ケイケイの映画日記
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2007年08月31日(金) 「シッコ」



前作のブッシュ支持派からの猛烈な抗議必死の「華氏911」では、腹の据わった男気が私を感激させたムーア監督ですが、今回も毎度お馴染み偏った視点で華麗なる山師ぶりを楽しませてくれました。世間様には大好評だった「ボウリング・フォー・コロンバイン」ですが、私はあんまり。一番いやだったのは、その山師ぶりより、私の子供の頃のアイドルだったチャールトン・ヘストンを笑い物にしたことです。このお方を誰と心得る、モーゼ様なるぞ、ユダ・ベンハー様なるぞ、猿の惑星が地球だったと無念の思いをした方なるぞ、チンパンジーのジーラ博士とチュウした方なるぞ!(これは関係ない)、えーい、頭が高い!それを現役時代ならいざ知らず、チャックがほとんど棺桶に片足をつっこんだ今、ようも晒し者にしてくれたなぁ、!と、お年寄りは敬おう精神が身に沁み込んでいる、儒教の国の血を引く私としては、大変腹が立ったのでした。でも今回はアメリカ政府及び保険会社が相手ですから大丈夫。偏った視点は間引いて観ても、考えさせられる内容でした。



↑チャック・ヘストンだよ。

今回のムーアのターゲットは「医療制度」。アメリカはご存じのように健康保険制度がなく、国民は民間保険に加入しています。もちろんたくさんの無保険者もおり、私はそのことを問題提議にした作品だと思っていましたが、実はなかなかお金の下りない保険会社の周辺を取材して、健康保険制度のないアメリカの医療の実態に迫ったものでした。

私も去年手術に際して、加入している某日本の生命保険会社から、きちんと約束通りに保険金をいただきましたが、どうもアメリカはそうじゃないらしい。自分たちの会社の利益を上げるべく、ちゃんと保険に入っていても、保険会社の委託医が主治医の治療を「有効と認めず」と判断すれば、お金は全く下りないという拝金主義ぶり。22歳の時子宮頸がんになった女性は、「その若さで子宮がんはおかしい」との保険会社の判断で保険が下りなかったのには、絶句しました。その他諸々、考えられないような保険会社の判断基準に目が点になります。私が涙が止まらなかったのは、移植手術が有効だとわかっているのに、保険会社からGOサインが出ないため、夫が亡くなってしまった女性のお話です。この辺のムーアの訴え方演出の仕方は、情感濃くて上手いと思いました。アメリカは小金持ちくらいでは、病気や大怪我には対抗できない模様です。

充分観客が怒りや背筋を凍らせた後、今度は各国の医療制度を視察すべく、監督ムーア自ら諸国漫遊です。カナダ、フランス、イギリスと、同じ西側諸国は全て国の健康保険制度を導入しており、医療費は全て無料です。その充実した医療体制、存分に働きそれに応じた豊かな報酬を得る医師、医療制度に満足する国民を映します。

ここで持ち前の山師精神を発揮するムーア監督。他の国々は何故こういう制度の恩恵を受けられるかというのは、税金がアメリカより高いからだと、普通に気がつきますが、その辺は華麗にスルー。フランスでの在仏アメリカ人たちとの会話も、やらせとまでは言いませんが、良き所だけを集めて語っているのは明白だし、モデルケースとして出てきた夫婦は、あれが極々普通のフランス人家庭だと思う人はいないでしょう。結構な恵まれた層だというのは、これまた明白です。イギリスでは保険制度は充実していますが、その代りガンの手術で一年待ちなど普通だとも聞きました。アメリカの医者は金に目が眩んで、保険会社の言いなりと言う風な演出ですが、これまた一人だけ良心の呵責に苛まれた医者を登場させるだけで、現場で治療に当たる医師たちの意見は黙殺され、片手落ち感おびただしいです。

しかしあまり違和感を感じないのは、ムーアの作家性に慣れたのもありますが、彼が主張する「昔の助け合いの精神が豊かだった、あのアメリカの善意の心は何処へ?」というこの気持は、本心だとわかるからです。「華氏911」がなければ、私もまた違和感や疑問がいっぱいだったと思いますが、あの作品を通して自国アメリカを憂いている彼は本物でした。映像作家、それもドキュメンタリー畑の人は、観る順番も大事だと思いました。

この作品はアメリカ国民に実情をしってもらうと共に、諸外国でもアメリカの医療の実態を訴えかけて、問題提議をしたいのでしょう。山師が信念の人に見えてきます。それほど日本に住む私が観ても、アメリカの医療は悲惨でした。

アメリカとは犬猿の仲のキューバは、たとえ敵国の人間であろうと、キューバで医療を受ける人は無料です。その善意溢れる様子を映し、医師であるゲバラの娘まで引っ張り出してくる辺りは、ツボをおさえた作りです。

さてさて日本は健康保険制度はきちんとしています。しかし末端の末端で医療を観ている私でさえ、医療費はひたひたと崩壊の道を歩み始め、自由診療と言う名の、高額な医療費を払う日が目前なのを感じます。現場の医師や看護師は慢性的に不足、医療者側が受け取る診療報酬は少しずつ引き下げられ、患者側は老人医療や乳児医療も少しずつ引き上げられています。アメリカ方に少しずつ進んでいるのは明らかです。この映画を対岸の火事とはせず、まずは一人一人医療費削減に協力することが大事だと思いました。タクシー代わりに救急車を呼ばない、ちょっとしたことで夜間救急に飛びこまない、保険料はきちんと払うなど、現状でも誰にでも出来ることはあると思います。

それぞれのお国柄、国民性に合った的確な医療制度はあると思います。フランス式は魅惑的ですが、あれは国民性がもっと成熟していなければ無理なので、日本ではちと厳しいかな?私は全く無料は、絶対「タダだから」と、大した病気でもないのに、病院に人が溢れかえる気がする(昔老人の医療費が無料だった頃、点滴を受ける”元気な”老人がいっぱいいたよ)ので、とにかくせめて現状維持を保てるよう、政治家さんたちにはお願いしたいです。


2007年08月26日(日) 「イージーライダー」(布施ラインシネマ ワンコインフェスティバル)




ご存じアメリカン・ニューシネマの金字塔的作品です。今回のフェスティバルで、私が一番楽しみにしていたこの作品、昨日レイトにて観てきました。昨夜はチビが合宿、上の二人は給料日直後の土曜日とあって家なんか居る訳もなし。夫一人しょぼくれて残しておくわけにも行かず、「お父さん、今日は晩はどこかでご飯食べて、『イージーライダー』観に行くで。」「『イージーライダー』?なんとかフォンダの出ている、暴走族の映画か?」そうそう、昔の東映の舘ひろしが出ていたみたいな映画でね〜、って違うやろ!さすがは大昔「レッド・ツェッペリン知ってる?」と聞いた私に、「知らん」ときっぱり言い切った男は、感違いもモノが違うよなぁ。

