ケイケイの映画日記
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2006年08月29日(火) 「ユナイテッド93」


昨日観て来ました。評判の良い作品ですが、ぶれる画面に酔うとの噂に、三半規管が弱い私は、少々困ったなとも思っていました。そしたら先行でご覧になっていたお友達の灰兎さんからメールが届き、後ろで観れば大丈夫のこと。劇場はそこそこ満員で、通常ならゆったり座れる前方の席を確保しますが、今回はアドバイス通りにすし詰めだった後方をチョイス。お陰さまで一度も酔うこともなく、鑑賞できました。ドキュメントタッチで綿密に取材し、真摯に題材と向かい合った誠実な作品でした。娯楽作として観る作品ではないという感想が多いのですが、私は楽しめたという意味ではなく、色々な感情や感想が湧き、別の意味でとても面白く観た作品です。

2001年9月11日、アメリカ史上最大のテロによる惨事を、当時の関係者に詳細に取材して、再構築した作品。作品内で起こる出来事はフィクションではなく、携帯電話や機内電話で家族や友人に連絡した内容を元にしたものだそうです。管制塔の場面で出てくる人々は、当時勤務していた人達の多くが、本人を演じているそうです。良い悪い、善悪、白黒など一切主張することなく、ただ事実のみ再現することに心血を注いで、観る人に考えてもらおうとしている作品です。私は宗教心、時間、運など、様々な想いが湧き上りました。

冒頭、お祈りをしている青年たちが映されます。事件の顛末は知っているので、彼らがテロ犯人だとわかります。体を清め一心にお祈りを捧げる彼らは、とても真面目で清廉そうな青年たちです。後半ハイジャックされてから、「主よ・・・」と祈る乗客と、何ら変わりはありません。私は最初この事件を知ったとき、テロの犯人たちはまるで特攻隊のようだと思ったものですが、それは違うようです。特攻隊は「国のため」であるはずですが、彼らは心底自分たちの行為が、世界平和につながると思っていたのではないでしょうか?

宗教によってそれぞれ違う神が対象になるのはわかっていますが、テロ犯たちの祈る神も、乗客の祈る神も、それぞれ弟子達を助けたかったのではないか、テロ犯と乗客になるほど、そんなに神によって教えが天と地ほど開きがあるのだろうか?と感じました。テロ犯の行為は、その宗教的に崇められる尊い行いであると、彼らは教え込まれていると新聞で読みました。しかしそれって何千年の間に、伝える人の主観・感情・意見が混ざり、太い幹に枝が生え葉がつき、又枝が生え、伝言ゲームように伝わっていったことなんじゃないかと、宗教というものの奥義がわからない私は、そんな気がしました。指導者がとても大切なのだと、改めて思いました。

最初にハイジャックを探知したのは、管制官が微かな声を拾い上げたからです。長年の勘が、十何年なかったハイジャックを突き止めた時は、いくらハイテクで管理されても、最後は人間の力が必要なのだなと感じました。管制塔の中のパニックぶりは、当たり前なのですが、事件だけではそこまで想像していなかったので、こんな風だったのかと、今更ながら深刻な思いで観ていました。軍隊は全員出動、戦闘態勢でした。あの状況では、危機管理の体制が整っていても、どうしようもなかったのではないかとも感じます。

管制塔の責任者は、軍に要請を頼みますが、こちらも責任者不在であたふた。それと軍用機がハイジャック機に追従するように命令されますが、あれは不穏な進路をとれば、撃ち落せということなんでしょうか?ふ〜ん・・・。ハイジャックされる前の乗客や乗組員の何気ない、明日を語る言葉や、乗客たちの連帯感が、結果を知っているだけに痛ましかったです。機内電話や携帯で家族や友人に電話する乗客たちに、御巣鷹山の日航機事故の乗客が重なって見えたのは、私だけだったでしょうか?


