無責任賛歌
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2006年02月27日(月) |
「嫌韓」に狂わされた女/『幻想に生きる親子たち』(岸田秀) |
どうにも間が開いて申し訳ない限りであるが、福岡限定SNSである「VARRY」に参加して以来、こちらもほぼ毎日欠けなく日記を書いたりしているので、どんどん手が回らなくなりつつあるのである。ヘタに映画だの演劇だのマンガだののコミュニティを立ち上げたもんだから、管理人としては記事を更新しないわけにはいかない。参加者はちびちびいらっしゃりはするのだが、そんなに書き込みは多くない。結局、私個人のブログみたいになってしまっているので、「mixi」や「はてな」も合わせれば、実質、七つ八つ、日記を掛け持っているようなものである。しかもその日記、全部コンセプト変えて書いてるから、同じ出来事について書いていても意見が180度違うということにもなりかねない。全部の日記を参照している人にとっては(まあ、二、三人だけど)、どれが私の本音なんだ、ということになって混乱すると思う。 けどね、どれが一番のってことはなくてね、人間ってのは社会的な生き物だから、立場変えれば意見が変わることだってあるのよ。二枚舌じゃねえかと言われるかもしれないが、そりゃ私の中でも意見がぶつかり合ってなかなかアウフヘーベンしないって事態になっているのだ。 自業自得ではあるが、新しいもの、珍しいものには飛びつきたくなるのはもう私の習い性になってしまっているので、今更どれかをやめる気にはなれないのである。あ、でも「サイワールド」は結局使い方がよくわかんなかったから、時期見て脱会します(苦笑)。 しかし、他の日記は全部「ですます」調で書いてんだけど、こっちはやっぱ書いててホッとするね。他人の思惑を気にしないで、好き勝手書けるから。mixiの方で友達をちょっとつついたら、手加減したにもかかわらずかなりへこんじゃったみたいで、全く気を使うことこの上ない。あっちじゃとても自由にモノは書けないのである(こういうこと書くとまた友達から「邪魔なら出てくよ」とか言われそうだが、そんな被害妄想なことを言うから書けなくなるんだってば)。 こちらの「無責任」日記の方では「仏に逢うても仏を殺し、父母に逢うてもこれを殺す」覚悟で書いているのだが、「mixi」じゃ招いて頂いた人が何人もいるわけで、そういう人の手前、喧嘩をすることが本意ではないのである。 今日は風邪で一日、仕事を休んでいるので、かえって少しだけ日記が書けた。明日はどうなるか分からない(苦笑)。
ネットチェックで別にバトルを探し回っているわけではないのだが、映画評論家の町山智浩さんの『ベイエリア在住町山智浩アメリカ日記』の2月25日の項で、映画『ホテル・ルワンダ』に関して、一般の人がブログに書いた感想を巡って、若干の応酬があったのを見つけた。 正直、最近はあまりに馬鹿が多すぎて、この手の歴史認識に関する感想を書くのは鬱陶しくなってきてはいるのだが、そのブログ主さんの意見というのが、まあ何と言うか、ちょっと「ここまで馬鹿が堂々と物を言えるようになったのか」と情けなくなるような内容だったのである。 きっかけは『ホテル・ルワンダ』のパンフレットで、町山さんが「日本でも関東大震災の朝鮮人虐殺からまだ百年経っていないのだ」と書いたことに、そのプログ主さんが「なんで、こんな文章が『ホテル・ルワンダ』のパンフレットに出てこなければならないの?」と疑問を呈していたことが始まりになっている。 私は最初、これはてっきり、迫害や差別・虐殺の問題に関しては、国や文化によって複雑な状況の違いがあり、かなりデリケートな問題を含んでいるから、たとえ似たような事件であっても、安易に引用すべきではない、と言いたいのかと思ったのだ。 ところが、次に続いた文章がもう、「何だかなあ」だったのである。
> まず、私は関東大震災時に朝鮮人虐殺があったかどうか、知りません。生まれてないから。 > で、私は地方出身なので、例えば身内のさらにおばあさんが被災したとかそういうのもないわけですが、そういうことがあったという説が流布しているのは聞いたことがあります。 > なんでも「朝鮮人が井戸に毒を入れている」という「デマ」が流布して、それを真に受けた民衆が朝鮮人を襲撃した、と。 > しかし、何人の朝鮮人が命を落としたのか知りませんし、第一、大震災で逃げるのに必死な人がそんなことしている暇があるのか・・・。 > それに、今の在日の人って、彼らの主張によれば「強制連行(等)」でつれてこられたんでしょ? > だったら、関東大震災なんて、強制連行より全然前じゃん。そんな時に、なぜ、朝鮮人が「虐殺」されるほどもいるのさ。おかしくない?
「知らない」なら書くなぁ! もう歴史的知識が小学生以下であるにもかかわらず、殆ど根拠のない憶測で、「そんなことってホントにあったの?」と疑問符をつけるいい加減さも問題だが、それを堂々とこうしてあたかも立派な意見であるかのように披露できる無神経さがどうにもひどすぎる。無知そのものは罪ではないが、無知を恥だと思わないのは罪だよ、やっぱり。 こんなバカ意見であっても、わざわざリンクを貼られちゃったので(注・リンクを貼ったのはこのブログ主さんが先である)、仕方なく町山さんは反論している。
> まあ、それはいいとして、面倒くさいですが、わざわざこっちにリンクまでして挑発しているので、答えてみます。 > まず、この人が書いていることを箇条書きにしてみます。 > ①関東大震災時の朝鮮人虐殺は、「説」であって事実ではないらしい。 (中略) > この人、ちゃんと国民の義務である中等教育を受けたのでしょうか? > ①は、どうも南京大虐殺と勘違いしてるようですが、関東大震災の虐殺に関しては、それを否定する見解など存在しません。これは当時の日本政府と警察が止めようとした事件だからです。 > 当時の日本政府や軍や警察は虐殺を必死で止めようとして、朝鮮人を救出して保護し、また虐殺をした日本人を逮捕しました。 > 刑事事件なので、ちゃんと警察に事実として記録が残っています(日本人や中国人も間違われて殺されています)。 > 被害者も加害者もかなり特定されていて、戦前の日本政府は被害者やその遺族に謝罪し、補償しています。
これが「常識」である。 「常識」とは時代によって揺らぐものだと仰る方もおられようから、「基礎事実」と言い換えた方がいいだろう。資料はいくらでも残っているし、刊行されている出版物や、テレビ放送で紹介された当時の資料も多々ある。これは「戦前の朝鮮人は差別されてなどいなかった」と称する昨今の「行きすぎた嫌韓者」(私は、北朝鮮・韓国には多々問題ありだと思うが、日本を全て正当化したがる馬鹿にも組する気はない)にとっては都合の悪い事実だろう。 で、このブログ主さんはやはり昨今の「嫌韓」ブームに過剰に影響を受けたものか、さらにこんなことを書いているのである。
> どこかにリンク貼られたのか知らないけど、こんな掃き溜めのようなブログを見ていただいて・・・感謝?すべきなのかな?
