ケイケイの映画日記
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2006年01月31日(火) 「スパングリッシュ」

「愛と追憶の日々」や「恋愛小説家」などのジェームズ・L・ブルックスが監督の家庭を舞台にしたハートフルコメディ。ブルックスは忘れられているかもしれませんが、私は「ブロード・キャスト・ニュース」も大好きでした。病み上がりでテアトルまで行った甲斐があったというもの、移民・裕福だけど危うい家庭・母と娘・夫婦など、私には思い当たるキーワードがいっぱいで、個人的に100点満点の作品です。

娘に今より良い生活をと、シングルマザーのフロール(パス・ベガ)は娘クリスティーナ(シェルビー・ブルース)を連れて、メキシコからロスアンジェルスに渡りました。懐かしい故郷の人々が多く集う町に住み働いていたフロールですが、良い収入を求めてロクに英語もわからないのに、白人家庭の家政婦をすることに。訪れたのは裕福なクラスキー家。優秀なシェフのジョン(アダム・サンドラー)、良い人だが情緒不安定の専業主婦のデボラ(ティア・レオーニ)、性格の良い姉のバーニー(サラ・スティール)とおっとりした弟、デボラの母で昔ジャズ歌手だったエヴェリン(クロリス・リーチマン)の五人家族でした。一見幸せそうなこの家族は、実は色々な危険をはらんでいました。英語が話せないながらも、気立ての良さで一家にはなくてはならない存在になったフロールは、夏のバカンスにも娘を連れて同行してくれと懇願されます。仕方なしにOKするフロール。しかし美しく賢いクリスティーナを、デボラが気にいってしまうことから、様々な波紋が広がります。これは言葉の壁だと理解したフロールは、一念発起して英語を猛勉強するのですが・・・

「スパングリッシュ」とは、アメリカに住むヒスパニッシュの人々が話す英語とスペイン語が混濁した言葉だそうです。幼い時在日のお年寄りが話す、日本語と韓国語の入り混じった言葉を周囲でたくさん聞いた覚えがある私は、この「スパングリッシュ」というタイトルにまず魅かれました。

私も言わば移民の末裔のような者。クリスティーナは私にとっては両親の子供の頃です。両方の言葉を操れるけど、小さい時離れた、貧しい故郷より、繁栄発展しているアメリカに憧れているクリスティーナ。そんな彼女に、華美な面だけを見ている事を危惧し、時には子供の心を押さえつけてもラテンの心をしっかり根付かせようとするフロール。まず自分のアイデンティティーをしっかり確立しないと、他国で暮らすには自分を家族を見失ってしまうからです。ラテンの人や韓国人は楽天的なので、馴染むのも早いでしょうが、勤勉でおとなしい日本の人が、ハワイやブラジルに移民するのは、もっと大変だったのではないかとも思いました。

情緒不安定で躁鬱か神経症にしか見えないデボラ。直接のきっかけは経営していた会社が倒産したことでしょうが、もっと根深い物があるのは一目瞭然です。家族を自分の枠にはめたがり、それから少しでも外れると神経の糸がプツンと切れてしまう彼女。しかし出口のない迷路でさ迷っている、このエキセントリックな愛されたい女性を、私は好きなのです。私の親もお世辞にも良い親とは言えず、子の理解なくば愛の見えない人たちです。私もこの人だったかも知れないと思うと、堪らない気持ちになるのです。

のちの展開で実母との長年の確執を乗り越えられなかったことが原因の一端とわかります。きちんと愛された思いがないのでしょう。「みんなママのせいよ!」となじる娘に、過去を謝り小さい子のように中年の娘を抱きしめるママの暖かさよ。ここまで来るのに、この母にも長い年月が必要だったのだと思うと、涙が出ました。「あなたの役に立つのが嬉しいの」。役に立ちまくってもう子供には何もしたくない私も、きっと後30年も経てば、この言葉がわかるのでしょう。

親のせいにするのは簡単だし、気が楽です。だって本当のことなんだし。でも責めっ放しでいいの?責めっ放しだから、あの時の大嫌いなママと同じ女に自分がなっていると、デボラは気づきません。自分と母の関係が、次は娘と自分に受け継がれているとは知る由もないデボラですが、エヴェリンの深い愛情で、きっとバーニーに心から謝る日がくるだろうと思わせます。必ずバーニーは許してくれるはず。彼女ほど親が誇りに思える優しい娘はいないのですから。

「あんな良い亭主はどこを探してもいない。早く目を覚ませ。」とエヴェリンが娘に言うジョン。腕の良いシェフ、仕事場でも人望厚く、家庭に置いては信頼の置ける大黒柱である彼。しかし彼が以前の高級四星ホテルを辞めたのは、忙しすぎて妻が崩れていく時支えてやれなかったので、家庭がこのようになってしまったとの悔恨があるように感じられました。でないと説明が付かないほど良い人なのです。演じるのが人気者になってもやぼったさの取れないアダム・サンドラーなのが、ジョンをより誠実で正直な人に見せていました。

いくら亭主がおとなしいからって、こんな若くて綺麗でグラマーな家政婦さん、あんた夫をバカにしすぎよ、何があったって知らないからね、と思った通りのことも起こるのですが、常に娘にとって正しい親たる自分を一番にしてきたフロールの選択は、正しいけれど切ないものです。エヴェリンが「私は自分のために生きた。あなたは娘のために生きた」のセリフの後、フロールに語る言葉は、てっきり「あなたは立派よ。」だと思っていた私は、「両方ダメね」に思い切りニヤリ。さすが婆ちゃん、年季が入ってる。自分を一番優先する母はもちろんダメ、しかし子供しか目に入らぬ母もいけないと思います。そんな母を持つ子は、親の恩の重さに、飛びたい時飛べぬように思います。必ず母も子供も、両方幸せに生きていける道はあるはずですから。

しかし長い親子関係の間、母親が子供だけを見つめ、子供だけのために生きることは、二方にとって必要なことだと私は思います。それが小学校卒業までか、15歳か18歳か、それはその親子それぞれでしょう。それを立証しているのが、ナレーションを務めた成長したクリスティーナであったと思います。「親には冒してはいけない罪がある」。このフロールの言葉は忘れないでおこうと思います。

