ケイケイの映画日記
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2019年03月24日(日) |
「ブラッククランズマン」 |
「グリーンブック」が白人目線だと、この作品の監督スパイク・リーが吠えていると聞き、早速検証(?)のため観てきました(笑)。うんうん、わかります。でも私はもっと過激に作ってんのかと想像していたので、意外と手控えてるなぁと言う感じ。最後の最後まで、この作品も大変面白かったです。
1970年代初頭のアメリカ。コロラドスプリングス署、初の黒人警官となったロン(ジョン・デヴィッド・ワシントン)。ある日白人至上主義の秘密結社団体KKKが、メンバー募集の広告を新聞に出しているのを見て、白人を装い電話をします。相手はすっかりロンを白人だと思い込み、面接の日が決まります。同僚のユダヤ人系のフリップ(アダム・ドライバー)を自分に仕立て、KKKでの面接は見事合格。こうして黒人と白人が合体して、潜入捜査すると言う、前代未聞の作戦が始まります。
予告編を観て、コメディ仕立てだと思っていましたが、確かに前半は毒のあるユーモアがたっぷり。その中にしっかり、黒人差別・偏見に対して、悪意や無意識ない交ぜになって、ロンを襲うシーンが出てきます。黒人犯罪者を、ロンの前でスラングを使い侮蔑する警官たち。あれは屈辱ですよ。ロンが部署変えを懇願するのも、無理はない。
手始めの潜入捜査は、黒人大学生が中心となっての、ブラックパンサーのリーダーを呼んでの講演。この講演内容が圧巻。フリックは「すごい」と表現しますが、虐げられた歴史の怨み辛みを晴らすのではなく、黒人は今のままで充分素晴らしい、胸を張って生きていける価値がある、それを邪魔するものは破壊しろと、自己肯定感を高く引き上げ、戦闘能力も上げる威力満開のもの。もう初っ端から、監督がヤル気満々なのがわかります(笑)。
大学生のリーダー、パトリス(ローラ・ハリアー)と知り合い、捜査と恋心の狭間に悩むロン。二人が酒場で踊るシーンは、懐かしの「ソウルトレイン」を思い出しました。私が思春期の頃は、この番組だったり、マイケルがジャクソンファイブからソロで曲を出したり、ディスコミュージック花盛りで、私が黒人に偏見がないのは、音楽が一端です。でも一番は、高校時代、倫社の先生がドラマの「ルーツ」を見ることを宿題に出した事。どうして黒人が奴隷として扱われるようになったのかが詳しく理解出来、今でもこの事は先生に感謝しています。差別・偏見を失くすには、文化と教育が大事と言う事ですね。
二人一役の白人・ロンは、KKKの武闘派フェリックスに怪しまれるも、リーダーの穏健派ウォルターの執り成しで、何とか無事仲間入りの日々を過ごします。まぁ電話だって、これ以降フリップが出ればいいと思うんですが、それじゃKKKをコケにする事が出来ないからか、以降も電話はロンが担当。ここは目をつぶろう。
最初は乗り気ではなかったフリップですが、「自分はユダヤ人である事の認識が薄かった。家庭の教育も宗教もだ。でもこの捜査を始めて、それではいけない、この捜査を成功させなくてはいけないと思っている」と、心境をロンに語ります。KKKは白人でもユダヤ人は否定。ラテン系やアジア人もです。ロンは電話中、フリックは潜入中に、何度も「汚いニガー」「ユダ公」など、自ら侮蔑の言葉を吐きます。これが本当に強烈に胸が痛む。痛ませるのを意図した、リーの演出だと思いました。私はこの作品で一番深く心に残ったのは、このフリップの台詞です。言われなき差別に直面したら、逃げるか戦うか、そこには、今までの人生が投影されるはずだから。私も戦います。
後半はコメディタッチを残しながらも、何時かはばれてしまうのか?KKKはどんな手を使ってくるのか?と、ハラハラします。KKKが出てくる映画で、私が思い出すのは、「背信の日々」と「ミシシッピー・バーニング」です。後者は差別の根源は、「貧しさ」だとジーン・ハックマンに語らせます。この作品のKKKも一部を除き、プアーホワイトと思しき人が多い。特にフェリックスの妻コニー。大層太っていて、食事や接待など集会の世話をさせるのに、友人たちの前で話す事すら、夫は許さない。そして「大きな仕事」を妻に任せますが、それは大変危険な仕事。それでも彼女は夫の事を、「こんな私を愛してくれる人」として、夫について行きます。コニーの造形は、白人である事以外、自己肯定出来ない人、自分に自信がない人が、白人至上主義になると言っているようです。事実それが、世界中の極右を支持する人の正体なのではないかしら?
