ケイケイの映画日記
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2006年11月30日(木) 「ソウ SAW3」

昨日難波の敷島シネポップで観て来ました。このシリーズは、「ソウ」「2」も、市内はナビオだけで公開だったのに、出世したんですね。「ソウ」の時は確か一番小さいスクリーンで、100席前後のとこだったのに。しかし劇場の数・スクリーンの大きさに反比例するかのように、段々面白くなくなっていくのが、シリーズもんの宿命です。この作品もソウみたい、なんちゃって。

前作で自分たちの立場を明かしたジグソウ(トビン・ベル)と”弟子”のアマンダ(ショウニー・スミス)。今回は食肉工場を舞台にしての惨劇です。選ばれたのは、数年前に息子を交通事故で失ったジェフ(アンガス・マクファーデン)。彼の前には、息子の事件にかかわった人物が次々現れます。果たしてジグソウの狙いは?そしてジグソウの延命のため拉致された医師リン(ハバー・スーメク)はどうなる?

もー、あんた「1」の時から死にかけてたはずやんか、のジグソウ。「2」で警察に逮捕されたはずなのに、まんまと抜け出しまだ虫の息ながら生きております。前作二つでは、大きなお世話感満々の彼の歪んだ正義感ですが、今回は趣が異なり、テーマは「赦し」。しかしこの変更が、も〜っと大きなお世話感を倍増させ、シリアルキラーのあんたなんかに言われたかないわ、とまず思ってしまいます。

しかしジグソウは、自分は殺していないのだとか。曰く、あれは「見殺し」なんで人殺しとは違うとか。ふ〜ん。ちょっと知的に言葉遊びなんですが、如何せん今回肝心のストーリーに、「ソウ」の時の仕掛けや謎がなく、大幅にミステリー部分がダウン。

こういう方向に持って行きたいなら、作品に知性が必要かと思うのですが、今回は巧妙に仕掛けられた罠もなく、人を拉致してどう猟奇的に殺すかに比重を置かれた演出になっているので、著しく作品の品格が落ちています。例え汚辱にまみれた場所で惨劇が行われようとも、知性を感じれば、「赦し」「人殺しVS見殺し」のキーワードも上手く浮かんだかも。

巷で大評判のグロ場面の数々ですが、私は大したことなかったです。ただ多少気持ち悪くて汚いだけで、ゾクゾクするような怖さや、目をそむけるような痛みはなかったです。私は普通のホラー好き(と自分では思っている)で、この感想ですから、この手に精通されている方は、評判倒れだと感じるかもです。開頭手術の場面が出てきますが、あれもなぁ。人体模型に手術を施しているのが丸分かりで、興をそがれました。だいたいあんな場所で手術はありえませんから、止むに止まれず手術まで持っていくのに、もっと緊迫感がないとなぁ。ぶつぶつぶつ。

このシリーズお決まりのどんでん返しなんですが、そこに裏テーマが隠されていました(一応秘密)。しかしジグゾーの思惑通りに事が運ぶのは、徹夜して作ったドミノを成功させるより無理があると思われ。アマンダの心模様は自傷する場面もあり、彼女がジグソウを慕う様には哀れがありましたので、それはドンデン返しに有効でした。

ジグソウの元気な頃の回想場面がチラッと映り、綺麗な女性といっしょで、その後のことは藪の中。そして気になるあの子の行方。今回織り込んでお終いにしていたら、作品はグッと締まったでしょうが、まだシリーズは続ける気やねんて。こういうシリーズは、続けるとお笑い系に転じるのがお決まりなんですが。ユーモアは一切ないこのシリーズ、さぁどうなる?

ところで手術なんですが、患者の意識を保ったまま施されていました。手術中に手が上がるか、指が動くか医師が問うのですが、その辺は非常に興味深かったです。当然麻酔は局部のみ。前頭葉がなんちゃらかんちゃら、脳腫瘍の手術で、頭痛を取り除くのと、延命のための手術でした。本当に意識を保ってする頭の手術があるんでしょうか?お解りの方は、どうぞ教えて下さい。


2006年11月25日(土) 「プラダを着た悪魔」


わぁ〜面白ーい!もっと笑えるコメディで、単純な恋も仕事も系のサクセスストーリーかと思いきや、重たくならない深みのある作品でした。実は私は短大を卒業の年に結婚してしまい、OL経験がありません。結婚前の学生アルバイトと、10年前からの各種パートのみが私の職歴の全て。早くに結婚したことは後悔していませんが、きちんとお勤めしたことがないというのが、密かに私の最大のコンプレックスなのです。そんな私にも、スクリーン上の女性たちのみならず、頑張ってお仕事している全ての女性たちを応援したくなる作品でした。

名門大学を卒業したジャーナリスト志望のアンディ(アン・ハサウェイ)。まずは経験を積もうとNYにやってきました。オシャレには全然興味のないアンディが、何故か世界中の女性たちの羨望の的のファッション誌「ランウェイ」に就職が決まります。仕事は編集長のミランダ(メリル・ストリープ)の第2アシスタント。しかしミランダは、泣く子も黙る鬼編集長で、信じられないハイレベルな要求を部下に命じる、悪魔のような上司だったのです。

とにかくオープニングから一貫、とってもテンポが良いです。気合を入れてお洒落して出勤するOLたちの様子も小気味よく、期待感が膨らみます。ミランダ初登場シーンは、スタッフの緊張感がユーモラスに伝わってとっても面白い。本当にこんなだったのかしら?(原作は「ヴォーグ」誌編集長のアシスタントだった女性の手記)。他にも無言でバッグとコートをアンディの机へに放り投げるミランダの様子の繰り返しや、くるくる着せ替え人形のように服を着替えるアンディの様子など、やりすぎ一歩手前で押さえているので、わ〜楽しい〜、とここでもテンポの良さが光ります。

ミランダは尊大で傲慢。笑顔一つも見せず、質問してはいけない、要求は全てクリアしなければならない、時には家の用事(それも全て無理難題)も押し付けちゃったりするのに、部下がついてくるのは、仕事が超一流に出来るから。お洒落なギョーカイを描くと思っていたのに、何だかこれって、職人さんの世界?大工さんとか料理人とか。まずは忍の一字で仕事を覚える。それも出来ないのに、上司や師匠をどうのこうのあげつらうのは、百年早いってか?結局どんな世界でも、一流の人について仕事を覚えるって、基本はいっしょなのかも。