パス・ベガはスペインの女優さんで「トーク・トゥー・ハー」での「縮みゆく男」に出ていた女優さんです。とっても素敵!心身から健康と美しさの溢れるラテン女性を大変好演していて、これがハリウッド・デビュー作です。文明の遅れているメキシコの田舎出身の彼女が見せる、人として正しい姿は、豊かになり価値観が多様化していくと、誠は何かわからなくさせるような気がしました。ベガ以上と言っていい好演がティア・レオーニ。何も賞を取らなかったみたいですが、すごい大熱演です。少々暑苦しくもありますが、私はすっかりレオーニを見直しました。そしてもう死んだと思っていた(すみません、すみません!)オスカー女優のリーチマン。齢80にしてアル中のお婆ちゃんを愛を込めて演じて、これまたすごくチャーミングでした。他は「恋愛小説家」に続き、犬の使い方が楽しいです。

多分地味過ぎてヒットしません。でも私にとっては過去も現在も愛しく抱き止められ、未来に希望をもたらす一生忘れられない作品です。映画をたくさん観るのは、名もないこういう一本に出会うため、そんな気にさせる作品です。


2006年01月27日(金) 「博士が愛した数式」


昨日久しぶりに道頓堀東映パラスで観てきました。近場のラインシネマでレディースデーに観ようと思っていたところ、お友達のとめさんから劇場鑑賞券を二枚プレゼントしていただきました。数ある劇場の中からこの作品を上映しているパラスをチョイス。せっかくなのでどなたか誘おうと思い、私より一回り若い奥さんが一緒に観て下さることに。神様は最適な人を私とご一緒させて下さったようで、原作も読んでいる方です。平日朝イチなのに場内はほぼ満員。二人で並んでポロポロ綺麗な涙をたくさん流しました。心に染みるというより、心を暖かく陽だまりで包んでくれるような作品です。

シングルマザーの杏子は結婚出来ない相手を愛し、息子(斉藤隆成)を生んだ後、家政婦を職として彼と二人で生きていました。杏子の今度の派遣先は記憶が80分しか持たない数学の博士(寺尾聡)。雇い主は博士の生計の面倒をみる兄嫁(浅丘ルリ子)で、10年前二人で能を観た帰りに事故に合い、博士は後遺症として記憶障害が残りました。毎日会うのにいつも初対面の博士。しかし暖かく穏やかな人柄は杏子を和ませ、彼女に息子がいると知ると、そんな小さな子が家で一人で待つのはいけないと、博士は連れてきて毎日いっしょに夕食を共にするよう言います。息子は博士から「良い心のいっぱい詰まった頭だ」と頭を撫でられ、ルートと呼ばれて可愛がられます。このままずっと穏やかに日々が過ぎて行くであろうと思われたある日・・・。

数式公式がいっぱい出てきますが、どれもこれも博士が語るととても暖かみがあるのです。一般的に数字数学と言うと、冷たい印象ですが、微塵もそう感じさせません。二つの数字を堅く結びつける友愛数、夜空の星の如くたくさんあるのに、唯一無二の素数の話など、こんな先生に習っていれば、私も数学が好きになったのにと思ったのは、私だけではないはず。

毎日杏子の足のサイズを聞き、「24は4の階乗だ。実に潔い数字だ」と彼女を褒め、ルートにも毎日「賢い心がいっぱい詰まった頭だ」と、頭を撫でます。記憶が80分しか持たない博士が、毎日同じ言葉を繰り返すのは、それは心からそう思ってのはず。行き当たりばったりなら、毎日会話がクルクル変わるはずなのです。そんな嘘のない博士の人柄に、杏子とルートは真心を感じたのでしょう。

毎日毎日同じ会話なのに、杏子が弾むように嬉しそうに答える姿に、彼女はルートを生んだ後、こんなに人に褒めてもらったことがないのでは?と思いました。シングルマザーは、婚外、離婚、死別の順で世間の風当たりが強いと思います。直接的な描写はありませんでしたが、それはルートも同じだったのでないでしょうか?繰り返し同じことを聞かされると、人は辟易してしまうものですが、博士からの心からの良き言葉のシャワーは、干からびたスポンジが見る見る水を吸収するかの如く、杏子とルートの心に広がったのだと思います。

家政婦と雇い主の域を超えた関係では?と思われる方もいらっしゃるでしょうが、私には擬似家族には見えませんでした。私の幼い頃の我が家にも家政婦さんがおり、家族旅行にいっしょに行ったり、遊びに行ったり、楽しい思い出もたくさんありますが、あくまで親しい間柄でも家政婦さんでした。それは別のところに派遣された杏子を、そこの人が「家政婦さん」と呼ぶ姿で表していたと思います。心から相手を思っても、私は家政婦なのだというのが、杏子のプライドなのだと思います。それはイギリスの執事にも似ているように感じさせるほど、杏子は分別のきちんとつく人に感じました。それはラストの四人のシーンにも現れていました。

義理の弟を疎んじる兄嫁に見えた浅丘ルリ子ですが、そんな簡単な役で、この人をキャスティングするかなぁと思っていたら、やっぱり理由がありました。以下ネタバレ(その後にも文章あり)**************








昔から浅丘ルリ子は厚化粧が目立ちますが、今回はそれに老いが目立ちすぎるなと感じていました。それは博士と事故前、道ならぬ恋に落ちていたからなのですね。毎日博士は事故直前で記憶が始まります。自分の老醜を恋しい人に見せたくなかった女心なのですね、あの厚化粧。自分が誘った能を観た帰りに事故に遭ったこと、博士の子を生む勇気がなかった自分。博士を見るとき罪悪感でいっぱいになるのに、彼から一瞬たりとも目が話せない兄嫁。いつも「義弟」と他人行儀に呼ぶのは、自分を戒めるためだと解釈しました。哀しく複雑な女心に胸が締め付けられます。

杏子の手を握り、「暖かな手だ。女性の手は冷たいと思っていた。」という冷たい手は、事故直前重ねた兄嫁の手だったのでしょう。彼の記憶に深く深く残る彼女。博士の人生には冷たい手も暖かい手も、両方必要なのだと思います。











ネタバレ終わり*************


80分しか記憶がないと言う割には、それと感じさせる描写が希薄で、1日は記憶が持つように感じ、原作ではどういう風に描いていたか気になります。

記憶出来ないことをメモして服に安全ピンで留めまくっている博士は、「メメント」を彷彿させます。ちょっとユーモラス、そして深く哀しさを感じさせます。満開の桜を散歩する博士と杏子、真夏のルートの試合の観戦など、四季折々の美しさと楽しさを映す撮影と、演じる出演者の誠実さが、この物語を哀しさより、品の良い優しさで包み込む感じになったと思います。

寺尾聡は博士そのものだと感じさせて絶品。深津絵里は、この人を見て大好きだという人も少ないでしょうが、嫌いだと言う人もめったにいないでしょう。そういう無個性さがいつまでも新鮮さを失わない秘訣かと感じました。初の母親役も上手にこなし、ピュアな印象が強く残ります。ルート役の斉藤君が、大人になったルートを演じた吉岡秀隆にそっくりだったのがご愛嬌。でもあの寝癖はいりません。彼を持ってくると、すぐそういう風に演出しがちですが、それはもう監督さん方、止めてもいいじゃないでしょうか?

