自分の友人が、如何に凄惨な目に合わされたかを、大学生たちに語る黒人の老人。時を同じくしてKKKは華やかな集会を行っている。交互に「ブラック・パワー!」「アメリカ・ファースト!」を集団で連呼する演出は圧巻で、脳裏に焼きついています。「アメリカ・ファースト」と言えば、トランプの専売特許だよなーと思っていたら、2017年の現実の映像が流れ、一見ドキュメンタリー風に場面は転換。流れをぶった切る演出は、拙いとか上手いとか言う以前に、どうしてもこれを、監督は入れたかったんだと、その気持ちが強く伝わったので、私はOKでした。今も昔も、黒人の悪しき状況は、代わり映えしていない、それが言いたかったのだと思います。
主演のワシントンは、私の愛するデンゼル様の息子なんだとか。お父さんの方が素敵だわ(笑)。でもジョン君も愛嬌ある雰囲気で、好感度は高し。アダムは娯楽作、問題作、インディーズと何でもござれで、全部上手いのに、どれもアダム・ドライバーとしての個性が出ているのがすごい。今後もっと出世すると思います。
作品としては「グリーンブック」の方が、間口が広く端正に作ってあって、オスカーには相応しいとは思いました。差別に対しての入門編と言う感じかな?「ブラック・クランズマン」は、良い白人はちっとも出てこず、視点にかける点もある。でも私が何年経っても、強烈に覚えているのは、多分この作品だと思います。リーの叫びは、いつまで入門編でお茶を濁してんだ!と言うところでしょうか?
ラスト、ロンとパトリスが未来へ向かって闘うのを想像させる演出は、リーの今の心境なのでしょう。還暦過ぎての燃える闘魂を見せて貰って、私もファイトを貰いました。
本年度アカデミー賞、監督・外国映画・撮影賞受賞作。中流家庭で働く若いお手伝いさんの一年を描いているだけなのに、信じられないくらい、美しい作品。この美しさは、ヒロイン・クレオに対する監督の心なのだと思います。今回ネタバレです。監督はアルフォンソ・キュアロン。
1970年代前後の、メキシコの都市ローマ。先住民の若い女性クレオ(ヤリッツァ・アパリシオ)は、中産階級の医師家族の元、家政婦として働いています。同僚のアデラの彼氏の従兄弟と恋仲になり、妊娠しますが、それを告げると、恋人は彼女から去っていきます。
モノクロ画面が美しい。陰影に富み、当時を再現した美術と相まって、当時の世界へ目と心を連れて行ってくれます。前半はクレオの日常を丹念に追い、雇用主との関係性と時代を映します。
子供たちは思春期くらいの男子を頭に、男子三人に女子一人。みんながクレオに懐いており、子守や寝かしつけも彼女の仕事。日本で言えば「ねえや」のような存在なのでしょう。もう一人の同僚は子供たちの世話はしておらず、主人の信頼は、クレオの方が厚いようです。
本当に淡々と日常を映すだけなのに、クレオが何を思い何を感じているのか、手に取るようにわかるのです。平凡なメイドの日常が、こんなに胸に染み入るなんて。彼女はいつも静かな微笑を称え、怒った事もなく口答え一つしない。その様子は希望でも絶望でもなく、この境涯を受け入れると言う形の、「あきらめ」に感じます。そんな日常に、ささやかな花を咲かせていたはずの恋愛が、裏切りと言う形に終わり、クレオ以上に男の不実に私が怒ってしまいます。
後半からは、主人夫婦の夫の浮気での家庭崩壊、クレオと恋人の対峙、不安定な治安と暴動。数々の出来事が家族とクレオを襲い、内容が大きく移り変わります。奥様は締まり屋で、時々癇癪を起こすけど、基本的には情の濃い善人です。一緒に住む子供たちの祖母と、妊婦のクレオに気配りしてくれる様子に、ほっとします。奥様は恋人に捨てられたクレオに、同病相哀れむ感情を持っているのですね。それが時々辛い感情を持て余し、クレオを傷つける物言いをするのが、見ていて辛い。
クレオの赤ちゃんのために、祖母とベビーベッドを観に行った際に、暴動が起きる。その中に彼女を捨てた男がいて、あろう事か、クレオに刃さえ向けるのです。ショックで破水する彼女。暴動のせいで車は渋滞。結局出産には間に合わず、クレオは死産します。この時も、咽び泣くだけの彼女。きっと今までの人生が抑圧され過ぎて、喜怒哀楽を表現出来なくなっているのでしょう。
