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2002年06月24日(月) 掌編小説:ドーナツショップ


ドーナツショップに立ち寄ったのは、確定申告のために税務署に行った、その帰りのことだった。あの砂糖のかかったドーナツが無性に食べたくなったのだ。午前中だったので、まだ店内の人影はまばらだ。昔は週に一度はドーナツを食べていたのに、このところしばらく食べていない。最後にドーナツを口にした記憶を辿るが、それが3年以上前のことであるとしか判らない。あれはいつだったろう。

―オールド・ファッションとフレンチ・クルーラーですね。

―え。あ、はい。それにアイスコーヒーも。

挙動が不審になっていた。何かを思い出せそうだったのだ。

トレイを水平に保つ努力をしながら、席まで運ぶ。褐色のドーナツを頬張ってアイスコーヒーで流し込む。フレンチクルーラーという名のドーナツを見つめていると、コーディングされた半透明の糖蜜が、微妙に割れていることに気付く。表面が固くなったため、割れてしまったのだ。柔軟な蜜であれば、決してこのような割れ方はしない。そのドーナツを半分に分割して皿の上に置くと、やや硬質な音がする。

近くの窓際の席で、向かい合わせに座っている若い男女が目に入った。女性は肩まで伸ばした髪をかき上げようともせずに、俯いている。机の上にある何かを読んでいるようにも見えた。しかし、それは間違っていた。それが判ったのは、トレイペーパーの上に広がった水の染みが見えたときだった。男は黙って窓の外を見ている。

ドーナツの味がしなくなった。口の中が急速に干上がり、乾燥したドーナツを飲み込むのが難しくなった。

―ごめん。

男が呟いた。

―謝らないで。

女の声も意外に冷静だった。小声だが、そこにはしっかりとした意思が感じられる。二人は立ちあがった。

―送っていくよ。

―大丈夫。

―そう。

二人はドーナツショップのドアを開けることなく店の外に出ていった。そして、そのまま姿が見えなくなった。勿論、二人が居たことを示す痕跡などなく、そこにはただただ陽光が差しているばかりだった。

思い出した。長い間、ドーナツショップに立ち寄らなかった理由を。そして、何故、好物だったドーナツを食べないまま3年も経ってしまったのかを。そしてその理由すら忘れていたことも。心理的抵抗もなくドーナツショップに入ることができたのだ。落しても決して壊れないプラスティック皿の上に残った半分のドーナツを見つめる。しばらく逡巡したのち、そのドーナツはそのままにしておくことにする。アイスコーヒーを飲み干して、立ちあがった。






2002年06月02日(日) 神楽坂小景


夕刻、長く伸びた自分の影を踏まなくて済むように、細い石畳の小道に入る。黒塀の道が続く。道は幾度か曲がり、幾度か階段を降りて、また細く続いている。二、三度曲がっているうちに、方角を見失う。この道はこれほど長かっただろうか。石畳の道はまだ先まで続いており、少々不安になる。おかっぱ頭の和服の少女とすれ違う。振りかえると、少女は角を曲がったのかもう見えない。履物の音だけが遠ざかる。今来た道のところどころにある料亭の盛り塩がやけに白く目に映る。ふと鼻先を煮物の匂いがかすめる。何処からか三味線らしき音が聞こえてくる。黒い猫があくびをしている。

はるか昔、見覚えたような光景が続く。知っている道に出た。確か、この先の道を曲がると、かつて漱石が「硝子戸の中」でも描いた待合の跡に抜けるはずである。その待合の名残を示す路地が目の前に現れるだろうと思った。苔のわずかに生えた石垣を曲がると、道が拓けた。

そこは、土の露出した巨大な空間だった。乾燥した土に汚れた、もとは白かったはずのビニールシートで囲われている。鉄パイプで組まれた足場が見える。工事現場であることを示す看板の中では、理想的な青空のもと、予定されているマンションが聳え立っていた。私は黙って踵を返し、今来た道を引き返すことにした。

再び音が聞こえてくる。三味線か、琴の音か私には判別がつかない。料亭の軒に、白い手拭いが何枚も干してある。観光客とおぼしき外国人男女の二人連れとすれ違う。この先は通行止めであるから引き返すべきと説得したい衝動に駆られるが、黙って俯いてやり過ごす。石畳は打ち水のためか所々湿っている。猫が何匹か、料亭の軒の上や屋根に集まって、こちらを見ていた。







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