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第7章 (4) 風よ!
モード・モンゴメリは、風の島に生まれた。プリンスエドワード島は、周囲を海に囲まれた、風の吹き渡る島である。風はゆりかごで眠る幼な子の耳もとに憩い、野原や森で、海辺からも誘いかけ、彼女がやがて島を離れても、生涯を通じて語りかけつづけた。作品の世界を巡っていると、「風」がたびたび、重要な脇役となって吹き、君臨していることに気付かされる。
『赤毛のアン』で、少女時代のアン・シャーリーはこうつぶやき、風とは親しい間柄になっている。「まあ、風の中にはどっさり想像の余地があるわ。」空想好きなアンを愛した人たちにとって、想像の余地、それこそは生きる余地であり、許された隙間であり、現実からの避難所でもあった。 そしてエミリーにとっては、空想の「風のおばさん」が創作の原点ともいえる位置にいた。「風に乗るペン」とでも呼びたくなる創作への熱意を、彼女のまわりに漂わせて。まだまだ幼いはずのエミリー・スターが風について書いた日記をのぞいてみよう。
風のおばさんの声を聞いたとき、ひらめきがおとずれました。なにか遠い遠い昔におこったこと──あたしの胸を打ったことを見たような気がしたのです。
/『可愛いエミリー』
成長したエミリーは、風への想いをもっと細やかにつづっている。だが、そこには確かに、少女のころ感じた風への想いが宿っているのだ。一度心に入り込んだ風の一部はそこにとどまり、ずっと吹くことをやめないかのように。
わたしのすべての過去の苦しみが、それを追い出した魂の中にもう一度はいりたいと、願い叫んでいるようだ。わたしの小さな窓で叫んでいる夜の風には不思議な音がある。その中にわたしは昔の悲しみの叫びを聞く──そして絶望のうなりと──死んだ望みの幽霊の歌を。 夜の風は過去のさまよう魂である。それは未来には関係がない──だから悲しいのだ。
/『エミリーの求めるもの』
風は時として詩う。モードが詩に詠んだ風と、著者として作中で語る風が、陰陽の好対比をなしている例もある。
彼女は叫んだ 「でも わが故郷の樅の木の中で 悲しき西風が泣き叫ぶ時の心動かす野生の調べに憧れます」 /詩集『夜警』
風は梢をわたっていたが、夕方、樅の木の間でかなでる風の音楽ほど美しいものはこの世にない。 /『赤毛のアン』
かなしいかな、私は南国暮らしなので、樅の木の間を吹く風の音にはまったく親しんでいないが、その風に含まれた野性味が、修行時代、モードのペンを元気づけ、走らせた夜のことを想う。明け方の窓辺に座る書き手のろうそくに、揺れない光をともしたであろう風のことを。
それは人の魂を時の黎明にまで連れ戻す力をもった、地球誕生以来の旋律。耳を傾けるにつけ、これまでの歳月が消えて行く。たくさんのことが忘れられ、もっとたくさんのことが思い出される。彼は今、ようやく悟ったのだ。心の中にずっと潜んでいたのは、樅の木立を吹き抜ける風の詠唱への憧れであったと。
/「帰郷」(『時の果実』収録)
アンとギルバートが子どもたちを育てた大きなイングルサイド(炉辺荘)にも、風はやはり吹き巡っている。「風が高く吹こうと低く吹こうと、炉辺荘には、いつも笑いと喜びにあふれた空気がみなぎっていた」(/『炉辺荘のアン』)。幼いころ、息子のウォルターは「どうして風は楽しくないの?」とアンに聞いたことがある。アンは詩人の魂を持った息子に「風はこの世界がはじまって以来のあらゆる悲しみを思い出しているからなのよ」と応えていた。
今夜の風はなんて寂しく聞こえることか。リラを責めているのだ。「ばか…ばか…ばか」と、繰返し繰返し言っているのだ。
/『炉辺荘のアン』
イングルサイドの末っ子リラは、特別に文学少女ではない。風に、「ばか(silly)」だと責められていると感じたリラ、それにしても、silly…silly…silly…は刷り込まれそうなフレーズである。モードはいつも風の音を言葉に変換して楽しんでいただろうか。
「どうして風はあんなに急いでいるの、パット叔母ちゃん?」と、小さなメイからこのあいだきかれたばかりだった。すべてのものが急いでいるように思われる。人生も急いでいる―人をほっといてくれない―風のなかのひとひらの木の葉のように吹きさらわれてしまう。
/『パットお嬢さん』
風はまた、運命の暗いループでもある。そのなかで翻弄される、時の流れを知った人間という存在。幼き者からの問いかけに、自身の孤独な将来を思って、未婚ながら一家の女主人に等しいパット・ガーディナーは嘆息するのだった。
決して思い通りにはゆかぬ、人生とその告別を描いた壮絶な短編がある。「仕返し」(『アンの村の日々』収録)では、ある男を送る「死の風」が吹いている。そして、そのなかを復讐のために進む老いたヒロインに、「その風の音は、過ぎ去った歳月が自分に語りかける不吉な声ででもあるかのよう」だと感じさせている。
