ケイケイの映画日記
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2018年11月23日(金) 「ボヘミアン・ラプソディ」




えーと(笑)。現在日本中で話題沸騰、ワイドショーでも取り上げられて、クィーンと共に思春期を走っていた、コアなファンだった私はびっくり。評価がすごく高くて、少し引き気味で、期待値下げて観ましたが、それでもなぁ。この作品が好きな人、ごめんね。クィーンと言うより、フレディの伝記として作られたこの作品、あまりに私の記憶する事実と違いすぎる。どこでどう感動すれば良いのか、皆目わかりませんでした。監督はブライアン・シンガー。

厳格な家庭に育ったペルシャ系インド移民の青年フレディ(ラミ・マレック)。好きだったバンドのヴォーカリストが抜けた事を知り、ギターのブライアン(グィリム・リー)、ドラムのロジャー(ベン・ハーディー)に直談判。見事な歌声を気に入られ、バンドに加入します。ベースのジョン(ジョセフ・マッゼロ)も加わり、バンド名もクィーンと決まります。自主制作のアルバムが認めれて、メジャーと契約。ミリオンヒットも飛ばし、スターダムにのし上って行くのですが。

まずは良かったのは、とにかく音楽と出演者のそっくりさんぶり。四人とも全く問題なく、本当に懐かしくて涙が出るほど嬉しかったです。ステージの所作なんか完璧ですよ。音もIMAXで見たので、重低音までしっかり聞き取れ、あらゆるジャンルで完成度の高いクィーンの楽曲が確認出来て、見るならこちらをお薦めします。

でも内容がなぁ(ため息)。これ、ブライアントロジャーも監修しているんでしょ?なのに、時系列がバラバラ過ぎる。だいたいクィーンは、最初のアメリカツアーって、失敗しているんですよ。それも前座だし。二回目の時は成功した記憶があるけど、これも単体ではなく前座。

それより、同時期に日本で人気が沸騰し、それが起爆剤となったのは確かだと思います。今回流れませんでしたが、「手を取り合って」と言う曲があり、あのフレィディが一部、「手を取り合って、このま〜ま行こう〜、愛するひ〜とよ〜。静かな宵に〜、光を灯し〜、愛しき教えを〜抱き〜♪」なーんて、すんばらしい歌詞を、「日本語」で歌っているの。

主にルックス優先で、一番人気はロジャー。あの頃のロジャーは、それはもう、天使のように可愛かったのよ。その後楽曲の良さに注目され、人気はうなぎ登りに。でも男子には拒絶反応が見られ、扱いもしばらくベイ・シティ・ローラーズより、ちょっと本格派と言う扱い。こんなに楽曲に魅力があるのだから、きっとクィーンが好きな男子もいっぱいいたはずなのに、それが言い出せない雰囲気まであり、今思えばクィーンにとっても、良いのか悪いのかわからない、日本での人気でした。

残念ながら、これらは、全く出てこず、華麗にスルー。まぁブライアン&ロジャーには、小さな事だったんでしょう。

フレディはビジュアルも変化がありましたが、映画では「ウィ・ウィル・ロック・ユー」の時、お馴染みの短髪・口髭のハードゲイ風のフレディでしたが、そんなのもっと後だよ。あの頃はキンキラのステージ衣装で、まだおかっぱの頃。何でフレディの風貌の変化を記憶しているかと言うと、ハードゲイ風のフレディはすごく似合って素敵だったから。それまでは嫌がるメンバーに女装させてみたり(そのお陰で遅れてきたグラムロック扱いまで受けた)、本人はお耽美だと思っていたろうけど、気色の良くない胸毛全開のジャンプスーツとか、美形のメンバーの中で、一人美しくない男の悲哀を見せられた気がしていたからで、変貌後は、とても嬉しかったのです。なので、後半にメンバーが女装させられていたけど、あれもファーストかセカンドのアルバムの、もっと若い時だよ。何してんだよ、ブライアン&ロジャー!