2006年01月22日(日) 「誰がために」


木曜日にテアトル梅田で観てきました。被害者の名前を匿名にするかなど、昨今話題に上る被害者側の人権や苦悩、そして少年犯罪の刑の軽さなどにも触れた作品です。心を込めて作った作品であることは間違いありません。しかし犯行が起こってからが、的を絞りきれずに散漫に感じました。

報道カメラマンだった民郎(浅野忠信)は、父の急死のため懐かしさの残る下町で営む、家業の写真館を継ぎました。幼馴染のマリ(池脇千鶴)の友人亜弥子(エリカ)と知り合い、お互い惹かれあう二人は急速に近づき、亜弥子の妊娠をきっかけに結婚します。民郎を幼い時から慕うマリの気持ちには気づかぬ民郎。しかし平穏な新婚生活を送る二人は、見知らぬ少年(小池徹平)が亜弥子を動機もなく殺害するという形で終止符を打ちます。

前半は川の流れのように自然にゆったりと描かれます。二人が惹かれ合うのは魂が呼び寄せているかのごとく当然に感じました。その二人を柔らかく囲むように、都電の走る古い町並みに暮らす人々の暖かい人情が、観る者までも優しい気持ちにさせます。エリカはエキゾチックな容姿なのに、ストレートの黒髪が昭和40年代の女性の麗しさを思い起こさせ、懐かしいような町並みに暮らす民郎の生活の中に、自然に溶け込んでいました。決して演技は上手くなかったですが、透明さのある存在感が抜群で私は良いキャスティングだと思いました。

しかし亜弥子が殺されてからの展開が、どうも詰め込みすぎて散漫です。亜弥子を殺した少年の背景が少し語られるだけで、心が壊れた少年であると印象付けるだけで、何故彼がこんな大きな罪を犯したかが、きちんと描かれていません。そして少年院から出てきた彼の心が一切描かれないので、消化不良が残ります。小鳥を可愛がる姿でのみ想像しろでは、ちょっと不親切だと思いました。そして少年法で守られた加害者を追求する場面が出てくるのに、踏み込みが浅いです。

浅野忠信の亜弥子が殺された後の演技がすごく疑問です。一人の場面ではそんなことはないのに、亜弥子の死について触れられる一切の事柄で、全て棒読みで感情が全くこもらないのです。妻の死について辛すぎて実感が湧かないという場面ではありません。なので怒りや哀しさが伝わってこないのです。これは民郎に対して演じる浅野と視る私の解釈の違いでしょうか?

亜弥子の生い立ちにまで遡り、彼女がどういう哀しさ嬉しさを抱いて、短い人生を生きていたかを浮き彫りにしますが、その割りに民郎の喪失感がイマイチです。亡き妻の足跡を辿りに行くのに、いくら妻の親友であっても、自分に恋する女性を伴うというのは不自然だし、鈍感すぎです。これらのことがあるので、ラストの行動まで行き着くのに、流れが悪く感じました。

マリを後添いにさせたい民郎の母(宮下順子)の悪意のない薄情さは、私も年頃の息子がいるので、哀しいかなわかります。そして粗末な法要の席で、マリが娘の立場を取って代わったと感じ、悔しさと寂しさを滲ます亜弥子の母(烏丸せつ子)の気持ちも、これまたとてもよくわかります。出番は少ないですが、若かりし頃宮下順子はロマポ、烏丸せつ子はヌードもOKのセクシーさで活躍していましたが、艶やかな時代が幕を閉じ、姑という年齢の役になっても、その存在感と演技力は素晴らしいです。さすが長年映画の水で洗われた人は違うなぁと、とても感心しました。

去るものは日々に疎し、されど夫だけは違うのだと表現したいのはわかりましたが、どうも私には浅野忠信の演技がピンと来ませんでしたので、その辺も不満。しかし冒頭に書いた通り、初監督の日向寺監督は、心を込めて描いたと感じました。次も観たいと思います。


2006年01月19日(木) 「スタンドアップ」


本年度ゴールデングローブ賞主演女優賞(シャーリーズ・セロン)、助演女優賞(フランシス・マクドーマンド)ノミネート作品。この調子でオスカーもノミネートか?ということころですが、もうこの二人にあげちゃって下さい、お願いしますよ!というくらい胸を熱くさせられました。女性なら誰でも共感や賛同出来る作品ですが、男性にも受け入れやすく作ってあるところが、単なるフェミニズム映画とは一線を画していると思います。20年足らず前のアメリカの実話が元になった作品です。

夫の暴力から二人の子供を抱え、故郷の北ミネソタに帰って来たジョージー(シャーリーズ・セロン)。子供の父親が違うことで、ふしだらな女と烙印を押された彼女は、隣近所は元より父親からも疎まれます。自立して実家から出たいジョージーは、幼馴染のグローリー(フランシス・マクドーマンド)から、鉱山で働かないかと誘われます。父もグローリーも働く鉱山は、男ばかりのきつい環境ですが、今の収入の6倍稼げることもあり、ジョージーは鉱山で働き始めます。しかしそこは信じられないほどの男性本位の世界で、壮絶なセクハラを女性たちは受けていました。

日本でもこの頃、ジョージーのような女性はたくさんいたと思います。アメリカの田舎町は日本以上に保守的だと聞いていましたが、これほど世間の風当たりは厳しくなかったように思います。母の不行跡が大っぴらに子供にまでそれが及ぶなども、あまりなかったように思います。子供を連れ顔に大きな痣を作って実家に戻ってきたジョージーは、夫の暴力の耐えかねては一目瞭然なのに、父親は「浮気がばれて旦那に殴られたのか?」の一言に、私は唖然。それまでの父娘の確執が一気にわかります。