以下ネタバレ











乗客たちは、ハイジャック後墜落寸前で、自分たちでテロ犯たちを取り押さえようとします。正直遅いよと思う私。これはハリウッド映画の観すぎではなく、それほどテロ犯たちは、素人のか細い青年なのです。もっと早く取り押さえていたら、とも思ったのですが、そこで時間のことを思い出します。ハイジャックされてまだ1時間ちょっとくらいなのです。爆弾を持たれ、機長や副操縦士が殺されたと知った中、現実に考えれば乗客たちの行動は遅いどころか、とんでもなく素早いのです。もう少しだけ、早ければ。数々のパニック物が、幸せなものだったのだと、この作品のラストを観た時ほど感じたことはありません。


2006年08月25日(金) 「スーパーマン・リターンズ」

お久しぶりです。猛暑と末っ子の夏休み、私の仕事増量、ついでに手術後初めての夏と、苦行が二重三重にとぐろを巻いた今年の夏、あの根性はどこへいったんだ?の日々で、やっと今月四本目です。予告編を観た限りでは、そんなに期待していなかったのですが、なるほど、監督のブライアン・シンガーが彼の代表作「X-MEN」シリーズを蹴って監督したのも肯ける出来。前作シリーズに敬意を表しながら、哀しみも愛も痛みも知る、シンガーらしい「スーパーマン」となっています。

自分探しの旅から地球に帰還したクラーク・ケント=スーパーマン(ブランドン・ラウス)。育ての母ケント夫人(エバ・マリー・セイント)のいる懐かしい”地球での故郷”に立ち寄り、運良く欠員の出た古巣デイリー・プラネット社にも復帰出来ました。社には彼の恋人であるロイス・レイン(ケイト・ボスワーズ)が花形記者として大活躍中。しかし彼女は既に一児の母となり、家庭も持っていました。愕然とするクラーク@スーパーマン。孤独と闘いながら、スーパーマンとして大活躍する彼の前に、かつて彼の手で牢獄に押し込めたレックス・ルーサー(ケビン・スペイシー)が出獄、再びスーパーマンとルーサーの死闘が始まります。

何たってかんたって、観よ画像!(↑)懐かしのクリストファー・リーヴのスーパーマンにそっくり!(←はリーヴ本人。全体の姿も探したのですが、これが見つからず申し訳ない)。初作の内容は覚えちゃいないが(私よ、私)、でもリーヴのスーパーマン姿の勇姿は目に焼きついているという人は多数でしょう。リーヴという人はその後秀作「ある日どこかで」などでも非常に印象的でしたし、落馬事故から半身不随になり、障害者として生きる姿を世間に公表し、世界中の映画ファンから敬意を集めた特別な人でもあります。そんな大衆心理をきちんと踏まえたシンガー監督が強力に推薦したラウスは、懐かしの音楽を背に、見事に期待に応えた演技で、観客に懐かしさと新鮮さを感じさせ、違和感なく観る者の心に溶け込んでいきました。

掴みは完全にOKなところへ、最初の見せ場はフライトトラブルです。「ユナイテッド93」「ワールド・トレードセンター」など、9・11モノが目につく今年の特徴も上手く取り入れ、初公開時では描けなかったスケールアップの演出で、見応え充分。そしてハラハラドキドキの後、ほどなくスーパーマンとロイスの再会を持ってくる順番も上手い!その他、地割れ、停電によるパニック、自動車事故などを救う数々の見せ場の、他の誰でもないヒーロー、「スーパーマン」らしさの表現も上手だったと思います。

二人の恋心を見え隠れさせながらのラブシーンは、大人の純情とでもいうべき叙情に溢れた純粋さと清潔感に包まれて描かれ、好感度大。ロイスのパートナーがある身である自分を自覚しての慎み深さも、好ましかったです。ケントの時の彼がメガネを落とし、そばのロイスが顔も見ないでケントにメガネを渡すのですが、それを受け取ったケントが、ためらいつつ、数秒間ロイスが自分に顔を向けるのを待つシーンが秀逸。ヒーローモノで、こんなクラシックな恋心を見られるとは感激でした。

スーパーマンは人間ではありません。超人的な能力を世のため人のために使い人々の雨あられの賞賛を受けても、彼を待っているは孤独です。心の拠り所であったロイスは人の妻、ぽっかり大宇宙に一人浮かぶ彼の寂しげな姿は、壮大な使命を持って生まれた者の哀しみと、愛を失った痛々しさに溢れていて、思わず彼を抱きしめた思いに駆られます(大きすぎて無理)。

