ケイケイの映画日記
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大変興味深くて、すごく面白かったです。原作は「イヤミス」の巨匠・湊かなえ。詩人の伊藤比呂美が、「子にとって、母親は滋養にも毒にもなる」と記述していて、感慨深く共感しましたが、滋養と毒の先には何があるか?も描いています。善き言葉として語られる「母性」をモチーフとして、家庭に閉じ込められた女性の悲哀を描いて秀逸です。監督は廣木隆一。
ルミ子(戸田恵梨香)は、非の打ちどころがない母(大地真央)に大切に育てられたお嬢様。通う絵画教室の展覧会で、母が褒めた絵を描いた今の夫(三浦誠己)と結婚します。娘の清佳(少女時代から永野芽郁)にも恵まれますが、訳合って今は、夫の実家で姑(高畑淳子)と義妹(山下リオ)と共に暮らしています。清佳は、自分に辛く当たる母から、愛情を乞う事を切に願っていました。
ルミ子の母は、頻繁に結婚した娘宅に出入りするのが気になりますが、他は至って素敵なお母さん。与える愛に恵まれた人で、包容力豊かで、常に愛ある言葉で娘を肯定し、惜しみない愛情を注ぎます。そして美しくハイカラ。げっぷが出そうな程、子供に滋養を与えるとどうなるか?ルミ子の自己肯定感は最高。母の言う通りの人生を歩めば間違いはなく、自分の思考を停止。母を溺愛、依存するようになります。女性のマザコンですね。一見、仲の良い母娘に見えるだけなので、男性のマザコンよりたちが悪い。
何故ルミ子の母は、こんなにも娘に愛情を注げるのか?どうも夫はずっと前に亡くなっているようです。実母は、夫の分まで娘に愛情を注いだたのじゃないかな?娘が結婚後も、ルミ子の夫への気遣いも形だけで、その様子は変化なし。手出しして、見守る事が出来ない。これがルミ子が娘→母へ移行できなかった、一番の要因です。娘でいる方が幸せの価値観を植え付けた実母は、滋養が過ぎて毒となったのだと思う。
姑はルミ子に対して嫁いびりが酷い。諸悪の権化のように見えますが、私はこのお母さんが一番解り易かったです。体が辛く動けないルミ子に「私は40度の熱があったって、畑仕事したよ!」と、怒鳴りつける。ルミ子が家事一切に畑仕事を無償でこなしても、労いも感謝もなく、毎日罵声を浴びせる。これ多分、自分の姑にされた事ですよ。夫もDV・モラ気質と後述され、ルミ子の夫である息子は、学生運動へ家庭から現実逃避。娘であるリツ子だけが、姑の味方だったのだと思う。だからリツ子の自立を妨げ、ずっと自分の手元に置きたかったんだね。
私の母が、過分にこの傾向のあった人で、リツ子の気持ちはよく理解できました。
さて、自分に依存する毒がいっぱいの母親を持つとどうなるか?一周回って娘の自立を促すのです。清佳に向けたリツ子の言葉は、姑→ルミ子→清佳の魔のトライアングルを、じっと見つめていたと言う事です。これを理解出来るのは、リツ子自身が、母との間に苦悩や葛藤を抱えていたのだと、私は理解しました。
普通なら、娘が自分を庇い、姑に意見してくれる事は、涙が出るくらい嬉しいはず。でもルミ子は、「私のして欲しい事は、そんな事じゃない!」と、娘を責めます。姑に認めて貰う事、これがルミ子の今の命題だから。でもそこに愛も情も誠も無い。何故なら、夫も娘も愛していないから。ただひたすらに、姑であっても、母と言う幻想にすがりついている。でもね、姑は母親じゃないんだよ。
夫は夫で、娘に愛情を見せない妻と、母の愛を乞う娘を持て余す。ルミ子自身への愛ではなく、「深窓のお嬢様育ち」と言う、がさつで田舎臭い自分の家庭にはない、ルミ子の背景に憧れがあったのでは?ルミ子の母が結婚を認めたのも、家の格的にはルミ子の方が上。住む家も提供して、自由に娘の家に出入りできると言う、密かな目論見があったかも?夜勤ありの工員と、ルミ子では釣り合いが取れないですよね、愛し合ってもいないのに。真央ママ、やっぱり毒だね(笑)。
この作品、ルミ子の出自である「お嬢様育ち」と言うのも、キーワードかと思います。夫はルミ子がお嬢様育ちで世間知らずなので、離婚出来ないと言う。いやいや言い訳だね。自分の嫌いな実家に戻り、家族三人の家さえ借り無い夫。これもルミ子がお嬢様育ちで働けないからと言いたいのか?それはお前が妻子を養う気概も甲斐性もない、卑小な男だからだろうが。
お嬢様育ち=世間知らずだから、ルミ子はあの鬱陶しく鬼のような姑、ろくでなしの夫でも我慢できたのでしょう。昔はこうやって、お嬢様でもないのに、「お嬢様育ち」の美名の元、女を閉じ込め、賃金の要らない家政婦のようにこき使ってきたんだよ。だから清佳は、「ママにお金を払って!」と、母を想い当然の抗議をしたのだと思う。その気持ちも踏みにじるルミ子に、私は同じ母親として、腹が立つより哀れを感じました。