しかしジョージーのような美貌の女性が、男に媚を売る仕事を選ばず、お金のために過酷な肉体労働を選んだことに彼女の心が表れているのに、何故こんなに理解者が少ないのか、そのことにまず憤りを感じました。彼女は父の違う子を産み、これからは男性に依存せず母親としてだけで生きていこう、そう思ったに違いありません。それは同じ鉱山に働く女性たちも同じ。それぞれお金が必要な事情を抱えていなければ、普通の男性でも辛い仕事は選びません。同性の私にはとても立派な心栄えだと感じるのに、鉱山で働くことは「男女」と言われるのです。字幕はこれですが、セリフは「レズビアン」のようでした。アメリカではひどい差別語だと聞いたことがあります。

鉱山内での数々の信じられない嫌がらせはもう虐待に近く、観ながら私の顔は鬼のような形相になっていたかもわかりません。それほどひどい。「女が男の仕事を奪おうとしている」「仕事が減り給料が減ったので、鉱夫たちにははけ口が必要だ(それがセクハラ)」など言う信じられない上司を初め、この無教養な鉱夫たちですが、これは過酷なブルーカラーで学がないからでしょうか?それだけではない群集心理、自分の辛さから逃げるためその下の者を作り、いたぶることで安心する差別の気持ち(「ミシシッピィ・バーニング」で学ぶ)、何より男性全般に大なり小なり潜む心を、ある意味遮断された閉鎖的な鉱山の中なので、彼らは表しやすかったのだと、女性監督ニキ・カーロの演出からは感じられました。

しかしこの聡明な監督は、男性の演出にも目配せが効いています。女性鉱婦たちのまとめ役グローリーの夫カイル(ショーン・ビーン)は穏やかな優しい人で、妻の友人であるジョージーの人格を尊重して接します。実は私が一番大泣きしたのは、ジョージーの息子サミーが母を憎むのを、カイルが大人としてではなく、「友人として」サミーの心を尊重しながら諭すシーンです。優しい夫ぶりとともに、彼の人柄が表れていました。そして訴訟を起こすジョージーの弁護士を務めるビル(ウッディ・ハレルソン)しかり。最初流れに身を任せるようジョージーに語る彼ですが、彼女に触発されたように、昔の正義感の強かった清廉な自分を取り戻し彼女を支える姿に、とても嬉しくなりました。他も女性たちを助けたいのに、仲間はずれが怖くて実行出来ない男性を描くなど、決して男性全てを紛糾しているわけではありませんでした。同じく女性監督コリーヌ・セローの「女はみんな生きている」では、出てくる男がアホかバカか悪党ばかりで、そのため共感出来きれずに終わりましたが、ここがカーロの語る「女性を描いたのではない。人間を描いたのだ」という部分でしょう。

しかしちょこっとツッコミもあり。
***************以下ネタばれ(後にも文章あり)












法廷でサミーは高校時代の教師との間で出来た子だと暴露されます。これはレイプなのですが、会社側はジョージーが昔から早熟でふしだらだと印象付けたいのですが、たとえレイプの目撃証言がないにしろ、普通生徒に誘惑されようが、手を出す教師が悪いのではないでしょうか?コイツは「元教師」と紹介されていたので、他にも叩けば埃が出るだろうし、辞めちゃったのはそのせいでは?当時の教え子に聞いて回ってもしかりです。これを会社側の隠し玉にするには無理があります。普通あれくらいの大規模の会社の専任弁護士であれば、それくらいわかるはず。

これは鉱山の同僚ボビーの「寝返り」証言で勝利に持って行きかったから?この寝返りにしても、説得力が薄く感じました。そしてジョージーの父の娘への急変にも戸惑います。妻(シシー・スペイセク)の置手紙に鍵がある演出ですが、それ以前に彼だって口とは裏腹、内心は娘可愛さと封建的な考え方との間で葛藤があったはず。その辺の演出が薄いので、娘をかばう組合でのあの演説も、父親ならもっと早くかばえ、おい!と思い、イマイチ盛り上がりませんでした。










***************ネタバレ終わり***************

と、かように訴訟が始まってからの展開に多少疑問があるのですが、これは大変心に響く作品であるがための欲であると、ご理解いただきたいです。この作品には私は惚れました。会社側の弁護士が女性なのは、ありゃー皮肉でした。原題は「NORTH COUNTRY」。しかし邦題の「スタンドアップ」の方が意味が深く、この作品に合っているように思います。

シャーリーズ・セロンは、息子との関係に悩む姿、鉱山での気の張った様子、心から信頼し合うグローリーとカイルを見て寂しさを滲ます表情など、本当に上手かったです。ハリウッドでは美人のブロンドは別の意味で偏見の対象ですが、「モンスター」に続き、ただの美人女優で終わるもんかの心意気が伝わり、ジョージーとかぶります。キャストもスペイセク、マクドーマンドのオスカー女優、ビーン、ハレルソン(二人とも大好き。誠実な男性役なんかめったにない人達なので、すごく嬉しかった)など、深みはあるけど重くない演技巧者を集めたアンサンブルも良かったです。

グローリーの会社側や男性への態度は、男の世界へ飛び込んだパイオニアとしてのお手本のような感じでした。男の下卑た誘惑には毅然として接し、他は慎み深く相手を立てる。これは男女両方へ信頼される接し方でしょう。しかしその信頼は、彼女が「夫持ち」の女性であったことも一因していたはずです。独身女性、シングルマザーへの偏見が少しでもこの作品で減ることを祈りたいです。そしてどちらが勝るというのではなく、男性女性全てがお互い尊重できる世の中でありますように。



2006年01月18日(水) 「THE 有頂天ホテル」


わ〜い、面白いぞー、期待通りだぞー。昨日ラインシネマで観てきました。平日お昼1時20分の回が超満員。それこそ老若男女で埋まっていて、皆さんクスクスゲラゲラ。こんな楽しい作品は、そういう一体感が作品をより面白くさせるもんですね。

大晦日の「ホテル・アバンティ」。実直誠実な副支配人新堂(役所広司)始め、カウントダウンの用意とパーティに、慌しく従業員たちは働いています。そこへ難問奇問が続出し、果たして無事ホテルはシンネンパーティーを迎えられるのでしょうか?

