昨日・今日・明日
壱カ月昨日明日


2007年02月10日(土) 我々はみな、休暇中の死者なのだ

日記の書き方、忘れました。しかし、書き方なんてどうでもいいのだ。
曜日の感覚がなくなって、時間があってないようなものになって、一日何をしていたか辿れなくなって、辿れても堂々巡りみたいで嫌になって、嬉しいことがあっても公開できないことばかりで、公開できないと思ってるのは自分だけなんじゃないの、と思ってみるとさらに嫌になって、とうとう、ひと月に一度、書けばいいほうになってしまった。『真実真正日記』みたい。

起きたらベランダで、取り込み忘れた洗濯物が雨にぬれていた。当然もう一度洗濯しなおすべきだろう、普通はたぶんそうするが、そのまま干して出てきてしまった。生活のこんなちいさなことでさえ、自分が何をどう考えているのかわからない。

『どうだろうきみ、ひどく怖い気がするんだけれど、わたしたちは、わたしたちを知らぬ多くのものによってつくられているのではないかしら。だからこそ、わたしたちはわたしたち自身を知らないのだ。もし、そういうものが無限にあるとしたら、いかなる思索も空しいね。』
と、2,3日前に読んだポール・ヴァレリー『ムッシュー・テスト』に書いてあった。これ以外にも、ハッとするようなことが、この小説にはたくさん書いてあった。薄っぺらな本だけれど、スルスルと読み過ごせないことがふんだんに。立ち止まって、検証したいことばかりだ。

それに、フェルナンド・ペソア『不安の書』だ。これを先週か10日くらい前、ジュンク堂を彷徨い歩いている時に見つけて、わたしはひさびさに興奮した。この時はこれと、トルストイの『イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ』を買ったんだった。この文庫は買ってすぐ読んだ。トルストイはクドイ、というのがわたしが持っているトルストイのイメージで、この後期中篇2編も、まあはっきり言ってクドクドしいけれども、文章全体に漲る力があってグイグイと引き込まれてしまった。特に『イワン・イリイチの死』が良い。

その他、1月に読んだ本。夏目漱石『彼岸過迄』(岩波文庫)、コンスタン『アドルフ』(岩波文庫)、多和田葉子『海に落とした名前』(新潮社)、町田康『真実真正日記』、金井美恵子『快適生活研究』(朝日新聞社)、ドストエフスキー『悪霊(上・下)』(新潮文庫)、その他1冊。

1月に映画館で観た映画。『サラバンド』と『はなればなれに』。

その他、美術館で絵をよく観た。京都で藤牧義夫『隅田川絵巻』を目にしたことは、収穫だった。人生最期の渾身の作。自分の命の限界を意識していた藤牧には、これを描いている時、明日という概念はあったのだろうか。一日一日が、最期の筆だと、最期の景色だと、覚悟していたのだろうか。それとも、そんな感傷にひたる余裕など、なかっただろうか。ただ描くことだけが、その時の全てだっただろうか。

2月3日の朝、旭屋に電話して、入荷したばかりで棚にも並んでいなかった『みすず』の1.2月合併号を取り置いてもらい、その日のうちに買いに行った。だいたいわかっていたけれど、やっぱりひとり足りなくて、ちょっとがっかり。あの名前だけは、どこでもすぐに探すことができる。膨大な背表紙の中でも、情報が馬鹿みたいに溢れてるパソコンの向こう側でも、世界中の文字がびっしり寄り集まった書物のページでも、あの名前には目が勝手に吸い寄せられるように、もうなっている。だから、ないことはすぐにわかった。

今日は、家でやりたいことがあったから、仕事が終わったら、すぐ帰ってきた。干しっぱなしの洗濯物を取り込んで、ちょっと迷って、洗濯機に放り込んだ。しなきゃいけないことだとわかっているのに、なんで迷ったりするんだろう。一事が万事、ずっとこの調子なのだ。


フクダ |MAIL

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