ケイケイの映画日記
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大阪は梅田ブルクで上映でしたが、時間が合わず見逃しを覚悟していたのですが、心斎橋シネマートに回ってきたので、勇んで観てきました。本当に観て良かった!監督のトム・フォードはデザイナーとして著名な人で、どんな高い美意識が観られるのだろうとワクワクしていました。出演者から美術の隅々にまで監督の目が行き届き、起伏の少ない観念的なストーリーであるのに、あっという間の上映時間でした。
1962年のロス・アンジェルス。大学教授のジョージ(コリン・ファース)は、16年生活を共にしたパートナーのジム(マシュー・グード)を事故で亡くします。8ヶ月哀しみに耐えていたジョージですが、喪失感と深い悲しみは去ってはくれず、自ら人生を閉じようと決意します。
冒頭の水の中で溺れてもがいているようなコリン・ファースのヌードから、もう素敵で美しくて。腹筋が割れているような鍛えた体ではなく、年齢(50前後)よりも締まった、しかし微かに年相応さも滲み出ているヌードです。主要な登場人物は元より、登場人物が全て美型です。秘書、隣家の少女、教え子の女学生(完全にBB似)、袖すりあうも的な犬の飼い主に女性まで、監督が自分の作品の中にどう溶け込むか、完璧を求めて選んだキャスティングに感じます。
ジョージはやり残す事がないよう、その一日を大切にします。メイドや秘書に感謝を表す。鬱陶しかった隣の少女とにこやかに会話する。かつてないほど、差別に対して熱心に講義する。かつての恋人で今は親友のチャーリー(ジュリアン・ムーア)と食事する。彼に憧れる学生のケニー(ニコラス・ホルト)の相手をする。何気なく過ごしていた日常のはずが、死を決意したジョージには、どれも柔らかい日差しのような温もりを感じ、彼を生に呼び戻そうとする様子が、とても自然にこちらに伝わります。
ジョージとジム、ジョージとケニー、そしてジョージとラテン系の青年の間に、濃密で官能的、そして美しい男性同士の間柄が描かれます。ここにも自らゲイであるとカミングアウトしている監督の美意識が全開。女性の私が観ても、全く違和感がありません。
そこに異彩を放っていたのが、ムーア演じるチャーリー。それぞれが男性諸氏が世間から理解され難い孤独を託つ中、彼女の孤独の種類は離婚や子供と離れ離れになったという、至って下世話なもの。下品寸止めの大らかな笑い声、寂しさから出た無神経で無邪気な言葉。その一つ一つが、出てくる美型の男性にはない、生命力と快活さに溢れています。チャーリーを自分には得がたい存在だと、ジョージが大切に思う描き方は、監督トム・フォードの女性への見識なのかなと感じます。浅はかだけど無邪気で素直、弱そうだけど強くて温かい、そんなチャーリーにジムが嫉妬する場面が印象的です。
ジョージが自分の人生に悟りを得た瞬間に起こった出来事には、正直びっくりしました。考えてみれば、生に感謝してから起こった事で、前と後では意味合いが全然違います。ある意味、ジョージにとっては至福の出来ごとだったかもしれません。
出演者はそれぞれが完璧。ファースは今まで観たどのファースよりも、インテリジェンスと落ち着き、繊細な感受性を感じさせ素敵でした。マシュー・グードは、こんなエレガントな男性は観た事がないというくらいエレガント。グードも今まで観たどれより素敵。ニコラス・ホルトの、清楚(って男の子に使えるのか?)で瑞々しい感受性に溢れた学生を好演。愛なのか憧れなのか、その両方を恩師に感じる様子が初々しかったです。ムーアも絶品。私が上記に書いたチャーリー像は、正に彼女の好演あってのもの。50になっても飛びきり美しい!若いリンジー・ローハンの腕にそぼかすがあると、何だか汚らしく感じるのですが、老いに向かうムーアの腕のそばかすは、ちょっとセクシーに感じるんですから、女も若さより内面が重要と言う事です。
とにかく「美しい」を何度でも言いたくなる作品。ゲイの香りはプンプンですが、男女に置き換えても充分成立するお話で、それがテーマではないと思います。喪失感と再生、生と死、愛と性。結構具体的に描いているのに、まるで夢の中の出来ごとのように感じられます。美しいって夢があるってことかな?どうぞ真っ暗で静かなスクリーンでご覧下さい。その方が絶対値打ちの上がる作品です。
2010年11月22日(月) |
「リトル・ランボーズ」 |