ロイスを演じるボスワースは、アメリカで大評判だと聞いて、正直「???」だったのですが、観れば納得。初作で演じたマーゴッド・キダーの勝気で聡明で、ちょっと慌て者の可愛さは残し、母となったロイスに暖かみを加えています。私は女性を魅力的に感じさせるのは、個人的にこの暖かみだと思っています。それをまだ23歳の彼女が過不足なく演じて、本当にびっくりしました。パートナーのリチャード(ジェームス・マースデン)の気持ちを気遣う慎ましさと、抑えきれないスーパーマンへの情熱的な部分の演じ分けも充分。オーランド・ブルームと付き合っている新進女優とだけ認識していたのですが、大変な好演でした。

ルーサー役のスペイシーですが、う〜ん、もちろん演技派スペイシーに、別に文句はなかったのですが、もうちょっとお茶目さんでも良かったかと。憎々しさがいやに目立つルーサーで、初作のハックマンはもっと愛嬌があったような。主役二人が初作を踏襲した上で新鮮味を出しているのに対し、少々違和感があったのかも。代わりと言っちゃなんですが、愛人役のキティを演じるパーカー・コージーが、その古臭い衣装や髪型のせいか、私は白川和子に見えてしょうがなかった。役柄も悪役で頭も少々軽いながら、情の濃いところを見せるなども、和子さんにそっくり。そして最後に出た行動も、むか〜し彼女が出ていたドラマでしそうな、深情けだったんですね〜。パーカー・コージー、覚えておこうっと。

スーパーマンがスーパーマンとして再生する様子は、きっと今まで幾度も映画で描かれた内容でしょう。でもそれでもいいんです。人が自分の使命を真っ当する苦悩に超人も凡人もなく、乗り越えた時の清々しさと達成感は共通のはず。それを観て観客も、幾度も来る人生の憂鬱や試練を乗り越える糧になったらいいですね。それは映画の素晴らしさの一つでは、絶対あると思います。


以下ネタバレ











ロイスの子供は、スーパーマンとの間の子なのでした。父親が父親なので、この子もスーパーチャイルド。それで何故リチャードとは婚約のままなのか、スーパーマン不要論みたいな本を書いたのか、理解出来ました。リチャードがいい人で感激。瀕死のスーパーマンの元に「会っておいで」と送り出す様子に、パートナーとしてのプライドも感じさせました。ラストの事情がわかってからの二人の様子も、あの情熱見え隠れから、安定した友情に変わるだろうなと感じさせ、大人な締めくくりだなぁと、どこまでも気持ちの良い作品なのでした。


2006年08月14日(月) 「プルートで朝食を」

観たくって観たくって観たくって、恋焦がれていた作品。何故なら内容中心で幅広く観ている私が、数少ないこの監督の作品ならばと思う、二ール・ジョーダンの新作だから。大阪ではテアトル梅田だけで上映で、予定は2週間。お盆の忙しさにかまけて見逃してはならじと、初日の初回に観て来ました。ふんわりふわふわとっても可愛い、だけど世間に流されず強固な自我を見せてくれる主人公に、泣き笑いしながら心洗われた二時間でした。

70年代のイギリス。IRAの独立運動が活発な最中、アイルランドの小さな町で赤ちゃんの時に教会に捨てられ養子に出されたパトリック(キリアン・マーフィー)は、自ら”キトゥン”と名乗り、「体は男、心は乙女」の自分を隠さず、好奇の目で観る世間も何のその、自分のスタイルを守って暮らしていました。養子先の母や姉には理解されず衝突ばかり、キトゥンはとうとう家を出ます。そしてミッツィ・ゲイナー似の美しい生みの母を求めて、ロンドンへと旅に出ます。

思い込んだら試練の道を、行くがオカマの生きる道。唯我独尊、少しの迷いもぶれもなく、なりたい自分生きたい自分の姿で突っ走る、痛快オカマちゃん一代記。男らしい男を望んでいた養子先に疎まれたり、学校でキツーイ「矯正教育」を受けたり、あの男この男との愛に破れても、どこ吹く風にみえるキトゥン。しかし「あなたが口先だけとはわかっていたわ。でも幸せだった。」「笑っていなければ哀しくて生きていけなかった」の言葉は、それまで強烈な自我を見せ付けてられていたので、ほんの一言二言が、ずしんと心に響きます。