最初「ジャーナリスト志望なの。ここに長くはいるつもりはないわ」、だからお洒落なんかどうでもいいの、と言うアンディに、おいおい、そんな気持ちは職場の同僚に失礼じゃないの?そんな甘い気持ちの人に限って、仕事出来ないんだよ(パートさんでもそんな人はいます)と、私が感じていると、予感的中。しかしミランダの片腕ナイジェル(スタンリー・トゥッチ)の助言を受けてからの彼女は、一皮も二皮も剥けたもので、その若さとガッツと素直さに、とても好感が持てます。

ミランダの要求に応え続ける度、ワーカーホリック状態になっていくアンディ。それに反して暗礁に乗り上げる恋や友情などの私生活。これって家庭で非難轟々の旦那さんみたい。でもアンディを観ていると、仕事が出来て、自分が段々磨かれていくのって快感なんだろうな。アンディを羨ましくも感じます。

今の価値観が多様化した時代は、女性も大変です。昔は数年勤めて寿退社だったのが、子供が出来るまではお勤め、それが今や0歳児で保育所に預けて働き続けるのも、珍しくありません。仕事も恋も結婚も子供も、ぜーんぶあきらめないのが理想とされると、辛いモンがありますよね。そんなキャリアガールの心を察するように、素顔のミランダのたった一度の涙、同僚を結果的に蹴落としてしまい、良心の呵責にさいなまれるアンディの心も描写されます。

ミランダを演じてメリル・ストリープが圧巻。誰もが無条件にハハーッとひれ伏してしまう貫禄は、世界一の女優(多分)の彼女ならでは。メリルがミランダを演じるのが決定した時点で、この作品は半分以上成功だったのでしょう。ファッションに煩い割には、あんまり彼女の洋服は素敵じゃなかったけど、あれは年齢から来る引き算でしょうか?受けて立つアン・ハサウェイは、アイドル女優から脱皮途中の、現在にぴったりの役で、とっても健闘しています。見る見る垢抜けて綺麗になっていく彼女ですが、少々野暮ったいのが親しみやすさに繋がるのが持ち味の人なので、それが良い意味で隙になり、私も頑張れば彼女みたいになれるかな?と、若い女性の意欲を掻き立てるのではないでしょうか?

ラストはこう来るか、と私には意外なアンディの選択でした。しかし最初で最後に見せたミランダの笑顔は、他人に悪意や難儀もむしゃむしゃ食べて、平気な顔をしているように思われているミランダの、自分とは違った形でアンディには開花して欲しいと願う、同性の先輩としてのエールのように感じました。とっかえひっかえ衣装を変えたアンディですが、最後に着た服が、一番似合っていたのは、紆余曲折の末一番自分らしい姿を、彼女が見つけたからだと思います。

惜しむらくは男がスタンリー・トゥッチ以外は、全然いけてないこと。一体全体これは何なの?というくらいひどい!アンディの恋人ネイトの容姿は、20年前でもダサいでしょうし、有名エッセイストのクリスチャン役のサイモン・ベーカーは、マイク・マイヤーズにそっくり。マイヤーズは好きですが、セクシーな二枚(セリフにあった)的容姿ですかねぇ。私はいつ「ベイビー、ヤォ〜」と言い出すかと、気が気でなかったです。

「もう仕事辞めて、この子といっしょに家にいたいなぁと思うときがあるんです。」と仰った、産休中の患者さんがおられました。わかるなぁ。こんなに可愛い我が子を保育所に預けて働くのは、母親として切ないでしょう。でも私は答えたのです。「でも子供はずーと、可愛いままじゃないですよ。その内口ごたえもするしね、憎たらしくなりますよ。その内お金もじゃんじゃんいるし。その時きっと、正社員で働き続けて良かったなと思う時が来ますって」。

そのお母さん、元気にお仕事続けられています。既婚女性が仕事を続けるのは、家庭の安定と家族の理解があればこそ。子供のこと、親の介護などで、仕事を辞めなければならない時が来るかもしれません。独身女性だって大変です。クリスチャンがミランダの悪口をいう時、「何故そんなことを言うの?ミランダが男性なら、誰も文句は言わないはずだわ」というアンディのセリフが、世の中を物語っています。でも将来何が来るかなんて、誰にもわからない。難儀が来ればそんときゃそんとき。適度に肩肘張って湿布も貼って、女性の皆さん、頑張って行きましょう!


2006年11月22日(水) 「トゥモロー・ワールド」


予告編から期待大だった作品、今日観て来ました。1970年代の初頭、「赤ちゃんよ永遠に」という、地球上が大気汚染に侵され、赤ちゃんを産むことが禁じられた世界を描くSF作品がありました。今から20年後を描くこの作品は、皮肉なことに「禁じられた」のではなく18年間赤ちゃんが産まれてこない世界が舞台です。SFの形を取りながら、未来に警鐘を鳴らすのではなく、今地球上に起こっていることが描かれていました。生命の操作、幼児虐待がマスコミで連日取り上げられる中、遠巻きにいるような私たちが何を成すべきかの、糸口の見える作品でした。監督はメキシコ出身のアルフォンソ・キュアロンです。

2027年、地球上では18年間原因不明の不妊が続き、生命の誕生が絶えていました。希望を失いつつある今、世界各地では暴力が蔓延し、不安定な状態が続いていました。辛うじてイギリスだけは厳重な厳戒態勢を敷いて、不法入国者を取り締まっていました。エネルギー省の務めるセオ(クライヴ・オーエン)は、ある日突然拉致されます。彼の妻だったジュリアン(ジュリアン・ムーア)率いる反政府組織”フィッシュ”による犯行でした。ジュリアンは移民の少女キーの、通行所証発行を、セオに頼みます。”ヒューマン・プロジェクト”と名乗る組織に、彼女を引き渡すためです。結局ジュリアンの願いを聞き入れたセオですが・・・。

SFで未来を描くと、必ず暗く汚くジメジメしていますが、この作品もそうです。地球温暖化のせいで雨が多くなっていると想像されているのか、地面もいつもドロドロです。取り締まられている不法入国者も、まるでホームレスか罪人のような扱いです。しかし何よりインパクトがあるのが、冒頭でいきなり紹介される、地球上で一番若い18歳の少年の死です。18年間、一人も赤ん坊の生まれない世界。それが強烈にインプットされ、少々の説明不足や荒削りな部分には、目が届かなくなります。

キーをヒューマンプロジェクトに届けるためには、一緒にセオが同行することが通行証の発行の条件でした。そのためセオは大変な危険に巻き込まれ、彼が心から愛し、信じる人を一人ずつ失っていきます。何故みんなキーを奪い合うのか?