もう大好き!ローティーンの男の子二人が映画を撮るという内容だけで観に行きましたが、子供だけではなく、親の葛藤や宗教の在り方までさりげなく描いてあります。中身は濃いのに、味わいはグッと爽やか、とても愛らしくて清々しい作品です。監督はガース・ジェニングス。
1982年のイギリス郊外。11歳のウィル(ビル・ミルナー)は母と妹と祖母の四人暮らし。父は亡くなっています。戒律の厳しい宗教に属するため、普通の子供が楽しむ娯楽は一切ダメ。窮屈は日々を送っています。ひょんな事から、学校イチの悪ガキ・カーター(ウィル・ポールター)と知り合い、彼の家に行く羽目に。そこで生まれて初めて「ランボー」を観たウィルは、すっかり映画のとりこに。秘かに映画を撮るカーターと協力して、二人の映画作りが始ります。
とにかく主役のチビ二人が絶品!二人ともこれが初映画出演なんて信じられないくらい上手です。ウィルはあくまで天使のように愛らしく、カーターは常にふてぶてしいやんちゃ坊主。この二人が垣間見せる、子供らしい弱さ、屈託、残酷さは、誰もが大人になる過程で経験したことです。それを郷愁と共に、如何に今の自分の人生に影響を与えたかを、観客に知らしめることが大切だと思いますが、この作品、大成功しています。
一見水と油に見えるウィルとカーターですが、二人の共通点は父親がいないこと。原題の「SON OF RAMBOW」は、二人が作る映画のタイトルでもあります。強い父親に憧れ、窮地の父親を息子である彼らが救いだすのです。そこには自分でも自覚がないであろう、彼らの父性への渇望を感じるのです。
悩みがあるのは大人もハイティーンもいっしょ。ウィルのママは本当は優しい人のはずなのに、怒ってばかり。きっと夫が亡くなり毎日が精一杯なのでしょう。一見暴君のカーターの兄もそう。母は離婚後、再婚相手だけが大事で、息子二人はほったらかし。自分だってまだまだ母に甘えたい時もあるのに、弟を押し付けられては、たまったもんじゃありません。自分に余裕がないから、たった一人自分の傍にいる身内の兄に嫌われないよう、必死の弟の寂しさにも気付きません。
映画を作る過程で親密になり、新たな仲間が加わって険悪になる二人。それもこれも、今までの自分の位置から脱皮する過程ですね。彼らが新たなステージに向かう時、大事な彼らの母や兄にも、息子や弟との関係を再考する転機が訪れます。
段々悪い方向へ行くのかと思いきや、雨降って地固まるのラストが本当に嬉しい。ウィルのママは、宗教のなんたるかを悟ったのだと思います。彼女に好意を寄せる男性同士がサイテー。「ウィルの父親代わりに」だと?一見誠実そうですが、ウィルを押さえつけるだけ押さえつけて、人目ばっかを気にしてさ、だいたい憎からぬ女の息子だよ?何があっても守ってこそ男じゃないか。親って言うのは、世界中のみんなが我が子の敵でも、自分達だけは味方でいるのが親ってもんさ。ウィルのママもカーターの兄も、辛い自分の境遇を、息子や弟のお陰で乗り越えられたのだと思います。誰かを思う気持ちは、自分をも救うのですね。
ラストはツッコミ満載、何故ここで観られるの?と思っちゃイケマセン。野暮な事はいいっこなし、私はここで号泣しました。いいじゃありませんか。紆余曲折を経て、心に寂しさや息苦しさを感じていた子供たちが、家族と本当の絆を取り戻し、友情を深めたのですから。
短期留学生としてフランスから来たイケメン君が良いスパイスでした。当時のイギリスでは、フランスへの憧れが強かったのですね。1960年初頭が設定での「17歳の肖像」でも描かれていました。しかしイギリスではイケていた彼にも暗部が。バスの中の光景を観て、彼の顔立ちがアルジェリア系だったので、差別を示唆しているのかと思いました。でもウィルとカーターの姿を見れば、彼もきっと救われるかと感じます。
元気いっぱいユーモアもいっぱい、そしてほろ苦さは、最後に安心出来る塩チョコレートみたいです。良い作品でした。
2010年11月16日(火) |
「わたしの可愛い人ーシェリ」 |
わ〜、良かった!息子ほどの年の子との恋愛なんて、私には縁のないお話ですが、ジュリアン・ムーアと並んで50女の星であるミシェル・ファイファーがヒロインで、監督がスティーブン・フリアーズなんだから、砂糖菓子のようなお話なわけありません。既然としつつ、しっとりと女心の機微も絶妙に描いていて、中年以降の女の気構えを教えてもらった気がします。シニカルなユーモアがたっぷりな上品な作品です。
