez!との歓呼に支えられ、延長でHenriが見事なゴールを決めた。その後、"Henri, Henri!"の合唱とともに、自然発生的に、このコンフェデ杯の試合最中に心臓発作で倒れ帰らぬ人となった、対戦相手のカメルーンのFoeに対するコールが沸き起こり、スタジアムを包んだことも記しておく。密度の濃い2日間であった。

来週はモン・サン・ミシェル紀行の予定。






2003年07月03日(木) パリ留学日記:ロワール紀行(2)


最初にお知らせ。

Photo Gallerieを更新しました。ようやくまとまった時間がとれたので、整理して新たな画像をアップしました。日記とギャラリーとをあわせてお読みいただくのも一興と思います。

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ヴィランドリの隣の小さな街で買ったパイを食べながら車で移動。次に着いたのはAzay-le-Rideau(アゼ-ル-リド)。日本人には到底一度で覚えられない名前の城であるが、結論からいうと素晴らしかった。



この城館は川の中州に位置し、周囲はよく手入れされた芝生で覆われている。夜になるとライトアップをするようで、紹介用のビデオには、ライトに照らされた人の影や、鳥の影が城館の城壁に反映している幻想的な光景が映し出されていた。

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その後、一度トゥールに戻って、昼食。ここで、我々は、午後のコースの変更を交渉することになった。一泊することは決めたものの、翌日の午前中には、限られたコースしかないので、このまま午後のコースを取ると、翌朝の予定が宙に浮いてしまうのだ。午後にならないと判らないとのことで午後に再び待ち合わせ場所に行くと、「予約してあった数人が現れず、最小開催人数を満たさないので、ツアーが成立しない」と言われてしまった。しかし、ここでも我々は運が良かった。本当に最後の最後で、予約組が現れ、ツアーを組めることになったのだ。

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午後は、シュヴェルニー城とシャンボール城へ。

シュヴェルニーは、城館の形が端整で、俗に「TinTinのお城」と言われている。タンタンというのは、ご存知の方も多いと思うが、アニメの主人公の名前である。

ここは観光客受けしそうな「お城」であり、実際、かなりの人数が訪れているようであった。



シャンボール城は世界遺産に登録されていることもあって、最も世界的に知名度が高い城館である。規模も他の城館に比して大きく、ロワールを訪れる観光客はほぼ確実にここに立ち寄る。

見るべきものは、外見や塔の美しさもさることながら、二重螺旋の階段であろう。



結構ここで歩いて疲れてしまったが、それなりの価値はあった。

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夜はトゥールの旧市街の広場で食事。一体どこから来るのか、夜11時を過ぎても大賑わいである。

ここでの出来事はまた次回に。更新は明後日になると思います。








2003年07月02日(水) パリ留学日記:ロワール紀行(1)ヴィランドリ城


朝5:30に、デジタル時計のアラームで目が覚める。6:20のモンパルナス発のTGVの予定なのだが、前夜眠れなかったためもあり、シャワーを浴びても頭がすっきりしない。始発のメトロがなかなか出発せず、到着が遅れる。メトロのモンパルナスからTGVの乗り場まで、全力で疾走する。ぎりぎりにモンパルナスのVoie5に文字通り駆け込むが、目の前でTGVは出発してしまう。まるで映画のようなタイミングでの乗り過ごし。

TGVを改めて予約しなおし、トゥールへ。約一時間強で到着。トゥール駅のそばのインフォメーション前で、その日の午前中の観光ガイドを探すも、定員であると言われる。しかし、最後の最後で、一人キャンセルが出て、行けることになった。(後で判るが、この日の我々は本当に悪運が強かった。)

ガイドは英語はうまくないが、一応できる。フランス語で説明をしていたが、友人のために英語で説明して欲しいというと、ちゃんと説明してくれる。だが、その内容はフランス語の説明に比べて半分以下である。

ガイドの説明では、ロワールには220のシャトーがあり、その殆どは個人所有で、そのうち公開されているものはわずか15であるとのこと。公開すると改修などの際に公的な補助が得られるが、反面、様々な規制に服さねばならない。公的な補助はメインテナンス費用の6割しか出ないが、実際には業者が高く見積もりを出して、所有者にキックバックをするので、殆ど出費はないとの説明。実質的には詐欺なので、まずいのではないかと思うのだが、そんなものらしい。

そうこうしているうちに、最初の城館、ヴィランドリ城に到着。こじんまりとした城館で、一族で所有しているとのことである。まるで迷路のような庭園が見事。



庭園を見渡す犬の彫像がなぜか寂しげである。



その後、塔から見える隣の城下町?がどうしても気になって、時間が余りなかったのだが、走って見に行く。小さな街であるが、路地を歩くと、実にのどかで、私の路地裏歩き趣味にマッチする。



とりあえず、ヴィランドリ城はこの辺で。










2003年07月01日(火) パリ留学日記:Paris7区へ/ギャラリー設置


昨日は、授業の後、16区から7区へ引越し。

16区も居住する場所としては素晴らしかったが、周辺の買い物事情を考えると、7区のアンヴァリッド近くのこのアパルトマンに軍配があがる。内装も新しく、十分満足である。

大家のソルボンヌの教授に、早速お借りした本の中にあったRue de Buciのアパルトマンを見てきたと話すと、今度はヴェルレーヌのアルバムを貸してくれるという。こういう交流は本当にありがたい。

夕刻、大家のお勧めのPoujaurinというパン屋に早速行く。地元の人に有名で、いまや支店が各地にあるということである。行ってみると行列が店の外まではみ出ている。地元の人ばかりのようである。パン・オ・レザンや、セサミのパンなどを買い込む。牛乳やContrexをスーパーで買って、家で夕食。

パンは絶妙の歯ごたえがあり、美味である。明日は別のお勧めのチーズ屋に行ってみよう。


Rue de L'Universite

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Photo Gallerieを設置した。無料配布のCGIを原型をとどめないほどに改造していたため、予告から時間が掛かってしまった。top pageから入れるので、是非ご訪問を。

ロワールの写真は、余りに数が多いので、このcgiの設置がなければ到底不可能だった。ロワール紀行は、今日の夜にでも。







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