もう一つ、ルミ子が我慢しなければならなかった背景は、実家が無くなってしまったから。実家のない嫁、疎遠な嫁には、庇いだてせず、蔑ろにする夫が多くいるんだよ。これ私の実体験だからね。夫は否定するけど、無自覚なだけなので、いっそ始末が悪い。ルミ子の夫は、自覚していたと思います。
ラスト近くに、姑が「ありがとう、ルミ子さん」と言うと、ルミ子が薄ら笑いを浮かべる。自分の息子は判らないのに、世話してくれる嫁は判る。近しい昔は、この光景を「嫁が報われた」と表現され、美談になりました。この作品の流れでは、悪い冗談だと思いますが。私はそう取りました。私なら優しかった姑が認知症で暴力的になった方が、絶対にましだわ。ルミ子の微笑みは愛想笑いの薄ら笑いで、心が無かったです(戸田恵梨香、上手いぞ!)。とっても不気味でした。このシーンが美談に見える人は、要注意。感覚のアップデートが必要だと思います。
戸田恵梨香は深窓のお嬢様は、やや苦しかったです。でもやつれて、魔界に住むような妖気を漂わせる毒母の様子が素晴らしく、怒涛の挽回でした。11歳しか違わないのに、きちんと永野芽郁の母に見えたのも立派です。
愛を乞う娘を演じる永野芽郁も、彼女の陽性の持ち味が、辛くて健気な清佳を救ってくれました。大地真央の比類なき美しさ、高畑淳子の怪演も好対照で出色の出来。ぐっと作品に華やぎや賑やかさをもたらしています。山下リオは、どの作品でも地味ながら爪痕を残します。もっと売れていい人だと思う。三浦誠己を、ボコボコにしばきたくなったから、それは彼の演技が上手かったからでしょう(笑)。
清佳の名前は、やっと最後で出てきます。それなのに作中ずっと違和感なし。あー!と、その事に溜息が出ました。ルミ子の名前もずっと忘れていました。女の人生、まだまだ下の名前が必要ない人生を送る人が多い、との表現だと思います。〇〇の娘、〇〇の妻だけで人生が終わってしまうのです。恐ろしい。その中で義妹=リツ子、りっちゃんだけは、ずっと名前がありました。彼女から学ぶことがたくさんありそう。清佳も、それに続くと思います。
作中、母性は生まれ持っているのか、それとも育つのか?と言う会話がありました。私は元々、母性は女性に備わっているものだと思います。上手く育てられなかったら、開花させる手助けをするのは誰か?実母でも姑でもなく、夫です。実母も姑である私も、そこを自警しなければ。娘から母へと育つのを、見守るのです。
母親は、滋養と毒が、程々に共存するのが良いようですね。
2022年11月15日(火) |
「ドント・ウォーリー・ダーリン」 |
初監督作の「ブックスマート」が大評判だった女優のオリビア・ワイルド。残念ながら評判を聞いた頃には、上映時間が合わず見逃しています。二作目の今回は打って変わりミステリーです。「ステップフォード・ワイフ」を彷彿させるプロットは既視感のある内容でで、オチは予想が付くのですが、見せ方・盛り上げ方が非常に上手く、監督としても非凡な人なのだと、今作を観て感じています。
アメリカのとある美しい街に住む若妻アリス(フローレンス・ピュー)。アリスの夫ジャック(ハリー・スタイルズ)と含む夫たちは皆、フランク(クリス・パイン)が経営するビクトリー社に勤めています。夫は仕事に励み妻子を養い、妻は家事育児をこなし、常に美しく装い、古風な価値観に包まれた町。そして女性たちは、この町から一歩も出る事が許されません。一見完璧なこの暮らしに、アリスは徐々に違和感を持ちます。
「ステップフォードワイフ」は2004年制作で、私も観ています。実はこちらはリメイクで、元作は日本では未公開ですが1975年に作られています(主演はあのキャサリン・ロス)。今は2022年。女性の解放がテーマの作品が、長期に渡って繰り返し作られるのは、何だかやるせないなぁと思う。しかしお話しが進む中、女性の憂いを男性にだけではなく、女性にも認識を改めるように作ってある点を継承している所に、私は監督の葛藤を感じます。
フランクは社内のパーティーで妻たちに対して、「夫が仕事に励めるよう、家庭を完璧に整えて支えて欲しい。とても困難な事だが、頑張って欲しい」そして自分の妻であるシェリー(ジェンマ・チェン)に向かい、「ありがとう、感謝している。君無しの人生は、考えられない」と、熱いキスを交わします。
何が問題なの?妻に感謝してるじゃん、良い夫じゃんと思う人、ここだけ切り取るなら、いると思うよ。でもそれまでのシーンで、セクハラまがいのホームパーティーの様子、家事を懸命にこなす様子や、夫の帰宅前に化粧を直し、美しく着飾る様子等、ずっと丹念に画面は映します。従順で美しく夫を支える妻たち。しかしそこには、華やかさはあっても、生活感は少ない。少しずつ、この世界の歪を、観客が感じるように出来ています。