以下ネタバレ











キーが妊娠していたからです。ジュリアンも、セオたちを匿った友人ジャスパー(マイケル・ケイン)も、キーを守るため命を失います。ジャスパーが語る「信念」と「運命」のお話が印象深いです。ジュリアンと知り合った学生運動に没頭していた時の、セオの人としての「信念」が、キーを守らねばならない「運命」を引き込んだのでしょうか?他にも頼める人がいたのに、セオを選んだジュリアンは、今は投げやりな人生を送っている彼の「信念」を、見捨てなかったのでしょうね。

マイケル・ケインは、昔は反戦写真をたくさん撮っていたカメラマンです。風貌が、ジョン・レノンが生きていたらこんな風貌だったんじゃないか?と思わせます。ケインは若々しい感性と老人としての思慮深さ、そして隠された黄昏感も微妙に匂わせ絶品。年取って若い時より素敵になるなんて、本当に素晴らしい!認知症の妻との暮らしに、彼が死を考えたこともあるでしょう(匂わす場面もあり)。未来に希望の持てない生活ほど、辛いものはないと思います。未来を守るため、彼は自ら命を差し出したのだと思います。

キーの出産シーンは、へその緒が付いた本物の赤ちゃんが出てきたのかとびっくり!多分リモコンか何かで動かしている人形なのでしょうが、本当に泣くし動くし、本物の新生児のようでした。いやびっくり。

政府対反政府の戦いは、カメラの手ぶれ、血しぶきがカメラに飛んだままの撮影など大変な臨場感があり、ドキュメントのようでした。どうしても、あちこちで起こっている戦争が思い起こされます。同じく国を良くしたいという「信念」の違いのため、たくさんの人が亡くなっていくのです。その虚しさを知っているジュリアンだからこそ、平和的な解決を願っていたのに。結局「目には目、歯には歯」では、何の解決にもならないんだなと哀しく感じていた時、

キーの抱いている赤ちゃんの泣き声で、死んだようになっていた人達が立ち上がり、武装した兵士たちが銃を撃つのを止め、道を作るのです。延々写された哀しい戦闘描写から一転した素晴らしい演出に、止め処もなく涙が止まらない私。なんてすごい演出かと思いつつ、ここに監督の「信念」が込められていたのだと思います。

18年目の出産が、父親が誰ともわからない、有色人種で不法入国者のキーから生まれたことは、深い意味があるのだと思います。人種を越え地位を越え、誰から生まれたのか、そんなことは小さいことなのです。生まれ来る子は、等しくみんな祝福され、親以外の人間からも守られて当たり前なのです。ジュリアンやジャスパー、セオだけではなく、助産師だったミリアム、ホームレスまがいで狡猾に見えたマリカが見せた、キーへの思いから、私たちは学ぶべきことがたくさんあるように思います。18年生まれてこなくなって、その時知っても遅いですから。

クライヴ・オーエンは観る度違う役で、どれもこれも上手くこなしながら、カメレオン役者ではなく、絶対クライヴ・オーエンなのが、スター俳優として実力と華を兼ね備えている証拠かと思います。ジュリアン・ムーアは、もうちょっと観たかったな。キーの乗るトゥモロー号、私はセオたちの「信念」を引き継いでくれる船だと信じたいです。

つけたし
出産シーンについて。映画的には全然OKなので、これはツッコミではなく、ご参考まで。出産は赤ちゃんが出てへその緒を切ったら終わりではなく、その後またいきんで胎盤も出します。この胎盤が出てこなかったら、大変です。私は次男の時がそうで、医師の手で掻き出されました。そういう場合だいたいが大出血になり、私も出産直後の血圧が、60−30でした。そう、死ぬ一歩手前。冬だったのでガンガンストーブを炊いた分娩室で、一人寒いを連発し、気を失いそうになると、看護婦さんから頬を叩かれ、「寝たらあかんよ!」「何でですか?」と聞く私に、「そのまま死んでしまうから」。思考が止まってしまっているので、ああ、そーかくらいしか思いませんでしたが。子宮を早く収縮させるため、お腹に乗せた氷嚢が冷たいのなんの。入院中に輸血もされ、これがまた熱出したり、しんどいのです。輸血の件はその後エイズやらC型肝炎など、ずっと気にしていましたが、幸か不幸か、4月の手術の術前検査のおかげで、問題なしが判明しましたが、このように、お産が大変だと、後々まで響くもんです。皆さん、身近な妊産婦には親切にしてあげて下さいね。








2006年11月16日(木) 「そうかもしれない」

「明日の記憶」は、50前の熟年男性を襲う、若年性アルツハイマーを描いた作品でしたが、この作品は、金婚式を迎えた70半ば前後であろう夫婦の、妻の方がアルツハイマーに襲われるお話です。老々介護の大変さが取り上げられている中、まさにその姿が描かれています。ところどころ、どうしようもなく素人くさいところのある作品なのですが、それもご愛嬌だと思えるほど、作り手のメッセージが伝わってくる作品でした。秀作とか佳作だとかいうのではなく、描きたかった内容と、その内容を忠実に表現しようと頑張った、作り手・演じ手の素晴らしさを感じた作品です。原作は詩人・小説家の耕治人の、妻ヨシさんとの晩年の日々を綴った<命終三部作>(『天井から降る哀しい音』『どんなご縁で』『そうかもしれない』)を元にしています。

寡作の作家高山治(桂春團治)は、妻ヨシコ(雪村いづみ)と結婚し、50年。子供はいませんが、仲睦まじく暮らしています。時折ヨシコの甥森田(阿藤快)が、二人の様子を見がてら訪問しています。元気で明るかったヨシコの物忘れが激しくなり、家事も出来なくなったのを見かねた森田の勧めで、医師の診察を受けたヨシコは、アルツハイマー病でした。疲労困憊になりながらも、甲斐甲斐しくヨシコを介護する治。しかしそんな彼にも、ガンが襲っていたのです。