そしてもっと怒りたいのは、フレディに対して敬意が感じられる演出ではないこと。私は当時ブライアン一押しでしたが、人柄はジョンが一番いいとの定説でしたが、フレディも繊細で感受性の強い穏やかな人で通っていました。私が中学生当時、友人のお姉ちゃんの友人のお姉ちゃん、ややこしいけど、まぁ大人に近い年齢の女性です。その人もブライアン押しで、「ブライアンにやってもらう(品のない表現でごめんよ)」と、10万円使って、アフターパーティーにもぐりこんだとか。メンバーそれぞれ程なく気に入りの女性と部屋に消えたけど、フレディだけは彼女たちを持て成し、一人部屋に引き上げたとか。彼女はフレディの人柄の良さ絶賛したんだとか。

当時メアリーの事は知っていたけど、ファンの間では、フレディはバイよりのゲイみたいな認識でした。今より封建的な雰囲気でしたが、それが何か?的に、ファンには不問で、それが彼の特性で、それであの曲の数々が生まれたのだなと、妙に納得したものです。そう、クィーンに興味がない人で、フレディが嫌いな人はいたかもですが、メンバーの誰押しであっても、クィーンが好きな人で、フレディが嫌いな人は、いなかったはず。もちろん私もそうです。

フレディ対三人の図式もなぁ。噂だけかもですが、これまたフレディはジョンと仲良しだったとの定説があり、あれもなぁ。ゲイであること、恋人から友人へと関係が変化したメアリー(ルーシー・ボーイントン)との間柄を描くのに長く割き、メンバーから孤立させるために、フレディを売った付き人ポールまで時間を割いて、フレディのこれでもかの孤独を浮かび上がらせるため、脚色・創作が過ぎると思います。

だいたいだね、フレディ主催の乱痴気騒ぎのパーティーだって、あんなのアルコールにドラッグ、グルーピーのお姉ちゃんとの酒池肉林なんて、ロックスターには当時付き物だったはず。健康なんか全く気にせず、シックスパックってなんですか?腹筋なんて割れてたまるかの、心意気だったはず。それが何だよ、妻子がいるから、他のメンバーは早々に帰るって(笑)。これも時代が合わない。

テレビでフレディのドキュメントが放送された時、フレディの最後のパートナー、ジョンを観た瞬間、あぁフレディ、生き急いだけど幸せな晩年だったんだと、涙ぐみました。穏やかな普通の人であるジョンの語るフレディは、愛する人と落ち着いた心豊かな生活を営み、クィーンのフレディではなく、本名の
ファルーク・バルサラの人生も、ジムと共に幸せだったのだろうと思います。時間を割くなら、そこを割いて欲しかった。

「僕たちは家族だろう」なんて、陳腐な台詞もいらん!ビジネスパートナーだから、未だにフレディを使って、お金稼いでいるんでしょ?>ブライアン&ロジャー。フレディ死後、一切出てこなくなったジョンは、潔いです。やっぱり仲がよかったんだよ。

皆々様が感動している、ライブエイドのシーンも、水を差すようで悪いが、あの頃フレディは、自分がエイズなんて知らなかったんだよ。楽曲と出演者で持っている作品なんだから、流すなら全曲フルで流すのが、良心だと思いますけどね。

私はブライアン押しですが、そういえば、ブライアン、顔つきが変わったね(笑)。ロジャーはまだまし。ロバート・プラントを「出てくれないなら、他のヴォーカリストを出すぞ」と脅して、渋々承諾させ、再結成のライブをやったジミー・ペイジ。ジャーニーの二ール・ショーンが、盟友スティーブ・ペリーが最愛の母の死に立ち直れないため、見限ったのか、あきらめたのか、スティーブそっくりの歌声のアーネル・ヴィネタをフィリピンから連れて来た時は、あー、「昔の名前で出ています」路線で、これから行くのねと思ったもんです。ギタリストはお金が好きなんだな。

でもなぁ、キッスのジーンやポールが、70になってもあのメイクで獣仕様のロンドンブーツはいて、まだ火を吹いているんですよ。スティーブン・タイラーだって、ロック原始人みたいに50年一日の如く、「猿の惑星です」的風貌を保ち、頑張ってんの。それ、本人が頑張っているから、ファンも嬉しいですよ。人のふんどし=フレディで金儲け、は如何なものか?この作品は本当に期待していたので、ファンとしては残念でした。

最後に「アイム・ラブ・イン・ウィズ・マイカー」は、散々貶されたのに、全く流れなかったので、ロジャー敬意を表し、貼っておきます。

I'm In Love With My Car


2018年11月18日(日) 「生きてるだけで、愛」




とっても注目している趣里が主演なので、楽しみにしていました。いやー、精神科に勤めていた時、見聞きした事が、脳裏に浮かんで離れませんでした。生き辛い彼女たちの姿を、リアルに表現しつつ、厳しくも温かく見守っている作品。監督は関根光才。