多彩な出演者が織り成す、いわゆる”グランドホテル形式”と呼ばれる喜劇です。監督三谷幸喜も充分に意識しており、ホテルのスイートの部屋にはこの形式の元となる「グランドホテル」の出演者、グレタ・ガルボやジョーン・クロフォードの名前が配してあります。キラ星の如く主役級の俳優、脇役でも必ず印象に残る演技をする俳優たちが集まり、多彩なエピソードを面白く見せてくれます。俳優の名前は書ききれないのでカットしますが、えっ!あの人があんな役をのお楽しみのあるので、予備知識無しで観た方が面白いかも。

少し無理があるなぁと思うエピソードもなきにしもあらずですが、各々俳優さんたちがしっかりお仕事してくれるので、気にはなりません。省いて良いと思ったエピソードは、川平慈平と恋人のエピソードくらい。ちょっと中だるみしてきたかなぁと思うと、必ず挿入される伊東四郎の白塗りの顔(理由はお楽しみに。くだらないけど楽しいです)が私にはツボで、またゲラゲラ。誰がやっても面白いってもんじゃない、同じことを何度も繰り返しても、慈英のように鬱陶しくないんですから、やっぱ伊東四郎は腕があるなぁと感心しました。

最初に「仕事が出来る誠実な男」を印象付けた新堂ですが、かつての妻由美(原田美枝子)と再会するや、いきなり見栄っ張りの信じられない嘘の上塗りを続ける姿に、これは新堂のいう金銭的なことで別れたのではないなと感じました。由美が好きで好きでしょうがなかったのですねぇ。だからいつでもいい格好がしたい。しんどいですよね。そんな夫を見るのが辛くて、由美は身を引いたのではないでしょうか?新堂がどんな人か、彼のアシスタントの矢部(戸田恵子)に語る姿に、そんな気がしました。

他に印象に残ったのは気のいい娼婦の篠原涼子。彼女はある時を境に、すごく上手くなったなあと感じましたが、それは今のご主人(市村正親)と付き合い始めた頃です。いっぱい彼から吸収したのでしょう。今後もすごく楽しみな人です。ご主人がお年寄りになっても、どうぞ愛してあげて下さいと、津川雅彦のエピソードで思ってしまいました。

ちょっとラスト20分くらいは早送りですが、まぁそんなに気にはなりません。それよりよくこれだけ出演者みんなに、見せ場が作れたなあと感心します。三谷幸喜らしくシチュエーションで笑いを取り、誰も貶さず下ネタなしの品の良い笑いでずーとクスクス、時々爆笑と、とっても楽しい二時間です。私はこのホテルには宿泊客ではなく、従業員として働きたいな。


2006年01月13日(金) 「ロード・オブ・ウォー」


昨日千日前セントラルで観てきました。この作品は武器商人のお話だとは知っていましたが、予定外でした。しかし予告編で私の好きなアンドリュー・ニコルが監督だと知り、更にニコラス・ケイジが主演で彼が割りとハンサムに見える。私は彼がハンサムに見えたり、セクシーに見える作品はいけるのだな。予告編もなかなかパンチが効いている割には軽妙で観易そうだし、これは社会派娯楽作の秀作かも?の予感は見事的中。秀作どころか傑作じゃないでしょうか?テーマからはすごく不謹慎なんですが、メチャメチャ面白かった!

子供の頃ウクライナから家族と共にアメリカに移住してきたユーリー(ニコラス・ケイジ)。ブルックリンの最下層が住む集落でレストランを営む両親を手伝っていた時、ギャングの銃撃戦を目撃します。これからは武器の売買がもうかると踏んだ彼は、弟ヴィタリー(ジェレット・レト)を相棒に、銃の売買を始めます。意外な商才を発揮する彼は、やがて軍事用の武器にも手を染め、高値の花だったエヴァ(ブリジッド・モイナハン)と結婚し、エリート・ビジネスマンさながら、世界を股にかけます。しかしその背後には、インターホールのバレンタイン刑事(イーサン・ホーク)の捜査が迫っていました。

監督自ら本物の武器商人5人から取材して作り上げた人物が、ユーリーだそうで、ノンフィクションの場面も多いのだとか。これが事実は小説より奇なりを地でいく、あの手この手で捜査をかく乱、これが実に面白く、映画的見せ場がふんだんでした。すごく重たいテーマなのに、ブラックなユーモアと娯楽色強いアクション場面や心の葛藤を上手く掘り下げながら、着地は皮肉たっぷりです。

ユーリーは実にトークが上手く、ヨイショするかと思えば、商売敵(イアン・ホルム)に塩を贈る場面でも、相手を立てながら老いぼれの時代じゃないぞと釘を刺すのも忘れません。演じるケイジは後退する一方の頭髪のためか、若い時から老けていましたが、やっと実年齢に容姿があってきて、この稀代の武器商人を実に魅力的に演じています。この魅力的に見えるというのが、実はこの作品の最大のポイントなんじゃないかと思います。

以下ネタバレ******









武器商人としてトントン拍子の兄と対照的に、弟は心を病みますが、これは弟が純粋だからというより、「仕事」に関しての根性が足りないんじゃないかと感じました。本当に自分の売った武器での殺戮がいやなら、もっと早く足を洗えばいいし、兄とも距離を置けばいいのに、ヤク中で家族の厄介者となり結局は武器商人で得た兄の金で暮らしてるんですから。

それに比べ、独裁者の用意した美女と酒池肉林も出来たはずなのに、エイズが怖いと追い返すユーリーは、とてもセルフコントロールの効く人なのだと思います。愛する妻のためではないところも、商売と家庭は別物だと感じさせ、試し撃ちをする独裁者に、無意味な殺人を咎めるのではなく、中古品になったではないかと憤慨する彼は、ビジネスライクに徹しています。そこが同じ場所にいても、弟は殺戮が頭から離れず、兄は不時着した飛行機を根こそぎ火事場泥棒のように持って行く現地人のしたたかさの方を、強調して描いているところに現れています。

ユーリーがあれもこれもと手を広げるようになったのは、元はと言えば妻にぜいたくをさせたかったから。その妻は内心夫は危ない橋を渡っているのを知っていたのに、この生活を失いたくなくて知らぬふりをしていたはず。それが武器商人と知るや、一転彼に仕事を辞めるよう訴えますが、それって正義感じゃなくて、夫が捕まって自分や子供まで汚名を着せられるのがいやだっただけじゃないの?きっかけはバレンタインの捜査協力の要請からですから。全部服を脱いで「みんな血で染まったお金で買ったものよ。」夫に訴えるなんざ、年季の入った商売女の手練手管みたいでした。きっと夫の力をもっと小さくみて、監獄行きと決め付けて出て行ったのだと思いました。彼女は「妻」を演じる娼婦だったんですね。だって妻なら毒を喰らわば皿までなんじゃないでしょうか?私ならそうするな。