1906年、ベルエポックの時代のパリ。引退したココット(高級娼婦)のレア(ミシェル・ファイファー)は、現役時代貯めたお金を運用し、今はメイドや執事に囲まれて悠々自適の生活です。ある日同じココット仲間のマダム・プルー(キャシー・ベイツ)から呼び出され、自堕落な放蕩息子シェリ(ルパート・フレンド)の面倒を見てくれないかと持ち込まれます。幼い時からレアに憧れの気持ちを抱いていたシェリからのアプローチで、親子ほどの歳の差の二人は恋人関係に。周囲の思惑とは違い、その関係が6年続いたのち、シェリに同年代のエドメとの縁談が持ち上がります。
ココットというのは、美貌と知性を兼ね備え、上流階級の男性だけを相手に仕事をし、名声と財産を築いた当時のセレブみたいな女性たちです。その中で取り分け華やかな存在だったレアは、現役時代恋にうつつを抜かした事がないのが自慢です。そんな冷静で自分を見つめる力のある彼女が、息子ほど年の違うシェリを愛したのは、引退後だったからなのでしょう。
一見華やかなココットですが、社交界と言っても裏社交界の花。大輪の花を咲かせても、やはり日蔭なのです。ココットはココットとの付き合いしか許されず、心を許すメイドや執事はいても、やはり主従関係です。富と華やかな名声と引き換えの孤独。引退したとはいえ、隠居したわけではないレアの心の隙間に入ってきたのが、シェリだったのだと思います。
大人過ぎる程の余裕を見せてシェリを見送るレアですが、心の中は葛藤や煩悩でいっぱい。やせ我慢してるんだなぁ。引退したココット達は、金銭的には豊かでも、昔の華やかなりし自分を追いかけるだけで、現実は醜悪で滑稽で、まるで見世物小屋の住人です。そんな中、一人美しさを際立たせているレア。それはやせ我慢の賜物なのだと思います。
女が老いて行く過程で、知らず知らずになくなっていくのが、女性としての自尊心や自我です。パンツのゴムが伸びきったような感受性でデリカシーはなくなり、もはや女外。だって楽だもの。既然として女性としての誇りを保つレアに、大人になりきれないシェリが、憧れを抱き続けるのは納得出来るのです。MANは人と同義語だけど、WOMANだってやっぱり「人」なんだよ。
ファイファーが絶品です。もう50歳は回っていますが、皺も目の下のクマも隠さず、レアの表も裏も好演しており、美しさも抜群です。フレンドも遊び慣れた美青年の、心の底の孤独と純粋さを感じさせて秀逸、品があるのが良く、マカヴォイ君を追い抜く逸材かも?と、ちょっと期待させます。母親に皮肉っぽく「一族で初めての結婚だからな」と言うシュリに、複雑な生い立ちに翻弄された彼の人生が透けて見えました。いつも怪演で楽しませてくれるベイツは、今回も好演。レアからシェリをもぎ取る様子の嬉々とした様は、現役時代のレアへのひがみが見え隠れしていました。
シェリを追い掛けたくて醜態を晒す寸前で、またもやせ我慢するレアに、私はハラハラ泣けちゃって。でもこうでなくちゃいけないのだな。若い愛人を狂う無様な姿は、決して見せてはいけないのです。
当時を再現したファッションや調度品が素敵で、目の保養になりました。私も50近くなり、段々「女外」になっていく自分を、今日ほど反省した日はありません。60歳になっても、70歳になっても、「お年寄りだから」と男性に優しくされるのではなく、女性には優しくしないとと、思われなくちゃね。それは「灰になっても女」という言葉から連想される、浅ましさとは別物ですから。
「プラネット・テラー in グラインドハウス」の予告編の時流れたこの作品のフェイク予告編が大評判で、無事公開まで辿りついた作品。本編制作の話を聞いた時、喜んで絶対観るぞ!と思った女性は、全国で100人くらいはいたであろうと思いますが、ワタクシもその一人。何故100人くらいかというと、この手の作品は圧倒的に男性が好むもの。劇場も平日昼なのに超満員で、場内私以外に女性はたった一人と言う状況が物語っております。監督は主演のトレホの従兄、ロバート・ロドリゲス。
マチェーテ(ダニー・トレホ)はメキシコからの不法移民。今はテキサスに住んでいます。謎の男ブース(ジェフ・フェイヒー)から高額な報酬を提示され、不法移民弾圧を掲げる悪徳議員マクラフリン(ロバート・デ・ニーロ)を狙撃するよう頼まれます。引き受けたマチェーテは、移動トラックでタコスを売りながら秘かに移民を助けるルース(ミシェル・ロドリゲス)に報酬を全額渡します。しかし、これには裏があり・・・。
B級魂炸裂で作っている割には、つーか、主演がトレホなのに脇が異常に豪華です。上記の他、ジェシカ・アルバ、リンジー・ローハン、ドン・ジョンソンにB級の帝王セガールまで!