躁鬱を患っている寧子(趣里)。欝のときは過眠症状が顕著で、起きられません。ゴシップ誌のライター津奈木(菅田将暉)と同棲中ですが、家事も仕事も出来ない状態なのに、津奈木には感情の赴くまま、当り散らす日々。そんな自分に向き合わない津奈木に、寧子は不満も持っています。ある日、津奈木の以前の交際相手である安堂(仲里依沙)が、寧子の元にやってきます。

寧子が何を起因に患ったのかは描かれませんが、冒頭語られる母親の件で、私は遺伝があるのかと、想像しました。まっ、そんな事はどうでもいいのだけれど。

まー、嫌な女(笑)。散らかり放題の部屋、津奈木に理不尽な要求ばかりし、感謝どころか暴言を浴びせる寧子。津奈木が菩薩のような対応かと言うとそうではなく、何を言われても無反応に近く、逆らわないだけ。いったい何で同棲しているのか、見ているこちらは、わかりません。

それが寧子の日々を追っていくと、段々と彼女の葛藤が露になる。彼女自身、今の状態で良いと思っているわけではなく、自分を持て余し、自暴自棄寸前なのです。久しぶりに津奈木の好きなものを作ろうとしても、突発的なアクシデントに対応出来ず、発狂したように叫ぶ姿は、結果だけ切り取ると、本当に面倒臭い。しかし、そのプロセスを追うと、寧子の感情の発露が理解出来るのです。事実私は、混乱する寧子の気持ちが痛いほど伝わり、泣いてしまいました。

思いやり溢れる雇い主夫婦(田中哲司・西田尚美)に対しての対応もそう。自分なりに一生懸命動いているのに、結果が伴わず信頼も失っていく姿は、私が何度も目の当たりにしてきた光景です。

他人は全く何も感じていないのに、自分だけ敏感に感じている。周囲からポツンと取り残されるのは、「孤独」ではなく「恐怖」なのだと思います。「鬱なんて孤独だからなるんでしょ?こうやって、みんなで楽しく御飯を食べれば、元気になるのよ。」にこやかに寧子を元気付ける気持ちで、店主夫人は語りかけます。この心ある言葉の無神経さを、それに続く寧子の行動で、作り手は嗜めています。店主夫人には、何の罪もないけれど、寧子のような子を雇うなら、それなりの覚悟と勉強が必要なのだと痛感します。

あれやこれやで躁転してしまい、素っ裸で街を走り抜ける寧子。実はこれ、多いのです。症状が安定している時は、そんな姿が想像も出来ない人ばかりでした。

晴れやかな表情から一転、津奈木に対して、今の自分の葛藤、津奈木への不満や思いを吐露する寧子。「津奈木は私と別れられるけど、私は私と別れられない。津奈木が羨ましい」と語る寧子に、私は号泣。そして、暖簾に腕押しのような態度だった津奈木ですが、寧子と一緒にいる理由を聞き、すごく納得。愛情でも仏心でも惰性でもなく、共感と羨望でした。だから飄々として、共依存にならなかったのですね。

寧子に立ち直って欲しいとか、病気を治して欲しいとか、一切望まない。あるがままの彼女を、受け入れているのです。これは、見守る側としての、極意なんでしょうね。でもこれ、すごーくすごーく難しいぞ。だって本当に大変なんだもん。

趣里は、私の期待に応えまくりの熱演で、大変良かったです。人気と実力を兼ね備えた父、元アイドルで女優の母と比べられ、デビュー当時は親の七光りだの、容姿を論う声も多かったようですが、観よ、この存在感と名演技!確かに美人ではありませんが、年齢不詳の愛らしさと、それに反比例のようなダミ声は個性的で、何でも演じられる強みを感じます。彼女のお母さんは、私は正直、女優と言う括りでは認識が薄く、もはや母親は追い抜いたのでは?思い切りの良いオールヌードを見せてくれたのも、躁鬱に悩む若い女性の心情を的確に表現できており、大変良かったです。

そして菅田将暉。台詞はほとんど抑揚なく、目も死んでいるような津奈木は、当初は寧子の保護者のように見えたのに、ラストは完全に恋人同士に感じました。大熱演の趣里を向うに廻し、終始受身の演技でしたが、これがまた、彼の新境地を見せられたようで、こちらも手放しの絶賛です。