こう粗筋を書くと、悲惨でやりきれないお話かと思われるでしょうが、全然そうではありません。確かに老いた夫が、手の掛かる妻の世話をするのを観るのは切ないです。夜中に食事の用意をした妻を、介護疲れから思わず夫がぶつシーンもあり、その後の夫の後悔など、葛藤も描いているのですが、総じて人が老いるのは当たり前、老いて病に倒れるのもしかり、まず自分たちの境涯を受け入れている姿が胸に染みます。

「あなたの頑張りしだいです」という、励ましているのか追い詰めているのかわからない妻の主治医の言葉に、「みんな僕に頑張れと言うんだよ・・・」とつぶやく夫。その時童女のような愛らしい笑顔で、妻が夫に囁く「頑張りましょうね」の言葉は、意味がわかって言っているのではありません。しかし夫のその後の微笑みは、妻から何にも代え難い力をもらったとわかります。

夫とは高山に限らず、今の穏やかで優しい自分が、新婚の時からの自分だと思っています。妻というのは、だいたい結婚して何十年経っても、重箱の隅まで夫婦のことは覚えているものです。特にヨシコのように夫を支えて生きてきた世界だけが、全ての人は。「私があなたのお仕事の邪魔にならないように、どれだけ息を殺して暮らしていたと思うの!」と叫ぶヨシコ。「何でも二人でやってきた」と思っている夫に対し、妻は病が進行して、現在と過去の区別がつかなくなっても、「あなたは何でも自分ひとりで決めるのよ!」と全然別のことを叫びます。この辺りのすれ違いには、劇場を埋め尽くす高齢の奥様方は、深く肯かれたことと思います。

作家の妻として、どれだけ自分が夫の創作活動に貢献してきたか、彼女なりの自負があったと思います。甥の森田に「あの勝気なおばさんが、どんな思いで今まで暮らしてきたか。おじさんはおばさんを食いつぶして生きて来たんじゃないですか?」の言葉は、私小説作家と言われる夫には、胸に突き刺さるものがあったでしょう。

「明日の記憶」より更に25年の歴史のある夫婦は、今と違い、例え夫の収入が少なくとも、軽々しく働いては夫の男としてのプライドが傷つくと、じっと耐え忍んだ方も多かったと思います。昔と今が混濁し、「賞をもらったら、原稿料も上がるのよね?」の嬉しそうな妻の笑顔に、この夫婦の過去が透けても見えるのです。

ヨシコを演じる雪村いづみは、言わずと知れた昭和の歌姫です。若かりし頃の美空ひばり・江利チエミと共演した「ジャンケン娘」など、私もテレビで観ていますが、こんなに演技が出来る人だとは思っていなかったので、それにびっくりしました。発病前の上品で明るい老婦人の様子と、発病して段々童女のようになっていく様子、手づかみで物を食べ、失禁シーンまで演じた果ての、アルツハイマー特有の無表情な老女姿まで、「鬼気迫る熱演」ではなく「淡々と芯に力を込めて」演じていました。ヨシコという人が、いかに夫を愛していたか、二人の家庭を大切に思っていたか、愛情豊かな女性であったか、全て感じさせてくれました。

この失禁シーンは、本当は哀しいはずなのに、どこか暖かくユーモラスでした。排泄というのは、人の手を借りると尊厳が傷つくものです。疲れているのに、「いいんだよ」と世話をする夫に、「何のご縁であなたにこんなことを・・・」と囁き、可愛くプゥ〜とおならをする妻。私だって老いて下の世話をしてもらうなら、息子達なんてもっての他、絶対夫がいいです。夫婦とは、深い深い縁があるのだなぁと、ヨシコの言葉につくづく感じ入りました。

関西では有名な三代目桂春團治師匠は、他の地域では知名度はいかがでしょうか?豪放磊落で有名な初代と比べて、三代目は若い頃から上品でおとなしく、同時期に活躍した松鶴・米朝・文枝などの重鎮に比べ、イマイチ地味な印象の人でした。しかしそれが誠実な編集者(下条アトム)に信頼され、「私はあなたのファンです。だから病には負けないで下さい」と語る耳鼻科医(夏木陽介)の言葉に説得力を持たせ、さぞ聡明で誠実な書き手なのだろうと想像させるのに、ぴったりのキャスティングでした。確かに演技は上手いとは言えませんが、その素人くささが、一生懸命妻を介護する高山とオーバーラップし、私は文句ありませんでした。

文句あるのは、阿藤快。あまりに演技はオーバーです。淡々と時間が流れるこの作品で、完全に浮きまくり、ぶち壊しです。バラエティやレポーターの素の彼には、好感を持っている私ですが、割りと重要な役のこの作品では、ミスキャストだと思いました。

対して出番は少ないですが、上記の下条アトム、夏木陽介は素晴らしいです。烏丸せつ子も特養の職員を演じて、映画の雰囲気にあった控えめな演技で、とても良かったです。

その他、市から廻されている介護担当員の若い女の子が、元気で明るくそのことは良いのですが、セリフをいう時の間合いが悪く、ちょっとイライラします。この辺は撮り直し出来たと思うのですが、変に思ったのは私だけでしょうか?

若い彼女の励ましは、眩しすぎて心に痛いです。社交辞令ではなく、彼女の本心も入った励ましでしょうが、この状態の人に「長生きして100まで生きて下さいね」は、過酷な励ましに思えました。孫が言うなら励ましになっても、他人に言われると辛いもんだなぁと、ちょっと考え込んでしまいました。

「私たちがいっしょに作ったのよ」と、家中の埃を集める妻。その埃をばら撒くシーンは、雪のようで美しく、長い夫婦の歴史を称えているようでした。ラストの住人のいなくなった家の埃とは、全然描き方が違っています。

この作品を観て夫に「私に介護されるのと、私を介護するのと、どっちがいい?」と聞くと、「どっちでもいい」との意外な言葉が返って来ました。よく考えると確かにそうかも。もしもの時は、私が介護する方だとばかり思い込んでいましたが、この作品の妻も、いつの日か来る夫の介護のために、オムツを用意していましたが、実際世話をされたのは彼女の方。きばってもしょうがなし、未来は神様のみぞ知るところ。私もどっちでもいいや。