まず、さっきも書いたが、「先にリンクを貼った」のは、こいつである。この時点で既に自分の不手際については棚上げである。
> 「関東大震災で朝鮮人虐殺がありました」はい、じゃ、それが記された公的な文書の原本を直接、見た人はいるのかな?
こいつにかかったら、「原本」を「直接」見たものじゃなきゃ、事実確認はできないということになるのだな。じゃあ私がテレビで見たことのある映像や、本に添付されていた写真なんかは全て加工されたり捏造された可能性があるから、信用してはならないということになるのだな。 じゃあ、この人は多分、織田信長や徳川家康に会ったこともなければ、資料を読んだこともないだろうから、きっとその実在は疑わしい、ということになってしまうのであろう。こいつが底なしの馬鹿であるというのはこの点である。「実証主義」を極端かつ我田引水的に援用し過ぎているのだ。 北朝鮮の拉致事件だって、50年経てば、「そのころ生まれてない」人間にとっては「そんなことがあったのは嘘だ」と言い張れるリクツで、こういうのを「バカ理論」と言うのである。
> 「そういうことがあったと本で読んだ」という人、その本の著者がどうやって事実確認をしたのか、そしてその確認方法が正しかったのか、検証したのかな? > 「虐殺を見た人の証言を聞いた」というなら、その証人が本当のことを話しているとどうやって確認とったのかな? > もし、あなたが何らかの公的な書類をその目で見たことがあるなら。調査が適切に行われたのか、文書が捏造されてないか、検証しましたか? > どんな情報でも、自分が信じるだけならまだしも、他人にその情報を押し付けるのなら、その精度には責任を持つべきではないのかしら。 > あなたが信じているその情報、本当に正しいの? > そもそもなぜ「殺害」ではなく「虐殺」という表記なの?この表記がされている時点で、どちらか一方のバイアスがかかってると感じないのかな?
論理のすり替えとはこのことで、ある事実に対して、それを「疑わしい」と主張するのなら、「その精度には責任を持つべき」なのは、疑念を呈した本人、つまりこのブログ主さんの方なのである。秦郁彦さんなんか、従軍慰安婦がホントに強制連行されたのかどうか、「自分が疑念を持ったから」、現地調査行ってるぞ? このブログ主さんはここでも開き直って「そんな面倒くさいことはしない」と嘯いて恬然としている。ほかにも興味のあること、勉強したいことがあるからと言い訳をするが、こんな態度の人間にマトモな勉強などできるはずもない。こういう「口先だけ野郎(女だけど)」が「嫌韓」連中には多すぎるのである(もちろん、もともと「親韓」も馬鹿ばかりだが、最近は「嫌韓」の馬鹿っぷりも目立ってきた)。 町山さんが「関東大震災時の朝鮮人虐殺は、『説』であって事実ではないらしい」と突っ込むと、「『朝鮮人虐殺がなかった』とは言ってないです」なんて言いやがる。 言ってるだろうが、嘘つくなああああ! 疑ってかかるってことは「なかった可能性を主張する」ってことだろうがよおおおお! てめえ、「説」って言ってるのはどういう意味なんだよおおおお! 「説」ってのは、「一つの説であって事実とは断定しがたい」って意味なんだよおおおおお! ……ダメだ。こいつは日本語自体が不自由だ。自分が嘘を付いてるって認識自体が持てない既知外さんだ。 で、この既知外、さらにいろいろ言い訳をした挙句、コメント欄が荒らされたことについて、こんなふうにこきゃあがった。
> どこかの誰かさんのブログと違って、自分の商売の宣伝なんぞしとりませんし、都合の悪いコメント、イヤなコメントがついたら削除なんてしませんし、アク禁もしておりません。あげくの果てにコメント欄封鎖なんてことはやりません。 > コメントの内容みると、本来は、ここに人を誘導している誰かさんのブログにコメント欄があれば、そこで意見交換されているはずの内容もかなり含まれているように思います。まぁ、ここのコメント欄、自由に使ってください。
なんつーか、往生際が悪いって言うかよ、低レベルな皮肉を述べて、自分の無知についてはそっぽを向いたままケツまくって逃げ出しやがったんだな。 自分から喧嘩吹っかけといて、旗色が悪くなると捨て台詞を口にすることを「負け犬の遠吠え」と称するが、何かその典型的な麗を見せられちゃったって感じだね。でもこいつ馬鹿だから、これで自分は勝った気になってるんだよ、絶対。
思うに、町山さんもたとえどんなに腹が立ったとしても、こういう馬鹿は相手にしないで、無視しておきゃよかったよなと思うのである。 どんなに意を尽くして説明したところで、人は結局、自分の思いたいようにしか物事を受け取らない。「言葉は感情的で、残酷で、ときに無力だ」というのは確かに事実なのである。安易に「それでも私たちは信じている、言葉のチカラを」なんて軽々しく言っちゃいけない(笑)。言葉に力がないからこそ、それをあえて送り出す者の心の、受け取る者の心の「恐ろしさ」を、我々はそれぞれの立場で覚悟しなければならないのである。 実際、この私の文章だって、マトモに理解してくれる人がいるなんてそんなおこがましいことは考えちゃいない。人間は「誤解しかしない」動物なのだ。同時に私も、誰かの気持ちが理解できたことがあるなどと、おこがましいことを言う気はサラサラない。我々は常にお互いに相手のことが「理解できた気になっている」だけである。
『ホテル・ルワンダ』は前売券を買っているので、近日中に見に行くつもりである。件のブログ主のような馬鹿意見よりはマシな見方ができるんじゃないかとは思っている。
『幻想に生きる親子たち』(岸田秀/文春文庫)。 吉本隆明の『共同幻想論』は、我々よりちょっと上の世代くらいまでは必読書だった。私の学生のころにも文庫で改版が出たりしていて、友人もたいていは読んでいた。でもって、読んでた学生の大半がこれに「かぶれ」てしまったのは、世の中のコトワリをこの「共同幻想」という言葉が実に適切に言い表していたからである。目から鱗、と言うよりは、うすうす感じていたことを明確に言葉にしてくれた嬉しさ、「共感」を感じたと言う方が近いだろう。 岸田さんの唱える「唯幻論」は、この「共同幻想」をさらに分かりやすく、しかもその根拠を「人間の本能が壊れているからだ」と説明してくれたことで、なんかもう、「ああ、世の中のことを理解するのにこれ以上の説明はもう要らないや」と思わせてくれた。今風に言えば、悩める青年たちへの「癒し効果」があったのだと言ってもいいかもしれない。何しろこの「唯幻論」を使えば、この世の謎をたいてい「理解」できてしまうのである。 