しかし、弟は甘ちゃん、妻にふん!と思いながら観ている私も、メチャメチャ面白いと思って観ているのですから、これは結構な「人でなし」です。「男たちの大和」を観てビャービャー泣いたのが、ちっとも生かされていない。生かされていたら、もっとこの作品には嫌悪感が募っていいはずなのです。

結局は私もヴィタリーや妻といっしょ、いやそれ以下な訳です。戦争はいけないと言いながら、巻き込まれることのない場所でぬくぬくして、害がないのでちゃちな正論しか言えない自分に、はっとしました。それが監督の狙いだったんじゃないでしょうか?

自分の妻子に去られ、親にも縁を切られても信念で天職を全うするユーリーですが、彼が罪悪感から数々の悪夢を見る場面は印象的。彼も人の子だということです。ハイエナに囲まれるところは、自分もそうだと思っているんですね。この場面のおかげで、救われている気がします。

イーサン・ホークは、つまみ食いのため大物美人女優のユマ・サーマンに三行半を突きつけられ、もうしょぼくれるのかと思っていましたが、とっても渋くて素敵になっていて、ヨカッタヨカッタ。バレンタインの実直な正義感も歯が立たないユーリーですが、毒は毒を持って制すしかないんでしょうか?面白かったけど、自分を少し恥じてもしまう作品です。監督作「ガタカ」、脚本作「トゥルーマン・ショー」など、切ない誠実さが美しいと感じ、大好きになったニコルですが、進歩も成長もしているのを感じ、この人にもついて行こうと思いました。




2006年01月12日(木) 「欲望」


直木賞作家小池真理子原作の恋愛映画。主演の板谷由夏が「ベティブルー」のベアトリス・ダルばりに、果敢に全裸のファックシーンを何度も演じているので、どうしてもエロティックな作品と捕らえられてしまいがちですが、三人の若い男女の、愛と一致しない肉体の乾き、もどかしさ、悦びを描いて、とてもとても心に残る作品です。

昭和53年。独身の27歳の高校の図書館司書青田類子(板谷由夏)は、同じ高校の教師能勢(大森南朋)と不倫関係にありますが、それは相手を思う気持ちより、肉体の欲が優先していると、彼女は感じていました。そんな時中学時代仲の良かった阿沙緒(高岡早紀)と再会し、婚約者の精神科医袴田(津川雅彦)を紹介されます。彼女より31歳年上の袴田は、かつて阿沙緒の主治医でした。袴田邸での結婚披露パーティに招かれて類子は、そこで高校以来会っていなかった秋葉正巳(村上淳)と再会します。彼は袴田邸の造園を請け負っていました。類子・阿沙緒・正巳は中学の同級生で、正巳は阿沙緒が好きでしたが、当時から親友と呼べる存在は類子の方でした。そんな正巳を密かに愛していた類子。高校生になり正巳と阿沙緒が付き合いだしたある日、自動車事故で九死に一生をおえた正巳ですが、その後遺症で一生女性を抱けない体になってしまいました。そのことは類子だけが知っていたのです。

この作品の成功は、板谷由夏の起用、それに応えた彼女の大変な好演によるところが大きいです。昨年「運命じゃない人」でも、あばずれながら憎めぬ女を自然な演技で好演していた人です。愛と性がテーマの作品なので、たくさんファックシーンが出てきますが、スレンダーで長身の彼女からは猥褻な雰囲気はまるでなく、上品で清潔感が溢れていますので、しっかりと類子の心を追うことが出来ます。能勢とは情事、正巳とは愛。その時々で類子の心模様を見事に演じ分けています。二度ほど正巳との時に彼女が泣くのですが、私も号泣。性を描きながら愛する正巳を思いやる気持ち、哀しさ、喜びなど、見事に心が浮かび上がっていました。長く映画を観続けていますが、セックスシーンで泣いたのは初めてです。

類子の日常は本好きで聡明な彼女に似つかわしく、静かに穏やかに過ぎています。毎週土曜日能勢との情事に溺れる彼女ですが、普通知的な女性の性欲が強調されると、二面性や露悪的な部分など扇情的に描かれがちですが、類子にそういう印象は受けません。隠された部分を暴こうというのではなく、普通の27歳の女性の日常にセックスが組み込まれているのは当たり前であるとの印象が残ります。むしろ自分が快感を感じる時、脳裏を霞める正巳の辛さを思いを馳せるなど、彼女が肉体だけの関係に溺れるのは、常に正巳の存在があるための乾きなのかと理解しました。そしてそんな自分を戒めるため、別れた後自分は一人残されるが、帰る場所のある能勢を選んだのかと思いました。

阿沙緒は無邪気で奔放、自分に正直なため、相手を傷つけることもしばしばな女性です。しかし無防衛な彼女は、誰より自分も傷ついてしまうのです。そして一人が寂しく孤独でいることに我慢が出来ません。それが「私子供が欲しいのよ。セックスなんかしなくていい。赤ちゃんだけが欲しいの。」というセリフにも出ています。上手くいかぬ袴田との関係を短絡的に子供が出来れば何とか過ごせると思う幼さと、敬愛を持つ夫のとの関係の修復に何度も心を入れ替える素直な愛らしさが彼女の魅力です。

家政婦の初枝は類子に、「類子さんは奥様と違う色を持っていらっしゃいます。」と言いますが、類子の持つ色は教養でないでしょうか?私も教養の薄い人間で、この作品で立ち込める三島由紀夫の香りを楽しめず、2冊くらいしか読まなかったのを後悔しています。この作品は精神的には「春の雪」より三島が香っている気がします。芸術的なことや音楽、本、絵画など詳しく味わえる方が羨ましく、自分の干支の牛のごとしでもいいので、今からでも少しずつランクアップ出来れば良いと思っています。それは見栄ではなく、教養が豊かだと人生が充実し、一人で過ごす時間が楽しいのではないかと思うからです。