風のことでは、忘れることのできない人物がもうひとり。『ストーリー・ガール』の名脇役、謎に満ちた孤独な老女、あるいは村人たちにまともではないと思われているペッグ・ボウエンである。そういう人物ゆえ、子どもたちにとっては魔女めいて魅力的なのだが。彼女ほど率直に、風のことを、風への想いを語った登場人物はいないほどである。他のこともかなり率直に語った人物であるにしろ。
「そもそも、誰にもわからないよ。風は何だ。だれにもわからない。なんとかして知りたいものさ。もしも正体がわかったら、もうこんなに風をこわがらなくていいのに。わたしゃ、怖いんだよ。ああして強い風が来ると、ちぢこまって隠れたくなる。でも風のことじゃ、ひとつだけ確かなことが言える。風は世界でたった一つ、自由なもの…たった…一つ…自由な…もの…なんだよ。ほかのものはなんであれ、何かのきまりにつながれてる。けど、風は自由なんだ。風は吹くよ。望むがままに。誰にも飼い慣らされはしない。自由──だからこそ、怖いけど、大好きなのさ。愛しているのさ。すごいことだよ、自由なのは。自由──自由──自由!」
/ペッグ・ボウエン『黄金の道』
たったひとつの、自由な存在。モードは風をそう呼んでいるのだ。あれほど自由気ままに見える社会のはみ出し者ペッグを通じて、風こそは自由なのだ、怖いけれど自由を愛しているのだと。社会的な体面や昔ながらの慣習によって本音を言えない社会、群れを逸脱することへのおそれ。どこまで社会が進んでも、本音を言うのが幸せとは限らないし、家族神話は今もって文明社会の砦とされている。この百年で何が変わったのかなど理解できていないが、モードの生きた時代や社会には吹いていなかった自由の風が、今、吹いているとは思われない。
それでも、モードが言っているように、風も未来への可能性も、自分のなかに兆しがあり、今の自分から未来が導かれることは信じられる。 ノラ・シェリーは小さな港町に生まれ育った娘だが、どこか他の人たちとちがっていた。お金持ちに望まれ、養女になって港を去った1年後、ふたたび町へ戻り、海の絆と愛する人の存在に気付き、生涯を風と波の呼び声に守られて過ごす。幸せに結ばれて終わる物語の冒頭は、風からはじまっている。
――しかし風が人々の耳に歌うものは、聞く人の心の中にあるものについてだけだった。
/「海の不思議な絆」(『海にある魂』収録)
数十年にわたって共感してきた、そしておそらく私がここにいなくなってもなお、なじみ深いものであるだろう、モード・モンゴメリの無常的な世界のとらえかた。同じ場所にとどまっていられるものなどない。その最も顕著な存在こそ、風なのではないか。彼女の悟った世界観が、物語のはしばしで、目には見えないが太古の昔から地球上に生まれていた風によって語られていることを、読み留めたいと思う。私たちは、いっとき、ほんのいっときだけを、地上で過ごす。そのはかなさをかくも愛したL・M・モンゴメリの作品を、旅の友として。
自分は今ここを去ろうとしている。けれどもこの古い家はやはりここにいて、野趣に富んだ窓から海を見晴らしているであろう。…略…風は依然銀色の砂丘の上を人の心を魅了するかのようにひゅうひゅう吹きすさむことだろう。波はやはり赤い砂浜から呼んでいるであろう。
「でも、わたしたちはいないのだわ」(But we will be gone.)
/『アンの夢の家」』
完
第7章 (3)死を想う
さまざまな場所で暮らしてきたが、これこそ終生の地とするところはどこにもなかった。終生の地、それはあの生まれ故郷の、海に向かった細長い緑の谷間のほかには考えられなかった。
/『マリゴールドの魔法』(上)
人にも物にも、いつかはこの世界での死が待っている。物語のなかにも。すべての糸を操っていたモードは、死というパズルの一片を、物語のどこに配置すれば最も効果的か、何を、誰を死なせるのかについて、運命そのもののごとく巧みであった。
私がこれまでの読書体験すべてを通じ、最も強烈な不意打ちをくらい、何時間も泣き続けた原因は、他ならぬ、アンの家族の訃報であった。夏の夜半のことであり、10代の終わりだったという過敏性をさしおいても、何かを永遠に変える一刺しであった。私はものごころついてからというもの、これという理由もないのに、死を想わぬ日はなかったといってよい。生と死は表裏一体、分かちがたい概念であった。まさに私は「メメント・モリ(死を想え)」な呼吸をしてきたのだったが、こうして「あの人物」の死には格別の悲哀が残ったのである。
『赤毛のアン』では、私たち読者はアンの庇護者であるマシューを突然の発作で失ったし、パットやジュディばあやたちの住む銀の森屋敷は、なすすべもない壮絶な最期を迎えている。
その夜のうちに銀の森は、そのあらゆる思い出、あらゆる所有物とともに、灰となった!