親子関係の崩壊、あるいは学級崩壊の原因は、「何のために子を育てるのか」「何のために教育が必要なのか」という価値観の喪失、即ち、共同幻想を持ち得なくなっていることが原因である、という指摘が、「ああ、なるほどそうだよなあ」と、「理解」できてしまうのである。厄介なのはこれからで、その「真実」が理解できてしまうのと同時に、この問題を解決する方法もない、ということも「理解」できてしまうことである。 大家族制が社会を構成する単位として機能していた時には、親が子を育てるのは必然であって、理由を考える必要はなかった。けれども、現代、価値観を共有できない親は子供に自分のエゴイズムを押し付ける形でしか子育てができなくなっていると岸田さんは説く。それができなければ子は邪魔なだけだから、放任するか適当に育てるか殺すしかない。子を虐待する親と放任する親との間に、実はたいした差はないのだ、ということになる。 「私たち親子の間にはちゃんと愛情で結ばれた、心の絆があるんです」と仰る親御さん、またそれを信じているお子さんも世の中にはおられるだろう。もちろんそれとて「二人の間に共同幻想が存在している」だけに過ぎないので、何かのきっかけでその幻想が壊れてしまう可能性は大なのだ。「今は幸せ」なのはただの「偶然」なのである。 「そんな身もフタもないことを」と眉を顰める方もおられようが、これは決して「絶望に至る道」ではない。どちらかと言えば「初めから夢や希望を持たなければ、裏切られるショックも少なくてすむ」問題に近いのである。夢や理想を持つな、という言い方が「キツイ」のであれば、「あまり高望みはしないで自分の背丈に合った適度な夢を見ようよ」と言ってあげたほうがいいだろうか。 親は子供が立派な人間になることを期待したって仕方がない。子供はなるようにしかならないと思うことである。「躾をするな」ということではない。親は結局、躾をすることしかできないが、躾の効果が上がらなかったとしても、それは「運命」だと覚悟するしかないということである。もし万が一、子供が立派に育ったとしてもやはりそれが「自分の躾のおかげ」だなどとは思わないことだ。それも結局は偶然に過ぎない。 子がマトモに育っても、育たなくても、そう思えば「救い」にはなると思うけどどうかね。
2004年02月27日(金) 舞台『GOOD』と迷い道 2003年02月27日(木) 彼、行くは星の大海/『フルーツバスケット』11巻(高屋奈月)/『てんしのトッチオ』(鳥山明) 2002年02月27日(水) さらばウルトラマン/『よろずお直し業』(草上仁)/『クロノアイズ』5巻(長谷川裕一)ほか 2001年02月27日(火) 毛の話/『オトナでよかった!』(唐沢よしこ・唐沢なをき)
2006年02月07日(火) |
だから自分の立場に置き換えて考えてみろってば/『戦国自衛隊 関ヶ原の戦い』 |
秋篠宮妃紀子さまが第3子をご懐妊……という、タイムリーと言うか、逆に間が悪いと言うか、大変な時期に大変なニュースが飛び込んできたものである。テレビのニュースは「おめでとう」を口にすることも忘れて、「皇位継承県がどうの」という話題ばかりだ。こういう事態になっちゃうから、男系に拘ることがどれだけ皇室にとって弊害か、ということは明白だと思うんだけど、馬鹿にはそのあたりのリクツはまるでわかんないんだろうね。 女系天皇容認論者(というよりは長子相続論者と言った方がいい。女系に拘ってるわけじゃないんだから)にとっては、紀子様が男子をお生みになろうが女子をお生みになろうが、どちらでも構わない。ただ「おめでとう、どうかお体をお大事に」と言うだけのことなのである。けれど男系天皇に拘る人々が今どんな状態になっているかと言うと、もう何が何でも紀子様に男子を産んでもらわなければ困る、そんなイカレた強迫観念に捉われてしまっているのが、ニュースの偏向報道ぶりからも明らかに見てとれるのである。あるニュースキャスターなんか、「事態を静観するということは、男子が誕生することをまつという意味です」なんてコメントしてたぞ。なんじゃそりゃあ? 「男子が生まれれば、皇室典範を改定せずにすむのだ」という思い込みね、それが紀子様に対してどれだけのプレッシャーになるか、分かっているのかね? じゃあ、紀子様に対して、女子を産んだら困るとか許さないとかこの役立たずとか思うわけか? これってさ、女の子ばかりを産む嫁さんを「女腹(おんなばら)」と呼び、子供を産めない女性を「石女(うまずめ)」と呼んで、離縁状を叩きつけて「家」から放逐した封建時代の差別意識に繋がってるんだよ? そんな不埒な目で紀子さまを見るわけ? そんなの気が狂ってるって、どうしてそういうフツーの常識が持てないのかね。 世の女性が「長男と結婚したくない」と言ってるのはなぜだ? 平成の現代ですら、「跡取りの男子誕生を」と望む「家」が幅を利かせてるからだろう。けれど、そんなことを言っていたら、たとえ男だろうが女だろうが、天皇家に婿入り嫁入りなんかしたくないと思うようになるのは必然じゃなかろうか。男系論者の主張は、伝統に拘るあまり、伝統を途絶えさせる原因を作っているに等しいよ。 政府与党内にも慎重論は高まっているということだが、果たして本当にそれは「慎重論」なのかね? 私には、皇室に群がって甘い汁を吸おうとしている連中に同調して自分たちもおこぼれに預かろうとしてるか、イカレたウヨクにビビらされたか、いきなり増え出したアタマの悪い付和雷同タイプの俄か男系論者相手への人気取りか、本人もただの馬鹿なのか、あるいは皇室をいずれ滅亡させようと画策しているか、いずれにしたって腰の座った態度でモノを言ってるわけじゃないとしか思えない。実際、そうだとは思わないか? で、改めて聞くが、そこの男系論者さんよ、紀子様がこれで女子をお産みになったら、あんたは「落胆」するのかね? どうして男子を産んでくれなかったんだって思うのかね。あんたが既婚者だとして、自分ちに女しか生まれなかったら、そのことで他人から非難されたとしても、腹も立てずに「その通り」なんて言っちゃうのかね。 もしそうなら、あんたは皇室を本当に慕っても尊敬してもいないよ。人間やめてると言ったっていい。魂が腐っているのだ。 それは違うと反論できるものなら言ってみろ。「皇室は一般家庭とは立場が違う、男子を産むのは妃となったものの義務だ」とでも主張するか? ふざけるな! 雅子さまも紀子さまも、血の通った人間なんだよ! 