夫は1953年生まれでね、青春時代は70年前後で、8歳下の私はその時代の話が聞きたかったのですが、どうも嗜好のベクトルは大幅に違うようで、夫から聞いた話は「駅前シリーズ」「社長シリーズ」「任侠もの」、及び「シルクハットの大親分」などなど東映のいわゆる「ボンクラ映画」の楽しさでした。だからまぁ守備範囲が広がって得はしたんですがね。音楽もそう。私は滅多にニューミュージックなど聞かず、小学校高学年から既にほとんど洋楽しか聞かなかったのですが(初めて親に買ってもらったレコードは『モンキーズのテーマ』)、結婚当初夫が私に「これええ歌やで」促したのは、テレビから流れる「氷雨」でした。恥ずかしながら青春時代全盛だったユーミンの曲もあまり知らない私が(ユーミンのレコードは持っていないけど、松村雄策の『あなたに沈みたい』は買ってたりする。この曲聴いて、渋谷陽一が嫌いになったのは、私だけか?)「氷雨」ですから。新婚生活に暗雲立ち込める予感がした、新妻ケイケイ。予測通り、それ以降演歌な花道の主婦と生活が私を覆い尽くしたのは、ご理解いただけるかと思います。

「麻薬で大金を掴んだ二人の若者が、自由を渇望してバイクでアメリカを放浪するロードムービーやん。」と、かいつまんで説明したのですが、「それやったらフーテンやな」「フ、フーテン?ヒッピーやで。」「同じようなもんやないか。」見かけは似てても、根本的に違うと思うよ。ヒッピーは背景に反社会的な思想を持つけど、フーテンはただ社会から逸脱した、自堕落な生活をする人ちゃうん?と言いかけたけど、「お前はまた理屈を言う」と言われそうなので、止めました。そう言えばビジュアル系ロックバンドの男子たちを観て、「化粧したかったら、オカマになったらええやんけ」とも言ってたしなぁ>夫。

つまり夫はこういう作品は苦手なのですね。私も本当は一人で観る方が気楽なんですが、観るのはこの日しか無理だし、夫をひとり家に残すのは忍びないという妻心もあり(夫は寂しがり)。夫もそういう私の気持ちは汲んでいる模様。そうそう、夫婦は歩み寄りが大切なのよ。あぁなんか観る前から気疲れした。制作はピーター・フォンダ、監督はデニス・ホッパー、脚本は二人とテリー・サザーンの共同です。

時代は1969年のアメリカ。メキシコから大麻を密輸して大儲けしたワイアット(ピーター・フォンダ)とビリー(デニス・ホッパー)。真の自由を求めてオートバイでアメリカを放浪することにします。

実は私、多分中1くらいだったと思うのですが、「日曜洋画劇場」でこの作品を観ています。淀川さんは、もちろん大絶賛だったんですが、子ども過ぎたのか当時の私には全然わからず。でも深い意味はあるのだろうと感じたのは記憶にありました。今回無事再見出来て意味もわかって嬉しかったです。まず何故バイクで放浪するかなんですが、あれは「馬」なんですね。ちゃんと描写してあるのに、全然わかっていませんでした。

二人とも同じに思えた子供時代と違い、今回はキャラもくっきり。思慮深そうで口数少ないクールなワイアットは、協調性も社会性もある程度身についているようです。ビリーの方はやんちゃで明るく、無軌道な野生児のような雰囲気が、幼い感じもするけど若々しくもあります。大家族の元で食事を世話になる時、お祈りの前にビリーが箸をつけたが印象的でした。みんながお祈りの用意をしてるのにです。これは彼が早くから家を出たか、もしかしたらストリートチルドレンのように育ったと感じさせました。

対するワイアットは、出会った弁護士(ジャック・ニコルソン)に「インテリって?」と問われ、「いい人だ」と答えたシーンが印象的。確かナイスガイと聞こえました。これは必ずしも=でないはずですが、皮肉だったのか羨望だったのか。知的な印象も与えるワイアットだったので、含みが感じられます。

ヒッピーたちのコミューンは、今の年齢の私が見ると、奇妙な反社会性より純粋さを感じさせます。でも見通しも甘くきっとその内散り散りになるんだろうなと言う予感か。実際にこういうコミューンにいた人たちのその後が知りたくなりました。

あちこちで長い髪、バイク=無法者のイメージで露骨に差別される彼ら。ベトナム戦争のことには一言も触れませんが、この戦争のせいで、当時のアメリカ人の志向が分裂したのが、この作品の背景にはあるのでしょう。田舎に行けば行くほど脅迫的なほど保守的になるのが怖いです。白人の彼らですらそうなのですから、黒人を始めとする有色人種、ヒスパニック、障害者などは人間扱いされなかったのでしょうね。今は良い時代になったなと、素直に思います。今観ると何も偏見の対象になるような見かけではない彼らなので 40年近く前の時代の思想も感じることが出来ます。、

しかし弁護士の語る「自由を説く者より、自由を生きる者は、世間から恐れられる」というのは、今の時代も脈々と続いているんじゃないかと思います。自由という定義は時代によって微妙に変遷していくだろうし、現にワイアットとビリーの自由も違うものです。お金が入れば自分のしたいように出来ると思っていたビリー。彼の自由はお金のある人間は、どんな行動も非難されない、それが自由だと思っていたのでしょう。お金があっても自由は得られないと言うワイアット。彼の自由は心の解放だったのでしょう。もっと言うと世の中から解放されないことの苦悩から、脱せない自分からの解放でしょうか?世間を憎むビリー、自分を憎むワイアットということかな?ワイアットのその感情は、娼婦たちとの混沌としたシーンで表わしていたような気がします。

衝撃的なラストは、彼らが麻薬の売人だったということが前提にある気がします。無軌道者には相応しい気がして私的には納得でした。

「イージーライダー」と言えばステッペン・ウルフの「ワイルドで行こう」ですが、オープングでバイクで馳走する二人は今観ても本当にかっこ良く、当時スクリーンで観てバイクの免許を取った人は多数だったと思います。かっこ良いと言えば、私は当時ピーターが大好きだったんですが、あまりにアンソニー・エドワーズと雰囲気が似ていることにびっくり!異性の趣味って変わるもんじゃないんですね(実感)。

















映画が終了して、「全然わからんかった」という夫。「寝てても良かったんやで。あの弁護士さんな、ジャック・ニコルソンの若い時やで。あの演技であちこち賞もらって、認められたんやで。」「全然わからんかったわ。そうか、なかなかハンサムやし、芝居も上手いと思っててん。」

「あれがレクター博士やったんか」
「違う!」

夫によると夫婦とは、神様が相性の合わない者同士を引き合わせ、魂の修行をさせるものなのだとか。いつまで続く修行の道ぞ。次回に続く(嘘)。


2007年08月23日(木) 「リトル・チルドレン」




仕事休みだったので、やっと梅田のOS名画座まで観てきました。出かける前にはお昼御飯に三男の好物のオムライスを作りながら、「なぁなぁ、お母さんこれから映画観てきていい?」とご機嫌取りを忘れない私。食いもんに釣られてニコニコしながら「うん、いってらっしゃい」と言う息子は、この炎天下これからクラブなのですね。ごめんよ、息子。母ちゃんだけ涼しい映画館に行ってさ。しかし可愛い息子をほったからかして、観た甲斐のある作品でございました。