寧子は、病識はあるようでしたが、安定剤は市販のものでした。病院に通っている様子はなし。是非病院で診て貰って欲しいと思います。そして、いきなり普通のところに就労しなくていいんだよ。ハードルを低くして、デイケアでも作業所でも良し、体調に無理のないところで、働いて欲しいと思いました。それが乏しい私の知識での願いです。

私が精神科の医療事務をして、初めてのクリスマス。デイケアでのクリスマスケーキをお相伴に預かっている時、一人の患者さんが、先生のところに連れて来られました。「幻聴が、窓から飛び降りろと言うねん」と、怖くて泣いているのです。さぞ怖いだろと、咄嗟に理解出来たことで、私の患者さんへの視点は、定まった様に思います。とてもとても面倒臭く、腹ただしい(何度でも書くぞ)彼女たちですが、この作品、本当にありのままを描いています。津奈木にならなくてもいいから(私だってなれない)、ちょびっと理解して貰えたら、嬉しいなぁと思います。


2018年11月04日(日) 「search/サーチ」




これも素晴らしく面白い!画面のほとんどがパソコンのモニターの中に映る出来事で終始する斬新なスタイルの作品で、それが今日性を見事に映し出しています。主演は韓国系アメリカ人、監督・脚本はインド系のアニーシュ・チャガンティですが、正真正銘のハリウッド作で、ここも大変珍しい作品です。

長い闘病生活の末、最愛の妻を見送ったデヴィッド(ジョン・チョー)。今は高校生の一人娘マーゴット(ミシェル・ラー)との二人暮らし。難しい年頃の娘を心配するあまり、ついつい口煩くなる父ですが、良好な関係を築いていると、娘を信頼しています。ある日、マーゴットが無断で外泊し、心配したデヴィッドは、警察に捜索願を届けます。自分でも娘の学校、SNSを通じての交友関係を当たりますが、そこには自分の知らない娘の姿が浮き彫りになり、デヴィッドは愕然となります。

配偶者やパートナーが失踪し、自分の知らない相手が浮き彫りになるのは、映画やドラマのプロットで、よく使われる手法です。この作品は、幾重にも張り巡らした展開、最後のどんでん返し等々、あらゆる捻りが功を奏して、古典的なプロットに新鮮味を出す事に成功しています。

そして映像。カチャカチャ素早く切り替わるパソコン上のウィンドに、時々クラクラしますが、何をしているかは、だいたいわかる(但し、アタクシはこんなに使いこなせておりません)。私が感嘆したのは、この狭いパソコンのモニター上がほぼ全てなのに、閉塞感をまるで感じなかった事です。検索やSNS、画像だけではなく、動画やSkypeも盛り沢山に駆使し、飽きさせる事がありません。

特に家族の幸せな日々から、夫婦が力を合わせての闘病の日々、亡くなるまでを保存したビデオは、観客はデヴィッドと共に妻が映し出された日々を見ることになり、彼の心に去来する寂寥感を共有する事となり、上手い手法だと感心しました。

スマホやパソコンが発達し、子供の交友関係が掴めないのは、デヴィッドだけの問題ではないでしょう。娘の心の底の心情に気付いてやれなかった事を悔やむデヴィッド。全く他人事ではありません。自分の親としての至らなさに愕然とする彼に、とても共感します。

この作品のもう一つのポイントは、親の子供への愛情が試される構図です。至らなさを後悔しても、娘への信頼と愛情が揺らがなかったデヴィッドに対して、本当の意味では、子供を信頼出来なかった親が登場。後者の親が発したある台詞に、私は親としての意見の相違に、違和感を覚えましたが、デヴィッドはジョークと受け取ったのですね。

私は正直言うと、父の知らないマーゴットの日常が浮かび上がっても、それ程違和感はなかったです。自分がネットを使う機会が多いからか、これくらいの「秘密」は、親子ともお互いあるのは、想定済みです。だからこそ、お互いの信頼が大切なのではないでしょうか?マーゴットが容易に犯罪に巻き込まれる姿は、親も苦手だと弱腰にならず、ある程度はスマホやパソコンを使いこなせねばなと、それも痛感しました。今の親御さんは大丈夫だと思いますが。

二転三転する展開には、随所に伏線が張り巡らされているので、カチャカチャする画面に惑わされず、頑張って観て下さい。斬新な映像から繰り広げられる、普遍的な親の子供への愛情が貫かれる秀逸なミステリーです。面白いのは太鼓判!


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