天皇家にとって何が不幸かって、デントウデントウと停電した家の住人みたいな繰言ばかりツバ飛ばして言ってる糞野郎どもが、宮内庁にはびこってるどころか、同じ皇族にすらいるってことだな。これぞまさしく獅子身中の虫。結局、男系論者の連中は、雅子様にプレッシャーがかけられて体調崩したことも流産したことも、全く意に介していないのだ。 しかし私は本当に分からないのである。「伝統」とやらに拘っている連中は、自分たちの主張が、天皇家を途絶えさせる原因となりかねないことに、本当に気付いていないのだろうか? 側室制が取れない以上、長子相続制を取る以外に、天皇家を存続させ得る方法はないことは自明だろうに。だからこそ、男系論者は、馬鹿でないとすれば、「裏」があると考えざるを得なくなるのである。まあ馬鹿なんだろうけれど。 ネットを散策してみると、「このめでたい出来事と、皇室典範改定問題とは切り離して考えるべきだ」というマットウな意見も多い。けれども、この問題を過熱化させてしまったのは、まさしく「男系」に拘った馬鹿どもだという事実は、指摘しておいた方がいいと思うのである。 全く、馬鹿には勝てねえ世の中だよ(タメイキ)。
妻が体調を崩して寝込む。 仕事の帰りに、電話を入れてみたら「今日は父ちゃんとこに行ってない」と言うので、いったいどうしたのかと聞いてみたのだが、体のどこがどう悪いのか、何が原因なのか要領を得ないのもいつもの通り。 「風邪か? 熱はあると?」 「ない」 「喉は?」 「痛くない」 「じゃあ、どこがどう悪いんだよ」 「なんか知らんけど体がだるいと」 「病院には行ったと?」 「行かん。お金ないもん」 「知らせてくれればお金のありか言うのに!」 箪笥貯金ではないが、家の貯金箱に一万円くらいはあるのだ。と言うか、たとえお金があろうと、しげはこういうときは病院に行くのを億劫がって、いつも症状を悪化させてしまうのである。学習能力がどうしてこうまでないのか、もう全く理解できない 一応、具合が悪いというのは本当らしいので、栄養ドリンクと胃腸薬を買って帰ることにする。 「他になんかいるや? 飯はなんか食べたとや?」 「今日は何も食べとらん」 「何で食べとらん! それが原因やろうもん! 栄養が足りんで、抵抗力がなくなっとうったい」 「……そう?」 「お前、無理してダイエットしようくらい思いよろ?」 「……」 図星のようである。そう言えば、おとといとさきおととい、二日連続で映画を見に行った時に、しげはやはり二日連続でオムライスを注文し、ペロリと平らげていたが、多分あれで体重が少しリバウンドしたに違いない。それで慌てて絶食しようとしたのだろう。急な断食は百害あって一利無しである。たとえ食事を制限するにしろ、少しは食べておかないと体に毒だ、なんてことは常識だろうに、これだから馬鹿は……。 「じゃあ、飯ば買って来てやるけん。駅弁とほか弁、どっちがいいや?」 「ほか弁」 ちょうど一週間限定で「牛すき弁当」が安かったので、それを買って帰る。肉好きのしげが肉断ちをするとどうなるかってあまりにも結果が明白で、あまりしげに同情する気が起こらないのである。
『DRAMA COMPLEX』枠で、『戦国自衛隊 関ヶ原の戦い』後編。 何と監督が、かつての劇場版『戦国自衛隊』を撮った斎藤光正である。自作をリメイクするとは、まるでセシル・B・デミルのような、ってそれほどの大監督じゃないけど(失礼)。 けれど、前・後編と続けて見て、これは新・旧の二本の角川映画版より、はるかに面白いと思った。 原作の半村良が述懐している通り、この作品のアイデアは、斬新ではあったけれども陳腐である。矛盾した言い方だが、つまり、作者が思い付いた段階で、「これはほかの誰かが思い付いてもおかしくない」ということに気が付いたということである。言わば原作小説は、作者が「早いもん勝ち」の感覚で、小説というよりは殆どシノプシスに近い感じで一気に書き上げたごく短い作品なのである。半村良は、あとで全面的に書き直すつもりだったらしいが、結局その夢は果たせず、物故してしまった。せめて最初の映画化の時に、改稿してくれたらよかったのにと、意外に早かったその死が悔やまれる。 そういう事情だから、この小説は実は小説としての体を為していない。「あらすじだけ」と言ってもいいのである。だからドラマにするためには脚色がいろいろと必要で、これまでの映画でも、一つは伊庭三尉以外はその他大勢でしかないサブキャラにスポットを当てるという「忠臣蔵銘々伝」方式が取られてきた訳だが、今回の脚色は、そういう瑣末的なことよりも、物語の根幹自体を大きく変更することで、前二作よりもはるかに骨太でドラマチックな展開を作り出すことに成功している。 時代設定を従来の織田信長の時代に設定せず、天下分け目の関ヶ原に移したこともスケールアップに繋がってはいるが、何と言っても大胆かつ最大の功績は、自衛隊自体を東軍=伊庭(反町隆史)と、西軍=嶋村(渡部篤郎)に二分させ、争わせたことだろう。原作は、自衛隊が戦国時代に呼ばれたのは、このパラレルワールド世界が、我々の知っている世界と“ごく近いが、微妙に異なっている”ため、それを歴史通りに動かす目的のためだ、という説明になっている。簡単に言えば、「世界の予定調和」のためだということだ。 しかし今回のドラマ版はそうではない。自衛隊を敵味方に分けたために、予定調和のラインは崩れた。SF設定としては自衛隊のタイムスリップには「偶然」という原因以外にはなにものもなく、歴史の意志の介入もそこにはない、ということになる。だから、果たして伊庭は歴史を修復して現代に戻ることができるのか、それとも嶋村によって改変された歴史が紡がれることになるのか、予断は許さない、ということになるのだ。 SF性は薄れたが、よりサスペンスフルなドラマになったことは間違いない。まあ、小早川秀秋が藤原竜也ってのはどうかと思うんだが、それもまあ好き好きの範囲内ってとこかな。長門裕之・津川雅彦が、『相棒』に引き続いて、本田正信・徳川家康に扮して兄弟共演しているが、こういうとき、長門さんがよりはしゃいでしまうのはよっぽど嬉しいんだろうか。そのあたりを「微笑ましく」見ると、この殺伐とした物語がちょっと「可愛らしく」見られるのである。
2005年02月07日(月) 金ならないっ!/『ルパン三世officialマガジン』VOL.3 2004年02月07日(土) 入院日記6/けーかほーこく 2003年02月07日(金) ベスト?/『赤ちゃんをさがせ』(青井夏海)/『じつは、わたくしこういうものです』(クラフトエヴィング商會)/映画『白夫人の妖恋』 2002年02月07日(木) びっくりにびっくり/アニメ『七人のナナ』第5話/『なんだかコワレ丸』1巻(矢也晶久)ほか 2001年02月07日(水) ♪それ行け、不倫不倫不倫、どこまでも♪/『萩原朔太郎写真作品 のすたるぢや』ほか