キリアン・マーフィーが可愛くて可愛くて可愛くて!結構美形な彼ですが、骨格のしっかりした顔は、女装はちょっとしんどいかと思っていたのですが、(こんな顔↓)
どうしてどうして、堂にいってます。アイルランド時代やロンドンに行った当初の様子は、大昔のピーター(池畑慎之介)のようなシスターボーイ風で、制服の襟や裾に飾りをしたり、お手製の服を着てみたりでお洒落心いっぱいの様子が、とっても女の子っぽいです。囁くような軽やかな話し方、動作の一つ一つがエレガントで、上目遣いもとっても可愛い。ノンケの男性が次々彼に骨抜きになるのですが、さもありなん。普通男性同士のラブシーンでは、どうも居心地悪くなることがあるのですが、この作品に限っては皆無。それほどマーフィーは、男の体に生まれた女の子を自然に演じていました。

最初はこんなの→








それが最終的にはこんな風に進化、いや変身します。美しい!↓




家出をしてからのキトゥンは、ホームレスまがいになったり、怪しげなマジシャン(スティーブン・レイ)の相棒にさせられたり、着ぐるみで着てダンスを踊ったり、果てはとうとう街娼にまでなってしまいます。しかし彼が落ちぶれたなんて、全然思わない。キトゥンは好きで苦難の道を歩いてるんです。わかるなぁ、私もそうだよ。好きで日本生まれの日本育ちなのに、韓国人のままなんだよ。何で帰化しないって?そんなの理由はありません。少々暮らしずらいことがあっても、ネットで謙韓派の煽りにむかっ腹立てたり、選挙権がなくっても、私は「日本生まれの韓国人の私」が好きなんだ。キトゥンだって、何があっても「女の子として生きたい」という、彼の決意は揺らぎません。自分の心を隠して男として生きる不自由さより、どんな犠牲を払っても、本当の自分を隠さないことが、キトゥンのプライドなのです。

キトゥンは「真剣」という言葉を嫌います。この作品の背景にはアイルランドの独立運動が描かれています。「真剣」に国を思った結果が、殺し合いだったり、市民を巻き添えにする惨事だったり。「真剣」に考えてそんなことするくらいだったら、もっと目の前の壁を克服するとを考えてちょうだいと、彼は思ったのかもしれません。社会的な差別を受けているであろう仲良しの黒人系(中東?)のチャーリーや彼が、運動に携わらない姿に、それが表れているように思えました。

確かに物事は「真剣」に考え過ぎると、寛容さがなくなるものです。オカマや未婚で妊娠した高校生、女性を愛した神父が許せない、町の「善良な人々」を見て、「スタンドアップ」の、シングルマザーで子供を産んだ、ジョージーのママのセリフが思い起こされます。「あの子が銀行強盗をしたの?子供を生むのがそんなにいけないことなの?」。真剣すぎると真剣さに振り回され、人は一番大切なことを見落としてしまうのかも知れません。

「シュガー・ベイビー・ラブ」「子犬のワルツ」など、当時のイギリスのヒット曲がバックにふんだんに流れ、真剣に考えればとっても悲惨、でも本人はとってもエンジョイしているキトゥンの人生を、カラフルに彩ってくれます。とにかく楽しくて元気が出る作品。キリアン・マーフィー一世一代の名演技とともに、是非楽しんで下さい。


2006年08月05日(土) 「ディセント」


大層おもしろいと一部で大評判のこの作品、観て来ました。当初はホームのラインシネマで観るつもりでしたが、レイトで2週間上映、それもお盆を挟んでということで、見逃してはならじと、テアトルまで遠征して観て来ました。キャストもほとんど知らない俳優さんばっかりですが、それが良い方向に転び、確かに今まで観たことのないようなホラーで、充分楽しめました。

一年前交通事故で夫と娘を亡くしたサラを励まそうと、ジュノ、べス、レベッカ、サム、ホリーの旧友たちは、彼女をアメリカのアパラチア山脈の洞窟探検の冒険旅行に誘います。楽しく探検するはずだったはずが、思いがけない崩落事故のため、出口がふさがれてしまいます。当初は観光地にも指定されている場所と聞いていたメンバーですが、リーダーのジュノの独断で、誰も訪れたことのない、秘境の洞窟であるとわかります。悪いことに、地図も車の中に置いたまま。果たして彼女達6人は、無事帰還することが出来るのか?