2006年11月13日(月) 「トンマッコルへようこそ」

昨日観て来ました。公開から少し間が開いたので、秀作だ、いやファンタジーが過ぎる、と色々聞こえてきたので、公開前の期待を捨てて、無の状態で観ようと決心。これが良かったのかどうか、私にはとてもしっくりくる作品でした。

朝鮮戦争が続く1950年、アメリカの飛行機が一機、ある村に墜落します。そこは「トンマッコル」と呼ばれる、人々が自給自足で暮らし、のどかで争いごとのなどないユートピアでした。飛行機に乗っていたスミス(スティーブ・テシュラー)は、村人から手厚い看護を受けますが、言葉もわからず困惑しています。そこへ道に迷った北朝鮮の人民軍兵士スファ(チョン・ジェヨン)、ヨンヒ、テッキの三人と、やはり道に迷った韓国軍のヒョンチョル(シン・ハギュン)、サンサンの二人が、村人の招きで鉢合わせします。一発即発の二方。しかし村の愛らしい娘ヨイル(カン・ヘジョン)のしたことがきっかけで、彼らは村人達の畑仕事を手伝うことになってしまいます。このことがきっかけで、徐々に心を許しあう、韓国・北朝鮮・アメリカの兵士。彼らはトンマッコルに愛着を感じるようになっていましたが・・・。

トンマッコルとは「子供のように純粋」という意味の架空の村です。村人たちは、韓服であるチマ・チョゴリ、バジ・チョゴリを来て、電気も水道もなく暮らしています。どこかで観た村だと思っていたら「刑事ジョンブック」で観た、アーミッシュの村に、どことなく雰囲気が似ていました。あれをユーモラスにした感じです。

朝鮮戦争が背景の、この村での出来事を描いた作品ということしか知らなかった私、まず軍隊が傷だらけの兵士を率いて山越えする場面で、「○○同士」と語りかけるので、あぁチョン・ジェヨンたちは北朝鮮の兵士なのかとわかります。その他スファの苗字は「リ」ですが、これは漢字では「李」。韓国では「イ」と発音し、北朝鮮では「リ」と発音します。字幕でもそうなっていました。韓国語はわからない私ですが、「韓国映画の戸田奈津子」こと根本理江の字幕は的確で解りやすく、かつ正確なのだろうと、この辺りの表現でもわかります。

多くの方が指摘している戦時下の描き方がファンタジー過ぎるというのは、私は気になりませんでした。確かに戦場で歴戦を重ねた兵士たちが、征圧を考えず、すっかり村に馴染んでしまうのは、疑問の方もおられましょうが、最初の方で各々のリーダー格のスファには非情に徹しきれない優しさを描き、ヒョンチョルには自殺を試みる姿を挿入し、戦場では耐え切れない何かを抱えた人なのだとわかります。他の兵士たちも、「腹いっぱい食わすこと」=人間の基本、が村をまとめるコツと語る村長が率いるこの村で、本来の優しさが目を覚ましたと解釈しました。

「ククーシュカ・ラップランドの妖精」では、二ヶ月ぶりに女性を見た若い兵士が、「今は婆さんでもお姫様に見える」という切実且つユーモラスなセリフを洩らします。可愛く若いお嬢さんも多かったトンマッコルで、武器を持つ兵士たちが、淡い想いだけを抱いている描写はちと甘いかも知れませんが、男は狼ばっかりじゃないぞ〜、紳士もいっぱいいるんだぞ〜、ということで、私には好ましかったです。

雪のようなポップコーン、花が舞うような蝶、争いを洗い流すような雨。衣食住を自分たちで賄い、日々のつましい暮らしに感謝しながらの生活。だから時折の飲めや歌への宴が楽しいのですね。スミスの語る「これこそ人生だ!」という言葉は、戦場で血と汗と埃にまみれていた彼らが語るからこそ、重みがありました。

敵を殺しただけではなく、自国民や同僚も容赦なく見捨てざる追えなかった彼ら。「何か一つだけでも罪滅ぼししたい」と語るスファの言葉、逃げたいサンサンに「今逃げたら、一生罪の意識から逃げられないぞ」と語るヒョンチョルの言葉が暖かく胸に響きます。南北の壁を越え、トンマッコルの村人を守るため、一丸となった彼らの激しい戦いに感動し、ラストの彼らの輝く笑顔と打ち上げ花火のような美しさの爆弾の光りは、彼らの心栄えを表しているようで、堪らず号泣していました。

朝鮮戦争というのは、韓国側から語ればいきなり北朝鮮が攻めてきたのが始まりで、北朝鮮では逆に言われています。この作品は韓国映画なので、あっさり北朝鮮の兵士が、韓国説を認めるのがご愛嬌。なんだか南北連合軍VSアメリカ軍の戦いの図式に見えるのが、ちょっと違うんじゃないの?と思わせますが、ここで重要なのがスミスの存在。彼も5人の韓国・北朝鮮の兵士たちと行動を共にします。悪いのは国の政治であり、アメリカ人ではないということ。単にアメリカ軍批判とだけ観ている方が多いようですが、トンマッコルの将来を託されたのは、スミスです。南北統一がなかなか進まぬ現在、トンマッコルを朝鮮半島と見れば、アメリカの存在は大きいと、私は取りました。

朝鮮戦争は、皆さんはどのように学校で教えてもらったのでしょうか?私は普通の日本の女子校に通っていましたが、「朝鮮戦争のおかげで日本は軍需特用に沸いた。日本の復興に一役かったのは朝鮮戦争だ」と教えてもらいました。8歳上の夫も日本の男子校ですが、同じように教えてもらっています。もちろん私は、このことをどうのこうの言うつもりはありません。その時先生が言いたかったこと、私が言いたいのは、その数年前まで戦争で苦しめられていた国が、他国の戦争のお陰で潤い、復興するという皮肉なことがあるのです。このことは「ロード・オブ・ウォー」でも描かれています。

トンマッコルを象徴するような無垢な少女ヨイル役で、絶品の愛らしさを見せたカン・ヘジョン。彼女は少し知的障害があり、「バカ」と言われると哀しい顔をします。私は彼女の哀しそうな顔を観る度、「フォレスト・ガンプ」のガンプが思い起こされました。「ババ(黒人の同僚)と僕には、言われていやな言葉がある。ババはクロンボ、ボクはバカ」。