2006年02月05日(日) |
いかれぽんちの論議に参加したくはないが/『仮面ライダーカブト』第2話 |
『仮面ライダーカブト』第2話。 やっぱりフィルム撮影の質感はいいなあ、と思いながら、主役の演技がまたまたどへたくそに戻ってしまっていたので(だいたい『クウガ』以降の平成ライダーシリーズに我々の世代がハマレなかったのは、役者の演技がシロウトに毛が生えた程度の高校演劇レベルだったというのが大きい)、早いとこアクションシーンに行ってくれ、というのが正直なところ。 確かに「変身」は言うし、「ライダーキック」も言っちゃくれるんだが、無理にそうして元祖ライダーに合わせようとすると、かえって「違うところ」にばかり目が行ってしまうので、「ライダーキックは回し蹴りじゃない!」と叫びたくなってしまうのだ。脱皮の変身は『イナズマン』だし、「クロックアップ」って加速装置? 『ライダー』じゃなくて『サイボーグ009』じゃん、とかね。 いや、そんなのは瑣末的なことで、やっぱり主役が気に入らなくて、腹を立てているのだな。せめてあの「お婆ちゃんが」って脱力な台詞はやめてほしいよ。企画会議の段階で誰か「それって面白いの?」って、誰も言うやついなかったのかなあ。 いや、前作も1話目、2話目はイマイチに感じてたから、まだまだ即断はいたしません。
朝日新聞は取ってないので、これもネットからのニュース採取であるのだが、2月2日付けの社説で、例の三笠宮寛仁親王殿下の女系天皇反対論議について、「発言はもう控えては」と書いて物議を醸しているようだ。私自身は「歴史的伝統に鑑みても」男系天皇に固執して皇室典範改定に反対する連中には根拠がないと考えてはいるが、「発言控えろ」ってのは言論封殺であって、日頃「民主主義」を標榜する新聞が書いていいこっちゃない。あいつらの「民主主義」ってのは「俺の主張を聞け」というお山の大将のワガママでしかないのだ。三笠宮批判をするのならするで構わないが、「控えろ」というのは次元が違う問題だ。 私は朝日新聞に「少し黙れ」とは言わない。馬鹿と言うだけである。 朝日にしてみれば、自民党内でも女系天皇慎重論が出てきたもんで、それを牽制しようと論陣を張ったつもりなんだろうが、もはや朝日の社説に権威らしい権威もなくなりつつある今日、これはもう逆効果にしかならない。余計なことをしなくたって、改定は順調に進むはずだったろうに、これで小泉首相はかえって足を引っ張られた形になってしまったなあと思う。今後の状況は予断を許さなくなってきたと言うか、穿った見方をすれば、あえて小泉首相の足を引っ張るために朝日は女系天皇推進を明確に打ち出してきたとも言えるが、そこまでの知恵は十中八九あいつらにはあるまい。まるでキラを崇拝する出目川のようだ(例え方に突っ込みは入れないよーに)。
男系天皇に固執すること、万世一系の伝統を強調することが馬鹿馬鹿しいことは前にも書いた。天皇家はこれまでに何度も直系の子孫を絶やしては、傍系の子孫(と言いつつ、その血筋はいっかな定かではない馬の骨)を招いては、その後釜に据えている。それでも血筋は血筋だと強弁する人も、まさか仲哀天皇の息子が応神天皇であるというヨタを普通の感覚の人間に信じさせることはできないだろう(知らない人も若い人にはいっぱいいるから書いとくと、仲哀天皇が死んで、応神天皇が生まれるまで、記紀の記録を照合すると、一年以上離れているのだ。普通は「応神は仲哀の息子ではない」と判断するところだが、記紀はあくまで応神は仲哀の死以前に皇后である神功皇后の胎内にあり、その間、彼女は、応神天皇を産むまいと、石を抱いて踏ん張ってたそうである。……信じるか?)。 更に言えば、明治時代まで神功皇后は15代目の天皇として数えられていたのだが、それじゃあ天皇家が男系だと主張できないから、系譜から外されてしまっているのである。しかし彼女を天皇だと認めないと、応神天皇が即位するまで、69年間も皇位が空席だったってことになっちゃって、やっぱり「万世」が崩れちゃうんだけれどもね。 何度も書いてるけど、皇祖神は天照大神なんだから、天皇家はもともと女系なの。天照大神に夫がいたかい? それは神話だからと主張するのなら、万世一系だって穴だらけの神話なんだと言い返そう。
要するに、歴史や伝統と言ってる連中だって、歴史の真実にはかなりほっかむりをして目を逸らしているのである。実際、「なぜ男系天皇に拘るのか」、その根拠をちゃんと示せている意見は皆無に等しく、ただ「伝統だから」とその伝統の中身を検証もしていない意見ばかりだ。やつらは、「女系天皇を容認すると、民間人の血が皇室に入り込むことになる」「天皇が男性の姓を持つことになる」と憂慮するが、美智子皇后も雅子様も紀子様も民間人じゃないのか。皇室に入ると同時に姓を捨てたんじゃなかったのか。男だって、天皇家に婿入りしたら、姓を捨てればいいだけの話である。そんなことにも気が付かない馬鹿ばかりが「ダンケイダンケイ」と口幅ったく呼ばわっているのだから、これを馬鹿と呼ばずして何と呼ぼう。自分の頭で考える力のない連中は、まず「男系」ありきという反論を否定する基準に基づいて論を進めているから、自分たちの言ってることに矛盾が生じていることにも、根拠が薄弱であることにも気が付かないでいるのだ。やっぱり自分たちの主張を押し付けたいだけだって点では、朝日と何ら変わりがないのだね。 「こんなに性急にことを勧めなくても」という主張についても、それこそ「有識者」の間では、もう何十年も「女性・女系天皇を認めなければいけないのではないか」という議論が進められてきた事実を知らない妄言である。昭和天皇が側室を受け入れることを拒否したころから、この問題はずっと論議されてきているのだ。男系天皇派は、皇籍を離れて何代も経っていて、それこそ「民間」にあって何一つ帝王学を学んでない元皇族を呼んできて、そいつらに本当に伝統やらしきたりやらを守らせていけると本気で考えているのかね? 普通の民間人に比べて、「元皇族」というレッテルに甘い汁を吸わせてもらっている分だけ、余計に始末が悪いと言うか、強く天皇家の利権に引き寄せられる有象無象を産む状況を作るだけだと思うがねえ。