/『パットお嬢さん』
容赦ない死の手は、年齢を問わずに触れてゆく。アンを友とする誰もが見おぼえている、金髪碧眼の美少女、ルビー・ギリス。心まで美しいとは言えないにしても、彼女は牧歌的なアヴォンリーの住人であり、同類でなくとも、アンの友であることには変わりなかった。パイ家の娘たちのような、どうしようもないたぐいではない、あれほど美しくなければ目立つこともなかったルビーの高慢。モードは若いルビーが病を得て死に至るまでを、村に帰ってきたアンとの交流を通じて繊細に描いたのち、このように締めくくっている。
そして、軽快な足が踊り、輝く目が笑い、楽しげな舌がしゃべりまくっているあいだに、アヴォンリーの一つの魂に、無視することも避けることもできない呼出しが来た。
/『アンの愛情』
天寿とされる年齢をまっとうしたのであれば、少なくても周囲は納得しただろう。若い魂が召される悲劇は、しかし、モードの周囲で実際に何度となく起こっている。いとこの死も、幼ななじみの死もしかり。インフルエンザやコレラなどの伝染病もあれば、事故も、戦争も、待ってはくれない。死は誰にとっても身近で、そして、人々は住み慣れた家で旅立つのが普通だった。エミリーの師、カーペンター先生は、モードの生涯の願いを代弁するかのように、死の床で静かに侍るエミリーに向けて語った。
「出て行くんだ──暁のむこうへ出ていくんだ。明けの明星を過ぎて。恐ろしいことだと思っていた。恐ろしくはない。おかしなことだね。これからの数分間に──ぼくがどんなにたくさん学ぶかを考えてごらん、エミリー。生きているだれよりも賢くなるんだ。いつでも知りたかったんだ──知りたかったんだ。察してるというだけじゃあ、いやだったんだ。」
/カーペンター先生『エミリーの求めるもの』
死という体験の後、私たちの身体は、時代と風習によって方法は違えど、墓に入る。モードはトロントで亡くなったが、遺言どおり、故郷のキャヴェンディッシュで眠っている。そのことは、おそらくモード本人よりも、彼女を愛する人々にとって、救いであり安らぎである、と想う。
そこには、一途な魂がいまだに果樹園を、さ迷い続けているらしいエミリーも、眠っていた。しかし詩人にキスしたエディスは、一族と共にいなかった。彼女は遠い外国で亡くなり、異国の潮騒が彼女の墓にこだましている。
/『ストーリー・ガール』
モードのヒロインたちは、古い墓地やその周囲を散策するという、懐かしい喜びを知っている。『虹の谷のアン』ではブライス家と仲の良いメレディス家の子供たちが墓地を遊び場にしているし、アン自身もシャーロットタウンでの女学生時代は、優雅な時代がかった墓地を好んでいた。マリゴールドの所属するレスリー一族ともなれば、春になると一家で墓地へお参りに行くという、日本のお彼岸を思わせる慣習すらある。
土地に眠る人たちへの想い。その地に根を降ろしてきた一族の末裔である子どもたちは、まるで今も生きているかのように語られる何世代も前の先祖たちを記憶し、やがて自分もいつかはその列に加わることを知って育つ。そういう記憶の中には、自分に似た境遇の者もいれば、想像もつかない波乱の人生を生きた者もいる。命の連なりの長い輪に、自分という個人も組み込まれていると知っていれば、死も寄る辺ある変化となるだろう。作家の卵であるエミリーもまた、古い一族のひとりであった。 年を経た、古い墓がわたしをかこんで、静かな平和な空気がみちみちている−(中略)−わたしの家の男たち女たちがそこに眠っている。勝利者であった男たち女たち──敗北者だった男たち女たち──けれど彼らの勝利も敗北も今は同じである。わたしはそこでは元気も出なければ気も沈まない。刺も歓喜も同じように消えて行く。わたしは古くなった、赤い砂岩の墓標が好きだ。 /エミリー・スター『エミリーの求めるもの』
死を取り巻く人々にも、モードは観察とユーモアの針を刺しておく。死と葬儀は別ものなのだとわかってはいるのだが、何せ、この世界で本当に面白いことは、誕生と結婚と死だけである、と苦言している作家だから、死にまつわる面白さを描いた場面も数多いのである。
しかし、いま、ミッチェル夫人は自分に対して満足しきっていた。フォー・ウィンズでこれ以上立派な喪服を持っている者はだれもいないからである。ミッチェル夫人のかさばった黒い服は膝まで縮緬だった。当時、人は徹底的に喪服を着た。
/『炉辺荘のアン』
それにつけても、死を想うことと、あの島を想うことは、島を精神的な故郷とする者たちにとって、どこか似通った空気を漂わせてはいないだろうか。
‘あの遠い懐かしい海のほとりの島にいる人々’
/『丘の家のジェーン』
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