ただそれにがんじがらめになると、返って自分を追い込むことになるのかもしれません。「二人は似ている」と類子に思わす袴田と正巳。自分の美意識を守りたいあまり、素直に自分の心が表せず、自ら孤独に追い込んでいる節があります。彼らの敵対心は、近親憎悪みたいなものでは?そんな彼らが、自分に正直で教養何するものぞの阿沙緒を愛したのは、彼女の姿に憧れもあったのかもしれません。特に不器用にしか阿沙緒を愛せなかった袴田には、妻が自分に見合った女性になって欲しいと、ありのままの阿沙緒を受けれいれられないその思いの意外な若さは、年齢差を考えれば幼稚なように思えます。演じる津川雅彦は中年期に映画やドラマで数々の渡辺淳一作品に出演、渡辺淳一の情痴小説に漂う「男ってバカだなぁ」(←褒めてます)を、体現化していた人なので、俗っぽい雰囲気と美意識にがんじがらめがマッチしていて、さすがの適役でした。

村上淳は、類子の「この美しい男とひとつになりたい」というほどには美しい男性に見えず、耽美的な三島文学を愛しインテリチックな内面と、今は造園という力仕事にギャップを感じなければいけない人に思えたのですが、私には「美しい男」にも「知的な男」にも見えなかったのが残念。数々の印象的なセリフは、多分原作から多用されていると思うのですが、彼から発せられると少々空虚に感じられるのが残念でした。しかし不能の男性の性的欲望という難しい役を演じて、演技自体は健闘していたと思います。

脚本が男女二人が担当(大森寿美男、川崎いづみ)しているので、男女の性の違いが、異性にもわかりやすく描かれています。二人目が出来たばかりで、類子からその最中に「お乳くさい」と言われて役に立たなくなった能勢の描写など、絶妙でした。男親から乳臭いことなどあまりないので、これは類子の皮肉なのでしょう。類子のように心ある女性が、本当に体だけの関係であるとは考えにくく、彼女がそう思いたいのだというのが、チラっと感じられました。セックスは出来なくても、阿沙緒に憧れながらも、愛するのは類子だという正巳。なんとなくセックスレスの夫婦のようではありませんか?

正巳との再会で能勢とは別れる類子に、同性の私は納得出来ます。たとえ抱かれることがなくても、私も正巳を選ぶでしょう。「裸で抱き合って眠りましょう」。愛する人とならそれはセックスそのものより、女性にとっては価値のあるものだと私も思うのです。しかし正巳の選択は、そうではありませんでした。それは彼の類子への思いやりか、それとも彼の男性としてのプライドか、ひょっとして阿沙緒への断ち切れぬ思いか、それは私にはわかりません。彼自身を使わずに絶頂へと導かれることで、嬉しさの涙を流した類子と共に泣いた私は、男と女の性の意識の壁はやはりあるのだなぁと感じました。

少し長く2時間15分の作品ですが、ラストのラストまで見事なまでに類子という女性を通じて、人を愛する痛切さを意味を感じさせてくれる作品です。原作者が試写で泣いたというのは、リップサービスではないと思います。


2006年01月09日(月) 「輪廻」

「呪怨」のヒットでハリウッド版リメイクもまかされた清水崇監督作品です。昨日は末っ子のクラブの初練習会ということで、お母さん達が10時ごろから炊き出しでした。1時半に終わったら2時過ぎからの「ロード・オブ・ウォー」を観にセントラルまで、2時半前に終わったら「欲望」を観にシネフェスタまで、2時半過ぎたらラインシネマで「輪廻」やなと、三段構えでいましたが(書きながらつくづくやっぱり自分はアホだと思う)、結局「輪廻」に落ち着きました。

映画監督の松村(椎名桔平)は、35年前あるホテルで起きた無差別殺人事件を映画化しようとしていました。ある法医学者が、自分の子供二人を含む宿泊客や従業員など、理由がわからぬまま次々と斬殺し、自分も死んでしまった事件でした。オーデションで松村から主役に選ばれたのは、新人の杉浦渚(優香)。ところがそれ以来渚は不吉な夢や現象に悩まされます。それと同じ時、女子大生の木下弥生(香里奈)も、行ったことのないホテルが再三夢に出てきて、わだかまるものがあったのです。

輪廻とは車輪の回転のこと。輪廻転生となると仏教で生き物が生まれて死ぬ、そしてまた他の世界で生まれては死ぬを繰り返すということです。この作品でも前世の記憶が残っているという女性が出てきます。「呪怨」の俊男のような少女が出てきて、またかとちょっと落胆したのもつかの間、意外にもしっかり仏教が幅広く根付いている国では理解しやすい、人が亡くなった後の魂はどうなるのか?という問いに対する答えを、作品の中で出そうとしているのです。

殺人を犯した学者の妻(三条美紀)だけが一命を取り留めて生き残っています。弥生が彼女を訪ねた折、気がふれて殺人を犯したとされている学者が、実は事件を起こす前に、「肉体は魂の器」という言葉を残しているのを見せてもらいます。この言葉は私も幾度となく聞いたことがあり、魂とは永遠に生きるもの、肉体とはこの世を暮らす仮の姿だということです。法医学者として、医学では解明出来ぬ生命の謎に疑問を募らせていたのでしょうか?

上記に書いた前世の記憶がある女性が、自分は前世で殺されているのだと軽々しく口にし、私は少々嫌悪感を覚えました。輪廻転生があると前提として、ほとんどの人は前世の記憶などないはずです。その記憶があるというのは、何か意味があるはずなのです。非業の死を遂げたということは、そのまた前世で因果因縁を背負っていたと、私には思われました。そういう能力なり力なりを持って生まれてというのは、その力を他者の幸福のため使うなり、自分の過去性を供養するなりしないうちに、口にしちゃいかんぞと思っていると、その思いは大当たりに。

主役の優香は、タレントのイメージが強く、演技出来るのかな?と危惧していましたが、抑えた静かな演技で進む中の絶叫シーンはなかなかの破壊力で、とても頑張っていました。「呪怨」などよりこけおどしシーンは少なく、今の荒れ果てた不吉なホテルと、35年前の綺麗な様子もわかりやすく交差されていました。奇妙な現象に悩まされる登場人物たちは、斬殺の舞台となったホテル関係者の生まれ変わりなのだなと、それは誰でも検討がつくのですが、この展開がなかなか上手く、私なんぞすっかり騙されました。ホラーにミステリーの味付けがされて、ちょっとしたどんでん返しが楽しめます。ただの恐怖シーンだと思っていたシーンが、後で考えると伏線になり答えになる仕掛けです。