正直、男系派の馬鹿どもは、本当は天皇家が存続することを望んでいないのではないかという気がしてならない。もちろん、ただ単に馬鹿なだけなんだろうが。もし本気で天皇家の存続を考えてるんだったら、側室制もちゃんと主張しなさいよ。もちろんその余波が「民間にまで波及すること」を予測した上でね。 でも、朝日だって女系天皇推進派かどうかはホントのところは怪しい。あれだけ小泉批判をやらかしてきたのに、急に小泉擁護みたいな発言をし始めたのは、どういう変節だ、とも思うが、そもそも朝日に「腰」を求めること自体が間違いなのだろう。あのふらつきぶりは、やっぱりエセフェミニストたちに意見を検閲されてるからなんじゃないか(笑)。 天皇家の継嗣問題は、「女性にも権利を」なんて低レベルな話ではなくて、いかに天皇家の血筋と伝統を守るかの論議であるのだが、やはりこの問題は「政治」がらみになってきて、文化とは何か、という次元では語れなくなる状況が生まれてきてしまったのである。全く、朝日は、毎回毎回余計なことをしてくれるものである。 朝日がモノを考えずにしまくってきた数々の放言についてはもはや閉口の度を越しているんだが、それこそ文化のブの字も知らない馬鹿がこんな形でしゃしゃり出てくると、それに巻き込まれてモノを言うことが非常に難しくなってしまう。朝日が後押ししたような形になったことで、女系天皇を主張しただけでアカだとか言われかねなくなつちゃったもんなあ。逆だっちゅーに。 天皇問題について語ることがタブーになつてしまうってのも、「文化と伝統」の問題に、こういう「思想」が絡んでくるからなのだが、ネットを見ていると、本当に「思想に絡んだ」論理も何もない既知外発言がやたら見受けられる。勝谷某のブログなど最たるもので、朝日も狂ってるが、こいつも狂ってる。どっちもどっちで、この問題に絡んでくるのが既知外ばかりだということになれば、恐怖に駆られる人が出てくるのも当然だろう。もはや右と左のどちらも狂ってるという状況になっているのなら、ネット上の何の気なしの発言が、政治的に利用される危険もこれからは高まってくるだろう。ますます「沈黙は金」の時代になってくるんだなあ。タメイキ。
既知外と言えば、またまた占い師の細木数子であるが、3日、フジテレビのバラエティー番組『幸せって何だっけ』の中で、ホリエモン(未だに調べないとこの人の本名を認識できていない)についての占いが当たった当たったと吹聴しているのだそうな。でも実際に当たったのかどうかということについては、やっぱり予言者特有の「どうとでも取れる」発言を利用したインチキであるらしい。 確かに彼女は「彼はスッテンテンになりますよ」と言ったことがあるらしいのだが、それは、昨年7月に「25時間テレビ」の中で「女には気を付けなさいよ。スッテンテンになるから」と、「女性で失敗する」というニュアンスで発言していたということである。もしかしてこれは地検への情報リークをしていたのが、ライブドア内部の女であったとでも言いたいのかな?(笑)予言者や占い師の常として、「こうしなければこうなる」というのは常套手段で、こうなろうがなるまいが、この予言は「当たる」ようになっているのである。「あなたの言う通りにしたけれども、うまくいきませんでしたよ」と非難されても、「まだ努力が足りない」と言い逃れられるのである。 で、「当たった」と吹聴しておけば、たとえ新聞や雑誌やネットがいかに「ライブドア株価が5倍になる」と予言したのは外れた、と主張しても、外れた方の意見を気に止める人間はじきにいなくなる。だいたい占いや予言を信じる方が馬鹿なのだから、占いを真に受けてライブドアの株を買って大損した連中は、自業自得でしかない。詐欺罪にもなりゃしないのである。 いや、占い師であろうとなかろうと、いかにマトモな顔して説教してようと、所詮バラエティー番組に出ている人間は「見世物」でしかないのだ。「丈三尺の大イタチ」同様、基本的にその存在自体が「眉唾」なんであり、ウソを生業としている人間ばかりである。しげは細木数子を蛇蝎のごとく忌み嫌っていて、テレビの画面に彼女が出るたびに「チャンネル変えて!」と怒鳴るが、まだまだ修行が足りない。 胡散臭い人間が、一見マトモなことを喋っているように見えて、実は合法的な詐欺を働いていて(まあ裏では非合法なことやってるかもしれないが)、それにまんまと乗せられてしまって改名してしまった芸能人や、癒された気になって恍惚としているだろう視聴者の馬鹿っつらを想像することで楽しむのが細木数子の「正しい」見方なのである。
夜は父を誘って映画に行く予定。時間的に午前様になるので、感想とかは明日の日記に書くことになるが、果たして更新があるかどうかは神のみぞ知るのであった(笑)。
2005年02月05日(土) 『九州発言者塾 第一回シンポジウム 日本国に自立・自尊は可能か』/ドラマ『古都』 2004年02月05日(木) 入院日記4/気持ちのいい検査(* ̄∇ ̄*) 2003年02月05日(水) タクシー慕情……演歌だね/DVD『銀座カンカン娘』/『総特集 江口寿史』 2002年02月05日(火) ゴーマンかましちゃ、いけまっしぇん/『コンセント』(田口ランディ)ほか 2001年02月05日(月) 恐怖のブラック・メール/『真・無責任艦長タイラー1 入隊編』(吉岡平)
2006年02月04日(土) |
筑紫は国のまほろば/映画『ギミー・ヘブン』 |
『ウルトラマンマックス』第32話「エリー破壊指令」宇宙工作員ケルス登場。 最終回も近いマックス、シリーズ締めくくりを感じさせるエピソードが散見するようになってきたけど、今回のがアンドロイド・エリーをフィーチャーするラスト・エピソードになるのかな。私はかなりこのキャラクターを気に入っていたので(ヘアースタイルを除いて)、名残り惜しい。「そんなに女の子が好きか」とどこぞから声が飛んで来そうだが、私ゃ男なんだから女の子が好きなのは当たり前である。男の子を好きだったら、まあそれはそれで今は何でも自由な時代だから後ろ指差されるようなことでもないのだが、一応、私はノーマルなんである。もちろん女の子だけに限定されるわけでもなくて、熟女だってドンと来いだ。実際にドンと来てくれることなどないのだが。 なかなかマックスの話にならんな(笑)。
宇宙工作員ケルス(小田井涼平)のプログラム侵入によってコントロールされ、UDF破壊のためのミサイル発射誘導装置にされてしまったエリー(満島ひかり)。エリーはダッシュアルファで逃亡し、ベースタイタンも強制閉鎖されてしまった。ダッシュドゥカでエリーを追ったコバ(小川信行)だったが、ケルスに対峙した彼にUDFの非情な命令が下る。「エリーを破壊せよ」……!
