ケイケイの映画日記
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「夫は妻を愛していても浮気する」というのは、拙掲示板で親しくさせていただいている、愛妻家のお友達が語って下さったお言葉です。丸めこまれたのでも何でもなく、私もこの年になると、そんなもんだろうなぁと、納得出来てしまうわけですが、その言葉がぐるぐる頭を駆けずりまくる作品です。ミステリーとしては、終盤ドタバタしてしまい、雑になってしまったのが残念ですが、浮気夫の妻への心からの贖罪の気持ちと純愛が炸裂、その部分が気に入ったので、大いに楽しめた作品です。監督はユン・ジェグ。
刑事のソンヨル(チャ・スンヨン)は、駆けつけた殺人現場で、自分の妻ジョン(ソン・ユナ)の物と思しき物品を見つけます。咄嗟に証拠隠滅を図るソンヨル。悪い事に被害者は裏社会の大物ジャッカル(リュ・スンニョン)の弟です。問い詰めても真実を語ろうとしないジョン。警察からもジャッカルからも追われるジョンを、ソンヨルは命懸けで守ろうとします。
フラッシュバックを使って、現在のソンヨルとジョンの不仲の理由が語られます。ソンヨルは飲酒運転で事故を起こし、同乗していた一人娘を死なせてしまったのです。そこまではジョンの知るところですが、実はもう一つ、それには不倫が絡んでいることは、まだ妻に話せていません。
ヨンソルの実直な証言が元で、停職処分を喰らっていたチェ刑事(パク・ウォンサン)の存在や、人情家の主任、ヤク中の証言者、デッチ上げられた犯人など、それぞれ人物描写もぬかりなく、それと妻の謎とを絡め、前半はテンポよく進みます。
特に出色だったのは、ジャッカルを演じるリュ・スンニョン。劇画風の風貌から醸し出す凶暴な匂いは、貫録と狂気を感じ、作品に抜群のスパイスを与えています。ジャッカルが主のスパイスなら、隠し味はチェ刑事。恋人を暴行した犯人を、過剰防衛で射殺した角で停職になりました。その経験が挙動不審のヨンソルの行動を見抜くきっかけとなり、こちらは隠し味的なスパイスになっています。
しかし後半を過ぎると、段々ああ妻の秘密はこれだな。黒幕はこいつだよ、と段々わかってきます。ただわかってきても、その過程がわからない。これはどうやって説明するんだろう?と楽しみにしていたら、畳みかけるように二転三転するんですが、これが結果ありきの辻褄合わせっぽく、少々雑です。土俵際で踏ん張っているので破たんはしていませんが、もう少しプロットを削って、幾重にも展開するエピソードは、的を絞ってドンデン返しは一つにする方が良かったかも。
しかしミステリーで消化不足でも、ひたすら妻を守る夫の純愛度は抜群です。妻に負い目があるヨンソルは、どんなに妻に冷たく当たられ、一切口を割らなくても平身低頭、逆ギレなんか致しません。それどころか、両方の組織に狙われる妻を守るのに、滑稽なほど策を施し、身体を張って命懸けです。「夫は妻を愛していても浮気する」。この言葉の裏返しのような妻への贖罪と献身ぶりです。私なんぞ、すっかりほだされてしまいました。
実は妻は夫への憎悪を募らせ、ある計画を企てていました。夫婦で会話するシーンで、「どこか別の場所でやり直そう。子供はまた作ればいい」とのセリフで、何故妻が猛烈な侮蔑と憎しみの目を自分に向けるか、夫にはわからないでしょう。妻は子供が欲しいのではないのです。別の子などいるはずはなく、失くした子が忘れられずに、壮絶な苦しみに身を置いているわけです。
このセリフがあったので、妻の計画には私も納得。しかしよくよく考えてみれば、あっさり別れた方が簡単なのに、この企ては妻が夫を愛しているいる証拠のようにも感じます。男って本当に取り返しのつかないような、無神経な言葉を発するもんです。しかしプロの妻たるもの、そんな言葉に振り回されていたら、神経がもたんのだよ。ソンヨルが偉かったのは、その事実を知っても妻への愛を貫き通したことです。本当に反省していたんですね。
ソンヨルを演じるチャ・スンヨンは、洗練された雰囲気と身のこなしが、良い意味でモデル上がりを感じさせ、バリバリ押し出しが利く俳優が演じるより、ソフトな印象の彼が演じる事で、観客の共感と同情心を呼んだと思います。妻役のソン・ユナはクラシカルな美貌と楚々とした雰囲気が、美しい良妻賢母の雰囲気にぴったり。大人しさの底の芯の強さも感じさせ、こちらも絶妙なキャスティングでした。ちなみにソル・ギョング夫人です。