そこへフランクのセリフ。私には、こう聞こえました。妻は夫の事を大切にするだけの人生でいいんだと。感謝してやっているんだから、満足しておけと、見下げられているわけです。要するに妻には感情も人権もなく、一人の人間としての人生は考えちゃいない。それを疑問に思わぬよう、女性たちは仕事にも着かず、この地に閉じ込められている。
アリスは違和感を覚えると、例え自分に危害があろうが、突き進む事を止めません。思えば、切欠になった飛行機事故は、彼女の背景を思えば、あれは伏線だったんですね。命が係っていたから。人の記憶は美化されたり曲げられたりしますが、記憶が逃げ去る事はないんだね。
しかし、フランクの言葉を引き出すため、操る女性もいるわけで。彼女が古風な男女感に固執するのは、幸不幸、どちらの経験からなのか?私は不幸な気がする。ハリウッドと言う、男尊女卑が大手を振って闊歩する世界で働く監督は、男性だけではなく、男の蔭に女あり、を感じる事が多いのでは?
アリスが真相を突き詰めるラストスパートが、怒涛の展開です。かなり猛スピードですが、ちゃんと理解出来る作りです。カーチェイス場面など、さながらアクション映画のようでした。その期待はなかったので、得した気分です。
真相が明かされるまで、フランクのスピーチの意味が解らない人は、男女を問わずいるでしょう。フランクのスピーチは、私が結婚した頃、今から40年前の価値観がそうでした。亡き姑は良き人でしたが、私に伝えた妻の心得は、「女は泣いて泣いて、初めて幸せになれる」でした。妻は夫と家に尽くし、自由がなくて当たり前。モラでもDVでも逃げる事なかれ。自分がそうして数十年後、幸せになったからだと思います。フランクのセリフは、そういう事ですよ。
結婚生活の2/3は忠実に姑の言いつけを守った私は、今何を思うか?泣かなくていいです。妻が泣いて泣いて我慢する生活は、夫の人間としての成長も止めてしまうものです。よく女の成長は男の三倍速と言いますが、妻が速いのではなく、夫が妻と言う見下す対象を得て、自分は完成されたと勘違いして、成長を止めるからじゃないの?この作品のジャックを観て、そう感じました。
共に人生を歩み、共に成長する方が良くありませんか?二人の生活を軸に、個々の人生も大切にする。そのために支え合う。それが生涯の伴侶、人生のパートナーだと思います。私はもう手遅れなので(笑)、口を酸っぱくして、息子三人に言い続けています。
絶賛売り出し中のフローレンス・ピューは、この作品でも絶好調。生に対して逞しさを感じるところが、人工美の過ぎるこの作品で、ヒロインとして生かされていたと思います。「ステップフォード・ワイフ」を未見でも観ていても、どちらでも楽しめます。男女で観る方が、建設的な意見交換が出来る作品です。
この作品の主人公、茂巳(稲垣吾郎)のセリフを借りれば、自分の人生には何の関係もないけど、面白くは観た作品。誉めてます(笑)。監督は今泉力哉。
フリーライターの茂巳。妻の紗衣は出版社の編集をしています。紗衣(中村ゆり)は担当している荒川円(佐々木詩音)と不倫中。しかし、その事をしっても怒りが沸かない自分に、茂巳はショックを受けており、どうしたものかと思案中です。
浮気した妻に怒りが沸かない男に稲垣吾郎って、ドンピシャでしょう?そこに興味津々で観に行きました。そんなわけあるかい!と、散々他の登場人物から謗られた茂己ですが、私は何となく理解出来ました。茂己的には妻を愛しています。
他にスポーツ選手の若葉竜也と志田未来夫婦、女子高生作家の玉城ティナと自動車修理工の倉悠貴のカップルが出てきます。若葉竜也も、モデルの穂志もえかと絶賛不倫中。この三組の中で、茂巳夫婦が、圧倒的に生活感がありません。
夫婦の会話は常に自宅のダイニング。取り留めのない会話は澱みなく、適度な相手への思いやり。コミュニケーションは取れています。でも「親しい他人」のようです。そして「もう寝るね」と、必ずどちらかが先に寝室に行く。これはセックスレスを表しているのかと思います。
茂巳はかつて小説家で、紗衣はその編集者でした。小説の題材は、茂巳のかつての恋人。その恋人が今現れたら、「ちゃんと生きているし、結婚だってしたと言ってやる」と言う茂巳。その相手が妻で、不倫していたのなら、きっと怒ったんじゃないかな?紗衣は、それが辛いのです。
思うように小説が書けない円。紗衣が自分に愛情を示す彼を、身体ごと受け入れるのは、単に良い小説を書いて欲しいからだけではなく、自分がそうして欲しいからじゃないかしら?