ボストン郊外の閑静な住宅地に引っ越してきた専業主婦のサラ(ケイト・ウィンスレット)は、三歳の娘ルーシーのための公園通いが苦手でした。つまらない井戸端会議に終始する主婦たちとの付き合いが苦手なのです。ある日「プロム・キング」と彼女たちから噂されるハンサムなブラッド(パトリック・ウィルソン)が久し振りに息子アーロンを連れて公園にやってきます。彼は放送局に勤めるキャリアウーマンの妻キャシー(ジェニファー・コネリー)がおり、主夫をしながら司法試験の合格を目指していました。ちょっとしたイタズラ心から主婦たちの面前でキスするサラとブラッドですが、このことが周囲や自分たちを巻き込んだ波紋を呼びます。その頃幼児愛者で性犯罪で服役していたロニー(ジャッキー・アール・ヘイリー)が街に戻ってくることになり、住民たちは警戒します。

ハイブロウに演出されてるけど、ただのソープドラマじゃん、予告編の嘘つき!と思って最初観ていたのですが、後半からはこれはもしかして確信犯的に、見かけはハイソ、中身は俗っぽく描いているんじゃないかと感じ始めました。どうも皮肉いっぱいでインテリをせせら笑いたいように感じるんです。

サラは国文学の修士課程修了の女性で、娘が可愛いというより、子育てで自分の時間が作れないことに苛立っています。ブラッドだって今は妻に食べさせてもらっていますが、元を正せば優秀な人だからこそ司法試験浪人なのででしょう。二人とも若い頃の自分を思えば、今の境遇に不満なのです。

しかしこの二人、インテリかも知れませんが、世間知らずな事もおびただしい。いくらいたずら心からでも、大胆に人前でハグしてキスなんかするか?市営プールでの毎日の逢瀬も絶対ご近所の噂になってるって。いい年こいた大人が、ティーンエイジャーのように恋に盲目になっているのは、今の自分の不甲斐無さにやいけてなさを、受け入れられないからでしょう。

甲斐性があってエリートのサラの夫は、実はエロサイトのシリコン入りプレイメイト風ネットアイドルに夢中で、妻より自分で処理しちゃう派の人。ワタクシですね、こう言った場合、妻ともちゃんと交渉があって、尚且つ精力をもてあまし気味な御主人方についてはノープロブレムだと思っているんですが、この夫の場合は多分妻とはセックスレスに近かったんじゃないかと感じました。ブラッドの方も、美しく妖艶な妻の「早くお風呂に入ったら?」の一言で、「今日はセックスさせてもらえそうだ」と張り切るのですから、可哀想なもんです。このシーン、結局おあずけなんですが、妻に食わしてもらう身とありゃ、押し倒すわけに行きませんわな。

サラは読書会で「ボヴァリー夫人」について、抑圧された自分の人生に乾いていた彼女が、自らの解放の手段としてチョイスしたのが不倫だったと答えます。自分を重ねているのは明白ですが、観ている私は、あんたはそんなかっこいいもんじゃないだろうが?とツッコミを入れたくなります。母として未熟な自分は認めず、自分を女として見てくれない夫に失望しているサラが、てっとり早く女を確認出来るのは、夫以外の男性とのセックスだったのでしょう。それも相手は「プロム・キング(学園の人気者)」と揶揄されるいい男だったんですから、つい我を忘れたサラの気持ちもわからなくはありません。

ブラッドも妻に家計を委ねる専業夫とは言え、家事と育児を一手に引き受け、まるで去勢されたような日々。しかも愛しい息子は、母親が帰るやいなや母に飛び付き、虚しさ倍増だったはず。この辺私はとてもブラッドに同情しました。家事は毎日毎日繰り返され、手応えのないもんですが、育児には子供が「世界で一番ママが好き」という愛情をこちらに示すので、それを拠り所に励めるものです。でもブラッドにはそれもない。だいたい妻だって悪いのです。家事と育児を全部任せて、夜に勉強なんて疲れて出来ませんて。私には絶対無理。何故保育園に入れなかったのかな?アメリカにも「三歳までは親の元で」神話があるのか?携帯ひとつ自分の意志で買えない情けないブラッドが、サラに男としての救いを見出したもわかる気がします。

この不倫バカップル、関係をもってから以降、バカぶりに磨きがかかった暴走ぶりを見せてくれるのですが、これが低俗で笑えます。本当に昼メロみたい。何故怒りより笑えるのかというと、私だって今の自分は、若かりし頃夢に描いていた自分じゃないからです。もっと勉強しときゃなぁとか、あの時ああしてりゃーなぁとか、やっぱりたまには後ろを向いてクヨクヨする事もあるのですね。こんなインテリのお金持ちそうな美男美女でもそうなんですから、その辺に転がっている主婦の私だって時々はそう思ってもいいんだなぁと思うと、笑えるの。サラが嫌悪している「凡庸で俗っぽく、インテリジェンスに欠ける主婦」たちの方がよっぽど地に足がついており、私はその部類なので、安堵したりもするのです。

前科者ロニーの方がよっぽどましじゃないかと描きたいのかと思いきや、こちら真性の変態で、どんなに老いた母が心配して励まそうと、それは無駄に終わるのです。しかしこのお母さんが、息子持ちの私の心をざわつかせるのですね。ご近所からの罵声を受ければ、息子をさえぎって矢面に立つママ。老いた自分が亡くなった後息子が寂しかろうと、出会い系のようなものから、相手を必死に探すママ。これが20前後の息子ならともかく、50前の息子に対してでは、全部間違ってます。息子には自分を気遣ってもらうべきだし、息子にセックス付きの家政婦さんのような人がいれば、性的嗜好が変化するだろうと考えているのも、まったく自分勝手な思い込みです。まずしなくてはならないのは、女性を探すことではなく自立する為の仕事を与えること、そして劇中でママがロニーに言って聞かす「あなたは悪いことをしたけど、悪人ではないわ」と言い続け、常に暖かく包み込んであげること「だけ」だと思うのです。

しかしこのママの気持ち、他人事だと誰が言えよう。私は間違っているとわかっていても、ロニーのママを裁くことは出来ません。そして息子に宛てた手紙の内容に、私は震撼するのです。親にとっては子供はいつまでも子供でしょう。しかし行き過ぎては絶対お互いのためにならないのです。息子を甘やかし、他者の痛みに鈍感な変質者にしたのは、ママかもしれないから。母親とは私を含めて、自分の人生に欠落を感じると母性にすがろうとするものだと思います。ブラッドの妻キャシーの母の娘夫婦への過剰な踏み込みも、夫の浮気が尾を引いているかも知れません。「リトル・チルドレン」な大人たちには、母親の存在は大きく立ちはだかっているのかも知れないと、私には戒めになりました。