映画をたくさん観ていると、あちこち点と点であった事柄が、一気に線に繋がる時があります。ちょうどこの、ファンタジー仕立てで反戦を描いていた作品のように。ある日突然、あの映画はこういうことが言いたかったのかと、全く別の作品で理解出来ることもあります。ただの教養や知識で終わらせず、映画を観て何かを感じ、感受性を刺激されたら、自分の人生にどのように生かせるか、そうありたいと思い私は映画を観ています。どうぞ皆さん、たくさん映画を観てくださいね。


2006年11月09日(木) 「手紙」

東野圭吾原作の作品。刑事事件の加害者や被害者の心模様は、描かれることも多いですが、この作品は加害者の弟が、世間の偏見や差別とどう折り合いをつけていくか、兄への感情は?という、珍しい、そして重い題材です。ところどころチグハグな演出もあり完成度は高いとは言えませんが、胸を打たれる場面も多い実のある作品だったと思います。今回ネタバレです。

弟・直貴(山田孝之)の大学進学の入学金のため盗みに入り、誤って殺人を犯してしまった剛志(玉山鉄二)。無期懲役が下った剛志には、弟との文通が唯一の慰めでした。しかし直貴の方は「殺人者の弟」として、世間の差別の目に晒され、職も住まいも転々とする生活を余儀なくされていました。
中学の時からの親友寺尾(尾上寛之)とお笑いで世に出ることが夢の直貴を、同じ職場の同僚由美子(沢尻エリカ)は、好意を持って見ていました。

直貴が勤めるリサイクル工場が立派なのでまずびっくり。親に早くに死に別れ、兄も服役中という設定なので、勝手に下町の零細企業の町工場だと決めてかかっていました。私の深層心理の先入観です。この会社には直貴に冷たく当たる先輩の同僚(田中要次)がいるのですが、後で自分もムショ帰りだと直貴に告白します。直貴の兄が服役中だと知った時、「どうせチンケな盗みでもしたんだろう」と吐き捨てるように言ったのは、彼自身のことだったのでしょう。今は務めながら大検を受けようとする同僚に、短いシーンですが、自分の前科を悔いている様子が伺えました。

リサイクル工場を辞め、バーテンのアルバイトをしながら、寺尾とお笑い芸人の道を歩み始める直貴。努力の甲斐あってブレイクしますが、マスコミに顔が売れるようになって、彼の背景がネットに流失し、芸人の道を断念せざるを得ませんでした。原作ではミュージシャンを目指す設定だったようですが、この変更は良かったと思います。事件を知り、お笑いを取る直貴に、不快感を持つ人は多いでしょう。直貴に罪はないとはいえ、彼を見て事件を思い出す人は多いはず。兄の起こした事件だけではなく、世に被害者・被害者の家族は多いはず。その人達も一様に自分の事件を思い起こすのではと思います。良い悪いで片付けられる問題ではなく、人の感情とはそういうものではないでしょうか?

並行して描かれる重役令嬢朝美(吹石一恵)の父(風間杜夫)の言葉は、父親自身理不尽とわかりつつ語る様子が、それが世間の現実なのだとの重みがありました。いわゆる身分違いの恋ですが、真っ直ぐに物を観る清楚で素直な朝美との恋愛の様子は、清々しさと苦悩の様子が上手くコントラストを作って、恋の終焉も上手にまとめられていたと思います。

私がチグハグだと感じたのは、肝心の事件です。少し事件を美化していると感じました。仕事で腰を痛めた兄は当時無職だったかも知れませんが、何故短絡的に犯行に及んだのでしょう?本当に直貴に向学心があれば、昼間働いて二部に進んでも良いし、親のいない状況、保護者代わりの兄の体調なども考慮すれば、金利のつかない・または返済不要の奨学金が受けられる道があるでしょう。私は生活保護を受けていた家庭で、公立大学に進学した人を知っています。アルバイトに明け暮れてはいましたが、ちゃんと大学も卒業しています。県下トップの進学校であれば、担任の教師が相談に乗ったり助言してくれるはずです。昨今色々言われる学校ですが、私が知る限りこれらを拒む教師はまずいないはずです。

それにいくら腰が悪いとは言え、強盗が出来るくらいの足腰なのに、老女が抵抗して挟みを振りかざしたのを、二十代前半の男が、それを取り上げられないのは、腑に落ちません。揉みあって誤って刺したように描かれていますが、騒がれて我を忘れて逆上して殺してしまったと描いた方が自然に思います。兄を演じる玉山鉄二がまたピュアでストイックに上手く演じているので、どうしても彼ら兄弟に同情的になってしまうのが、被害者への目配せが足らないと思いました。

リサイクル工場時代から直貴に好意を寄せ、影になり日向になり直貴を支える由美子。親の借金から家族バラバラになり、逃げ隠れした日々を糧にして、前向きで芯の強い明るさがとても好感が持てます。演じる沢尻エリカも良かったのですが、あの変な関西弁は何故?彼女は「パッチギ!」では、非常に上手く関西弁を喋っていました。関西出身を匂わす必要も無く、難しいのなら標準語を喋っても良いと思いました。地味な賄い婦から一転、いきなり流行最先端のギャルになるのも謎。いくら美容学校に通うようになったと言っても、あれでは極端過ぎです。

兄のことで直貴を左遷した会社の会長(杉浦直樹)の言葉が印象的です。理不尽な会社の行いに怒った由美子が陳情したため直貴に会いに来たのですが、一平社員のことでわざわざ足を運ぶ姿に好感が持てます。逃げ隠れせず、自分の姿を見てもらって、理解を得、この会社からイチから始めるんだと語る会長。その言葉には、功なり名を遂げた年長者の、生きてきた観て来た重みがあります。そしてその意味が、私にはものすごく理解出来ます。

私も在日韓国人という、差別される側の人間です。差別も少なくなった現在でも、私が在日であることだけで毛嫌いする人はいるでしょう。それが私の背負う宿題だとしたら、私を見て判断してもらうしかないないのです。何度も兄から逃げ嘘をついてきた直貴ですが、逃げても逃げても、そのことは追ってきます。ならば真正面から受け止めるしかないと思うのです。直貴は露見する度逃げてきました。逃げるなと言われたのは初めてだったのではないでしょうか?