夫との離婚を決意し、見違えるように気丈になった奥様。子供たちとの旅行に、クレオを誘います。傷心の彼女を労わりたいのです。同行するクレオ。 そこで波に呑まれそうになった、子供二人を助けるクレオ。彼女は泳がないにも関らず。その直後、奥様とクレオ、子供たち四人が、しっかり抱きあったのが、画像のシーン。この時、一点の光明が後ろから射し、その神々しさに目を奪われます。
この時「子供は産みたくなかった・・・」と吐露するクレオ。奥様は「私たちは、みんなあなたが好きよ」と答えます。一見噛み合わない会話ですが、その時あぁと、私は腑に落ちました。この作品は、監督の半自伝で、男子のいずれかが、監督自身。そしてクレオはリバという実在の家政婦がモデルです。
クレオが子供たちを助けたのは、主人の子供と言う責任からより、自分の命を顧みないほど、子供たちを愛していたからだと思います。他人の子供にも、溢れる母性を与える彼女が、子は産みたくなかったと言う。一人で育てる事に不安がいっぱいで当たり前なのに、彼女は自分の感情がお腹の子に伝わったのだと、悔恨しているのだと思いました。
そして奥様も。インテリで生化学の研究者なのに、子供を養う為に出版社で働くと言う。その方が給料が良いからで、「私は生化学は好きじゃないの」と、気遣う子供たちのために、噓をつく。
学会だ研究だ、国を変えるなど大言壮語を言うけれど、実態はろくでなしの不実の父親たちに対して、子供のために強くあれと、変貌しようとする母たち。画面は静かに父親を断罪し、母たちに敬意を表している。それをしっかり子供たちが受け止めているのが、画像の構図だと私は強く感じました。
母とクレオの尊さを、キュアロンは残しておきたかったのだと感じました。ハリウッドで成功した彼でも、この美しく力強い、でも地味なお話には、ハリウッドはお金を出してくれなかったんでしょうね。私はネットやテレビでは集中力が持続せず、映画館でなければ、ここまでこの作品を味わう事は出来なかったと思います。劇場公開してくれたイオンには感謝です。
いやー、もう脱帽!俳優は引退したはずの88歳のクリント・イーストウッドが 復帰。主演と監督を兼ねる作品。何故復帰したかと言うのは、見れば一目瞭然。作品をベストに仕上げるには、主人公は彼が演じるしかなかったと思いました。凡庸な人生の最終章に起こる、仇花的な出来事を、人生の集大成にしてしまう、鮮やかな作品でした。
花作りを営む90歳のアール(クリント・イーストウッド)。かつては繁盛した仕事ですが、今はネットに仕事を奪われ、家も差し押さえられる有様。長年仕事にかまけて家庭を顧みず、妻(ダイアン・ウィースト)や娘(アリソン・イーストウッド)殿間には、深い溝があり、家族はアールを拒否します。ひょんな事から、荷物を運ぶだけで大金が貰える仕事を紹介して貰うアール。当初は、何を運ぶか知らなかった彼ですが、実はそれはメキシコから麻薬を運び出すと言うもの。しかし大金に味をしめてしまったアールは、そのまま麻薬を運ぶ事を選択します。
前半は現在の孤独な境涯から一転、羽振りの良くなったアールの変貌を映します。肩で息をしながら、前屈みに歩く今にも倒れそうな老人だったのに、羽振りが良くなってくると、シャキッとして、ファッションも垢抜け、新車を運転する姿が似合うのなんの。俗な歌詞のカントリーを、ラジオとともに鼻歌を歌い、果ては「仕事」の道中に好き勝手寄り道までして、お目付け役の組織の若いもんを煙に巻く。
麻薬元締めのアンディ・ガルシアに気に入って貰い、プレイボーイクラブのラテン版みたいな所で、まさかの酒池肉林。孫ほどの女相手に、「心臓の薬を飲まなくちゃな」とジョークを飛ばし余裕綽々。冒頭嫌味なくお婆ちゃんたちにおべんちゃら言う様子から、女好き&その道の修行はかなり積んだ御仁のはずで、痛快ですらあります。
悪い事してせしめたお金は、妻子や孫に渡したり、退役軍人のために使ったり(自分も退役軍人)と、慈善と詫びの行脚の日々は、まるで善行を積んでいるようにまで見え、老春を謳歌しているように見えます。しかめっ面で麻薬組織撲滅に邁進する警察の面々(ブラッドリー・クーパー、ローレンス・フィッシュバーン)なんか、人生の楽しさを知らないバカに見えちゃうほど。