笑わせてもらったり、震撼させられたりしましたが、お話はどうオチがつくのだろうと全然わからなかったのですが、落ち着くところに落ち着きました。サラは一瞬だけど失ったかも知れないと怯えたものが、彼女には一番大切だと気づき、ブラッドはスケボー少年たちに、自分はもうプロム・キングではないと理解させられます。そしてロニーは・・・、ママー!罪は重いよ!しかし嫌われ者の元警官ラリーの取った行動とともに、救われるものを感じさせます。

私は若い頃、自分の今の年齢なら、何でも知っていて落ち着いていて、もっと分別もあってお金も持っていて、完璧な「大人」になっていると思っていました。ところが現実は全然。はしや棒にかかるくらいですな。そんな思いを抱いて入る人は、たくさんいると思うのですね。登場人物たちは、「私に似た人」だったと思いました。


2007年08月20日(月) 今年の夏の覚え書き

次に映画を観るのは仕事休みの23日になると思うので、記録的な暑さの今年の夏の覚え書きなんぞしてみようと思います。

8/4〜5
お盆前の土日でしたが、末っ子が合宿中ということで、新婚旅行以来初めて夫婦二人で、神戸の六甲山まで一泊旅行してきました。実は昨年秋から夫の仕事の形態が変わり、毎日かなりのプレッシャーを抱えた日々を送っているのです。仕事が暇だと心配で機嫌が悪く、忙しいとしんどくて機嫌が悪いという、本人にとっては深刻、家族にとっては理解出来るけれどはた迷惑という、悶々とした日々を送っているのですね>夫。もちろん妻として、痛みも苦悩も分かち合えるものは分かち合いたいと思っておる訳なんですが、正直な話、たとえ家族がおろうと、人間いくつになろうと、自分一人で乗り越える壁ってあるんじゃないかと、私なんぞ思っているわけですよ。そこで趣味と言えばパチンコと「時代劇専門チャンネル」のお守という我が夫に、苦悩を分かち合うより楽しみを提供する方が建設的じゃなかろうか?と、私が行こうと誘った次第です。

当日は二人とも仕事を終えて午後三時ころ出発。実は結婚前に六甲にはデートで行ったのですが、それ以来です。稀代の方向音痴夫婦にカーナビは必需品のはずなんですが、我が家にはナッシング。「ナビゲーターは、お前せい!」との夫のお達しなんですが、東西南北のわからんもんに、そんなご無体な。ラジオからヘアカット100の「フェイバリット・シャツ」が流れ、まぁ懐かしやと聞きいっていると、「おい!何のんきな顔してんねん!今の標識なんて書いてあってん!」との夫の罵声は容赦なく私に。「えっ?私には期待せんどいて」と明るく答えるワタクシ。「この嫁ハン・・・」と言いつつ、己の妻はどんな女か、そこはほれ結婚25年ですから熟知しているのですね。そののち夫は勘と通行人に聞くということを繰り返し、無事ホテルに着きました。お父さん、御苦労さま♪

ホテルは人工ながら温泉付きということで、ここにしました。人口とはいえ大浴場のお風呂は気持ちよく、食事の最中はあれやこれやと25年を振り返り(なんてったって、私は21歳で結婚したもんで、夫が一番長く暮らした人なのだ)、あっと言う間だったなぁと二人とも感慨深いもんがありました。「全然思うようにならん人生やったわ」としみじみ夫が言いましたが、人生なんてだから面白いねんやんと思う私。この感覚のずれは、おいおい煮詰めていこうぞ。当日は霧がすごくて、100万ドルの夜景が観られず残念でした。

次の日はまず六甲山牧場へ。大昔と同じく羊の大群の中を失神しそうになりながら駆け抜け(私は動物が苦手)、チーズ館まで行くと無料で骨密度の測定なんぞやっておりまして、当然やってもらいました。結果は年齢以上の102%の出産三回の私と、78%で要注意の夫という結果に。だいたいこういうのやると、夫はヘビースモーカーなんで、絶対「禁煙」と言う話になだれ込むので、いやがるのよね。今回ももちろん指摘され、「少し減らします」と塩らしいことを言ってましたが、お土産のヨーグルトを食した後、おいしそうに煙草吸っておりました、はい。

その後は私の念願のホール・オブ・ホールズへ。ここはオルゴールのミュージアムなのです。1900年代初頭の、お金持ちでしか買えなかった時代から現代に至るまでの、ありとあらゆるオルゴールが展示され、30分毎解説付きの、大型のオルゴールの演奏も聴けます。合間にストリートオルガンの音が流れ、とってもいい雰囲気。経営は阪急グループらしく、最近阪神と提携したため、トラッキーのオルゴールなどもあり、気品のあるエレガントな雰囲気だけではなく、気さくな庶民性も取り入れるなど、夫と二人で「やっぱり阪急は商売上手やな」とひとしきり感心したのでありました。その後高山植物園やガーデンハイツにも行きたかったんですが、夫、へたれた感がありありで、「もう帰ろか?」と言うので、素直に頷く私でした(本当はもうちょっとおりたかった)。帰りの車中、楽しかったなぁと二人で言いあい、「次はもうちょっと遠い所でもええで」と夫。私の思惑はクリーンヒットの模様。年末はホンチャンの銀婚式なんで、ちょっと豪華に有馬温泉など予定しております。お金はお祝いとして子供持ちで(わははははは)。頑張ってくれたまえ、息子たち!

8/12
今日から5日間お盆休み。夫はお風呂場のペンキ塗り。GWにやってくれたのですが、ところどころめくれてきていて、それが猛烈に気に入らないらしく、塗り替えることに。正直私は別に良かったんですが、この辺のこだわりは男子ならではなんですかねぇ。チビは午前中クラブ。夜は私一人で「ゾンビ」鑑賞。

8/13
夫壁塗りの続き。長男も参加。私は午前中近所の総合病院へ、予約してあったマンモグラフィ検査へ。その数日前問診票が来たのですが、私を悩ました質問が「閉経した年齢」。ご存じのように、私は昨春子宮筋腫の全摘出手術をしたので、強制的に閉経はその時期です。しかし卵巣はそのままなので、排卵もありホルモン分泌があるという、微妙かつ中途半端な状態です。普通の卵巣の老化で女性ホルモンの分泌もなくなり閉経と言う手順は踏んでいない訳です。手術以来毎月の生理がなくなった以外は、それ以前と全く変わりなく暮らし、女性としての「欠落」を感じず過ごしてきましたが、肉体的にはやはり「欠損」しているのだと、思わず自覚をするはめに。う〜ん、恐るべしマンモ(違うって!)。これから年齢を経てこういった検査の度、「子宮のない私」を再確認するんでしょうね。動揺はしませんでしたが、やっぱりちょっと寂しいぞ。マンモの検査は痛いと大評判(?)ですが、それほどでもなく。経産婦なもんでね、「お産に比べりゃこんなもの」精神が染みついておるのです。結果は一か月後郵送だそうです。大阪市は今年は昭和の偶数年生まれの人は1500円で検診出来ます(来年は奇数年)。私も一度やってみようと思われる方は、直接マンモのある病院へ連絡してみて下さいね。

8/14

夫と長男と三人でお舅さんの墓参りのために兵庫県へ。すんごく遠くて、いつも一日がかりでお参りです。今回は夏休みのクラブは皆勤したいと三男は不参加。もし渋滞に巻き込まれて帰りが夜になるといけないので、次男には留守番を頼んで、子供代表で長男が参加です。朝6時半に出発すると、お盆だというのに、すいすい走るではありませんか。帰りもすいすいでお昼過ぎには帰ってきました。次回もこれで行こう。

8/15

夫、姑さんに呼ばれ運転手。私は散々どれにしようと迷ったあげく「消えた天使」鑑賞。「河童のクゥと夏休み」「夕凪の街 桜の国」は9月に観られるだろうか?三男はまたクラブ。久し振りで全員夕食を囲めるので、メニューは鉄板焼きにしました。

8/16

この日から長男出勤。三男はクラブ。夫・私は今日で仕事休みは終了。次男は明日まで。今日はのんびり。

とまぁこんな風でした。忙しくもなく、適当に用事もこなしてまずまずの夏だったかな?それでは皆さん、残暑厳しい折ですが、お互い体に気をつけて乗り切りましょう!