由美子が剛志のことで娘が虐められると、「あなたと私の子よ。絶対跳ね返せるわ。」と語りますが、これは取りも直さず「血」という意味でしょう。ならば直貴は「人殺しの血」も流れているのです。反語のようですが、差別感情を肯定していることにもなるのです。人とは、知らず知らずのうちにその人に流れる血を見るのでしょう。差別など悪に決まっていますが、良い悪いではなく、世間とはそういうものなのだと思います。人は弱いということです。ならば直貴は(私は)受け入れ受け止め、生きていくしかないのだと感じました。但し学校のいじめなどの件でこういう意識を求めるのは、場合によっては危険だと個人的には思います。

意を決して被害者宅にお焼香に向かう直貴。息子(吹越満)の憔悴ぶりが強く印象に残ります。「あなたの兄さんのしたことで、あなたには関係ないので、焼香は断りたい」と語る一見冷たい息子は、実は一番直貴の辛さを知っていたのではないかと感じました。加害者・被害者、どちらも残された家族は生活が一変し、想像以上の辛さを味わうのだとわかります。剛志からの最後の手紙を機に、事件を終わりにしたいと語る息子。許せるとは死んでも言えないでしょう。「僕にもあなたにも、長い六年でしたね」と語る息子の姿は、直貴への最大の労いだったと思います。

私は縁は切っても血は切れないものだと思っています。どんなに不束な親兄弟でも、自分は他人と思っていても、世間はそう思ってくれません。自分が罪を犯すと、親兄弟が悲しみ大変な苦労する。そう思考が回らないような犯罪が多くなった昨今、この作品を観て改めて軽はずみな行動は慎もうと思った人は、私だけではないでしょう。そして隣人に直貴のような人がいれば、私だけはその人を見て判断しよう、この作品を観てそう誓った人も多いと思います。世間の冷たく厳しい場面ばかりを映し、直貴に試練を与えながら、実はそれが一番言いたい作品だったように思います。


2006年11月06日(月) 「デスノート the Last name」


散々前編を、「腹立つ小童どもじゃ」と貶しながら、初日に観て来ました。本当はもっと後でも良かったのですが、前編を気に入った夫が早く観たがり、初日に予約と相成りましたが、肝心の夫が発熱のためダウン。私なら解熱剤を使っても観るのですが、夫には映画的根性はなく(普通は要りません)、ひとり寂しく(←大嘘)観て来ました。ラインシネマでは一番広いスクリーンで公開でしたが、私が観た回、その次の回もソールドアウト。まるで「ハリポタ」並みじゃございませんか。もっと別の作品でこうなって欲しいのー、と思いつつ、今回はLが気に入ったこともあり、前編よりは楽しみました。

キラの逮捕に協力するという名目で、まんまと捜査チームに入り込んだライト(藤原竜也)。しかしL(松山ケンイチ)は、まだライトがキラである疑いを持っています。そんな時リュークとは別の死神レムが落としたデスノートを拾ったアイドルタレント・ミサ(戸田恵梨香)は、ライトを崇拝し、「第二のキラ」として、行動を開始します。

前編でムカついた感覚は、この作品の世界観に慣れたのか、今回も傲慢な正義感とは感じましたが、腹が立つ感情はなくなりました。その代わり前編では感じなかった細部に鬱陶しさを感じました。

まずミサ。恵梨香嬢が嫌いというのではなく、造形があまりにおばさんの私には鬱陶しい。喋り方もアホっぽく、彼女の背景にライトを崇拝する下地はあるものの、これでライトに夢中になるには説得力がありません。彼女のような経験をした者が、こんなに簡単に命を操れる神経がわかりません。

もうひとりの重要人物の清美(片瀬菜那)ですが、彼女も最初の志どこへやら。これらのことは充分に考えられる変貌なのですが、この辺をペラ〜と薄く描写するので、やっぱり説得力不足の感が残ります。

さて期待のライトとLの対決ですが、今回は不遜な輩は女二人に任せたので、たっぷり頭脳合戦が楽しめます。ライトの方は、今回ミサが加わり、何でも有りのデスノート機能もバージョンアップ。圧倒的有利なのですが、Lも負けていません。引きこもっていたLがライトの学校に現れたり、執拗にライトを追い詰める様子も、プロファイリングだけではなく、犯罪者に対する刑事の感のようなものも感じさせ、観客を引き付けます。

特にラストで見せた原作とは違うLの捨て身のアプローチは、頭脳明晰だが奇妙な少年の印象が拭えなかった引きこもりのLの、正義を感じさせるもので、素直に胸を打たれるものがありました。家庭的にも経済的にも恵まれたライトが、歪んだ欲望を何故正義とはきちがえたのか?親を知らず、執事のワタリ(藤村俊二)だけを頼りに生きてきたLが、道を踏み外さず正義を正しく見つめられたのか?この辺をもっと掘り下げると、昨今のいじめ問題や少年犯罪の有り様を探るヒントがあったかもと思うので、その辺が残念でした。

原作もそうなんでしょうか、ミサはツインテールでアキバ系アイドルっぽく、ゴスロリ姿も披露してくれます。清美役の片瀬は、駆け出しキャスターには分不相応なインテリアに囲まれ、セクシーな寝間着姿で、びっくりするくらい長い美脚をみせてくれたり、これはこの作品を指示する層が、案外幅広いのかもと感じさせました。

藤原竜也は、終始クールにライトを演じつつ、ラストの力の入った演技でメリハリをつけ、良かったと思います。しかし今回は松山ケンイチの方が断然光っていました。ユーモアの少ないこのシリーズで笑いを取ったり、つかみ所がなく最後まで淡々としたLの全てを、下手に技巧に走らず素直に演じていて好感度大でした。素顔の松山ケンイチは、爽やかで暖かみのある好青年風で、Lを演じながら、素の彼が良い意味で透けて見えたのが功を奏した気がします。

前編よりは軽薄さもましで、まずまず楽しめました。原作は私の疑問点にも答えてくれているんでしょうか?心優しい死神レムは、映画だけのキャラだそう。やっぱり最強なのはリュークというオチは、人間が人間の生死を操作する、その神をも恐れぬ行いを、戒めているんでしょうか?