最後の最後まで、やや蛇足の展開がありますが、ソンヨルはこれで凍りつくほど、自分の不倫を後悔したはずです。不満な部分も少々あり、終わりに連れて失速しますが、最後まで「面白かった」の気分は持続させてくれます。 まずまずの出来かな?これも夫婦ものとして観る方が印象に残る作品です。
びっくりしました。すごく良かったから。原作は未読ですが、原作ファンの方々から、主演の二人が描く内容からは綺麗過ぎると言う評判は聞こえていたからです。だからあまり期待はしていませんでした。ですが、モントリオール映画祭で主演女優賞に輝いたヒロインの深津絵里は、その透明感と美しさが光代の造形に深く陰影を与えていました。そして妻夫木聡が、本当に孤独で教養のない田舎の若者という風情を、びっくりするほど上手く表現出来ていたんです。妻夫木聡は器用な俳優で、爽やかでそれなりにどんな役でもこなします。それゆえ常に「妻夫木聡が演じている」と感じさせるため、演技巧者の印象はありません。しかしこの作品の初登場シーンで、魚が死んだような目の祐一に、私は目を見張りました。その生気のない目に引っ張られながら、何度も涙をぬぐいました。監督は李相日。
長崎の漁村に住む祐一(妻夫木聡)は、幼い時母親(余貴美子)に捨てられ、祖父母(井川比佐氏・樹木希林)に育てられています。今は叔父(三石研)の元で、解体業で働いています。出会い系サイトで知り合った、福岡に住む佳乃(満島ひかり)と逢瀬を重ねていますが、祐一を蔑む佳乃をはずみで殺してしてしまいます。その頃、やはり出会い系で知り合った、紳士服量販店に勤める30半ばの光代(深津絵里)からメールが届きます。ぎこちなく交際を始める二人。しかし警察の捜査は、祐一に及びます。光代に告白し、自首しようとした祐一でしたが、光代はそれをさえぎり、二人で逃げようと言い出します。
出会い系サイトというと、佳乃のようにセックス目的の男女がメールを送る軽薄なもの、という認識が一般的だと思います。しかし「本気だったと」と九州の方言で自分の心境を吐露する光代。「俺も本気やった」と言う祐一。確かに出会ってすぐにセックスする二人ですが、私たちが認識する思いとは、この二人は違うのです。
この手の作品で人の孤独を描く時は、押し並べて独り暮らしが多いはずです。しかし祐一には祖父母、光代には妹と、共に愛情を持って暮らす人がおり、天涯孤独ではありません。髪こそ金髪に染めてはいますが、祐一は真面目に肉体労働に従事し、光代もやはり真面目な販売員。二人ともきちんとした社会人です。なのに画面の二人からは、寂しさや虚無感が痛切に浮かび上がります。
もし私の親兄弟が殺人を犯し、「一緒に死んでくれ」と言われても、私は即答で断るでしょう。しかしこれが夫や子供たちなら違います。でも私の手を離れてしまった子供たちは、決してそんな事は私には言いません。これが夫の申し出なら、私は喜んで受け入れます。家族という括りの中で、たった一人血の繋がらないのは夫。
こう思うと、人とは成長するに連れ、血の通った身内だけと付き合うのでは、肉体的にも精神的にも、不足感を埋めるのには限界があるのだと感じました。しかし真面目に暮らせば暮らすほど、異性と縁遠い人はたくさんいるはず。その切羽詰まった閉塞感を解放する手段が出会い系サイトだった。そう理解出来ると、二人の「本気」と言う言葉はとても重いです。一見無軌道で激情に駆られた行動に出る二人ですが、決して特別な人ではなく、ごくごくありふれた身近な人達なのです。
他者との繋がりを求める二人を描きながら、同時に血の通った被害者の両親と加害者の祖母、それぞれの子や孫への溢れる思いもきちんと描いています。実の子なのに、心配どころか晒し者にされてと怒る祐一の実母。彼女は息子を育てていません。それに比べ、育ての親である祖母は、「祐一は私の子」と、何があっても言い切ります。血が通っていても、育て関わる、この行為がどんなに深い愛情を育むかを感じます。だから祐一は、祖母には自分の働いたお金でスカーフをプレゼントし、ぎりぎりの生活の母からはお金をむしる。お金をむしり取る事が、愛情の不足感を埋めることだったのに、母はそれに気付きません。