第7話で登場した宇宙工作員ケサムの同僚(笑)による再地球侵略計画編。ケルスがケサムの名前を出されて、「あんなやつと一緒にするな」と自分の方が上であることを強調するのは、死神博士と地獄大使の関係のような、魔王デカンダと流星鉄仮面のような。譬えが古くて悪いねえ(笑)。イマドキこれをやられると、途端にドラマが安っぽくなるので、やめて欲しいんだけど。どうも『マックス』はエピソードごとの出来のムラが激しくて、今回はちょっとマイナス面の方が目立つ。 DASHの機能が殆どエリーに一任されていたために、機能不全に陥ってしまったのは。まあそれだけエリーが優秀だってことだし、ドラマの展開上、仕方がないことではあるのだが、それにしてもこれまでにもしょっちゅう宇宙人に侵入されたり、電波妨害を受けたりと、防衛機関としてはなんか弱すぎる印象が強くて、いくらなんでもちょっとどうかなと思うのである。ココは「ペットロボット」って設定なんだけど、ホントにただのペットでまるで役立たずなのか? ケルスはケルスで、簡単にDASHにアジトを強襲されてしまうし、最後の手段がエリーを人質に取るというチンピラヤクザなみのやり口で、これでどうして「ケサムより上」と威張れるんだか。 だいたい、ケサム編の続編なら、フィーチャーすべきはケサムと「いい仲」になりかけたミズキ隊員(長谷部瞳)であるべきで、前編とのつながりが、ミズキがちらっとフラッシュバックでケサムを思い出すだけってのは、何のための続編なんだ、と首を傾げざるを得ない。つまりはこのエピソード、コバとエリー、ケサムとミズキ、そしてトリのケルス対マックスと、ドラマが分裂しちゃってて、整理が付いていないのである。つかさー、この話、「もう予算がないから、以前使った着ぐるみリフォームして、ついでにエリー活躍編にできない?」って注文で作られたんじゃないかって気がするぞ。いくつもの要求をこなすためにツギハギになっちゃったって印象が強いのである。 まあ、現在の円谷プロの実力を考えると、毎回秀作ばかりというわけにいかないのも分かるんだけれど、これがエリーのラスト・エピソードだと思うとねえ(死ぬわけではない)、ラストの笑顔がやっぱり素敵だっただけにねえ、もったいなくってねえ。 で、いよいよ来週はバルタン星人登場、飯島敏弘脚本監督作品だ。飯島監督は一端現役を退いたあと、復帰した後は作るものことごとくアマアマな作品ばかりなんで、そんなに期待しちゃいないんだが、飯島さん以外にバルタンを任せるわけにもいかないしねえ。まだ最終回じゃないから、シメじゃないだけいいと考えるべきかね。
昼食の後、運動療法を兼ねて近所の板付遺跡を散策。 立春の日に古代のまほろばに思いを馳せるというのも何となく意義があるような別にどうでもいいような(笑)。弥生式土器の最古のものが発見された遺跡として知られ、それはおよそ紀元前900年。讖緯説(しんいせつ)に基づく神武天皇即位よりもはるか太古に博多の民は筑紫平野のあちこちに集落を作っていたのであって、庶民の歴史は天皇家より古いのである。そもそも人間の伝統はどこかの家一つを過剰に持ち上げずとも創世のころより連綿と続いているのだ(またこれも誤解を受けたらいかんから書いとくけど、別に天皇家をないがしろにしていいと言いたいわけじゃなくて、ウヨクやサヨクのように過剰反応する既知外と一緒にするなと言いたいだけだ)。 それはさておき、休日とは言え、地元に古代史や考古学に興味がある人間がそんなにたくさんいるとは思わず、資料館もどうせ無人だろうと高を括って入ってみたら、確かに客は私一人だったのだが、観覧者の記帳記録を見ると、今日だけでもう十人ほどが来ていたのだった。しかも博多区民だけでなく、東区あたりからもやって来ている。意外に人気があるんだなあとビックリする。 受付にいた館員さんも、ちょうどヒマだったのか、私がそう広くもない館内を見て回るのに一緒に付いてきて、展示物についていちいち解説をしてくれる。 「これは、弥生人の足あとです。実際に残されていたものを石膏でかたどったんですよ。床にあるのもそうです」 なるほど、床には24、5センチほどの足あとがふらふらと出口に向かって塗られている。 「親指が随分、外に向かって離れてますね?」 「ああ、それは田んぼの中で踏ん張っているからですよ。昔ははだしで、履物はなかったんです」 なるほど、展示物を見ても当時の衣服は再現されていても履物はない。靴や下駄はなくても草履みたいなものはあったかもしれないが、少なくとも野良仕事で使うことはないだろう。現代人の発想だと、どうしても藁靴くらいは履いてたんじゃないかと思ってしまうところだ。 村の側溝を掘り返したその地層を壁に貼り付けているのを見ていると、館員さんがまた近づいてきて、「ここに青銅器がありますよ」と、土の中の出っ張りを握ってみせた。展示物が剥がれるんじゃないかと心配するほどだったのだが、館員さんは気にもしないで、勝手に解説を始めてしまう。 「弥生時代にはまだ青銅器はありませんからね、これはその時代には側溝はもう埋められて、ゴミ捨て場になっていたということなんですよ」 つまりこの村が存在した期間も、土器の材料の科学的分析やそんなことからほぼ確定できるということである。その青銅器は何の道具だろうなどとちょっと疑問に思いはしたのだが、ヘタに質問などをしてしまうと解説攻めに遭いそうだったので(笑)、適当なところで資料館は引き上げて、遺跡の方に回る。 発掘された広い敷地は公園のようになっていて、近所の人たちにとってはちょうどいい散歩コースだ。村の周囲がぐるりとかなり深い側溝になっているのは、用水のためもあるが外的からの防衛のためもあるのだろう。土手は切り立っていて足場はかなり悪く、ちょっとバランスを崩したら、側溝の下まで転げ落ちてしまいそうである。打ち所が悪ければ大怪我をしそうな感じだ。私には多少高所恐怖症の気があって、ベランダの手すりから下を見下ろすとクラッとなることもしばしばなのだが、不思議なことにその上に立ってもあまり怖いという感じがしない。高いと言っても、空中に放り出されるわけではなく、転がり落ちて行くイメージガ想定できるからだろう。