2006年11月02日(木) 「父親たちの星条旗」


火曜日に観て来ました。私は戦争映画が苦手で、あまり本数は観ていません。よっぽど話題になるか良作だと聞かないと、観る気にはなりません。しかしこの作品は現在全米イチの監督と言って良いだろうイーストウッドが、硫黄島決戦を、日米二方の視点で描くと聞いて、本当に楽しみにしていました。神経性胃炎になったり、発熱したりで、ここのところ体調がイマイチなので、長い作品と聞いていたので、途中で寝るかな?と思っていましたが、戦闘シーン以外は静かにお話は進むのに、本当にあっという間の2時間12分で、途中からずっと泣いていました。76歳のイーストウッドが作ったからこそ、価値のある作品だと思いました。

太平洋戦争末期、硫黄島に上陸したアメリカ軍は、日本軍の意外な抵抗で長引く戦いに業を煮やしていました。士気を高めるため、山頂に星条旗を立てた6人の姿がカメラに収められ、たちまち本土では大評判になります。6人のうち生き残ったドク(ライアン・フィリップ)、レイニー(ジェシー・ブラッドフォード)、アイラ(アダム・ビーチ)には帰国命令が下ります。彼らを待っていたのは、「戦争の英雄」として、戦時下の資金集めに利用されることでした。しかしこのお話には裏があり、彼らが立てたのは二度目の旗だったのです。

全然ストーリーを予習していかなかったので、時空をいじったストーリーだとは知らず、最初はわかりづらかったです。名の知れているのは、ライアン・フィリップ、バリー・ペッパーなど少数なのが、それに拍車をかけますが、それも監督の想定内だったのでしょう。誰もがドクたちや死んでいった兵士たちになったかもわからない、観客にそう思わせるには、大スターは必要なかったと思います。フラッシュバックも多用されますが、演出・脚本ともわかり易く、段々と感情を高揚させていくのに効果的でした。

至近からの戦いの様子は、近年「プライベート・ライアン」、「ブラザー・フッド」などでも描かれてるので、特に目新しい感じはありませんが、やはり迫力はあります。惨たらしい遺体をそこかしこに見せることによって、怖さより悲しみを感じさせました。

英雄としての自分に浮き足立ち、PR活動にも熱心なレイニー。死んでいった戦友たちのことが忘れられず、英雄として祭りあげられる自分に激しく嫌悪し、精神のバランスを崩していくアイラ。違う形で自分を見失っていく二人に比べ、一番冷静で、忠実に上司からの命令を守るドクも、心の底では英雄として祭り上げられることに激しい抵抗感があります。お偉いさんたちはお金集めに一生懸命で、彼らの感情などどうでも良いのです。命懸けの戦地も安全な内地も、それぞれ違う意味で彼には冷たく厳しい世界です。

亡くなった兵士の母が、「あなたが志願しろ言ったから、あの子が死んだ」と、夫を責めます。父親の仕事は農業でした。父親はこの戦争で親にはつけてやれなかった箔を、息子がつけて帰国すると思ったのでしょう。未来のための志願が、未来を奪ったのです。「彼らは大学出なので、戦争には行かないんだ」というセリフもあり、「ジャー・ヘッド」で兵士たちが志願した今と、あまり変わっていないということです。

三人の中で、一番泣かせるのはアイラでしょう。彼の罪悪感で自暴自棄になる、人としての善なる弱さは、観ていてとても共感を呼ぶものです。彼が白人でもなく黒人でもなく、ネイティブアメリカンだという事が、一層彼の孤独感を増したのではないかと感じました。

他の二人とは異なる様子を見せるレイニーですが、彼を観ていて、高校生の時の先生のお話を思い出しました。公民の時間がだったのですが、まだ20代後半の若い男性だった先生は、「昨日の夜、『戦争の時チャンコロ(中国人)をいたぶって楽しかった』と父が言ったので、大喧嘩になった。」と言う、お話をされたのです。聞いた私も何てひどいお父さんなのだと、その時それだけを感じました。しかし今思い起こしてみるとそうではなく、人をいたぶって快感を感じさせる、戦争とはそういう恐ろしいものだという事なのです。善良な人の心まで変えてしまうものなのです。今まで経験したことのない晴れがましい場所にいるレイニーが自分を見失うのも、それは戦争がさせたことなのではないかと感じました。

ひとり冷静に現実を見つめるドクですが、それは彼が衛生兵として、一番たくさんの数の兵士の「死に水」を取ったからではなかったかと感じました。彼らが残す言葉の一つ一つが脳裏を霞め、彼らの死を無駄に出来ない、この戦争には負けられない、そういう強い意志をもたらしたのかと思いました。
終戦後も自責の念に駆られながら、生涯戦争に関して黙して語らなかった彼は、口に出すと自分が壊れてしまうと思っていたのでしょう。そうやって戦後の復興に力を尽くした、たくさんのドクが、日米二方にいたことだろうと思います。

監督のイーストウッドは76歳。彼によると、「自分の若い時分の戦争映画は、どちらかが善でどちらかが悪であると描いていた。年を経るにつれ、戦争とはそういうものではないと感じるようになった。」と、語っています。今この想いを映画にしたいという瑞々しい感受性は、本当に尊敬したく思います。

私は子供の頃、多分再放送だった「ローハイド」で彼を始めて観ました。のちテレビで盛んに放送されたマカロニウエスタンでも彼を観、次に彼を観た時は、ハリー・キャラハンになっていました。今でいうストーカー女性の恐怖を描いた「恐怖のメロディ」で監督にも進出、以降たくさんの娯楽作に出演・監督しつつ、「ドン・シーゲル、セルジオ・レオーネに捧ぐ」と、自分の恩師にあたる人に捧げた「許されざる者」でオスカー監督となります。時代を見据えながら、時代と共に自分も進化してきたイーストウッド。老いるという事は後退するのではない、成熟していくということなのだと、彼から教えられます。この作品に一番深い陰影をもたらしたのは、若く戦争を知らない世代の監督が撮ったのではなく、戦争を知る年齢のイーストウッドが作った反戦映画だからではないかと思います。

私が印象深かったのは、上官の「兵士たちを生きて母親・恋人の元に返すと誓った」と、何度も出て来るセリフです。日本は「お国のために命を散らせ」と、よく映画では出てきます。その辺の意識の差は、単にお国柄なんでしょうか?「硫黄島からの手紙」を観ると、その謎は解けるのか、楽しみにしています。


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