冒頭渓流下りに興じるサラ、ジュノ、ベスが映り、彼女達が冒険好きの活発な女性であるのがわかります。私はグロもホラーも全然大丈夫ですが、見せて良いグロと悪いグロがあると思っています。子供が血まみれ、陵辱されるなどは絶対NGなので、交通事故のシーンもショッキングですが、子供の様子は見せず、亡くなったとだけわかる演出方法も合いました。

洞窟探検のメンバーも山登り、ロッククライミングなど、皆冒険好きそうなのが会話でわかります。洞窟サバイバルからは、抜群の運動神経を見せる彼女達。絶叫ホラーは、グラビア系の美女がおっぱいユサユサ、短パン・ミニスカで逃げ回るのがお約束ですが、こちら冒険美女達は引き締まった体をアウトドアチックな服装に身を包み、冷静さと知性が感じられ、この辺りも美女大量投下の割にはお色気ムードがなく、珍しいです。私が知っているキャストは、ホリー役のノラ・ジェーン・ヌーンだけ。「マグダレンの祈り」の時と全然感じの違うボーイッシュな役柄で、ちょっとびっくりしました。

ジュノの独断で生命の危険にさらされているとわかってからの心理的な展開は、ちょっと中途半端です。確かに女同士のいがみ合いも出てくるのですが、逃げる際に二手に別れてしまったという不可抗力で、心理的に三つ巴になったりはせず、結局ほとんど一致団結で拍子抜け。もうちょっと女ばかりというプロットを生かした、女のいやらしさを前面に出した方が面白かったかも。

前半は崖から崖をどう渡るのか?この先に本当に出口はあるのか?を、閉塞感いっぱいの穴蔵で、アクション映画さながらのサスペンスタッチで面白く見せてくれます。後半はえっ?という、何となくスティーブン・キングの作品でよくある手合いなのですが、私は大昔漫画でこういう設定を読んだことがあり、その時もすんごい怖かったし、今回も展開として面白く見せてくれたので、不問にしたいと思います。私は人一番どんくさく、彼女たちのような運動神経はゼロなので、一生冒険旅行は止めようと、固く誓った作品でもありました。閉所恐怖症の方や、暗闇にトラウマのある方は、観ない方が無難かも。


以下後半のネタバレ

















洞窟の中には、食人族が住み着いていました。洞窟にずっと住み着いているので、目が見えなくなっており、異常に聴覚が発達しているというのは充分説明がつきます。そのこともうまく使って演出しており、ドキドキ感がアップしました。なんで男ばっかりやのに、こんなにうじゃうじゃおるねん、のツッコミは、これは女ですなの食人族の登場でチャラに。でももっと男女の比率は公平にして、ちびっちゃい食人族も映した方が、怖さはアップしたかも。ライオンが得物を食い尽くすような勢いや、その残骸の形状がリアルで、この辺も良かったです。

でもですね、なんでこの洞窟に住み着いたのかが疑問。時々外に出て得物を捕獲して暮らしているという、セリフや情景は映していましたが、これだけでは説明不足。でも真っ暗闇にエイリアンより、食人族の方が絶対怖いって!だから不問です。

サラの夫とジュノが不倫関係だったのは、冒頭のシーンでチラッと映したのでわかっていました。そのことがわき見運転につながったのも感じたし、ジュノがサラ夫の死亡に悔恨の念があったのもわかります。が!自分の贖罪のためにですよ、この洞窟を6人で征服して、サラの名前をつけたいなどなど、迷惑この上ない女なんですよー。演じるは東洋系のナタリー・メンドーサで、アクションシーンは彼女が全面に出て引っ張っていました。夫だけなら、あんな男、のしつけてくれてやったわ!で済みますが、サラは子供も亡くしているので、おとなしく優しげだった彼女のラストの怨念爆発は、おとなしかっただけに、怒りの深さが理解出来ました。金髪のロングヘアーの細めの女性が頭から血まみれになるのは、「キャリー」のシシー・スペイセクを彷彿させました。