しかし、そんな日々は長く続くはずもなく、アールにはお仕置きが待っている。そんな時にかかって来た孫娘からの一本の電話。軽妙な語り口に、楽しく見られた前半は、この後を描くためのものだったのでしょう。
アールは悪い夫や父ではありましたが、決して悪人ではありません。むしろ他人は良い人だと言うでしょう。なのに妻子は憤懣やるかたない。アールは良き夫、父とは、お金を運ぶ人だと思っていたのですね。お金を運んでいるから、妻子の事は本当に心から愛しているので、他は何をしても許し貰えると、思い込んでいたのでしょう。「仕事だ」と言えば、妻子は黙って当然だと。ほったらかしにする事に、チクリと胸は痛んでいるはずなのに、むしろそれがカッコいいとさえ思っている。これはアメリカだけじゃなく、日本でもどこでも世界中に、たくさんたくさんたくさんいた夫です。
過去形になりつつあると思います、今はね。アールは黒人をニグロと呼びますが、今はブラック。世の移り変わりをわかろうとしないアールを、若い黒人夫婦は、嗜めます。
お金も自分の命すら顧みず、アールがした事は?家庭をほったらかしにし、その贖罪のつもりで、しこたまお金を渡しても、決して許さなかった娘が、何故父を許したか?ここを是非読み取って欲しいと、心から思います。
イーストウッドが超素敵なんだなー。ほんと色男なんだわ。男の残り香に多少の加齢臭を漂わせ、それがまた、味わいになっている。奇跡の88歳(笑)。私は御爺さん俳優は、マックス・フォン・シドーを愛しているんですが、シドーだとやっぱり、色気に北欧の品が入ったりするけど、これはアメリカの「タタ(メキシコ語で御爺ちゃん)」のお話。俗っぽくて粋で、そしてやっぱりハンサムでなきゃ。自分が復帰するしか、ないと思ったんでしょうね。
「ギルティ!」と叫ぶアールの、その言葉の意味は、麻薬を運んだ事ではなく、夫・父としての自分は有罪だと言う意味だと思いました。その心が娘の届いたから、「パパ愛しているわ」と言う言葉を、引き出したのでしょう。
思えばイーストウッドも何回も結婚離婚を繰り返し、愛人だったソンドラ・ロックにまで訴えられていましたっけ。実娘のアリソンに、実生活をだぶらせる役を宛がうのは、素のイーストウッドの、アリソンに対する侘びにも感じるのです。
妻の誕生日を忘れたブラッドリーに、二度と忘れちゃダメだ。俺のようになると、自嘲気味に語るアール。私の父は五回の結婚と四回の離婚を繰り返した、子供にとって迷惑きわまりない父です。そのお陰で、母親の異なる7人の子供のうち、行き来があるのは、私と現在の妻との間にいる娘だけ。その父が、私に幾度となく私の語るのが、「お父ちゃんは、お金さえ稼げばええと思っていた。金を稼いでいるんやから、何をしても許されると思ってたんや。でもそれは間違っていたと、今後悔している」。この言葉が聞けて、私は父を見限らないで良かったと、心から思います。
私の親父そっくりなアールが、現在少々家族疲れしている私に、活を入れてくれた作品。男女ともしっかり、イーストウッドのメッセージを受け取りたいですね。
本年度アカデミー作品賞・助演男優賞・脚本賞受賞作。黒人のボス、白人の付き人と言う、1960年代では珍しい雇用関係の二人の、ユーモラスで温かなロードムービー。陽気でライトな語り口で黒人差別を問う秀作なのに、何やらスパイク・リーが、白人目線の作品だと批判しているんだとか。はて?どこだろう?と思いましたが、リーの批判が呼び水になり、私なりに当初より深く想起することが出来ました。監督はピーター・ファレリー。
1962年のアメリカ。一流クラブで用心棒として働くトニー(ヴィゴ・モーテンセン)。しかしクラブの改装で、数ヶ月間無職の憂き目に。そこへ友人が持ってきた話しが、ドクター・シャーリー(マハーシャラ・アリ)と言う、有名黒人ピアニストの付き人です。面接でトニーを気に入ったシャーリーは、二ヶ月間の演奏旅行に、トニーを雇います。行き先は黒人差別の強いアメリカ南部。当初こそ黒人への偏見が強かく、この仕事に乗り気ではなかったトニーですが、この旅は、彼の視野を広げる旅となりました。