尻軽で虚栄心の強い佳乃。祐一の携帯に残る佳乃の裸体は、若いだけで何の魅力もありません。わざとそう撮っている演出だと思いました。出会い系サイトで知り合った男たちと関係を結んで、お金をもらっていた行動が露わになり、世間から売春婦呼ばわりされます。若さだけが取り柄なのに、こんな上等の女の自分と付き合ったのだから、相手はお金を払って当然だと思っていたのでしょう。思いあがりと間違った自尊心。その思い違いは、佳乃の父親が何度も問う「大事な人はいるか?」という言葉がキーワードだと感じました。
他人から見れば不肖の娘の佳乃。殺害される場面でも、同情さえ沸きません。しかし両親、取り分け父親の娘への思いには、何度も涙が出ました。父が佳乃の幻を見るとき、そこには不純さの欠片もない、愛らしく清純な娘がいます。親に取って子供とは、いつまでも幼い時のままなのです。当たり前ですが、どんな人にも親がおり、その人を「大切に」思う人がいるのだと再認識しました。それと同時に佳乃を観て、大事に思われるだけではいけないのだとも感じます。彼女が両親の思いに応え、本当に自分を大切にしていたなら、決して殺害されることはなかったでしょう。
「光代と出あうまでは、佳乃を殺した事を後悔しなかった。だけど今は、とても後悔している。」と、泣きながら吐露する祐一。光代と言う大切な人を得て、彼の心が成長し変わっていったのです。普段の彼女からは考えられない短絡的で刹那的な行動に出た光代とて、大事な人を失いたくない、その一念だったと思います。例えそれが間違った行動であっても、私は絶対責めたくないのです。
もう一人、強い印象を残す大学生の増尾(岡田将生)。傲慢で尊大、その心ない様子は、佳乃以上に嫌悪を抱かせます。彼の得ている恵まれた容姿や財力は、全て親がかりのものです。それを自分の力だと思い込んでいるので、自分の卑小さに気付きません。増尾の存在は、恵まれない境遇にいる祐一と光代との対比です。前者は平気で人を傷つけ嘲りながら、何の咎めも受けず生きている。後者は決して許されない罪を犯しているのに、理解も共感も出来る。誰が本当の「悪人」なのか?増尾は観客にその事を考えさせるための存在なのでしょう。
「俺はお前の思っているような人間じゃない」「あの人はやっぱり、悪人なんですよね」という二人の言葉の意味。そう思う事こそが、お互いを大事な人であると認める言葉のような気がします。自分を忘れてもらうのが光代のため、忘れてあげるのが祐一の願い。この哀しい逃避行がなければ、決して生じなかった感情ではないでしょうか?
主役二人は上記に記した通り。柄本明と樹木希林の演技は言わずもがな、本当に泣かされました。損な役回りの満島ひかりと岡田将生ですが、満島ひかりの方が演技的には格上を感じさせ、感心しました。でも岡田将生も健闘していたと思います。それよりこの役を二人に振った事で、二人が作り手たちから期待されているんだなぁと、しみじみ感じ、これからも頑張って欲しいと思いました。
「婆さん、あんたは悪くなか!」と朴訥に祖母を励ますバスの運転手(モロ師岡)。増尾の取り巻きの中、一人彼に抵抗感を露わにする友人(永山絢斗)。突然の娘の死に動揺し、亀裂が入りかけるも、お互い支え合って生きて行こうとする佳乃の両親の姿に、人間の持つ良心・善意・勇気が凝縮されて描かれており、決して暗いだけのお話にさせてはいませんでした。
表面だけをなぞり、野次馬的にはやし立てるマスコミに眉をひそめながら、隣人の裏側の実情に思いを馳せる事は少ないでしょう。自分とは縁のないようなセンセーショナルな事件を題材に、実は誰でも祐一と光代になるかもしれないという現代の世相を、二人に愛情をこめて描いていたと思います。彼らを私を救うのは、やはり彼らで私なのだとも、強く感じました。多分今年の邦画の私のNO・1作品だと思います。