夫婦の在り方は様々です。茂巳は人生のパートナーとして紗衣を選び、そこには紗衣でなくてはならない、永遠に続く信頼と言う名の、愛情があったと思います。人としての紗衣は愛している。信頼していたはずなのに、裏切られて怒りがない。だからショックなんだね。紗衣とは、自分にとって、なんなのだろうか、と。対する紗衣は、男女としての夫婦を求めたのでしょう。女性として妻として愛されたいと言う想い。私は彼女が理解出来る。何人子供が生まれようが、どんなに年を取ろうが、夫婦は家族でも、親兄弟、子供とは違うと思う。幾つになっても、そこには男女の残り香が必要だと、私は思います。
私は不倫否定派ですが、紗衣の気持ちはとても理解出来ました。この作品、何が不思議かと言えば、不倫が題材なのに、何故か怒りが沸かない(笑)。若葉竜也もクズですが、これも引退間近の葛藤が、不倫に逃避させているのが解かる。妻がどう反応するか恐れているのね。バカだね、あんなにしっかりした奥さんの、どこ観ているんだか。不倫相手が罪悪感を持ち、妻には勝てない事を悟っているので、若いのに偉いねと思ってしまい、あまり嫌悪感がありません。
玉城ティナの演じる留亜が良いです。彼女の文章は、繊細で流れるように美しく、それでいて地に足が着いている。若さ故の頭でっかちな尖ったところは感じません。それは、不遇だった生い立ちを嘆かず、きちんと自分を尊重しているのでしょう。それなのに、あの彼氏(笑)。しかしこの彼氏が良かった。教養もなく学もなさそうで、一見チャラい感じです。しかし軽薄ではなく、人柄に温かみがあります。何より留亜を愛している。愛情薄い半生だったろう留亜。この彼氏を選んだことが、彼女の人生観なのだと思います。
全体に文学的な印象で、修羅場さえも声を荒げる事なく静々進むのに、全く違和感なし。でも三組の落ち着き方をみれば、監督は不倫を美化しているわけでもなく、私と同じ意見なのかな?と、感じています。
こころに残った台詞があって、何かを捨てれば何かが手に入る、と言うもの。この逆は、執着を捨てる際に使われる言葉ですが、手に入れるために捨てなければいけないより、捨てちゃったら、思わぬものが手に入った、の方が、ワクワクしませんか?これから此方を選択しようと思います。
2022年11月02日(水) |
「夜明けまでバス停で」 |
びっくりしました。面白かったから。この作品の元になった事件は知っていたので、辛い社会派作品になるだろうと、予想していました。確かにその側面はありますが、ヒロイン三知子の最後のセリフに、破顔一笑するとは想像だにしていませんでした。監督は高橋伴明。
昼は自作のアクセサリーをサロンで展示即売し、夜は焼き鳥屋で住み込みのパートをする三知子(板谷由夏)。コロナ禍のため、彼女は焼き鳥屋をクビになり、住む場所を失ってしまいます。再就職先も雇止め、ネットカフェも休業となり、彼女の行き着いた場所は、路線バスの停留所でした。
前半は経済的に豊かとは言えずとも、仲間意識が強く、活気に溢れた三知子や、焼き鳥屋の同僚たちの姿が描かれます。その中に店長の千春(大西礼芳)だけ、立場上三知子たちとは溶け込めず、若い女性が男性と伍して働く厳しさや孤独が、浮き彫りになります。
コロナ禍の不況で、パートは若い美香だけが残され、解雇されたのは、三知子、純子(片岡礼子)、マリア(ルビー・モレノ)の熟年女性たち。明日が見いだせない閉塞感いっぱいの状態になるのが、坂を転げるがごとくあっと言う間で、これもとてもリアルです。