2007年08月16日(木) 「消えた天使」

お盆休み中、唯一のレディースデーの昨日観てきました。まず先に・・・。ごめんなさい、ごめんなさい!「夕凪の街 桜の国」「河童のクゥと夏休み」「プロバンスからの贈りもの」などなど映画友達の皆さんがお勧めしてくださった作品、「時間を作って観ます」と言っておきながら、全部すっ飛ばしてしまいました!これは夏のせいなのねぇ。

↑に出てくる作品、みんな感動や、そこまで行かなくてもハートフルにはなっていると予想出来るでしょう?私の本業は主婦なもんで、この「ハートフル」という曖昧で優しげな感覚を家族に提供して、今日も明日もあさっても、疲れた家族の心と体を励ますのが、重要なミッションのひとつな訳ですよ。安もんの愛のビールかけみたいな日々もあれば、ドンペリ級の愛も注いだこともあるわけですよ、私としては。ドンペリ飲んだことないけど。

そして時は今、夏休み。この発狂しそうなクソ暑い日々の中、自分も仕事しているのに、チビの夏期講習だ、クラブ活動だの時間に合わせ、少しでも夏バテが防げるようなメニューを考え(朝晩だけでなく、弁当もだ!)、普段以上に膨大な洗濯物と格闘し、気ぃ利かせーの、体使いーの、家族サービスはマックス状態。その上今年は前倒しで旅行に行ったもんで、お盆休みはずっと家とくらぁ!おまけに夫と長男と二人で風呂場のペンキ塗りを二日かかってしてくれたのでね、有難かったけど「お母さん映画はしごするから、今日は外食ね〜」などど言えなくなったじゃねーかよ。

かように干からびた精神状態の今、「感動」や「前向き」な映画なんぞ観ちゃ、却って心が追い詰められるようなもんでしょ?えっ?普通はそれで「私も頑張らなくちゃ」と己が心を潤すってか?いや〜、前ばっかり向いて走っていると、人間てしんどいぞ。なので「後味が悪い」「秀作だけど二度と観たくない」と、とっても今の自分の心にマッチした(ホントか?)風評のこの作品にしました。「オーシャンズ13」みたいな作品でも良かったんですが、悪い意味で打ちのめされたかったんですよ。見応えがあったし、私は希望も残るラストだと感じ、観て良かったです。

性犯罪登録者の監察が仕事である公共安全局のエロル・バベッジ(リチャード・ギア)は、18年勤め上げた職場を、行き過ぎた仕事ぶりから、退職間近です。自分の後任のアリスン(クレア・デーンズ)を引き連れ、数日間彼女に仕事を教えることになります。折しも少女が誘拐され、エロルは登録者の中の誰かが犯人だと、目星をつけるのですが・・・。

エロル達の仕事というのは、警察ではなく観察です。警察ではないのがちょっと目新しい設定です。エロルの登録者への訪問や質問は、お前はまたやるだろう、そうにきまっている、そう決めつけてな強引な手法です。人権無視も甚だしくこれでは寝た子を起こすようなもんで、アリスンも不快感を露にします。しかし冒頭でのエロルの独白が強く印象に残った私には、何か意味があると感じます。

その独白とはこうです。「怪物と闘う時は自分も怪物にならないよう、気をつけねばならない。深淵を覗く時、その深淵もこちらを覗き返しているのだ」

登録者は小児愛、レイプ、バラバラ殺人、行き過ぎたSM行為での傷害致死など、性倒錯者ばかり。今は気軽にフェチと言う言葉が使われますが、総じて簡単にいうと「変態」です。しかし犯罪を犯すまでは行かなくても、やや変態気味だと自覚アリの人は多いと思うのです。かく言う私だって、暑気払いに猟奇殺人事件を扱った作品を選ぶは、血がしたたたるスプラっタもんも全然平気、むしろ積極的に観たいという人間で、変態指数は30%くらいあると思うのですね(本人推定)。でも私は多分犯罪は犯さないと思う。何故なら自覚があるから。

以前とある方の講演を聞く機会があり、その時「知って犯す罪と知らないで犯す罪は、どちらが重いか?」という内容に入りました。当時私は知らないで犯すのだから、その方が罪が軽いと思っていたのですね。しかし答えは反対。いわく「焼け火箸を持たなければならない時、それが熱いとわかって持つのと、知らないで持つのとでは、どちらが火傷が軽いだろうか?」というお答えでした。

性癖もそうだと思うのです。自意識に組み込まれているか、無自覚なのかで全然末路は違うのです。それを体現していたのは、他ならぬエロルを演じていた、ギアだと思うのです。永遠の二枚目ギアに、一見暴走するうらぶれた、分別のないエロルはミスキャストです。ここで冒頭のエロルの独白が生かされると感じました。エロルは自分の性癖に自覚がなかったのでしょう(多分サディスト)。登録者を取り締まり観察するうち、彼もその深みにはまっていったのではないでしょうか?それらしい俳優を使うより、ギアに演じてもらう方が、リアリティがあったように感じます。

寸でのところで理性を働かせた彼が選んだアリスンは、家庭に恵まれず自傷行為を繰り返していた過去があります。エロルが彼女を選んだポイントはここだと思いました。彼女は変態ではありませんが、人とは違う自分の暗闇を自覚しているはずです。その彼女ならば、自分のように破滅せず、この仕事を全うしてくれると、エロルは期待したのではないでしょうか?だから彼は洗いざらい自分の恥部を見せるような仕事ぶりを、彼女に見せたのかと感じました。これは全て、倒錯した嗜好を持つ人が犯罪を犯す犯さないの分岐点がどこにあるか、それを伝えたかったためかと、思いました。

誘拐犯は、被害者が助手席の人間と話していたとの証言で、ピンとくるものがありました。大昔日本で若い女性の誘拐が頻発し、犯人を捕まえてみれば、あっと驚くような人物で世間は驚愕しました。その事件を私は覚えていたからです。この作品での凄まじい主犯格の犯人の様子と、重なるかどうかはわかりませんが。