今年度アカデミー賞外国映画賞受賞作のアルゼンチンの作品。オスカーの外国語映画賞受賞作は、「善き人のためのソナタ」など、深い感銘を受ける作品が多く、個人的には作品賞より注目している部門です。この作品も、25年前の殺人事件をモチーフにして、サスペンスタッチで盛り上げながら、同時に秀逸なメロドラマとしても観る事が出来る作品で、その情感の豊かさに、何度も観ながら胸にこみあげるものがありました。ラテンの情熱を静かに秘めながら、奥ゆかしい格調高さを感じる作品です。
裁判所を定年退職したベンハミン(リカルド・タリン)は、かつての上司で、今は検事に昇進しているイレーネ(ソレダ・ビジャミル)を訪ねるため、久しぶりにかつての職場を訪れます。25年前、共に関わった殺人事件を元に、小説を書き始めたと語るベンハミン。それをイレーネに読んで欲しいと言うのです。それには、殺害された新妻を思い続ける夫の哀しさと共に、二人の秘めたる思いも浮き上がっていくのでした。
歳月の経過は役者を替えず、一人で担当しています。各々メイクの力は借りていますが、25年の歳月を不自然さなく見せており、これは演技がしっかりしている証明だと感じました。特筆すべきはイレーネ役のビジャメル。溌溂とした20代と、落ち着きと品を感じさせる現在それぞれの美しさをきちんと体現。特に現在の美しさには人生の年輪を感じさせる知性の深まりも感じ、見事でした。
タイトルに込められたように、それぞれの瞳が物語を引っ張ります。ベンハミンが犯人の目星をつけたのは、その瞳に自分のイレーネに対する思いを見たから。イレーネが容疑者の罪を確信したのは、自分を見た眼差しから。サスペンスとしては少々強引過ぎる展開ですが、そこに込められた思いに、愛や嫌悪を上手に感じさせるので、観ている方は受け入れ易いです。そして一人で犯人を駅で待つ、リカルドの瞳の奥底の哀しみ。妻が殺されてから、ずっと変わる事のなかった彼の瞳こそ、この作品のタイトルだと、観終わった後感じました。
面倒だからと、犯人ではないのにでっちあげたり、超法規措置で殺人犯が簡単に釈放されたり、当時のアルゼンチンの治安の暗部も描いているのでしょう。見ていて絶句してしまうのですが、これはアルゼンチンに限らず、どこの国でも大なり小なりあったことだと思うのです。大事なのは今、過去を振り返り、繰り返してはいけないと提言出来るかどうかと言う事です。イレーネの検事と言う職には、その思いが込められていたと思います。
驚愕の顛末だそうですが、如何せん私はカーテンを閉めたシーンで、その顛末の予想がついてしまいました。しかし私が驚愕し、深い悲しみをリカルドと共有したのは、「彼(リカルド)に話しかけてくれと言ってくれ。彼の声が聞きたいんだ・・・。」と言う、とある人物の言葉です。その言葉には、「ここ(駅)に来ないと、妻を忘れてしまうのです。妻が殺された朝、はちみつ入りの紅茶を入れてもらいましたが、本当に入れてもらったかどうか、今では記憶がおぼろげなのです」とリカルドが語った日から現在まで、時間の止まったリカルドの人生が凝縮されていたと思います。
なのでベンハミンとイレーネの行く末は、とても納得行くものでした。生を分かち合う愛する人がいる、それがどんなに尊いか、ベンハミンはリカルドを観て思い知ったのでしょう。リカルドは彼の人生に自分を重ねるベンハミンに怒りました。その意味がわかったのでしょう。
愛嬌のあるセリフやユーモアが、暴行されて殺害された新妻がモチーフという凄惨さを薄め、セリフではなく、プロットと俳優の無言の演技で、怖れや絶望、痛ましさなど、喜怒哀楽以外の微妙な感情の揺れが表現出来ているところなども、作品の格を上げています。「行間を読む」というわかりにくさでは無く、誰にもわかる演出なのが好印象でした。
梅田シネリーブルは超満員でした。多分各地でロングランすると思うので、この機会に珍しいアルゼンチン映画を、是非ご覧になって下さい。
え〜、「ぼくのエリ」や石井輝男特集など観ているのに、対して出来の良くないこの作品から書くのはどうよ?という自己ツッコミもあるんですが、あんまり芳しくない評価が多いので、追い打ちかけたいと思います。まぁ想像していたよりは、ましだったんですが。 監督は篠崎誠。
結婚20周年記念に、ヨットで世界旅行を計画した清子(木村多江)隆(鶴見辰吾)夫妻は、航海中に難破。無人島に辿り漂流します。ほどなく与那国島からのきついバイトから逃げ出したフリーター男子16人も漂流し、彼らは島を「東京島」と名付けコミュニュティを作り、救助が来るのを長い間待っていました。そこへ中国人の密入国グループも漂流し、少しずつ日本人グループに亀裂が入っていきます。