脚本のニック・バレロンガは、トニーの息子です。それを事前に知っていたので、数々のユーモア溢れる心温まるエピソードが、素直に胸に入ってくる。そして辛い場面お堅い場面も色々あるのに、とにかく陽気!この明るさは、トニーがイタリア系であるのが起因しているのでしょう。
幼少からピアノの才能を見出され、少年期にはロシアにピアノ留学。教養豊かで静かな物腰は、品がなく無教養で騒々しいトニーとは対照的。その二人が、長い旅の道中、お互いを尊重し理解し合えるようになります。そのキーワードが、「黒人差別」でした。
トニーは、ピアニストとしての実力や、言われなき差別に対して、声を荒げる事もなく屈服せず、毅然とした態度で相対するシャーリーに,素直に敬服します。シャーリーもまた、大らかで楽天的なトニーの性格を愛し、立ち振る舞いの品のなさと、人としての人格は別物だと学びます。特にシャーリーがトニーに引きつけられたのは、家族仲の良さじゃないでしょうか。
バレロンガと言う名前は口にし難いので、トニー・バレと人前で名乗れば?とシャーリーが提案すると、トニーは即座に却下。俺の名前はバレロンガだと譲りません。トニーはイタリヤ系移民。バレという名前では、イタリヤ系であることが、同じ白人であるためアメリカでは埋没してしまうからでしょう。トニーのイタリア人としての誇りが、バレを名乗らせないのです。例えイタリヤ系は差別されてもです。シャーリーは肌の色で差別されているので、その事には気が付かない。
天才ピアニストとして、富も名声も豊かなシャーリーは、黒人世界では異端です。仕立ての良いスーツを着こなすシャーリーを、農夫の黒人たちが忌々しそうな目で見つめる姿が辛い。黒人社会では「名誉白人」のように見えるシャーリーも、実は白人ハイソたちの偽善の生贄で、トイレも使わせて貰えず、楽屋は物置。レストランにも入れない。誰にも言えない秘密も抱え、シャーリーは孤独です。
何故シャーリーは差別に真正面から戦うのか?そこが彼の居場所だったからじゃないのか?誰もが羨む天賦の才能を得た彼は、そのせいで、数々の親愛を奪われる。一番好きなクラシックを捨てて、ポピュラーミュージックで同胞のため戦うのは、黒人である事が、シャーリーの一番大切な誇りであるからだと思います。トニーは道中、そこに気付いたのじゃないかなぁ。自分と同じなのだと。
私は日本生まれ日本育ちの100%純血種の在日韓国人。普段と言うか、ほとんどが日本名の通名を使っています。トニーと同じく、韓国名を名乗らないと、日本人と思われます。何故名乗らないのかと言うと、韓国人を隠したいわけではなく、物心付いた時から、名前は日本名しか使っていなかったから。当時も今も、自分の韓国名と向き合うのは、住民票と特別永住者証明書と戸籍だけ。親世代は日本の統治時代に創氏改名で韓国名を奪われており、戦後日本で暮らす事を選択した在日は、そのまま通名で暮らすようになり、その子孫も今に至ると言う訳です。要するに、本名を使い慣れておらず、通名に愛着がある人が多いと思います。
私は絶対韓国人には見えないようです。私が在日だと言うと、「ほんまぁ。ケイケイさん、きちんとしているし、全然見えへんわ」と言われた事もあります。これは微妙に傷つく(笑)。でも言った人は私を褒めたつもりで、悪気はないのですね。なので私も、複雑な気持ちは隠し、曖昧に笑顔を返しました(←我ながら日本的だ)。でもこの場合、怒る人もいるはず。私はそれも間違いではないと思います。結局リーの批判は、こういうことじゃないかな? 差別される側でも、皆が同じ意見であるはずはなく、また同じ必要もないと言う事です。
因みに私が在日と知って、在日への偏見が薄くなったと言われた事もあります。これは積極的に嬉しいです。これに怒る人は間違っています(笑)。 シャーリーが自分は白人でもなく、黒人でもなく、人間扱いされていないと叫んだ時は、心の底からシンパシーを感じました。私たち在日がそうだもの。日本では韓国人と差別され、韓国では日本人と差別され。私たちは国籍は持っていても、現実は在日と言う人種です。