惜しむらくは、エロルはアビゲイルという少女が被害にあってから、彼の暴走は加速したと語られますが、何故そうなのかが語られません。被害者の家族と自分に類似した箇所があるとか、そういう説明があれば、エロルの一連の行動により説得力がついたかと思います。

ラストの犯人の様子は、「セブン」のケビン・スペイシーを彷彿させました。格調高かった「セブン」に比べ、全体に薄汚いムードが充満している作品でしたが、私なりに性犯罪を犯さないためには?という糸口を感じ、決して後味は悪くありませんでした。

選ばれしアリスンを演じるデーンズは、ブロンドに赤い口紅という、普通はゴージャスな女性の性を表わすアイテムを用いながら、知性が勝る印象です。これも今後のアリスンに期待を寄せる表れかと思いました。

監督はアンドリュー・ラウ。凡作に感じた「傷だらけの男たち」、大勘違い純愛ロマンス「デイジー」と、立て続けに観ましたが、ようやく初ハリウッド作品で面目躍如のようです。私も自分が平凡な「変態」で良かったと、思わず安堵しました。やっぱりこの作品にして良かった。めでたしめでたし。


2007年08月13日(月) 「ゾンビ」(布施ラインシネマ・ワンコインセレクション)

わーい、観たぞぃ!もちろん既に観ている作品ですが、ビデオとテレビ放映のみで、劇場では初めて観ました。ふと何で劇場では未見だったのかな?と思いだしていたら、公開時、ワタクシ好きな人がいたのですね(ポッ)。時々デートはするものの、友達以上恋人未満の感じでとっても切なかったのね。映画もよくいっしょに行ったもんです。時々「何が観たい?」と聞かれましたが、その時
「ゾンビ」とは、口が裂けても乙女心が言うのを拒んだのでしょう。今では他人事です。あぁ寂しい。

この手の作品は、マニアックに精通されている方がたくさんいるので、私ごときの感想など大したことはないですが、でもとっても楽しんだので、やっぱりちょっとだけ書いておこうと思います。だいぶ前に観たっきりなのですが、今回ディレクターズカット版と言うこと、記憶にないシーンもチラホラ。しかし劇場で観たせいか私が年がいったためか、定かではないのですが、色々新たな思いも湧いてくる久しぶりの「ゾンビ」でした。

今回超有名作にて、あらすじは割愛。
サラ・ポリー主演で、4年くらい前に「ドーン・オブ・ザ・デッド」としてリメイクが公開された時、走るゾンビにみんなびっくりしたもんです。私はアクション映画としてそれなりに面白かったし、本家「ゾンビ」を忘れていたこともあって、カール・ルイスのようなゾンビを拒絶する方たちは、それはゾンビというものの様式美を壊したからだと、私なりに解釈していました。でもそんなんじゃなかったんですね。根本的に走るゾンビじゃ、お話がまるで成り立たちません。

あのショッピングモールでの四人の行動は、あれはゾンビがノロノロ歩きだったことから、全て始まったと感じました。あのグロくてユーモラスな動き、これなら勝てそうだと。最初は脅威や哀れさを感じていたはずなのに、彼らの欲望を刺激したのは、ゾンビたちが四人に見せる「隙」だったように思うのです。その隙が四人に余裕を与え、余計なことまで考えさせたと感じました。

ロジャー(スワット隊員の小さい方)が噛みつかれたのも、ゾンビが彼らに与える隙が、油断をもたらしたのだと感じました。いっしょに地獄の街道を突っ走ってきたロジャーをピーターが撃ち殺すシーンは、何回見ても辛いです。「ドーン〜」の方は、いきなり出てきた親子間で同じ描写がありましたが、こちらはじっくり人間関係の絆を描いた後のシーンだったので、全然深みと余韻が違います。「ドーン〜」の方は、親子というプロット頼りです。家族がゾンビになったときの対応は、冒頭の方の「あなた!」と、ゾンビになった夫に抱きついた妻が、体中食いちぎられるシーンの方が、よりインパクトと悲痛さがありました。

数ヶ月間でショッピングモール内での彼らの住まいや、衣服がゴージャスになっていくのが、なんだか薄ら寒いのですが、滑稽でもあります。ああやって何でも手に入る状態なら、たとえ地獄の底でも、人間は危機感が薄らぎ欲が優先するのですね。人間とは欲の生き物、そう感じさせる語り口が素晴らしい。だってバリバリのカニバリズムの中、内蔵ぐちゃぐちゃ、あちこち血みどろを見せながら、心理的なものも強く印象づけるんですから、感嘆してしまいます。

強盗団の蛮行は、ゾンビ以上に怖いです。死んだ人間より、地獄から溢れだしたゾンビより、生きている人間の方がよっぽど恐ろしい。それ以上に恐ろしいのは、このショッピングモールにずっと根をはっていたため感覚が麻痺したスティーブンの、「ここは俺達のものだ」という言葉でした。

ゾンビになったであろう恋人スティーブンを捨てて、逃げる提案をするフランは、お腹の子を思う気持ちがそうさせるのでしょう。フランだけ逃がして、「ここに残りたい」というピーターの言葉は、辛辣だけど一番冷静でリーダー格だった彼だけに胸を打ちます。しかし土壇場で逃げようとするピーターには、もっと感動させられます。どんなに絶望が覆いかぶさっても、一筋光が見えたなら、人はやはり生きなければならないなぁと、「ゾンビ」で教えてもらいました。ピーターを演じたケン・フォリーですが、白人の中で黒人がリーダー格役を務めるのは、当時としては珍しかったと思います。期待に応えて、四人の中では一番その後活躍したみたいです。

ゾンビという映画史に残るモンスターを描きながら、人間の怖さ優しさ、弱さもたっぷり描けているという、傑作の冠に恥じない作品だなと今回再認識しました。制作より30年ほど経っていますが、全く古さも感じませんでした。お近くの劇場で観られる機会があったなら、是非足を運ぶ価値充分の作品です。


2007年08月09日(木) 「怪談」




昔は夏と言うと、テレビのドラマや映画枠では、盛んに古典のホラーを放送していたものですが、エアコンの普及か現実の方が数段怖い事が多くなったためか、最近ではとんとお目にかかりません。この作品の原作は三遊亭園朝の「真景累ケ淵」で、原作は未読なのですが、昔にドラマの一時間枠では観たことがあります。「怪談」というタイトルの割には全然怖くないのがネックですが、年増女の情念と、それに翻弄される優柔不断な優男を描いたと観れば、まずまずの出来。物足りない箇所もあるんですが、まずはこじんまりと上品にまとまっています。

江戸は深川。富本(浄瑠璃の流派)の師匠豊志賀(黒木瞳)は、若く美しい煙草売りの新吉(尾上菊之助)と、深い仲になります。しかし二人は、親からの因縁を引きずる間柄だとは知りません。身持ちが堅いのが評判だった豊志賀が、若い男に入れ上げていると噂になり、弟子は何人も辞めて行きます。それでもますます新吉に溺れる豊志賀。そんな豊志賀を見かねた新吉は、自分から別れを切り出すのですが・・・。