生き残った妻が、気持ちはわかるのですが、仏壇に位牌が二つだけなのが、私には気になりました。夫の分がないのです。この映画の展開には、「肉体は魂の器」ということを確かめたかった法医学者の念、斬殺された人の怨念が強く支配しています。妻が夫の位牌もお仏壇にあげて、子供達と同じように供養していたら、このお話はどういう展開になったかな?と、ふと思いました。ラストのラスト、親子の縁とは未来永劫、切っても切っても切れないものだなと感じます。妻の微笑みは、背筋が凍りつくも、切ない思いも抱かせるのです。もしかしたら、私が素敵だといつも思っているあの人は、前世でも私と縁の有った人なのかも。

私なりにありふれた仏教的な考えを色々自分で組み合わせて、来世を信じるのは、今生を正しく生きるため必要なのかと感じました。正直いうと全然怖くは無かったのですが、ホラー仕立てで「肉体は魂の器」をきちんと見せてくれた作品です。映画の中で映画を撮っているので、ちょっとしたバックステージ物の趣もありました。もしかして清水崇は、ホラーの大家になるかもの予感を抱かせる作品でした。


2006年01月05日(木) 「男たちの大和/YAMATO」

皆様明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願い致します。


昨日観てきました。本当は近所のラインシネマで年末前に観るつもりが、大雪でアウト。延び延びになってしまったところ、夫も観たいというので、定期を買いがてら日本橋まで出て千日前国際シネマで観てきました。ここで観るのは「シルミド」以来。ここはふる〜い劇場で、開演5分前に着くと「お2階へどうぞ」と言われるまま、初めて上がりました。昔は映画館はみんな2階があったもんやなと夫と話すも、いざ着いてみたらスクリーンちっちゃい!こらあかんわと下を二人で見下ろすと、前列2番目くらいは空いています。ダッシュで二人で下へ降り鑑賞。しっかり作られた立派な作品でした。大画面で堪能するのが大正解の作品で、下へ降りた甲斐がありました。

2005年、鹿児島県の枕崎の漁港に内田真貴子(鈴木京香)と名乗る女性が、60年前沈没した戦艦大和が沈む場所まで船を出して欲しいと申し出ます。彼女がかつて大和の乗組員内田二兵曹の娘だと知ると、神尾(仲代達也)という老人が彼女の申し出を引き受けます。当時彼も大和の乗組員だったのです。まっすぐ前を見据える神尾の胸には、鮮やかに60年前の光景が蘇ってくるのでしてた。

昨年は「ローレライ」「亡国のイージス」など戦争大作が公開されましたが、どちらもピンとこずパスした私ですが、この作品は話題が昇った当初から観たいと思っていました。豪華ですが旬より実力を重んじたキャスト、実物大の戦艦大和を再現しての撮影、原作者が辺見じゅん(この作品の製作角川春樹の姉)というのも、「男たち〜」と題したタイトルの裏の、女たちの描き方へも希望を抱かせました。そして監督は戦中派の佐藤純弥。「人間の証明」や「敦煌」など、若い世代の人も何かしら観た作品があるはずの監督で、私は名匠と呼んでも過言でない人だと思っています(『北京原人』とかありますが、忘れましょう忘れましょう)。予想はドンピシャでした。
大和の船上で繰り広げられる戦闘シーンは、「ブラザーフッド」や「プライベート・ライアン」並みの凄惨さで、こんな恐ろしく過酷な中を兵士達は闘っていたのかと、観ていて涙が止まりません。

特攻として生きては帰れないことを知りながら、彼らをこの戦いに向かわせたのは何故なのか?天皇の命だから、上官の指令だから、それ以前に自分の母を妻を子を守りたい、それが引いては国を守るということだったというのが、胸に染みます。それは一貫して下層である下士官たちを軸に描いたことで、現代の私たちにも理解し易かった一因かと感じました。

上陸の際の母や妻や恋人との描写は、数々の戦争映画でも描かれた内容ですが、この世に戦争がある限り、たとえ同じでも愛する人を戦地に送り出す女の哀しさを、私は何度でも観ていただきたい。それは過去を振り返るのではなく、確実に未来のためになるはずなのです。

以下ちょっとネタばれ(ネタバレ以降にも文章あり)






特に生き残った神尾が戦友の遺品を手に、戦友西の母の元を訪れた時の言葉は胸に刺さりました「何であんたが生き残って、あの子が死んだんや」。しかし次の日、西の代わりに田畑の稲を植える神尾に手をつき、「昨日はひどいことを言って、ほんまにごめんな。あんたは生きてや、あのこの分まで。」と言いながら号泣する西の母。神尾の母も戦災で死んでいます。母のない子と子のない母の慟哭を観て、この作品から反戦を感じない人はいないはずです。









キャストは新兵たちに慕われ二兵曹の内田の若き日に中村獅童と、森脇に反町隆。二人とも好演でしたが、私は自然体で当時の男性の厳しさと強さを感じさせた反町の方に好感を持ちました。松嶋奈々子の夫で終わるのかと思っていましたが、大丈夫みたいです。他は神尾の若い日を演じた松山ケンイチを初め、新兵役の少年達がとても清々しく、今時の若者が演じている風には思えませんでした。連帯責任というと軍国主義の最もたる物のように思われますが、「一人はみんなのために、みんなは一人のために」の言葉が、彼らの連帯感から強く伝わります。神尾の恋人役の蒼井優は本当に可愛く、当時のやぼったい衣装が、彼女の素朴な魅力を一層引き立て、戦争映画の一厘の花にはぴったりでした。

タイトルに「男たちの〜」とついているにしては、「男臭い」という感じではなく、少年達の心の弱さ、涙を演出することで、やがて内田や森脇のような人の気持ちを思いやれ、仲間を大切にする強い男性に成長するのだと、私には思えました。

内田の娘は、彼が生き残ったのち次々と身寄りのない孤児を引き取って育てた養女でした。これは血のつながりで過去を振り返らず、観る者は内田の娘の目線で物語を観て欲しいという意図かと思いました。船の助手にも15歳の少年が乗り込んでいて、一部始終お話を聞いていました。老いた神尾の代わりに、面舵をとる彼の姿に、作り手の未来への気持ちが込められていたことでしょう。


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