本当に転がり落ちたりはしないよう、充分気をつけて、携帯で写真を撮る。あとでミクシィにアップするためである。こちらの日記は写真をアップできないのがネックだね(できるのかもしれないがやり方が分からない)。 村の中には、竪穴式住居が二十戸ほど再現されている。いくつかの家の中には実際に入ってみることもできる。中は正直、とても広いとは言えない円形の空間で、せいぜい四畳半程度しかなく、真ん中に穴が掘ってあって囲炉裏のようになっているので、脇で寝ようと思ったら、膝を曲げて横になって寝るしかない。しかしそれも弥生人の生活の様子が想像せられて、こういうのが好きな人にとってはたまらない魅力だろう。しばらく中で木の株の椅子に座ってのんびりしてみたが、外はかなり寒かったのだが、中はだんだん暖かいように感じられてきた。茅葺の屋根には今朝の雪がまだ残っていたが、中までその冷気が染みこんでくることはない。雪や暴風程度では吹き飛ばされないほどの頑丈さはありそうだった。子豚もこれなら狼から身を守れそうである。 運動のために来たのに、骨休めに来た感じになってしまった(苦笑)。でもまあ、いかにも立春らしくていいかなとも思う。
夜、シネ・リーブル博多駅で映画『ギミー・ヘブン』を見る。
ある大企業の会長が、自宅の豪邸で殺害された。現場には奇妙な文様の血痕が残されていたが、それが何を意味しているのか、捜査員の誰にも理解することはできなかった。その家の養女・麻里(宮﨑あおい)は幼いころに両親をなくし、施設で育てられていたのだが、これまでに三度、富豪の養女に貰われ、受け入れ先の親がみな謎の死を遂げるという奇妙な符号を見せていた。しかし、どの事件においても犯人は挙がっており、麻里が嫌疑を受けろことはなかった。 自分が感じたり見たりしたものが他人と違う感覚を伴って脳にインプットされてしまう「共感覚」の持ち主、葉山新介(江口洋介)は、相棒の野原貴史(安藤政信)と組んで、インターネット上で盗撮サイトを運営していたが、ある日、ある女の一室に仕掛けていたカメラに異変が生じているのを発見する。女は失踪し、そのベッドにはあの「文様」と同じものがマーキングされていたのだ。それはかつて人々を自殺や殺人に駆り立てた伝説のネット犯罪者「ピカソ」が残していたマークだった。 新介と貴史は女を探す過程で、河川敷の排水溝で倒れている少女を発見する。それは殺人事件の直後に失踪していた麻里だった……。 先に断っておくが、この映画は基本的に観客をかなり限定してしまう映画である。いや、実際は別に限定はしていないのだが、昨今は映画の見方に関して素養のない人間がゴマンと増えてしまっているので、「この描写はなぜ存在しているのか」、また逆に「この描写はなぜ存在しないのか」がまるで分からなくなつているのだ。特にこれは、「本格ミステリー映画」である。ネットの感想などを見てみると、この映画に批判的な意見を述べている人間は、軒並みこれがミステリーだということに気付いていない。 「全然怖くない」なんて意見はホラー映画と勘違いをしているし、「これこれこういう描写がないから分かりづらい」なんてのは、それを描くとトリックがバレるからわざと隠しているのである。あまりにも馬鹿意見ばかりに出会うので、ああ、日本にミステリーは全く根付いていないのだなあとまたまた悲しい気分にさせられてしまった。 『名探偵コナン』のようなミステリーとして見れば箸にも棒にも掛からない作品が人気を呼ぶのも所詮はキャラ人気でしかないし、横溝正史の原作小説の中では出来の悪い方の『犬神家の一族』や『八つ墓村』の方が映像化の頻度数が高いのはムード優先でミステリーとしての完成度など二の次にしているからだし、本格ミステリーの歴代ベストテンに選出されるような傑作が殆ど映像化されていないのも、結局は「そんなものを作っても一般の観客には何が何だか分からない」からである。 これも何度も例えに出していることだが、八百屋に行って「肉が売ってない」と腹を立てるのはまさしくお門違いというものである。『ギミー・ヘブン』への批判も殆どが的外れであって、ではこの映画をどのように鑑賞するのがマットウであるか、ということが問題になるのだが、これを説明するためにはトリックから何から内容を全てネタバラシしなければならないので、それは不可能なのである(ネットで堂々とネタバラシしてるやつも、そのへんの素養がないやつばかりだから、微妙にネタをバラし損なっているのが笑える)。 でもそれをしたからと言って、もともとミステリーの素養がない人間には何を言っているのか、そもそもそれがどうして問題になるのかはチンプンカンプンであろうし、ミステリーが「分かっている」人には言わずもがなである。つまり書くこと自体に意味がないのだ。 だもんで、結局言えることは、「ミステリファンならぜひ見なさい」ということだけである。隔靴掻痒を感じているのはあなたより私の方なんだから文句は言わないように。 でもよー、何が馬鹿かって、この映画を配給してる松竹やらアートポートが一番の糞馬鹿でね、パンフレットのあちこちで(それこそイントロダクションで!)、犯人とトリックをバラしまくってるんだよ。パンフ先に読んでこの映画を見た客は、そりゃ何が面白いんだか分からないだろうよ。私には事前にパンフは読まない習慣があったからよかったけどね。
2005年02月04日(金) 『魔女の宅急便』実写化?(゚o゚)/映画『レイ』 2004年02月04日(水) 入院日記3/またヘンな夢を見た 2003年02月04日(火) 予想通りに世の中が動くって味気ないね/DVD『パパ・センプリチータ』/『名探偵コナン 10+PLUS SDB』(青山剛昌) 2002年02月04日(月) チョコレート一本勝負/『何だかんだと』(ナンシー関)ほか 2001年02月04日(日) HOME,SWEET HOME/『犬の気持ちは、わからない』(押井守)
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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