前半は豊志賀と新吉の出会いから別れまでを描いています。黒木瞳は大丈夫かな?と思っていましたが、なかなかどうして、息子ほどの若い男に身も心も溺れていく中年女の、浅ましさと哀しさをかなり上手く演じていました。変に若作りをせず、美しいけれど老いも隠せぬ年齢だと、画面でもきちんと映しているので、新吉に色目を使う若い弟子のお久(井上真央)に、恥も外聞もなく当たリ散らす姿は、みっともないとも可哀想とも感じさせます。

ただこんなに黒木瞳が好演しているのに、新吉との濡れ場や看病されている場面で、イマイチ濃密な雰囲気が漂いません。体が結ばれる前の逢瀬の場面は、しっとりとしてこれからの二人の展開を予想させるに十分だったのに、結ばれても同じ調子では、その後新吉が年増女の深情けにいやけが差す心情が、あまり浮かびません。それは恨み骨髄の遺書を残した豊志賀の心情に対しても、同じことが言えます。

父宗悦に捨てられたと思い込み、妹お園(木村多江)と二人苦労して生きてきた男嫌いの豊志賀が、新吉にはあっという間に惚れぬいたのは、宗悦の引き合わせだったのかも。宗悦の位牌が安置してある仏間で二人が結ばれたのは、そう感じさせました。幸薄かった娘を幸せにしてくれたら、宗悦は恨みは忘れるつもりだったのかも。

新吉のもう別れたい、いや俺がいなきゃぁ、この女は・・・という感覚は、誠実や優しさと、優柔不断は紙一重と感じさせ、何ともリアリティがありました。以降新吉のこの揺れる感覚は、後半の呪われた場面でも炸裂します。しかしこの優柔不断は、菊之助が演じることにより色気につながり、、男の魅力の一つに思えるのです。「何でそんなに奇麗なの?」というお久のセリフもありますが、菊之助は美形ではありませんが、この作品では大変美しく憂いがありました。新吉はいつもいつも悩みを抱えているから、そう見えるのでしょう。菊之助の役の解釈は、ドンピシャだったと思います。

怨霊となった豊志賀が出てくるシーンは、奇麗に登場させ過ぎで、ちっとも怖くありません。せっかく累ケ淵まで迷い込んで来たのですから、新吉の大立ち回りの時には、宗悦の怨霊もどこかで出した方が、繋がりとしては良かった気がします。

出演者は総じて良かったです。木村多江は本当に時代劇によく合うし、麻生久美子も、お累の心の移り変わりを上手に演じていました。しかし火傷の跡は、もう少しおどろおどろしくした方が、夫新吉が不実になっていっても、なおすがるお累の心情を、雄弁に掘り下げると思います。井上真央は頑張っていましたが、少々明る過ぎ。もう少し薄倖そうな若い子の方が良かったと思います。お賤役の瀬戸朝香は、私は前々から彼女はこういう仇っぽい性悪女が似合うと思っていたので、嬉しくなりました。彼女はセリフ回しに少々難ありですが、深紅の口紅と口もとのほくろが色っぽく、難を補っていました。ただお賤と新吉は、脅す脅されるだけではなく関係も持たせた方が、複雑に人間関係が絡んで、より「恨み」というものの業の深さが浮き上がったかと思います。

ラストはちょっとしたカタルシスは感じますが、CGは使わずそのままでやれば良かったと思います。物足りない点もたくさんですが、長尺の原作もほどよく脚色しており、出演者の好演もあって、そこそこ観て良かったとは思える作品には仕上がっていました。


2007年08月04日(土) 「魔笛」




わー、楽しい!が、オペラは皆目わからない素人の私が、映画といえど有名なモーツァルトのこのオペラを観ての素直な感想です。多分ヒットするだろうの予感がしたので、あえて映画の日ははずし次の日にしたのに、スクリーンは小さいOS名画座からとっても大きいOS劇場に代わったのに、それでも超満員でした。私も生憎前から二番目しか空いておらず、ド迫力で観たため少々酔い気味でしたが、本物のオペラ歌手の歌声を堪能出来て大満足でした。監督はケネス・ブラナーです。

第一次世界大戦のさなか、兵士タミーノ(ジョセフ・カイザー)は毒ガスによって命が危ないところを、夜の女王(リュードフ・ペトロバ)の三人の侍女に救われます。タミーノを気に入った女王は、ザラストロ(ルネ・パーぺ)にさらわれた娘パミーナ(エイミー・カーソン)を救いだして欲しいと頼みます。パミーナの美しい写真に魅せられたタミーノは了承。女王から魔笛を与えられたタミーノは、兵士パパゲーノ(ベンジャミン・ジェイ・ディビス)と共に旅立ちます。

元のオペラは中世の時代だそうで、今回は戦場を舞台に変更だそうです。のっけから戦闘場面で、バタバタ兵士が討ち死にしますが、優雅というかなんというか、振付のようなたち振る舞いなのに全然違和感がありません。それ以降も、登場人物の心が突然に高揚したり落ち込んだり、はたまた説明不足だったりします。しかし普通の映画やミュージカルなら不満が残るところですが、これは古典のオペラなんだと思ってみているので、気になりません。

オペラを辞書で引っ張ってみると、「歌唱を中心とした舞台劇。扮装した歌手の歌と管弦楽・舞踊・振りなどで構成される。一七世紀初めにイタリアに起こり、ヨーロッパで発達した。歌劇。」とあります。この作品も情景や登場人物の心模様は全て歌で表現されますが、その歌が当たり前なんですが素晴らしい!

私は本当にこの手のクラシックには疎いのですが、そんなど素人でも普通に演じている以上にビンビン情感が伝わってきます。出演者な皆本当に舞台に出ているオペラ歌手だそう。容姿も少しクラシックな美形が揃い、映画俳優との違いも感じます。中でも歌唱がひときわ素晴らしかったのが、夜の女王役のペトロバ。私の耳には彼女が一番上手く聞こえましたが、どうかな?

舞台を映画にするんですから、何か味付けは必要です。歌いあげる女王の大きな口が映し出されたり、写真のパミーナが動いたり、おしゃべりパパゲーノの愛嬌を表現するのに、色鮮やかにふんだんにCGも取り入れたりと盛りだくさんです。大人子供風の趣は私には楽しく感じられました。歌でしか聞いたことがなかった、パパゲーノとパパゲーナの場面を観られて大満足です。

墓標に刻まれた名前に日本人もあってびっくり。年齢も20前後ばかりで、古典のオペラの脚色と言えど、こういうのを挿入するのは監督の反戦の意味の主張なんでしょう。

パミーナを救い出すためにストイックに邁進するタミーノにも、人間味たっぷりの落ちこぼれ風パパゲーノにも、それぞれ理解を示す演出が好ましいです。舞台もこうなのかな?それと肝心の魔笛なんですが、一度もタミーノは吹きません。天にかざすだけなのですが、これでいいんでしょうか?そしてかつてザラストロと夜の女王は恋愛関係にあり、パミーナは彼の子をにおわす演出もありましたが、これも原作ではどうなっているのかな?