2006年08月03日(木) 「ゆれる」

大評判のこの作品、観て来ました。どこの上映館でも満員御礼、定員オーバーで追い返されることも多々ということで、レディースデーは避けたかったのですが、あいにく仕事が長引き、時間が間に合う作品がこれだけ。上映40分前にはリーブルに着きましたが、定員115人の劇場で、私が手渡されて整理番号は、何と162番!後から続々立ち見でも観たいというと人が押しかけていましたので、最終的には倍くらい入ったでしょうか?私は通路に正座したり三角座りして、2時間少々頑張りました。しかし足の痛さなど全く気にならない、張りつめた、しかし生暖かくも物悲しい空気がずっと持続する、素晴らしい作品でした。私は未見ですが、デビュー作「蛇イチゴ」の評価も高かった、女性監督西川美和の作品。

東京で写真家として成功している猛(オダギリジョー)は、母親の一周忌のため、久しぶりに帰省しました。故郷では温厚な兄稔(香川照之)が、偏屈な父(伊武雅刀)の後を継ぎ、家業のガソリンスタンドを父とともに経営していました。父親と確執のある猛の今回の帰省も、兄に勧められてのことでした。ガソリンスタンドで働く智恵子(真木よう子)は二人の幼馴染で、かつて猛の恋人でした。三人で近くの渓谷を訪れた時、吊り橋を稔と智恵子が二人で渡っていた時、智恵子が吊り橋から転落し、死亡します。智恵子の死は、事故なのか稔による殺人なのか?・・・。

サスペンスの要素もたっぷりの脚本が出色です。ひとつひとつのセリフ・状況が、その時の登場人物の心情をあますところなく描いている上、後で幾重にも重なり真実を暴露し、登場人物の心も掘り下げます。恐れ多くも黒澤明の「羅生門」を思い出したのですが、ちょっと褒めすぎかな?でもそれくらい、本当にびっくりするほど素晴らしいのです。脚本も監督の西川美和です。

二人は容姿・性格、何もかもが対象的です。風采は上がらないが、温厚誠実で親孝行な稔、親に反抗して家を飛び出し、今は成功し都会の水で洗われ垢抜けた猛。お互い久しぶりに再会に思いやりを見せるも、心に影が差しているのもわかります。昔の恋人であっても、今は兄が憎からず思っているはずの智恵子を、再会した日に抱いてしまう猛。稔は小さい頃から自分より父に気に入られる存在だったのでしょう。何でも長男が一番、弟は二番。兄は新品、弟はお古。そのことにコンプレックスを抱いていたとしたら、もしかして兄嫁になるかも知れない人は、俺のお下がりなんだよという、屈折した気持ちがあっての行為かもわかりません。人柄をともかく、それ以外の物は何もかも自分より眩しい弟に、智恵子と食事するようお金を渡す稔は、兄としての思いやりと同時に、俺が兄貴なんだぞ、お前には施す存在なのだとの、虚勢も見え隠れするのです。

ずっと映画を支配する、鬱蒼とした閉塞感は、田舎が舞台であるせいではなく、この兄弟が背負う「家」なのではないでしょうか?「家庭」ではなく「家」。父親の言いつけを守らず、兄といっしょに家業を継がなかった猛には、心の底で全てを兄に押し付け自分はしたい放題している後ろ暗さがあったはず。その上の世代の父と伯父は、本来なら長男の伯父が家業を継ぐべく存在であったはずなのに、弁護士となっている伯父は頭脳明晰な優秀な人だったのでしょう。父の、本当は自由の身分だった自分が、家に縛らているという感情は、鬱屈したものが家庭にも反映され、その中で兄弟が育ったというのは、想像に難くないです。稔が猛に語る、家にがんじがらめにされて、何もなくつまらない人生、それを彼は、父と共有していたのではないかと感じました。