桐野夏生の原作を読んでいます。桐野作品は登場人物のキャラ立ちがどの作品でも際立っていますが、この作品のヒロイン清子のキャラも強烈です。自然に老いていくはずだった小太りの平凡な中年主婦が、無人島に漂流、逆ハーレムのような環境に追い込まれ、逞しくしたたかに変貌していく様子が痛快でした。
なので地が美しくスリムな木村多江が清子役っつー時点で、原作絶賛派には負けたも同然だったわけですが、その不安が的中。木村多江のための清子に変更になっていました。原作では清子の腹黒さ計算高さ、身勝手さ、それらが強烈な生命力を伴って、獰猛な魅力になっていました。
無人島に数年生活しているわけですよ。原作では着の身着のままで漂流したので、服は洗えないし痛んでしまうので、みんなジャングルの奥深くで生活するような半裸なわけ。それが清子ときたら、ほんの少し薄汚れただけで、都会で生活しているようなファッショナブルさ。男たちも白のTシャツがそのまんま真っ白です。そんなわけないじゃん。
原作で夫隆が日記で「これからは僕たち夫婦が、ここでの彼らの両親となろう」と綴ります。でもそう思っていたのは夫だけで、妻は母ではなく、盛りもとうに過ぎたはずが、若い男に囲まれて「女」を逆走、男たちの性を浴びて、どんどん変貌していくわけです。しかし変貌と言ってもね、これは状況が特殊だからで、普通40半ばの女が息子ほどの男たちにチヤホヤされるわきゃ〜ない。原作はその辺に妙味があったのですが、それが木村多江でしょ?普通に若い男落とせるじゃん。清子に過剰に入れ込むカスカベ(山口龍人)とのツーショットなんて、滑稽じゃなきゃいけないのに、普通にナイスカップルです。
「この年増の娼婦が!」とワタナベ(窪塚洋介)に罵られる清子ですが、確かに原作ではたった一人の女の利点を生かし、あの男この男入れ食い状態ですが、この作品では夫の隆を除いて、清子が関係した男はたった3人。そのうち二人は当時『夫』で、あと一人は無理からぬ理由。男23人に囲まれているのに、まぁ何て貞淑なんでしょ。代わりに強調されたのが食べる欲でしたが、これは隆でもっと描き込んで欲しかったなぁ。
清子以外の男たちの無人島での焦燥感も薄く、何だかリゾートに、ちょっと不便な無人島を選びました〜的な演出です。それは旺盛な生活力を誇示するはずの中国人たちも同じで、全然日本のヘタレフリーター軍団VS密入国の獰猛な中国人軍団になっていません。
だいたいさ、40女が「女装」するって大変なんだぞ。ちょっと気を許すと「婆さん」が顔を出すもんで、日々どんだけ気を使っていることか。それが紫外線浴びまくりでシミもなく皺もなく、シャンプーもリンスもないのに、白髪もないサラサラヘアーたぁ、どういうことだい?まゆ毛だってカットしないとぼうぼうだぞ。無駄毛の処理はどうする?だから〜ここは〜、それをうっちゃるために、女性ホルモンの活性化のお陰と、バカスカ若い男と寝ないとダメなの。
女はセックスの対象が終わっても、まだまだ孕む性で男を威嚇し、ドスドス踏み台にする逞しさも感じられず。あれじゃあ寝たから出来ました、です。だいたいすんげぇ高齢出産なんだよ?その不安も全然出てこなかったなぁ。
全体的に原作のダイジェスト版としては、それなりにまとめていましたが、五倍薄めるのが基準のカルピスで例えると、原作は原液、映画は20倍くらいに薄めた感じです。原作では隆を筆頭に、男たちも描きこまれていますが、この作品ではワタナベ以外全然印象に残りません。ワタナベも別モンなんですが、窪塚洋介はとっても良かったです。亀の甲羅を背負っても全然違和感なし。これは意外&感心しました。マンタの染谷将太は、悪いけど噴飯ものでした。この役は難しいです。彼にふる方が悪い。この役は田中要次だと思いました。
とすると、清子って誰だろう?あと5年経ったら、寺島しのぶでOKですが、今なら室井滋かなぁ〜?原作派の方は、脳内変換して楽しんで下さい。
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