私は文化的に理解が深い家庭に育ったわけでもなく、今の自分の家庭も楽しいけれど俗っぽさ満開です。それに不満があるわけじゃないですが、せっかくの人生、芸術的なものや文化的なものにも触れて、人生の楽しみにしたいじゃないですか?お陰さまで素養がなくても、年を取るとアバウトにでも作り手の意図を感じる力は養われているようで、中年になってから新鮮な刺激をたくさん受けています。

この作品もオペラに詳しい方には不満があるかも知れませんが、私にはすごく楽しくて、是非本物の舞台も観たくなりました。あれこれやりたいことがあるって、楽しいなぁ。場内は年齢層の高いご婦人が多かったですが、案外皆さん私のように思っているかもですね。






2007年08月02日(木) 「デイジー アナザバージョン」(布施ラインシネマ・ワンコインセレクション)

香港のアンドリュー・ラウが韓国に招かれて監督した作品で、去年の公開作。ちょっと気になっていたましたが、確か公開館は今は亡き動物園前シネフェスタだけだったはずで、他の作品を優先したため見損なっていました。今回また会員恩恵の無料で鑑賞でした。でも無料で本当に良かった。だって誰も教えてくれなかったじゃん、トンデモ映画だったなんて。あぁ、びっくりした。実はワタクシ昨日はチビが合宿へ出発のため、朝4時から起きてたのよね。十三のナナゲイで「実録・阿部定」がかかっていましたが、仕事を終えて十三まで出かける気力がなく、眠くなったら寝たらいいわと思ってこちらにしたのですが、呆気に取られまくっていたので、眠る事も出来ず。まぁ退屈ではなかったんですかね。

オランダ・アムステルダムに住むヘヨン(チョン・ジヒョン)は画家の卵。骨董店を営む祖父と暮らしながら、昼間は似顔絵書きもしています。彼女には毎日4時15分になると、「フラワー!」の声と共に、花を届ける男性がいて、彼女は顔も知らない彼に恋をしています。実は花を届けているのは、ヘヨンを愛する殺し屋のパクウィ(チョン・ウソン)なのですが、彼は自分の仕事柄、彼女の前に現れることが出来ません。そんなとき優しげな青年(実はインターポールの刑事)ジョンウ(イ・ソンジェ)がヘヨンの前に現れ、ジョンウが花を持って現れたことから、思い人だと誤解します。

以下ネタバレと罵詈雑言になると思うので、未見の方、この作品が好きな方は飛ばして下さい。

まず第一に舞台がオランダである必要が全くないです。確かに町並みやお花畑なんかは非常に美しく撮影されていて、景観は見どころ充分なのですが(というか見どころはここだけ)、韓国か香港にだって、こう言う場所はあると思います。映画だからといって、広いオランダで三角関係になるうら若き美女、麻薬を取り締まるインターポールの刑事、麻薬とは関係ない殺し屋が全部韓国人なんて、思いっきりご都合主義。舞台を生かしたいなら、ジヒョンとウソンは人気の点ではずせないでしょうから、ここはイ・ソンジェをはずして、香港の俳優にするべきです。

このジョンウがまた思い切り間抜け。あんたそんなんで、よくインターポールの刑事が務まるなと思うほどアホです。捜査の最中に公私混同してヘヨンに思いを寄せるわ、ジョンウの身元を確かめたいパクウィの罠に簡単にはまって正体は知られるわ、腕利きな場面を見せる場所が全く無いです。あげくジョンウといっしょの場面を襲撃されたヘヨンは一命は取り留めるものの、声を失いますが、同僚刑事(こいつもケタはずれのアホ)は自分の責任だとふさぐジョンウに、「あれは仕方なかったんだ。お前のせいじゃない」などど、開いた口がふさがらない説教をする有様。「僕といると彼女に危険が及ぶ・・・」というしごく当り前なジョンウの独白通り、これは刑事が民間人を巻き込んだ事故です。後半で勝手なお酉捜査を上司に無断でやろうとしたり、あまりのインターポールのアホさ加減に、監督はインターポールに恨みがあるのか?と思ったほど。

パクウィも出だしこそ殺しの場面でスタイリッシュに登場でしたが、「あまり彼女が打ちひしがれているので」と、ジョンウ帰国後の彼女の前に姿を現したのにはびっくり。それまでちょっとストーカーっぽい行動には出ていましたが、虚ろな恋に破れた思い人(ヘヨン)を車の横に乗せ、「彼女が僕の横に座っているなんて・・・」という独白にはちょっとキモイもんがあり、引いてしまいます。だって殺し屋のストーカーと言う時点で、ピュアにはなりにくいロマンスでしょう?そう思うと「ニキータ」は秀逸だったですねぇ。

このキモさ、どんどん加速し、繰り返しロマンチックな韓国ドラマを見ている様子を映すのですが、私はとうとう頭がいってしまったのかと思ってたんですが、どうもヘヨンのための読唇術の勉強だったらしいのです。こんなんで読唇術が取得出来るんかい?と謎だらけ。ラストでこのプロットは完璧に生きるのですが、あまりの展開に私は一人心の中で爆笑。だって場内誰も笑わないんだもん。絶対変!

ヘヨンがジョンウを自分の恋しい人だと間違うのはまぁいいのですが、ジョンウが自分の正体を明かすとき別れは決心しているんですから、刑事だという事の他に、「君の恋しい人は僕ではない」と何故言わない?ほんまに中途半端な男やで。パクウィもここまで接近しているなら、殺し屋稼業は内緒にしていても、花を届けていたと告白出来ないのは説得力が薄いです。

それと健全な20代半ばから30前後の男女が、一度抱擁場面があるくらいで、キスもしなけりゃエッチなんてもっての他!という作りです。あの「冬ソナ」はそういう作りだったらしく、そういうところが人気を呼んだそうですが、これも普通ありえんでしょ?お伽話にしたいのなら、設定からやり直ししなくちゃ。それと亡くなったジョンウの墓が何故オランダに?赴任地で死んだなら、普通お骨は本国へ帰るもんです。生前に遺書にでも書き留めたんでしょうか?この男、アホなだけではなく、親不幸もんやったんやな。

その他全体に各自独白がかなり多く、それで説明しようとするので、情感の盛り上がりにに乏しいです。それにまぁなんつーか、刑事も殺し屋も職業的意識があまりに低すぎて、公私の葛藤がみえないのも気をそがれます。ヘヨンは運命に翻弄されて可哀想でしたが、憂いをたたえたチョン・ジヒョンはあまり魅力的ではなく、脚本のお安さがヘヨンの造形にも影響を及ぼしたのとともにが残念でした。

美女が思い人を間違ってそのままお話が進むのは、チェン・カイコーの「プロミス」に似ていますが、たくさんの映画好きを魅了した腕には遠く及ばず。図らずも売り出し中のチョン・ウソンも、まだまだチャン・ドンゴンには追いつけないのも感じてしまいました。このプロットなら汚れのないファンタジーっぽい作りではなく、滑稽なコメディで面白くてやがて哀しき、という作りにして、人を愛する切なさを滲ますやり方が良かったんじゃないでしょうか?


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