抱かれたことで一気に昔に戻れたかに錯覚した智恵子は、猛にいっしょに東京を連れて行ってとねだります。まだ若く美しいのに、妙に老けた彼女が背負っていたものは、母親との二人暮しだったでしょう。そのため猛が東京に出るときの誘いを断ったのだと、私は思いました。母を一人に出来なかった、なのに母はあっさり再婚し、自分と離れて再婚相手とその連れ子と暮らしている。しかも女の子。母に裏切られた感情が、彼女をくすませていると感じました。しかし彼女が背負っていたものは、家ではなく家庭だったのでしょう。だから母さえいなければ、あっさり故郷など捨てられるのです。

「嫌われ松子の一生」の感想で、「縁は切っても血は切れない」と書きましたが、女は家庭から逃れられないことがあっても、家から逃れることは出来るのです。しかし男は、例えどんなに自分の家が嫌いでも、逃げられない辛さがあるのだと思います。奇しくも「松子」でもそれを体現した弟を演じていたのは、香川照之でした。

稔に有利な裁判になるように奔走する猛は、今までの不義理や後ろ暗さを一気に挽回しようとするかのように見えます。それは稔のいう「殺人者の弟になるのがいやなのだろう」という気持ちではなく、真実兄を慕う気持ちがあるように思えました。弟が兄の気持ちに寄り添うようになると、今度は見た事もない、自分に対する憎悪に包まれた兄の姿が現れる。私の育った家は、複雑かつ家庭のあちこちに地雷が埋められているような家で、私も二人の兄がおり、この感覚は理解出来ました。

猛が母の残した8ミリを独りで観ていると、自分は記憶になかったあの渓谷で、家族が楽しく遊ぶ姿がありました。兄は自分をかばい、大嫌いな父は自分たちと楽しそうにおどけている。ガソリンの臭いに詰まった家に、死ぬまで押し込められていたと思っていた母は、この上なく美しい笑顔見せている。人の記憶は、その後にあったことで印象も変わり、観方も変わるのだと感じました。自分が証言したあの事実は、自分が兄への疑心暗鬼で作り上げたものなのではないか?その後に挿入される稔の腕の引っ掻き傷は、確かに事件当初もありました。

そして同じように育ったはずの兄弟でも、立場によって微妙に親に対する見方が違うのです。8ミリの風景を全て覚えていた稔は、辛さだけではなかった母、未だに二層式の洗濯機を使い、家政婦も頼まなかった吝嗇な父にも、自分たち兄弟へのしっかりした愛情を感じていたはずです。知恵子の母に渡したお金が、父親の稔への愛情を感じさせました。それが一層彼を家から離れがたくしたはずです。

家を背負った男を支えるのは、やはり女の仕事なのだと、母の撮った8ミリに涙を流す猛を見て思いました。稔にとっては、その支えは智恵子だったのでしょう。それを奪ったのが弟の猛だったことが悲劇でした。弟でなければ、あの事件は起こっていなかったと思いました。

法廷で思いもよらない証言をする猛ですが、そのことは本当の意味で、稔を家から解放したのではないでしょうか?涙ながらに「兄ちゃん!家に帰ろう!」と絶叫する猛に向けた、ラストの兄らしい暖かい稔の笑顔に、そう感じました。兄弟の「ゆれる」感情を、時には露悪的に、時には情緒深く最後の最後まで見せてくれた傑作でした。主役二人は素晴らしい演技で、きっと数多い彼等の代表作の中でも、ピカイチの作品になるかと思います。そして女性の西川監督が、姉妹ではなく兄弟の心のひだを、ここまで丹念に撮れるのかと驚愕。「蛇イチゴ」もビデオで是非観ようと思いました。

上映していたリーブルの近くの会社に長男が勤めています。スカイビルを出て、パソコンの前で製図しているはずの長男のいるビルを見ながら、晩ご飯の用意がなければ、このまま息子を待って、梅田でいっしょに二人だけでご飯を食べて帰りたいなと、ふと思いました。母親と二人で食事なんて、息子はいやかな?


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