しかし田舎に帰った純子はともかく、三知子とマリアのその後は首を傾げます。寝る場所なら、一時凌ぎにサロンのママ(筒井真理子)を頼ったり、頭を下げて兄の元に帰っても良かったはずの三知子。離婚した元夫の借金をそのまま払ったり、母の介護費用を兄に求められるまま20万も送金したり。家が無くなっても、行政にも相談しない。純子はそんな三知子を、「正しい事しかしない。それが鼻に突く」と言います。でもそれって、正しい事かな?大阪弁で言えば、「ええ格好しい」です。やせ我慢だと思う。これは、のちの彼女の変貌から鑑みれば、そう観客に思わす演出だと、後から思いました。
反対にマリアは背景の描き方が雑。彼女は「じゃぱゆきさん」として日本に来たと語られますが、生んだ子供の国籍はフィリピン?日本?記憶では夫に逃げられた、と語っていましたが、認知はして貰っているのか?婚姻届けは出しているのか?日本の永住権は持っているのか、在留許可だけなのか?この辺の設定で、ガラッと彼女の立ち位置は変わります。孫を背負わす事より、この辺を描き込む方が、貧困のリアルが浮き彫りになると思うな。そして娘が捨てた孫を育てるなら、声を上げて行政なりNPOなり、是非頼って欲しい。マリアの描き方のみ、お涙頂戴感が強く、彼女に希望が見いだせる描き方をして欲しかったです。
後半、ホームレスのバクダン(柄本明)や派手婆(根岸季衣)と、三知子が知り合ってから、どんどん画面が活気づいてくる。炊き出しに並ぶのも渋々だった三知子が、お腹が空いて飲食店の残飯まで漁り、やっとやっと「ええ格好しい」の衣を脱ぎ捨てます。泣きながらバクダンから貰ったお握りを食べる彼女が、本当に愛おしい。
この辺から、全共闘世代のバクダンや派手婆の、政治や経済に対しての昭和からの怒りが炸裂して語られます。あれ?そんな映画だったの?コロナ禍の貧困も、そこから紐解くのかな?と、きょとんとして観ていた私ですが、社会に対しての怒りを語る彼らに、不思議な若々しさも感じます。
自分は真面目に生きてきて、何一つ悪い事はしていないのに、何故こんな目に遭うのかと怒る三知子。物凄く正しい怒りです。その先に望む事の破天荒さにびっくりしましたが(笑)。破天荒さはさておき、監督は怒る事の大切さも、示唆していたのかと思います。
「あんた、謀ったね」と、バクダンに言う派手婆。二人ともニヤついています。思うに、当時は爆弾を仕掛ける事は、国を正す事だと思っていたはずのバクダンですが、罪もない人々を傷つけた事は、今となっては後悔しているのでしょう。政治的スタンスにぶれはなくても、人としての成長だと思います。
千春は店長として、三知子たちを解雇した事の無念さを、必死になって晴らそうとします。彼女もずっとずっと我慢していたのです。その我慢を止めさせたのは、三知子たちを思いやる気持ちです。あぁ、人の気持ちはそうなっている。自分のためだけに生きる事は、やはり「心が貧しい」のですね。彼女もまた、「貧困」に喘いでいたのでしょう。一番深い感情を抱いたのは、私は千春でした。
胸をいっぱいにして、胸を張りながら、三知子に自分の現在を報告する千春に、返事する三知子の答えは(笑)。私はここで大笑い。こんな悲惨な目に遭った女性たちを描いて、ラスト笑顔になれて元気が貰えるとは、思っていませんでした。でも三知子は、「店長」とは呼びかけず、「ちーちゃん」と呼び掛けていました。内容はあれですが(笑)、千春は嬉しかったんじゃないかな。「私もあなたと同じです」と言う千春の言葉に対しての三知子の返事が、「ちーちゃん」だったのだと、だいぶ経ってから、思い起こしました。「あれ」は、本当にしたいのではなく、ただの現実逃避って事です(笑)。
高橋伴明は高名な監督ですが、私はそれ程作品を観た事はなく、作家性を語れないのが残念です。この辛い題材を見事に料理して、コロナ禍に喘ぐ市井の人々にエールを送るなんて、凄い監督だと思います。これが円熟ってもんなのかな?是非ご覧ください。
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