出だしのB級ムードプンプンのオープニングから、血生臭くも笑える殺戮シーン、車やバイク、素手を駆使してのアクションシーン、綺麗なオネーちゃんたちのお色気シーンもふんだんに盛り込まれて見せてくれます。
だいたいトレホが主演と言う時点で勝ったも同然。この人くらい、一度観たら忘れられない俳優はいませんよ。いつもほんの脇役ですが、もっと観たいと思っていた映画ファンはたくさんいるはず。超コワモテの風貌で、今回もブ男を連発されますが、何故か若くてピチピチのオネーチャンたちと乳くりあっても、全然違和感なし。私は50代半ばくらいかと思っていたら、もう66歳なんだって。年食うと美醜を超えたもんがなきゃ、若い子はオトセマセン。衰えを知らぬ♂のフェロモン全開には、ただただ脱帽。
筋は取り合えずあるんですが、別になくても大丈夫みたいな。ワンシーンワンシーンの盛り上げ方というか、演出の仕方をお楽しみ下さいと言う感じでしょうか?意外な刃物の利用法、教会での銃撃戦、ロープ代わりの人間の腸(ワタクシはこれで爆笑)、尼僧姿でマシンガンをぶっ放すモンド風味のローハンなどなど、来るぞ来るぞと思っていると、かゆい所に手が届く、至れり尽くせりの演出でした。
女性陣の中では、ロドリゲスが一番素敵。彼女、綺麗だとかセクシーだとかは感じた事がなかったんですが、今回は本当に超セクシーでおまけに強い!使い道が限定されていた感のある女優さんですが、色々使い出が立証されたんじゃないかな?一瞬フルヌードを見せたアルバは、何故見せたのかが謎。リンジーは壊れたジャンキー娘と言う、セルフパロディを演じていました。おっぱいもいっぱい見せてたけど、やっぱり賞味期限切れかな?偉いのはデ・ニーロ。すっごく楽しんでやっていたのがわかりました。
面白かった。面白かったんですけど〜、う〜ん、ちょっと物足りないかな?正直R18というので、もっと映像的にエログロバイオレンスが炸裂していると思っていました。劇中近親相姦願望が出て来たので、多分それでR18になったんでしょうね。私的にはR12で充分かと。
それと私はロドリゲス好きなんですが、今回はちと小賢しく感じたのは私だけ?好きな事をいっぱい盛り込んでみました!ではなく、ここにこれを入れたら、観客は喜ぶだろうという「計算」が透けていたように感じます。何と言うか、B級映画に対する心底の愛が感じられないんだなぁ。プレイボーイがどの女性にも「愛しているよ」と囁くような感じです。この手の映画は作り手もウハウハしてくれなくちゃ、こっちもバカになれません。これは私が期待し過ぎたせいかな?でも面白いことは面白いので、どうぞご覧になって下さい。
名の通った役者が揃い、丁寧に作られて見応え十分なクライムサスペンス。でも問題はあんまりおもしろくない事です。監督はアントワン・フークワ。
NY市警に勤める警官のエディ(リチャード・ギア)は定年を一週間後に控える窓際警官。無難にやり過ごしたい彼は、新人教育を担当させられうんざりしています。信心深く子だくさんのサル(イーサン・ホーク)は、身重の妻(リリ・テイラー)が、自宅のカビが原因で病に伏しています。引越ししたいのですが、安月給でままなりません。黒人マフィアの元に長年潜入捜査しているタンゴ(ドン・チードル)ですが、二重生活で私生活と自分の精神は破たん寸前です。
この三人の警官が、ラストに向かって少しずつ交錯して行きます。各々状況からみて、その心情は物凄く理解出来るし、共感も出来ます。しかし全員の行動には、私から見て疑問符がつくのです。