シャーリーが見知らぬ黒人ばかりの安酒場で、その土地の黒人たちと和気藹々とセッションする場面が胸を打ちます。シャーリーの心の澱を、彼の才能と血が洗い流してくれたのですね。今まで誰もシャーリーを同胞の元へは連れてきてくれなかったんですね。トニーがシャーリーを連れてきたのは、トニーが同胞の存在の重みを知っていたからでしょう。これも私にも当てはまります。
ラストシーンは、ほろ苦さで終るかと思っていたら、その逆だったので、とても嬉しかった。そういえば、トニーは言っていました。寂しい時は、自分から寄り添うものだと。トニーは美人で聡明な奥さんと可愛い息子たちに、与える愛情を育てて貰ったんですね。
オスカー受賞のアリは、黒人ではあまり見ないスマートでエレガントな個性の俳優で、初登場時のアフリカンな衣装も王族っぽく見事な着こなしで、オスカー授賞式の伊達男ぶりも素敵でした。この作品でも文句なしの好演。
ヴィゴは上手かったんですよ!あのもの静かなヴィゴが、でっぷり太って腕っ節が強くて、口先三寸の陽気なイタリヤ系の善人を演じて、その人にしか見えなかったです。
個人的に、トニーにもシャーリーにも、強くシンパシーを感じる内容で、私には忘れられない作品になりそうです。薄口に感じる作りですが、人種の坩堝のアメリカでは、私のような感想を持った人が大勢いると思います。語り口はライトでも、メッセージはヘビー級の作品。
壮大な茶番が謳い文句の作品。茶番も茶番、大茶番。でも本気出して作った茶番は、秀作になり得ると言うお手本でした。ご当地埼玉も大ヒットと聞いて、ディスられてるのに、埼玉の人って器が大きいなぁと感心しておりましたが、観れば納得。大爆笑の中に、埼玉愛も風刺もたっぷりの作品でした。監督は武内英樹。
とある時代。埼玉県民は、東京に行く時は通行手形が必要等、東京都にひどい差別を受けていました。東京都知事(中尾彬)の息子百美(二階堂ふみ)が生徒会長の白鳳堂学院でも、その差別は踏襲されていました。ある日、この学院に容姿端麗で洗練された帰国子女の麻美麗(GACKT)が転校してきます。生徒の耳目を一新に浴びる麗ですが、彼こそは埼玉開放戦線のメンバーだったのです。
確かにコミックの百美はあんな扮装ですが、ふみちゃんやり過ぎだよと予告編では思っていましたが(つけま3枚くらい重ねているし)、何の何の、決して薄くない個性の、若手きっての演技派のふみちゃんでさえ、あれくらいやらないと埋没するほど、他のキャストが濃い(笑)。
白鳳堂学院のカーストトップは、まるで宝塚の様相だし、知事夫人(武田久美子)は、マリー・アントワネットだし(笑)。四十男のGACKTの高校生姿が違和感ないと絶賛されているようですが、その褒め方はベクトルが違う(笑)。元々GACKTが異次元の住人みたいだから、このふざけた世界観に違和感ないんだよ。他にも伊勢谷友介に京本雅樹、ブラザートムに竹中直人、益若つばさに小沢真珠、麿赤児まで!普通なら、うわ〜、もういいですと言いたくなるはずが、小ネタの積み重ねで笑いを取るのが鉄則の作りなので、みんなここまで弾けてくれるのかと、感動すらしてしまうのね。
バカバカしいお笑いの中に、風刺もきっちり。埼玉だけが東京にバカにされているのではなく、千葉や茨城も同様なのに、「埼玉に言われたくねーわ」と好戦的。いやいや敵は東京だよ?埼玉同士だって、うちは埼玉でも都会、お前んち埼玉の田舎と、ここでもカーストを作る。これどこでもある話しですよね。 極めつけは、麻生久美子の妻が、ブラザートムの夫に、「あんた新婚旅行でグァムに行った時、フロム・トーキョーって言ったよね?」。愛しているのに田舎と恥じているのですねぇ。ダメな思考なんですが、なんだか切ない。
でもこれ関東圏だけの問題だよ?私は埼玉と言えば、西武ライオンズとクレヨンしんちゃんの住所(春日部)しか知りませんが、ダサいとか思った事ないもん。千葉や茨城もそう。草加せんべいは浅草の名産品だと思っていて、埼玉の人、ごめんなさい。あぁでも、関西でも第四位の県はどこだ?的な特集、テレビでやっていたな。滋賀・和歌山・奈良で争うのだか。これ東海や九州など、全国各地で争いが勃発しているんでしょうね。
レジスタンスの様子は、手の込んだギャグの応酬で、めっちゃ笑います。私は千葉と埼玉の有名人対決が一番好き!
