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1997年10月31日(金) オムニバス形式の映画のような夢


またも間に合わせのように、月末に書く。最近の忙しさは今までに経験したことがないたぐいのものだ。(柳川博昭「司法修習ウオッチング」にはこんな事は書いてなかったぞ) 供述調書的文体。多義性排除的狡猾自己予防的文体。「多義性」「両義性」「間−テクスト性」「脱構築」 等々の蠱惑的なタームが、いまはただ、ひたすらになつかしい。

最近、オムニバス形式の映画のような夢を時々見る。同期の友人に話したら、奇異な目で見られるようになった。 自分が主人公で出演しない夢って、そんなに不自然? 結構客観的な、映画の観客という役回りの夢を多く見るのだけれど。






1997年10月15日(水) 公取委と証券監視委の見学


最近のように調書ばかり書いていると、文体が硬くなっていけない。

がちがちの文体も、ある程度ここで崩しておくように心がけている。いずれ本格的に文学という青二才が消滅してしまうような気がする。これではいかんのである。 それはそうと、明日から公取委と証券監視委の見学。公取委の最近の消極的な傾向を見ていると、「巨悪は眠らせない」ではなく、「小悪をとりあえず眠らせないでおこう」的発想があるのではないかと思えてくる。 こんな先入観は一度捨てて、公平な目でしっかり目を見開いてみてこようと思う。






1997年10月12日(日) ピエール・ド・マンディアルグ「大理石」他


久しぶりに文学のはなし。

ピエール・ド・マンディアルグの「大理石」と「城の中のイギリス人(原題はL'Angrais decrit dans le chateau ferme、アクサンは省略)」 を連休を利用して読む。堪能。「大理石」はなかなかにハードにフランス・アンチ・ロマン(反小説)していてほほえましい。(たぶん反論がごまんと帰ってきそうだが。) 一方、「イギリス人」の方は系譜としては本人も認めているように、レティフやサドの流れを汲んだもので、あるいは「O嬢の物語」やあるいは「眼球譚」を想わせる。ハンス・ベルメールに表紙を作ってもらおうと思った、と言う本人の弁も、これを読めば納得がいく。 見ようによってはかなり下品な作風である。人によっては、(特に女性は)、「イギリス人」は読めない人が多いように思う。しかし、残酷と高貴、醜怪と美、堕落と神聖とが紙一重であることを我々に教えてくれる。ジョルジュ・バタイユを好きな人ならば、「イギリス人」も好むのかも知れない。好きなバッハの「フーガの技法」を掛けながら、読書に耽っていると、休日もいくらあっても時間が足りない。

小説。相変わらず進まず。友人の日記を覗いてみたりする。

明日から再び修習の毎日。休日モードはおしまいだ。 僕の頭の中の「文学君」にはしばらく眠っててもらおう。






1997年10月02日(木) 検察修習のターニングポイント

検察修習も早いもので2ヶ月の折り返し地点を通過してしまった。

普通はもう2,3の事件について決済を受けている頃だが、 私の担当した事件はまだ一件も決裁を受けるところまでいっていない。 しかし、実際の取調修習を経てわかることは、検事ほど、生身の人間に損得勘定抜きで接することができる職業はないのであり、 同時に、人の人生を左右してしまうきわめて責任重大な職業であるという「実感」である。 あくまで実際の事件とは違うたとえを出すとすれば、たとえば別れ話のもつれから人を殴った被疑者を「反省しているし、更生のきっかけは十分にある。被害者に今後危害を加えるおそれはない」 と判断して起訴猶予にしたところ、すぐさま報復に行くということだって十分考えられるのだ。自信を持って判断するのがいかに困難なことか。今日も処分方針一つで悩む毎日である。






1997年10月01日(水) 書くことの愚直さ


この日記も開始してからはや半年である。

実務修習のあまりの忙しさにしばらく更新をさぼっていた。
だが、誰も見ていないかも知れないと思いつつも書き続けている。

本業の司法修習は、刺激的な体験が目白押しで、ともすれば、楽しさのあまり、私の本来の出発点である「書く」という行為をすら忘れてしまう。
実際、そのような誘惑を感じる一瞬もある。

この日記は、その危険な誘惑を断ち切り、「書く」ということのつらさと楽しさという原点に立ち戻るための接点となっているのだろうか。そうなればいいと願いつつ、今日も愚直に筆をとる。







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