予告編を観てサルが警官の正義と私情の狭間で葛藤すると思っていた私は、冒頭であっさり麻薬ディーラーらしい男を殺害して、お金をむしり取るのにびっくり。最初は賄賂の提示から悩み始め、段々と深入りしていくサルの苦悩が描かれると思っていたからです。ちょっとこれには引きました。
心情的にはとても理解出来るのです。日本では考えられない安月給の警官たち。一人が「これで命を張れっていうのか?」と自嘲気味に語りますが、そう言いたくもなるでしょう。一年目の年収は2万ドルです。
サルが子だくさんなのは、敬虔なキリスト教信者だからでしょう。だから避妊しないのかな?子供たちや妻のために大きな家を手に入れねばという彼の家長としての重圧は、痛いほどわかる。だけど冒頭でいきなり殺人を犯されては、後だしじゃんけんのようにエピソードを羅列されても、身勝手にも程があると感じてしまいます。
タンゴの心情は、「インファナル・アフェア」で描かれていたものと同一です。正義と言う名の下の背信に、心がボロボロになっていくタンゴ。自分の命を救ってくれたボス(ウェズリー・スナイプス)は、警察の上司より人間的には大きな人物です。その彼を陥れよと言う上司。タンゴはその狭間で壮絶な葛藤を見せます。この辺もすごく理解出来るし、丁寧に描いています。
しかしタンゴの取った最終的な行動が、どうも私にはいただけません。「インファナル・アフェア」で、私が秀逸だと思ったのは、トニー・レオンではなくアンディ・ラウの方でした。任務を帯び善人が悪に身を置くことに、平常心を保つのが容易でないのは想像がつきます。これがトニー・レオン。しかしその逆の悪党が正義に身を置くと、善なる心が芽生え、もう日蔭には戻りたくないという「正しい心」が生まれる事でした。これがアンディ・ラウ。そして仮の正義を真実にするため、二重の悪を犯すラウ。しかしこれがため、正義のなんたるかを知る様になった彼は、一生煉獄に身を置くような苦しみから逃れられないわけです。ラウの苦しみを理解しながらも、重い罰を背負わせる内容に、観る者は強い痛みと共に安堵し、本当にラウが取るべき行動は何だったのか?どうすれば彼の魂は救われたのか?がきちんと提示されていたことに、カタルシスも覚えたのだと思います。
「インファナル・アフェア」を観てしまっているので、タンゴの行動は如何にも短絡的に感じました。上司の演出の仕方に、警察批判が込められているのは明白ですが、それでもやはりこの復讐は、子供じみて感じます。この方法じゃ、誰も何も何も変わらないから。
エディの心情もこれまたわかる。若かりし頃の熱意はどこにやら、それは腐った警察内部が、彼を変えてしまったのでしょう。警官バッチを返上してからの行動は、バッチが無くなったからこそで、この熱さが本来の彼の姿であったと暗示しています。娼婦との逢瀬の安らぎや侘びしさの描き方も良く、3人の中で唯一疑問が残らなかった人です。
低賃金に重労働、傲慢なキャリア組の上司など、警察批判は的を射ているのでしょう。しかし批判だけして、どうすればいいのかという提示がない。そのために見応えはあるのに、閉塞感だけが充満して終わるのです。言いっ放しではなく、だからどうしたらいいのか?が、私は観たかったなぁ。
出演者は主役3人とも良かったです。うらぶれた感じ荒んだ感じが滲み出る演技でした。大好きなリリ・テイラーが、良き普通の妻役で出ていたのも嬉しかったです。相変わらず何でもやれる人です。私的に久しぶりに観たスナイプスの存在感も、セリフ以上に役柄を大きく見せていました。
もうちょっと足し算引き算して描いてくれていたらと、残念です。
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