それと伊勢谷友介とGACKTのキスシーンがありましてね、おぉ、四十男同士だって、美しければBLねと、うっとりしておったのですが、私が思わず想起したのが、この作品の原作者魔矢峰央の「パタリロ!」の、バンコランとマライヒ。以前に中年以降の女性は、同年代の男性より同性愛に寛容だと言う統計があると読みました。それって絶対「パタリロ!」のお陰だよ。この作品の百美(女にしか見えんが)と麗だって、そうだしな。意外なところで、魔矢峰央の先見の明を発見しました。
埼玉県人は、埼玉への愛を再確認して、東京都民も、傲慢だった自分たちを反省し、めでたしめでたし。どこに住んでも、郷土を愛し誇りを持って生きましょう!と言う素晴らしいメッセージが込められた作品です(←マジですから)。
2019年03月03日(日) |
「THE GUILTY/ギルティ」 |
これは拾い物。電話で見えない相手と繋がり、コミュニケーションを取りながら、事件を解決するプロットは、結構あります。真っ先に浮かぶのは、「セルラー」かな?でもこのデンマーク作品は、ハリウッドの事件解決、めでたしめでたし、とは一味も二味も違う結末が待っている秀作でした。監督はグスタフ・モーラー。
警察の緊急センターでオペレーター中の警察官のアスガー(ヤコブ・セーター・グレン)。電話を取った相手は、元夫のミケルに誘拐されたイーベン。彼女を救い出すため、アスガーは死力を尽くします。
場面は緊急センターの中の、狭い空間を行ったり来たりするだけで、ラストまで外へは一歩も出ません。その点がまず、ハリウッドと違う。イーベンやミゲル以外にも、元夫婦の間の娘やアスターの相棒、上司、他の部署のオペレーター等複数の人々が出てきますが、みんな電話からの声だけ。それなのに、その場が目の前に繰り広げられているように想像できる、会話の数々が、まず秀逸です。
次々代わる電話の相手から、アスガーと言う人が浮かび上がる。彼は何か不始末があって、現場から外されており、明日がその裁判。妻は家を出ています。 思うように事が運ばず、物にあたったり、失礼な態度を同僚に取ったり。自分の独断で、飲酒している相棒に、ミゲルの家宅捜査を車で急行せようとせっつく。気が短く偏見や思い込みが強く、尊大で傲慢な男です。多分自覚しているのに、直らない。妻が出て行ったのは、そういう夫の気質に、嫌気がさしたのだと思います。
イーベンを捜索する中、彼女との会話で、アスガーは自分の思い込みに愕然とします。多分優秀な警察官であるはずのアスガー。だから不始末も、何とか周りが揉み消そうとしているのでしょう。その強引な捜査はどこから来るのか?ミゲルには前科がありました。彼は正義から罪を怒り、全ての犯罪者を憎んでいたのではないか?彼の過去に、そうなってしまった事がある気がしました。 罪を憎んで人を憎まずと言いますが、それは警察官に一番大切な言葉なんだと痛感しました。
水族館の話しをする、アスガーとイーベンの会話が美しい。彼に純粋な良心を取り戻させたのは、弱者のイーベンだったと思います。「お手柄ね」の、他の部署の同僚の声は、アスガーにとって皮肉でしかありません。ラスト、やっと部屋から出たアスガーが、廊下で電話した相手は相手は誰だったのか?私は妻だったと思います。
爽快感皆無の、苦い苦い結末ですが、その苦さは、アスガーの今後の人生の糧に出来るはず。アスガーには、今後も警察官を続けて欲しいと思いました。ハッピーエンドではありませんが、感傷だけではなく、微かな希望も抱ける作品です。
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